2015年
11月
29日
日
人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21・36より)
待降節は女性的な期間である。結局のところマリアの臨月の時である。福音書では、太陽、月、星など宇宙的な表現がされているが、物質的なことではなく、内面的なこと、私たちに深く関わることについて言われている。
2015年
12月
06日
日
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)
今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。
洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。
2015年
12月
13日
日
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)
画像は、マティアス・グリューネヴァルト「キリストの磔刑」の一部、1512-1515年、イーゼンハイム祭壇画
2015年
12月
20日
日
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)
画像は、ドメニコ・ギルランダイオ「御訪問」、1491年頃、ルーブル美術館所蔵
2015年
12月
27日
日
聖家族の主日について
両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた(福音主題句 ルカ2・46)
福音について
ルカは奥深い神学者である。道の途中で見失われた「三日の後、神殿に座っている」少年イエスのエピソードを物語りながら、未来の受難の「三日の後」イエスが神の本当の子としてその右の座に「座って」いることを私たちの心に前もって響かせたいのだ。子供を見失ったマリアとヨセフの辛い経験(彼らは少年イエスの言葉をまだ理解できなかった)は、イエスの最初の弟子たちの経験を意味する。そしてさらに、個人として、また共同体としての私たちの弱さと未熟さを意味する。彼らのまだ完全でない信仰に、そして私たちの罪と弱さにも驚くことはないとルカは言う。イエスを発見する道はまだまだこれから、イエスの「現れ」と私たちの癒しの旅路は始まったばかりと。今日、ルカは愛を込めて私たちに勧める、神の恵みと知恵に包まれて私たちのうちで生長しつつあるイエスに目を向けるように。イエスに近づく人は毎日、新しい喜びと深まっていく美しさを経験するように呼ばれている。イエスの後に歩く人は、生活の困難、迫害と病気の中でも、またどのような弱さと罪にもかかわらず、いつでも世界一幸せだ。その人の眼は神を見る。
2016年
1月
10日
日
イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた (福音朗読主題句 ルカ3・21より)
他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。
第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。
しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。
そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。
最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。
毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。
2016年
1月
17日
日
イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)
ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。
(画像は、ヘラルト・ダヴィト「カナの婚礼」、1500年頃、ルーブル美術館)
2016年
1月
24日
日
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)
(画像は、イエスが通っていたと考えられている古代の会堂の跡地に建てられた、ナザレの会堂教会の内部)
今日の福音は二つの箇所にまたがっている。第一は福音書の冒頭、前書きの箇所であり、第二はかなり後の第4章、ナザレに戻ったイエスが安息日に会堂でイザヤの箇所(それはいわば公生活のプログラムとなる)を読み解釈する箇所である。
第二の箇所がドラマチックなために、短い時間の説教では第一の箇所が飛ばされてしまいがち。けれども、ルカ福音書の前書きはとても大切だ。ルカはそこでその福音書の全体をどう読めばよいかを簡略に表現しているから。彼が言うのは、これからイエスについて彼が語るのは抽象的な教義ではなく、非常に現実的なこと(ギリシア語でプラグマトン)であり、歴史的な出来事だということ。一般の宗教、たとえば仏教は知恵や教えについて語る。それに対して、ルカが語るのは、証人がいて証拠があり調べることができる歴史的な出来事についてだ。その一つ一つの出来事は別の世界に向かって開かれた窓である。霊の力に満ちてイエスがナザレに戻ってくる出来事は救いの歴史の出来事なのだ。
もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。
