毎週の聖句と黙想2015年(B)

2015年

5月

10日

復活節第6主日


友のために自分を捨てること、
これ以上に大きな愛はない
(ヨハネ15・13)

友情の根本は秘密を分かち合うこと、大切なことを分かち合うこと。そのような深い関係の中で自分が受け容れられているからこそ、他者を受け容れることができる。三位一体の中には父と子と聖霊の交わりがあり、イエスは父といつも触れ合い、会話を交わしている。キリスト教の信者であるのは、イエスとそのような親密な関係をもつこと。活動も道徳も努力もすべてそこから出て来る。


(画像は、友情のイコンとして知られる、6世紀頃のイコン。右はキリスト、左はアレクサンドリアの聖メナス)

2015年

5月

17日

主の昇天

イエスは彼らが見ているうちに
天にあげられた

 (使徒言行録1・9より)

  
昇天とは、イエスが神の世界に迎え入れられたこと。地に降りたイエスが、天使に囲まれ勝利者として天に戻る。父なる神の御旨を果たして。仕事を終えて血まみれで。だから、昇天は復活と同じ。神の右の座に就いたイエスは、霊的な体の頭として力を送る。恵みを、聖霊を、賜物を。だから、昇天は教会の始まり。イエスは聖金曜日のように見えなくなったが、現存し、宣教のカリスマを送る。だから、宣教がなければ教会ではない。私たちの教会も。


(画像は、ドイツ・アルトマンスホーフェンの聖ヴィトゥス教会の長堂天井画)

2015年

5月

24日

聖霊降臨の主日

エル・グレコ「聖霊降臨」
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった
(使徒言行録2・3より)

激しい風がドアを開け窓を通り抜けると、それまで怖くて部屋の中に閉じこもっていた弟子たちがイエスを伝えるため外に出て行った。聖霊降臨は新しい命に目覚めること。2000年前だけではなく、今も聖霊は教会の中でさまざまな形で働いている。キリストを捨てないために殺される信者は毎年10万人。コプト正教会の21人の殉教者たちは首を斬られる前、主イエス・キリストの名を唱えていた。生活の中でも聖霊の木は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」の果実をつける。もし私たちの生活が前と同じなら、聖霊はまだ下っていない。

(画像は、エル・グレコ「聖霊降臨」、1604-14年頃。プラド美術館所蔵。)

2015年

5月

31日

三位一体の主日

フランチェスコ・カイロ「聖三位一体」
すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい
(マタイ28・19より)

三位一体は、難しい理屈ではなく、一番当たり前のこと。父、子、聖霊(息)は赤ちゃんもわかる。イエスが現してくださった三位一体の神は、私たちのふるさと、私たちが帰属する祖国。私たちはそこから出てきて、そこへ戻っていく。今はふるさとを離れ旅をしているが、イエスの言葉を聞いてふるさとを思い出す。それは、私たちが神から永遠に愛され受け容れられていること。だから、私たちは人を愛し、人を赦すことができる。「父と子と聖霊のみ名によって」十字架のしるしをするとき、私たちは、いつか得られる永遠の安らぎを前もって味わう。


(画像は、フランチェスコ・カイロ「聖三位一体」、1630年、プラド美術館所蔵)

2015年

6月

07日

キリストの聖体の祭日

これは、多くの人のために流されるわたしの血、
契約の血である 
(マルコ14・24より)

信仰の柱であるキリストの死と復活、昇天、聖霊降臨を記念する復活節を終えた教会は、年間に入る前に、信仰生活にとって大切ないくつかのテーマに特別に注意する。それが三位一体の主日であり、キリストの聖体の祭日である。聖体の祭日に信者の心に響くのが聖トマスの有名な聖体讃歌Pange lingua。彼のもう一つの聖体讃歌O sacrum conviviumには、聖体の意味が見事に集約されている。聖体とは、いっしょに食べること。そして、キリストと一つになり、その受難から生活のための力をいただき、恵みによって癒され、道すがら天国に入る保証をいただくこと。





O sacrum convivium,

ああ、聖なる宴。

in quo Christus sumitur:

キリストが拝領され、

recolitur memoria passionis ejus,

その受難の記憶が新たにされ、

mens impletur gratia

心が恵みで満たされ、

et futurae gloriae nobis pignus datur.

将来の栄光の保証が私たちに与えられる。


2015年

6月

14日

年間第11主日

 

土はひとりでに実を結ばせる

(マルコ4・28より)

 

神の言葉を信じて一生懸命やっても結果が見えてこない時、権力や人間的な知恵を使う誘惑を感じる。そんな私たちに向かってイエスが今日の福音で言うのは、神の国は目立たない形ですでにあるということ。そして、その力は人間の技術、人間の論理、人間の賢さによらない。神の国は、自動的(今日の福音書のキーワードautomate)に実をつける。だから、大切なのは、いい種、つまり神の言葉を蒔いたなら、必ずそれは実ると信じること。子供の教育や宣教をする時に私たちは「こんなことをして何になるか」「何も実りがない」と言うが、結果を判断するのは私たちの役目ではない。私たちの役目は忠実であること―イエスその方に、イエスの道に。

 

(画像はイタリアのプルサノ聖母修道院で制作されたイコン

 

2015年

6月

21日

年間第12主日

 

イエスは起き上がって、風を叱り……(マルコ4・39より)

 

マルコ福音書の最初のテーマは、私たちの生活を取り巻くあらゆる悪に対してイエスがエクソシスト(追い出す者)であること(主の祈り「悪からお救いください」)。今日の福音もそう。海はカオスを思い出させるが、それは自然の中だけではなく、私たちの心の中にもある。しかし、嵐の中でイエスが眠っていたように、病気など私たちの生活の災いの中にもイエスの不思議な静けさがある。それはイエスが最後に十字架上で私たちの弱さを自ら引き受けた時に示した神聖な静けさである。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦しみながらも「わたしの霊を御手にゆだねます」と言ったイエス。全世界の教会、私たちの教区も小教区も、イエスがそばにいることを経験できるように。

