毎週の聖句と黙想2016年(C)

2015年

11月

29日

待降節第1主日

 

人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21・36より)

 待降節は女性的な期間である。結局のところマリアの臨月の時である。福音書では、太陽、月、星など宇宙的な表現がされているが、物質的なことではなく、内面的なこと、私たちに深く関わることについて言われている。

 まず第一に、福音書は、年間最後の日曜日とつながりながら、自分の狭い世界から出て広い景色を見るように私たちを導く。生みの不安や苦しみについてはイザヤ13・8やヨハネ16・21で言われている。大きな苦しみの後に命がある。私たちの世界は日々過ぎて行くが、その中にもう一つの世界が成長している。矛盾の中、苦しみの中、繰り返しの中にも神の国が来る。神を忘れたような私たちの世界の中にもその方が来る。
 第二に、福音書は、どう待ったらいいかをキリスト者である私たちに教える。教会も母マリアと同じようにイエスを生もうとしているから。待降節とは、ちょうど妊娠中のお母さんが赤ちゃんが胎内で動いたり蹴ったりするのを感じるように、霊的なことに対する感受性を育てて、自分の中に聖霊の動きに気づき、成長しているキリストを意識するために与えられた期間である。その意味で、この期間、教会はやさしさ、テルヌーラ(教皇フランシスコ)を習うための神の学校である。そして、妊娠した女性がおむつを揃え服を作って、生まれてくる赤ちゃんのための環境を整えるように、神の言葉に親しみ、基本的な祈りやよい行い、神にゆだねる心や赦し、宣教心によって精神的な価値観を作るための期間が待降節である。
 そのために教会は3人の人物を模範として私たちに示す。それはイザヤ、洗礼者ヨハネ、マリアである。洗礼者ヨハネもマリアもイエス中心に生きた。洗礼者ヨハネはすべてを捨てて砂漠に暮らし、命がけで喜びを前もって経験した旧約時代最後の預言者であり旧約時代最大の神秘主義者である。教会はこの3人、特にマリアを見るときに、自分がありたい者の姿を見る。待降節を通じて、教会は世界に渡すためにキリストを生む。


2015年

12月

06日

待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

ラファエロ「フォリーニョの聖母(聖会話)」、1512年、ローマ・ヴァティカン宮美術館所蔵


2015年

12月

13日

待降節第3主日

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

 待降節第3主日は伝統的にガウデーテの主日と呼ばれる。ガウデーテとは「喜びなさい」(入祭唱、フィリピ4・4)という意味。昔も今も、司祭は薔薇色(つまり薄い紫色)の祭服を着ることができる。待降節の途中のこの日は、第二バチカン公会議の精神では、断食などの小休止というより、イエスの降誕を準備する喜びの日である。
 先週に引き続き今日の箇所でも主人公は洗礼者ヨハネ。ちょうどエルサレムに神殿が完成する頃であり、エルサレムには祭司が溢れ、エルサレムに住むことができない祭司が近くのエリコに住んでエルサレムに通うほどだった。それなのに、たくさんの人が洗礼を受けようとヨルダン川にいたヨハネを訪れた。先週の箇所にあったように、よく考えられた言葉を語るヨハネだが、今日の箇所ではもっと具体的なことを語る。
 たくさんの人が彼に聞く、「どうすればよいのですか」。これは人間にとって基本的な問いである。どう生きればいいか、どんな道を選ぶべきか、何が善で何が悪か。結婚する時、仕事をする時、人との関係において、財産などに対してどうすればよいか。救われるため、神のもとに行くためにどうすればよいか。
 ヨハネの返答は力強く重い。祈りや生贄などの宗教的な営みにはまったく触れずに三つの課題を示す。
1.分かち合うこと、与えること(「下着を二枚持っている者は…」)。これはイエスの教え(マタイ25・31-46)さえ連想させる。


2.徴税人は、正当である以上に人に要求してはいけない。正義に則り生きなさい。
3.兵士(さらに宗教的であれ政治的であれ何らかの権力をもつ人)は、自分の権力で人を脅し、束縛してはいけない。
 この三つの課題に続いて、もう一つの大切な点がある。それはヨハネが自分の権力を利用して自分を中心に置かないことである。そこに「霊と火」という二つの大切な言葉が出て来る。この二つの言葉によってキリストとは誰かが示されている。
 当時のやり方では麦を脱穀して、麦と殻を箕に載せて上げると、風で殻が飛ばされ、麦が残る。その風はイエスが十字架上で引きとった息(霊)である。殻は私たちの罪であり、イエスの愛の火によって燃やされる。
 ヨハネが教えるのはまだ自力の道徳である。彼の洗礼は回心の洗礼であるが、懺悔だけでは救われない。それに対して、イエスの霊と火によって救われたキリスト者の道徳は懺悔からでなく、愛された、救われた体験から始まる。
 ヨハネの言葉は非常に厳しい。第一朗読のゼファニアの預言も他の箇所を読めば非常に厳しい。けれども、ヨハネの言葉にはすでに示されている、キリストはもう来ていると。教会はそれに気づいて言う、ガウデーテ、喜びなさいと。

画像は、マティアス・グリューネヴァルト「キリストの磔刑」の一部、1512-1515年、イーゼンハイム祭壇画


2015年

12月

20日

待降節第4主日

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)

 イザヤ、そしてヨハネに続き、マリアが待降節を代表する最後の人物として私たちをイエスへ導く。
 マリアは身ごもり、エリザベトの家を訪れて、3か月を過ごす――ルカ福音書の今日の箇所は、新約聖書では唯一、女性だけが登場するページであり、女性のやさしさと喜びが溢れる場面である。マリアから聞いたにちがいないこのエピソードを物語るとき、神学者であるルカは旧約聖書の一つのページを思い出し参考にしている。この点は、今日の箇所を理解するために非常に大切である。そのページとは、ユダヤ民族にとって、教会にとって、キリスト者にとって、メロディーが盛り上がるページである。
 サムエル記下第6章によると、神の箱はエルサレムへ運ばれるときにユダを通った。同じように、マリアはユダに行った。神の箱の前でダビデは踊ったが、洗礼者ヨハネもエリザベトの胎内で踊った。ダビデは「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と神を畏れたが、エリザベトも「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言った。ダビデとイスラエルの民のように、エリザベトも喜びの叫びを上げた。神の箱が3ヵ月間エドムの家にあったように、マリアはエリザベトのところに3ヶ月ほど滞在した。
 旧約時代、神の箱(聖櫃)は神が民のうちに現存するしるしだった。ルカが言うのは、神の現存をあらわすしるしが今はもう箱ではなく、生きた人間であるマリアだということ。木でできた神の箱が外側も内側も純粋な物質である金を貼られていたように、マリアは外側は罪から解放され守られており、内側は聖霊に満たされている。神の箱には神の掟を書いた二つの石板が保存されていたが、マリアの胎内には、神の御言葉そのものであるイエス、神の御旨をはっきりと実現するイエスが宿されている。だから、マリアの胎内は、神の新しい器である。
 ルカが私たちに言おうとしていることには、教会にとって、キリスト者である私たちにとってとても大切な意味がある。マリアがこの世にキリストを生み出したのと同じように、教会はキリストを生み続ける。その妊娠状態は今も続く。神は私たちにそれを求めている――マリアの胎内にもう一つの命が生きていて、その二つの命、その二つの心が切り離すことができないように、私たちがキリストとともに生きることを。クリスマスの深い神学的意味はそこにある。

画像は、ドメニコ・ギルランダイオ「御訪問」、1491年頃、ルーブル美術館所蔵


2015年

12月

27日

聖家族

聖家族の主日について

 家族についての教皇フランシスコの文書が2、3月に出ることが期待されている。しかし、聖家族の主日とは何か。
 第一に、教会にとって家族は偶然存在するものではなく、神が望んだものである。女性に対する男性の憧れ、男性に対する女性の憧れ、愛の絆、そこから生まれる赤ちゃんといった私たちがそれぞれ経験している関係は神から来る関係である。家族の関係は限界があるにしても神からの召し出しである。神は司祭や修道者を呼ぶだけではなく、結婚する人を呼ぶ。呼んで、他の人の模範となるように遣わす。神が望んだことだから、家族には恵みが注がれる。家族がいる場所は、玄関も応接間も書斎も寝室も台所も聖なる場所である。神を信じる人の家族には恵みが溢れる。家族とは聖人になることができる場所である。
  第二に、家族は神の愛とやさしさを知るための場所である。家族の中で私たちははじめて神を知る。教会よりも、カトリック学校よりも先に神を知る。イエスも家族の中で父である神を知った。3年間の公生活でも、ナザレの貧しい家の中でヨセフに対して使っていた言葉を使って、父なる神にアッバと語りかけ、祈る時にはこの言葉を使うように私たちにも言われた。なぜか。男女の愛、親子の愛、祖父母への愛は神の愛にいちばん似ているから。私たちが神から受けた愛、神に返す愛は抽象的な愛ではなく、具体的に経験することができる。そして赤ちゃんを抱いて撫でるように習うことができる。
 第三に、教皇フランシスコはいつくしみの特別聖年を宣言した。それは私たちがあわれみ、やさしさ、慈悲の再教育を受けるためであるが、聖家族こそいつくしみに溢れるところである。愛するということは夢に満ちたロマンチックなことではなく、人に尽くすことである。同時に、互いに憐みを感じたり示したり、相手に謝ったり相手を赦したりすることである。私たちの家族は不完全である。聖家族でさえそうだ。今日のルカの箇所にあるように、マリアもヨセフも神に「はい」と答えたのに、イエスが自分の道を行ったとき理解せず、マリアはイエスを叱った。別の箇所でも、家族はイエスが「気が変になっている」(マルコ3・21)とさえ思った。私たちの家族も同じ問題を抱えている。例えば子どもが神から呼ばれて自分の道を歩こうとするのに、家族が反対し、むしろ利益や名誉になるような就職や結婚を強制する。今日は、私たちの不完全な家族が神の恵みによって人の役に立つことができるよう祈りたい。

両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた(福音主題句 ルカ2・46)

福音について

ルカは奥深い神学者である。道の途中で見失われた「三日の後、神殿に座っている」少年イエスのエピソードを物語りながら、未来の受難の「三日の後」イエスが神の本当の子としてその右の座に「座って」いることを私たちの心に前もって響かせたいのだ。子供を見失ったマリアとヨセフの辛い経験(彼らは少年イエスの言葉をまだ理解できなかった)は、イエスの最初の弟子たちの経験を意味する。そしてさらに、個人として、また共同体としての私たちの弱さと未熟さを意味する。彼らのまだ完全でない信仰に、そして私たちの罪と弱さにも驚くことはないとルカは言う。イエスを発見する道はまだまだこれから、イエスの「現れ」と私たちの癒しの旅路は始まったばかりと。今日、ルカは愛を込めて私たちに勧める、神の恵みと知恵に包まれて私たちのうちで生長しつつあるイエスに目を向けるように。イエスに近づく人は毎日、新しい喜びと深まっていく美しさを経験するように呼ばれている。イエスの後に歩く人は、生活の困難、迫害と病気の中でも、またどのような弱さと罪にもかかわらず、いつでも世界一幸せだ。その人の眼は神を見る。


2016年

1月

10日

主の洗礼

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた (福音朗読主題句 ルカ3・21より)

 他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。

 第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。

 しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。

 そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。

 最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。

 

 洗礼者ヨハネはたとえば仏陀のように偉大な宗教者であり行者であり人格者だった。宗教的な権力と肩書もなく、その心の清らかさとその生活の正しさには多くの人が心を引き寄せられ水と回心の洗礼を受けていた。だから、彼が救い主でないかと誰もが考えていた。イエスも彼を愛し、彼の弟子たちが来たときには、彼を大いにたたえた。確かに、洗礼者ヨハネは旧約時代のすべての預言者の中でキリストに一番近く、キリストの道を用意する人物であり、花婿の友だった。しかし、彼は救うことはできなかった。私たちが神の国に入るのは道徳や正しい行いによってではなく、永遠のはじめから神に愛され救われているから。その愛はイエスの洗礼によって明らかになったのだ。

 毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。


2016年

1月

17日

年間第2主日

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

  ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
 「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
 「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
 「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
 「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
 「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。

 「水がめ」はふつう焼き物だったが、ここには「石」とあり、十戒が刻まれ契約を意味する石を思い出させる。水がめが「6つ」というのはやはり新しい創造の数字。完全な日はまだ現れていないが、その直前、その曙だということ。清めの水で一杯であったはずの水がめが、空だったのは、係りの人がぼんやりして入れなかったから。人間はぼんやりして、大切なことを忘れ、意味のないつまらない生活を送る。それは人間の罪である。水がめの中に入れられる「水」はイエスによって私たちに与えられた神の恵み。私たちの空っぽの心を縁まで満たすほど入れられる。水は命のために基本的なものだが、ヨハネによる福音書ではイエスがよく水にたとえられる(たとえばサマリアの女)。
 しかし、救いが行われるためには、神の行いだけでは十分ではなく、「召し使い」が必要。「召し使い」という言葉はマリアも自分について使った(ルカ1・38「わたしは主のはしため」)。「召し使い」とは、イエスを信じてその言葉通りにする人。そこには、信仰という、ヨハネの典型的なテーマが出ている。イエスを信じて言われた通りにすると、救いが可能になる。
 「くんで」。イエスは私たちの心に、赦しや救いの希望を起こしてくださるから、イエスの言葉という冷たい水を空っぽの心に入れると、そこから汲むことができる。
 宴会の「世話役」とは、ギリシア語では「大祭司」と似た言葉。つまり、民に対し、教会に対し何らかの形で大祭司のような役割を果たす人を意味する。しかし、その世話役はするべき仕事をちゃんと果たさなかった。ぶどう酒を用意することもせず、ぶどう酒がなくなったことにも気づかず、ぶどう酒に変わった時にも何が起こったかわからないし、新しいぶどう酒がどこから来たかわからないという、頼りない世話役だ。世話役だけでなく、招待された人たちも、花婿でさえ、何も気づかなかった。わかったのは弟子たちと召し使いだけ。ヨハネは、イエスが「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という序章の箇所をほのめかしているかもしれない。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと出て来る。イエスのすることが人はわからない。
 よく知られていることだが、ヨハネは奇跡という言葉を使わない。奇跡という言葉は外面的だが、ヨハネが使うのは「しるし」という言葉。しるしは、外面的なことより、心の中のこと。神が働いていることに心の深いところで気づくこと。
 この不思議で美しい物語でヨハネが言いたいのは、今日(ヨハネの大切な言葉)こそ私たち一人一人にとっても大切な「時」だということ。私たちの生活の中に、私たちの周りに通りかかるイエスのしるしをよく読み取り、そのために神を賛美したい。

(画像は、ヘラルト・ダヴィト「カナの婚礼」、1500年頃、ルーブル美術館)


2016年

1月

24日

年間第3主日

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)

 

(画像は、イエスが通っていたと考えられている古代の会堂の跡地に建てられた、ナザレの会堂教会の内部)

 今日の福音は二つの箇所にまたがっている。第一は福音書の冒頭、前書きの箇所であり、第二はかなり後の第4章、ナザレに戻ったイエスが安息日に会堂でイザヤの箇所(それはいわば公生活のプログラムとなる)を読み解釈する箇所である。
 第二の箇所がドラマチックなために、短い時間の説教では第一の箇所が飛ばされてしまいがち。けれども、ルカ福音書の前書きはとても大切だ。ルカはそこでその福音書の全体をどう読めばよいかを簡略に表現しているから。彼が言うのは、これからイエスについて彼が語るのは抽象的な教義ではなく、非常に現実的なこと(ギリシア語でプラグマトン)であり、歴史的な出来事だということ。一般の宗教、たとえば仏教は知恵や教えについて語る。それに対して、ルカが語るのは、証人がいて証拠があり調べることができる歴史的な出来事についてだ。その一つ一つの出来事は別の世界に向かって開かれた窓である。霊の力に満ちてイエスがナザレに戻ってくる出来事は救いの歴史の出来事なのだ。
 もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。

 第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。

 救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。

 


2016年

1月

31日

年間第4主日

 

「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4・22より)

 

 布教を開始してからはじめて故郷に戻るイエス。それまで誰も示さなかったような権威をもって話し、深い神の体験から罪人を赦し、病気を治し盲人を癒すなどの奇跡を行って、周辺の地方ではすでに有名になっていた。
 ところが、故郷の人たちは却って、驚きを示し、その驚きは彼を殺そうとするまでの憎しみに変わる。驚きとは、ルカ独特の表現だが、信じていないということ。彼らは、子供の時からよく知っている人、自分たちと同じ生活を送ってきた人がまさか神から選ばれたメシアであるとは信じられない。なぜなら、自分で作りあげたイメージのメシアを待っていたから。特に彼らが怒っていたのは、自分の村から出たメシアがよその人のために奇跡を行ったこと。彼らは、神が本当にどういう者かを求めるのではなく、自分の利益になる神を作り上げるという誘惑に陥り、イエスを拒否したのだ。それに対して、他の人たちのためにするという神の愛(第二朗読)の普遍性に生き、そのメッセージを曲げず、十字架死に至るまで神に忠実だったのがイエスだ。
 世の中で生きている私たち信者も、人から受け入れられるために、神の本当のメッセージをアレンジして、人が聴きたがることを言う誘惑を受ける。そんな私たちに向かって、ルカはその福音書の始まりに当たる第4章で、人間でありながら神に忠実なキリストの姿をあらかじめ示している。ルカが第4章で宣言するキリスト論のさまざまなテーマは、後続の章で展開され、最後に十字架において完成される。

(画像は、「ナザレの町」、1315-1320年、イスタンブール・カーリエ博物館)


2016年

2月

07日

年間第5主日

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる(ルカ5・10より)

(画像は、ラファエロ「奇跡の漁り」、1515年、ロイヤル・コレクション所蔵


2016年

2月

14日

四旬節第1主日

イエスは……四十日間、悪魔から誘惑を受けられた (ルカ4・1-2より)

(画像は、ボッティチェッリ「キリストの誘惑」、1481-82年、システィーナ礼拝堂


2016年

2月

21日

四旬節第2主日

(画像は、ラファエロ「変容」、1519ー20年、バチカン絵画館

 

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 (ルカ9・35より)

 

 四旬節第二主日の福音は御変容の箇所。ただし、ルカは変容という言葉を使わない。

 今日の箇所の少し前に、イエスは自分の受難と死について弟子たちに話した。自分の道が死に向かっていることに気づき、父なる神の前で時を過ごすために山に登るイエス。父なる神の御旨に「はい」と言ったイエスの上には、洗礼の時と同じように、「これはわたしの子」という父なる神の声が響く。

 ルカは、いくつかのシンボルを使う。1.イエスの顔の美しさ。その顔の上に父なる神の光が輝いている。2.真っ白に輝く服。3.モーセとエリヤ。イエスは旧約聖書の時から預言された救い主であり、聖書は全部イエスに向かう。3人の弟子たちは見ても、完全にはまだわからない。数十年後にも鮮烈に思い出すほどの(2ペトロ書1・16-18)深い喜びを感じても、まだ眠気がある。しかし、神の栄光を意味する雲がイエスを包む。彼らは目で見ることはできないが、彼らの耳に声が響く、「これに聞け」。同じように、教会は求道者に勧める、この人に憧れ、その美しさを辿り、その後に歩んで、弟子になるように。ペトロが、ここにいるのは美しいことと言ったように、教会は求道者に伝える。イエスの弟子になるのはたいへん喜ばしい、言葉で言えないほど意味深い経験だと。

 今日の魅力的なページ―教会にとって宝物であり、東方教会にとっても大切なこのページを黙想すると、特に祈りの大切さがわかる。祈りはキリスト者の生活に意味を与えるもの。ベネディクト16世も引退の際に、どんな活動も深い祈りの体験がなければただの騒ぎにすぎないと言った。四旬節には、求道者も、また彼らと歩みをともにする私たちも祈りを大切にするように勧められる。個人的な祈り、教会としての祈り―一言で言うと霊的な生活を大切にするように、また内面的な価値観を求めるように。