第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。
救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。
2016年
1月
31日
日
「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4・22より)
(画像は、「ナザレの町」、1315-1320年、イスタンブール・カーリエ博物館)
2016年
2月
14日
日
2016年
2月
21日
日
(画像は、ラファエロ「変容」、1519ー20年、バチカン絵画館)
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 (ルカ9・35より)
四旬節第二主日の福音は御変容の箇所。ただし、ルカは変容という言葉を使わない。
今日の箇所の少し前に、イエスは自分の受難と死について弟子たちに話した。自分の道が死に向かっていることに気づき、父なる神の前で時を過ごすために山に登るイエス。父なる神の御旨に「はい」と言ったイエスの上には、洗礼の時と同じように、「これはわたしの子」という父なる神の声が響く。
ルカは、いくつかのシンボルを使う。1.イエスの顔の美しさ。その顔の上に父なる神の光が輝いている。2.真っ白に輝く服。3.モーセとエリヤ。イエスは旧約聖書の時から預言された救い主であり、聖書は全部イエスに向かう。3人の弟子たちは見ても、完全にはまだわからない。数十年後にも鮮烈に思い出すほどの(2ペトロ書1・16-18)深い喜びを感じても、まだ眠気がある。しかし、神の栄光を意味する雲がイエスを包む。彼らは目で見ることはできないが、彼らの耳に声が響く、「これに聞け」。同じように、教会は求道者に勧める、この人に憧れ、その美しさを辿り、その後に歩んで、弟子になるように。ペトロが、ここにいるのは美しいことと言ったように、教会は求道者に伝える。イエスの弟子になるのはたいへん喜ばしい、言葉で言えないほど意味深い経験だと。
今日の魅力的なページ―教会にとって宝物であり、東方教会にとっても大切なこのページを黙想すると、特に祈りの大切さがわかる。祈りはキリスト者の生活に意味を与えるもの。ベネディクト16世も引退の際に、どんな活動も深い祈りの体験がなければただの騒ぎにすぎないと言った。四旬節には、求道者も、また彼らと歩みをともにする私たちも祈りを大切にするように勧められる。個人的な祈り、教会としての祈り―一言で言うと霊的な生活を大切にするように、また内面的な価値観を求めるように。
ルカ9・37に「山を下りる」とあるように、祈ることは世界から離れることではない。祈りと活動、祈りと宣教は根本的な関係がある。祈りから、イエスを伝えイエスのために働くことが始まる。教会の中ではどんなことでも、この大きな光、キリストの体験から生まれるべき。この光を浴びてイエスを愛する人だけ、神がどれだけ世を愛しているか理解することができる。
ビデオの解説は字幕・翻訳をオンにしてご覧ください。
2016年
2月
28日
日
「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」 (ルカ13・8より)
他方は、神を求める求道者の心を感謝と喜びで満たすたとえ話。イエスが宣言する神は、実をつけないいちじくの木を切り倒すように命じる神ではない。イエスの神は、いちじくの木に常識以上に忍耐し希望をかける園丁の姿をしている。イエスの神は、私が罪を犯し、実を結ばない時にも私に信頼を置く。実を結ばなかった私の過去を見るよりも、私の中に隠された、聖人になる可能性を見る。私が放蕩息子のように、家から遠く離れた余所の国にいるときも、私を愛してくれる。イエスの神は人を裁いて追い出すのではなく、失われた羊を探しにいく。元気な子どもより、病気の子どもを愛する。罪を犯す兄弟を審判しないように人に頼む。そして、多く赦された人だけ、神のように兄弟を赦すことができるのだ。
回心というのは、裁く神から、愛と赦しの肥やしをやる園丁である神へ移ること。昼も夜も自分の命をかけて、私たちの命の木を育てようとするこのような神に信頼するように求道者は呼ばれている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。
2016年
3月
06日
日
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15・2より)
(画像は、レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」、1666-68年、エルミタージュ美術館)
2016年
3月
13日
日
罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい (ヨハネ8・7より)
(画像は、アントーン・ヴァン・デン・ウーヴェル「キリストと姦通の女」、17世紀、ゲント聖バーフ大聖堂)
2016年
3月
27日
日
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)
2016年
4月
03日
日
信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)
今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。