 

2015年

6月

28日

年間第13主日

子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた (マルコ5・41より)

 

ヤイロの娘と出血症の女性―この二人の女性のエピソードは別々の物語ではなく、互いに絡み合っている。ちょうど大人の女になる年齢の12歳で死にかかった少女と、汚れとみなされていた病気を12年の長きにわたり患う女性。12という完全性を意味する数字が暗示するように、この二つのエピソードには人間の根本的な問題(病気、死、孤独)が現れている。出血症の女性はイエスの「服にでも触れれば」と勇気を出して、自分の女性性を受け容れることができた。ヤイロの娘はイエスに手をとってもらって、大人の女になることができた。「タリタ、クム」―起き上がること、それはイエスに癒され新しい命に復活することである。「恋しい人に戸を開こうと起き上がりました」(雅歌5・5)。彼女たちは起き上がった、恋人イエスを自分の生活の中に迎えようと。

 

(画像はエルネスト・フォンタナ「ヤイロの娘の蘇生」、19世紀末)

 

2015年

7月

05日

年間第14主日

「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ6・4より)

 

30年もの長い年月、ナザレの村に住み大工として働いたイエス。しかしナザレの人たちは、神が人となって地に来られたことに気づかなかった。高いところに神がいると思っていたから。ところが、神はすぐそばに来ていた、手にタコのある大工として。イエスの人間性、その行動と感情をリアルに示すマルコ福音書。「神はどこにいるか」と問う私たちにマルコは、「神はあなたのすぐそばにいるかもしれない」と答える。神は、今あなたの隣に座っている人かもしれない。あなたの赦しを求めている人、あなたが赦しを必要としている人かもしれない。イエスはナザレの人たちに拒否されても(命を狙われても)、数人の病人を癒した。十字架につけられて死ぬ瞬間にも「彼らをお赦し下さい」と願った。拒まれても愛し続けること。それはイエスが私たちに教えて下さった道である。

 

(画像はマールテン・ド・フォス「イエス、故郷で拒絶される」、16世紀末)

2015年

7月

12日

年間第15主日

イエスは十二人を遣わすことにされた(福音朗読主題句 マルコ6・7参照)

 

信仰の賜物が私たちに与えられたのは、教会の中に閉じこもって生きるためではなく、外に派遣されるため。イエスと長いあいだ生活をともにした(マルコ3・14)弟子たちは、宣教師として何が大切かを知っている。だから、頭に教義が入っているだけでなく、心に響く言葉を語る。生活の色、匂い、味を知る感覚を身につけ、相手の立場から物を見る心をもつ。喜びの時も悲しみの時も人のそばにいて、人と深い関係をもつことができる(「その家にとどまりなさい」)。もちろん拒否される可能性も(イエスの十字架のように)あるが、失敗も新しい道となる(足の埃を払って行きなさい)。体を支える「杖」と心を支える仲間(「二人ずつ」)―身軽な宣教師の宝物はただ、キリストから受けた愛の経験とそれを伝えたいという思い。

2015年

7月

19日

年間第16主日

 

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。(マルコ6・31)

 

今日の福音書には、二つの違った行動が合わせて出て来る。一方では、戻ってきて報告した弟子たちにイエスは「人里離れたところで休みなさい」と言う。他方では、自分を探して先回りした人たちにイエスは憐れみを抱き、教え始める。つまり、キリスト教では、自分が受けた神のやさしさと、人に対する憐れみとは切り離すことができない。弟子たちだけではなく、イエス自身も、祈りのうちに父とともに夜を過ごし、昼の活動の中でも父に感謝していた。だから、私たちの活動はイエスとともにいた喜びの経験の結果である。不正義への怒りから福祉をするなら、正義の名のもとに暴力をふるうことになる。義務感から布教をするなら、ついて来ない人に罰を与えることになる。そうではなくて、チャリティーもミッションも、神から受けた愛で心がいっぱいになる時に始まる。

(画像は、「小舟」、トリノ王立付属図書館所蔵『スフォルツァとサヴォイアの伝説集』所収、1476年)


2015年

7月

26日

年間第17主日

なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(ヨハネ6・13より)


 パンと魚を増やす奇跡と呼ばれる今日の箇所。でも、実は奇跡を報告するというより、私たちがどうすべきかを教えている。
 たくさんの人たちがお腹を空かせて、パンがない状態をどうしたらいいか?弟子たちは、200デナリオン(5000人で割ると、当時の貧しい人たちの食事代)出してとか、他の村に行かせてとか、常識的な考え方にとらわれているが、一人の子どもがパン5つと魚2匹を差し出す。おやつ程度のわずかなものだが、5と2を足すと完全数の7になる。つまり、その子どもは、イエスを信じてイエスに従う「小さき者」で、問題を政治などによって解決するのでなく、すべてをイエスに捧げる。イエスは受け取り天に目を上げ、すべてが神のものと認めて感謝する。イエスの手を通して、わずかなものがみんなの空腹を満たすばかりか、食べきれないほどになる。
 人口の1%にもならない日本のキリスト教信者もそのような「小さき者」である。

 (画像は、マリアーノ・ヴィッラルタ「パンの増やし」、コッレヴァレンツァ聖堂)

2015年

8月

02日

年間第18主日

わたしが命のパンである。(ヨハネ6・35より)

 