 ルカ9・37に「山を下りる」とあるように、祈ることは世界から離れることではない。祈りと活動、祈りと宣教は根本的な関係がある。祈りから、イエスを伝えイエスのために働くことが始まる。教会の中ではどんなことでも、この大きな光、キリストの体験から生まれるべき。この光を浴びてイエスを愛する人だけ、神がどれだけ世を愛しているか理解することができる。

ビデオの解説は字幕・翻訳をオンにしてご覧ください。


2016年

2月

28日

四旬節第3主日

「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」 (ルカ13・8より)

 神のイメージを歪めてしまう誘惑よりも危ない誘惑はない。四旬節のあいだ教会はイエスの教えに基づいて、神の正しいイメージを求道者に伝えるように努める。

 今日の箇所は二つの面をもつ屏風のようだ。その一方は、神殿で起きた恐ろしい事件。ローマ人によって数人のユダヤ人が殺されたというニュースをイエスの耳に入れる人がいた。ユダヤ人は思う、こんな恐ろしい死に方をした彼らはどんな罪を犯したのだろうか。イエスは言う、神は罪人を裁き地獄に落とす方ではない。もっとも、命は不安定な土台の上に立てられているから、今こそ回心すべきだ。

 他方は、神を求める求道者の心を感謝と喜びで満たすたとえ話。イエスが宣言する神は、実をつけないいちじくの木を切り倒すように命じる神ではない。イエスの神は、いちじくの木に常識以上に忍耐し希望をかける園丁の姿をしている。イエスの神は、私が罪を犯し、実を結ばない時にも私に信頼を置く。実を結ばなかった私の過去を見るよりも、私の中に隠された、聖人になる可能性を見る。私が放蕩息子のように、家から遠く離れた余所の国にいるときも、私を愛してくれる。イエスの神は人を裁いて追い出すのではなく、失われた羊を探しにいく。元気な子どもより、病気の子どもを愛する。罪を犯す兄弟を審判しないように人に頼む。そして、多く赦された人だけ、神のように兄弟を赦すことができるのだ。

 回心というのは、裁く神から、愛と赦しの肥やしをやる園丁である神へ移ること。昼も夜も自分の命をかけて、私たちの命の木を育てようとするこのような神に信頼するように求道者は呼ばれている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。 


2016年

3月

06日

四旬節第4主日

 

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15・2より)

 

 放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえ話の中でもっともすばらしいたとえ話だ。しかし、このたとえ話にはさまざまなニュアンスがある。そのニュアンスはどの登場人物に自分を置くかによって異なる。
 例えば、放蕩息子の立場から読むなら、どんなに悪いことがあったとしても神から愛されているという慰めを受けることができる。大袈裟なほどの愛情をもった父親の姿をしているのがイエスにとっては神である。しかし、人間――あるいは人間に嫉妬して(人間の不幸よりむしろ)人間の滅びを願う悪魔――は正義を口実として、仇討ち、復讐を果たそうとし、神のイメージをもゆがめる。そして厳しく冷たく情にほだされない裁判官として人間を滅ぼす神のイメージを作り上げる。そのような残酷な神に対してイエスが宣言するのがあわれみとやさしさ(教皇フランシスコの言う「テルヌーラ」)のある父である神である。だから、どんな時代のキリスト者もこのたとえ話から慰めを受けていた。

 

 他方で、このたとえ話には、私たちにとって受け入れにくいところがある。ルカはその福音書第15章で、3つのたとえ話(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)に先立って、イエスがたとえ話を語ったきっかけを私たちに伝えている。つまり、罪人と食事をしているイエスにファリサイ派が文句を言ったのがそのきっかけである。だから、ルカの意図は、私たちが放蕩息子の立場よりも、またよき父親の立場よりも、兄の立場から読むことにある。ルカは兄の回心をねらっており、このたとえ話を読む私たちをも回心させたいのだ。ところが、それがなかなか受け入れにくい。
 イエスが私たちに伝えるのは神との和解であり、私たちの再生である。それは私たちの能力やよい生活やよい行いによってではなく、神の恵みによってのみ可能である。イニシアチブは神にある。ファリサイ派の間違いはそこにあった。彼らは最終的に自分の力で、自分の正しい生活、自分の道徳的な生活で救われると思っていたのだ。しかしながら、罪人である私たちは最初に神から赦されたからこそ、再生が可能である。ベネディクトが言う通り、キリスト者はいつも赦された者なのだ。
 ルカがその福音書のさまざまな箇所で述べるように、神は救いの食卓に私たちを招く。その食卓につくことができるためには深い変化が必要である。ところが、私たちは(聖人であっても)毎日少なくとも7回罪を犯して、神のあわれみが必要な状態なのに、間違いをしてしまう兄弟をなかなか赦すことができない。弟が家に戻ったときに、無事に戻ったのだから喜びなさいと神が私たちに言うのが典型的な不正義に見える。結果として、弟に会いたくもない、弟のそばに座りたくない。そして自分も救いの食卓につけない。
 特にいつくしみの聖年にあたり教皇フランシスコもこのテーマに触れている。また洗礼に向かう求道者にとって、またイースターに向かうキリスト者にとってこのような読み方が非常に大切だ。
 主の祈りにあるように、私たちは兄弟を赦す限り、赦される。相手に心を閉ざし、相手を審判しようとする心から立ち直るように新しい心がイエスから与えられるよう祈りたい。
  放蕩息子の兄が父親に言われて命と喜びの祝宴の場に入ったか、私たちは知らない。イエスもルカもそれについて何も言ってくれていない。たとえ話は途中で終わるようだ。たとえ話の本当の結末は私次第なのだ。

(画像は、レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」、1666-68年、エルミタージュ美術館)


2016年

3月

13日

四旬節第5主日

 

罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい (ヨハネ8・7より)

 

求道者が受洗に向かって、そして求道者も信者も復活祭に向かって準備する四旬節。解放と赦しを求める求道者と信者に教会は第5主日の今日、福音書の特別なページを手渡す。それは、神の驚くべきいつくしみを知ることができるページである。
1.状況はこうだ。イエスを殺し、その権威を失墜させるきっかけを探す律法学者とファリサイ派。そんな彼らにとって絶好のチャンスが訪れた。朝早く若い女性が姦通の場で捕まえられたのだ。モーセによると、こんな女は石打ちの刑で殺せと書いてあるが、どう思うかという問いを携えて彼らはその女をイエスのもとに連れて来るが、それは罠である。なぜか。イエスがモーセの掟に賛成するなら、人々は失望し遠ざかるだろう。これまでは憐れみの話をしていたのだから。逆にイエスがこの女を解放するように言うなら、律法に反したことを言ったイエスを神殿に訴えることができる。どちらにしてもイエスは窮地に陥るだろう。
2.このページを書いた福音記者(聖書学者はルカとも推測する)が伝えるイエスの姿は非常に印象的である。イエスは沈黙し、言葉を使わない。騒ぐ代わりに、体をかがめ土に指で書く。特に目立つのは、ファリサイ派のように、人のプライベートな生活に好奇の目を向け、訴えの種にする宗教をイエスが拒否すること。そして、殺される危険があるのに、彼ら自身の罪を堂々と指摘する勇気である。
3.注意すべきなのは、イエスが彼女の罪を弁明していないこと。彼自身は愛について、結婚について高い理想を抱いている。しかし、こういうことに関する間違いが大きな苦しみをもたらすこともよくわかっている。イエスにとって、神からいただいた掟は、相手を裁き傷つけるためのものではない。それは、皆が同じように神から赦しを得て救っていただかなければならないことを知るためのものだ。これがイエスの考えである。
 
4.イエスは、訴える人の心の中にある嘘を掘り出す。彼らは、自分を民の霊的指導者に見せようとしたが、人を死に導く悪魔の家来だった。その証拠に、この女性だけではなく、イエスをも殺そうとしていた。彼らは癒しや救いを求めるのではなく、復讐などの思いにとらわれていた。それに対して、彼らの罪を知るイエスの自信あふれる言葉(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)の前で、彼らの嘘はばれて一人一人去っていった。
5.イエスと女性の会話はとても美しい。それまでは身をかがめていたイエスがこの女性の前に立って、この女性に尊敬を示す。彼女の顔に何があったか―死の恐れか、罪の悲しさか、驚きかー私たちは知らない。とにかくイエスはこの女性を叱らず、放蕩息子の帰りを迎えるお父さんのように受け容れ、回心を勧めることさえしない。この人の未来を見て、救いの命を彼女に勧め、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うだけなのだ。イエスは、人に石を投げて殺す預言者ではなく、愛である神のメッセンジャーとして自分の言葉を食べ物として与える。
6.イエスは今回も敵の罠から逃げることができた。しかし、イエスの教えを理解するのに苦労したのは敵だけではない。初代教会の信者たちもそうだった。姦通の女にイエスが与えた赦しは、いろいろな人にとってスキャンダルだった。その結果、長いあいだ(聖ヒエロニムスに至るまで)このページが聖書から省かれ、典礼でも300年ほど使われなかった。アウグスチヌスが言うには、本当の信仰を知らない人たちがこのページの意味を勘違いして、写本から隠したと(『ヨハネによる福音書講解説教』第33説教5)。イエスのいつくしみとあわれみは敵にとってだけではなく、キリスト者である私たちにとってもいつでも信じられないほど大きい。特に私たちが自分の罪を忘れるときの神のあわれみといつくしみは私たちの想像を越えている。

(画像は、アントーン・ヴァン・デン・ウーヴェル「キリストと姦通の女」、17世紀、ゲント聖バーフ大聖堂)


2016年

3月

20日

受難の主日(枝の主日)

 

「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」(ルカ19・38)

2016年

3月

27日

復活の主日

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)

 キリスト者として心を整える長い四旬節と聖週間の後、50日間に及ぶ長い復活節が始まる。それは復活したイエスとともにいる期間である。いつものように教会は私たちのために聖書の豊富な箇所を選んで用意する。それによって、また私たちの心にあることによって私たちは、イエスが復活して生きているとはどういうことか、復活したイエスが私たちの生活にどんな役割を果たしているかを悟ることができる。
 今年の復活節第一主日の福音書はヨハネ福音書の箇所。ヨハネは「復活」という言葉をあまり使わないが、復活したイエスについて他の福音書の倍ぐらい書く。復活の後にイエスが弟子たちの中に生きていることを中心にした他の福音記者と違って、ヨハネが強く出すのは死に打ち勝ったキリスト、十字架上で神の栄光を顕し父なる神の本当の子として天に上るキリストである。それはヨハネ福音書の最初のページから繰り返し出てくるテーマである。
 今日の箇所を含む20章には4つのエピソードがある。ペトロともう一人の弟子、マグダラのマリア、弟子たち、そして最後はトマス。この4つのエピソードによってヨハネは復活したイエスのしるしを示し、復活したイエスに出会うように私たちをも導こうとしている。十字架の大きな苦しみ、その挫折とスキャンダルの後に、生きているイエスを発見するにはどうすればいいかを教えてくれているのだ。
 今日の箇所は旧約聖書へのさまざまな示唆が含まれる神学的な物語であり難しいが、同時にそこからいろんな結論が出て来るすばらしい物語である。「朝早く」――他の福音書ではそうとだけあり、曙を意味するが、ヨハネ福音書では「まだ暗いうちに」とあり、夜を意味する。夜のうちに探し求めるとは雅歌の花嫁を思い出させる。花婿を見失い、絶望して、花婿を探す花嫁(雅歌3・1-3)。まだしるしは何もない。まだ信仰の目が開かれていない。マグダラのマリアは石がとりのけられているのを見て、誰かが盗んでしまったと思うほどだ。
 彼女は「走って行って」、ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子に知らせる。聖書学者が強調する、急いで走ることは、初代教会の時代も、そしてこんにちも、イエスのしるしを探し求めることを思い起こさせる。イエスを探し求める教会の態度はさまざまである。マリアのような愛情を込めた態度、ヨハネのように神秘主義的直観的な態度、ペトロのように鈍感で遅く確認する態度。ただいっしょに走る。みんながイエスについて悟ったことを教会の中でお互いに分かち合いコミュニケーションをとって、それぞれのカリスマによってお互いに助け合うことが大切だと今日の箇所は教えている。
 「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」。それはヨハネだと100年後の教父たちは言ったが、当のヨハネ福音書には名前が挙げられていない。イエスが愛した弟子とは本当の弟子のこと。だから、それは私たちでもありうると聖書学者は言う。最後の晩餐の時にユダの裏切りに気づき、ペトロが否認しても十字架の下までイエスのそばに残り、母を引き取る。今日の箇所でも次の21章のティベリアス湖でもペトロより先にイエスに気づく。イエスに出会うときに迷いなしについていき、寝ることも忘れ、イエスの敵もわかるほどイエスを愛し、そして必要なときに命を捧げる。私たち自身もそうであるように勧められている。
 9節の印象的な言葉「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」には大切な示唆がある。イエスはどこに行ってしまったかと教会が迷うとき、大切なのは聖書である。ヨハネ福音書が書かれた時代は、イエスの生き証人たちの時代が終わったあと、イエスに直接に会った人がいない時代。私たちの時代もそうである。けれども、聖書がイエスを見分けるための大きな力になる。だから、私たちも聖書を愛して、聖書の言葉を黙想したり祈ったりする道を今日の福音書は強く思い起こしてくれる。

(画像は、フラ・アンジェリコ「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」、1438-1440年、サンマルコ修道院)


2016年

4月

03日

復活節第2主日

信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)

 復活から昇天を経て聖霊降臨に至る復活節の50日間は、教会にとって一年で一番大切な時節。新約聖書だけが使われるなどいろいろな特徴があるが、イエスの復活を知った弟子たちの物語を通じて、私たちもイエスの復活を経験することができる。そこにはいろいろなエピソードがあり、違った角度からイエスの復活を経験することができる。

 今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。

 最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。

 ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。

 そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。

 イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。

 次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。

 トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。

 

 彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。

 今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。

 トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。

 最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「聖トマスの不信」、マエスタ祭壇画、1308年)


2016年

4月

10日

復活節第3主日

さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)

 ヨハネ福音書は本来20章で終わる。21章は、おそらくヨハネの死後に誰かが書いたページだ。どういう人が書いたかもわからないが、大切な教えが書かれていて、古くからヨハネ福音書の最後に合わせて伝えられている。心に染み入る二つのエピソードが記された有名なページだ。
 最初のエピソードはこうだ。イエスが十字架上で死んだ後の弟子たち。エマオの弟子たちもそうだったが、絶望して自分の生活に戻る。しかし、以前とはぜんぜん違う。7人は以前にいた湖で昔からよく知っている仕事をするのに、実りがない。夢が消えてしまった真っ暗な夜の不安。
 そこにイエスの声がする――「何か食べる物があるか」。食べ物だけではなく、立ち上がるための、先に進むための支え、生きる希望があるか、というニュアンス。湖畔で火を起こして朝食を用意していたイエスは、失敗した子どもを迎える母親のようだ。イエスの言葉通りにしてとれる魚の数153(17番目の三角数、ナルシスト数など数学的にも特異な数)は、絶望を越える可能性と教会の普遍性を意味する。

 もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。

 このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「ティベリアス湖畔でのキリストの出現」、1308-1311年、シエナ大聖堂マエスタ祭壇画)


2016年

4月

17日

復活節第4主日

わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)

 山があり羊が多いイスラエルの地では、羊飼いは馴染みのある職業。旧約聖書ではまずアベルが羊飼いで、アブラハムもヨコブもモーセもダビデも羊飼いだ。神もイスラエルの牧者と言われる(詩編など)。メシアも、聖なる民を牧する者として預言されてきた。そして、福音書記者ヨハネは復活のイエスがキリストであり神であることを示すために、羊飼いという象徴(シンボル)を使う。教会が復活節に羊飼いのテーマをとりあげるのはそのためだ。
 よい羊飼いイエスと言うと、私たちはルカを思い出す。失われた羊を探しに行く羊飼いイエスは、キリスト教美術でも好んで描かれ、子羊を肩に乗せた姿で親しまれている。それはやさしさ(パパ様の言う「テルヌーラ」)のイメージだ。ところが、ヨハネは少し違った特徴に注目する。それはやさしさより、力、勇気、強さ、タフさのイメージだ。羊を盗もうとする泥棒や強盗(1節など)から羊を守る者、羊を食い殺そうとする狼と(ライオンや熊と戦ったダビデ(サムエル記上17・34-35)のように)命がけで戦い、羊を救い出す者がヨハネの言うよい羊飼いなのだ。結局、ヨハネが言いたいのは、イエスが絶対的な救い主であること。ただ(無償)の愛を注ぎ、命を与え守るイエス。救いはそこから始まる。イエスの後を行けば、確実に救われるから、彼に命を任せることができる。だから、「羊飼い」とはただの比喩ではなく、「救い主」「メシア」という言葉と同じように、復活のイエスを示すためのキリスト論的称号なのだ。
 では、救われるには具体的にどうしたらいいか。27節には三つの大切な条件が出て来る。
1.第一は聞くこと。
 そもそも教会の信者とはキリストの言葉を聞く者である。グループの作り方はいろいろあって、例えば互いに似た者や気が合う者、共通の趣味をもつ者同士が集まりグループを作るが、キリストの教会に属する根本的な特徴は、キリストの言葉を聞くことにある。キリストの声を聞くことから、すべてが始まる。
 聞くという言葉は旧約聖書でも大切だ。イエスエルへの神の最初の言葉は、「シェーマ、イスラエル(聞け、イスラエルよ)」だった。
 司祭でもパパ様でもなく、まず第一にキリストの声を聞くこと。司祭の言うことは、ただキリストの言葉を伝える限りで聞くべきだ。(復活節第4主日は世界召命祈願の日ではあるけれども)教会の牧者はただ一人キリストだけだから。
 「聞き分ける」。世の中には、テレビとか一般の常識とか、偽物の声がいっぱいある。キリストの声を聞き分けるためには、聞き慣れる必要がある。クリスマスとイースターにしか教会に来ないなら、聞き分けることができない。
 第二は知ること(「わたしは彼らを知っており」)。知るという言葉は旧約聖書では、婚礼を意味し、夫婦の関係を示す。それは、親しさ(インティマシー)の関係、互いに譲り合う愛の関係だ。
 第三は従うこと(「彼らはわたしに従う」)。イエスの後を行くにはイエスを知るべきだ。イエスはずっと人によい行いをして生きたとペトロも説教で言う(使徒言行録)。イエスを知りイエスの真似をすることで私たちは救われる。
 救われると言うと、死んでから天国に行けるというだけの意味ではない。この世でも生きるべき命を生きること、自分の命を本当に生きることを意味する。それがイエスが与える命である。イエスはその力を与えるからだ。だから、永遠の生命とはもちろん死んでも永遠にという意味もあるが、終わりのない命というよりも、神聖な命、神の命を意味する。イエスがその命を与える。
 こうしてヨハネが言う羊飼いは絶対に頼れる者であり、だから私たちは自分の命を失うことがない(「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」、28節)。なぜか。それこそが父なる神の意志だから。その権限を神がイエスに与えたから。イエスと父とのあいだには絶対的な関係があるから(「わたしと父とは一つである」、30節)。これが復活祭の意味である。そのために私たちは復活節にこの箇所を読む。
 電気製品を買うと保証書がついている。何年間かは故障しても修理してもらえる。イエスが羊飼いであるとは、絶対的にイエスが救い主であること。だから、イエスに従う人は絶対に後悔しない。

(画像は、クリストフ・ヴァイゲル「よい羊飼い」(羊を守るため狼と戦う羊飼いとしてイエスを描いている)、1708/12年、『聖書図解』)


2016年

4月

24日

復活節第5主日

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)

