2015年
5月
10日
日
2015年
5月
17日
日
2015年
5月
24日
日
2015年
5月
31日
日
2015年
6月
07日
日
O sacrum convivium,
ああ、聖なる宴。
in quo Christus sumitur:
キリストが拝領され、
recolitur memoria passionis ejus,
その受難の記憶が新たにされ、
mens impletur gratia
心が恵みで満たされ、
et futurae gloriae nobis pignus datur.
将来の栄光の保証が私たちに与えられる。
2015年
6月
14日
日
土はひとりでに実を結ばせる
(マルコ4・28より)
神の言葉を信じて一生懸命やっても結果が見えてこない時、権力や人間的な知恵を使う誘惑を感じる。そんな私たちに向かってイエスが今日の福音で言うのは、神の国は目立たない形ですでにあるということ。そして、その力は人間の技術、人間の論理、人間の賢さによらない。神の国は、自動的(今日の福音書のキーワードautomate)に実をつける。だから、大切なのは、いい種、つまり神の言葉を蒔いたなら、必ずそれは実ると信じること。子供の教育や宣教をする時に私たちは「こんなことをして何になるか」「何も実りがない」と言うが、結果を判断するのは私たちの役目ではない。私たちの役目は忠実であること―イエスその方に、イエスの道に。
(画像はイタリアのプルサノ聖母修道院で制作されたイコン)
2015年
6月
21日
日
イエスは起き上がって、風を叱り……(マルコ4・39より)
マルコ福音書の最初のテーマは、私たちの生活を取り巻くあらゆる悪に対してイエスがエクソシスト(追い出す者)であること(主の祈り「悪からお救いください」)。今日の福音もそう。海はカオスを思い出させるが、それは自然の中だけではなく、私たちの心の中にもある。しかし、嵐の中でイエスが眠っていたように、病気など私たちの生活の災いの中にもイエスの不思議な静けさがある。それはイエスが最後に十字架上で私たちの弱さを自ら引き受けた時に示した神聖な静けさである。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦しみながらも「わたしの霊を御手にゆだねます」と言ったイエス。全世界の教会、私たちの教区も小教区も、イエスがそばにいることを経験できるように。
2015年
6月
28日
日
子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた (マルコ5・41より)
ヤイロの娘と出血症の女性―この二人の女性のエピソードは別々の物語ではなく、互いに絡み合っている。ちょうど大人の女になる年齢の12歳で死にかかった少女と、汚れとみなされていた病気を12年の長きにわたり患う女性。12という完全性を意味する数字が暗示するように、この二つのエピソードには人間の根本的な問題(病気、死、孤独)が現れている。出血症の女性はイエスの「服にでも触れれば」と勇気を出して、自分の女性性を受け容れることができた。ヤイロの娘はイエスに手をとってもらって、大人の女になることができた。「タリタ、クム」―起き上がること、それはイエスに癒され新しい命に復活することである。「恋しい人に戸を開こうと起き上がりました」(雅歌5・5)。彼女たちは起き上がった、恋人イエスを自分の生活の中に迎えようと。
(画像はエルネスト・フォンタナ「ヤイロの娘の蘇生」、19世紀末)
2015年
7月
05日
日
「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ6・4より)
(画像はマールテン・ド・フォス「イエス、故郷で拒絶される」、16世紀末)
2015年
7月
12日
日
イエスは十二人を遣わすことにされた(福音朗読主題句 マルコ6・7参照)
2015年
7月
19日
日
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。(マルコ6・31)
(画像は、「小舟」、トリノ王立付属図書館所蔵『スフォルツァとサヴォイアの伝説集』所収、1476年)
2015年
7月
26日
日
なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(ヨハネ6・13より)
パンと魚を増やす奇跡と呼ばれる今日の箇所。でも、実は奇跡を報告するというより、私たちがどうすべきかを教えている。
たくさんの人たちがお腹を空かせて、パンがない状態をどうしたらいいか?弟子たちは、200デナリオン(5000人で割ると、当時の貧しい人たちの食事代)出してとか、他の村に行かせてとか、常識的な考え方にとらわれているが、一人の子どもがパン5つと魚2匹を差し出す。おやつ程度のわずかなものだが、5と2を足すと完全数の7になる。つまり、その子どもは、イエスを信じてイエスに従う「小さき者」で、問題を政治などによって解決するのでなく、すべてをイエスに捧げる。イエスは受け取り天に目を上げ、すべてが神のものと認めて感謝する。イエスの手を通して、わずかなものがみんなの空腹を満たすばかりか、食べきれないほどになる。