 先週の箇所は、イエスと群衆のすれ違いで終わった。群衆はイエスを王様にしようとしたが、イエスは山に逃げた。群衆は本当に神を探していたのではなく、自分の利益を探していただけだから。彼らが捜すのは、必ず消えてしまう命(ビオス)を養うパンにすぎないが、イエスが言うのは神からの命(ゾーエー)である。
 そこで彼らは聞く、一体何をすればいいか?それに対するイエスの返事は、するべきことはただ一つ、信じること。信じると言っても、決まった教義への信仰ではなく、イエスの顔のうちに、父なる神のやさしさを見ること。人を見捨てず裁かず罰せず、命を与える神のやさしさを見ること。その顔を見ることで私たちの生活が完全に変わることもできる。神と同じまなざしで他の人を見て、自分が受けた神の愛情によって他の人を愛することができる。これがキリスト教のすべて、聖体のすべてである。


 (画像は、アントネロ・ダ・メッシーナ「救世主」、1465年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))

2015年

8月

09日

年間第19主日

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには絶え難いからだ」(列王記上19・7より)

 今日の第一朗読は非常に印象的なエピソードである。聖書の中でもっとも残酷な女イザベルに命を脅かされ行きづまり鬱になっていたエリヤ。彼に与えられた奇跡的な力は、初代教会の信者たちにとって、彼らが信じていた聖体の力を思い出させるものだった。「旅」(王上19:7)とは人生の旅路であり、死ぬ時にたどり着く目的地は神のところ。そのため、伝統的に、臨終の時に拝領する聖体がviaticum (旅路の糧)と呼ばれてきた。もっとも、聖体は臨終にかぎらず、人生の全行程において旅路の糧である。
 聖体は、私たちの信仰を測る体温計のようなもの。ミサに与るか与らないか、あるいはどのように与るか(参加の質、クオリティ)によって、キリスト者の信仰が測られる。私たちは信仰生活の中で何回も疲れや倦怠を体験する。例えば、洗礼を受けて、受洗を祝い、興奮が過ぎてしばらくすると、疲れを感じる。結婚生活や司祭の生活にもそのような疲れを感じることがある。そんなとき、必要なのは聖体に対する忠実。私たちの共同体も聖体を大切にしたい。

 

(画像は、国指定重要文化財「綸子地著色聖体秘蹟図指物」、1630年代、天草キリシタン館)

2015年

8月

16日

年間第20主日

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である(福音朗読主題句 ヨハネ6・55より) 
 今日の箇所には「体」ではなく「肉」という言葉が出て来る。これは、ヨハネ福音書第一章の「受肉」に結びつく。つまり、ヨハネが言いたいのは、本当に私たちの姿になった、人間になった神であるイエスの後に歩かないといけないということ。それがイエスを食べるということであり、(ヨハネ福音書が書かれた当時の異端のグノーシス主義のように)イエスの言葉を象徴として哲学的に理解すると、私たちは永遠の命を得ることができない。「血」を飲むということも、ユダヤ人にとってはタブーだったが、私たちは人間の知恵で救われるわけはなく、神の子として神の命をもちながら十字架上で自分の血を流したイエスからしか救いはない。これが私たちの信仰の柱である。
 「私の肉を食べる」(56節)の「食べる」の原語は動物が歯で噛むことを意味する生々しい動詞。牛が一日中口の中で草を反芻するように、私たちはミサで聞いた言葉を自分の中に入れて噛み続ける必要がある。キリスト教国でない日本でキリスト者であるのは難しい。だから、行事を減らし大切なことに戻って、いつでもイエスの言葉を考えていたい。

(画像は、フラ・アンジェリコ「聖体の制定」、1441~1442年、サン・マルコ修道院)

2015年

8月

23日

年間第21主日

主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます (ヨハネ6・68より)
 今日の箇所で、ヨハネによる聖体についての5回連続のカテケージスが完結する。それは外面的には失敗に終わる。ヨハネ福音書第一章にイエスが自分の家に来たのに受け入れられなかったとあるのと同じように、カファルナウムでの長い話の後、多くの人たちが去って行った。ただペトロがイエスに対しての荘厳な信仰告白をする(私たちも日曜日ごとにミサで同じ信仰告白をしている)。つまり、イエスが私たちに伝えたい神は人間的な栄光や権力の神じゃなく、私たちを癒し救うために小さくなった神である。それは私たちから食べられる神、言い換えれば私たちのために十字架で死ぬ神である。だから、彼の偉大さは彼の惨めさにある。キリスト者はその神から先に愛され赦されたからこそ、人を愛し赦すことができるし、永遠の命を得ることができる。主よ、私たちのミサもあなたの愛のしるしでありますように。


(画像は、当教会十字架の道行「第一留 イエスの最後の晩餐」)

2015年

8月

30日

年間第22主日

皆、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい(マルコ7・14より)


  「先に与えられる恵み」がなければ、神をはっきりと知ることができない。神にどう祈ればいいのかもわからず、日常生活の中で何がいいか悪いかを識別することもできない。本当の回心は、卑屈になって反省するときではなく、私たちに回心を呼びかける神の声に聞こうとするときに始まる。

  毎日曜日、主は自分の体をもってそばに来られる。その言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く」(へブライ4:12等)、私たちの心の思いや考えを見分ける。時々、ペトロのように「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いたくなる(ルカ5:8)

   しかし、自分の罪を見いだすときに私たちは絶望(guilty complex)に陥らない。罪を見いだすその同じ瞬間に私たちは、自分が永遠に愛されていること、主が自ら命を尽くして心と魂を癒す医者であることを知らされるから。彼の言葉はーー今日のような厳しい言葉でも――私の心の複雑な動きを診察する医者の聴診器のよう。そして、私たちの心の異常な動きと病いを癒す薬のよう。今日その言葉を聞く人は新しい命を生きることができる。神の愛は私たちの罪や弱さに勝る。「罪の中でも私たちは主に会うことができます」(教皇フランシスコ)。

