毎週の聖句と黙想2017年(A)

2016年

11月

27日

待降節第1主日

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)

 「時は空間に優る」と教皇フランシスコは言う(『福音の喜び』222-225)が、今日の福音書の箇所は時、つまり歴史についてのメッセージ。歴史は人類の歴史もあれば個人の歴史もあるが、揺れ動く不安定なもの。このような終末論のテーマは、年間の最後の日曜日と最初の日曜日に強く出て来る。ただ注意すべきだが、福音書のポイントは、そういう、人間の知恵でもわかる哲学的な発想にはない。福音書にとってはそこによい知らせがある。もろく消えやすい歴史の中に神が入る。神は一人一人の生活の中にも入って、その時間をポジティブな時間に変える。揺れ動く時間の中に恵みの時間が生まれる。私たちの限りある歴史が救いの旅になる。神がそばにいるその愛と慈しみを知り天に入るための絶好の機会――それが待降節である。
 「待降節」はラテン語ではアドヴェントゥス。これは「待つ」というより「来る」という意味だ。古代世界ではアドヴェントゥスとは皇帝が民を訪問するよい時だった。そして、皇帝が通る時、民は皇帝に「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と言った。だから、待降節は、神が私たちに憐れみと救いを与える恵みの時なのだ。
 この時期の一日一日を生きるために、教会は三人の人物を私たちに示す。預言者イザヤと洗礼者ヨハネとおとめマリアだ。この三人とも、それぞれのストーリーによって、待降節を具体的にどう過ごすべきかを私たちに教えてくれる。特にキリストと特別な関係にあったヨハネとマリアは、イエスのそばにいること、イエスを中心にすることを教えてくれる。それは待降節の大きなメッセージだ。母親の胎内で踊った洗礼者ヨハネは、イエスが近づく喜びを感じた神秘主義者。彼は、砂漠の中で自分のすべてをキリストに捧げた。マリアは肉体的に母であっただけではなく、キリストを中心にして生きた。みことばを思いめぐらすマリア、イエスを成長させるマリア、十字架の下でイエスといっしょにいるマリア――教会もマリアのように生きるべきだ。私たちもこのような人たちのようにキリストのために場所を作るよう教会から勧められている。それでは、具体的にどうすればいいか。

Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。

 まず第一は神のことばを聞くこと。教会は、毎日曜日だけではなく毎日聖書から注意深くことばを選んで私たちに用意している。だから、待降節の四週間のあいだにみことばに親しむことが理想だ。イエス自身が神のことばなのだから。
 第二は祈り。待降節は代表的な祈りの時期だ。たくさんの言葉を重ねるのではなく、静かな祈り、観想的な祈りが勧められる。聖体を大切にし、習慣になってしまった典礼に新たな心で参加して、その癒しを知り、ミサを再発見すること。それこそ、キリストの降誕だ。
 第三は回心。赦しの秘跡は、自分の罪を中心にした告解ではなく、喜びの秘跡だ。医者に行くとき、私たちは医者に自分の病気を隠さず打ち明ける。同じように、私たちの傷を癒してくださるイエスを信頼して自分の生活について彼に打ち明けるのが告解だ。多くの人が告解する機会に二三分で終わる告解だけではなく、年に一回ぐらいはもっとゆっくりした個人的な告解をしたいもの。内容としては、朝晩の祈りを怠るといった、決まりに反することだけでなく、自分の生き方が本当にキリストに向かっているか、自分の本当の病気を調べて神に示す。
 第四は、人に対するよい行い。この時期、教会は断食など節制を勧める。けれども、その目的は断食そのものではなく、私たちがキリストに対して抱いている希望を実現すること。具体的に言うと、周りの人たちへの関わり方を見直したり、子どもなど家族にどう信仰を伝えるかを考えることなど。
 最後に、待降節は、出産を待つ母マリアのように、キリストの降誕を待つ時期。断食の苦しみではなく、待つ喜びの時期なのだ。苦しみや悪や自分の罪など、喜びに反することはいろいろあるけれど、神から返ってくるのは喜びのチャンスを与える返事なのだ。

画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。


2016年

12月

04日

待降節第2主日

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)

画像は、「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵。

 待降節第2主日に前面に出て来るのが預言者イザヤと洗礼者ヨハネ。この二人はまったく違った時代に生きた人物で、立場も違えばスタイルも違う。しかし、教会が今日この二人について伝えるのは、来るべきメシアがどういう方であるかを示すため。第一朗読のイザヤの預言によると、堕落したイスラエルにも倦まずに神が送るメシアは、世界を新しくし、人々のあいだに平和をもたらす方。福音朗読の洗礼者ヨハネによると、メシアとは私たちの複雑な生活を整理し、清める力のある方。そして、第二朗読のパウロによると、メシアは僕として仕える方だ。
<第一朗読>
 イザヤは、イスラエルの歴史で一番重要な預言者。今日読まれた11章の箇所は第一イザヤのうちインマヌエルの書と呼ばれる部分(7・1-11・9)に属していて、詩の形式で書かれている。この箇所で使われているのは二つの違った種類の比喩、植物の比喩と動物の比喩である。 
 植物の比喩とは、切り株(「エッサイの株」「その根」)だ。幹を切りとられ、乾燥し、命を失った枯れ木というシンボルは、ユダヤの王国が罪に陥っている状態を意味する。その状態から、突然、一つの芽が出る。命が絶えたところに、神の力によって命が吹き込まれる。人間が何もできないところに、神の憐れみによって救い主が送られる。パウロのテトスへの手紙では、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(2・11。また3・4、3・5)と言われる。イザヤがこの箇所で言っているのも、神の恵みであるメシアについてなのだ。
 若枝を揺らす風は、イザヤが霊について考えるきっかけとなる。風も霊もヘブライ語では「ルアー」という同じ言葉で呼ばれる。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(11・2)。ここでは、霊という言葉が4回使われている。これは、東西南北という4つの方向を意味し、全世界を表現する。つまり、イザヤが言うのは、救い主によって全世界に霊が注がれ、世界が新しくされるということ。イエスがはじめて故郷ナザレに戻った時、「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)というイザヤの言葉は「今日…実現した」(ルカ4・21)と言ったことが思い出される。
 そして、私たちの心に染み入る美しい言葉が続く。その時、私たちの生活は、見た目や人の噂によって判断されるのではなく、正義と愛によって判断される。私たちの心を本当に知っている方、私たちを愛している方によって判断されるのだ。その方によって私たちは悪から救われ、その霊は私たちの弱さを助けに来る。
 この箇所の後半では、新しい創造のイメージが動物の比喩で描かれている。狼と子羊、豹と子山羊、若獅子と子牛といった、対となる動物は、不正義や束縛を伴う私たちの人間関係を意味する。人間の抱える問題には個人としての問題だけではなく家庭や社会の中での問題がある。当時と同じようにこんにちも、私たちは人間関係に悩み苦しんでいる。人間がいっしょに生きる苦労やつらさに神は憐れみを抱き、その関係を癒すためにメシアを送る。神は来るべきメシアによって、私たちの人間関係を正義と平等と平和の関係に直す。私たちはそれぞれの個性のために互いに敵となるが、新しい世界では自分の個性を保ちながらも、人とうまくつきあうことができる。一人一人の個性は神からの賜物であり、新しい世界ではその個性が生かされるのだ。
<福音朗読>
 今日の福音書の箇所には洗礼者ヨハネが出てくる。彼の特異な言葉遣いには、第一朗読にあったテーマが新しい形で出てくる。
 「荒れ野で宣べ伝え」。「荒れ野」はイスラエルの民にとって大きな意味がある場所。イスラエルの民は荒れ野で神と出会い、また誘惑を受けた。
 「天の国は近づいた」。「天の国」はマタイの特別な言葉だ。マタイは「神の国」と言う代わりに「天の国」と言う。
 「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」――それはエリヤの格好(列王記下1・8)だった。つまり洗礼者ヨハネは預言者の格好をしていたのだ。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者として、強い魅力を放ち、メシアが来る直前であり大きな変化があることを力強い言葉で告げる。 
 「ヨルダン川で」。旧約時代、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったのがヨルダン川だった。だから、ヨルダン川に戻るのは、新しく一から始めることを意味する。 
 「彼から洗礼を受けた」。注意すべきなのは、マタイが洗礼者ヨハネの洗礼について伝えるときに、罪の赦しという言葉を避けていること。ヨハネの洗礼には罪を赦す役割はない。マタイにとっては、人間の罪が赦されるのはイエスの十字架によってだけだから。ヨハネ自身も言う、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
 マタイ福音書で洗礼者ヨハネの言葉に出て来るのは、厳しい裁判官としてのメシアのイメージだ。そこには、もみ殻と火という二つのおもしろい比喩がある。飛ばされ燃やされるもみ殻とは、私たちの生活の中にある無駄なもの、土台のないもののこと。詩編第1章にも、正しい人は「流れのほとりに植えられた木」だが、悪人は「風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。ヨハネの言葉は厳しく思えるが、よく見れば、私たちを悪から清め解放するキリストの役割を示している。
<第二朗読>
 パウロの手紙の箇所は今日の朗読で一番感動するところ。ここで最初に言われているとおり、忍耐と慰め、希望を抱くことができるところだ。つまり、メシアは権力をふるう王として来るのではなく、僕として、「仕える者」として命を尽くし、自分の霊を注いで、平和を宣言する。それは、みんなが一つの心と一つの声でキリストの父である神に栄光を帰することができるためなのだ。こういったテーマはすべて、パウロの手紙に豊富に出てくる。
<まとめ>
 待降節はこのような聖書の流れの中に入るように勧められる時。キリストの言葉と命によって恵みを受け、キリストのようにお互いを受け入れ、お互いに耳を傾け、お互いに目を向ける時だ。来るキリストに心を広げる人だけ、「天の国」に入ることができる。

2016年

12月

11日

待降節第3主日

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)

アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
 今日の福音書は先週と違った形で洗礼者ヨハネを登場させる。ヨハネは今度は、ガリラヤから離れた死海のほとりの牢にいる。聖書学者が言うには、ヨハネは牢でも特別な扱いを受けていた。ヨハネを牢に入れた領主ヘロデは後にヘロディアの娘のためにヨハネを殺させる(マタイ14・10)が、ヨハネのことを嫌ってはいなかった。だから、弟子たちが牢に出入りしていたようだ。それで、ヨハネは、自分の目で見ることができないとはいえ、キリストが行なった奇跡について人から聞いていたのだ。 
 話を聞いたヨハネは、弟子をイエスのところに送って、核心的な質問をする。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ここでヨハネがはじめて発したこの問いはそれ以降、救いを探し求める人の問いだ。それは、抽象的な理屈の問いではなく、命賭けの深い問いだ。母の胎内にいた時にもイエスに洗礼を授けた時にもキリストに気づいた偉大な神秘主義者であり、旧約時代の最後の預言者であったヨハネが今、死の危険に面して、迷いと荒みにあってその問いを発する。死ぬ前のマザー・テレサにもこのような暗闇の時期があったと言う。 
 洗礼者ヨハネは、メシアは良い実を結ばない木を斧で倒し、もみ殻を火で焼き払うと考えていた。つまり、メシアが来るとき、世の罪人が滅ぼされると考えていた。だから、イエスの行ないについて聞いたとき、イエスがメシアだと確信をもつことができなかったのだ。イエスについてのこのようなつまずきは他にもある。例えば、イエスの受難と死の予告を聞いてイエスをいさめるぺトロ(マタイ16・22)。あるいは、「お前は神の子、メシアなのか」と聞いた大祭司カイアファ(マタイ26・63)もイエスにつまずいた。 
 イエスはカイアファに対して「それは、あなたが言ったことです」と答える。イエスは、メシアかどうかの答をその人自身にゆだねる。イエスをメシアと信じるかどうか、それは一人一人の賭けなのだ。イエスは洗礼者ヨハネに対しても直接的には答えず、イザヤを引用して間接的に答える。イザヤのその箇所で預言される癒しは、マタイ第8章と第9章の5つの奇跡――2人の盲人(9・27-30)、重い皮膚病の人(8・2-4)、中風の人(9・1-7)、ヤイロの娘(9・18、23-26)、口の利けない人(9・32-33)――で伝えられている。そして、イザヤの「貧しい人は福音を告げ知らされている」は真福八端の最初(マタイ5・3)だ。 
 イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」と言う。イエスを信じるためには、そのつまずきを乗り越え、メシアについての、神についての考え方を根本的に変えなければならない。新しい見方を受け容れ、神の深みを知らなけれならない。つまり、来るメシアは、私たちが想像するような、いい人の神、よい行いに報いる神ではなく、人間のあらゆる期待を越えて人間を愛する神、人間のどのような行動よりも先に人間に愛を与えいつくしみを注ぐ神なのだ。貧しく無力で、最後に十字架につけられる神はそのような神だ。待降節に私たちに求められるのは、悪い生活からよい生活に移る単なる道徳的な回心ではなく、まさにそのような変化だ。

 洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。

 さて、それまでの箇所では、洗礼者ヨハネがメシアについて話していたが、ここで役割の変化が起こる。ここからは、メシアであるイエスが洗礼者ヨハネについて話すのだ。マタイは、洗礼者ヨハネに感動するイエスの言葉を記録している。イエスが言うには、ヨハネは雅人ではなく、骨のある人。偽物の人間ではなく、本物の人間、権力も利益も求めず自由な人間だ。イエスはヨハネを愛する。清く正しく真っ直ぐな生活を送ったヨハネをこれまで生きた人の中でもっとも偉大だと誉める。 
 しかし、イエスは言う、神の国(マタイは「天の国」と言うが、聖書学者によると、それはイエス自身の言葉ではなく、弟子が変えた言葉かもしれない)では、どんなに小さな子供でも、ヨハネより偉大だと。キリスト者は恵みによって救われる。救われるために必要なのは神からただで来る恵みを子供のように受け入れる心だけ。誰もが最初から愛されているという自覚から私たちは自分の罪と弱さを告白し神から救われて、その救いを人に伝えることができる。 
 それでは、洗礼者ヨハネは救われなかったのだろうか。古代の教父たちのあいだにはそのような論争があった。しかし、アレクサンドリアのクレメンスによると、ヨハネは救いから除外された者ではないと言う。ヨハネが語った言葉だけではなく、彼が送った生活を見ると、神の愛を受け容れる態度をとっていた、と。 
 今日、教会が私たちに示す洗礼者ヨハネの姿は偉大な宣教者の姿だ。ヨハネについて本を書いたダニエル大枢機卿は、ヨハネは弟子を自分のところに引っ張るより、自分の弟子を手放してイエスのところに送ったのであり、そこによい宣教者の模範があると言う。ヨハネは、自分のために人を奴隷にするのでなく、キリストのために人を自由にする、と。 
 なぜヨハネは待降節に登場するのか。やはり当たり前のことにとどまらず、大きな問いを抱く必要があるから。私が信じているのは本当にキリストの教えか。私は本当に神の言葉を理解しているか。それとも理解を改めなければならないか。いつでも思い出さなければならないのは、神は私たちをはるかに越えているということ。そして私たちを越えているキリストに会う喜びだ。

2016年

12月

18日

待降節第4主日

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)

フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。

 今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。

 「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。

 何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。

 

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。

 「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。

 「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。

 福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。

 そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
 宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。

 教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。


2016年

12月

25日

主の降誕

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)

タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)
タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)

 待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。

 福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。

 第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。

 第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。

 第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。

 注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。

 そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。

 亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。

 第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。

 最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。 

 


2017年

1月

01日

神の母聖マリア

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)

Sub tuum praesidiumのテキスト(ラテン語原文と日本語訳)はこちらにあります。


 夜は明けて朝になり、冬は終わって春が訪れ、一年は過ぎて新しい一年が始まる。私たちはそう考えて毎日の生活を送っているが、イエスの弟子にとって大切なのは、季節の巡りではなく、神の言葉だ。私たちは神の言葉によって方向を決めて、先へ進む。だから、新しい一年が始まるお正月も教会はイエスの降誕の光によって照らされるのだ。お正月に平和のために祈るとしても、教会が信じるのは、本当の平和は、神から送られ、マリアから生まれたその言葉であるということ。 
 典礼によると、今日は神の母聖マリアの祭日。実は、この祭日に教会が伝えたいのはマリア自身ではなく、イエスについてだ。マリアが神の母であるという信仰によって教会が伝えたいのは、ベツレヘムで生まれたイエスが本当に人間でありながら本当の神であること。だから、マリアの祭日だが、中心はイエスなのだ。
 今日の福音朗読の箇所は実は、主の降誕の早朝のミサと同じ箇所。早朝のミサは日本の教会では捧げられないことも多いが、今日の祭日には読まれる大切な箇所だ。天使のお告げを受けたマリアは「急いで」エリザベトを訪問したと報告したルカはここでも同じことを言う。天使の知らせを受けた羊飼いたちは「急いで」(16節)ベツレヘムに向かうのだ。福音書のこの箇所によって教会は、私たちも急いで(喜んで)ベツレヘムに向かい、生まれた赤ちゃんイエスの観想をするように勧める。なぜなら、その赤ちゃんにキリスト教の中心があるから。そして、愛情を込めたその観想から生まれるのがキリスト者の生活なのだ。 
 「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。出来事だけではなく出来事の裏にある意味を伝えようとする神学者ルカがここで使っている「飼い葉桶」という言葉に注目すべきだ。「飼い葉桶」とは、動物のえさを入れる場所だが、この言葉の裏にはもっと大切なものが隠されている。ある聖書学者が最近強調しているのは、ギリシア語の原語が意味するのは、石でできた容器よりも、編んだ籠だということ。特に当時の習慣では、ロバの鞍の両脇に二つの籠がぶらさげられた。一方の籠には農作業の道具など汚れたものが、他方の籠には清潔な食べ物が入れられたという。また、ベツレヘムという町の名前は「パンの家」を意味する。だから、ルカが言う「飼い葉桶」とはパンの籠であり、その中に寝かされた赤ちゃんは、最後の晩餐の時にイエスが私たちに遺してくださった聖体のことなのだ。 
 実際のところ、クリスマスに教会がミサで記念するのは、二千年前に生まれた一人の人ではなく、聖体の形で今生きているキリストだ。キリストは毎日曜日聖体によって私たちの中に生まれる。それが本当のクリスマスだ。キリストこそが本当の平和であり、私たちはそれを賜物として受け兄弟と分かち合うべきなのだ。私たちは赦されて人を赦すのでない限り、そのパンを受けるのはいけないということになる。