人口の1%にもならない日本のキリスト教信者もそのような「小さき者」である。
(画像は、マリアーノ・ヴィッラルタ「パンの増やし」、コッレヴァレンツァ聖堂)
2015年
8月
02日
日
わたしが命のパンである。(ヨハネ6・35より)
(画像は、アントネロ・ダ・メッシーナ「救世主」、1465年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))
2015年
8月
09日
日
「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには絶え難いからだ」(列王記上19・7より)
(画像は、国指定重要文化財「綸子地著色聖体秘蹟図指物」、1630年代、天草キリシタン館)
2015年
8月
16日
日
(画像は、フラ・アンジェリコ「聖体の制定」、1441~1442年、サン・マルコ修道院)
2015年
8月
23日
日
2015年
8月
30日
日
「先に与えられる恵み」がなければ、神をはっきりと知ることができない。神にどう祈ればいいのかもわからず、日常生活の中で何がいいか悪いかを識別することもできない。本当の回心は、卑屈になって反省するときではなく、私たちに回心を呼びかける神の声に聞こうとするときに始まる。
毎日曜日、主は自分の体をもってそばに来られる。その言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く」(へブライ4:12等)、私たちの心の思いや考えを見分ける。時々、ペトロのように「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いたくなる(ルカ5:8)
しかし、自分の罪を見いだすときに私たちは絶望(guilty
complex)に陥らない。罪を見いだすその同じ瞬間に私たちは、自分が永遠に愛されていること、主が自ら命を尽くして心と魂を癒す医者であることを知らされるから。彼の言葉はーー今日のような厳しい言葉でも――私の心の複雑な動きを診察する医者の聴診器のよう。そして、私たちの心の異常な動きと病いを癒す薬のよう。今日その言葉を聞く人は新しい命を生きることができる。神の愛は私たちの罪や弱さに勝る。「罪の中でも私たちは主に会うことができます」(教皇フランシスコ)。
主よ、私たちはあなたを愛します。私たちの命を終わりのない感謝の祭儀にしてください。
2015年
9月
06日
日
ユダヤ人にとって聖なる場所エルサレムから来た人たちに理解されず反発されたイエス。エルサレムに行かずに、異邦人の住む汚れた町デカポリスに行く。そこは多神教の世界であり、私たちの環境もそうだが、いろいろな雑音が飛び交う世界である。「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、その中で迷子になった人である。自分の中に閉じ込められ、人と正しい関係をもつことができず、まったくの孤独にある。
こんにちの私たちは自分の問題で精いっぱいで、「相手に気づく」(教皇フランシスコ)ことができない。でも、神のことばであるイエスは私たちを呼んで雑音から引き離し、耳に入りそれを癒す。芸術家は指で作品を作り、音楽家は指で楽器を演奏する。私たちは指で道を示し、指で撫でて愛情を示す。イエスの指とは神の力である。唾がなければ舌は滑らかに動かず、話すことができない。唾とはユダヤ人にとって水分になった息、いのち、スピリット。イエスが天を仰いでつく溜息、十字架上で吐く息は聖霊である。イエスの指と唾に癒されて、私たちは自分の小さい物語を神のみわざの大きな物語の中で違ったように理解するようになり、五感で人を愛することができるようになる。
イエスの癒しはペトロに引き継がれ(使3・6)、イエスの指は今も教会の秘跡を通じて働いている。神のことばは肉となったのだから、神の恵みは抽象的にではなく、物質的に――水によって(洗礼)、油によって(堅信等)、パンによって(聖体)――働く。幼児洗礼のとき最近まで司祭は赤ちゃんの耳と口を触ってエファタと唱えていた。耳が聞こえず舌の回らない人が自分ではイエスに近づくことすらできなかったように、私たちは例えば代父や代母など教会を通じてキリストに出会う。キリスト教の信仰が生まれるのはいつでも自分の力ではなく伝えられたから。
(画像は、「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」、15世紀後半、ウルリッヒ・レッシュ修道院長の祈祷書『美しい祈りの本』)
2015年
9月
13日
日
(画像は、ピエル・フランチェスコ・モラ「髭を生やした男である使徒(聖ペトロ)」)