   主よ、私たちはあなたを愛します。私たちの命を終わりのない感謝の祭儀にしてください。


2015年

9月

06日

年間第23主日

「この方のなさったことはすべて、すばらしい」(マルコ7:37より)。

 ユダヤ人にとって聖なる場所エルサレムから来た人たちに理解されず反発されたイエス。エルサレムに行かずに、異邦人の住む汚れた町デカポリスに行く。そこは多神教の世界であり、私たちの環境もそうだが、いろいろな雑音が飛び交う世界である。「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、その中で迷子になった人である。自分の中に閉じ込められ、人と正しい関係をもつことができず、まったくの孤独にある。
 こんにちの私たちは自分の問題で精いっぱいで、「相手に気づく」(教皇フランシスコ)ことができない。でも、神のことばであるイエスは私たちを呼んで雑音から引き離し、耳に入りそれを癒す。芸術家は指で作品を作り、音楽家は指で楽器を演奏する。私たちは指で道を示し、指で撫でて愛情を示す。イエスの指とは神の力である。唾がなければ舌は滑らかに動かず、話すことができない。唾とはユダヤ人にとって水分になった息、いのち、スピリット。イエスが天を仰いでつく溜息、十字架上で吐く息は聖霊である。イエスの指と唾に癒されて、私たちは自分の小さい物語を神のみわざの大きな物語の中で違ったように理解するようになり、五感で人を愛することができるようになる。
 イエスの癒しはペトロに引き継がれ(使3・6)、イエスの指は今も教会の秘跡を通じて働いている。神のことばは肉となったのだから、神の恵みは抽象的にではなく、物質的に――水によって(洗礼)、油によって(堅信等)、パンによって(聖体)――働く。幼児洗礼のとき最近まで司祭は赤ちゃんの耳と口を触ってエファタと唱えていた。耳が聞こえず舌の回らない人が自分ではイエスに近づくことすらできなかったように、私たちは例えば代父や代母など教会を通じてキリストに出会う。キリスト教の信仰が生まれるのはいつでも自分の力ではなく伝えられたから。


(画像は、「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」、15世紀後半、ウルリッヒ・レッシュ修道院長の祈祷書『美しい祈りの本』)

 

2015年

9月

13日

年間第24主日

「人の子は必ず多くの苦しみを受け……」(マルコ8・31より)

(画像は、ピエル・フランチェスコ・モラ「髭を生やした男である使徒(聖ペトロ)」)

 イエスは何者か――それはマルコ福音書を貫く問いであり、私たちキリスト者一人一人に迫る問いであるが、今日の箇所ではイエス自身がその問いを弟子たちに投げかける。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それに対して、いつものように皆を代表してペトロが「あなたは、メシアです」と答える。しかし、ペトロの抱くメシアのイメージは「サタン、引き下がれ」というイエスの厳しい言葉で斥けられる。イエスが示すメシアの道は、権力によって勝利するのではなく、迫害され殺される道である。

 一つ忘れてはいけないのは、通常は指導者の失策を隠すものなのに、この箇所では、教会の中心であるペトロの誤りについて、ペトロの弟子であるマルコが公にしているということ。イエスが逮捕された後の箇所でも、ペトロの否認、さらには冒瀆(ヨハネが言うように、弟子ではないと言ったから)について伝えられている。そこに、ペトロにとっても、そして私たちにとっても大切な教えがある。キリストの弟子になるのは、私たちが正しいからではなく、神から罪を赦されたから。教皇フランシスコも最初に「一体あなたは自分について何を言うか」と質問されて「私はイエスに罪を赦された者です」と答えた。この意識の上だけ、私たちは本当にキリストを伝えることができる。キリストの証人になるのは、自分が正しい、自分が強いからじゃなくて、自分がその愛情とその赦しを経験したから。


2015年

9月

20日

年間第25主日

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35より)

 先週の箇所に引き続き、今日の箇所はイエスの受難と復活の二度目の予告である。先週はペトロがイエスを叱ったが、今日も弟子たちは、イエスの死の予告を無視して、つまらないことを話している。医者からガンと言われたと友人に言っても友人が無視する場合と同じように、イエスの心も深く傷つけられる。でも、人間なら絶望して縁を切るところだが、マルコはイエスの絶望する姿ではなく、イエスの座って教える姿(イコン)を示す。イエスは愛であるから、私たちの無関心、鈍感さ、罪にも、あきらめず疲れず忍耐をもってやさしく教える。私たちが聖書を読む時、十字架の前にいる時、聖体の前で祈る時、イエスはその傷ついた心をもって私たちに愛を教え続ける。
 そこに三つの大切な言葉が出て来る。それはイエスがどういう者であるか、そして弟子である私たちがどのようにイエスの後に歩けばいいかを示す三つの言葉。それは二千年のあいだ教会が大切にしてきた宝物であり、私たちが祈りと観想によって膨らませ自分の生活の中に浸透させるべき言葉である。