  「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。「知らせる」の原語はギリシア語のラレオーで、ルカはこの言葉を、その福音書と使徒言行録の両方で約90回使っている。飼い葉桶の赤ちゃんを見て驚いた羊飼いたちは宣教師になったのだ。イエスが預言された救い主であることを伝えると同時に、言葉であるイエス自身を伝える宣教師になったのだ。それは、公生活を始めたイエスの言葉と行いにいろいろな人たちが驚き、宣教師になったのと同じだ。 

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。ここでは「(心に)納める」と「思い巡らす」という二つの言葉が使われている。「思い巡らす」とはギリシア語でシンバローという言葉で、「いっしょにする」という意味。つまり、それはイエスをすべての中心にするということ。だから、「心に納めて」「思いめぐらす」とは、イエスを信じて、心の中にそのイエスを保ちながら、世のすべてのことがイエスの方に流れているのを体験することだ。マリアと同じように教会はイエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想する。教会は母マリアから倣って、イエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想して生きるのだ。 
 「羊飼いたちは…帰って行った」。普通の生活に戻るのは宗教の力のしるしだ。普通の生活に戻りはするが、以前の生活に戻るのではない。彼らは大きな体験をして、イエスを知りイエスの弟子になりイエスへの憧れを抱いた。外からは見えないが、見ること聞くこと行うことの意味が以前とは完全に変わっている。彼らは救いの状態に生きているのだ。彼らにとってはすべてが神に向かっておりすべてが神聖なものになっている。キリスト者はその体験の後、マリアのようにキリストを運ぶ神輿として世の中に歩き出す。 
 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」。この節は主の降誕の早朝のミサにはなかった節。ルカはここで、割礼という、神の契約を守ることよりも、名前をつけることを重視している。イエスという名は「救い主」を意味するのだ。  
 私たちの教会の一番小さい鐘には、マリアに対しての教会の一番古い言葉が刻まれている。スブ・トゥウム・プレシディウム――今日の日にはこのような言葉でマリアに祈るのがふさわしい。イエスの名に対しても、キリスト教の霊性には特別な信心がある。私たちも、マリアのように聞く心とイエスの名前を唱える恵みを願いたい。

2017年

1月

08日

主の公現

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)

(黙想はこちら


2017年

1月

15日

年間第2主日

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
 主の洗礼の祝日とともに教会暦は待降節から年間に移行したが、年間第2主日には、主の公現の祭日に祝った現れとのつながりを意識して、共観福音書ではなくヨハネ福音書が読まれる。今年A年に読まれるのは、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼について証しする箇所。イエスの洗礼について、ヨハネ福音書はそれ自体としてではなく洗礼者ヨハネの証しとして書くが、三つの共観福音書はその出来事とその神学的意味をそれぞれの形で書いている。ところが、主の公現の祭日を主日に移して祝う日本では、今年は暦の関係上主の洗礼の祝日がその翌日の月曜日に祝われた。しかし、イエスの洗礼についてのマタイの朗読箇所は非常に大切なので、その箇所を見ることにする。
* * * 
 マタイ福音書では、イエスの幼少時代の物語は、ヘロデの迫害の後のエジプト逃避行とナザレへの帰還で終わる。イエスが次に登場するのは、その30年ほど後のこと。その間の出来事について福音書記者マタイは何も書いていない。なぜか。それはマタイにとって大切ではないから。マタイにとって大切なのは、イエスの死と復活、その前にある公生活である。イエスの洗礼はその公生活のはじめにあり、イエスを知るために重要な出来事だが、マタイにとって洗礼は特に重要だ。マタイ福音書は、イエスの洗礼と、福音書最後の弟子たちの派遣の言葉「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」で両側から包まれているから。 
 マタイ福音書では、イエスの洗礼は一つの問題で始まる。それは、福音書では洗礼者ヨハネとイエスの会話の形でまとめられているが、初代教会が抱えていた大きな疑問である。救い主であるイエスがなぜ洗礼を受けたか。ヨハネの洗礼が意味するのは死であり、罪人が回心して罪に死ぬことであるのに、罪人に対して裁きを行うべき「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。 
 これに対するイエスの答えは大切だ。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、正義ということ。ヨハネにとって、正義とは悪に対する裁きであり、罪人の死だったが、イエスにとって、正義とは、世に注がれる、父なる神の愛情のことだ。イエスによって現される神は、生贄を求める神ではなく、罪に落ちた人間を愛して自分の子を捧げる神なのだ。イエスは、ライオンのような姿でなく、ヨハネ福音書で洗礼者ヨハネが言うように「子羊」として、民の罪をかぶって身代わりとなって砂漠の中に死ぬ神の子羊として現れる。上空を飛ぶ強い鷲ではなく、ルカが言うように「雛を羽の下に集める」(13・34)めん鶏として現れる。洗礼者ヨハネが考えていたように、斧で切り倒し火で焼き払う強い者ではなく、弱い赤ちゃんとして現れる(「わたしはこの方を知らなかった」)。イエスが宣言する神の国は、イチジクのつぼみ、一つまみのパン種、未亡人の二レプタのように小さく目立たないものなのだ。イエスが言おうとしているのは、人間の罪を取り除くのは軍人のような力ではなく、母のようなやさしさ(教皇フランシスコがいつも言う「テルヌーラ」)、そして神の愛の美しさだということ。罪の根本は人間の弱さではなく、神に反する人間の心だから。

  洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。 

 「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。当時のユダヤ人の理解では、七つの天があり、律法学者の説明によると、そのあいだには500キロの距離があり、その奥に神の王座があった。神はそれほど遠い方だと考えられていたのだ。しかし、イエスによって開かれた天はもはや永遠に閉じられることがない。
 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。「イエスは…ご覧になった」。マタイによると、それはイエスの内面的な経験なのだ。神の霊が降るとは、神の力が完全にイエスの中にある、イエスが神の子である、ということ。「鳩のように」とは、洪水の後に戻ってきて新しい創造を告げる鳩をはじめ旧約聖書の箇所を参照している。洗礼を受けたイエスは、神の霊が宿る巣であり、父なる神は、この巣の中に降りて永遠にとどまる。 
 「そのとき、…声が、天から聞こえた」。何百年も前から、神は民の罪に怒り、民に語ることをしなかった。その神の声が、イエスの洗礼の時に遂に聞かれたのだ。 
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この短い言葉の中には、旧約聖書の次の三つの箇所が見事にまとめられている。1.「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)。2.「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク…を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22・2)。3.「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ」(イザヤ42・1)。僕とはただの召使いではなく、権限を与えられた代理のこと。
 イエスが洗礼を受ける時、神はイエスが自らの子であることを荘厳な形で私たちに知らせる。イエスは、父なる神の愛の完全なイメージ。神を見ることができる人間はいないが、イエスを見る人は神を見る。
* * * 
 福音書記者マタイにとってはイエスの洗礼それ自体が大切だが、福音書記者ヨハネにとっては洗礼者ヨハネによる証しということが大切だ。ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出て来るだけではなく、福音書そのものが「証し」として書かれていることがその結びの箇所からもわかる。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21・24)。私たちも、キリストを知った体験を人に伝えるように呼ばれている。

2017年

1月

22日

年間第3主日

「わたしについて来なさい」。(マタイ4・19)

ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
 キリストがどういう方かを黙想した待降節と降誕節の後、年間に入った。30年間にわたるさまざまな準備が終わり、いよいよイエスの活動が始まる。 
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。カファルナウムはティベリア湖のほとりにあった町で、発掘調査によると、当時千人ほどの人口だったと推測される。大きな町ではないが、北と南、東と西をつなぐ重要な道の十字路に位置していて、税関もあり(そこの徴税人の一人がマタイ)、地中海とも連絡していた。エルサレムから離れており、さまざまな民族が入り混じって住み、ギリシアの影響も強い町だった。教皇フランシスコが使う言葉で言うと、ペリフェリア(周辺)の町だ。つまり、イエスがその活動を始めたのは、ユダヤ教の信仰が確立されて熱心に実践される場所ではなく、異教の宗教も入り込んでさまざまな問題がある場所だったのだ。神が世に入るためには、このような状況を選ぶと福音書記者マタイは強調して、イザヤ第8章の最後から引用する。 
 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。マタイはいつも旧約聖書によってイエスの物語を神学的に理解しようとするのだ。私たちが抱えているさまざまな問題という「暗闇」の中にキリストが「光」としてやってくる。イエスは、よい人、正しい人を呼ぶために来たのではなく、病気や悩み、物質的精神的な問題のただ中にある人たちと接触するために来た。それは、福音書に何度も出て来るテーマだ。今のパパ様も、教会が本当に出かけるべきなのはこういうところだと言う。キリストは私たちの限界状況にやって来る。

 今日の箇所には、 まさにそんな状況にあって、まず最初にイエスに憧れを感じた人物への呼びかけがなされる。それがペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブという二組のカップルだ。彼らは漁師にすぎない。イエスは、教育を受けた専門の宗教家ではなく、生活の矛盾に陥っている人々を集めて弟子にするのだ。この人たちにに「天の国は近づいた」のは、この人たちがいい人だからではなく、神がこの人たちに関心があるからなのだ。 

 イエスはこの四人の一人ペトロの家を住まいとして3年間住むことになる。ぺトロが住んでいたその家は今でも残っている。村の一番端の家がペトロの家だったそうだ。 
 今日の箇所で大切なのは最後の節。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。年間の典礼が始まるこの時期に、この最後の節は大切だ。年間の典礼では、イエスの公生活の出来事を外面的に思い出すだけではなく、イエスといっしょに歩む旅であり、そこで私たちの癒しも行われるから。典礼にはその力がある。これから始まる年間の典礼は癒しの旅。イエスは私たちの病いや苦しみの中に入る。だから、私たちも四人の弟子たちのように、イエスがやることなすことにすぐに目を向けるように教会から勧められている。

2017年

1月

29日

年間第4主日

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。(マタイ5・3)

フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
  降誕節や復活節は、イエスが神から送られた救い主であることを観想する時。「救う」ことは「癒す」ことと同じだから、イエスが私たちの心を癒す本当の医者であることを観想する時とも言える。それに対して、年間は医者であるイエスが私たちの心を治療する時。今日の箇所の裏にも私たちのさまざまな病気が描かれている。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」。イエスが宣教を始めたカファルナウム付近には丘がある程度。また、ルカ福音書の並行箇所では「山」ではなく「平らな所」と書かれている。つまり、福音書記者マタイは歴史的出来事を書いているだけではなく、その出来事の裏にある神学的意味を表現しようとしているのだ。マタイの念頭にあったのはシナイ山。カファルナウムから何千キロも離れた険しい山で、神がモーセに十戒を授けた山だ。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが私たちを神の国に導く本当のモーセであり、モーセはイエスのしるしだったということ。
 今日の箇所から始まるマタイ福音書の三つの章は、山上の説教と一般に呼ばれ、イエスが3年間の公生活で話した内容が5つの話題にまとめられている。この5という数字は、「(モーセ)五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書物を示唆している。つまり、マタイが言いたいのはやはり、イエスが新しいモーセであるということ。
 山上の説教の最初の箇所にあたる今日の箇所は真福八端と呼ばれ、世界の歴史の中で一番素晴らしい言葉とガンジーも言っている箇所。言葉に尽くせないほどの意味がある。解釈するより、沈黙、祈り、観想を通じて、その特別な恵みを汲みとりたい。
 「...幸いである」。日本語で「幸い」と訳されている原語は、ヘブライ語では「アシェール」、ギリシア語では「マカリオス」。いずれの近代語に訳す時も聖書学者が苦労する言葉。「幸い」と言うと、「運がいい」と理解されるが、それでは意味が通じない。苦しんだり、迫害するのが運がいいということになるから。注意すべきなのは、原語が旧約聖書で45回使われる特別な言葉であるということ。フランス人でもユダヤ人でもあり新旧約聖書全巻を仏訳した聖書学者アンドレ・シュラキはこの言葉を、通常のようにbienheureuxではなくavant(先へ)というフランス語で訳した。つまり、イエスがこの言葉を使って言いたいのは、起き上がって(=復活)先へ進みなさいということ。あきらめてはいけない、がんばりなさい、神はあなたとともにいる、ということ。神は、苦しんでいる人のどんなに小さな溜息にも気づき、その泣き声を聞き取って、その目から涙をぬぐい取るのだ。
 マタイのこの箇所には8つの「幸い」について語られている。いくつかの言葉について少し説明しよう。
 「心の貧しい人」。同じ言葉を記録しているルカが金持ちのギリシア人相手に布教していたのに対して、マタイは貧しいユダヤ人を相手に布教していた。貧しさとは何のことか。貧しさとはものが足りないということだけではない。この箇所では、アナウィンという有名なヘブライ語の言葉が使われている。これは、神の貧しい人という意味で、みんなから見捨てられ友だちも味方もまったくいない、もう神しかいないという人のこと。本田哲郎神父は「圧迫された者」と訳す。釜ヶ崎の労働者のように、みんなから見捨てられ踏まれてつぶされた人のことだ。そのような人たちに向かってイエスは言う、「幸いである」、つまり、「がんばれ、神があなたたちのそばにいる」と。今日の第二朗読のパウロの手紙にも、神は「無力な者」を選ぶとある。神は、弱い人によってすべてを新しくするのだ。
 「柔和な人々」。臆病な人という意味ではなく、非暴力を選ぶ人のこと。暴力や権力や富によって人の上に立つことを重視するこんにちの世界ではとても大切なメッセージだ。私たちキリスト者も歴史の中で暴力の誘惑を何度も受けているし、身近なところでは、ゴシップなども暴力の一つ。それに対して、父母のような心をもち、相手の弱さを利用するのではなく、相手を癒す人こそ幸いだとイエスは言う。
 「義に飢え渇く人々」。正義に飢え乾くとは、誰も味方してくれないということ。そんな時、神は言う、私が味方だと。人間の言う正義は往々にして正義ではない。昨年京都賞を受賞したアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウムが言うように、人間はよく正義の名の下で復讐するから。死刑制度もそうだ。しかし、神の正義はそうではない。いつくしみの聖年にパパ様が言い続けたように、神の正義はあわれみだ。母親が病気になった子どもが元気になることを望むように、神は罪人が立ち直ることを望む。神の正義はあわれみなのだ。
 「心の清い人々」。それは貞潔な人を意味するのではなく、神の目でものを見る人のこと。イエス自身、囚われない目でさまざまな人を見てあわれみを感じ、身の回りの自然の有様にも目を留めていた。
 「平和を実現する人々」。暴力が溢れるこんにちの世界。私たち一人一人に何ができるだろうか。たとえ大きなことはできなくても、小さなことから始めることができる。たとえば、挨拶。挨拶とは相手に気がつくこと。聖書でもとても大切だ。天使はおとめマリアに挨拶したし、パウロも手紙で挨拶している。典礼でも大切だ。挨拶するとは、相手が自分にとって大切だと表現すること。相手に対してそのような心をもつのでなければ、教会に来てミサに与っても無意味になってしまうかもしれない。世界平和は身近なところから始まる。相手を理解し、受け容れ、赦すことから始まる。
 「義のために迫害される人々」。この言葉には現代的な意味がある。カトリックは世界でもっとも迫害されている宗教だから。日本のキリシタン時代にも『マルチリヨの勧め』という本が印刷されており、殉教から逃げるのではなく、イエスにならって相手を赦して殉教するように宣教師は信者を教育していた。禁教時代に潜入した宣教師シドッチも、10年間キリシタン屋敷に幽閉されても、牢番が風邪を引かないように気を配っていたという記録が新井白石の『西洋紀聞』にある。
 今日の言葉も山上の説教全体も、イエスの口から出た言葉であるだけではなく、イエスの生活そのもの、イエスのいのちそのものだ。私たちも、言葉でも模範でも神の国に入るために宝物として大切にしたい。そこに私たちの喜びと幸せの秘密がある。