イエスは何者か――それはマルコ福音書を貫く問いであり、私たちキリスト者一人一人に迫る問いであるが、今日の箇所ではイエス自身がその問いを弟子たちに投げかける。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それに対して、いつものように皆を代表してペトロが「あなたは、メシアです」と答える。しかし、ペトロの抱くメシアのイメージは「サタン、引き下がれ」というイエスの厳しい言葉で斥けられる。イエスが示すメシアの道は、権力によって勝利するのではなく、迫害され殺される道である。
一つ忘れてはいけないのは、通常は指導者の失策を隠すものなのに、この箇所では、教会の中心であるペトロの誤りについて、ペトロの弟子であるマルコが公にしているということ。イエスが逮捕された後の箇所でも、ペトロの否認、さらには冒瀆(ヨハネが言うように、弟子ではないと言ったから)について伝えられている。そこに、ペトロにとっても、そして私たちにとっても大切な教えがある。キリストの弟子になるのは、私たちが正しいからではなく、神から罪を赦されたから。教皇フランシスコも最初に「一体あなたは自分について何を言うか」と質問されて「私はイエスに罪を赦された者です」と答えた。この意識の上だけ、私たちは本当にキリストを伝えることができる。キリストの証人になるのは、自分が正しい、自分が強いからじゃなくて、自分がその愛情とその赦しを経験したから。
2015年
9月
20日
日
先週の箇所に引き続き、今日の箇所はイエスの受難と復活の二度目の予告である。先週はペトロがイエスを叱ったが、今日も弟子たちは、イエスの死の予告を無視して、つまらないことを話している。医者からガンと言われたと友人に言っても友人が無視する場合と同じように、イエスの心も深く傷つけられる。でも、人間なら絶望して縁を切るところだが、マルコはイエスの絶望する姿ではなく、イエスの座って教える姿(イコン)を示す。イエスは愛であるから、私たちの無関心、鈍感さ、罪にも、あきらめず疲れず忍耐をもってやさしく教える。私たちが聖書を読む時、十字架の前にいる時、聖体の前で祈る時、イエスはその傷ついた心をもって私たちに愛を教え続ける。
そこに三つの大切な言葉が出て来る。それはイエスがどういう者であるか、そして弟子である私たちがどのようにイエスの後に歩けばいいかを示す三つの言葉。それは二千年のあいだ教会が大切にしてきた宝物であり、私たちが祈りと観想によって膨らませ自分の生活の中に浸透させるべき言葉である。
その第一の言葉は「最後の者(すべての人の後になりなさい)」。私たちは神について「すべてに優る」「力強い」というようなイメージをもつが、イエスはまったく違った神を示す。愛のために自分が神であることを捨て、見捨てられて苦しめられる最後の最後の者。私たちの人生には失敗したり喧嘩したり、病気になったり大金をだましとられたり、さまざまなことが起こるが、そんな時こそイエスのそばにいる可能性がいちばんある時である。たとえ地獄のいちばん深いところに行ったとしても、そこにイエスが待っている。命そのものである、罪のない彼は、私たちよりも死の深みに入った。彼の愛といつくしみは圧倒的に私たちの死と罪に勝る。だから、キリスト者が絶望することはありえない。第二の言葉は「仕える者」。イエスはそのように私たちに尽して、今父なる神の右に座り、栄光のうちに昼も夜も私たちのために祈り働く。第三の言葉は「子供」。そこにうろうろしていたのだろう。それはペトロの家で彼の孫だったかもしれない。その子供の手をとって、抱いて「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。この子供がイエスの腕の中にいたように、私たちは神様の腕の中にいる。
2015年
9月
27日
日
(画像は当教会鐘楼)
仲間でない人たちがイエスの名を使って悪霊を追い出すのを見て、イエスの名を使うなと言う弟子たち。彼ら自身は悪霊を追い出せなかった(マルコ9:28)から憤慨していたにちがいない。彼らがなぜ追い出せなかったかと言うと、自分の利益、自分の名誉を求めていたから。私たちはよく権力欲のために、神の国を私たちの組織と同じと考えてしまう。しかし、イエスが言うのは、善意があるなら誰でも、神の名によって働くことができるということ。神の霊はどんな人のうちにも働いているから、宣教も福祉も諸宗教対話もまず、そのことに気づく観想から始まる。
2015年
10月
04日
日
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2・18より)
福音書には、イエスを罠に落とすために質問しに来る人が何回も出て来る。今回は律法についてである。当時、ユダヤ人にとっても、ローマ人にとっても離婚は法律的に許されていた。しかしイエスは、法律で許されているからと言って、正しいわけではないと私たちに教える。そして、私たちが問題にする法律よりずっと上のところに目を向けさせる。結婚や離婚の問題は、法律や心理学ではなくて、究極的にどうあるべきかの問題である。イエスは、神がこのもっともすばらしい世界の中に(神は毎日最後に「よし」と言われた)もっともすばらしい生き物を男と女に造ったときの神の心を私たちに知らせようとする。男と女、この二人の関係から生まれる家族が神の心である。