 復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。

1.ヨハネの福音書では最後の晩餐の話は4つの章にわたる長い話。イエスが話したそのままではなく、ヨハネの教会が長い間に黙想しながらいろいろ編集したものだ。だから、この話がどんなジャンルに入るかを理解する必要がある。それは、旧約聖書にもある、太祖たちが亡くなるときの荘厳な話である。旧約聖書では、モーセとかいろんな人が死ぬときに長い話をする。自分の教えのまとめとして、それまで大切にしてきたこと、子供たちに対するアドヴァイスや未来の予言を語る。それは普通の会話ではなく、子供が聞くべき、受け容れるべきことを言い残すものだ。そのことを示しているのは、ヨハネはここで使っている一つの特異な言葉だ。それはギリシア語のテクニアであり、「小さい子供たち」を意味する。ヨハネはこの言葉をこの箇所でだけ使っている。つまり、イエスは父親として、仲間に話をしている。この点が大切だ。ヨハネの福音書では最後の晩餐のイエスの話は彼の教えのまとめとして重要な箇所だ。
2.今日のために教会が選んだ第2朗読の箇所とも関係して、一つの言葉が目立つ。それは「新しい」という言葉である(第2朗読「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」「万物を新しくする」、福音朗読「新しい掟」)。それは、復活祭によって私たちが新しく創造され、死がなく涙も嘆きもない世界に生まれ変わったことを意味する。
3.もう一つ注意すべきなのは、「掟」という言葉だ。ギリシア語ではエントレとある。それは掟だが、義務ではない。愛は押しつけられることではない。どうして掟で愛することができるだろうか。日本語では「道」と言うのがいい。一発で守りなさいと言うのではなく、新しい道をあなたたちに開くという意味だ。使徒言行録でもキリスト者は「この道に従う者」(9・2)と呼ばれている。それはイエスの道だ。彼が押しつける掟というのではなく、彼が実際歩いた道だ。
4.ここで大切な言葉は「(私が愛した)ように」だ。ギリシア語ではカトースとある。旧約聖書にも自分と同じように人を愛するという愛の掟があったが、イエスが愛したようにというところに、この掟の新しさがある。これがわかるためにはイエスの生涯を振り返らなければならない。それは、7の70回赦し、復讐せずに右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、マントをとる人に下着を与え、敵のために命さえ捧げ、愛すべき人だけでなく愛することができない罪人をも愛する愛だ。このような愛が基準になる。これが福音書で大切なところだ。イエスの弟子であるとは、祈りでも権力でも力でもなく、オルガニゼーションでも人より勝った生き方でもなく、道徳でもなく、ただイエスが愛したように愛すること。それが言葉だけでなく現実になることが教会の基準だ。
5.愛は命令から、外から来るのでなくて、新しい状態から出る。私たちが生まれ変わり、新しくされたからこそ、その新しい状態からその愛が自然に出てくる。ルールではなく、中から、心から出てくる。教会の中にあるすべての良いこと美しいことは与えられた愛から生まれる。
 カトースには「ように」(基準)という意味だけではなく「から」(理由)という意味もある。だから、イエスが愛した「ように」愛するだけでなく、イエスが愛した「から」愛するのだ。

(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM


2016年

5月

01日

復活節第6主日

聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)

 海に近づくと、海がまだ見えなくても潮風を感じる。ちょうどそのように、復活節第6週は、昇天、そして聖霊降臨を準備するヨハネ福音書の箇所が伝統的に読まれる。
1.今日の箇所の最初の言葉「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」は非常にすばらしいが、勘違いした読み方がよくされる。いろいろな人はそれを読んで、イエスを愛するか愛さないかは掟を守るか守らないかでわかるという意味に受け取り、脅しのように感じるが、イエスが言うのは逆だ。掟を守るのはイエスを愛する結果で、イエスを愛するからこそその言葉を守るのだ。「言葉」は「掟」より意味が広く、ヨハネの福音書によると、イエス自身が神の言葉だ。その言葉を守るとは、それに注目し、それを知りたいと思い大切にすることだが、それは愛の結果で、一番最初に愛があったのだ。イエスのぬくもりを経験し、イエスの美しさに打たれて恋に落ちたからこそ、その結果としてイエスの言葉を守ることが出てくる。だから、プロセスは逆になる。掟から愛へではなく、愛から掟へ。掟と言っても、愛があればもう外からの命令ではない。人を愛する時には、何をしたらいいか何を避けたらいいかが、外から言われてではなく、自然にわかる。そのことをイエスは言いたいのだ。
 教会の中でも私たちはよく、綺麗事として愛について語りながら、相手に厳しく、相手にルールを押し付けるという間違いをする。けれども、キリスト者にとって肝腎なことは愛から行うということなのだ。たとえるなら、暖かい春になると、つぼみが花開くように、イエスに出会いその暖かい愛情を知った人は、眠りから目覚めて、愛の行いの花を咲かせることができる。
2.今日の箇所は、イエスの最後の晩餐の時の長い話の一部だが、ヨハネ(またはその弟子)が100年頃に書いたもの。当時のキリスト者は、特別な状態にあった。まず、栄光を帯びてすぐに戻ってくると思ったイエスは戻って来なかった。さらに、異端や迫害もあった。そんな中悩むキリスト者にヨハネの福音書は答える、イエスは、あなたたちが期待するように、人を征服し圧迫する勝利者としてではなく、素朴で柔和な姿で戻ってくる、と。
 「弁護者」は「慰め主」とも訳されるが、裁判の時に味方する人、つまり訴えられた人の友達だ。イエスが言うのは結局、気をつけなさい、私は、あなたたちが思っているような形ではなく、素朴な形で、心と愛を込めた形で来る、と。つまり、イエスは、彼の言葉を思い出させる友人として来る。ここでは昇天と聖霊降臨に先だって、そのメロディーが奏でられている。イエスが見えなくても、勝利がなくても、いつでもイエスがそばにいて、その言葉が思い出され、受けた愛によって人を同じ愛で愛することを習うことができる。

(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)


2016年

5月

08日

主の昇天

イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる(使徒言行録1・11より)

(画像は、ジョット・ディ・ボンドーネ「キリストの生涯38:昇天」、1304-1306年、スクロヴェーニ礼拝堂)


2016年

5月

15日

聖霊降臨の主日

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると(使徒言行録2・1より)

聖霊の続唱


2016年

5月

22日

三位一体の主日

 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14

 復活の主日から聖霊降臨までの復活節。一年でもっとも大切なその季節が終わり年間が始まる前に、二つの祭日が入ってくる。それは三位一体とキリストの聖体である。この二つの祭日は神学的というより歴史的な理由で生まれたもので、祝祭や信仰の公言という性格をもっている。だから、今日の三位一体の主日も、キリスト教の歴史に現れた神学的教義的な議論を紹介するためではなく、山に登ってから一旦立ち止まって景色を見てその美しさを楽しむように、または海の前で海を見渡してその広さと空気を味わうように、観想し祈るためにある。 
 私たちキリスト者の生活は起きる時から寝る時まで、出かける時も食前食後も、十字を切るジェスチャーと「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって三位一体を祝っている(テルトゥリアヌス)。キリスト教の一神教は、ただの一神教ではない。神は孤独な世界に生きるものではなく、愛の交わりなのだ。三位一体を否定するのは、美しさと輝きとユーモアを神に否定することだとバルトも言う。三位一体は聖書のいろいろな箇所に垣間見られるが、キリストの霊によってはじめて私たちにはっきりとあらわされた神秘である。私たちは今日の日曜日、その交わりの測り知れない美しさに憧れ感謝して賛美する。 
 ABCの三つの年の朗読箇所にはそれぞれのニュアンスがあるが、今年のC年のヨハネによる福音書の箇所では、三位一体の中の聖霊の働きに力点が置かれている。 
 第一に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。私たちの目はこの世の美しさと同時に苦しみに捕えられているが、まだ見えない新しい世界を霊が私たちに前もって見せてくれる。私たちにはつぼみだけ見えているが、すでに咲いている薔薇の花を霊が前もって私たちに話してくれる。だから、この世の苦しみにあっても私たちは霊の力によってすでに天国を味わうことができる。私がそれを聞くなら、神の国がすでにこの世にあるような経験が可能になっていく。
 第二に、「[霊は]わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(16:14)。この言葉からも、霊がキリストの霊であり、三位一体の中に分かち合いと交わりがあることがよくわかる。そして、三位一体から愛と真実が溢れ、ちょうど川のように私たちに向かって流れてくるとヨハネはキリストの言葉で私たちに伝える。愛はキリストの霊によって私たちの方に運ばれ、私たちはキリストの霊によって三位一体の中に運ばれ、同じ命を生きる。キリストは人間であり神であるから、そういうコミュニケーションができる橋になる。
 聖書によると、人間は神の似姿として造られた。それは、能力と意志が人間にあるというだけでなく、三位一体のイメージで造られたという意味だ。だから、数年前に話題になったように、ベネディクト16世も、人間のDNAは三位一体だと言った。別の言葉で言えば、たとえ能力がなくても、また口で言わなくても祈りを唱えなくても、人と交わり、人の苦しみを減らし喜びを増やす役割を果たして自分の周りに愛を注ぐなら、それが三位一体を信じることなのだ。「あなたが愛の行ないを見るなら、三位一体を見るvides Trinitatem, si caritatem vides」(アウグスティヌス『三位一体論』第8巻第8章第12節 )。 愛は口先の事柄、哲学的なことではない。逆に無神論者とは神を頭で否定する人ではなく、交わりを断り邪魔して、自分の周りに氷を張る人のことである。
 それで私たちはなぜ、人に愛される時、幸せかがわかる。私たちの中に流れる三位一体的な愛は、人間の本当の召し出しだから。そのために私たちは造られたから。孤独の原因は私たちの中にその愛がないところにある。その三位一体の愛は今キリストの霊によって、教会の秘跡、特に聖体の秘跡によって私たちの中に注がれる。今日は私たちがその神秘を感謝と喜びとともに祝う日曜日。

2016年

5月

29日

キリストの聖体

すべての人が食べて満腹した。(ルカ 9:17より)

 キリストの聖体の祭日は、カトリック信者に親しまれた大切な祭日。さまざまな神学的理由のためだけでなく、この祭日が世に自分たちの信仰を証しする機会だからだ。 
 半面、聖体の祭日には、観想的神秘的で、アニマ(女性の魂)的なところもある。そもそもこの祭日が始まったのは一人の女性から。それは13世紀ベルギーの聖ジュリアーナだ。彼女は子供の頃から聖体に対して深い信心を抱き、あるヴィジョンを受けて、友だちに話し、少しずつ司教から認められる。そのうち、その司教がパパ様になり、その後すぐではなかったものの、聖体の祭日が定められた(詳しくはこちら)。とにかく一人の女性の体験――幼子を抱く聖母マリアのようにイエスの体への愛情を込めた関わりー―がカトリック教会全体の体験になった。聖ジュリアーナだけでなく、例えばライン川神秘主義の有名な女性神秘家たちは聖体の霊性に非常に敏感だった。アヴィラの聖テレジアもイエスの人間性に深い感動を抱いていた。シエナの聖カタリナの手紙にもイエスの血についての有名な箇所がある。

 

*教会の歴史の中で13世紀は聖体の信心にもっともすばらしい表現を与えた。さまざまな讃歌や絵画、大聖堂や教会堂がそうである。

 

 今日の祭日のために教会が選んだ三つの朗読はどれも簡単に見えるが、理解や黙想、祈りや礼拝のために、溢れるほど豊かな神学的霊的テーマを含んでいる。
 第一朗読は、メルキセデクの物語。どこから来たかもわからない異邦人の祭司メルキセデクがアブラハムを祝福し、パンとぶどう酒を神に捧げる。神と民を仲介する祭司がイスラエルにまだいない何百年も昔のことである。この不思議な物語を教会は聖体の予型として読む。
 第二朗読は、最後の晩餐についてのパウロの記録。イエスの体についての初代教会の考え方がわかる大切な箇所である。
 福音朗読は、四つの福音書に豊富に報告されているパンの増やしの出来事。ただし、この箇所は奇跡についての単純な報告ではない。ルカは奇跡という言葉も使わないし、この箇所を外面的に読めばさまざまな矛盾がある。神学者であるルカはさまざまなヒントを使って、文字通りの出来事より深いことを私たちに言いたいのだ。そのヒントをざっと挙げると以下の通りだ。
1.「満腹した」(17節)はマナを食べて「満腹する」(出エジプト記16章)出来事を示唆。2.同様に、食べて満腹しない食べ物に対して満腹する食べ物(イザヤ55章)を示唆。3.同様に、エリヤのパンを焼く壺の粉がなくならない出来事(列王記上17章)を示唆。4.「人里離れた所」(12節)は、イスラエルの民がさまよった荒野を示唆。イエスの後を追った群衆もイスラエルの民のように自由を求めていた。5.「そのようにして[=イエスが言ったことを行って]」(15節)はモーセが預言する預言者(申命記18章)を示唆。6.「日が傾きかけた」(12節)は、エマオ(24:29)を示唆。7.「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して」(16節)は、イエスが復活後に弟子たちにすること(24:30) を示唆。8.「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちはイエスの言葉がパンであることがまだわかっていない。
 以上の点を考え合わせると、ルカは旧約聖書の大切なテーマを連想させて神学的な話をしたいのではないかという印象を受ける。
 もう一つ強く出て来るのは共同体のテーマ。そのパンを食べるのは一人ではなく、「50人ぐらいずつ」座っていっしょに食べる。孤独な人のパンではなく、共同体のパンである。50人とは、初代キリスト教の時代、まだ教会堂がなく、使徒たちの誰か金持ちの家に集まっていた時の信者の数かもしれない。ルカは、イエスの復活の後、初代教会を経験した上でこの出来事を物語っている。
 また、「魚」は初代キリスト教にとってはイエスのことだった。つまり、ルカはすでに聖体の神学を作っている。
 結局、教会にとってイエスの体は何か。なぜイエスの体を拝み祝うのか。イエスの体とは第一に、イエス自身の体である。そして、ルカが語るイエスは復活前のイエスではなく、復活で経験されたイエスである。だから、その体は、本当の人間でありながら神であるイエスの体である。第二に、そのパンとぶどう酒がイエスの体である。一千数百年後に神学者は、実体が変化したと説明するが、とにかくそのパンとぶどう酒はただの内面的な思い出ではなく、本当のキリストの体である。第三に、教会がイエスの体である。復活したイエスはその体の頭である。私たちが祝うのは、以上の三つを合わせた神秘である。それによって、神は私たちの日常生活の中に入り、私たちの歴史の中に入る。それは新しい生活の始まりである。
 五つのパンと二つの魚という物質的なことはそこに神が入るからこそ、5,000人の人たちの食べ物になることができる。ここに私たちの日常生活の可能性が示されている。つまらない私たちでも、イエスを信じ、自分の生活をイエスに預けると、多くの人の命になることができる。これは多くの聖人たちの経験だ。例えば、アシジのフランシスコは特定の時代に生きた人にすぎないが、自分の命をイエスに預けたから、今でも世に神の子を作ることができる。あるいは、私たちの苦しみや生活の困難はキリストの手に預けるなら、人の慰め、人の力、人の命になることもできる。司祭が告解の中で人に赦しの言葉を与えると、神がその人を赦す。一般の人にも慰めの言葉を与えると、寂しさから人を救い出して、新しい生活に移り、生きて行くことができる。私たちのつまらない生活がキリストの手の中で溢れるほど豊かなものになる。
 今日私たちは聖体を祝うことによって、神がキリストによって私たちに与えられたこのような可能性を喜ぶのだ。

2016年

6月

05日

年間第10主日

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカ7:13より)

 ナインの女。すでに夫を失っていたが、今また子どもを失う。言葉で言い表せないほど大きな苦しみ。こんにちもこうした出来事が私たちの耳に届く。
 なぜ苦しみが罪のない弱い人に降りかかるのか。他のさまざまな宗教と違い、聖書には、苦しみがなぜあるかという問いへの答えは見当たらない。聖書は哲学の本ではない。しかし、福音書には、苦しむ人に対するイエスの態度がはっきり出ている。

 

 イエスがさまざまな人の苦しみに出会うとき、聖書ではよく三つの言葉が使われる。1.「憐れに思い」。2.「近づいて」。3.「手を触れ」。この三つの言葉がイエスの態度を表現する。

 

 1.「憐れに思い」――聖書では、「スプランクニゾマイ」、はらわたが痛むという意味の特別な言葉が使われている。イエスは人の涙を見て、憐れみに深く打たれ、その人の傷で自分自身傷つけられ、その痛みを自分の痛みにする。イエスは人の目を深く覗いて、その苦しみと、また希望をも見てとることができるのだ。

 

 2.「近づいて」。人の苦しみを知るにはただ一つの方法しかない。立ち止まって、身を低くして、膝まづいて、近くから見るしかない。子供がするように、また恋人がするように、すぐ近くから相手の顔、相手の目を見、相手の声を聞くしかない。隠された苦しみのある人のそばにいるのが新しい愛の始まりであり、新しい世界の始まりだ。

 

 ルカの福音書の今日の箇所で、苦しんでいるこの女性は、他の人以上に宗教的な人ではない。神に向かって祈るとは何も書かれていない。祈りで何かを頼むことも、イエスの名も口にすることも、イエスを呼び求めることもせず、ただ苦しんでいるだけだ。イエスが打たれたのは彼女の祈りではなく、彼女の苦しみだ。その苦しみこそがイエスにとって祈りである。イエスはその涙に打たれ、その女性に近づく――母親が子供に近づくように。

 

 3.「手を触れ」。深く心を動かされるときイエスは必ず手を伸ばす。感染する重い皮膚病にかかった人であっても、盲人であっても、ナインの若者の棺桶であっても。それは簡単なことではない。イエスが手で触れるのは深い意味があるジェスチャーだ。
 イエスは手で触れて言葉を語る、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「起きる」とは「復活する」と同じ言葉。さらに、ルカは復活したイエスが「上げられた」と言うが、それも同じ言葉である(復活は、死と命、下と上という二つのイメージで表現される)。棺桶から起き上がるのは復活を意味し、イエスの復活がそこに込められている。「主」という言葉がルカの福音書でこの箇所ではじめて使われている。イエスは命をもたらす主なのだ。

 

 イエスは母親とその愛情に子供を返し、人々は大預言者が現れたと賛美する。イエスは、私たちの世界の至るところにあるナインの村に入り苦しんでいる人のそばに現れる憐みの預言者であることをルカは宣言する。

 

 隣人とは誰かと問われたとき、苦しんでいる人のそばに立ち止まって手を伸ばす人がその人だとイエスは言う。ぼんやりした宗教者、神殿のことを心配して人に気がつかない宗教者より、手を伸ばす人が。夜が一番星で始まるように、イエスの新しい世界はよきサマリア人であるイエスの業で始まる。

 

 神は私たちに対してもその奇跡を行う。奇跡と言っても、苦しみから一時的に立ち直る奇跡ではない。苦しんでいる人に気づき、その人のそばに立ち止まって、その苦しみを自分に引き受ける恵みを神は与えてくださるのだ。

画像は、17世紀フランス古典主義ウスターシュ・ル・シュウールの弟子による「やもめの息子の復活」。


2016年

6月

12日

年間第11主日

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカ7:47より)

 イエスの憐れみの書記と呼ばれる福音記者ルカ。イエスと罪人の出会いの物語に惹かれる彼は第7章で、非常に魅力的なエピソードを物語る。それはルカだけが伝える物語である。普通、ルカはマルコ福音書を使って、その一つ一つのエピソードに独自の視点を付け加えるが、この物語はきっとルカがパウロといっしょにあちこち布教に歩き回っていた時にどこかの地方で聞いたものだろう。それはもてなしの物語であるが、その中には、入れ子の箱のように、一つの短いたとえ話も入れられている。その宝物を取り出してもいいし、入れ物もまた美しい。