2017年

2月

05日

年間第5主日

あなたがたは世の光である。(マタイ5・14)

ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
 私たちは山上の説教を6週間かけて読む。先週はその最初の箇所を読んだ。少し難しいがすばらしいページで、そこでイエスは美しい生活のイメージを描いた。今日の箇所では、そういう美しい生活が自分のためだけでないこと、イエスの弟子は他の人に対しても大きな責任があることをイエスは教えている。キリスト者は自分の完成を目指すだけではなく、人に伝えなければならない。信者の場所は、教会ではなく、世の中なのだ。 
 このことを教えるためにイエスは、非常に印象的な二つの比喩を使う。一つが塩、もう一つが光だ。イエスが言おうとしていることを理解するためには、この二つの言葉が使われていた当時の環境を黙想すべきだ。 
 「あなたがたは地の塩である」。キリスト者は、イエス自身であるパンを食べ、イエスの味を知って、この世に塩味をつける。塩味とは具体的に何を意味するか。それはイエスの価値観のこと。塩が食べ物に塩味をつけるのと同じように、キリスト者はイエスの価値観をこの世にもたらす。それは、この世的な価値観、人間的な価値観(近頃言われる「ポリティカル・コレクトネス」)とは違った新しい価値観で、人生に意味を与える。 
 イエスの言葉で示唆されているのは、「塩」が食べ物を腐敗から守り保存する役割もあること。山上の説教がなされたカファルナウムの近くにはマグダラの町もある。死海沿岸は岩塩の産地だが、マグダラは何千年も前から魚の塩漬けの技術で有名で、マグダラで塩漬けされた魚はエジプトまでも運ばれたそう。塩が魚の腐敗を防ぐように、キリスト者は社会の中に善や美などの価値が消えないようにする役割がある。神の美しさを世の中に保つのがキリスト者だ。 
 それだけではない。当時、塩には、友情や契約というもう一つの意味があった。塩の契約とは、ヤーウェとイスラエルとのあいだに交わされた絶対に破られない契約のことであり、その契約のしるしとして、塩入りのパンを食べる習慣があった。キリスト者は、神と人との契約をこの世で保つ役割がある。その契約の根本は、神の人間への愛、人間の神への忠実だ。だから、神が人間を愛することを世の中に示すと同時に神に対しての忠実を示すのがキリスト者の役割だ。 
 「塩に塩気がなくなれば」。イエスが言うには、塩もだめになり、塩味を失う恐れがあるということ。ギリシア語原語には、「狂う」とある。 
 塩に塩気がなくなるとは具体的にどういうことか。塩の役割は食べ物の中に浸みこむことだが、塊のまま残るなら、その役割を果たせないということ。つまり、それは、キリスト者が人と交わらず、人から離れてエリートの教会を作る危険、 自己満足の教会(教皇フランシスコ)を作る危険だ。
 または逆に、水や蜜など他のものと混ぜられること。つまり、これは、キリスト者が世の中にいることで、テレビなどのマスコミ、一般常識などを受け容れて、世の価値観に影響されて、キリスト者としてのアイデンティティを失う危険だ。その結果、教会がただの人間的な組織になってしまう。

 塩はものに味をつけ、ものを変えるが、光はものを照らしても、ものを変えない。塩が味をつけ腐敗から防ぐのに対して、光はよく見るための明かりであり、何がいいか悪いかを理解し、何に価値があるかないか、何を選ぶべきかを判断するための力だ。

 光とは具体的に何か。ユダヤ人にとって光とは神そのものであり、また神の掟である律法、トーラーのことだった。そのために、神殿の奥、律法が納められた至聖所には、メノラー(燭台)がいつも灯されていた。だから、「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉には注意すべきところがある。本当の光はやはり神であり、神から送られたイエスであって(「わたしは世の光である」ヨハネ8・12)、イエスの弟子はその光によって照らされた者だ。キリスト者は、太陽に照らされて輝く月のように、自分の光で輝くのではなく、キリストの光に照らされて人のために光になり、人を照らすのだ。
 「あなたがたは世の光である」。これは、これから旧約聖書ではなく、イエスを信じたキリスト者が世の光だということ。シャガールが有名な絵画「白い磔刑」でメノラーの上に十字架を描いたように(こちらを参照)、神の掟の上にキリストの十字架が輝く。イエス自身、そしてその言葉と生活が光であり、キリスト者もそのイエスの光を伝える者として光と言える。
 「山の上にある町は、隠れることができない」。この言葉はイザヤの預言を示唆している。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」(2・2)。 「山の上にある」と言っても、権力をふるうためにではなく、愛やいつくしみを注ぐために、十字架がエルサレムの外の丘の上に立ったようにあるのだ。
 「ともし火をともして升の下に置く者はいない」。当時は、麦を量るために、秤の代わりに升を使っていた。升は逆さまにして燭台としても使われたが、ともし火を消す時にも使われていた。升の下に置くとは、人間的世間的な価値観でイエスの言葉を曲げてしまうこと。さまざまな信心も、イエス自身を隠す御利益宗教になりかねない。自分の利益のためにイエスの教えを使ってはならない。 
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。これは、自分の行いを自慢するという意味ではない。自分の行いを人に見せるとか、自分が目立つとか、宗教を自分の名誉のために使うのではなく、自分は透明になって本当の光である神、イエスを映し出すということ。そして、イエスが示した神の美しさを理解させなさいということ。
 英国国教会からカトリックに改宗した福者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)とともに、祈りたい、「導きたまえ、やさしい光よ」(祈りの全文と訳はこちら)と。

2017年

2月

12日

年間第6主日

あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5・20)

ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
 先週に続き、今日の箇所も山上の説教の一部。かなり長く、さまざまなテーマを含んでいる。その一つ一つを説明すると長くなるから、いくつかの点についてだけ簡単に説明したい。 
 マタイが話している相手は、他の福音書記者とは違い、ユダヤ教徒からキリスト者になった人たち。彼らはある特殊な問題を抱えていた。モーセの掟とイエスの教えの関係をどう考えたらいいかという問題だ。それは、キリストに出会ってから旧約聖書を知ったこんにちの私たちには無縁の問題だ。けれども、その問題に答える今日の箇所にも、よく読めば、私たちにとっても大切なものが含まれている。 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。つまり、これまでの掟の理解は不完全だったということ。ファリサイ派のいろいろな人がそうであるように、掟の文字を守っても、掟の心を忘れてしまったから。それに対して、イエスの弟子は、掟を行なうために、外側からではなく、内側から始めなければならない。新しい掟は心の中から始まる。神から愛を受けた体験から始まる。そして、掟の実現とは、人に対してその愛を分かち合うことなのだ。外側に関心をもつファリサイ派はできるだけ少なく掟を守るが、内側を大切にするキリスト者はできるだけ多く神を愛し、できるだけ多くよい行いを人にすべきだ。
 モーセの掟とキリストの教えの関係を示すために今日の箇所では6つの例が使われている。 目につくのは、どの例でも「…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言われていること。この表現(「反対命題(アンチテーゼ)」)は、当時のラビたちが律法について解釈するときに用いた表現だが、イエスは、この表現によって単なる解釈ではなく、新しい意見を出しており、そこにイエスがメシアであることが示されている。
1.「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが言うのは、殺すとは外面的に殺すことだけではないということ。たとえ人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、いろいろな形で人を殺すことができる。だから、外面的に人を殺していないだけでは十分ではない。

2.「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。この箇所は、ホセア6・6等を示唆している(「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」、イザヤ58・4以下も参照)。神から赦しを受けた以上、互いに赦し合わないなら、神が喜ぶはずはない。神は親だから、自分の子であり互いに兄弟である人間が互いに喧嘩して愛し合わないなら、耐えられない。互いに愛し合うことこそ本当の宗教であり、聖歌などで外面的にだけミサを美しく執り行うことではない。 

3.「『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。男女関係についての当時の考え方はこんにちと異なるところがあり戸惑うが、最終的にイエスが言いたいのは、たとえ外面的に姦通をしなくても、本当の愛情を抱いてではなく自分の欲望を満たす道具として異性を見るなら、神が考えた男女関係ではないということ。
4.「『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。当時のユダヤ人は、何かの約束や契約の際に、それを裏付けるために神の名を出していた。そのような習慣は今の日本にはない。けれども、神について話をするとき、私たちは神に対する尊敬の念をもっているかどうか、私たちが話している神は本当にイエスが私たちに示した神か、それともそこに私たちの考えが入っていないかということを神の言葉に照らして調べなければならない(二コリント2・17参照)。
 最後に大切なのは、イエスは新しい掟を与えるだけではなく、イエス自身が生きた掟であるということ。キリスト者にとって、掟とはキリスト自身なのだ。イエスの言葉だけではなく、イエスの生き方がキリスト者の掟である。

2017年

2月

19日

年間第7主日

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5・45)

ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
 今日の箇所は、山上の説教の5つの話題のうち「反対命題」と呼ばれる箇所の続き。「右の頬を…」など6つの具体的なアドヴァイスが出て来る。そのどれにもあてはまるのが、真福八端の第二の柔和さ。柔和と訳される原語のヘブライ語アーナーウには聖書では深い意味がある。それは、真福八端の第一の心の貧しさ、つまりアナウィンと同じように、怒らずに神に信頼して忍耐し人に善意を示すことを意味する。 
 「目には目を、歯には歯を」。この言葉はこんにちでは復讐の容認として理解されるが、もともとはハンムラビ法典にあるこの掟は際限のない報復に限度を定めるものだった。しかし、イエスは、受けた暴力に見合う報復にも反対する。 
 「悪人に手向かってはならない」。イエスが言うのは、ただ無抵抗ということではなく、無償な愛の世界に入るべきということ。 
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。たとえ身体的暴力を受けたとしても、暴力で返すのはいけない。暴力に対して厳しい態度をとらなければならないことがあるとしても、復讐してはいけない。復讐は憎しみから生まれるが、憎しみを捨てなければならない。日本のキリシタンたちも、イエスのにならって、迫害する人たちを赦しながら殉教するように教育されていた。 
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。上着とは、ヨーロッパでは最近まで使われたマントのこと。イエスの当時、マントは貧しい人にとっては寝る時にかぶる毛布でもあった。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。当時、イスラエルを占領していたローマ人は労働を人々に強要していた。イエスの十字架を運んだキレネのシモンもそうだった。「求める者には与えなさい」。服でも労働でも、人に与える時には、惜しみなく与えるべきだ。
 「隣人を愛し、敵を憎め」。聖書学者によると、この言葉どおりの言葉は旧約聖書にない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これは、私たちの毎日の問題でもある。そして、イエスが言うように、自分を攻撃したり、苦しめたりする人を愛するなど到底できないように思える。しかし、大切なのは、イエスが感情的な愛で愛するように言っていないこと。イエスが言うのは、その人のために祈るということ。祈りとは、神に向かうことで、相手を見直すプロセス。遠くから敵に見えた相手も、近づくと人間に見え、もっと近づくと兄弟であることがわかる。祈りの中で、私を苦しめているこの人も、私と同じように神の赦しと癒しを必要としていることに気づく。私が罪人の時に神から愛されたように、この人も神から愛されているのだ。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。私たちは、相手に親切にするとき、相手からも親切にされたいと自然に思う。私たちの心の中にある互恵主義の考え方(「自分を愛してくれる人を愛する」「自分の兄弟にだけ挨拶する」)は人間の常であり、悪いことでもない。ところが、私たちはこのような考え方を自然に神との関係にも当てはめて、悪いことをしたら神から罰せられ、よいことをしたら神から報われると考える。それは、神についての商売的なイメージだ。しかし、イエスはこのような神のイメージに反対する。彼がその言葉と生と死によって宣言する神は、無償で私たちを愛する神だ。神が私たちを愛するのは、私たちから何かをもらったからではなく、神だから、愛そのものだからなのだ。神が私たちを愛するのは、私たちがよい行いをしたからではなくて、たとえ私たちが悪いことをするときも私たちを愛し続ける。イエスの弟子は、このような無償の愛の世界に入るように勧められている。 

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。これは注意しなければならない。私たちが神のように完全であることはもちろん不可能だ。けれども、私たちも私たちなりの仕方で神の無償の愛を実践し、その意味で完全でなければならない。このことをパウロもローマの信徒への手紙で見事な表現で言い換えている、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12・17-21)。

2017年

2月

26日

年間第8主日

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6・30)

イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
 よく知られている今日の箇所。美しく印象的で、イエスの教えだけではなく感性が垣間見られ、摂理について語られる。私たちが上と下に(「空の鳥」「野の花」)目を向けるなら、生きとし生けるものが自分に命を与えることができず、神から生かされていることがわかる。 
 今日の箇所に限らずイエスの言葉はさまざまなテーマに結びつけて解釈できるが、教会が今日の第一朗読として選んだのは、苦難にあるシオン(イスラエル)の嘆きに神が答える、イザヤ書の箇所。「主はわたしを見捨てられた」「わたしの主はわたしを忘れられた」――私たちもそう思って苦しむ時がよくある。けれども、神は言う、「たとえ、女たちが[自分の乳飲み子を]忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。だから、教会は、福音書の箇所も今日はこの箇所との連関で読んでほしいのだ。神は私たちを決して忘れないということは私たちの信仰の土台だ。このことを私たちは、マリアが見聞きしたことを「心に納めた」ように、心に留めるべきだ。私たちは、信者になった後でも、生活の中で起きるさまざまなことのために疑いを抱き悩み苦しむものだから、預言者イザヤが伝えた言葉、そして今日イエスが言う言葉は私たちにとって大きな力になる。 
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。ここで語られているのは私たちの価値観についてだ。私たちは何に価値を見い出すか。それは私たちの霊的生活にとって大切なことだ。そして本来、富ではなく神に最高の価値があるのに、私たちは無意識的に世間の常識に引きずられて、富に最高の価値を見てしまう。それは本末転倒の間違いだ。 
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「思い悩むな」とは少し厳しい表現だ。でも、イエスは、生きるために働く必要はない、鳥のように働かなくても食べ物が与えられると言っているわけではない。「思い悩むな」とは、たとえ衣食がなければ困るとしても、それを実際以上に大切なものと考えすぎるなという意味だ。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。私たちは知らず知らずのうちに、大切でないものを大切なものとして、大切なものを大切でないものとして扱う間違いをする。例えば、ある人とつまらないことで喧嘩をして、もう二度と会わないことになったり、何かミスをしてそこから立ち直れなかったり。そういう間違いをせずに、すべてのものをその固有の価値に従って扱うべきだとイエスは言っているのだ。ものについての正しい判断と扱いは神の光によって可能になる。神の光の下で深く考えるようにイエスは私たちに勧めているのだ。

 「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。このようなイエスの言葉は、私たちへの問いを含んでいる。あなたは自分をどのように評価しているか。自分にどのような価値を見ているか。このような自己評価に関しても危険がある。それは一方では自分を過大評価する危険であり、他方では自分を過小評価する危険である。一方で、私たちは、自分を実際以上に評価する危険がある。自分が人よりもすぐれていると考えたり、自分がいなければだめだと考えたり。他方で、逆に、私たちは、間違った教育とか、自分の失敗などのために、自分はだめだと考えたり、自信を失ったりする。そして、人を愛したり、新しいことを始めることをあきらめて、硬直状態に陥る危険もある。この二つの正反対の心理学的結果に対して、私たちは、自分の色眼鏡で自分を見るのではなく、神の目で自分を見なければならない。神が自分を見ているように自分を見ることで、妄想によって膨らみすぎたり縮みすぎたりする自分ではなく、等身大の自分を見ることができる。そして、今日の箇所でイエスが言うには、私は神にとって、空の鳥よりも野の花よりも大切なのだ。どんな信者も、子どもから聖人に至るまで、同じ見方をしなければならない。自分の前に神がいて、その神が私を愛しているという自覚がキリスト者の霊的生活である。神は、私のやっていることが正しいとは必ずしも言っていない。もしかしたら私は間違ったことをしていて、罪を犯しているかもしれない。でも、神は変わらず私を愛し続けている。そして、私の前に歩いて、先へ進むように私の力になってくださる。 