最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。
ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。
そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。
イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。
次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。
トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。
彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。
今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。
トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。
最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。
(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「聖トマスの不信」、マエスタ祭壇画、1308年)
2016年
4月
10日
日
さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)
もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。
このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。
(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「ティベリアス湖畔でのキリストの出現」、1308-1311年、シエナ大聖堂マエスタ祭壇画)
2016年
4月
17日
日
わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)
(画像は、クリストフ・ヴァイゲル「よい羊飼い」(羊を守るため狼と戦う羊飼いとしてイエスを描いている)、1708/12年、『聖書図解』)
2016年
4月
24日
日
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)
復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。
(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM)
2016年
5月
01日
日
聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)
(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)
2016年
5月
08日
日
2016年
5月
22日
日
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14)
2016年
5月
29日
日
すべての人が食べて満腹した。(ルカ 9:17より)
2016年
6月
05日
日
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカ7:13より)
画像は、17世紀フランス古典主義ウスターシュ・ル・シュウールの弟子による「やもめの息子の復活」。
2016年
6月
12日
日
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカ7:47より)
イエスの憐れみの書記と呼ばれる福音記者ルカ。イエスと罪人の出会いの物語に惹かれる彼は第7章で、非常に魅力的なエピソードを物語る。それはルカだけが伝える物語である。普通、ルカはマルコ福音書を使って、その一つ一つのエピソードに独自の視点を付け加えるが、この物語はきっとルカがパウロといっしょにあちこち布教に歩き回っていた時にどこかの地方で聞いたものだろう。それはもてなしの物語であるが、その中には、入れ子の箱のように、一つの短いたとえ話も入れられている。その宝物を取り出してもいいし、入れ物もまた美しい。
その日は安息日だったかもしれない。当時、会堂での説教の後、説教をした人を金持ちなどが家に招いて交流するという習慣があったが、ファリサイ派シモンもそうだったのだろうか。彼はイエスに関心を抱いてはいるだろうが、イエスが自分の家に来てもそんなに感激はしない。イエスの話に感動したからではなく、彼についてもっと調べるために招いたのだろう。イエスが本物の預言者かどうか知りたかったのではないか。当時の習慣は、そんな時は、男性ばかりで中庭で食事をしながら、神学的な質問をしていた。ただ、ドアは開けたままで、通りかかる人が覗くこともできた。イエスが家に入ったことは名誉にもなっただろう。
そこに突然、一人の女性が突風のように入ってきて、イエスに向かう。罪人の女とルカ自身も言う。涙、香油(マッサージ用)、接吻など、明らかに大げさな振る舞いだ。それを受け入れるイエスはシモンにとってスキャンダルとなる。彼が使う言葉「触れている」はギリシア語ではエロス的なニュアンスもある。だから、イエスが預言者であることにシモンは疑問を抱く。