 その日は安息日だったかもしれない。当時、会堂での説教の後、説教をした人を金持ちなどが家に招いて交流するという習慣があったが、ファリサイ派シモンもそうだったのだろうか。彼はイエスに関心を抱いてはいるだろうが、イエスが自分の家に来てもそんなに感激はしない。イエスの話に感動したからではなく、彼についてもっと調べるために招いたのだろう。イエスが本物の預言者かどうか知りたかったのではないか。当時の習慣は、そんな時は、男性ばかりで中庭で食事をしながら、神学的な質問をしていた。ただ、ドアは開けたままで、通りかかる人が覗くこともできた。イエスが家に入ったことは名誉にもなっただろう。

 そこに突然、一人の女性が突風のように入ってきて、イエスに向かう。罪人の女とルカ自身も言う。涙、香油(マッサージ用)、接吻など、明らかに大げさな振る舞いだ。それを受け入れるイエスはシモンにとってスキャンダルとなる。彼が使う言葉「触れている」はギリシア語ではエロス的なニュアンスもある。だから、イエスが預言者であることにシモンは疑問を抱く。

 さて、イエスはどうするか。彼はいつものように、ファリサイ派のシモンにも愛情を示し、教育的に説明しようとする。そして、短いたとえ話を使う。500デナリオンは労働者の2年間の賃金、50デナリオンは2ヶ月ほどの賃金に当たるから、大きな違いである。

 福音書には具体的に書かれていないが、このたとえ話を聞いて私たちが想像するのは、この女性が大きな罪を赦されたということ。だから、彼女の振る舞いは懺悔というよりも、罪を赦された感謝であり、新しい愛を発見した喜びである。それに対して、シモンは罪がないかもしれないが、道徳的に立派な人がもつ鈍感さ、厳しさ、残酷さという病気にかかっている。当時も今日も、宗教を掟の連続と理解する人はこの病気にかかっている。彼は自分が正しいと考えて、すべてを自分を基準として判断する。そして、彼女が救われて喜んでいるということに無感動である――放蕩息子のたとえ話に出て来る兄のように。

 そこでイエスは、この二人の迎え方を徹底的に比較する。イエスに赦された罪人は、大袈裟なほどの愛情をイエスに返す。大きな罪を犯した人は、大きな聖人になるのだ。

 この物語は放蕩息子のたとえ話と同じように、結末がわからない。罪人の女が、後に出てくる、使徒たちといっしょにいる婦人たちの一人になったかどうかわからない。頑固なシモンたちがイエスを受け容れるようになったかどうかもわからない。

 しかし、ルカがこの物語で私たちに言いたいのは、まず第一に、イエスが本当の預言者であり、彼によって、父である神の憐れみが私たちに知らされたことである。第二に、この女性の態度が、イエスに従う人の模範であることである。つまり、1.喜びの涙(悲しみの涙ではなく)。自分の罪を認めるが、自分に絶望するのではなく、罪を手放して、自分が生かされることを知った喜びの涙。2.イエスの足もとにひざまずくこと。つまり、イエスを拝むこと。3.髪を使ってイエスの足を拭うこと。つまり、罪の道具であったものが神を受け容れる道具となる。パパ様も最近、司祭のための黙想会で、私たちの罪は神の憐れみの受け皿だと言った。本当のキリストの弟子は罪を犯していない人ではなく、赦された人であり、赦されたからこそ人を赦すことができる、と。

  イエスを本当に知ったしるしは、自分にとって一番大切なものをすべてイエスに捧げ、皆の前でイエスを公に告白することである。彼女にとってイエスの足への接吻がそうだった。その結果は、赦しと癒しと平和である。

画像は、アンドレイ・ミロノフ「キリストと罪深い女」、2011年、Wikimedia Commons


2016年

6月

19日

年間第12主日

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(ルカによる福音書9・22)

 今日の箇所の冒頭でルカは、祈っているイエスの姿を伝える。みんながいる中でイエスは一人で祈っていたと。ルカは他の福音記者以上に祈るイエスについて伝える。マルコ福音書では3回だが、ルカの福音書には7回祈るイエスが出て来る。それはいつも大切な時だ。つまり、ルカはただ、祈りは大切だ、イエスが祈っていたから私たちも祈りましょうとだけ言いたいのではなく、祈りの後で起こることを強調したいのだ(たとえば、洗礼など)。祈りとは父とのあいだに完全な一致を体験することだから、ここでルカが言いたいのは、イエスがこれから言う言葉が父なる神からの言葉であるということ。年間の日曜日ではあるが、今日のイエスの言葉は重大な啓示なのだ。さらに、次の日曜日の福音書には、イエスがエルサレムに向かう決意を固めるということが出ている。つまり、今日の箇所は、イエスの公生活の中で新しい時期が始まるという重要な時なのだ。

 

 今日の福音は、大きく言えば二つに分かれている。一つは、イエスとはだれか。それはこれまでの結論でもある。もう一つは、イエスに従うとはどういうことか。これについては、次の日曜日の箇所で具体的に述べられる。

 

 イエスは弟子たちに質問する、「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」。そう質問するのは、彼が自分の評判を気にかけているからではなく、弟子たちを教育したいからである。それはまた、私たちへの質問でもある。私たちにとってイエスは何者か。私たちは今日何を求めてミサに来たのか。

 

 イエスの質問に対して、さまざまな答えが返ってくる。エリア、洗礼者ヨハネ、生き返った預言者など、みんな有名な人物だが、メシアではなく、メシアを準備する人物にすぎない。つまり、一般の人たちは、イエスをまだ理解せず、メシアと認めていないのだ。なぜか。彼らがもつメシアのイメージが間違っているから。結局、当時のユダヤ人たちは、敵に打ち勝ち、ユダヤ民族を解放し、正義を実現する、権力ある者というメシアのイメージをもっていた。彼らは、自分たちの要求を満たすメシアを待っていたのだ。それは、日本語で言えば、「苦しい時の神頼み」であり、病気の時など自分の力が足りない時に頼る神である。それは本当の神ではなく、自分たちの権力や富のための神である。

 

 次にイエスは弟子たち自身に質問する、3年間私といっしょにいていろいろなことを見たあなたたちはどう思うかと。この質問も弟子たちを教育するためである。そのとき、ペトロがみんなを代表して答える、あなたはメシアと。これは外面的には正しい。しかし、ペトロも最終的には、一般の人たちと同じように、権力や富を求めるメンテリティをもっている。そして、敵に対して権力をふるい王になるために来るという間違ったメシアのイメージをもっている。私たちが公教要理を習って口先で正しいことを言っても中身を理解しないなら、それと同じことだ。または、ミサに参加しても、意味を考えないままに、祈りを繰り返すなら、それと同じことだ。
 そこでイエスは弟子たちを戒める。ここでルカが使っている言葉はエピティマウであり、悪魔を追い払う言葉である。権力や富のためにメシアを求める考え方は神からではなく、悪魔から来るからだ。また、「だれにも話さないように命じ」るのは、秘密にするためではなく、弟子たちが理解していないからである。

 

 そして、今日のポイントだが、イエスは弟子たちがわからない大切なことを啓示する。「人の子」という表現は新約聖書で90回ほど使われているが、完全な基準になる生き方をしている人、模範的人間、本当の人間という意味である。「人の子」という表現でイエスは、自分がそのような基準であることを宣言する。「多くの苦しみを受け」――これは苦しみの大切さを説いているわけではない。金、権力、常識などを基準とする「長老、祭司長、律法学者」から、そのような世間的(そして非人間的)なメンタリティーとはまったく違うメンタリティーが反発を受けるのは当然だということ。

 

 そして、イエスは自分の後に歩む人についても触れる。「自分を捨てて」。イエスの後に歩む人は、権力を求めるのではなく、奉仕する人である。つまり、世間的な考え方を捨てる人である。だから、イエスの弟子になるのは、それまでの考え方の延長ではない。例えば、信者になる人がいろいろ勉強しても、洗礼を受けてミサに行っても、祈りをしても、さまざまな行事に参加しても、メンタリティーが同じままでは、「自分を捨てて」イエスの後に歩んでいるとは言えない。水で洗礼を受けるだけ、口で祈りを唱えるだけではなく、生活の中で起こるすべてのことについて、何が大切で何が大切でないか、キリストを基準として判断しなければ、キリストを信じているとは言えない。

 

 「日々」。例えば殉教者など特別な時に、十字架を選ぶということもある。しかし、大きな出来事だけではなく、目立たない日々の生活の中で、忍耐や対話、再出発や非暴力によって十字架を選ぶことがここで言われている。

 

 今日のイエスの言葉は、当時の弟子たちにとっても、こんにちの私たちにとってもショッキングである。私たちは、褒められたり尊敬されたり、有名になったり、えらくなることを自然に求める。私たちはみんな神になりたいのだ。しかし、イエスが私たちに手渡すレシピは正反対だ。私たちは主人になるためではなく、奉仕者になるための召し出しを受けている。宣伝に踊らされてカメラの前で生活するためじゃなく、却って隠れたところで働くのがキリスト者の召し出しである。

 

 このような考えから、いろいろなことを見直すことができるだろう。たとえば治療不可能な病気にかかっている時、人から見捨てられる時、または自分の弱さを感じる時――そんな時こそ、隠れたところで奉仕者になる大切な機会である。なぜか。それがイエスの道だったから。そして、イエスは言う、私のために命を捨てた人は命を見つけると。

画像は、ディエゴ・ベラスケス「キリストの磔刑」、1632年、プラド美術館。


2016年

6月

26日

年間第13主日

あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。(ルカによる福音書9・57)

 よく知られているように、ルカはマルコ福音書をもとにして、パウロとの旅などで自分で調べて確かめたものを自分の福音書の中に入れる。今日の箇所から始まる部分(9章から19章まで)はそうしたルカ独特のものがまとめられており、ルカ福音書では一番ルカらしい部分である。 
 ルカは一方で神学者だ。イエスのいろんな出来事を記録するだけでなく、旧約聖書との関連など出来事の深い意味を私たちに伝えたい。もう一方で、ルカは宣教師だ。自身ギリシア人であり、ユダヤ人でない人たちに向かってイエスを知らせたい。そのために、彼らが理解しやすい様式を使う。ギリシア神話を通じて神々が人間の世界に来ることに聞き慣れていた人たちに向かって、ルカはイエスがエルサレムに向かう一つの長い旅を構成する。その旅ではいろいろな出来事が起こり、イエスの有名なたとえ話や有名なジェスチャーも出て来る。それはエルサレムで殺されるイエスの遺言でもある。今日はその大切な旅の始まりだ。 
 はじめに、イエスの決心がある。ルカは、旧約聖書を使って、イエスは顔を硬く(エゼキエル3・8)したと表現する。この旅は十字架で終わる。 
 先週の日曜日はイエスは誰かがテーマだったが、次に出て来るテーマは、イエスの弟子は一体どういう者かということ。 
 結論を先に言うと、イエスの弟子とは、イエスとともに歩む人だ。ルカはギリシア語のsyn(ともに)という接頭語を好んで使う。イエスの弟子とは、哲学者の教えとか、前のファリサイ派シモンや放蕩息子の兄のように厳しい掟を罪人に押し付けるのではなく、イエスを規準にして生きる人だ。掟は決まったことだが、イエスの弟子はイエスとともに旅をすることで、いろいろなことがわかって成長していく。
 旅立ちの時に目立つのは、ルカが不思議なことに、サマリア人に対していつも寛大だということ。サマリア人はユダヤ人からは異端者であり、いろいろ問題であったが、ルカは、善きサマリア人のたとえ話や、らい病を癒されたサマリア人からわかるようにサマリア人を軽蔑しない。
 今日の箇所で弟子たちはイエスの訪問を準備するためにサマリアの村に行くが、きっとイエスの旅の本当の意味がわかっていない。弟子たちはイエスがエルサレムに行くのは神の国の王になるためとまだ思っていた。きっとそう宣伝して、反発を受けたのだろう。ルカは、イエスが最初にナザレで理解されなかったのと同じように、エルサレムへの旅でも反発を受けたことを伝える。ただ大切なのは、イエスの態度が弟子たちと違っていること。弟子たちは暴力を振るおうとするが、イエスにはそれがない。イエスは、前にファリサイ派シモンとの口論でもそうだったように、愛情を込めた柔和な形で自分の道を開始する。ベネディクト16世も言うように、キリストは憧れで人を引きつける。キリスト教の布教は地獄で脅すのではなく、人を誘うのだ。
 次に続くのは、三人の弟子の小さな例だ。 
 1.ある人がどこへでもイエスに従うと言う。「枕する所もない」とイエスは答えるが、実際にイエスにはいろいろな友だちがいて、泊まるところ、世話を受けるところがあった。この言葉でイエスが示したいのは弟子の心だ。イエスの弟子は、固いものではなく、新しさを求める。自分を変えない人、前に向かって進まない人はイエスにふさわしくない。 
2.旧約では、父を葬るのは大切で、最高の義務だった。しかし、イエスが言うのは、今までの生活に祈りとか行事を足すというだけではなく、心を根本的に変えることをめざさないといけないということ。 
3.「後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。神の国は、人間の作った法律、掟、イデオロギーではなく、神から来る恵みを中心とするのだ。

画像は、ジェームズ・ティソ「イエスと弟子たちの語り合い」、1886-1894年、ブルックリン美術館。


2016年

7月

03日

年間第14主日

行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10・3より)

 主日のミサでは第一朗読と福音朗読に深い関連があるが、今日の関連は特に印象的である。第一朗読でイザヤは、絶望する民に向かって希望を語り、平和がいずれ川のように流れてくると約束するが、福音朗読でその平和が訪れる時が伝えられる。その平和は神の国であり、最終的にはキリストである。第一朗読では、赤ちゃんを膝の上に載せてかわいがり、乳房で養うやさしい母親のイメージで神の国の平和が預言されるが、その預言がキリスト自身によって実現されるのが福音朗読である。
 イエスとは誰かをテーマとする先々週の箇所、イエスの弟子になるとはどういうことかをテーマとする先週の箇所に続いて、ルカは今日の箇所で弟子のあり方をもっと具体的に説明する。今日の箇所は、イエスの弟子になるには何が必要かを知るために大切なページであり、宣教師である私たちみんなが注目すべきページである。長い箇所からいくつかの点をよく見てみよう。 
1.まず目につくのは72人の弟子たち。ルカによる福音書に突然出て来て、消えてしまう。この72人についてはルカ福音書の他の箇所にも、他の福音書にも出てこない。イエスが72人もの弟子の面倒を見るとは実際問題としても考えにくい。何のことか。
 出来事を集めてまとめるだけではなく、出来事の下にある意味を私たちに伝えようとする神学者ルカ。今日の箇所で、主という言葉を使っている。主とは、ナザレのイエスというだけではなく、復活したイエスを意味する。当時、大勢の人たちが復活した主に呼ばれ送られてあちこちで宣教を始めていた。12人の使徒たちはイスラエルに派遣されたが、ルカが意識したのはイエスのメッセージはユダヤ人のためだけではなく、全世界の人のためのものだということ。そして、72人の弟子の派遣について書いたのだ。当時の人々は世界には70の国があると考えていたし、旧約聖書のギリシア語訳は七十人訳と呼ばれる。
 その頃すでに、イエスに会った人たちがその喜びを人に伝えるために歩き回っていたが、今で言う公教要理も神学も教会の組織もまだなかったから、いろんな問題が出てきていた。ユダヤ人でない人たちにキリストのメッセージを伝えるためにどうしたらいいか。どういう態度をとったらいいか?受け容れられる時はどうしたらいいか、拒否されるときは?ルカは初代キリスト教の信者たちのこのような問題に答えて、今日のページをまとめたわけである。キリスト教はヨーロッパから一番遠い日本まで伝えられたが、世界のいろいろな国やいろいろな民族でどう宣教したらよいかはこんにちの私たちの問題でもあるから、今日のページは私たちにとっても大切である。
2.「二人ずつ」。なぜ二人か。これは大切な点である。旧約聖書の世界では、証人であるためには一人では十分ではなく、二人が必要だった。キリストの証人も同じである。私たちは自分の勝手な考え方を宣教するのではなく、教会の一員としてキリストを伝えるのだ。例えば司祭は説教の時に自分の考え方を言うのではない。司祭の一番大切な役割は神の言葉を、そして教会の心を忠実に伝えること。また今の教会は司祭だけではなく、信者も教会のなかでいろいろな役割や任務を担うが、大切なのは、たとえば集まりの時も自分の考え方がどうであるかではなく、教会がどう考えるかだ。教会の心を知らなければ、私たちは宣教のあり方を理解することもできない。教義的なことについて、または具体的なことについて教会の心を知り大切にするのが、私たちの第一の義務だ。 
3.「先に」。宣教師は何をするために送られるのか。ルカが言うのはイエスの訪れを準備するためだ。私たちが送られるのは準備するため。宣教の主人公は宣教師でも司祭でもシスターでもない、キリスト者でもなく、キリストである。キリストが大きくなって自分は消えてしまうのがミッションの役割。自分を中心にするのではなく、キリストを伝えること。キリストに人を導き、自分は引き上げること――それがキリスト者の本当の宣教である。洗礼者ヨハネが最後に、自分の弟子をイエスに送って、自分は消えたように。
4.「収穫は多いが、働き手が少ない」。宣教には、種を蒔くというイメージがある。宣教師がどこかに行って、まだキリスト教について何も知らない人に説教するというイメージ。しかし、聖書ではそうではない。蒔く人はずっと前から働いている。私たちがキリスト教を知らない人に会うとき、ゼロから始まるのではなく、ずっと前から神が働いているところで出会うのだ。例えば、キリスト教はザビエルよりずっと早く日本に伝わっている。日本神話の表現で言えば「天地初発之時(あまつちのはじめのとき)」から神は働いているからだ。ザビエルは一番最初の宣教師ではなく、収穫を始めるために来たのだ。私たちがキリストに出会ったと思った時は、ずっと前から神が私たちを導いていたことがわかる。私たちがキリストに出会う時、それまでの生活も意味があったこと、神から呼びかけがあったことがわかる。神は最初からずっと、聖書の言葉で言うと生まれる前から、私を愛していたのだと。
5.「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」。このたとえはわかりやすい。狼は恐ろしい動物で、羊は動物の中で一番無防御だ。だから、自分を守るために何もせず殺されたキリストは子羊に例えられる。イエスの世界の中に暴力はなく、罪人を脅していじめることはない。今日の第一朗読にあるやさしい母親のような神、私たちが離れる時も待ち続ける放蕩息子の父親のような神、狼としてではなく子羊として羊を救う神をイエスは私たちに宣言する。イエスは宣教にも柔和な道具を使うのだ。
6.「途中でだれにも挨拶をするな」。これは、根本的なことを大切にしなさいということ。信心などキリスト教の2000年の歴史にはいろいろなことがあるが、洗礼を受けて信者になってから大切なのは、イエスの教え、イエスの言葉、イエス自身をつかむこと。パパ様が最近繰り返すように、キリスト教には大切なことと、そうでないことがある。共同体の中の喧嘩はそれがわからないから生まれる。大切なことを大切にするのが大切で、それが成熟した大人の信仰だ。
7.「家から家へと渡り歩くな」。パパ様は司教たちにも言うらしい、他のもっと大きな教区を狙わず、今自分が働いているところで働きなさい、野心なしで働くように。それがキリスト者の道なのだ。
8.「迎え入れられなければ」。平和を届けるのに、人から差別され、拒否され、見捨てられて、殺されるのは、非常に悲しいが、ルカは厳しい言葉を言う。それは大切なことではない、足についたほこりも捨てて次の段階に移りなさいと。
9.「七十二人は喜んで帰って」。宣教の成功を喜ぶ弟子たちの態度はかわいい。宣教師も信仰が伝わるとうれしく感じる。でも、大切なのはそのうれしさではなく、成功でもない。成功のない時もあるのだ。成功したからではなく、「あなたがたの名前が天に記されていること」。これはすばらしい。神は私たちのことを一切忘れない。
 自分の家族、自分の国を離れて生活する宣教師は羊のように弱い。みんなから攻撃されても、自分を防御することもできない。そこでイエスは言う。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10・42)

2016年

7月

10日

年間第15主日

旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)