2017年

3月

05日

四旬節第1主日

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4・10)。

フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
 復活祭の準備をする四旬節は、一年の典礼で大切な時期。特に求道者にとっては、洗礼を受けキリストに出会う最後の準備の段階であり、信者も求道者といっしょにその旅を歩み、自分の洗礼の霊性を深める。主日毎の典礼では、救いが中心的なテーマとなる。救われるために、どう生きるべきか。教会は言う、イエスを見なさい、彼こそ救い主である、と。特にA年である今年には明確な見取り図がある。第1主日(荒れ野の誘惑)のテーマは、悪の誘惑から私たちを救うキリスト。第2主日(変容)は、救い主として私たちに送られたキリスト。第3主日(サマリアの女)は、生きた水を与えるキリスト。第4主日(生まれつきの盲人)は、暗闇に対する光であるキリスト。第5主日(ラザロの蘇生)は、死に対する命であるキリスト。私たちは主日毎に自分の心の中にこのようなテーマを種として蒔いて、1週間のあいだに成長させなければならない。 
 今日の第1主日では、神の世界が荘厳な形で開かれ、私たちはキリストに出会う。荒れ野の誘惑については、マルコは短く報告しているだけだが、マタイとルカは一つの不思議な出来事を私たちに伝える。 
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。「荒れ野」は、ユダヤ人にとっては根本的な体験の場所。彼らはエジプトを脱出してから、荒れ野を40年間さまよった。荒れ野は、まむしに象徴されるように困難に遭い誘惑を受ける場所であると同時に、モーセがシナイ山で十戒を授かったように神が自らを啓示する場所だ。ユダヤ人たちが罪を犯すといつも、ホセアやエレミアのような預言者が荒れ野に戻るように勧める。旧約聖書では、回心とは、荒れ野の根本的な体験に戻ることなのだ。荒れ野はまた、希望と再生、神の栄光の場所でもある。荒れ野で植物が茂り、花が咲く。岩から水があふれ、特別な食べ物が授けられる。荒れ野の中に道ができる。旧約聖書はこういったイメージにあふれている。福音書でも、荒れ野は大切な場所。神が何百年も沈黙し言葉を発しなかった時に、声を上げ人々に洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。そして、罪がないのに私たちの罪を負って罪人として洗礼を受けたイエス。
 今日の荒れ野の物語には、二人の人物が登場する。一人は悪魔。悪魔とは、ヘブライ語でサタン、ギリシア語でディアボロス。サタンとは文字通りには、嘘つきを意味する。人間を裏切り、たぶらかし、誘惑し、滅ぼそうとするのが悪魔だ。悪魔は、神を拒否する悪のシンボルで、私たちの中に働いて、憎しみと死の種を蒔く。今日の箇所にあるように、聖書を知りながらも、神の言葉をゆがめるのが悪魔だ。悪魔は荒れ野に住んでいる。 
 もう一人の登場人物はイエス。その誕生と洗礼については福音書ですでに伝えられている。清らかで罪がなく悪に強い英雄だ。イエスは今日、悪の国である荒れ野に入って、私たちを救うため悪との戦いを始める。戦いとは、ギリシア語でアゴニア。その戦いが終わるのは十字架上だ。神の子であり、肉によれば私たちの兄弟であるイエスは、イスラエルの民と私たちの罪を負わされて誘惑を受ける40日間の戦いを始め、昼も夜も戦う。
 マタイが記す三つの誘惑は、イスラエルの民が荒れ野で負けて罪を犯した誘惑だ。それは私たちにとっての誘惑でもある。つまり、イエスは、私たちの敗北を受けて、私たちの味方として戦うのだ。 
1.「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。モーセに導かれて、エジプトを脱出したものの、荒れ野では食べ物がなく、エジプトの玉ねぎが恋しくなったイスラエルの民。空腹のせいで不安に思い苦しみを恐れて元に戻ろうとしたのは、モーセが伝える神の言葉を信頼しないという罪だ。それに対して、イエスは誘惑に勝つ。本当のパンは神の言葉だけ、人間を導くのは神の言葉だけだと。神の言葉とはイエス自身のこと。イエスは神の御心を行うために来たのだから(ヨハネ6・38など)。

2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。 

3.「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないために、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民。バアルを崇めるのは偶像崇拝という最大の罪だ。要するに、イスラエルの民は、ヤーウェの神を信じようとしていたものの、それは完全な信仰ではなく、半分は信じても半分は別のものを信じていたのだ。それに対して、イエスはモーセの言葉を使って、神だけを拝むべきだと言う。受難の予告を聞いたペトロが「そんなことはあってはなりません」と言った時も、イエスは「サタン、引き下がれ」と言って、権力の道ではなく十字架の道を選んだ。そして、十字架上で苦しみ、神から見捨てられたと思われる誘惑を受けた時も、神にゆだねて死んだのがイエスだ。 
 イスラエルの民が誘惑に負けて罪を犯すところ、そして私たちも誘惑に負けて罪を犯すところに、イエスは誘惑に打ち勝って勝利の叫びをあげる。「退け、サタン」。その叫びは、十字架上で息を引きとった時の叫び、私たちを悪から解放した勝利の叫びでもある。 
 「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。天使が来るとは、神のあらゆる力が人間を新しく生まれ変わらせるために働き始めるということ。 
 荒れ野の誘惑についての今日の箇所は、復活祭に洗礼を受ける求道者への大きなメッセージだ。教会が今日の箇所で言いたいのは、キリストを見なさい、あなたたちにはいろいろな弱さや困難があるかもしれないが、キリストはあなたたちの悪よりも強い、ということ。洗礼式にも悪霊の拒否と呼ばれる式がある。キリストの勝利の叫びは、洗礼の時にも響いているのだ。 
 だから、四旬節は悲しみの時期ではない。罪の痛悔はあるが、癒しの時期で、新しい命が始まる可能性があるのだ。では、求道者はどうすればいいのか。そしてイエスを救い主と信じて洗礼を受けた信者はどうすればいいのか。 
 教会は伝統的に一つの言葉を大切にしている。それは、洗礼式の最初に使われる言葉で、ラテン語でコンペテンテースと言う。こんにちでは「物知り」という意味だが、もともとは「いっしょに戦う人たち」を意味する。つまり、私たちはキリストとともに戦うのだ。キリストの肩の上に乗って、キリストの背後から、キリストの敵と戦うのだ。キリストが勝利者であると信じて、キリストの戦い方に倣って戦うのだ。それが四旬節の具体的な行いになる。戦うための武器は、イエスが私たちに教える祈り。静かに神の言葉を聞き、信頼して祈ること。それから、回心。ザアカイのように、イエスを迎えイエスとともにいる喜び、癒された感謝など。そして、人に分かち合うこと。義務的にではなく、癒されたから人と分かち合う、与えられたから人に与えるということ。 
 主の祈りの最後は「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と祈る。その祈りは今日実現される。

2017年

3月

12日

四旬節第2主日

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)。

 四旬節第2主日は大切な主日。テーマは変容だ。変容とは姿が変わること。イエスは弟子たちのため、そして私たちのために、目に見える姿の背後に彼の本当の姿を現す。  
 「[その時]」。実はマタイ福音書には「6日の後」と書いてある。6日前には、ペトロがイエスの質問に「あなたはメシア」と答えた後、イエスははじめて死と復活を予告し、それをいさめたぺトロに「サタン、引き下がれ」と言った。6日とはまた、創造の6日間、そしてシナイ山でモーセに神が現れるまでの6日間を思い出させる。
 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」。ペトロは実名はシモンだが、イエスにペトロと呼ばれていた。ペトロとは岩という意味。彼はがんこな人間だった。ヤコブとヨハネの兄弟も罪人を滅ぼそうとするなど、暴力的なところがあり、イエスから雷の子と呼ばれていた。弟子にあだ名をつけるとはイエスのユーモアも感じられる。イエスは特にこの3人を育てようとしており、十字架にかけられる直前にゲツセマネにもこの3人を連れて行くが、その時でさえイエスが望んでいることをわかっていない3人は寝てしまう。
 「高い山に登られた」。マタイ福音書には4つの山が出て来るが、その一つで、イエスが十字架につけられた山をも連想させる。
 「顔は太陽のように輝き」。モーセはシナイ山の上で雷の中十戒を受けたが、一週間のあいだ神の前にいたために、顔が輝いていて、人々は眩しくて見つめることができなかった。だから、モーセは顔を覆いで隠して、人々に接触した。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが新しいモーセであること。旧約時代はモーセが神から掟を受けたが、今の時代はモーセの掟ではなくキリストの言葉が中心となるということ。
 「服は光のように白くなった」。白は神のこと。つまり、イエスは本当の神の子であることを意味している。
 「お望みでしたら、ここに仮小屋を三つ建てましょう」。ユダヤ教の三大祭の一つに仮庵(仮小屋)祭がある。こんにちでも行われる祭で、ユダヤ人たちは8月か9月に家の外に小屋を建てて、1週間その中で生活する。それはイスラエルがエジプトから解放された出来事の記念であり、メシアを待つ祭でもある。だから、ペトロは仮庵祭を思い出して、メシアが現れることを考えたのだろう。しかし、ペトロは、イエスがどのようなメシアなのかがまだわかっていない(ルカ9・33「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」参照)。ぺトロはまだ、イエスを誘惑したサタンのような考え方をしている。まだ強いメシアを待っている。しかし、イエスは、罪人を滅ぼし力をもってイスラエルを救うメシアではなく、十字架のために来たメシアだ。彼が行くのは特別な道だ。罪人を滅ぼすのではなく、罪人が救われ生きるように人の罪を背負って十字架につけられるという道だ。

  「声が雲の中から聞こえた」。声とは父なる神の声。その声はイエスの洗礼の時にも聞こえたが、今日は荘厳な形で聞こえる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「愛する子」とは、かわいい子という意味ではない。「愛する者」とはヘブライ語では雅歌にも出てくる「ドッティ」で、全財産の相続人を意味する。だから、神が言うのは、神が人間に対してどう思うか、どうしたいかをイエスがいちばんよくわかっているということ。だから、イエスがメシアであること、イエスの道が神が望む道であることを神ご自身が示したのだ。 

  「手を触れて」。イエスは病を癒す時に相手に触れることが福音書にしばしば書かれているが、ここでも同じ言葉が使われている。

 「顔を上げて」。これは詩篇など聖書の多くの箇所に出て来る大切な動作だ。

 「イエスのほかにはだれもいなかった」。モーセもエリヤも消えて、イエスだけがメシアとして残る。マタイはイエスだけがメシアだと宣言するのだ。

 「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。この言葉は、マタイ福音書記者の特徴であり、マルコ福音書でも強く出て来る有名な言葉。この出来事を隠さなければならないのはなぜか。この出来事はすばらしい経験であったとしても、まだ最後の出来事ではない。イエスの輝きは十字架上ではじめて明らかになるからだ。十字架につけられて死ぬ時、人間の目で見れば失敗で終わる時に却って、神によってイエスの勝利が、イエスの栄光が示されるのだ。イエスが本当にわかるのはその時だ。
 今日、教会は求道者に、そして私たちに何を言いたいか。求道者は教会に導かれ、司祭に出会い、キリストの言葉を聞いた。それは喜びにちがいない。けれども、もっと大切なことがある。それは十字架だ。イエスはすでに山上の説教の最後で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言った。苦しい時、見捨てられる時、迫害される時、幸いなのは、神がそばにいるから。私たち一人一人の生活には、病気、失敗、人間関係の悩み、経済的な困窮など困難な時がある。けれども、私たちがその時キリストとともに生き、キリストの十字架を思い出すなら、私たちは幸いである。それを忘れてはいけないと教会は求道者に言いたいのだ。神が人を救うための道具は、権力やお金や名誉ではない。神は暴力や強い言葉を用いず、十字架上で死ぬその弱さで人を納得させる。私たちも同じ生活をするように勧められている。 

2017年

3月

18日

四旬節第3主日

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。(ヨハネ4・26)。

アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
 四旬節第3主日に読まれるのはイエスとサマリアの女の有名な物語。信者に好まれ、美術にもたくさんの作品がある。マルコ福音書では「サマリア」という言葉は一度も使われず、マタイ福音書でも一度出て来るだけ、ルカ福音書にはサマリア人について二つのエピソードがあるがこの物語は出て来ない。それに対して、ヨハネはこの物語について詳しく語っている。ただし、聖書学者が言うには不自然な点がいろいろあり、実際の出来事の報告というより、神学的なメッセージと理解した方がいい。この物語は、洗礼の準備をする求道者、そして自分が受けた洗礼を思い出しながら求道者といっしょに復活祭に向かって歩む信者への教会からの大きな賜物だ。 
 「そこにはヤコブの井戸があった」。ヤコブの井戸(泉)は数十メートルもある深い井戸。現在もあるが、当時でも掘られてから1000年経っていた。井戸は当時、羊飼いが水を飲ませるために羊の群れを連れて行ったり、女性が水がめをもって水を汲みに行ったり、商人がものを売るために集まる場所だった。さらに、旧約聖書では男女が出会う場所。三つの例を挙げると、アブラハムの僕はイサクの嫁となるリベカを井戸で見つけ、ヤコブは井戸でラケルに会い、モーセは井戸でツィポラに出会い結婚する。だから、ヨハネがこの物語で語りたいのは、花婿であるイエスと花嫁である人間との出会いの物語なのだ。 そのことはすでに、カナの婚礼(2・1-12)や洗礼者ヨハネの言葉(3・29)で示唆されている。
 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」。福音書で、イエスが疲れているのはこの箇所でだけ。ヨハネがここで示したいのは、人間を探して長い旅をして疲れた神の姿だ。預言者ホセアは姦通した妻ゴメラを買い取ることで、イスラエル(女性名詞)が他の神々を崇めてもイスラエルを愛し続ける神の愛を預言した。神は花婿が花嫁を探すように、離れて行った人間を探すのだ。グレゴリア聖歌(死者のためのミサの続唱)でも、「あなたは私を探し疲れて座っておられ、十字架につけられ私たちを救ってくださったQuaerens me, sedisti lassus: redemisti crucem passus」と歌われる。人間が神なしに自分の力でうまく生きていけると思ったとしても、神は人間なしではいられず人間を探し求める。人間を必要として愛に悩む神――ここでヨハネは、神についての革命的なイメージを示している。そしてこの箇所を読むことで教会が求道者に言いたいのは、神はずっと昔から、あなたが生まれる前からあなたを探してきたということ。
  

  「正午ごろのことである」。暑いイスラエルでは水を汲みに行くのは朝か晩。真昼には誰も水を汲みに行かない。ここでヨハネが考えているのはイエスが判決を下されるピラトの裁判。「正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」」(19・14)。つまり、ヨハネがここで言いたいのは、イエスがメシアだということ。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。 

 「サマリアの女が水をくみに来た」。この女の名前は書かれていない。サマリア人とは、アッシリアからの移民と民族的にも宗教的にも混ざり、偶像崇拝に陥った人たちのこと。彼女の「五人の夫」とは、聖書学者によると、サマリア地方の5つの山のことで、それぞれの山でそれぞれの神が礼拝されていた。 
 「イエスは、『水を飲ませてください』と言われた」。「水」は婚礼の完全な愛のシンボル。イエスが十字架上で「渇く」(19・28)と言ったように、神は人間の愛に渇き、人間の愛を求める。 
 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。サマリアの女とイエスの会話はかみ合わない。イエスとしては神が偶像崇拝に陥ったイスラエルを愛して探し求めることを話しているのに、彼女は自分の力で自分の幸せを得ることを考えているのだ。 
 「もしあなたが、神の賜物を知っており」。キリストは人間が自分の力で探して見つけるものではなく、賜物だ。すべてがそこから始まる。 
 「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。最終的に、人間も渇いている。たとえ気がついていなくても。その渇きを癒すことができるのは神だけだ。 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。権力にしても富にしても名誉にしても、人間が自分の力で探し求めたものは必ず不満で終わる。何かが足りないと感じる。それは私たちも経験することだ。それに対して、命にしても愛にしても生きる意味にしても、善いものはすべて神の賜物だ。だから、神は偉大な与え主だ。 
 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」。イエスに出会ったら、もう他の水は要らない。イエスの美しさに打たれ、イエスに出会った喜びに満たされて、イエスにすべてを委ね、宣教師になるのだ。

2017年

3月

26日

四旬節第4主日

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。

オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
 ヨハネ福音書第9章は、生まれつきの盲人のいやしの物語。しかし、ヨハネは奇跡の具体的な出来事を報告するより、イエスを知り認めるプロセスを示す。この長い物語は、ある聖書学者によれば、三つの部分に分けることができる。 
1.イエスの癒し 
 第7章で仮庵祭の機会にエルサレムに上ったイエスは、第8章の終わりで、ユダヤ人から石を投げられて、神殿を出る。その時、イエスは、生まれつきの盲人に会う。すると、弟子たちは、その人の盲目が彼自身のせいか、彼の両親のせいか、という宗教的な議論を起こす。当時は、病気、特に盲目は、罪に対する罰と理解されていたからだ。このように目の前にいる人を忘れて、その人が抱えている問題を議論の材料にしてしまうのは、ファリサイ派のように制度化した宗教によくあることで、イエスの弟子もそうだった。しかし、イエスはちがう。彼は他の人が見ないことを見る。ヨハネ福音書では、イエスのまなざしはまず、たとえ罪人であっても、その人の罪ではなく、その人の苦しみに向かう。彼は審判するのではなく憐れみに駆られる。イエスは、人間の苦しみに納得しない神の顔だ。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。少し驚かせられる行動だが、当時は、唾には特別な治癒力があると考えられていた。つまり、唾は息と同じように、創造し新しくする神の力の象徴なのだ。だから、唾と土を混ぜて目に塗ることはアダムの創造を思い出させる。また、母親が子どもの傷を舐めるように、ぬくもりのある動作だ。 
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」。シロアムとはメシアと音も似ている。つまり、メシアのところに行きなさいということ。ここでは、洗礼による洗いが示唆されている。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。この物語は、初代教会の時代、洗礼志願者のために使われた箇所だ。 
2.ファリサイ派の尋問 
 「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」。キリストに出会って洗礼を受けた人は、外面的には他の人と同じ生活を送っても、別人になっている。これまでは座って物乞いをし人に頼る生活を送っていたが、今は目が開かれ杖なしに立って元気に生きている。それがイエスに会った人の姿だ。「わたしがそうなのです」。これは、神の自己啓示の言葉「エゴ・エイミー」。つまり、ヨハネが言いたいのは、キリストに出会った人は癒され照らされて、ある意味で神の子として新しく生まれたということ(ヨハネ1・12参照)。
  