さて、イエスはどうするか。彼はいつものように、ファリサイ派のシモンにも愛情を示し、教育的に説明しようとする。そして、短いたとえ話を使う。500デナリオンは労働者の2年間の賃金、50デナリオンは2ヶ月ほどの賃金に当たるから、大きな違いである。
福音書には具体的に書かれていないが、このたとえ話を聞いて私たちが想像するのは、この女性が大きな罪を赦されたということ。だから、彼女の振る舞いは懺悔というよりも、罪を赦された感謝であり、新しい愛を発見した喜びである。それに対して、シモンは罪がないかもしれないが、道徳的に立派な人がもつ鈍感さ、厳しさ、残酷さという病気にかかっている。当時も今日も、宗教を掟の連続と理解する人はこの病気にかかっている。彼は自分が正しいと考えて、すべてを自分を基準として判断する。そして、彼女が救われて喜んでいるということに無感動である――放蕩息子のたとえ話に出て来る兄のように。
そこでイエスは、この二人の迎え方を徹底的に比較する。イエスに赦された罪人は、大袈裟なほどの愛情をイエスに返す。大きな罪を犯した人は、大きな聖人になるのだ。
この物語は放蕩息子のたとえ話と同じように、結末がわからない。罪人の女が、後に出てくる、使徒たちといっしょにいる婦人たちの一人になったかどうかわからない。頑固なシモンたちがイエスを受け容れるようになったかどうかもわからない。
しかし、ルカがこの物語で私たちに言いたいのは、まず第一に、イエスが本当の預言者であり、彼によって、父である神の憐れみが私たちに知らされたことである。第二に、この女性の態度が、イエスに従う人の模範であることである。つまり、1.喜びの涙(悲しみの涙ではなく)。自分の罪を認めるが、自分に絶望するのではなく、罪を手放して、自分が生かされることを知った喜びの涙。2.イエスの足もとにひざまずくこと。つまり、イエスを拝むこと。3.髪を使ってイエスの足を拭うこと。つまり、罪の道具であったものが神を受け容れる道具となる。パパ様も最近、司祭のための黙想会で、私たちの罪は神の憐れみの受け皿だと言った。本当のキリストの弟子は罪を犯していない人ではなく、赦された人であり、赦されたからこそ人を赦すことができる、と。
イエスを本当に知ったしるしは、自分にとって一番大切なものをすべてイエスに捧げ、皆の前でイエスを公に告白することである。彼女にとってイエスの足への接吻がそうだった。その結果は、赦しと癒しと平和である。
画像は、アンドレイ・ミロノフ「キリストと罪深い女」、2011年、Wikimedia Commons。
2016年
6月
19日
日
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(ルカによる福音書9・22)
画像は、ディエゴ・ベラスケス「キリストの磔刑」、1632年、プラド美術館。
2016年
6月
26日
日
あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。(ルカによる福音書9・57)
画像は、ジェームズ・ティソ「イエスと弟子たちの語り合い」、1886-1894年、ブルックリン美術館。
2016年
7月
03日
日
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10・3より)
2016年
7月
10日
日
旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)
画像は、ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵
2016年
7月
17日
日
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ 10:41-42)
画像は、フラ・アンジェリコ「ゲッセマネの園のキリスト」、1450年、サン・マルコ修道院
2016年
7月
24日
日
求めなさい。そうすれば、与えられる(ルカ11:9より)
画像は、ジェームズ・ティソ「主の祈り」、1886-1894年、ブルックリン美術館。
2016年
7月
31日
日
人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15より)
2016年
8月
07日
日
ともし火をともしていなさい。(ルカ12・35)
画像は、ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、1851-1856年、マンチェスター市立美術館。イエスが戸を叩く絵画は多数あるが、この絵はそのもとになったものである。
2016年
8月
21日
日
狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13・24)
ルカの時代、教会では基準が少しずつ変わっていた。時間が経つとともに、イエスへの最初の憧れが薄れ、信者たちは自分の才能や地位を大切にして生活しようとしていた。しかし、ルカは、それは間違っていると言うのだ。やさしいルカが今日の箇所で突然厳しくなるのは、ちょうど両親が自分の子どもに対して普段はやさしい態度をとっていても、危険があるときは厳しい言葉をかけるのと同じだ。私たちが自分の価値や自分の行いに頼ると、救いの可能性がすべて消えてしまう。イエスのメッセージはまったく逆だ。私たちは赦されたからこそ人を赦すことができる。私たちは憐みの対象であったからこそ人を憐れむことができ、無償で助けられたからこそ人を無償で助けることができる。これがキリスト教のポイントで、ルカが厳しい言葉で私たちに思い出させようとしているところだ。