 先週の福音書と今週の福音書のあいだで一つの箇所が省かれている。先週の箇所では、弟子たちが布教から戻って、自分たちの行いなどをイエスに報告していた。しかし省かれた箇所によると、その時イエスは父なる神に向かって喜びにあふれて感謝の祈りをする。だから、よい雰囲気だったが、今日の箇所で突然、難しい問題が投げかけられる。 
 今日の箇所は、ルカ福音書の中でも非常に有名であり、私たちにも慰めにも知恵にもなる箇所であり、二つの質問からできている。 
 「律法の専門家」。イスラエルの掟はもともと10しかなかった(十戒)が、律法学者は10の掟から613の掟を作りだした。彼らにとっては掟が中心であり、それについて議論し合い、自分たちの利益のためには基本的なことも無視し、律法について無学な人を軽蔑していた。 
 「試そうとして」。その人は、イエスが考えを知ることにではなく、イエスの弱点を見つけることに関心があった。 
 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。今日の箇所のポイントとなる二つの質問のうちの第一の質問だ。表現は違うが、どの掟が大切かを尋ねる質問である。 
 律法学者たちとイエスには大きな違いがある。彼らは掟を増やすのが趣味だが、イエスは逆だ。いつも根本に立ち返り、神に遡る。今日の箇所でもそうだ。旧約聖書の二つの箇所を引き合いに出した律法学者を正しいと判断して、イエスは言う。 
 「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。これで、イエスを罠に落とそうとした人が逆に自分の罠に落ちることになる。試される立場だったイエスがその人を試す。その人は困って、ふたたび知るためよりも、逃げるために質問する。 
 「わたしの隣人とはだれですか」。これがポイントとなる第二の質問だ。これは律法学者たちにとって逃げるために便利な質問だった。彼らは当時多くのケースについて論じ合っていたが、その中には「ユダヤ人が道端で死にそうなサマリア人に会ったらどうしたらいいか」という問題があった。この問題に対する律法学者たちの解答は「触ってはいけない」だった。なぜなら、そのサマリア人は二つの理由で汚れているから。第一に、血がついているから。第二に、異端者であるから。つまり、律法学者たちの考えでは、助けるべき隣人は自分の家族や仲間、自分の民であって、そうでない異邦人は触れてはならない者だった。
 ここで印象的なのはイエスの逆転的な立場だ。イエスにとって隣人とは、仲間など自分の利益になる人ではない。苦しんでいる憐れな人、助けを必要としている人が隣人である。イエスは、7つの言葉でサマリア人のやさしさを記述する。「憐れに思い」「近寄って」「傷に油とぶどう酒を注ぎ」「包帯をして」「自分のろばに乗せ」「宿屋に連れて行って」「介抱した」。 
 イエスの返答は革命的であり、そのたとえ話はスキャンダルである。当時の宗教者はその神学のために神の御旨が見えなくなっていた。これに対してイエスは言う、憐れみが神の心だ、あなたもそうしなさいと。 
 教皇フランシスコはこの箇所を解釈して言う――エルサレムからエリコへの道で半殺しになっていた人がいたが、それは私だったと神は言う。お腹を空かしていた子供がいたが、それは私だったと神は言う。誰も受け容れようとしない難民は私だったと神は言う。誰も訪問しない老人ホームの老人は私だったと神は言う。病院に誰も見舞いに来なかった病人は私だったと神は言う。 
 名誉教皇ベネディクト16世にも今日のたとえ話について長いページがある。彼は言う――イエスの言葉を黙想した教父たちにとっては私たちの隣人になったのは誰よりもイエス自身だ。特にミサの時はキリストが中心だから、教父たちのこういう解釈はまちがっていない。 
 最後に、今の私たちの心にも深く響く言葉がある。エルサレムとエリコのあいだ、27kmの長いくだり道に、傷つけられた人をサマリア人が運んだと言われる場所が今でもある。その場所には、中世の一人の巡礼者が石に刻んだ素晴らしい言葉が残っている。その言葉はこうだ――たとえ大祭司とその家来のレビ人が苦しんでいるあなたを通りすぎるとしても、絶望するな。イエスが本物のよきサマリア人であることを知りなさい。イエスがあなたを憐れんで、臨終の時に必ず自分の永遠の宿に泊めてくれる。

画像は、ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵


2016年

7月

17日

年間第16主日

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ 10:41-42)

 今日の箇所はエルサレムへのイエスの旅の終着点近く、ベタニアでの小さなエピソードである。十字架上で殺される時は迫っており、イエスは多くの人に向かって話して宣教するより、自分の弟子の最後の教育をしようとしていた。
 マリアとマルタのエピソードは有名で、さまざまな解釈の歴史があるが、詳細な事実はわからない。昼の出来事か晩の出来事か、弟子は12人か72人かわからない。とにかく大勢の人が突然マルタの家に到着する。旅に疲れ、足も汚れていただろう。玄関も混雑しただろう。もてなすのはたいへんな仕事だ。そのもてなしをするマルタに私たちは同情してしまう。マルタのような人はこんにちも教会の中にいて、彼らが時間やお金や労力を費やして協力するのは、司祭にとっても信者にとってもありがたいことだ。 
 イエス自身も福音書の他の箇所にある通り、マルタのような人たちから助けられた。彼らは財産をイエスに差し出したし、衣服の洗濯などでも協力したことだろう。パウロもそのような人たちに対する感謝の言葉を手紙の最後によく書いている。彼らはさまざまな形でパウロの宣教を手伝った。そのような協力はありがたいことには違いない。 
 ただ、今日のエピソードには、予期しない逆転がある。イエスはマルタに対して厳しい言葉を言うのだ。イエスのその言葉を読んで和らげようと努力する解釈者もいる。イエスはそんなことを言いたくなかったと。しかし、そうではない。ルカがこのエピソードを伝えるのは、ルカ自身にとっても衝撃的な言葉がその中にあったからだ。 
 マルタはイエスに褒めてもらえると思っていたのに、返ってきたのは冷水のような不親切な言葉だった。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。言い換えると、あなたのものの考え方は間違っているということだ。「思い悩む」という訳はおもしろい。考え方に何か問題があって、その考え方からあなたは苦労しているということ。つまり、イエスの診断では、外面的な態度の裏に心の病気があり、大きな変化が必要だということ。「マリアは良い方を選んだ」。つまり、マルタは悪い方を選んだということ。ルカはマルタの反応について何も書いていないが、マルタは当然ショックを受けただろう。 
 第一朗読でアブラハムは一生懸命マルタと同じことをして、最後は神から報われ、子どもが奇跡的に生まれるという知らせまで受ける。マルタのどこが問題だったのか。 
 この箇所を理解するためには識別が必要だ。マルタは、忙しさのためか、性格のためか、大きな勘違いをしてしまった――中心はイエスではなく、自分が中心だと。彼女は自分がもてなすことが大切だと思い、イエスが話をしているのに、その言葉を聞こうとはせず、イエスが誰かを知ろうともしない。つまり、自分がいい恰好をし自分に自信をつけるためにイエスの訪問を使おうとしているのだ。彼女は神が家を訪れたのに、自分のことで精一杯でわからない。イエスの周りをうろうろしているが、イエスといっしょにいる喜び、目の前に神が現れた喜びを感じていない。私たちのこんにちの生活に置き換えれば、貧しい人のためなど福祉活動を一生懸命やりはしても、自分は金持ちだからできると自慢したり、人を助ける自分はいい人だという意識をもったり、いいことをする自分を他人に見せたり、活動が上手だと褒めてもらおうとするようなものだ。
 結局、マルタは自分が神様の訪れを必要としていることすら気づかなかった。もてなすのは実際は自分ではなくて、イエスがその現存と言葉で彼女をもてなすのだと気づかなかった。イエス自身が神の言葉であることにマルタは気づいていない。その結果、ルカが示唆するように、彼女は不満で、疲れ、他の人の振る舞いでいらいらし、ちょっとノイローゼのようで、神であるイエスを叱るほどだ。弟子たちも舟の中で嵐に遭った時、イエスを叱る、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」(マルコ4・28)。彼らは神よりも自分の方が必要なことをわかっていると思っているのだ。
 はじめに述べたように、イエスは、自分の弟子はどうあるべきかを旅の中で教えていた。このエピソードでは、マリアが本当の弟子の姿を示している。「主の足もとに座って」。これが典型的な弟子の態度だ。「その話[=言葉]に聞き入っていた」。本当の弟子とは、たくさんの祈りをしたり善い行いに努める人ではなくて、まず第一に神の言葉に耳を傾ける人だ。神の言葉に耳を傾けるなら、神によってすべてが新しく創造される。そこから、命や喜び、聖霊のやさしさや愛が生まれる――ちょうどルカが福音書の別のページでイエスの母マリアについて書いているように。
 ルカがこのページによってとりあげるのは、教会の歴史の中でさまざまに議論されてきたように観想生活と活動生活のどちらがすぐれているかという問題ではなく、神の言葉を聞くことがどんな生活であれ弟子の生活の土台であるということだ。神の言葉を聞くことはどんな活動にも観想にも先になければならない。観想生活も「自力」ではなく、神の言葉を聞いて神から呼び出されることから始まるのだ。だから、マリアは、観想生活者であれ活動生活者であれ宣教師であれ、あらゆる信者の模範である。神の言葉を糧として私たちはキリスト者として成長する、たとえ罪人であっても。悪霊に取りつかれたゲラサの人が癒されたときイエスの足もとに座っていた(ルカ8・35)。だから癒された後の一番最初の段階はイエスの足もとに座ってその言葉を聞くことである。神の言葉を聞くことはキリスト者のあらゆる生活の土台なのだ。 
 活動生活も観想生活もいずれ終わる。年をとる時、病気になる時、続けることができない。けれども、神の言葉はキリスト者の土台として残る。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。

画像は、フラ・アンジェリコ「ゲッセマネの園のキリスト」、1450年、サン・マルコ修道院


2016年

7月

24日

年間第17主日

求めなさい。そうすれば、与えられる(ルカ11:9より)

 イエスの祈りを他の福音記者より強調するルカ。その福音書には7回、イエスの祈る姿が出て来る。イエスは、1.「洗礼を受けて」、2.重い皮膚病の人の癒しの後に「人里離れた所に退いて」、3.12人の使徒を選ぶ前に、4.「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねる前に、5.変容の時に、6.今日の箇所で、7.ゲッセマネで、祈っている。いくつかの短い祈りも出て来るが、非常に印象的で感動させられるのは、十字架上の二つの祈りだ。「父よ、彼らをお赦しください」(23・34)、そして最期に「わたしの霊を御手にゆだねます」(23・46)。ルカ福音書では、イエスの全生涯は祈りと結びつけられ、イエスは祈りのマイスター(達人、師)として描かれる。 
 今日の箇所は、ルカによるイエスの祈りのカテケージスと呼べる箇所だ。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子たちはイエスに、その祈りの秘密を顕すように願う。イエスがどう返事するかに私たちも大きな関心がある。なぜなら、私たちはどう祈ればいいかもわからないから(ローマの信徒への手紙8・26)。 
 そこでルカが短い形で私たちに紹介する主の祈りは、洗礼の時に荘厳な形で私たちに手渡される祈りであり、キリスト者にとって大切な宝物だ。注意すべきだが、祈りとは言っても、アヴェ・マリアの祈りやさまざまな意向の祈りのように一般の霊的な生活の中で使われる祈りとは違って、人間が作って口先で唱えるような祈りではない。それは、信仰宣言symbolumに並ぶべきものであり、イエスの生涯のコンパクトなまとめであり、祈りの形になった福音書である。父である神と私たちに対するイエスの関係を最高の形で表現する祈りであり、私たちの生活の中に溶かして効かせるべき薬のようなものだ。たとえば町を案内するガイドブックが小説のようにテーブルに座って読む本ではなく、知らない町の中を歩きながら行き先を知るための本であるように、主の祈りは、一般の祈りのように座って唱える祈りでなくて、未知の信仰世界の中に生活し、さまざまな出会いの中で生き方を習うための祈りである。この祈りに導かれて、私たちはこの世で神の子として生きることができるのだ。 
 イエスの返答の中では、三つの動詞が使われている。「求める(頼む、乞う)」「探す」「叩く(ノックする)」の三つだ。この三つの動詞を使って、祈りの忍耐が表現されている。祈り続けなければならない。求め続け、探し続け、叩き続けるなら、必ず叶えられる。神の答えるのが遅いのではなく、神の計画に心を合わせるのがなかなか難しいことだから。祈りがそのために役立つ。だから、気を落とさず、長い忍耐をもって、祈り続けるべきだとイエスは答える。癖だらけの人間の父でも自分の子供によいものを与えるなら、天の父は当然、賜物を自分の子供たちに与える。そして、父なる神からの祈りへの一番大きな報いが聖霊の賜物なのだ。
 ここからわかるのは、イエスにとって祈りがどういうものかだ。祈りとは、父なる神に自分たちの意志を押しつけて神を動かす道具ではなく、神の御旨(意志)に一つになって、その救いの計画に自分たちを委ねるための手段なのだ。だから、祈りとは、神頼みじゃなく、神の御旨に一つになること。「異邦人」の祈り、一般の祈りは、神を自分の思い通りになる奴隷のように扱うが、イエスの祈りは、子のような心を持って神とひとつになることだ。神の実の子であるイエスの教えた祈りによって、私たちも神の子として祈ることができる。 
 今日の箇所のたくさんのポイントの中で印象的なのは、イエスが使う一つの短いたとえ話だ。真夜中に訪れる友人に起きてパンを貸す人。つまり、人間は困ったときも見捨てられているのではなく、友人である神は、起きるのが遅く見えても、最終的に私たちに恵みをくださるのだ。私たちは神からの恵みを友人のために願うことができる。主の祈りで私たちは、自分の父であるだけでなく「わたしたちの父」である神に祈り、神の国が来るように祈り、人を赦すために祈る。イエスの祈りは自分一人のための祈りではなく、愛である神と私たちが愛する人のあいだにある祈りだ。イエスが教えたように祈る人たちは、愛の世界の中に生きている。 
 今日の日曜日は年に一度、主の祈りを学び直すように教会が私たちに勧める日曜日だ。洗礼を受ける時、私たちは主の祈りについて説明を受けたが、例えば『カトリック教会のカテキズム』を使って、そのすばらしいまとめを改めて勉強すればよいだろう。

画像は、ジェームズ・ティソ「主の祈り」、1886-1894年、ブルックリン美術館。


2016年

7月

31日

年間第18主日

人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15より)

 エルサレムに向かって少しずつ歩むイエスの長い旅。その最後の段階は、イエスがその独特の考え方を私たちに言い遺そうとする大切な時期だ。ほとんどは使徒たちに向かって語られるが、今日の箇所では皆に向かって語られる。 
 聖書を何度も読んでいると慣れてしまって、イエスの厳しい言葉も見逃しがちだが、今日のようにその厳しさがはっきり出て来る箇所もある。この箇所では特に二つの問題が感じられる。 
 1.イエスの話の途中で群衆の一人が言う。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。遺産の分配は当時もこんにちも難しい。兄弟喧嘩の原因にもなり、言葉を交わさない状態にさえなったりする。昔のヨーロッパもそうだが、当時は女性には結婚の持参金があったが、遺産相続は男性だけだった。そして土地は分けると価値がなくなるから、大体長男が土地を相続し、他の兄弟は金銭を相続する形だった。きっとその時に何かの問題があったのだろう。はっきりとは書かれていないが、おそらくその人は次男で、長男が遺産を全部自分のものにしようとしたのだろう。当時もこんにちもそんな場合、私たちは誰かに相談する。こんにちなら保証人や弁護士だが、当時はその村の長老や教師や宗教家など皆から尊敬され知恵のある人物に相談した。ヨーロッパでも昔は、司祭に相談するという習慣があった。だから、その人はイエスが話した時に、単純に自分の問題をイエスにぶつけたのだろう。尊敬される人物にそのような相談をするのは当時の習慣としては当たり前だった。 
 驚かされるのはイエスの返答だ。彼は怒っているようだ。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。私はまったく違う目的のために来た、と言いたいようだ。ここには厳しさが感じられる。ルカはここで何を伝えたいのか。 
2.もう一つの問題は、イエスのたとえ話の中にある。愚かな金持ちのたとえ話だ。ふつうに考えると、いい人だ。別に悪いことをせず、休まず一生懸命働いて、自分の畑の収穫のために働いてきたのだ。ある年は幸いに作物がたくさんできて、どうしたらいいかと考えて、蔵を壊してもっと大きいのを建てようと考える。こんにちに置き換えるなら、定年になって、それまでに貯めた金を使って楽しもうということだ。けれども、そこに「愚か」というイエスの厳しい言葉がある。イエスはなぜこの言葉を使ったのか。 
 この二つの問題について考えたい。 
1.イエスは質問に答える前にいつでも、自分が来た目的をはっきりさせる。ここでイエスが言いたいのは、こういう問題はあなたたちが自分で解決すべき問題だが、それを解決するためにあなたたちが忘れていることが一つあり、私はそれを思い出させるために来たということ。その一つのこととは「貪欲」だ。人間は金や名誉や権力に対して不完全な態度をとっている。イエスはいろいろなところでこのテーマに触れている。ヨハネの福音書にも「イエス御自身は彼らを信用されなかった。…何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2・24、25)とあるが、イエスは私たちの中にある基本的な弱さを知っていて、それに注目させたい。なぜか。それを解決しない限り、他の問題も解決することができないから。 
2.たとえ話で神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と言う。これは神の意地悪ではない。イエスの神は決して意地悪ではない。一生懸命働いた人を死なせるのはイエスの神ではない。イエスの神は罪びとさえ死なせない。イエスの神があわれみの神であることを私たちは十分に知っている。ここでイエスが言いたい大切なことは、私たちの人生が不安定な土台の上に立っているということ。それはもちろん、わざわざ神から言われなくても、私たちが目を開けばわかることだ。例えば、突然ガンを宣告され、余命を告げられる。あるいは災害や事故や戦争、名誉棄損や悪評など。私たちの人生は不安定な土台の上に立っていることをイエスは私たちに強く教えたい。
 人生の無常は仏教の根本的なテーマでもある。たとえば道元の有名な『正法眼蔵』では違ったたとえで同じテーマが表現されている。道元は人間を三頭の馬にたとえる。第一の馬は、鞭の音(死の知らせ)を遠くに聞くと、すぐ走り出す。第二の馬は、鞭の音を近くに聞いてはじめて走り出す。第三の一番鈍感な馬は、体に鞭を受けてはじめて走り出す。イエスのたとえ話にそっくりだ。私たちの財産、関係、名誉は儚いものだ。命でさえそうだ。いくら計画しても、私たちの寿命は短い。私たちの人生は不安定な土台に立っていることを知るべきだ。それを忘れてしまうとたいへんな間違いになる。

 

 では、どうすればいいか。今日の福音のポイントはそこにある。たとえ話の最後にイエスは言う、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。つまり、イエスによると、二つの世界がある。人間の世界と神の世界だ。そして、人間の世界と神の世界のあいだには税関があって、金をもって通過することができない。どういうことか。 
 もう一度たとえ話に戻ろう。その金持ちはなぜ愚かだったか。彼は孤独な人だ。この人の世界の中には自分以外に誰もいない。妻も子どもも友人も出て来ない。財産のためにきっと大勢の人たちを使っていたが、彼の考えの中にはぜんぜん出てこない。利己主義的な人で、自分のためにだけ働き富を積み大きな蔵を立てて自分の未来の幸せだけを望んでいる。これがイエスの言う愚かさだ。
 イエスは金持ちが嫌いではない。彼の生活を見れば、金持ちの人たちから何回も助けてもらい、何回も彼らの家に泊めてもらっている。だから、イエスは人が嫌いなのではなく、私たちの幸せのために大切なことを教えているのだ。富は神からのものだ。金があったり、才能があったり、権力があったり、社会の中で役割があったりするのはすべて神の賜物だ。ただそれは私たちのためではなく、人と分かち合うためのものだ。分かち合わないと、無駄に生きることになる。 
 自分のもっているものをどうしたらいいか。今日の日曜日、またはこの一週間考えてみたい。金であれ才能であれ時間であれ家であれ環境であれ自分のもっているものをどのように人のために使うか。どのように自分の生活を他人と分かち合うか。イエスは福音書のいろんなところでこのテーマに触れている。たとえば寄付をするときに「ラッパを吹き鳴らしてはならない」、または「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」などなど。そこに私たちの永遠の生命がかかっている。 
 私たちは裸で生まれて裸で死ぬ。この世で積んだものを天国にもっていくことはできないが、人と分かち合ったことは天国に入ることができる。イエスの一つのたとえ話にあるように、私たちが助けた貧しい人たちが天国で私たちを迎えに来て、父なる神に引き合わせ、私たちが彼らを助けたことを伝える。このことを大切にして一週間を過ごしたい。