 盲人の目が見えるようになったら、本来ならだれもが神のわざに驚き喜ぶはずだが、この物語では代わりに議論が起こり、両親でさえ喜びより恐れにとらわれている。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。ユダヤ人たちにとっては、唯一の基準は憐れみではなく、掟だ。だから、掟を守らないイエスが神であることを否定し、イエスを罪人とさえ決めつける。つまり、宗教的な規則によって、神を否定するのだ。ユダヤ人たちは何かいいか悪いかを決める権利が自分たちにあると思っている。だから、自分の考え方を事実によって変えずに、イエスを罪人と決めつけ、何が起こったかを聞こうともしない。彼らにとっては、実際に起こったことより、自分の考え方が大切なのだ。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この返事にはユーモアさえ感じられる。しかし、ユダヤ人たちは、いやされた人を侮辱し、外に追い出す。

3.イエスといやされた人の出会い 
 最後の部分は、イエスとの親しさが表現されているとても美しい場面。洗礼を受けた人はみな、たとえ短くてもこのような親しさの喜びを経験したはずだ。ヨハネは簡潔な言葉で表現するが、そこには深い世界が現れている。 
 「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった」。イエスは自分の弟子の苦しみをいつも知っているのだ。その人は、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けてからも、みんなから見捨てられ、苦しみがある。しかし、イエスがその苦しみを知っていることは慰めだ。例えば、長崎の殉教者聖マグダレナが穴吊りの拷問を受けた時、毎朝、手のようなものが顔を撫でて痛みがなくなったという伝説がある。キリスト者の道はイエスの道と同じように苦しみの道であると同時に、イエスとの親しさから慰めが来る。 
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。イエスが言うのは、あなたをいやした人が今あなたの前にいるということ。マタイ福音書の最後にあるイエスの約束も思い出される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。 
 私たちの教会の求道者も今日で求道生活を終え、キリストに出会い「照らされた者」となる。これからはイエスが神について、自分自身について、生活について指導者になるのだ。洗礼の準備をする彼らのために、キリストの光に照らされその愛の深みを経験することができるように祈りたい。

2017年

4月

02日

四旬節第5主日

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。

セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
 私たちはみなそれぞれの形で死を経験している。家族の誰かが病気などで亡くなることがある。マスコミの報道では毎日、戦争や事故や犯罪でたくさんの人が殺されている。胎児も毎日たくさん堕胎で殺されている。私たちは死に囲まれて生きている。けれども、私たちは死を忘れるために、いろいろなことをする。葬儀屋は儀式やきれいな言葉で飾り立てる。だから、四旬節最後の日曜日である今日の福音書の箇所は、死と命について考える大切なきっかけになる。 
 ラザロの死と呼ばれる今日の箇所。ラザロが仮死状態にあったのか、本当に死んでいたのか、聖書学者はいろいろな言葉に注意しながら解釈する。復活はキリストの復活について使われる言葉だから、ラザロについては蘇生という別の言葉も使われる。 
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」。ベタニアは、エルサレムの近く、2、3キロ離れた場所。ルカ福音書によると、マルタは強く元気な女性で、マリアは静かな女性。ラザロはその名前以外は、マルタとマリアの兄弟としてのみ知られている。マルタとマリアの方がラザロより知られていたようだ。 
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。三人はイエスと特別な関係にあった。この家族との友情は暖かみを感じさせる。 
 「なお二日間同じ所に滞在された」。ラザロの病気を聞いてもイエスがすぐに出発しなかったのは、イエスにとってこの出来事がただの出来事ではなく、神の御旨が示される大きなきっかけであったから。 
 「イエスは…心に憤りを覚え、興奮して…涙を流された」。これから何が起こるかを知っていたはずのイエスが涙を流したのは、死の深みがよく知っているから。しかも、マルタとマリア、ラザロをかわいそうに思って涙を流しただけではなく、二度も「憤り」を覚えた。ギリシア語では普通に使われない特別な言葉が使われている。神の子としてイエスは、死に対して怒っているのだ。これは大切なことだ。なぜなら、ふつう私たちは死に慣れようとするからだ。宗教でさえ、死はいのちの一部で当たり前のことだと考えようとする。しかし、イエスの父である神にとってはそうではない。イエスの神は死の神ではなく、いのちの神であり、人間を造ったのも、人間が生きるために作ったのだから、私たちが生きることを望むのだ。神自身がいのちの神だから、死に対して怒るのだ。また、エピクロス派やストア派では、禍に対しても動じない心の落ち着き(アタラクシア)が重んじられる。それに対して、ヨハネによる福音書にはまったく逆の言葉がある。ギリシア語でタラクセインは、心の底から動きを感じること。イエスは、心の底から悲しみを感じて、涙を流したのだ。

 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。ほかの人たちは、マリアとマルタを慰めるために彼女たちの家に入るが、イエスは家に入らず、直接墓に向かい、死という敵と戦う。

 「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」。「叫ぶ(クラゼイン)」という言葉は福音書の他の箇所にも出て来る。そのうちの一つは聖金曜日に朗読される受難物語で、イエスが裁判にかけられた時、ピラトが「見よ、この男だ」と言うとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。しかし、今日の箇所でイエスはまったく反対で、墓の中から出て来るように私たちに叫ぶ。人間は死を命じるが、神はいのちを命じるのだ。同様に、イエスが十字架上で息を引き取るときの叫びも、神のいのちである聖霊を送ることにほかならず、創造しいのちを新しくする神のわざである。そして、「墓」とは死んでから入る墓だけではない。私たちは生きているうちも、墓の中にいる。それは私たちの過去である。私たちの生活には、解決していない問題や、長い間人に対してもっている偏見、十分に告解しなかった罪、直していない癖など、要らないものや邪魔なものがいろいろある。それが私たちの墓だ。その墓の前に立ってイエスは、出て来なさいと言うのだ。 

 「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた」。衣笠墓地に葬られたあるアメリカ人司祭の墓碑銘には、イエスのこの言葉(Unbound him and let him go)が刻まれている。私たちはみないろいろな形でぐるぐる巻きにされている。偏見をもったり、嫉妬や恨みや憎しみを抱いたりして、人を自由に愛することができない。しかし、イエスは私たちを自由にするとヨハネは今日力強いしるしで私たちに示す。これは求道者への大きなメッセージだ。これまでの生活がどうであったとしても、あなたはこれから洗礼を受けることで新しく生まれ変わることができる。今まさに桜が開花しようとしているが、まさにそのようにキリストの力で新しく生まれ変わることができる。 
 マルタはラザロの姉妹であったのに「もうにおいます」と言った。家族の誰かが死んだら、私たちは最初は悲しみに襲われたとしても、次第に慣れてあきらめ忘れてしまう。「におい」とは、人が怖くなったり恨んだりするときに私たちが感じるもののこと。そんなとき、キリストが私たちを救い出してくれる。今日の福音書の後には、ベタニアのマリアが香油をイエスの足に塗ると、家はその香りでいっぱいになったと書いてある。それはキリストの香りだ。堅信の油の香りもキリストを思い出させる。私たちはキリストを知ることによって、新しく造られ、新しい香りを身にまとうのだ。

2017年

4月

09日

受難の主日(枝の主日)

彼らはイエスを十字架につけた…(マタイ27・35)

十字架につけられたイエス、

私はいつもあなたを運び、

すべてにまさってあなたを愛します。

あなたは私が倒れるときは助け起こし、

泣くときは慰め、

悩むときは癒し、

呼ぶときは答えてくださいます。

あなたは私を照らす光、

私を暖める太陽、

私を養う食べ物、

私をうるおす泉、

私を酔わせるやさしさ、

私に力を与える薬、

私を驚かせる美しさ。

十字架につけられたイエス、

生きているあいだは私を守り、

死を迎えるときは私を慰め支え、

最後の時には私の心の上で安らいでください。

アーメン。

(中世フランスの祈り)

 


2017年

4月

13日

聖木曜日

ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
 聖週間、そして過ぎ越しの聖なる三日間は私たちキリスト信者にとって一年で一番大切な時。そして、(一般的な意味ではなく深い神学的な意味で)「美しい」三日間だ。この三日間で私たちは、神について、そして神が遣わされたキリストについて一番すばらしいことを知り、それを知って喜びを感じる。そして、それによって私たちの生活も変わる。 
 ただし注意しなければならないのは、今日の第一朗読に「記念」という言葉があったが、過ぎ越しの三日間を記念すると言っても、何もなかったかのようにゼロに戻るわけではない。私たちはイエスが復活したという立場から記念するのだ。そして、ヨハネはその福音書で「主」という言葉をよく使うが、私たちはイエスを記念するだけではなく、主を記念する。私たちは、イエスがキリストであり、神から送られた神の子であるという体験をした上で聖週間に入るのだ。 
 イエスの最後の晩餐が行われたのは夜。「夜であった」(ヨハネ13・30)。ちょうど主の晩餐のミサが行われる時だ。この夜、私たちは何がわかるか。それは私たちが愛されていること。この夜、私たちは愛されているということを深く体験する。ヨハネ福音書にはこのテーマがさまざまな箇所に出て来る。例えば、イエスはニコデモに向かって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言う。イエスの生涯全体が愛だった。そして、この夜、このテーマがもう一度強く出て来る。 
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエスはカナの婚礼の時は「わたしの時はまだ来ていません」と言ったが、その時がようやく来たのだ。この夜、イエスがどういう方で私たちに対してどんなことをしてくださるか、私たちがどうなるかがわかる時、そして私たちが救われる時が来たのだ。そして、その時、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」。この日本語訳はよくできた訳と言える。例えば夫婦は死に分かれるまで愛することを結婚式で誓うが、イエスが言うのはそういうことではない。イエスは私たちを愛するため、神である自分の限界にまで至ったのだ。その先には何もない――神の外に何もなく混沌があるだけなのと同じように。神は私たちを愛する、自分を忘れ自分を捨てるほどに。この愛以上の愛はない。イエスは私たちをそれほどの愛で愛してくださったのだ。何とすばらしいことか。このことは新約聖書のいろいろな箇所に書いてある。聖なる過ぎ越しの三日間、その愛の恵みを浴びたい。教会に来て典礼に参加することが勧められる。それが無理なら家で聖書を読み祈りたい。それが私たちの生活にとって一番大事なことだ。それを失うのはもったいない。神聖な愛を粗末にすることだ。キリストの霊の力、聖霊の力に頼って三日間を大切にしたい。

 イエスはその夜捕まえられて苦しみを受け殺されると知っている。知った上で、弟子を見る。3年間いろいろな形で育てた弟子を一人一人見て、愛する。その弟子の強いところ、弱いところ、その弟子の罪まで見る。その弟子の一人から裏切られることも知っている。けれども、ユダも愛されている。イエスはユダに向かって「友」(マタイ26・50)、つまり愛する者と呼びかける。この夜、イエスは私たちを一人ずつ同じ目で見る。同じまなざしで私たちは愛される。私たちのいいところ弱いところ。誰も知らないこと、罪までイエスは知って、私たちを見て慈しむ。このことをヨハネはまず第一に私たちに伝えるのだ。

 この状況で、第二朗読のパウロが書いている聖体の秘跡が制定される。なぜなら、イエスは弟子から離れなければならないと知るが、離れたくないから。イエスが行ってしまって私たちに見えなくなっても、私たちのあいだに残るためにイエスが残した最後のしるしが聖体なのだ。きっと福音書記者ヨハネも驚いたにちがいない。イエスが使った過ぎ越しの祈りの言葉はヨハネも幼い頃から知っていたはずだが、「私の体」「私の血」とイエスが言ったパンとぶどう酒はイエスが私たちのために残した特別なしるしだ。私たちもヨハネと同じように、驚きの心で聖体を受けたい。その夜、弟子たちは聖体がまだわからず、イエスがオリーブの園で悩み祈っても寝てしまい、イエスが捕えられると逃げたり裏切ったりした。聖体をわからせるために、イエスはもう一つのしるしを残した。それはヨハネ福音書だけに書かれているしるし、足を洗うことだ。(ヨハネは聖体については他の福音記者とは違い、受難の前の箇所ではなく第6章で書いている。) 
 洗足式については一つだけ注意しておきたい。教会が洗足式を行う時にはかならず、貧しい人と連帯する。イエスは貧しい者だから、社会の中で一番貧しい人に向けられる愛がイエスを本当に記念することだ。そして、イエスに出会い、イエスに愛される生活を送るためには、互いに愛し合うことがなければならない。

2017年

4月

16日

復活の主日

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(ヨハネ20・16)

ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)
ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)

2017年

4月

23日

復活節第2主日

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。

ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
 復活節第二主日は、第一・第二朗読の箇所は年によって変わるが、福音朗読の箇所は毎年同じ。ヨハネ福音書から、復活のイエスが弟子たちに現れる箇所が読まれる(去年の黙想のページはこちら)。ただし、「現れる」という言葉はこの箇所には出て来ていない。使われるのは「立つ」と言う言葉(「イエスが来て真ん中に立ち」)。「現れる」という言葉はヴィジョンを連想させ、実際福音書には復活したイエスの体の特徴がいろいろと記されているが、福音書記者が伝えたいのはヴィジョンではなくリアルな現存だ。それに対して、「立つ」とは生きた者として、死に対する勝利者として教会の中に現存するということ。 
 人間の常識で言うと、他の人の態度に傷つけられたら、仕返しするところだ。そのチャンスを掴んで人を苦しめるために使う。みんなの前でその人の罪を暴露し叱って恥をかかせたり、仲間外れにしたりする。それに対して、イエスがトマスに限らず弟子たちのところに来る時は、そういう気持ちが一切なく、愛と赦しと癒しだけがある――そもそも十字架上でそうだったように。これは非常に感動させるところだ。イエスは自分の体面ではなく、弟子たちのことを心配して、彼らに会いに行く。彼らは恐くて隠れているが、イエスは探しに行くのだ。イエスは神として復活したから。神は罪人を見捨てることをせず、麻痺状態のままに残さず、希望を消さず、自分の家(教会共同体)から追い出すことをしない。神は、人が立ち直るために導き助けるのだ。 
 復活を語る時、二つの言葉がよく出て来る。「目覚める」と「起き上がる(立ち上がる)」。この二つの言葉は私たちの日常生活からとられた言葉で、私たちの朝の行動にあてはまる。私たちは朝になると目が覚める。弟子たちは目覚めて、イエスに気づいた。また私たちは朝ベッドから起き上がる。イエスは御父によって死から起き上がらされた。 
 イエスが来たとき、弟子たちは喜んだが、喜びはヨハネ福音書を貫く大きなテーマだ。第二朗読のペトロの第一の手紙にも喜びのテーマが出て来る。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

 トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。 

 そして、トマスの場合も他の弟子たちの場合と同じだ。イエスの目は私たちの罪の先を見る。神は私たちがどんな罪をおかしたかよりも、私たちがこれからどんな聖人になるかに関心がある。イエスはマグダラのマリアについて「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7・47)と言った。神が何もできないのは生ぬるさに対してだ。聖アウグスティヌスも「異端者になるのは偉大な人だけだ」(『詩編註解』第124章第5節)と言う。平凡な罪しか犯さない人は平凡な人にしかならない。逆に、大きな罪人は大きな聖人になる可能性がある。トマスは他の弟子と同じようにイエスを見捨てたが、彼の中にはイエスに対しての愛が燃えていた。彼は復活したイエスの前で、ヨハネ福音書で一番すばらしい信仰と愛の告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスについては何も知られていないが、言い伝えによると、シリア、ペルシアなどローマ帝国の外にまで出て、インドにまで行って宣教したと言う。インドの教会は使徒トマスに遡るのだ。 
 私たちもイエスへの愛を表現するにはトマスの言葉を使うしかない――ミサの聖変化の時、また聖体の前で「わたしの主、わたしの神よ」。