2.イエスの返答にはもう一つ怖いところがある。「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。神様が私たちに、あなたたちのことを知らないと言ったら、私たちの生活の意味がなくなってしまう。日本語の訳は「不義」となっていて、「不正義」を思い出させるが、ギリシア語の原語の意味は「無駄」だ。これは、あなたたちが自分を中心にしたこと、自分の名誉を探したこと、自分が目立つために努力したことは神からは無意味だということ。私たちが判断されるのはそのためではない。教会の中でどんな地位があったか、どんな名誉があったか、人からどんなに尊敬されたかは救いの基準ではない。救いの基準は、私たちがどのように神のあわれみを受ける器になったかということだ。私たちはよく自分のことで精一杯で人を受け容れることができない。人を赦すことができず、人といい関係を結ぶことができない。イエスが言うのは、自分を空っぽにすること、自分を無にすること。これがイエスの道なのだ。パウロの手紙の有名な箇所にあるように、イエス自身がまさにそう生きたのだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。
私たちの教会の本聖堂の扉の上には、16年前の大聖年の年から「私は門である」の字が掲げられている。これはキリストの言葉だ。狭き門とはキリストなのだ。ちょうど大人が子供と話をするときにひざまづいて子供の目線の高さになって子供の目線で交わるのと同じことを神は私たちのためにした。だから、それは私たちの道でもある。
画像は、松江市明々庵にじり口。
2016年
9月
04日
日
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14・33)
イエスが十字架上で死んだのは、運が悪かったからでも敵に負けたからでもない。イエスはたまたま死んだのではなく、愛のために自ら死ぬことを選び、神の御旨を果たしたのだ。イエスは顔を固くしてエルサレムに向かったとルカは言う(9・51)。ヨハネ福音書も同じことを言う。世の中に私一人しかいなかったとしてもキリストは同じように十字架にかかっただろうと聖イグナシオは言う。今日の箇所で言われる十字架も、そのような命がけの愛のことなのだ。イエスの弟子であるためにはそのような愛を生きなければならない。
2016年
9月
11日
日
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15・32)
2016年
9月
18日
日
わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカ16・9)
画像は、アヌンチアータ・シピオーネ「脱穀」。
2016年
9月
25日
日
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(ルカ16・26)
画像は、フランス・フランケン二世「金持ちとラザロのたとえ話」、17世紀、フランス・カンブレー市美術館。
2016年
10月
02日
日
自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17・10)
2.「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」。外でずっと働いて疲れた僕に給仕をさせる主人は非情だ。ルカ自身、別の箇所(12・37)では、主人が僕のために給仕をすると言っている。これはどういうことか。
2016年
10月
08日
土
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17・15-16)
画像は、「10人のレプラ患者の清め」(『エヒテルナッハの黄金福音書』、1035-1040年、ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵)。
2016年
10月
16日
日
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18・1)
画像は、ニコラース・マース「年老いた女の祈り」、1656年頃、アムステルダム国立美術館所蔵。
2016年
10月
23日
日
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカ18・14)
画像は、ベルナールト・ファン・オルレイ「ファリサイ派と徴税人」。
2016年
10月
30日
日
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19・5)
この出会いについてルカが私たちに書き残してくれているのは、一番最初の言葉「…ぜひあなたの家に泊まりたい」と一番最後の言葉「今日、救いがこの家を訪れた…」だけだ。その間には、何時間にもわたる、二人の親密な会話があっただろう。けれども、二人が何を話し合ったかについてルカは何も書いていない。それは二人のあいだの永遠の秘密として残る。けれども、イエスに出会って洗礼を受けキリスト者になった私たちは同じことを経験して知っている。