2016年

8月

07日

年間第19主日

ともし火をともしていなさい。(ルカ12・35)

 今日の箇所は、エルサレムへのイエスの旅の続きだ。ただ、この箇所で、ルカは、その旅にもう一つの旅を重ねる。それはイエスの小さな群れの旅だ。イエスが死んで復活し昇天して見えなくなった教会の時代を生きるルカ。イエスの弟子たちはすでに迫害の苦しみを生きていた。ルカは、イエスの言葉にひっかけて、そんな彼らに向かって言うのだ、信頼しなさい、イエスは必ず帰って来る、と。 
 「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」。夜という時には人によってさまざまな意味がある。夜はすべてを忘れて体を休める時であったり、楽しみ喜ぶ時であったり。危険を避けて家に閉じこもる時であったり、過去を振り返り祈る時であったり。そして、初代キリスト教には、復活祭の夜にイエスが戻るという信仰があり、信者たちはその夜を徹夜して過ごした。当初は再臨はすぐに起こると考えられていたが、イエスがなかなか戻らないことが少しずつわかってきた。その再臨を待つあいだ、どう生きたらよいのか。このような終末論のテーマはルカの福音書だけではなく新約聖書にさまざまな形で出て来る。 
 終末と言うと、私たちはすぐに審判を連想する。死んでから、天国行きか地獄行きかを決められると。しかし、キリストの再臨の中心的な意味はそうではない。それは愛するキリストが戻ることであり、喜びの再会であり、苦しみのなか忠実を守った人たちを愛情深く迎え入れる時なのだ。彼らは幸せだとイエスは言う。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。花婿が夜に戻る愛の喜びを歌う雅歌の一節が思い出される。 終末はキリスト者の希望の源なのだ。
 旧約聖書や新約聖書の別の箇所からヒントを得たいくつかのイメージを使ってルカは、イエスをどう待つべきかを教える。たとえば、「腰に帯を締め」。腰に帯を締めて、裾をもちあげるのは旅の格好だ。つまり、キリストの再臨を信頼する人にとって、生活は同じ活動の繰り返しではなく、日々新しい場所に向かって旅に出ることなのだ。イエスが彼らを新しい場所に案内する。第二の朗読のアブラハムは、行き先を知らないままに、ただ神の言葉を信じて旅立った信仰の模範だ。
 もう一つは「泥棒」のたとえ。「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。聖書の中ではこの箇所でだけ、イエスがその言葉を口にしているが、ペトロもパウロも手紙の中でこの言葉を使っている(1テサロニケ5・2「盗人は夜やってくるように主の日が来る」、2ペトロ3・10「主の日は盗人のようにやってきます」)。「10人のおとめ」のたとえにも似たところがある。ただし、泥棒という言葉については勘違いしないように注意すべきだ。この言葉にはネガティブなイメージがあるが、しかしこれはイエスの喜ばしい訪れを見逃さないようにという注意だ。イエスのメッセージは地獄に行かないためではなくて、天国に行くためなのだ。 
 もう一つは「管理人」。ルカが使う言葉は、エコノモスで、責任者とか係という意味だ。教会の中で責任者とされた人たちは、間違った態度をとる危険がある。目立つためとかプライドのためとかいろいろな理由で、自分の役割を勘違いする危険がある。イエスが頼むように奉仕するのではなく、独裁者になる危険もある。そして、人を利用したり、人から預かった財産を使いこんだり、人を厳しく扱う危険がある。それはルカの当時に実際起こっていたことで、こんにちも起こりうることだ。そこで、ルカはこの箇所で、特に大きな責任のある人たちに言葉を向ける。ルカが言うのは、注意しなさい、いずれキリストは戻り、あなたたちを厳しく審判し、「異邦人のように扱う(不忠実な者たちと同じ目に遭わせる)」と。「異邦人のように扱う」とは、権力やキャリアなどを自分のために求めたことは、キリストにとっては無であり、彼に無視されるということ(ルカ9・46-50も同じ)。キリストから受け入れられるのは人のために果たした役割だけ。彼が自分の弟子に果たしてほしいのは、小さな群れの世話、愛とやさしさ、慰め、赦し、指導、忍耐、謙遜といったものなのだ。 
 最後にもっと厳しい言葉がある――「ひどく鞭打たれる」。もちろん、神は誰も審判しない。この表現でルカが知らせたいのは、このような人たちの大きな責任だ。
 私たちはイエスが戻ることを信じてイエスを待ちながら生きるべきだ。別の言葉で言えば希望をもって生きるべきだ。教皇フランシスコが言った(2015年12月14日、2016年3月17日)ように、希望とは、私たちが神様からいただいた大きな徳である。希望によって私たちは、今の問題や苦しみ、困難、そして私たちの罪の先を見ることができる。私たちは希望の男女でなければならない。また、希望は控えめだが強力な徳であって、私たちキリスト者の生活の水面下に流れ、私たちを支える。困難に負けないで、いつの日か神の美しい顔を見ることができるように力を与えてくれる。

画像は、ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、1851-1856年、マンチェスター市立美術館。イエスが戸を叩く絵画は多数あるが、この絵はそのもとになったものである。


2016年

8月

14日

年間第20主日

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。(ルカ12・49)

画像は、南チロルのイエスのみこころの火。


2016年

8月

21日

年間第21主日

狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13・24)

 マタイの福音書を参考にしながら、自分が調べたことを加えて福音書をまとめたルカ。ユダヤ人に向かって書いたマタイは、地獄や裁きなどユダヤ人に馴染みのある厳しい言葉をたくさん使うが、旧約聖書を知らないギリシア人などの異邦人に向けてパウロとともに布教していたルカは、イエスのやさしさを描く福音記者とも呼ばれる。しかし、今日の箇所には唯一、驚くほど厳しい言葉が出て来る。なぜルカはその調子を突然変えたのか。 
 今日の箇所では、どういう人かわからないが、一人の人がイエスに一つの質問をする。「救われる者は少ないのでしょうか」。当時、ファリサイ派のあいだでは、誰が救われるかについて大きな議論になっていた。ある人たちはユダヤ人だけが救われ異邦人は救われないと考え、ある人たちはユダヤ人の少数が救われ大多数は救われないと考えていた。質問した人はこのような問題に対してのイエスの考え方を知りたかったのだろう。しかし、イエスはこの質問に直接答えない。質問自体が間違っている場合よくするように、イエスは話題を変える。そして、大切な二つのことを言う。 
1.まずイエスが言うのは、神の国に入るのが難しいということ。このような言葉を読むと私たちは勘違いしがちだ――もしかしたらイエスは私たちにもっと修行しなさいとか、たとえば洗礼者ヨハネのようにもっと厳しい生活を送りなさいとか、もっと道徳的な生活を送りなさいと言っているのだろうかと。もちろんイエスの教えの中にはこれについていろいろ大切な点があるが、ここはそうではない。イエスが言うのは、神の国に入るのは力のある人ではなく、力のない人、弱い人、小さい人だということ。神の国に入れないのは十分に修行していないからでなくて、大きすぎるからだということ。 
 ある聖書学者によると、エルサレムの城壁にはいくつもの門があり、馬車が通れる大きな門の他に、人一人がやっと通ることができる狭い門があって、その門が「針の穴」(マルコ10:25)と呼ばれていた。日本の茶道の茶室に設けられるにじり口は、高山右近などキリシタン茶人の影響があるという説もある。イエスが大切にするのは小ささだ。天国に入るのは私たちのよい行いの功徳ではなく、神のあわれみのためだ。詩編など旧約聖書のさまざまな箇所にもあるように、私たちは誰も天国に入る資格をもっていない。私たちは神の前では、ただ罪人であり、子どもである。神様から愛されているが、罪人であることが私たちの本当のリアリティなのだ。私たちが自分の過ちに気がつく前にすでに神が私たちを救おうとしている――これがイエスの中心的なメッセージであり、今日の箇所で大切な点だ。

 ルカの時代、教会では基準が少しずつ変わっていた。時間が経つとともに、イエスへの最初の憧れが薄れ、信者たちは自分の才能や地位を大切にして生活しようとしていた。しかし、ルカは、それは間違っていると言うのだ。やさしいルカが今日の箇所で突然厳しくなるのは、ちょうど両親が自分の子どもに対して普段はやさしい態度をとっていても、危険があるときは厳しい言葉をかけるのと同じだ。私たちが自分の価値や自分の行いに頼ると、救いの可能性がすべて消えてしまう。イエスのメッセージはまったく逆だ。私たちは赦されたからこそ人を赦すことができる。私たちは憐みの対象であったからこそ人を憐れむことができ、無償で助けられたからこそ人を無償で助けることができる。これがキリスト教のポイントで、ルカが厳しい言葉で私たちに思い出させようとしているところだ。

2.イエスの返答にはもう一つ怖いところがある。「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。神様が私たちに、あなたたちのことを知らないと言ったら、私たちの生活の意味がなくなってしまう。日本語の訳は「不義」となっていて、「不正義」を思い出させるが、ギリシア語の原語の意味は「無駄」だ。これは、あなたたちが自分を中心にしたこと、自分の名誉を探したこと、自分が目立つために努力したことは神からは無意味だということ。私たちが判断されるのはそのためではない。教会の中でどんな地位があったか、どんな名誉があったか、人からどんなに尊敬されたかは救いの基準ではない。救いの基準は、私たちがどのように神のあわれみを受ける器になったかということだ。私たちはよく自分のことで精一杯で人を受け容れることができない。人を赦すことができず、人といい関係を結ぶことができない。イエスが言うのは、自分を空っぽにすること、自分を無にすること。これがイエスの道なのだ。パウロの手紙の有名な箇所にあるように、イエス自身がまさにそう生きたのだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。

 私たちの教会の本聖堂の扉の上には、16年前の大聖年の年から「私は門である」の字が掲げられている。これはキリストの言葉だ。狭き門とはキリストなのだ。ちょうど大人が子供と話をするときにひざまづいて子供の目線の高さになって子供の目線で交わるのと同じことを神は私たちのためにした。だから、それは私たちの道でもある。

画像は、松江市明々庵にじり口。


2016年

8月

28日

年間第22主日

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカ14・11)

画像は、パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562ー63年、ルーブル博物館。


2016年

9月

04日

年間第23主日

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14・33)

 「大勢の群衆が一緒について来た」。教祖や政治家なら、大勢の人たちが後についてきたら喜ぶだろう。しかし、人気も栄誉も権力も求めず、弟子のグループにも小さい群れとかからし種、パン種という言葉を使うイエスは喜ぶ代わりに疑問を抱く。本当にこの人たちは私のメッセージをわかっているのか、と。だから、「イエスは振り向いた」。イエスの眼差しについては福音書のいろいろな箇所に書いてあり、私たちはイエスの眼差しを想像できる。何かに燃えて話そうとするイエス。イエスがどういう方か、イエスの後に続く私たちが弟子としてどうあるべきかを伝えるためにルカは今日のエピソードを使うのだ。
 先週の日曜日の箇所でルカは弟子のあり方について特に二つの点に触れた。その一つは、本当の弟子は自分が目立ったり名誉を受けたりするために婚宴(神の国)を使ってはいけないということ。もう一つは、貧しい人たちを人間的な基準ではなく、キリスト的な価値観で判断すべきということ。 
 そして、今日の箇所には、宝物になる別の三つの言葉がある。その言葉には、私たちをおじけづかせるほどの厳しさもあるが、時間をかけてじっくりと調べ理解しなければならない。そして、イエスのこういう言葉にこそ、私たちのこの世の生活をすでに神の国の生活に変える力があるのだ。
1.「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。この言葉は私たちを驚かせるし、十分に理解しないと危険でさえある。私たちの生活には愛情や家族などすばらしい賜物があるが、この言葉はそれを否定するように感じられるからだ。しかし、イエスが宣言する神は、私たちが孤独な生活を送ることを願う神ではない。ルカがここで「憎む」という言葉を使って言いたいのは「(私より)もっと愛する」(マタイ10・37参照)ということだ。つまり、イエスが言うのは、父母は素晴らしい存在だが、あなたが私を愛し、私の声を聞くなら、もっと深い愛を生きることができる、あなたの生活が神の国になることができるということ。
2.「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。この言葉を読むとき、幼稚な考え方をしてはいけない。ここでイエスが言う十字架とは、私たち誰もが毎日の生活の中で耐えなければならない小さな苦しみのことではない。「自分の十字架」とは確かに私たちの十字架ではあるが、その基準はイエスの十字架である。それは、イエスの限りない愛を意味する。イエスが私たちのために自分を捨てた無償の愛、人に暴力を加えず人を裏切らない愛を意味する。

 イエスが十字架上で死んだのは、運が悪かったからでも敵に負けたからでもない。イエスはたまたま死んだのではなく、愛のために自ら死ぬことを選び、神の御旨を果たしたのだ。イエスは顔を固くしてエルサレムに向かったとルカは言う(9・51)。ヨハネ福音書も同じことを言う。世の中に私一人しかいなかったとしてもキリストは同じように十字架にかかっただろうと聖イグナシオは言う。今日の箇所で言われる十字架も、そのような命がけの愛のことなのだ。イエスの弟子であるためにはそのような愛を生きなければならない。 

 3.「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。ルカはその福音書の中で何度も富について話すが、理解しなければならないのは、富を捨てなさいという要求が犠牲や苦行の要求ではないということ。イエスがまず第一に望むのは、私たちが富の奴隷にならず、物質的な欲望や不安から解放され、内面的な自由をもつことなのだ。たとえばお金があるから、キャリアがあるから、人から尊敬されているから私は重要な存在だと考える間違った鎖からイエスは私たちを解放したいのだ。言い換えると、人間の本当の価値は、物を所有したり、人から尊敬を受けることによって決まるのではない。人間の価値は心の中の愛、神と隣人に対しての愛によって決まるのだ。

 

 ルカが言いたいのは、弟子であるためにはイエスを凝視しなさいということ。イエスを見続けることによって、人間は本当に自由になり、平和を受けて、平和を人と分かち合うことができるようになる。赦されて、人を赦すことができるようになる。この世の生活によって後の世(神の国)のしるしとなることができるのだ。
画像は、フィリップ・ド・シャンパーニュ「山上の説教」。

2016年

9月

11日

年間第24主日

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15・32)

 今日の箇所、ルカによる福音書第15章は、ルカによるイエスのメッセージのまとめ。そこには、何かを失ってそれを見つけた人の喜びについて3回出て来る。はぐれた羊を見つけた羊飼いの喜び、無くした銀貨を見つけた婦人の喜び、遠くへ行ってしまって死んだと思っていた子供に再会する父親の喜びだ。 
 この箇所は私たちキリスト者が読み慣れているページであり、罪人である私たちに慰めと喜びを与えてくれるページだ。このページを読んで私たちは感じる――神は私たちを待っている、神の家の扉はいつでも開かれている、私たちは神から見捨てられない、と。 
 けれども、よく見ると、この三つのたとえ話のもともとの目的は、罪人に回心を勧めるというより、イエスが罪人と食事をしていることに文句を言うファリサイ派にイエスの態度を説明することだ。立派な道徳的生活によって自分を正当化するファリサイ派は、二つの根本的な間違いをしていた。その間違いとは第一に神を勘違いしていること。ファリサイ派は、神は正しい人に報い罪人を地獄に落とすと考えているが、イエスの神はあわれみの神だ。教皇フランシスコも言うように、イエスが来たのは、罪人を裁くためではなく、罪人が立ち直って生きるためなのだ。そして第二の間違いは、隣人に対しての間違いで、第一の間違いから生まれる。憐れみの神を理解しないから、隣人に対しても憐みを示すことができない。特に三番目のたとえ話で放蕩息子の兄が自分の弟のことを「あなたの子」と言う。自分の兄弟だと認めずに、他人扱いするのだ。これは父との関係の間違いから来る。兄はすべてをもっているのにそれがわからず、愛のない奴隷のように自分の家に住み、「わたしは何年もお父さんに仕えています」と自分を正当化し、そこから弟についても判断を下す。自分の不幸から相手を不幸にするのだ。こんにちの信仰生活で言うなら、祈りをしてもルールを守っても福祉活動をしても、神への愛からでなく、自分のためにするなら、兄弟との関係もだめにしてしまう。自分の力で自分を救う考え方から、神について、兄弟について、教会について、さまざまな間違いが生まれる。
 ルカは当時のどういう相手を考えて、今日の箇所をまとめたのだろうか。放蕩息子のたとえ話で言うなら、兄とは、教会に入って信者になったばかりの異邦人だったか。あるいは自分こそ本物の信者と考えて他の人たちを軽蔑し差別していたキリスト者だったか。この問題にはここでは立ち入らないが、今日の箇所をどう受け取るかはこんにちの私たちにとっても大切な課題だ。 
 放蕩息子のたとえ話は結末がなく、物語の途中で終わる。兄がその後、弟を弟として認め父の家に入ったかどうか、私たちにはわからない。結末がないのは単なる偶然ではなく、私たちへの問いだからなのだ。神についてどう考えるか、兄弟についてどう考えるか――今日のページは私たちの信仰を試している。
画像は、ジェームズ・ティソ「無くしたドラクメ銀貨」、ブルックリン美術館。

2016年

9月

18日

年間第25主日

わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカ16・9)