 その第一の言葉は「最後の者(すべての人の後になりなさい)」。私たちは神について「すべてに優る」「力強い」というようなイメージをもつが、イエスはまったく違った神を示す。愛のために自分が神であることを捨て、見捨てられて苦しめられる最後の最後の者。私たちの人生には失敗したり喧嘩したり、病気になったり大金をだましとられたり、さまざまなことが起こるが、そんな時こそイエスのそばにいる可能性がいちばんある時である。たとえ地獄のいちばん深いところに行ったとしても、そこにイエスが待っている。命そのものである、罪のない彼は、私たちよりも死の深みに入った。彼の愛といつくしみは圧倒的に私たちの死と罪に勝る。だから、キリスト者が絶望することはありえない。第二の言葉は「仕える者」。イエスはそのように私たちに尽して、今父なる神の右に座り、栄光のうちに昼も夜も私たちのために祈り働く。第三の言葉は「子供」。そこにうろうろしていたのだろう。それはペトロの家で彼の孫だったかもしれない。その子供の手をとって、抱いて「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。この子供がイエスの腕の中にいたように、私たちは神様の腕の中にいる。


2015年

9月

27日

年間第26主日

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(マルコ 9:40)


(画像は当教会鐘楼)

 仲間でない人たちがイエスの名を使って悪霊を追い出すのを見て、イエスの名を使うなと言う弟子たち。彼ら自身は悪霊を追い出せなかった(マルコ9:28)から憤慨していたにちがいない。彼らがなぜ追い出せなかったかと言うと、自分の利益、自分の名誉を求めていたから。私たちはよく権力欲のために、神の国を私たちの組織と同じと考えてしまう。しかし、イエスが言うのは、善意があるなら誰でも、神の名によって働くことができるということ。神の霊はどんな人のうちにも働いているから、宣教も福祉も諸宗教対話もまず、そのことに気づく観想から始まる。

 毎日曜日、私たちは教会の鐘によって感謝と喜びの典礼をするように呼ばれる。鐘の音は私たちだけではなく、京都の町に向かって響く。私たちはその鐘に刻まれているように、すべての人よ、神をたたえよ Laudate Dominum omnes gentes という心で町に向かう。教会を出る時も、私たちは、パウロが主イエスから言われた「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いる」(使18・9-10)という言葉とともに町に出る。

2015年

10月

04日

年間第27主日


「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2・18より)


 

 秋が深まる10月は実りの月。ぶどう、柿、栗、松茸などが収穫の時を迎える。教会にとっても収穫の多い月。教会暦を見ても、リジューの聖テレジア(1日)、守護の天使(2日)、アシジの聖フランシスコ(4日)、聖ファウスティナ・コヴァルスカ(5日)、聖ヨハネ23世(11日)、アヴィラの聖テレジア(15日)、アンチオケの聖イグナシオ(17日)、聖ルカ(18日)、聖ヨハネ・パウロ2世(22日)とビックネームが並ぶ。また、世界の司教が集まって家族について考えるシノドスがまさにこの日曜日に始まる。ちょうどこの日、聖書の中で私たちの生活に直接にかかわる箇所が出て来る。二千年のあいだに図書館が溢れるほどの本が書かれた、教会にとって大切な大切なイエスの言葉が出て来る。

 福音書には、イエスを罠に落とすために質問しに来る人が何回も出て来る。今回は律法についてである。当時、ユダヤ人にとっても、ローマ人にとっても離婚は法律的に許されていた。しかしイエスは、法律で許されているからと言って、正しいわけではないと私たちに教える。そして、私たちが問題にする法律よりずっと上のところに目を向けさせる。結婚や離婚の問題は、法律や心理学ではなくて、究極的にどうあるべきかの問題である。イエスは、神がこのもっともすばらしい世界の中に(神は毎日最後に「よし」と言われた)もっともすばらしい生き物を男と女に造ったときの神の心を私たちに知らせようとする。男と女、この二人の関係から生まれる家族が神の心である。

 100年前のデンマークの有名な哲学者キルケゴールは、自分の教会の状態を海に浮かぶ一隻の船にたとえた。その船の中に争いがあって、船長が人質にされて牢に入れられ、料理長と平船員が残った結果、毎日、船のスピーカーは大切な行き先ではなく、毎日のメニューと無駄話を告げるようになった。――これは私たちの世界でもある。男性と女性の関係、家族などについてさまざまな意見があって、私たち自身、波に翻弄される時がある。しかし、この日曜日、シノドスに集まった教会とともに私たちは、癒しと希望を与え、船を永遠の生命に導く船長であるキリストの声に耳を傾けたい。教会にとっても、世界にとっても、神の前でもこの秋が実りの多い秋になりますように。

(画像はユダヤの結婚契約書Ketubah。)


2015年

10月

11日

年間第28主日

人間にできることではないが、神にはできる(マルコ10・27より)

  

 福音書にはいろいろな形で金持ちが出て来る。レビ、ザアカイ、ラザロ、女性では、スザンナ、ヨハンナがそう。しかし、今日の箇所に出て来る金持ちには名前がない。それはこの物語がエピソードというより教訓として、私たち皆に当てはまることだから。
 その人は、若くて、きれいで、おしゃれで、最初は元気にイエスのもとに走ってくる――究極的な問いを抱いて。宗教的で、掟を知り守っている彼をイエスは慈しんで見る。それは彼が何かしたからではなく、彼のうちに可能性を見ていたから。けれども、その人は最後は絶望して立ち去る。イエスは「欠けているものが一つある」と言ったが、それはすべてを台無しにする大きな問題があるということ。それはカテキズムで言うと、七つの悪徳(悪への傾き)の一つ、avaritia(貪欲、強欲)である。それには二つの面がある。第一は、金に対する間違った欲望である。集めれば集めるほど、不安になり、使って楽しむこともできない。第二は、心の鈍感さである。周りの人の困窮に気づかずに、残酷なほど厳しく金をとりたてるまでに鈍感になる。
 イエス自身は、世を捨てて裸で生きる行者ではなく、人と交わり、美しいものを喜び楽しむことを知っていた。バランスを知り、ものの奴隷にならずにものを正しく使い、相手のことを考え、貧しい人と分かち合うこと。イエスの厳しい言葉は、そのことの大切さを言いたかったから。