(画像はユダヤの結婚契約書Ketubah。)
2015年
10月
11日
日
人間にできることではないが、神にはできる(マルコ10・27より)
2015年
10月
18日
日
人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである。
(マルコ10・45より)
前回の金持ちの若者がイエスを知ることを妨げたのは金銭欲だった。今日の箇所にあるのはイエスを知るための、あと二つの妨げ。その一つは野心。ヨハネは野心家だった。もう一つは嫉妬。他の弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立てた。この三つの悪徳がここで問題になっている。
2015年
10月
25日
日
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
(マルコ10・50より)
マルコ福音書では、カファルナウムで始まったイエスの癒しは、13番目の癒しである、このエピソードで終わる。
エルサレムに近づき十字架に向かって進むイエス。エルサレムに入るイエスを枝で歓迎した群衆を思い出させる騒々しい群衆。その道端に一人の盲人が座っている。病気のせいか労働災害のせいか視力を失い、続いて家族、財産、名誉、友人とすべてを失って、ぼろ布のマントだけに包まれ「主よ、憐れんで下さい」と大きな声で叫ぶー十字架の上でイエスが大きな叫びを上げた時のように。こんにちの町の谷間に押しつぶされているホームレスもきっとそう。皆は黙らせようとするが、イエスは彼に気づき彼を呼ばせて目を癒す。
このエピソードを伝えるマルコは三つの大切な言葉を私たちに託す。その言葉で教会は二千年のあいだイエスに代わり求道者を受け容れて来た。「安心しなさい」―あなたは一人ぼっちではなく、未来は閉ざされていない。「立ちなさい」―どんなことがあったとして、あなたは再生できる。「お呼びだ」―キリストと個人的な関係をもつために、あなた自身が呼ばれている。
そして、貧乏人の全財産であるマントを捨てて来た彼にイエスは言う、「何をしてほしいのか」。つまり、マルコが示すのは世の泣き声に耳を傾ける神である。イエスは私たちの望みを聞いてくださる神の耳なのだ。
金持ちの若者はイエスに従えなかったのに、癒されたバルティマイはすぐにイエスの道に入る。キリスト者は決して完全ではない。病気で癒しの必要があったり、罪があったりする。けれども、自分自身神の憐みを経験したからこそ、他者に対して憐みの手を伸ばすことができる。
2015年
11月
01日
日
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)
2015年
11月
08日
日
「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12・44より)
マルコ福音書では、今日の箇所がイエスの公生活の最後のエピソード(次の13章は終末論の長い話、14章は受難物語)。
それに対して、その「やもめ」は、第一朗読のやもめが小麦粉と油を命がけで預言者に差し出したように、すべてを神に捧げた。マルコは言っていないが、イエスはそのやもめを、子供が母親を見るように限りない優しさで見ている。もしかしたら、そのやもめを見て、その頃すでにやもめの生活を送っていた母マリアを思い出したのだろうか。イエス自身もまもなく、十字架上で父なる神に向かって、私たちのためにすべてをゆだね、命も捧げた。
要するに、イエスが弟子たちに教えた宗教、そして神が望む宗教は、心と真実、神と人に対する愛に基づく宗教なのだ。こんにちの私たちは、中身よりも見かけ、誠実よりも評判や地位を気にして、例えば健康のためではない整形手術のために考えられないほどのお金を使ったりもする。イエスの教えはそんな私たちにも向けられている。
2000年前、自分の名誉を求める金持ちがたくさんいる中で、一人のやもめが神殿の賽銭箱にわずかなお金を入れた。あまりにも小さい金額だったので、もしかしたら大祭司の帳簿係も気づかなかったかもしれない。しかし、そのお金は、金持ちのあり余るほどのお金と違い、永遠に神の心の帳簿に記されている。なぜなら、神の心の帳簿にはどんな小さな子供の愛情の溜息であっても永遠に記されているから。
2015年
11月
15日
日
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マルコ13・31)
(画像は、第一朗読に出てくる大天使長ミカエルを描いたもの。グイド・レーニ「大天使ミカエル」、1636年頃、ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会所蔵)
2015年
11月
22日
日
わたしが王だとは、あなたが言っていることです。(ヨハネ18・37より)