 不正な管理人のたとえ話は有名だが、古くからいろいろな解釈があり聖書学者にとっても非常に難しいたとえ話だ。主人は私たちの論理で行動せず、イエスも不正な人物をほめるから、誰もが引っかかってしまう。でも、よく見れば、このたとえ話は先週のルカ15章の三つのたとえ話(失われた羊と銀貨と放蕩息子のたとえ話)と同じように罪人をテーマとしている。そして、罪人に恐れではなく希望と励ましを与える大切なたとえ話だ。そして、このたとえ話から生きる力を汲みとるためには、出て来る人物をゆっくり観察しなければならない。
 まず、「主人」とはユダヤ人にとっては神のこと。神は姿が見えないが、人間に対して権利をもっているだけではなく、すべてを所有している。「管理人」とは、人間のこと。私たち一人一人は神の財産を預かっており、神から預かったものを増やす役目を与えられている。金銭や家屋田畑などの文字通りの財産だけではなく、私たちの命や能力や時間や子ども、周りから受けた善意や愛情など、すべてが神から預かったものだ。ところが、神から預かった財産を「無駄使い」するのが人間の基本的な問題だ。人間は、失われた羊や銀貨、放蕩息子のように、罪を犯して、神から離れているのだ。
 「告げ口」とは罪人の立ち直りを望む愛情からではなく、罪人の処罰と滅びを望む悪意から来る。「告げ口をする者」は潜んでいるが、サタンのこと。サタンは聖書によれば神の使いで(ヨブ1・6でも、神の使いたちが集まる時にいっしょに来る)、あちこち見張りをし、人間の犯した罪を神に伝えるのが趣味なのだ。逆に、イエスは罪人のために祈り(ルカ22・32)、罪人に寄り添い味方する弁護者だ。神は罪人が生きることを望む。神の国のメッセージとは、神の憐れみによる罪人の救いの可能性のことなのだ。サタンが認めないのは神のその憐れみだ。
 「会計の報告を出しなさい」。それは死の時かもしれない。あるいは何か重大な問題が起こる時かもしれない。その時、私たちは自分の人生を振り返り、いけないことをしてしまったことに気づく。
 私たち一人一人の人生はいつか神の前で審査される。だからといって、怖がる必要はないが、自分の命や能力、子ども、財産などが神から預けられた大切なものであり、今の時が大切な時だと気づかなければならない。
 「どうしようか」(ルカ3・10、使237など、ルカではいろいろな真剣な場面に出てくる言葉)。管理人にとって最後の最後の瞬間だから、生活を変える時間もない。「土を掘る力もない」。私たちは自分の力で自分を救うこともできない。パウロも言うように、どう祈るかさえ私たちはわからないのだ。「物乞いをするのも恥ずかしい」。その恥ずかしさは、アダムが裸であることに気づいた時の根本的な恥ずかしさだ。
 「そうだ。こうしよう」。自分の弱さや失敗のために追いつめられた時、人間はふつう絶望に陥る。そこにはサタンの働きがある。けれども、自分の状態に挫けない時、回心が始まり、復活が始まる。
 「油百バトス」とは4500リットルであり、175本分のオリーブであり、2年分の労働者の賃金に相当する。「小麦百コロス」は55000キロ、42ヘクトルの畑の収穫に当たる。その借りは膨大だ。その額を少なく書き換えた管理人は、これまで悪いことをしたのに、さらに悪いことをしたように思える。しかし、イエスはそれを「賢い」と言う。なぜか。
 最終的に神がその財産を私たちに預けたのは、ご自身が収穫を得るためにではなく、私たちが互いに分かち合うためだ。管理人は、その神の御心に沿って、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という主の祈りを実行したことになるのだ。私たちは人を赦すことによって赦される。私たちは罪人だが、最後の瞬間に愛することができる(「愛は多くの罪を覆う」、1ペトロ4・8、箴言10・12)。だから、罪を犯し人生に失敗しすべてが崩れても、思い出しなさい、最後の救いの可能性があなたのために与えられている、とイエスはこのたとえ話で教えたいのだ。そして、天国に行くのは、自分のお金によってではなく、この世のものが消える時、助けたり赦したりした人たちが私たちに永遠なる住まいの扉を開く、と。今日のたとえ話は、自分の罪や弱さや失敗のために麻痺状態になった私たちの心に立ち直る力を与えてくれる。

画像は、アヌンチアータ・シピオーネ「脱穀」。


2016年

9月

25日

年間第26主日

わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(ルカ16・26)

 今日のたとえ話――金持ちとラザロのたとえ話も、初代教会の事情の中でルカによって伝えられたイエスのたとえ話であり、いつものように注意して読むべきだ。
 一方で「ある金持ちがいた」。「金持ち」とあるが、他の特徴は書かれず名前も記されていない。つまり、金持ちになるために何か悪いことをした、例えば盗んだとか税金を払わなかったとか召使いに乱暴をしたとは書かれていない。だから、こんにちで言うと、医者とか俳優とかスポーツ選手とか、キャリアを積み一生懸命働いてお金を稼いで外車などを買うような、私たちの社会によくいる人たちのことだろう。私たちはそのような人になれるし、またその生き方を認めている。他方は「貧しい人」。そこに「ラザロ」という名前が記されているだけでも、神から注目されているということだが、ラザロとはヘブライ語で「神が助けてくださる」という意味。ただし、貧しいという以外の特徴は何も書かれていない。例えば、貧しくても信心のある人とか、掟を守って神殿に行く人とは書かれていない。ラザロは祈ることもしない。だから、このたとえ話は悪い人と善い人の話ではないのだ。 
 そして、二人とも「死んで」。このたとえ話が死後について語るのは、大切なことを教えるためだ。しかしまた、天国と地獄について書かれているわけではない。つまり、このたとえ話のポイントは、天国はどのようなものか、地獄はどのようなものか、善い人は天国に行き悪い人は地獄に行く、だからこの世で善を行い悪に耐えなさいということではないのだ。
 「大きな淵があって」。それは死後の淵だが、よく見ると、この淵は金持ちとラザロのあいだに生前にもあった淵だ。その金持ちは、悪いことをせず自分の才能で金を儲けて、余った金で慈善(チャリティー)も行っていたかもしれない(ラザロは残飯を期待して、門前に座っていた)。そうであっても、金持ちの自分と貧しい人を区別していて、慈善も自分の名誉や利益のために行っていた。だから、自分を中心にして、神と隣人を忘れていたのだ。しかしながら、世界中の富は神がすべての人に与えて下さったものであり、そこに金持ちと貧しい人との区別はない。だから、金持ちが貧しい人に施しをしても、本来貧しい人に属しているものを貧しい人に返しているのにすぎない。 そのことにその金持ちは気づいていなかったのだ。
 「わたしには兄弟が五人います」。兄弟とは、ルカにとっては教会の中の兄弟のこと。イエスの弟子であるキリスト者も、富を自分のものだと考え、相手を慈善の対象としか見ない危険がある。 
 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」。神の言葉を聞いてわからないなら、どんな奇跡が起こっても何にもならない。 
 今日のたとえ話は、富についてどう考えるべきかを教えている。イエスが言うのは、この世の富は神がみんなに平等に下さったものと考えるべきということ。だから、あげる人ともらう人のあいだにも本来区別はないのだ。

画像は、フランス・フランケン二世「金持ちとラザロのたとえ話」、17世紀、フランス・カンブレー市美術館。


2016年

10月

02日

年間第27主日

自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17・10)

 旧約聖書のハバクク書は、今日の箇所の最後の言葉「神に従う人は信仰によって生きる」をパウロがローマ人への手紙のメイン・テーマにしたことで有名(1・17、ガラテヤ3・11も参照)だが、今日の箇所は印象的だ。こんにちの世界もそうだが、いろいろな災いや問題があり、なぜか、いつまで続くのかと神に祈っても答がない。詩編にもヨブ記にもそのような祈りがあり、そして最終的に十字架上のイエスもそのような叫びを上げた。ハバクク書のこの箇所は、今日の福音書の箇所とは直接の関係はないが、教会が第一朗読に選んだのはきっと、ルカ当時のキリスト教が経験していた問題と重なるためだろう。当時、迫害と殉教は始まっていたし、教会の中にも問題があった。そして、こんにちの私たちはこの箇所を読むとき、世界の中にある大きな問題を自分の祈りとして祈ることができる。 
 イエスはエルサレムへの長い旅の中で弟子たちにいろいろなアドバイスをするが、今日の福音書の箇所に先立って、イエスは、悔い改めるなら1日7回でも人を赦しなさいと言う。どうしたらそんなことができるかと心細く思う私たちへの答えとして今日の箇所がある。今日の箇所に出て来る二つのポイントはきっと、イエスが別々の時に使っていたものをルカがいっしょにまとめたものだろう。一つは信仰について、もう一つは簡単に言うと謙遜についてだ。 
1.「使徒たちが」。イエスは、先行する赦しについての箇所では、一般の人々に向かって話していたが、今日の箇所では、少数の親しい人々、教会に深い関係のある人々に向かって自分の秘密を打ち明ける。「からし種」とはユダヤ人にとっては一番小さい種だ。「信仰」にはいろいろなニュアンスがあるが、ここでイエスが言っているのは、キリスト教の要理を知り教会に行き祈りを唱えたり教会のために活動したりということだけではなく、神の愛に答えイエスに従う信頼である。「桑の木」とあるのは、ザアカイの登った「いちじく桑の木」(画像を参照)のことだという解釈もある。いちじく桑は巨大な木になるだけでなく、根が深く、きわめて抜けにくい。たとえ抜けたとしても、根っこが何百年も残る。イエスが言うのは、本物の清い信仰が少しでもあれば、私たちの家族、共同体、世界にあるどんなに根の深い問題でも解決する、だから疑わず信頼しなさい、ということ。これは、第一朗読のハバククのような祈りへの答えでもある。
 この箇所に出て来る小ささは福音書そのものの大きなテーマだ。神は小さい道具で人を救う。イエスは小さくなることによって私たちを救った。これが受肉の結論だ。イエスが選んだ弟子たちも小さきものだった。神にゆだねる心、信頼する心は、人間が考えられないほど大きな効果がある。主人公は神だからだ。だから、大切なのは量じゃなくて質だ。信仰生活も布教も、大きなイベントや集まり、騒ぎじゃなくて、本物の深い信仰が大切だ。名誉や成功を求めるのではなく、殉教者やアシジのフランシスコ、マザー・テレサなどの聖人たちのように、神との親しさや神への信頼を求めるべきだ。

2.「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」。外でずっと働いて疲れた僕に給仕をさせる主人は非情だ。ルカ自身、別の箇所(12・37)では、主人が僕のために給仕をすると言っている。これはどういうことか。

 イエスにとって弟子たちは何よりも大切な宝物だ。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マルコ10・42)と言うぐらい大切なのだ。けれども、最終的には、イエスこそ神の子でありながら人の救いのために仕える僕であり、その自分のようになるようにイエスは弟子たちに言い残しているのだ。だから、ただの報いとして何も得ないのは当たり前なのだ。例えば薔薇が咲くのは人から褒められるためではなく、それが薔薇の本質であるように、イエスの弟子の本質は僕であることだ。イエスが弟子たちに言うのは、私と同じように無心になって仕えなさいということ。「取るに足りない」とは役に立たないという意味ではなく、自分の報いのために働いていないという意味。イエスの本当の弟子は、自分の名誉のためではなく、100%神のため、キリストのために尽す者なのだ。

2016年

10月

08日

年間第28主日

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17・15-16)

 「エルサレムへ上る途中」。ルカがこのことをわざわざ何度も書くのは、エルサレムへのイエスの旅が十字架と復活への旅であり、その旅の途中でイエスが大切なことを遺言として言い残しているから。その旅の途中ではいろいろな出来事があるが、そのつどの出来事によってルカがイエスについて伝えたい信仰のテーマがある。今日の箇所の出来事は奇跡だが、ルカはイエスが奇跡をどのように行ったかを具体的に記していない。この出来事によってルカは何を伝えたいのか。
 「重い皮膚病を患っている」。「重い皮膚病」とはいろいろな病気に当てはまる言葉だ。それは治らない恐ろしい病気であるばかりか、汚れているとして神殿に入ることができず、また家族から離され人々から見捨てられるなど、社会的に差別された病気だった。聖書ではもっとも重い病気であり、盲目、貧困とともに死にたとえられるほどだ。この病気が治った例は、旧約聖書では二か所だけ、つまりモーセの姉ミリアムと今日の第一朗読のナアマンだけだ。
 「10人の人」。両手の指が10本あることから、10という数字は聖書ではすべてを意味するシンボルだ。つまり、ルカはこのエピソードに神学的なテーマを読み込み、すべての人がその病気にかかっていると言いたいのだ。ユダヤ人と異邦人は互いを差別するが、ユダヤ人であれ異邦人であれ結局同じ罪という病気にかかっていると。
 「イエスさま」。この呼びかけは新約聖書でも数少なく、イエスへの親しみを感じさせる。「わたしたちを憐れんでください」。「癒してください」という言葉ではないのは、その10人の人たちが病気が治ることよりも、人間として扱われることを望んでいたから。ちなみに、「わたしたちを憐れんでください」という言葉はオーソドックスのもっとも有名な祈りだ。
 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。これは、律法に従うように指示するユダヤ教の先生としてのイエスの言葉だ。らい病の治癒は当時、祭司が厳密に検査した上で、本当に治ったことを認め、特別な献金と引き換えに特別な祈りと儀式を行う必要があった。これは、ユダヤ人の律法にある掟だった。確かにイエスは律法の完成でもある。
 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」。ルカが今日の物語で一番具体的な言葉で表現しているのは、奇跡そのものではなく、一人の人のこの振る舞いだ。それは、よく見ると、典礼の振る舞いを意味している。ここでルカは、最後の晩餐の箇所とは別の形だが、私たちキリスト者の日曜日の集まり、感謝の祭儀を考えているのだ。「この人はサマリア人だった」。ルカは、ユダヤ人より、サマリア人の態度を褒める。それは、イエスがユダヤ人から見捨てられ、異邦人から神の子として認められたということを反映している。
 今日の物語によってルカは私たちに何を教えたいのか。9人の人とはユダヤ人であり、イエスを律法の先生と考えてユダヤ教の律法に従い儀式を済ませて普通の生活に戻って行った。彼らは自分が掟を守ったから、病気が治ったと思っている。つまり、ファリサイ派なのだ。自分が神の言葉を守ったから、言われたことをしたから治った、つまり自分の行動で治ったと思っている。だから、イエスのもとに戻らないのだ。却って、ユダヤ人から異端者と思われていた一人のサマリア人が、すべてが神から与えられたものであることに気づき、戻って、癒しを与えた人に出会った。そして、癒されただけではなく、救われた。癒しと救い―この二つの言葉でルカは二つの態度を表現する。ルカにとって救われるとは、自分の問題を解決することではなく、イエスに出会うこと、キリストに出会うことなのだ。信仰とは根本的に、誰が奇跡を行ったかを認めることだ。9人の人たちは掟を守りながら祭司たちのところに行って、癒されたが、救われていない。一人のサマリア人はイエスに出会い、その顔に神の愛を認めることで救われたのだ。
 キリスト者の救いの根本は、宗教的態度をとったり道徳を守ったり福祉を行ったり祈りを唱えることではなく、生きたイエスに出会って、そのイエスが神であることを知ることにある。私たちは洗礼や聖体を始め、信仰のしるしである秘跡を通じてキリストに出会うことができる。ミサとは、私たちが共通にもっている罪の状態から癒されて、聖体によって感謝すること。だから、マンネリでミサに与るのではなく、罪の自覚、救いの自覚、感謝の自覚がとても大切だ。そこからキリスト者としての生活が生まれる。 

画像は、「10人のレプラ患者の清め」(『エヒテルナッハの黄金福音書』、1035-1040年、ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵)。


2016年

10月

16日

年間第29主日

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18・1)

 エルサレムに向かうイエスの旅の最後の段階、十字架に近づいてきているその時、ルカはもう一度、祈りについてのカテケーシスを教える。よく知られているように、ルカは特別にイエスの祈りに注目する福音記者だ。いろいろな箇所で祈っているイエスの姿を報告している。公生活の最初から十字架上での最後の瞬間まで、特別な出来事に際しての祈りをルカは記している。ルカにとって、祈りは、イエスとは誰かを示すためにも、イエスの弟子はどうあるべきかを教えるためにも非常に大切なポイントなのだ。 
 先々週の主日の第一朗読のハバククは、すべてがうまく行かず、祈っていた。そのような祈りは詩編にもある。たとえば35章22節に「立ち上がってわたしを助けてください」とある。教会の殉教と深い関係がある黙示録もそうだ。例えば6章10節に「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」とある。ルカにとっても、祈りはロマンチックな感情や美しい言葉ではなく、イエスの十字架や苦しみの体験と深い関係がある。 
 第一朗読にある、手を挙げたモーセの姿は、神と人とを仲介する司祭がとる典型的な祈りの仕草だ。それは海に沈む人が助けを求める最後の姿であって、神に向かって助けを求めるキリスト者の姿を表現している。私たちの力は神だけにあるのだ。 
 ルカが福音書を書いたのは80年ごろ。当時、ドミチアヌス皇帝が自分を神として拝むことを命令したのに対して、キリスト者がそれを拒んだことから、キリスト者に対する激しい迫害が始まるところだった。そのような状況にあって、なぜ神が答えてくれないか、なぜ神が助けてくれないか、神が沈黙するこの荒みと悲しみの時期をどう生きたらいいか、ということが問題になった。ルカが今日の箇所を編集したとき、キリスト者のそのような問題が背景にあった。 
 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」。裁判官と言うと自然に神を連想する。しかし、言うまでもなく、このたとえ話の裁判官は神を意味しているのではない。むしろ、迫害されるキリスト者の苦しみに対して無関心な世間のシンボルだ。 
 「その町に一人のやもめがいて」。やもめ、未亡人とは、夫、つまり自分を守ってくれる人を失った女性のこと。それはルカにとっては、女性に限らず、花婿キリストを失い、キリストのために迫害や災いに遭っているすべての正しい人、つまり教会のシンボルだ。
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。祈りと言っても、たくさんの言葉を並べるという意味ではない。イエス自身、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と言っているし、旧約聖書でも同様のことが言われている。「気を落とさず」「絶えず」という表現が意味しているのは、神との内面的な関係のことだ。言葉を重ねることではなく、周りの事情を神の目で見ること、物事についてイエスのような価値観をもつことが祈りなのだ。だから、祈りは息にたとえられる。息は、意識しなくても、命と深い関係があるからだ。イエスの息、聖霊に生かされることが祈りなのだ。だから、外面的な行為ではなく内面的な動機が大切で、時々たまたま善い行ないをするだけではなく、たとえ1日に7回罪を犯したとしても全生活が神に向かっていること、キリストのように生きようとすることが祈りなのだ。
 祈りによって私たちはまた、神の時を見分けること、また世間に対して神のように忍耐し神の国を待つことを学ぶことができる。マタイ福音書の毒麦のたとえのように、苦しみの中から善が成長するかもしれないのだ。さらに祈りは、間違う人に対して憐れみをもつために力になる。自分の間違いに対する憐れみから、他人の間違いに対する憐れみをもつことができるのだ。最後に、祈りとは、何かの特別な行事やイベントではなく、毎日の生活の中に働く生きた信仰のことだ。生きた信仰は、神の愛の深い体験から、いただいた愛や赦しを人に注ぐことができる。 
 ルカの時代のように、こんにちも教会はさまざまな国でさまざまな形で迫害されている。それでも、奪われた花婿キリストの再来を待っているか、「主イエスよ、来てください」(黙22・20)と祈っているかと今日の箇所は私たちの信仰に問いかけている。

画像は、ニコラース・マース「年老いた女の祈り」、1656年頃、アムステルダム国立美術館所蔵。


2016年

10月

23日

年間第30主日

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカ18・14)

 先週の日曜日に引き続き今日の箇所では、ルカが大切にする祈りのテーマがとりあげられている。先週の箇所では祈る時の神に対する態度が問題になったが、今日の箇所では人に対しての態度が問題になっている。そこに出て来る有名なたとえ話はやはりルカ特有のもので、シンプルでわかりやすいが、注意すべきいくつかの点がある。 
 二人の人物が祈るために神殿に上る。一人はファリサイ派、一人は徴税人だ。ファリサイ派の人の祈りは感謝祭(ユーカリスティア)の祈りとも言える。それはミサのように神への感謝の言葉(ベラカー)で始まるが、すぐに自分がやったことの自慢に変わってしまう。神ではなく自分が中心になるのだ。この人はただ掟を守るだけではなく、断食をはじめ何でも定められた倍のことを果たしていた。そして、この人の祈りは、自分を後ろにいる徴税人と比較し、自分がその徴税人のような生活をしていないことを神に感謝し、その徴税人を軽蔑することになる。他方で、徴税人は、ルカが細かく描くように、後ろに立って目を上げることもなく、胸を打ちながら、しっかりと神に向かっている。この人は自分の自慢ではなく自分の罪の告白のために神殿に行き、罪に対する憐れみを乞うたのだ。 
 ここで注意すべきなのは、私たちキリスト者は二千年に及ぶ聖書解釈の歴史から、ファリサイ派を悪い人と考えてしまいがちだが、そうではないということ。ファリサイ派は簡単に言えば旧約時代の「聖人」で、宗教に通じ、神を重んじ、律法を研究し、中には殉教者もいて、一般のユダヤ人の信心の模範となり、民から尊敬されていた。他方、徴税人は、理由もなく差別されていたのではなく、ルカが言うように「罪人」だった。だから、聖人・罪人についてのイエスの診断は普通の見方とは違っていたのだ。 
 イエスの診断によると、ファリサイ派のその人は大きな病気にかかっている。その人は、自分が救われ癒されるためではなく、自分が行なったよい行ないの報いを受けるために神殿に上った。つまり自分を救うのは自分の行ないだと考えていたのだ。これはイエスによると、大きな間違いだ。人間は自分の行ないによってではなく、神によって救われるからだ。よい行ないはその結果なのだ。救われたからこそ、人間はよい行いをすることができる。たとえ私たちがどんなに悪いことをしたとしても、神は絶対に忠実に私たちから離れることはない。だから、自分の罪を認める人は立ち直ることができる。
 このたとえ話を私たちは、徴税人の立場から読んでしまいがちだ。けれども、注意すべきなのは、ルカがこのたとえ話を書いたのは、罪人のためではなく、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人のためであり、しかも80年ごろの彼の共同体の問題を参考にしている。だから、こんにちの私たちも、自分の中に住んでいるファリサイ派の立場からこの箇所を読むべきだ。たとえば社会問題などで他人について厳しい判断を下し、間違った人を容赦なくけなすのが現代の風潮だ。政治家は政敵を糾弾し、教会に対する世間の攻撃は厳しく、教会内部でも互いを批判する。それは、相手によくなってもらいたいからではなく、相手に勝つためだ。相手の問題をあげつらうことで、自分を正当化するのだ。それはファリサイ派的なメンタリティの現れではないか。だから、ルカが今日のたとえ話で私たちに注意するのは、昔の問題ではなく、こんにちの私たちにもあるファリサイ派の危険なのだ。 
 キリストは罪人に対してまったくちがった態度を示す。ファリサイ派は相手の罪を厳しく告発するが、キリストはいつも相手が罪から立ち直っていくような態度をとる。ファリサイ派は相手が神に帰る道を難しくするが、キリストは相手が神に帰る道を易しくするのだ。