 ものに対する間違った態度は、ある個人の問題であるだけではなく、社会全体の問題であり、資源や富の分配のアンバランスにもあらわれる。マザー・テレサも言うように、清貧とは、ものを拒否することではなく、愛のために与えることである。
 イエスの弟子になる呼びかけを受けたのに立ち去った若者。遠ざかって行く彼の後姿を見送ったイエスの悲しい眼差しを思い浮かべながら、私も震えながら自分自身に問いたくなる。もしかしたら、その心の深い病い、avaritiaは私の中にもないかと。

(画像はハインリッヒ・ホフマン「キリストと金持ちの男」、1889年、ニューヨーク・リバーサイド教会)


2015年

10月

18日

年間第29主日


人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである。

(マルコ10・45より)



 前回の金持ちの若者がイエスを知ることを妨げたのは金銭欲だった。今日の箇所にあるのはイエスを知るための、あと二つの妨げ。その一つは野心。ヨハネは野心家だった。もう一つは嫉妬。他の弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立てた。この三つの悪徳がここで問題になっている。

 ヨハネの言葉は「お願いすることをかなえていただきたいのですが」という日本語訳になっているが、ギリシア語では非常に強い命令。つまり、イエスはエルサレムで殺されると三度も言ったのに、弟子たちはまだわかっていなかったということ。でも、前回と同じように、イエスは彼らに対して怒らない。私たちが感じるのは彼の寂しさ悲しさだけ。神は私たちの罪に対して怒らずに悲しむのだ。
  イエスの返事には二つのことが含まれる。まず第一に、彼は単純な人間ではなく、世界のことをよく知っていた。戦争や暴力をはじめとする間違った権力の行使のために、どれほどの苦しみを人々は受けてきたか。しかし第二に、イエスが言うのは、私たちのあいだではそうではないということ。権力、力は人の上に立つため、人を利用するためではなく、人に奉仕するためのもの。なぜか。神がそうだから。
 赤ちゃんが病気の時にお母さんが、主人が病気の時に奥さんが看病するように、神様は私たちのベッドの横に座って尽している。今日読んだヘブライ人の手紙の中にも書いてある通り、イエスは昼も夜も父なる神の右で私たちのために尽して祈る。  
 私たちは少しでも責任を任され権力を渡されると、ヨハネやヤコブのように、すぐに自分が上になりたい気持ちになるが、教会の中で何かの役割をもっている人はみんな仕える心でなければならない。パパ様が昨日言われたように、仕えることは聞くこと。世界宣教、ミッションも相手の悩みを聞くことである。相手の苦しみ、悩み、要求に気づく恵みをいただけるよう今日いっしょに祈りたい。



2015年

10月

25日

年間第30主日

 

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

(マルコ10・50より) 



マルコ福音書では、カファルナウムで始まったイエスの癒しは、13番目の癒しである、このエピソードで終わる。
 エルサレムに近づき十字架に向かって進むイエス。エルサレムに入るイエスを枝で歓迎した群衆を思い出させる騒々しい群衆。その道端に一人の盲人が座っている。病気のせいか労働災害のせいか視力を失い、続いて家族、財産、名誉、友人とすべてを失って、ぼろ布のマントだけに包まれ「主よ、憐れんで下さい」と大きな声で叫ぶー十字架の上でイエスが大きな叫びを上げた時のように。こんにちの町の谷間に押しつぶされているホームレスもきっとそう。皆は黙らせようとするが、イエスは彼に気づき彼を呼ばせて目を癒す。

  このエピソードを伝えるマルコは三つの大切な言葉を私たちに託す。その言葉で教会は二千年のあいだイエスに代わり求道者を受け容れて来た。「安心しなさい」―あなたは一人ぼっちではなく、未来は閉ざされていない。「立ちなさい」―どんなことがあったとして、あなたは再生できる。「お呼びだ」―キリストと個人的な関係をもつために、あなた自身が呼ばれている。

  そして、貧乏人の全財産であるマントを捨てて来た彼にイエスは言う、「何をしてほしいのか」。つまり、マルコが示すのは世の泣き声に耳を傾ける神である。イエスは私たちの望みを聞いてくださる神の耳なのだ。
 金持ちの若者はイエスに従えなかったのに、癒されたバルティマイはすぐにイエスの道に入る。キリスト者は決して完全ではない。病気で癒しの必要があったり、罪があったりする。けれども、自分自身神の憐みを経験したからこそ、他者に対して憐みの手を伸ばすことができる。