2017年

4月

30日

復活節第3主日

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(ルカ24・30-31)。

レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
 復活節――教会はさまざまな朗読によって、ただ昔の出来事を知るだけではなく、復活して生きているイエスに出会うように私たちを導く。今日の福音朗読は、復活したイエスの非常に有名な物語。表現はドラマティックで、さまざまなテーマを含んでいる。それはルカが80年、90年頃、フィリピにいた頃に書いたものだ。フィリピの教会は、熱心なよい共同体だったが、彼らはイエスに会ったことがない信者、いわゆる第三世代の信者だった。そもそもルカ自身、使徒ではないし、生前のイエスを知らなかった。そのような信者がどうしたらイエスに出会えるか。ルカはそのような信者のために今日の物語を書いたのだ。 
 「ちょうどこの日」。今日は復活節第3日曜日だが、婦人たちが墓に行った最初の日の話に戻る。
 「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。二人は使徒ではなく、大勢の弟子のうちの二人だった。そして、二人のうち一人の名前は後で出て来るが、もう一人の名前は出て来ない。先週の「双子と呼ばれるトマス」を私たちの双子という意味で読むことができるのと同じように、もう一人の弟子は私たち自身と考えることができる。生前のイエスに会ったことがない私たちがどうしたら復活のイエスを経験できるか。 
 二人はエルサレムの共同体から離れるところだった。新共同訳では「暗い顔」となっているが、以前の訳では「悲しそうな顔」。「望みをかけて」いたイエスが殺されたことを悲しみ絶望していたのだ。希望していたことはすでに過去のことになった。「もう今日で三日目」。だが、何も起こらない。それで、二人は、「話し合い論じ合って」いた。「話し合う」とはギリシア語でホミレイン。つまりイエスの出来事を解釈すること、その意味を見い出すことだ。しかし、彼らは平和的に論じ合うだけではなく口喧嘩になっていた。イエスの言葉に出て来る「やり取り」のギリシア語原語はアンティバレインで、互いの意見を戦わせること――ちょうど今の私たちが教会の中でよく言い争うように。イエスがなぜ殺されたのか、誰のせいなのかーーそれは初代教会の信者たちの大きな問題だった。「行いにも言葉にも力のある預言者」だったイエスを「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった」とは初代教会でよく使われた表現で、今日の第一朗読にも同様の表現がある。 
 このように彼らにとってイエスの物語は失敗の物語でしかなかった。だから、イエスが近づいてもまだわからない。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。そして、イエスの言葉に驚く。「あなただけはご存じなかったのですか」。けれども、イエスが見ている物語はまったく違った物語なのだ。それは神の御旨、神の計画だ。二人が完全に見逃していたのは、彼らが目撃した出来事には別の意味があるということ。それで、二人は、女性たちに天使が「イエスは生きておられる」と言ったことさえ見逃してしまった。

 イエスの二人への関わりはすばらしい。イエスはまずはやさしい態度で、彼らの目から見た物語を語るように促す。「どんなことですか」。次に厳しい言葉で叱って、別の目で出来事を見るように回心を促す。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。続いて、イエスの物語、イエスの聖書研究、イエスのホミリアが始まる。それは教会のホミリア(説教)と重なる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスの見た神の計画とは、人間を救うために自分の子を送るということだった。 二人の弟子は、メシアがどういうものか理解していなかったが、イエスは神の計画を知った上で命を捧げたのだ。

 ルカが言いたいのは、イエスといっしょに聖書を読むことで、イエスの出来事の意味がわかるということ。逆にイエスの出来事から聖書の意味もはっきりするのだ。こうして聖書を読むことでイエスとその道を知ることができる。後で二人は言う、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。 神の言葉を知ることは喜びの源だ。それによって新しい命が始まる。
 二人がイエスに気づくのは、エマオでいっしょに食卓に着いたイエスがパンを裂いた時。それはミサの動作であり、ミサの根本だ。ミサには挨拶や聖歌などいろいろな要素があるが、ミサはただの儀式ではなく、パンを裂いて渡すのがミサの根本だ。それはキリストの命に養われキリストと一つになるということで、他のいろいろな要素は飾りにすぎない。そしてミサの基準となるのが、復活の日、主の日である日曜日のミサだ。日曜日に神の言葉と「心を燃え」立たせる解釈を聞く(ミサの前半)と、「目が開け」てパンを裂いて渡すイエスに気づく(ミサの後半)。イエスは目には見えないが、ミサで、聖体の形でイエスに出会うことができるとルカは第三世代の信者たちに伝えたかったのだ。 
 すると、イエスは見えなくなってしまう。もうその必要がないから。二人は夕方で疲れていたはずなのに、60スタディオン(約10キロ)の道を引き返してエルサレムに戻り、共同体に合流する。「本当に主は復活して、シモンに現れた」。弟子たちは復活の経験でいっしょになったのだ。 
 復活のイエスが弟子たちに声をかけるのは神殿でではなく、生活の場でだ。庭で(マグダラのマリア)、疑いの時に(トマス)、旅の途上で(エマオの二人の弟子)、イエスは声をかける。日常生活の中でキリストに出会うように福音書は、そして教会は私たちを導く。今の教会にもいろいろな問題があるから、私たちは教会に疲れたり失望したりすることがある。けれども、ミサの言葉と聖体を本当に大切にするなら、キリストに出会えるとルカは言う。日曜日のミサは私たちの信仰の基本だ。第二バチカン公会議の『典礼憲章』にあるように、ミサは「キリスト教生活全体の泉であり頂点」なのだ。今日の日曜日の機会に、私たちの共同体のミサの中でキリストに出会うことを大切にしたい。加えて、神の言葉を解釈する使徒職を授かった人たちのためにも祈りたい。

2017年

5月

07日

復活節第4主日

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10・3)

「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
 復活節第3主日までは復活したイエスの現れがテーマだったが、その後の復活節主日では、イエスがその新しい共同体の中でどのような役割を果たしているかがテーマ。それを理解するために教会は、イエスが使ったいくつかのイメージに注目する。
 復活節第4主日に使われるイメージは「羊飼い(牧者)」。このイメージは初代教会からキリスト者に親しまれ、カタコンベをはじめ数多くの絵画で表現されている。羊飼いのイメージと言うと、罪人に対するイエスのやさしさを示すルカの福音書が思い出されるが、ヨハネの言う「よい羊飼い」はやさしいだけではない。力があり、決断を下し、生活の基準になる指導者のイメージだ。ヨハネが羊飼いというイメージを使う時、ヨハネ当時の習慣だけではなく、旧約聖書に基づく理解が背景にある。旧約聖書では、羊飼いと羊の関係はヤーウェとその民の関係を示すためによく使われている。神の言葉を聞く預言者は荒れ野で水のあるところへ民を導く。ヨハネはこのような旧約聖書のイメージを使いながら、新しい民がキリストに導かれることを描きたいのだ。 
 ヨハネの言う「よい羊飼い」を理解するためには、いくつかの点が手がかりとなる。まず第一に、「盗人」「強盗」といった厳しい言葉がある。イエスはひどく怒っているようだ。ユダヤ人との争いなど、ヨハネが福音書を書いた当時の状況も背景にある。ユダヤ人たちは、民を神へと導くのではなく、自分の利益のために神を利用している、彼らは神のために働くのではなく、神を自分のために使っているとイエスは批判するのだ。
 第二に、「囲い」と訳されている言葉はギリシア語でアウレという言葉。この言葉は聖書では、羊の居場所を指すためにではなく、神殿の境内にあるいろいろな区画を指すために何百回も使われている言葉だ。そこに門番役がいたようだ。
 第三に、特に注意すべきなのは、今日の話が、生まれつきの盲人の癒しの後の話ということ(四旬節第4主日参照)。それはイエスの生涯で大切な出来事であり、イエスの受難の大きなきっかけとなる。ユダヤ人たちは、盲人の癒しに神の働きを見る代わりに、イエスを神から来た預言者と言った、癒された人を会堂から外に追い出した(ヨハネ9・30-34)。追い出されたその人は、「見失った羊」(ルカ15・4)のように思われるけれども、そうではない。イエスを信じる人、イエスに賭けてイエスに帰依する人は、神の本当の「囲い」に入るということ。その人は、キリストというただ一つの門を通り神の家に入るのだ。
 その囲いに入るということは、一つの掟から別の掟に移るということではなく、そもそも掟から解放されること。律法から解放されて、イエスに従う自由を得るのだ。ヨハネが言いたいのは、イエスを信じて、掟の外に追い出されても自由へ導かれるということ。神は自分の掟を人に押し付けることをしない。神が望むのは愛だから。神は無理矢理に罪人を滅ぼすことではなく、罪人が自由に自分に向かうことを望む。だから、宣教も、不幸で人を脅したり地獄を恐れさせたりして無理矢理に人を引っ張るのではなく、名誉教皇ベネディクト16世がよく言うように、愛の魅力と憧れを感じさせること。

 イエスの新しい共同体はそれまでのユダヤの共同体の延長ではない。つまり、律法の上に築かれる共同体ではない。イエスの新しさを中心にしてイエスを神の子と認め、イエスを旅の基準(「わたしは羊の門である」)として選ぶ新しい共同体だ。教会は、完全な人たち、罪がない、または罪がないと思っている人たち、そして他の人を軽蔑する人たち、自分のよい行いの報いを神に期待する人たちの集まりではなく、イエスを救い主として認め、その顔の上に父なる神の輝きを見た人たちの集まりなのだ。この共同体で大切なのは、自分の行いの完全さより、神から受けた永遠の赦しと神への愛だ。キリストの教会のなかでメンバーを繋ぐのはルールではなく、イエスを通して神から賜物として受けた神の愛。今日の福音書にはこういうテーマが種のようにたくさんばらまかれている。 

 もう一つの種は、呼ぶこと。当時の習慣では、夜、いくつもの群れの羊を一か所に集め、泥棒や動物から守るために岩で囲いをして、一か所だけを囲わずに残した。そこで一人の羊飼いが番をし、他の羊飼いたちは寝に行った。朝になると、他の羊飼いたちが戻ってきて、それぞれ自分の群れの羊に向かって決まった言葉を言う。すると、その羊飼いの群れの羊だけその羊飼いについていく。「自分の羊の名を呼んで」。羊飼いは羊を一頭ずつ呼ぶのだ。つまり、羊飼いと羊には、深い関係がある。ちょうどそのように私たちはみな一人一人個人的にイエスによって救いに呼ばれているとヨハネは言いたいのだ。そして、「連れ出す」。ユダヤ人たちは癒された盲人を会堂から外に追い出したが、その時と同じ言葉が使われている。しかし、イエスが外に出すのは、中に引き入れて奴隷にするのとは逆の意味でだ。イエスは自由を与えて外に出すのだ。教皇フランシスコも、キリスト者の場所は教会の中ではなく、教会の外、つまり世の中だと言う。パパ様は言う、外に出かけなさい、どんなことがあったとしても、と。 宣教は教会の本質の一部なのだ
 最後に、今日の「よい牧者の主日」に教会は特に、教会の中で司牧者の役割を果たしている人と、その召命のために祈る。音楽家が演奏中に音を外すことはありうるが、音楽を愛さないことは考えられない。教皇フランシスコがいつも「私は赦された罪人」と言うように、司祭も完全な人間ではないが、イエスを愛さない司祭はありえない。今日は特に司牧者とその召命のために祈りたい。

2017年

5月

14日

復活節第5主日

  「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。

「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
 今日の第一朗読と福音朗読は、異なる時代に異なる人物によって書かれた箇所だが、それぞれの背景には共通するところがある。まず、第一朗読の使徒言行録の箇所には「苦情が出た」とある。ルカはその出来事をていねいに記す。問題がどう解決されたかを中心に書くのだが、そもそも教会生活に問題があったことが窺われる。それは、信者同士の関係、ユダヤ人と異邦人の関係の問題で、その問題は司祭と助祭の役割が区別されることで解決されるが、そもそもいっしょに信仰生活を生きる上で問題があったのだ。そして、福音朗読のヨハネ福音書の箇所には、最後の晩餐の話の最初にある言葉が出て来る。イエスが、自分の道は十字架の道だと明らかにした時、弟子たちは不安に思い、「心を騒がせ」たのだ。「心を騒がせる」という動詞はあちこちで使われている。ヨハネ福音書では例えば、イエスがベタニアに来てラザロの墓に行く前に(11・33)、自分の死を思う時に(12・27)、ユダの裏切りを予告する時に(13・21)この動詞が使われている。つまり、それはイエスであれ、弟子たちであれ、信じる人の危機の状態を示す言葉だ。 
 そういう危機の時にどうすればいいか。それは私たちの問題でもある。 イエスは弟子に、落ち着かせ安心させる言葉を言う。「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と。イエスが弟子たちに教えたいのは、彼が死んで見えなくなっても、それは消えてしまったのではなく、新しい形で彼の教会の中にいるということ。イエスの不在はイエスの新しい現存だということ。 
 そこに一つの不思議な言葉がある。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。聖書学者が言うには、それは旧約聖書の偽典であるエノク書からとられたイメージで、神の家の中にいろいろな役割があるという意味。しかし、この言葉は、死後の生について語られているとよく理解される。もちろん、その意味もあるが、イエスは死んでからのことではなく、この世の生のことを話している。それがわかるのは、今日の箇所の後にある23節からである。「父とわたしとはその人[=わたしを愛する人]のところに行き、一緒に住む」。これは、あの世でではなく、この世で、父なる神とイエスがその人とともに住むという意味。これはイエスがもたらしたキリスト教の革命的な新しさだ。神の住まいはあの世ではなく、今ここに、問題のあるところにもある――たとえ今は見えなくても。ヨハネ福音書が言うには、十字架上にも復活があるのだ。つまり、イエスの神は、遠いところにいるのではなく、私たちから迎え入れられることを求める神だ。だから、私たちがさまざまな問題に遭い、苦しむその場に、イエスと一つになり神と一つになる可能性がある。 
 しかし、トマスが口をはさむ。彼はまだわかっていない。「どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。トマスはまだ物質的な道と思っている。それに対して、イエスは荘厳な答を返す。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで二つの点に注意すべきである。 
 第一に、現代の聖書学者はヘブライ語の表現の特徴から次のように解釈する。道であること、真理であること、命であることは別々のことではなく、全部つながっていて、本当の命への正しい道であるということだと。
 第二に、それ以前に注意すべきなのは、「わたしは…である(エゴ・エイミー)」という言葉。ヨハネがこの言葉を使う時は、ヤーウェのモーセへの啓示を思い出している(「わたしはある。わたしはあるという者だ」出エジプト3・14)。だから、この言葉によって、イエスが神であり主であることが表現されているのだ。

 「わたしは道である」という言葉でイエスが教えるのは、イエス自身が道であること。教会もこの言葉を思い出すことで、洗礼を受けたばかりの人たちと私たちに大切なことを伝える。イエス自身が道であり、キリスト者とはイエスと特別な関係をもつ人のことなのだ。イエスとのそのような関係、一致の関係がなければ、キリスト教に入れない。この神学的に深い言葉については、泉のように汲みつくせないほどたくさんの解釈があるが、カール・ラーナーはウィーンでキリスト教の根本についての講演の冒頭で、キリスト者であるとはキリストを抱きしめることだと言った。言い換えれば、イエスを知ること、イエスと同じ目でものを見、イエスと同じように生きるということだ。特にヨハネ福音書ではさまざまな箇所でこのテーマが表現されている。 

 「わたしは真理である」。一般に、知識のある人は傲慢になり、人に教えたり、人を裁いたりする。しかし、イエスと一つになる人は、その逆だ。 
 「わたしは命である」。イエスは十字架上から、神の息を私たちの中に吹き込み、私たちを新しく創造する。
 フィリポは言う、「御父をお示しください」。フィリポは、御父をまだ見ていないと思っている。そして、いつか見せてくださいと頼む。御父を見るのは未来のことだと思っているのだ。それに対するイエスの答えは驚かせる。「わたしを見た者は、父を見たのだ」。それは未来ではなく過去だ。あなたは御父をもう見たとイエスは言う。フィリポは何を見たか。ヨハネ福音書では、聖体の制定の代わりに洗足について書かれているが、イエスが弟子たちの足を洗った時、神が現れた。愛であり、奉仕する神の顔がそこに示されたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にあるように「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。今日ヨハネが言うのは、神は見えないが、キリストの顔の上に神が輝いている。これがキリスト教のユニークなところだ。 
 今日の第一朗読も福音朗読も、私たちのアクチュアルな問題に関わっている。文化の多様性と、それに由来する戦争や貧困、不平等。あるいは、病気や死、災いに対する不安。そういった問題に対して、今日の典礼はキリストとともに答える、キリストに目を開いて信頼しなさいと。祈りと黙想によって、秘跡によってイエスのように生き、キリストの香りをまとうのがキリスト教的生活だ。 
 最後にもう一つ、私たちにとって大きな慰めとなるすばらしい言葉がある。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。これは昇天を意味する。イエスはいなくなるのではなく主として父なる神の右に座るのだ。イエスは見えなくなってかえって、次々と新しい力と賜物を送り、教会をキリストの体として作り上げる。聖グレゴリウス教皇1世は「神の言葉は読めば読むほど大きくなるdivina eloquia cum legente crescunt」と言った。イエスが蒔いた種は教会によって世の中で大きくなる。教会の中にあるすべての愛、教会の中にあるすべての聖性こそ、世の中で大きくなるイエスだ。教会はただの団体ではなく、キリストの体なのだ。

2017年

5月

22日

復活節第6主日

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14・18)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館

2017年

5月

28日

主の昇天

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28・29)

 

ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
 主の昇天の祭日――今日のこの日は、独立してあるのではなく、復活祭と聖霊降臨祭とをつなぐ祭日だ。 
 マタイをはじめ福音書記者たちは、言葉で言い表せないことを言い表すために言葉を使う。だから、彼らの言葉は文字通りに物質的に理解するのではなく、神学的に象徴として理解すべきだ。例えば、復活と言っても、ラザロの蘇生のように、以前の命、この世の命に戻ることではない。それはこの世の命より豊かな命、神の命に到達することだ。昇天も同じ。昇天という言葉には上とか下という空間的なイメージがある。しかし、福音書記者たちがこの言葉を使って表現しようとしているのは、イエスが神と特別な関係にあること。「神の子」とも言われる。イエスは、私たちのように造られたものではなく、神と根本的な関係にある方だと。 ニケア・コンスタンチノープル信条で言えば、「神のひとり子、すべてに先立って、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、作られることなく生まれ、父と一体」だと。だから、イエスは復活と昇天によって、父なる神によって定められた本来の座に戻ったのだ。主日のミサで唱える使徒信条で私たちはこの秘儀を短くまとめて言う、「天に昇って、全能の父である神の右の座につき…」。
 昇天については、使徒言行録や福音書だけではなく、パウロもペトロもいろいろな箇所で書いている。彼らは言う、私たちはイエスを仰ぎ見るべきだと。これはあたり前のことではない。否定して信じないこともできる。これがわかるためには、浄化のプロセス、心の目を清めることが必要だ。復活したイエスが使徒たちに現れた「四十日間」とはそのようなプロセスだ。40日とは実際の日数ではない。40という数字は、アスケーシス(禁欲、苦行)を意味する。使徒たちはそのようなプロセスを通じて、イエスは神の子であると信じるに至ったということ。

 昇天はイエスについての真実であるだけではなく、イエスの弟子である私たちにも深い関係がある。第一に、イエスは天に昇ったとき私たちを天に連れて行ったとパウロは言う(エフェソ4・8)。イエスを信じる人はイエスと同じように神のうちにいるのだ。 

 第二に、教会の誕生。イエスは父なる神から受けた救いのミッションを私たちに引き継がせる。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。イエスの弟子にするとは、イエスと深い個人的な関係をもつようにするということ。昇天によって教会が生まれるのだ。教会はただの外面的な組織ではない。教会の中で私たちは新しい形でイエスに触れることができる。神の言葉を聞くこと、聖体を拝領すること、秘跡を受けること、司祭職や共同体、貧しい人たちとの出会い――それはすべて、イエスに触れるための媒介だ。キリスト教は直観ではなく、いつも何かに媒介されている。人間は直接に神を見ることはできない。けれども人となったイエスが残した秘跡を通じて、私たちは神を見ることができる。
 第三に、父なる神の右に座ったイエスは、宣教のための力を私たちに送る。イエスは昇天によって教会から離れたのではなく、次から次へ聖霊とカリスマを教会に送り続ける――その恵みが世の果てに届くまで。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。

2017年

6月

04日

聖霊降臨の主日

イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20・22)

ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
 復活節の50日間には、大きな喜びとともに心配があった。福音書によると、イエスは復活の前も後も何度も、いなくなると話した。弟子たちは最初はイエスといっしょにいる喜びのために、それほど心配しなかったが、別れが近づくと、質問した。あなたはどこに行くか、私たちはどうしたらいいかと。彼らは心配だったのだ。 
 昇天の祭日まで、祭壇の隣には、復活したイエスを意味する大きなろうそくが置かれ、ミサのあいだずっと灯されていた。それは復活徹夜祭に特別に祝別されたもので、私たちのあいだにおられるイエスのしるしだった。その光は、昇天の日に見えなくなった。けれども、昇天によって、イエスは行ってしまったのではなく、新しい形、より深い形で私たちとともにいる。そのために、今日の福音朗読では、復活の日に戻って言われる。「イエスが来て真ん中に立ち」。「真ん中に立つ」ことには聖書で大切な意味がある。イエスには近い人も遠い人もいない。イエスにとってはみなが同じ距離にいるのだ。 
 同じことは昇天の祭日にも言われた。使徒言行録などでいろいろな表現で、イエスは弟子たち(私たち)の目から見えなくなって、天に上げられて、父なる神の右の座についていると言われた。父なる神の右の座につくとは、イエスがただの人間ではなく、まことの神の子であるということ。私たちは神の実子ではなく、作られたものにすぎないが、イエスは神の実子なのだ。そして、大切なことだが、イエスが行ってしまって、私たちはみなし子になったのでもない。第二朗読のパウロの手紙によると、父なる神の右の座についたイエスは、私たちに次々と恵みを注ぐということだった。天に戻ったイエスは、金持ちが召使いに仕事をさせるように私たちに仕事を任せて何もしないのではなく、昼も夜も(イエスは永遠)私たちのために祈り、次々と私たちに力を送るのだ。

  今日の朗読でも同じことが言われる。「息を吹きかけて」――この言葉を私たちは大切にすべきだ。息とは命のこと。イエスは私たちの中に神の命を吹きかけるのだ。神の命は私たちの中に流れて、私たちは生きるようになる。それは教会の形でだ。聖霊降臨の主日は教会の誕生日と言われる。私たちは互いに家族として連帯する。それは人間的な好き嫌いの連帯ではなく、キリストを中心にする連帯だ。キリストを信じるから、私たちは互いにつながりができる。キリストから愛され赦されたものとして私たちは互いに関係をもつのだ。

 聖霊の続唱は、私たちの心の問題を照らし出す。頑固さ、人とよい関係をもてない心、神の言葉への抵抗、罪から離れる難しさ――私たちにはいろいろな問題がある。聖霊はそこに働く。私たちを治し、私たちに新しい命を与え、新しい世界を造り上げる。聖霊によって目が開かれ耳が通じ、匂いや味を感じることができる。弟子たちは、イエスが聖霊を送ってはじめて、イエスが以前に語った言葉の意味がわかった。そして、恐れを乗り越え、外に出て、イエスを証した――命を捧げることができるほど。 
 今日の喜ばしい日を祝うことができたことは大きな恵み。感謝してその力によって生きることにしたい。

2017年

6月

11日

三位一体の主日

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3・16)

アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵
アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵

 先週の聖霊降臨の主日で復活節が終わり年間に入ったが、今日、教会は三位一体の主日を祝う。毎日曜日の典礼は抽象的神学的なテーマより、イエスの生涯を辿っているから、今日の祭日は少し不規則だ。教会は復活節を終えた後、山に登って全体の景色を見渡すように、立ち止まって神の神秘を観想するように私たちに勧めるのだ。といっても、三位一体について神学的に細かく話すのではなく、聖書の言葉を聞いて沈黙のうちに観想すべきだ。
 今日の朗読には印象的な箇所がいくつかあるが、特に二つの表現に注目したい。一つはヨハネ福音書。その短い箇所に「独り子」という言葉が2回出て来る(新共同訳ではそれ以上出てきているが、原文では2回)。私たちも神の子とよく言われるが、イエスは私たち人間がそうである意味でではなく、独特の、本来的な意味で神の子である。「神の独り子」とは、復活のイエスに属する名称であり、信仰宣言で記念されること。私たち人間は誰も神を見ることができないが、イエスを見ることによって、神の姿を垣間見ることができる。特に十字架につけられたイエスを見ることで、神がどういう方かを見ることができた。それだけではなく、イエスと一つになることで、私たちも神の養子にされるのだ。
 第一朗読でモーセが捜していた神、あらゆる山の頂きと雲と雷の上方にいる神は、イエスによって私たちのうちにいる。三位一体の神は、私たちの外だけではなく、内にも存在する。遠いところだけではなく、私たちの心の中にもいる。聖書によると、キリストと一つになった私たちの心には、測ることができないほど深い深淵があり、そこは豊かな宝物がある。私たち一人一人の心の中に照らす光があり、それによって私たちは神の子として生きることができる。だから、外界に向かう心の窓を閉じて、自分の中に沈潜する祈りが大切だ。イエスは父なる神にアッバと呼びかける勇気を私たちに与えた。私たちは、父なる神と交わりができる、話を聞き話すことができるようになったのだ。私たちは、愛され、受け容れられ、赦され、願いが聞き入れられることを信頼して祈ることができる。ペトロも手紙で「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさいと言っている(1ペトロ5・7)。
 もう一つ注目したいのはパウロの手紙。その中に、私たちが親しんでいる言葉がある。それは第二バチカン公会議によって、ミサの開祭の挨拶の一つとして選ばれた美しい言葉だ。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。ギリシア語では、恵みはカリス、愛はアガペー、交わりはコイノニア。私たちがしばしば意識せずに使うこの言葉には深い意味がある。
 第一に、父(神)。私たちには父がいる。私たちをみなしごにはしておかないとイエスが約束したとおり、父がいる。神とはどういう方かと言うと、聖書を見るとまず、命の与え主、創造主だ。すべてが神から始まる。それは大昔に世界がどのように始まったかということだけではない。神は今日も被造物に存在する力を与え、支えている。この世界にある、よいもの美しいもの、価値あるもの、真実なもの、聖なるものはすべて休みなく神から湧き出している。愛する力も、美しいことを夢見る力も。神は父として、母として、私たちのうちに聖性を作り上げる。尽きることのないその命の泉は私たちのうちにあり、逆に言うと、私たちはその豊かな海に浸されている。

 第二に、父だけでなく、子がいる。子であるイエスは昇天後、いなくなったのではなく、私たちのうちにいる。復活節の50日間、イエスは自分がいなくなってもより深い形で私たちのうちに残ると約束した。具体的に言うと、御言葉を聞き受け容れる時、秘跡を受ける時、共同体との一致を生きる時、貧しい人たちを迎える時、キリストの代わりとなる人と関わる時、イエスは私たちとともにいる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。ヘブライ人への手紙に「いけにえ」という言葉が出て来る。「いけにえ」とは何かを燃やすことではなく、尽すこと。ちょうど病気の赤ちゃんを看病する母親のように、イエスは昼も夜も私たちのために祈り尽してくださる。そして、誘惑をどう斥けるか、平和をどう取り戻すか、イエスは私たちに教えて下さるのだ。
 第三に、聖霊。先週は聖霊降臨の主日だったが、聖霊とは息のこと。命を意味する息は、私たちが受け入れられて安心した時に、満ちて来る。喜びや節制、柔和、一致などの聖霊の賜物についてパウロはさまざまな箇所で書いている。祈ること、神の言葉を思い起こし理解すること、神の国のために働くことは聖霊によってできる。聖霊の力は神の国が世に広がるために与えられているのだ。
 『無名の順礼者―あるロシア人順礼の手記』という東方教会の有名な本がある。それは、神を求めて神を探す旅に出た人の物語だが、ある箇所でこのように書かれている。心の内奥に戻って祈った時、周りのすべてが美しく見えた。木も草も鳥も、土も空気も光も。すべてが私といっしょに神の栄光をたたえ歌っていた。その時、私は万物の言葉を理解でき、神と被造物と会話する力も与えられたと。
 聖霊の賜物を願い祈るなら、答えがある。神の言葉、キリストの言葉を理解でき、神を知る知恵が与えられる。イエスが約束した慰め、人を愛する力が得られる。聖霊は私たちの心の本物の宝物だ。
 最終的に、三位一体は私たちの命の基準なのだ。だから、キリスト信者にとって、三位一体は一番わかりやすく、暖かく、喜ばしく、生き生きとさせるテーマだ。教会は今日の典礼で、難しい哲学的な理屈を考えるようにではなく、このような世界に入って喜ぶように勧めている。
 最後に、聖霊に満たされて神の母となり、教会の母、私たちの母となったおとめマリアの取り次ぎを願いながら、祈りたい。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が私たちとともにあるように。



 

2017年

6月

18日

キリストの聖体

「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・51)。  

ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵
ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵

 先週に続き、今日の祭日も一年の典礼の流れの中で特異。なぜこの祭日が出て来るかを理解するために、この祭日がどのように始まったかを見る必要がある。キリストの聖体の祭日は、聖体に深い信心を抱いていたフランドル地方の修道女たちの信心から始まった。そして、彼女たちの司牧をしていた司祭がパパ様になったことをきっかけとして、西洋の信者のあいだに少しずつ広がった。この祭日の典礼(ミサや教会の祈り)の言葉には、聖トマスが作ったものもある。西洋のキリスト教国では、今日の祭日は聖体行列などその地方の風俗に合わせた形で祝われ、社会の中で信仰が表現される。
 日本の教会には西洋のような風習はほとんどないが、この祭日はミサの捧げ方や聖体に対する態度、主日の生き方を見直す、よい機会になる。というのも、教会に行ってミサに与っても、習慣に流されて、考えずに同じことを自動的に繰り返してしまう危険があるから。聖体はそもそも、神から教会への特別な賜物だ。復活したキリストはその言葉と聖体で共同体に現存する。キリスト者にとっては、主日の喜びのうちに復活したキリストに出会うことは、生活全体の中心であるはずだ。初代教会の時代、信仰を捨てるなら命を助けようと迫害者から言われたのに対して、若い信者たちは「主日のキリストなしに私たちは生きることはできないsine Christo Dominico vivere non possumus」と答えて殉教したという有 名な逸話がある。新しい週のはじめであり、イースターを意味する主日はキリスト者にとってそれほど大切なのだ。その日に私たちは、イエスに言われたように、イエスを思い出しながら、ミサでいっしょに食べる。それなのに、私たちはしばしば、習慣的に祈ったり聖体拝領して、聖体がキリストに対するどのような契約であり、兄弟に対してどういう関係を要求するかを忘れ、いっしょに集まりながら互いを受け容れなかったりする。習慣に流される危険は信徒だけではなく司祭にもある。マンネリでミサを立てたり、十分な祈りの準備なしに話をしたり、または自分が宣言することを十分に考えなかったり、キリストを示す代わりに何か変わったことをして自分をアピールしたり。だから、私たちの共同体の主日の聖体祭儀は、私たちの信仰の体温計でもある。今日の祭日はそれについて反省する大切な機会だ。
 第二バチカン公会議の典礼改革によって、今日の祭日に読まれる聖書の箇所(第一朗読、答唱詩編、第二朗読、福音朗読)は増えて、3年周期で12箇所となった。簡単に言うと、A年のテーマは、聖体祭儀が命を与える神の言葉であること。B年のテーマは、新しい契約の生け贄。C年のテーマは、キリストであるパンを受け入れることによって、キリストが戻るまでキリストを宣言するという終末論的なテーマ。
 今年A年の三つの朗読について見てみよう。
 第一朗読は出エジプト記の箇所。荒れ野をさまようユダヤ人たちにエジプトの玉ねぎの代わりに旅路の糧として与えられたマナ。それによって聖体が前もって示されている。聖体も旅路の糧だ。

 しかし、聖体は他のすべての食べ物と違う。福音朗読で言われるように、マナを食べた人も死んだが、聖体は、人間が用意できず期待もできない特別な神の賜物だ。先日教皇フランシスコが言ったように、人間が生きるために必要なのは物質的な食べ物ではない。必要なのは、愛情や幸せ、生きる意味だ。多くの人たちは物質的な食べ物があっても、先に進む力になる糧を知らない。自分の人生の意味がわかったり、何がいいか悪いかを区別する力がない。結果として、生きているように見えても、死んだ人のように孤独だ。それに対して、神の言葉であるキリストは彼こそが本当の食べ物であり、生きる意味を与え完成すると宣言する。キリストは、私たちが永遠に愛されていること、そして永遠に愛する力があることを知らせてくださるのだ。食べ物になるキリストだけが、私たちに命を取り戻させ、私たちに命を与えることができる。それによって、失敗した後であっても、新しく生まれることができる。神にとっては私たちの罪の一つ一つは問題ではない。神が心配するのは私たちの罪ではなく、先へ進めないことなのだ。

 第二朗読はパウロの手紙。コリントの教会は生き生きとした共同体だったが、大いに喧嘩好きで、争いが絶えなかった。コリントの信者たちはキリストに出会い神に出会っていたが、個人的な性格や社会的な状況の違いのために、あるいは権力争いのために対立し合っていた。こんにちの私たちの共同体も世界中どこでも同じ問題が起こりうる。小教区でも教区でも、考えの相違で衝突したり、互いに人の上に立とうとしたり。だからこの箇所は聖体の話をしているが、パンだけではなく共同体の事情についても語っている。社会全体の中で起こっている問題はさまざまな形で、私たちの小さな信仰共同体にも響いている。
 パウロは言う。裂かれたキリストの体だけが私たちを一致へと導くと。私たちキリスト者は、互いに似ていたり、共通の趣味や習慣をもつから一つに集まるのではない。もともと違っているが、十字架につけられて死んだキリストに呼ばれたから一つに集まるのだ。しかも、自分の力で行なったよい行いの功徳の報いとしてために呼ばれたのではない。キリスト者は、キリストに愛され恵みによって救われ、いただいた赦しに感謝して、それによって人を赦し愛すると自覚している。だから、聖体祭儀は人間が作った儀式ではなく、教会堂は、一般的な願い事をする場ではない。教会堂は、私たちのうちに命が湧いてくる場所であり、永遠の命に向かって歩むことができる希望の場所だ。
 福音朗読は、ヨハネ福音書より。聖体について述べる第6章は初代教会の説教とも言われているが、今日の箇所は第二朗読と同じく疑いと争いの箇所だ。私は生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きるとイエスが言った後、ユダヤ人のあいだに大きな騒ぎが起こった。このスキャンダルは、私たちにとって大切だ。なぜなら、私たちはイエスのこのような言葉に慣れてしまって、その革命的な力を感じなくなりがちだから。私たちは毎日曜日集まって自動的に同じ言葉を繰り返して、席の順番に聖体を拝領したりする。だから、このショッキングな出来事はとても大切だ。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。その賜物は、旧約時代にすでに預言されていたが、ここにリアルに私たちの前にある。イエスはサマリアの女にも同じことを言ったが、それは人間的には理解できず、神によってのみ理解できることだ。ある人たちはこの言葉を受け容れることができないが、イエスは、この言葉を受け容れこの言葉に身をゆだねるように私たちに求める。この言葉を受け容れるには聖霊が必要だ。
 今日の祭日は私たちの聖体祭儀のあり方、ミサに参加する態度を見直すべき日。ミサのためにどのように心の準備をするか、どれだけ祈りの中でミサを始めるか、ミサの後でどう感謝するか。ミサをよりよくし聖体を生きるために何が妨げとなるか、祈りの中で見直したい。 