画像は、ベルナールト・ファン・オルレイ「ファリサイ派と徴税人」。


2016年

10月

30日

年間第31主日

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19・5)

 エルサレムへの旅、そして公生活の最後に、イエスはもう一度、見捨てられた者、貧しい者、罪人に憐れみを示す。今日の物語は喜びに溢れている――イエスの喜び、ザアカイの喜び、そして物語をまとめるルカの喜び。ルカは、人間の中に入り人間の傷を癒す神の訪れの喜びを感じているのだ。 
 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた」。エリコは、紀元前7000年前にすでに存在した長い歴史のある町で、もしかしたら世界最古の町かもしれない。そして、海抜マイナス250mで、地球上もっとも標高が低い町だ。エリコにはこんにちも、ザアカイが登ったと考えられているいちじく桑が生えていて、巡礼者や観光客が訪れる。 
 「そこにザアカイという人がいた」。ルカはふつうは人の名を書かないのに、ここでは書いている。「ザアカイ」とは「清らかな人」「正しい人」という意味だ。
 「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。徴税人は、敵であるローマ帝国のために働き、泥棒のように無理矢理にお金を集めるその特殊な職業のためにユダヤ人から罪人とされ嫌われていた。想像にすぎないが、特別に背が低かったザアカイは、その劣等感のためにお金にすべてをかけた人だったかもしれない。背は低くても、お金を集めて、えらい人になった。でも、幸せではない。人から必要とされず、尊敬もされず、自分に満足していない。だから、イエスが来たときはいらいらし、変な好奇心も抱いただろう。自分は背の低さや職業のために皆から嫌われ軽蔑され見下されているのに、なぜこの人は大勢の人に取り巻かれているのか、と。 
 「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」。徴税人が子供のように木に登るなんて滅多に見られない光景だ。物語るルカ自身、その滑稽さに顔をほころばせているように感じられる。ザアカイが登ったいちじく桑の木は彼の孤独のシンボルだ。葉っぱの中に半分隠れて、イエスに呼ばれるとは想像もしなかっただろう。しかし、イエスは「上を見上げて」ザアカイの名を呼んだ。ザアカイが木に登ったのは、無理矢理に高いところに登ったにすぎないが、イエスはその彼より低くなって、ザアカイを呼ぶ。イエスがこのような態度で彼に伝えたいのは、大切なのは背の高さやお金や偉さや権力ではなく、愛だけだということ。 
 ザアカイはイエスを見ようとしていたが、じつは神が彼を探していたのだ。ある教父が言うように、イエスはある時いちじくの木に実を探しに行って、その時は見つからなかった(マルコ11・13)が、ここでは、熟して食べられそうな実がちゃんと葉っぱの中に隠れていたのだ。 
 イエスはザアカイに「回心しなさい」とは言わない。イエスが言うのは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。それは、あなたの友になりたいということ。日本語訳の「ぜひ…泊まりたい」は、ギリシア語では「泊まらなければならない」という表現だ。つまり、私にはあなたが必要だ、あなたは私の役に立つということ。ザアカイははじめて愛されていることを経験し、自分が誰かに必要とされていることを知った。
 そこに、誰も想像できなかったことが起こる。「ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた」。「喜んで」―イエスに出会ったその喜びを私たちキリスト者はみなそれぞれの形で知っている。「迎えた」―食事だけ、泊めるだけでなく、迎えたのだ。ユダヤ人の食事は一日に一回だけ、夕食だけだったから、イエスはザアカイといっしょに夕食を食べただろうが、イエスはただ食事だけではなく、泊まるためにザアカイの家に入った。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」―「宿をとった」という表現は、パウロも使う表現で、神が住むということ。 
 イエスがザアカイの家に入った時、ファリサイ派だけでなく町中が驚いたとルカは言う。ユダヤ人たちはザアカイを避けていたから、預言者イエスがザアカイの家に泊まるなんて考えられないことだった。ザアカイは神の友でありえないと誰もが考えていたのだ。けれども、神が罪人を見るとき、過去ではなく、未来を見る。どんな罪を犯したかではなく、どんな聖人になれるかを見る。だから、救いはいつでも神から始まるのだ。

 この出会いについてルカが私たちに書き残してくれているのは、一番最初の言葉「…ぜひあなたの家に泊まりたい」と一番最後の言葉「今日、救いがこの家を訪れた…」だけだ。その間には、何時間にもわたる、二人の親密な会話があっただろう。けれども、二人が何を話し合ったかについてルカは何も書いていない。それは二人のあいだの永遠の秘密として残る。けれども、イエスに出会って洗礼を受けキリスト者になった私たちは同じことを経験して知っている。 

 そして、その会話の結果は次の箇所からわかる。「ザアカイは立ち上がって、主に言った」。「立ち上がる」とは、「復活する」と同じ言葉。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。神の愛を知って、喜びがザアカイを満たし、新しい感謝の生活が始まる。キリスト者の慈善(チャリティー)は、救われるためのわざではない。神に救われた感謝からすべてが始まるのだ。 
 アンブロシウスをはじめ教父たちによると、ザアカイの家は教会のシンボルだ。昔の教会に時々あった破門はこんにちでは少なくなったが、教会を特別な人、エリートの人、清い人のための場所と考え、そうでない人を軽蔑し遠ざける癖がいろいろ残っている。けれども、教会は、罪人が救われる場所であり、罪人こそ入る資格があるのだ。教皇フランシスコが言うように、教会は「野戦病院」なのだ。

2016年

11月

06日

年間第32主日

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(ルカ20・38)

 今日の箇所は、人間にとって最大の問いに答を出している箇所だ。いにしえの昔から、八百万の生き物の中で死を意識するのは人間だけ。「死んだらどうなるのか」――それは人間にとっていつの時代も大きな問いだ。さまざまな時代のさまざまな文明や文化の神話や哲学は、エジプトでもギリシアでも、中国でも日本でも、みな同じ問いに答えようとしてきた。ただし、ユダヤ人の場合、事情が少し異なる。ユダヤ人はシェオル(陰府)という言葉をもっていて、人間は死んでから洞窟のように薄暗い死者の世界に入ると考えていたものの、ギリシア人のように神話や哲学という形で死後の生命について考えていたわけではなかった。そして、ダビデにも初期の預言者たちにも、死後の生命についての信仰はなかった。ところが、ダニエル(紀元前六世紀)や今日の第一朗読の七人の兄弟(紀元前二世紀)から、死後の生命についての信仰が生まれ始めており、イエスの当時ではファリサイ派がそうだった。ラザロが死んで三日経ってからベタニアを訪れたイエスに「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったマルタもファリサイ派のような死後の生命への信仰を抱いていた。しかし、その生命はまだ遠くに予感されるものにとどまっていて、証拠はまだなかった。本当の証拠となるのはキリストの復活だ。
 イエスは十字架にかけられる直前の一週間、エルサレムの近くに住み、毎朝神殿に行って、どんどん注目を集め、その最後にいくつかの議論を交わしていた。その議論の一つが今日の箇所だ。
 今日の箇所に出て来るのはサドカイ派。サドカイ派は、サドック(ツァドク)という大祭司の子孫で、祭司として神と人間を仲介し、神殿の儀式や行事を行う役目を古くから果たしていた。しかし、宮清めの事件(ルカ19・45ー46)からも伺えるように、彼らは当時、一般のユダヤ人から受け取る供え物や金銭によって金持ちとなっていた。サドカイ派は福音書にはあまり出てこないが、イエスの受難と十字架死にかかわるアンナスとカイアファの二人はサドカイ派だ。
 サドカイ派は神にかかわる儀式や行事をする祭司なのに、奇妙なことに、死後の生命を信じない。彼らにとって大事なのはこの世の生活だけだった。彼らはイエスが自分たちとは違った考え方をすることを知っていて、一つのストーリーでイエスに挑む。そのストーリーは、当時のしきたりや法律を背景としているために私たちにはわかりにくいところがあるが、今日の箇所から死後の生命について二つの大切な点を拾い出すことができる。 
 第一にイエスが言うには、この世の子らたちはめとったり嫁いだりするが、来世の生活はそうではない。来世ではそのような関係を越えて、みんな神の子であり、みんな「天使に等しい」(イソ・アンジェラス)から。
 第二に大切なのは、イエスが引用するモーセの燃える柴。つまり、イエスが死後の生命の問題に入るのは神の体験からなのだ。他のすべての民族の神は地理上の場所にまつわる神である。日本の氏神もそうだ。しかし、イエスが思い出すユダヤ人の神は、場所より、アブラハム、イサク、ヤコブの神なのだ。神はこの人たちを造り愛したから、そして愛情をもってこの人たちと接触するから死んだままにすることができない。神は死者の神ではなく、生きる者の神である。

画像は、当教会ステンドグラス「燃える柴」、2009年。


2016年

11月

13日

年間第33主日

「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21・6)

 今日のルカ福音書の箇所は一見したところ世の終わりをテーマとしている。世の終わりに天と地がどうなるかは当時もこんにちも人々が関心をもつテーマであり、私たちもいろいろなきっかけからこの箇所をそのような終末論として読んでしまいがちだ。しかし、今日の箇所は終末についての好奇心を満たすための箇所ではない。イエスはそのような好奇心に何も答えていない。ルカが私たちに伝えるイエスの言葉は、よく観察すると、私たちキリスト者がどのような心で生きるべきかを語っている。イエスは歴史の中のさまざまな問題を予期していた。彼は自分自身が十字架死に向かって歩んでいたように、自分の弟子の人生がさまざまな苦難や危険に巻き込まれることを予期していた。イエスは、どの時代のキリスト者にも、その時代のしるしを読み取るための新しい目を下さるのだ。
 今日の箇所はイエスの最後の一週間の出来事。イエスは、いつものように神殿に行く。神殿は当時はまだ建設中であり、その現場には裁断された立派な石などさまざまな材料があった。ある人たちがその美しい石や飾りについて話したとき、それが破壊されると言ったイエスはきっと自分の体である神殿のことも考えていたことだろう。つまり、十字架上での自分の死について考えていただろう。しかし、ルカがイエスのこのような言葉を私たちに伝えるとき、マタイとは違って、ストーリーを伝えるだけではなく、別のメッセージを伝えようとしている。ルカは、災いの預言より、災いを越えるための希望と喜びの言葉を信者に伝え信者を力づけようとするのだ。ルカは迫害を受けている当時の信者に向かって話しているから、その言葉はそのときだけではなく、それぞれの時代に苦しみを経験している信者にとって大切な遺産だ。

 この箇所にはいくつかのテーマがある。
1.「「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。これは信仰についての注意だ。最大の危険はさまざまな声の中からキリストの声を聞き分けられないことにある。
2.「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」。ここでイエスは何を言いたいか。私たちが迫害されるとき、嘘や虚偽、暴力など、迫害する人たちが使う方法を使って自分を守ろうとしないこと。一言で言うと、非暴力を貫くことだ。イエスの非暴力の教えについてはさまざまな箇所に書かれている。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・39-41)。悪に対して悪で応えてはいけない。イエスの弟子の強さは、弱さと思われることにある。どんなことがあったとしても、神は信じる人のそばにいる。イエスは自ら十字架上でその非暴力の生き方を示した。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)。
3.「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。キリスト者は神の国のために働き困難に遭うときに奇跡的な解放を待たないこと。もしかしたら財産、仕事、評判、家族、そして命さえ失うかもしれない。自分の働きの実りを見ることもないかもしれない。しかし、イエスが言うのは、そのような苦しみによってすでに神の国に入っている。その人のことが忘れられ、記憶さえ消し去られるかもしれないが、大切なのは神の判断だけだ。
4.ルカはイエスのメッセージを二つの言葉にまとめる。それは信頼と忍耐だ。信頼とは、どんなことがあったとしても、イエスは彼を信じる人のそばにいると信じること。忍耐とはギリシア語でイポモネで、耐えるというより踏みとどまるという意味。ルカはこの言葉やそれと似た言葉を大切にしていて、その福音書と使徒言行録に何回も使っている(ルカ8・15、使徒11・23、使徒13・43、使徒14・22)。ルカにとってはこの箇所での忍耐はキリスト者の特徴であって、魂を救い(「命をかち取りなさい」)実りを生み神の国に入る秘密だ。迫害の時代に生きたルカは、信頼と忍耐という二つのメッセージを大切にした。それは、こんにちの教会の私たちの心にも響くメッセージだ。

画像は、エルサレム神殿(ヘロデ神殿)の模型(エルサレム博物館)。


2016年

11月

20日

王であるキリスト

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

 王であるキリストの主日は1925年に定められた祭日。当時は第一次世界大戦が終わったばかり。第一次世界大戦は日本では数百人の死者にとどまったが、西洋にとっては歴史を変える大きな戦争だった。1915年から1918年までの死者は約1700万人。戦後も、戦争の影響による貧困や病気など数々の問題のために約6000万人が亡くなり、ファシズム・ナチズム・共産主義の台頭、植民地の自立化が起こった。当時の教皇ピオ11世はこうした動きに抗して、王であるキリストの祭日を定めた。
 「王であるキリスト」は言葉こそ新しかったが、聖書に深く根ざすものであり、カトリックの世界に次々と広がり、王であるキリストの名前をもつ修道会・団体・学校・大学が多数生まれ、プロテスタントの教会にも受容された。第二バチカン公会議の典礼刷新後、この祭日は典礼年の最後の主日に置かれた。
 ふつう何かが終わる時、どんちゃん騒ぎで終わるもの。たとえば何かの集まりがあったら、最後に歌を歌ったり。けれども、不思議なことに、典礼年の最後の主日の今日、教会が福音書の箇所として選んだのは心の奥深くに響く柔和なテーマだ。 
 今日の第一朗読では、王という言葉がダビデに使われている。ユダヤ人たちは、救い主である王を待っていたが、彼らの感覚は世俗的で、彼らが考えていたのは、武力を振るって敵を倒し、金の王座に座って他の王にまさる王であった。
 今日の福音書の箇所で私たちは、そういう期待に対しての神様の応答を味わうことができる。今日の箇所として選ばれたルカの箇所は、マタイやマルコと少し異なり、ヨハネとも少し異なるところがある。それはルカが挿入する3つのイメージだ。
1.今日の箇所の直前に書かれているが、「民衆は立って見つめていた」(35節)。ルカは弱い人たちに関心があるから、イエスが十字架につけられても、権力者に振り回され、何もできず、不安に感じながら見ているだけの民衆の姿をわざわざ書き記す。ルカは今日の箇所の後でも、イエスが十字架上で息を引きとった特別な場面を見て、心を打たれる民衆の姿を記している。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」(48節)。それに対して、「(最高法院の)議員たち」とは、当時の権力者であり、イエスの死の責任者である。彼らはイエスを「あざ笑う」。彼らは敵であったイエスが自分たちの権力に負けて、死んでいくことを喜ぶ。 
2.「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。注意して読まないと気づかないが、この言葉はイエスが公生活を送る前に荒野で悪魔から受けた三つの誘惑の一つに似ている。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』(4・9)。その時、イエスは誘惑に勝ち、悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」(4・13)。今がその時なのだ。荒野での誘惑のあと3年間イエスは、悪魔の誘惑と戦いつづけながら、神の癒しといつくしみと愛をいろいろな形で人々に布教したが、最後の晩餐の時に、悪魔がふたたび出てきてユダに入り(22・3)、そして今、この「議員たち」があざ笑うという形で悪魔がイエスを誘惑しているのだ。そして、今日の箇所では「議員たち」だけではなく、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言い、イエスといっしょに十字架にかけられた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言う。それはイエスが受ける最後の誘惑――暴力に対して暴力をふるうこと、悪に対して悪で返すこと、人からやられたら復讐することへの誘惑だ。しかしながら、まずルカが、そして教会が今日私たちに言いたいのは、今日の第二朗読にあるように、宇宙の中心にあって、人と人、神と人のあいだに平和を打ち立てる王は、人間が考えるような王ではないということ。王であるキリストは暴力で敵を殺すのではなく、非暴力によって罪人に命を与える神なのだ。

  ピオ11世が今日の日曜日を定めた年から百年近くが経った。もしかしたらよく言われるように人間の歴史の中で一番残酷な百年間だったかもしれない。その残酷さはこんにちも続いていて、この先どうなるか私たちにはわからない。今の時代のために、そして今の時代の中に生きている私たちのために今日の箇所には特別なメッセージがある。十字架につけられて降りなかったイエスを見なさい。イエスは十字架上で死んだ。その瞬間、私たちは救われた。イエスが命を与えたからこそ、私たちは命に戻ることができたのだ。

3.そこで今日の箇所に出て来るのは、イエスといっしょにその十字架の横で十字架につけられた、もう一人の犯罪人だ。もしかしたら泥棒だったかもしれない。殺人者だったかもしれない。とにかく本物の罪人だ。自分の罪を自分で認めて、キリストを見る時に、もう一人の犯罪人をしかるだけではなく、すばらしい言葉でその命を閉じる。今日私たちはその声を聞く。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。読むたびに感動して止まない祈りの言葉だ。ルカの福音書では、イエスに向かって「イエス」と呼びかける人はほとんどいない。「イエス」とは人間的な名前なので、他の人たちは「主」などと呼びかけるからだ。つまり、「イエスよ」とは、友人や愛する人に向かって言うような呼び方なのだ。
 この犯罪人は、私たちにとって象徴的な人物だ。私たちのなかには、完全な人はいない。私たちはみなそれぞれの形で、自分に対して、神に対して、兄弟や家族に対して、自分の職業に対して罪人だ。教会が言うのは、自分の間違いを認めて、この人を見なさい、救いは十字架につけられたイエスにしかないということ。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ルカは楽園という言葉で、イエスの王国の柔和さと愛情を表現しようとする。日本人は庭を愛するが、イエスの王国は、敵に備えて壁を築き人を殺す武器を備える国ではなく、神自身が太陽のように輝く(黙示録22・5)楽園のような場所なのだ。
 今日、教会は信者一人一人だけでなく、全世界に大きなメッセージを届ける。キリストは本当に平和を作る方――もし私たちがじっとその十字架を見て、その十字架を大切にし、その十字架につけられたイエスの考え方を自分のものにするために毎日努力するなら。今日の日曜日は、新しい典礼年に入る前に、これからの一年間に神様が私たちにしてほしいことを考え、そしてそのために祈るための日曜日なのだ。

画像は、アンドレア・マンテーニャ「キリストの磔刑」、1457-60年、ルーブル美術館。