2015年

11月

01日

諸聖人の祭日

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。
1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。
2.そこには犯されなかった罪がない。殺人(ステファノの石打ちへのパウロの賛成)、浮気、泥棒、詐欺など。
3.しかし、どの聖人にもある特別な経験がある。それは回心の経験である。第一に我に戻り、第二に赦しを得る経験である。ベネディクト16世もよく言っていたように、キリスト者にとって聖人は完全な者ではなく、赦された者なのだ。回心の形はいろいろで、パウロのように馬から落ちる場合もあれば、アヴィラの聖テレジアのように普通に信仰者の生活を送っていて得る場合もある。突然起こる場合もあれば長年かかる場合もある。しかし、心をひっくり返す経験がある。それは悪い生活から善い生活に移るのでなく、受け容れられ愛される経験、自分の力を越えた愛に覆われる経験である。なぜなら、「聖なるもの」は神だけだから。私たちは神に抱かれて、神の愛に自分をゆだねる時だけ聖人になれる。
4.聖人には、キリストに対する、はっきりした、独特の、理屈も疑いもない愛がある。キリストに対する個人的な深い関係がなければ聖人ではありえない。自然や静けさなど宗教的な生活を送るかどうかは無関係である。聖人の中には神秘的な聖人もいればそうでない聖人もいる。ただ聖人にはキリストに対する根本的な関係がかならずある。
5.聖人には深い祈りの経験がある。神学があるかないか、言葉を用いるか沈黙か、座ってか歩いてか、祈りの形はいろいろでも、キリストに対しての親しさがある。聖ヴィアンネが言うように、ある農民は何時間も聖体の前に座ってじっと見るだけ。具体的に言うと、聖体に対しての特別な関係のない聖人はいない。聖体なしに聖性はない。
6.聖人には愛から生まれる創造性がある。深い祈りから、創造的愛、手のある愛があふれ出る。病人に対して、あるいは賢い人に対して新しい道を拓く。リジューの聖テレジアのように、修道院の中で観想生活を送っていても宣教の保護者になる。修道会の創立者なら、一千人、二千人、三千人の人が歩ける道を拓いたことになる。いろいろな国に聖人がいて、その国でどのようにイエスの道を実現するかを教えてくれる。彼らの伝記を読むと、私たちは勇気をもらい、助けられる。
7.聖人には独特の喜びがあり、苦しみも越える。体の病気、敵からの迫害、教会からの迫害など、いろいろだが、人間的世間的でない喜び、「原因のない慰めconsolatio sine causa」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ)がある。食べて喜び、人から拍手されてうれしいのには原因があるが、原因のない喜び、つまり神からの喜びと慰めがある。穴吊の刑を受けた長崎のマグダレナは、十三日間なかなか死なかった。しかし毎朝一つの手に慰められ、苦しみがなくなっていた。

 今日私たちが祝うのは、山上の説教の真福八端であるイエス自身に惹かれた人たちの祝い日。教会の歴史には、聖マリアをはじめ八百万の、記録が残っていないほどたくさんの、それぞれの形でキリストの道を歩んで今神とともにいる人たちがいる。特に私たちが祝うのは、洗礼の時に渡された聖人。そして、私たちの教会堂の守護聖人ヴィアトールを、また日本ではじめて私たちにキリストの話をしてくれたフランシスコ・ザビエルと日本の聖なる殉教者を祝いたい。 

2015年

11月

08日

年間第32主日

 「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12・44より)


 マルコ福音書では、今日の箇所がイエスの公生活の最後のエピソード(次の13章は終末論の長い話、14章は受難物語)。

 このエピソードに先立ち、宗教者についてのイエスの厳しい診察が報告される。宗教の専門家である律法学者には3つの特徴がある。1.「長い服」は宗教者として目立つため。労働に適さないが、彼らはそれで自分でないものに見せかける。2.「挨拶される」こととはえらい人として扱われること。彼らは空っぽなのに相手の目によって生きる。「上席」「上座」とは社会的地位。彼らは人の上に乗ることで、自分がえらいと意識する。3.「やもめの家を食い物に」―神も人もかまわない残酷さ、自分をすべての基準にする自己中心主義。やもめは聖書では貧しい人の例としてよく引用される。―「律法学者に気をつけなさい」とは、このような間違った、ものの考え方をしないようにしなさいということ。
 続くエピソードでイエスが「座って」(41節)いるとは典型的な裁判のイコンである。最後の審判の時も神が座って審判する。「賽銭箱」―そこに金が入れられる時に、神殿の祭司が大きな声で金額を告げ人々に聞かせる習慣があった。「金持ち」は、自分に必要なものを確保した上で、一部をそこに入れたが、それも熱心な宗教者としての名誉となった。つまり、彼らは結局自分の利益を求めていたわけである。

 

 それに対して、その「やもめ」は、第一朗読のやもめが小麦粉と油を命がけで預言者に差し出したように、すべてを神に捧げた。マルコは言っていないが、イエスはそのやもめを、子供が母親を見るように限りない優しさで見ている。もしかしたら、そのやもめを見て、その頃すでにやもめの生活を送っていた母マリアを思い出したのだろうか。イエス自身もまもなく、十字架上で父なる神に向かって、私たちのためにすべてをゆだね、命も捧げた。

 要するに、イエスが弟子たちに教えた宗教、そして神が望む宗教は、心と真実、神と人に対する愛に基づく宗教なのだ。こんにちの私たちは、中身よりも見かけ、誠実よりも評判や地位を気にして、例えば健康のためではない整形手術のために考えられないほどのお金を使ったりもする。イエスの教えはそんな私たちにも向けられている。

 2000年前、自分の名誉を求める金持ちがたくさんいる中で、一人のやもめが神殿の賽銭箱にわずかなお金を入れた。あまりにも小さい金額だったので、もしかしたら大祭司の帳簿係も気づかなかったかもしれない。しかし、そのお金は、金持ちのあり余るほどのお金と違い、永遠に神の心の帳簿に記されている。なぜなら、神の心の帳簿にはどんな小さな子供の愛情の溜息であっても永遠に記されているから。

 

 



2015年

11月

15日

年間第33主日

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マルコ13・31)