2016年
11月
06日
日
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(ルカ20・38)
画像は、当教会ステンドグラス「燃える柴」、2009年。
2016年
11月
13日
日
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21・6)
今日のルカ福音書の箇所は一見したところ世の終わりをテーマとしている。世の終わりに天と地がどうなるかは当時もこんにちも人々が関心をもつテーマであり、私たちもいろいろなきっかけからこの箇所をそのような終末論として読んでしまいがちだ。しかし、今日の箇所は終末についての好奇心を満たすための箇所ではない。イエスはそのような好奇心に何も答えていない。ルカが私たちに伝えるイエスの言葉は、よく観察すると、私たちキリスト者がどのような心で生きるべきかを語っている。イエスは歴史の中のさまざまな問題を予期していた。彼は自分自身が十字架死に向かって歩んでいたように、自分の弟子の人生がさまざまな苦難や危険に巻き込まれることを予期していた。イエスは、どの時代のキリスト者にも、その時代のしるしを読み取るための新しい目を下さるのだ。
今日の箇所はイエスの最後の一週間の出来事。イエスは、いつものように神殿に行く。神殿は当時はまだ建設中であり、その現場には裁断された立派な石などさまざまな材料があった。ある人たちがその美しい石や飾りについて話したとき、それが破壊されると言ったイエスはきっと自分の体である神殿のことも考えていたことだろう。つまり、十字架上での自分の死について考えていただろう。しかし、ルカがイエスのこのような言葉を私たちに伝えるとき、マタイとは違って、ストーリーを伝えるだけではなく、別のメッセージを伝えようとしている。ルカは、災いの預言より、災いを越えるための希望と喜びの言葉を信者に伝え信者を力づけようとするのだ。ルカは迫害を受けている当時の信者に向かって話しているから、その言葉はそのときだけではなく、それぞれの時代に苦しみを経験している信者にとって大切な遺産だ。
この箇所にはいくつかのテーマがある。
1.「「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。これは信仰についての注意だ。最大の危険はさまざまな声の中からキリストの声を聞き分けられないことにある。
2.「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」。ここでイエスは何を言いたいか。私たちが迫害されるとき、嘘や虚偽、暴力など、迫害する人たちが使う方法を使って自分を守ろうとしないこと。一言で言うと、非暴力を貫くことだ。イエスの非暴力の教えについてはさまざまな箇所に書かれている。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・39-41)。悪に対して悪で応えてはいけない。イエスの弟子の強さは、弱さと思われることにある。どんなことがあったとしても、神は信じる人のそばにいる。イエスは自ら十字架上でその非暴力の生き方を示した。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)。
3.「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。キリスト者は神の国のために働き困難に遭うときに奇跡的な解放を待たないこと。もしかしたら財産、仕事、評判、家族、そして命さえ失うかもしれない。自分の働きの実りを見ることもないかもしれない。しかし、イエスが言うのは、そのような苦しみによってすでに神の国に入っている。その人のことが忘れられ、記憶さえ消し去られるかもしれないが、大切なのは神の判断だけだ。
4.ルカはイエスのメッセージを二つの言葉にまとめる。それは信頼と忍耐だ。信頼とは、どんなことがあったとしても、イエスは彼を信じる人のそばにいると信じること。忍耐とはギリシア語でイポモネで、耐えるというより踏みとどまるという意味。ルカはこの言葉やそれと似た言葉を大切にしていて、その福音書と使徒言行録に何回も使っている(ルカ8・15、使徒11・23、使徒13・43、使徒14・22)。ルカにとってはこの箇所での忍耐はキリスト者の特徴であって、魂を救い(「命をかち取りなさい」)実りを生み神の国に入る秘密だ。迫害の時代に生きたルカは、信頼と忍耐という二つのメッセージを大切にした。それは、こんにちの教会の私たちの心にも響くメッセージだ。
画像は、エルサレム神殿(ヘロデ神殿)の模型(エルサレム博物館)。
2016年
11月
20日
日
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)
ピオ11世が今日の日曜日を定めた年から百年近くが経った。もしかしたらよく言われるように人間の歴史の中で一番残酷な百年間だったかもしれない。その残酷さはこんにちも続いていて、この先どうなるか私たちにはわからない。今の時代のために、そして今の時代の中に生きている私たちのために今日の箇所には特別なメッセージがある。十字架につけられて降りなかったイエスを見なさい。イエスは十字架上で死んだ。その瞬間、私たちは救われた。イエスが命を与えたからこそ、私たちは命に戻ることができたのだ。
画像は、アンドレア・マンテーニャ「キリストの磔刑」、1457-60年、ルーブル美術館。