 今日の箇所はいわゆる終末論の話。「終末」「世の終わり」「アポカリプシス」などの言葉はマスコミにもよく出て来るが、恐ろしいイメージがある。しかし、イエスが私たちに何を言いたいかよく理解しなければならない。
 マルコ福音書の第13章は後から挿入されたと聖書学者たちは推測している。その頃、ローマで増えた信者たちに対して迫害が激しくなっていた。今日の箇所はそんな信者たちを励ますためにマルコが思い出して伝えようとしたイエスの言葉である。
 「太陽は暗くなり、月は光を放たず」。最近まで農家の人たちは太陽や月の動きに従って種を蒔くなど農作業を行っていたが、古代の人たちにとって、太陽と月は時計だった。太陽と月は彼らの基準であり土台であり、神々とさえ信じられていた。だから、世の終わりが近づき、太陽と月が光を失うと、不安定な状態になる。けれども、それはユダヤ人にとっては、本当の神ではない偶像が崩れることでもあった。
 古代の人たちだけではなく、今の私たちもそうだ。私たちはみんな生きるために何かを大切にしている。仕事とか家族とか給料とか友人とかがそう。それが奪われると、大きなショックを受ける。例えば検査でガンがあると言われると、自分の世界が崩れてしまう。あるいは、夫や妻、子供など自分にとって大切な人が死ぬと、その人なしにどう生きたらいいかわからない。または一生懸命働いて仕事を大切にしてきても会社が倒産すると、仕事を失い、生活は無茶苦茶、アイデンティティも失われる。私たちの土台は不安定である。私たちが生きるために大切にすることはすべて失われうるものである。
 しかし、偶像が崩れるのも、大切なことがわかる機会になる。病気になっても、裏切られても、その経験のど真ん中から神が私たちに何かを話してくださる。それは、若い時か中年になってからか年をとってからか、人それぞれ違いはあっても、かならず経験することである。だから、その時が来ることを覚えていなければならない(集会祈願「心を照らしてください」、第一朗読「目覚める」、福音朗読「悟りなさい」)。
 イエスは言う、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなことがあったとしても、私たちは神の言葉であるキリストに頼ることができる。イエスが十字架につけられた時、真っ暗になったり、地震があった。その時、イエスを信じる人たちは、すべてが終わったと思ったが、そうではなかった。なぜなら、十字架上で亡くなったイエスの死の中から、私たちは命を得ることができたから。
 だから、どんな病気、どんな苦しみ、どんな問題があったとしても、どんな間違いで生活がめちゃくちゃになったとしても、キリストに希望を置く人は救われる。十字架上のイエスを信じる人にとって、その苦しみは臨終の苦しみではなく、陣痛の苦しみである(ヨハネ13・13)。生みの苦しみ、新しい世界の誕生の苦しみである。その世界はまだはっきりとは見えず(1コリ13・12)、そのしるしが赦しと愛の出来事のうちに此処彼処に閃いているにすぎないけれども。
 マルコがローマの信者たちに言いたかったのはこのこと。安心しなさい、マイナスと思われるこの時、苦しみ、絶望、裏切り、病気の時は、もしイエスに希望を置くなら、あなたにとって却って再生の時となり、新しい世界の始まりになる―これは、教会が一人一人に届ける大きなメッセージである。私たちはこのメッセージを携えて新しい一週間を過ごしたい。

(画像は、第一朗読に出てくる大天使長ミカエルを描いたもの。グイド・レーニ「大天使ミカエル」、1636年頃、ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会所蔵)



2015年

11月

22日

王であるキリスト

アントニオ・シセリ「エッケ・ホモ」、1860-80年
アントニオ・シセリ「エッケ・ホモ」、1860-80年


わたしが王だとは、あなたが言っていることです。(ヨハネ18・37より)


 年間最後の日曜日は、王であるキリストを祝う。王であるキリストを祝うなら、神の栄光を荘厳に賛美するはずだが、教会が選んだヨハネ福音書の箇所には、心に染みる奇妙な静けさがある。
 そこには二人の男がいる。ピラトとイエス――この二人が顔を合わせている。が、二人のあいだには無限の違いがある。
 一方は権力の人間で、陰謀と策略、偽りと欺きの達人。当時、ローマとその軍隊の一番たちの悪い独裁者であった。残酷で野蛮な人物であり、あまりにも厳しいことを決めたために、彼の上に立つローマ皇帝が介入して止めさせなければならなかったほどであり、最後にはローマに戻された。権力者であると同時に、卑劣な臆病者である。他方は、イスラエルで一番無力でもろいが、イスラエルで一番すぐれた人。その人間的な繊細さのためにやさしく、愛のためだけに生きた人。半裸で手錠をかけられているが、内心は自信に満ち真実と憐みに燃えている。4番目の福音書を書いたヨハネ自身、その受難物語の中で何回も王としてのイエスに惹かれるほどである。
 イエスの公生活の最初に悪魔がイエスの神性に気づいたのと同じように、この箇所で残酷なピラトが最初に、イエスの王である面に気づく。権力に興味があるからか。ピラトが「あなたは王か」と好奇心半分、恐れ半分で聞くと、イエスは答える、「そう、私は王だ。しかし、私の国はこの世の国ではない。私の国では、王は自分の僕に対して僕になる。私の国では一番大きな権力が愛の権力であるから。私は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない(マタイ12・20)。誰の血も流さず、人を裁かず、排斥せず、傷の手当てをする。また、捕われ人に自由を与え、目の見えない人に視力を与えるため、人と人のあいだにつながりをつくるため、赦しと平和を教え、そして十字架の上で両手を広げるために来た王である」。その後、ピラト自身は外に出て、人々の前にイエスを示し言う、「この人だ」。 
 今日の日曜日、私たちは、ピラトの総督官邸からだけではなく、宇宙のバルコニーに示されるその顔の美しさを仰ぎ見る――王そのものである方の顔、宇宙で一番真実と美しさのあるその顔、誰よりも自由で、誰よりも愛情と真実があるその顔を。愛を込めてその顔を仰ぎ見るなら、私たちの顔も照らされてその顔と同じようになる。ピラトの総督官邸から数時間後、十字架上で息を引き取ったイエスの血まみれの顔から最後の覆いが取り去られ、神の栄光が輝いたように「わたしたちも皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリ3・18)