2017年

6月

25日

年間第12主日

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10・27)

ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂
ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂

 復活節の輝かしい主日が続いた後、典礼は唐突にマタイ福音書の朗読に私たちを連れ戻す。今日のテーマは派遣と迫害だから、夢から突然目が覚めたように感じられる。実はマタイが今日の箇所を書いたとき、キリスト者の迫害が目の前にあった。イエスを信じた信者たちはユダヤ人たちから訴えられ迫害されていた。そのような難しい危機の時期をどのように生きるべきか。それに対してマタイはイエスの言葉を思い出してそれを信者たちに伝える。エマオの弟子たちについてルカは、心が燃えていたことに気づいたと書くが、同じようにマタイは、心が燃えていることを感じさせるために、イエスの言葉をまとめて私たちに伝える。

 マタイ福音書第10章は、弟子たちの派遣について五つの話がある。派遣された人、宣教する人、迫害された人はどうしたらいいか。今日の箇所はその2番目の話だが、文章と文章のあいだに直接的な関係がなく、いくつかの言葉がまとめられているようだ。

 今日の福音書の箇所を理解するために大切なのは第一朗読。今日の典礼をまとめた人たちは旧約聖書から一人の派遣された人物の美しいエピソードを出す。それは預言者エレミヤだ。エレミヤとキリスト者には大きな共通点がある。暗闇、試練、苦しみ、迫害に遭うが、同時に光もある。エレミヤ書20章を聖書学者は聖アウグスチヌスの『告白(録)』に倣い、エレミヤの告白録と呼ぶ。エレミヤは繊細で、祖国と民を愛し、愛情に敏感な人物だった。しかし、さまざまな問題が起こり、親族から見捨てられ、友人からは裏切り者として憎まれ、愛する女性から引き離され、民から訴えられ拷問まで受けて、当てもなく放浪した。神からの召し出しに忠実であったがために、光と喜びだけではなく、暗闇と疑いを経験した。20章1~6節に書かれているように、イエスと同じように鞭で打たれ、ゲッセマネや十字架のイエスと同じように神から見捨てられる経験をしたのだ。しかも同時に、その中にも突然、神の現存を経験した。「主は恐るべき勇士として私と共にいます」。神は派遣した弟子たちの孤独と苦しみを知っているというのが今日のテーマだ。

 ルカが報告する、エマオの弟子たちはイエスの姿が見えなくなってから語り合う、「わたしたちの心は燃えていたではないか」。それは、苦しみの中の喜び、血まみれの喜び、見捨てられても愛されていることの喜びだ。キリスト教の歴史の中で殉教者たちはいつでも、言葉で言えないそのような喜びを感じてきたことが記録されている。 今日の箇所でマタイはイエスの言葉を思い出して二つのことを信者たちに伝える。

 一つは「恐れるな」。パウロが言うように、宣教にはさまざまな危険がある(第二コリント11・23-29参照)。しかし、召し出しを受け派遣された人は、赤ちゃんのように胎内に閉じこもり危険から逃げる誘惑、受けた宝物を独り占めにして秘密にする誘惑を乗り越えなければならない。教皇フランシスコも「外に出かけなさい」と言う。偽物の宣教師は人気や称賛を求めるが、本物の宣教師は伝えるべきメッセージを曲げず迫害される。肉体的な迫害だけではなく精神的な迫害もある。今は血が流されるだけでなく、からかわれたりばかにされたりして、名誉が傷つけられる。

 しかしイエスが言うのは「恐れてはならない」。なぜか。宣教師のために神が見張りをするから。イエスの神は、名誉教皇ベネディクト16世がよく言っていたように、大きな権力や名誉や称賛だけではなく、一番小さいことを見るのだ(「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」)。イエスの神は、大きな象だけではなく、小さな雀を見る。イエスが話をしていたときに、彼の目の前に一羽の雀が飛んでいたかもしれない。またはイエスは一つの詩編を思い出したのかもしれない。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています」(詩84・4)。だから、命を奪う人を恐れてはいけない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。権力の前であっても、イエスの教えを曲げずにそのまま伝えなければならない。イエスは派遣された弟子たちの苦しみを知っている。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)イエスは弟子たちの弱さを知っている。こういう言葉を聞く時、教会のために尽し名前も残さず消えてしまった人たちのことも思い出したい。

 今日の福音書にはもう一つの宝物がある。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。これは直前の節と混同されて、秘密にしてはいけないという意味だとよく誤解されるが、そうではない。暗闇で語ったり耳元でささやくということは、床をともにする男女の親密さを思わせる。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」(雅歌2・6)。宣教とは最終的に、技術でもでも学問でもない。宣教とは神から愛された経験を伝えること。イエスから秘かに打ち明けられた愛の言葉を人に黙っていられないことだ。本物の召命の最初にあるのはそのようなイエスとのあいだの経験なのだ。ルカによると、イエスは父なる神との祈りの中に夜を過ごしていた。イエスと父なる神のあいだにどのような夜の会話があったか。そこからイエスの宣教が始まり、弟子の召命が始まる。その美しい愛の経験をマタイは、年間に戻る今日の主日に、思い出させたいのだ。


2017年

7月

02日

年間第13主日

 イエスがキリストであり主であることを悟り深く経験した復活節の後に、教会はイエスの言葉と行いについて黙想する。それが年間と呼ばれる期間だ。それはイエスが自分の共同体を作り教育する期間でもある。そして、先週から読まれているのは、マタイが記すイエスの四つの有名な説教の一つ、宣教についての説教だ。先週の箇所でイエスは派遣する弟子たちに「恐れてはならない」と言うが、今日の箇所では、派遣のもう一つの面が示される。 
 今日の箇所には一見難しく反発を感じさせるところがある。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。イエスは天の国が近づいたことを知らせるために弟子たちを派遣するが、それは簡単な任務ではなく、危険や苦難や孤独を伴い、迫害や脅迫に遭い、イエスと同じように殺されることもある十字架の道だとイエス自身わかっている。今日の箇所をまとめたマタイの当時、すでに迫害が始まっていた。しかし、今日の箇所の最後には印象的な表現がある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。「小さな者」という言葉には、弟子たちに対するイエスの愛情深い心が表れている。この言葉は、今日の箇所全体を照らす言葉だ。 
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。この言葉にもショッキングなところがある。しかし、イエスは両親を大切にしなくてよいと言っているのではない。イエスが言うのは、イエスが信仰の基準であり、すべてを判断する基準であるということ。多神教にはさまざまな神々がいて、それぞれの神が何かの役割を果たすが、旧約聖書のヤーウェはそうではなく、自分を燃やし尽くす神であり、愛のジェラシーを抱く。キリスト教にもそういう面がある。唯一の神だからこそ、深い関係をもつことができるのであり、どの神でもいいなら、最終的にどうでもいいことになる。 
 今日の箇所でもう一つ大切なのは「受け入れる」という言葉。それは客を自分の家に迎え入れるということ。今日の箇所には原文で6回出て来る。福音書の他の箇所にも使徒書簡や使徒言行録のさまざまな箇所にも出て来る。
 教会は今日の福音書の箇所の理解の助けとして、預言者エリシャの有名な美しい物語を第一朗読に選んだ。金持ちの婦人はエリシャを家に迎え入れる。彼女は彼をふつうの客として迎え入れたのではない。彼が「聖なる神の人」だとわかったから、階上に部屋を増築して、ベッドとテーブルと椅子とスタンドを備えたのだ(何か居心地がよさそうで、ゴッホが描いた部屋さえ思い起こさせる)。今日の箇所をまとめたマタイはこのような物語を記憶していたかもしれない。イエスも、パウロをはじめとする初代キリスト教の弟子たちもみな、彼らを家に迎え入れた人たちといっしょに宣教した。パウロの手紙のさまざまな箇所に恩人の名前が出て来る。ヘブライ人への手紙にも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(13・2)と書かれている。注意すべきなのは、ただのもてなしではなく、神から送られた者を迎え入れること。つまり、移民の受け入れのようにただ人を受け入れるだけではなく、「預言者として」「正しい者として」「わたしの弟子だという理由で」受け入れることが今日の箇所で勧められている。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵

  「受け入れる」とは「信じる」と似た態度だ。キリスト者とは言葉を聞く人、受け入れる人のこと。「信仰は聞くことから始まる Fides ex audito 」。キリストは肉になった神の言葉だから、キリスト者は、自分の家に神を、キリストを迎え入れて世話をする。神の言葉を自分のうちに受け入れ守って瞑想した代表的な人物がマリアだ。生まれつきキリスト者である人はおらず、キリスト者であることは世襲ではない。信者の両親から生まれた赤ちゃんもキリスト者として生まれるのではなく、神から送られた人を受け入れることからキリスト者としての生活が始まる。 

 キリストを受け入れるのは、実はキリストから受け入れられることだ。パウロは言う、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。私たちはミサの時にキリストから受け入れられ、互いを受け入れるように要求される。 
 今日の箇所はこんにちの私たちの信仰生活について何を語っているか。「預言者」、「正しい人」、キリストから送られた人とは、具体的に言うと、教会で教皇や司教、司祭など、さまざまな形で神を伝える人のこと。今日の日曜日は、そのような人たちのことを考えて感謝するよい機会だ。そして、私たちはそのような人たちに、神について話してくれるように頼むべきだ。それが彼らの役割だから。だから、司祭たちの邪魔をしないように遠慮するというのは信者の正しい態度ではない。司祭たちにしなければならないことがあれば別だが、話をしてくれるように頼んで司祭たちに仕事をさせた方がいいのだ。 
 そして、彼らが言うことを受け入れるためには、ドチリタス―学ぶ能力が必要だ。そもそも何かを学ぶためには、自分の知識が十分ではなく他人から学ぶ必要があるという自覚が前提だ。これは当たり前の態度ではない。この態度を信者は育てなければならない。 
 こんにちの私たちの社会は深い関係をもたず表面的外面的一時的だ。長い間いっしょにミサを捧げても、名前も知らず話をしたこともない人もいる。相手を知ろうとすること、相手の言葉に耳を傾けること、お金だけではなく時間を費やすこと、相手が必要としているものに気づくこと、違いを受け入れること――それが相手を受け入れることだ。

2017年

7月

09日

年間第14主日

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。(マタイ11・29)

オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵
オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵

 今日の箇所は有名な箇所。いろいろな解釈があり、もしかしたらマタイ福音書の中で一番有名かもしれない。このページには大切な宝物がある。とにかく目立つのは、イエスの悲しみと喜び。イエスは神でありながら、人間として私たちのように悲しみ喜ぶ。

 今日の箇所はイエスの公生活のはじめのころの出来事。イエスは、彼の言葉を受け入れない古臭いナザレから出て、ティベリアス湖のほとりにあるカファルナウムやベトサイダで布教を始めた。そこでも何か月か経つと次第にナザレと同じように反発に遭うようになる。洗礼者ヨハネも弟子をイエスのところに送って、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせる。ヨハネもイエスの教えに納得していなかったようだ。それに始まり、ナザレとは違った形だが、反発が次々と出て来る。イエス自身の弟子も何人か、失望しあきらめて離れてしまったようだ。要するに、今日の箇所はイエスの布教の失敗という状況が背景にある。なぜ失敗したか。何よりも、イエスは聞いている人たちに対して厳しい態度をとるということが考えられる。「…する人は災いだ」ということも言う。失敗して失望をあらわすイエス。

 私たちにもそういうことがある。私たちも信者として、両親として、司祭として、宣教師として、課題に一生懸命取り組んで、神について、また一つの理想について話そうとするが、相手に受け入れてもらえないことがある。そんな時、私たちはよく失望して、落ち込む。

  このような状況に対してイエスがどのような態度をとるのかは興味深い。マタイによると、イエスはその時祈りに入る。祈りと言っても、何かの願いをするわけではない。イエスは祈りのうちで、そのような状況を父なる神の目から見ようとするのだ。今の状況にはどのような意味があるか、父なる神の思いはどこにあるのか。挫折を経験したイエスは、いつものように祈りに行くのだ。

 そこで、今日の箇所でもっともすばらしい一つの祈りが出て来る。短いが明解で、美しく、神学的にも重要だ。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。「父」とは原語でアッバだ。福音書には182回出て来る。181回はイエスが使っており、1回だけ(最後の晩餐の時に)フィリポが「御父をお示しください」と言うが、イエスから習った言葉であり、イエス独特の言葉だ。よく知られているアッバとは父という意味だが、赤ちゃんが使う言葉なので、ラビなど律法学者にとっては神に対して使うことが考えられなかった言葉だ。イエスがアッバという言葉を使ったということは私たちにとって大切な意味がある。例えば神について子どもに教えるとき、アッバという言葉の意味を踏まえて、イエスの心を伝えなければならない。この言葉によってイエスは父なる神と彼自身との関係を示している。

  「ほめたたえます」とは原語ではベラカーで、祝福や感謝を意味し、聖書では大切な言葉だ。このような言葉を使って、イエスは失敗の悲しみの中にもある喜びを示す。それは、何か大切なことを見い出して、天に昇るような喜びの叫びだ。

  「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、山上の説教などで示されたイエスの教えであり、人間に対する神の計画のこと。「知恵ある者」とは聖書の知恵文学を連想させる。「幼子のような者」とは「小さい者」ということ。「賢い者」と「幼子のような者」との対語には注意しなければならない。知識があるかどうかという外面的なことではなく、内面的な態度のこと。学者であっても、神の言葉を学ぼうとして「幼子のような者」であるかもしれないし、逆に本を読まない人も、自分の考えにこだわって「賢い者」のようであるかもしれない。イエスがこの言葉で言おうとするのは、自分の考えに満足し、他に何も探し求めず、新しいものに目を向けない状態、つまり、自分に閉じこもり神に心を開くことがない状態の人のことだ。だから、イエスは外面的な身分のことではなく、内面的な心の状態について言っているのだ。

 教皇フランシスコは、イエズス会員は未完結で開かれた考え方をする人でなければならないと言っている。つまり、教義に書いてあり、教科書で習ったことよりも、神はいつも向こうを行くと考えるのだと。つまりこの言葉でイエスは自分の道を示すとともに、同じような問題にぶつかる私たちにも進むべき道を教えている。彼が見い出したのは、父なる神がその賜物を人間に与える時に、人間の自由を尊重もするということ。神は誘うが、押し付けない。だから、イエス自身が失敗と感じたことは外面的なことにすぎない。人を信頼すること、人に忍耐し暴力を振るわないこと(「柔和」!)、人を毒麦扱いしないこと――それはイエスの教えのうちにいつも出て来ることだ。要するに、作物の成長を見守る百姓のように、無理せずにその時期を待つこと。私たちも失敗して落ち込む時も、神を祝福し、信頼を忘れず神に任せて忍耐するようにイエスは教えてくれているのだ。

 今日の箇所の最後にも大切な言葉がある。それはこの箇所を照らす言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。すばらしい言葉で、私たち誰もが言ってほしいことだ。まさにイエスのやさしさ、「柔和」と「謙遜」を感じさせる。メシアであるイエスは、第一朗読にある通り、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」者なのだ。  「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。軛とは、今の日本の生活には見られないが、牛などの動物を対で、同じ速度で働かせるためのもの。牛の軛は非常に重い。当時は、律法は軛であり、ファリサイ派や律法学者のような権力者は、民を動物のように奴隷として支配するための道具として律法を使った。それに対して、イエスは厳しい言葉を口にしている。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・4)。律法学者が抱かせる、独裁者のような神のイメージと、神の掟についてのゆがんだ考え方に対してイエスはきわめて厳しく、まったく逆の、独特の考えを抱いている。イエスはここでその言葉を使って、「わたしの軛」と言う。ただし、その軛は「負いやす」いと言う。弘法大師が遍路とともに歩くことを同行二人と言うが、「わたしの軛を負う」とは、イエスを基準として、イエスと同じように生きる勧めだ。「わたしの軛」とは「わたしの掟」のこと。イエスの掟は、神から愛されて、神と隣人を愛することだ。「私から習いなさい」とは、そのような掟、神の御心をどのように行うかをイエスから習うということ。つまり、イエスといっしょに、イエスのような態度で、父なる神の掟を生きること。  2011年のバチカンのコロッセオでの十字架の道行きでは、アウグスティヌスのヨハネ福音書注解2・2より「十字架から離れるな。離れないなら、十字架はあなたを背負う」という言葉が引用されていた。律法学者やファリサイ派は「重荷を」「人の肩に載せ」ていた。つまり、人に自由を与える代わりに、人を奴隷にしていた。掟を網のように人にかけていたのだ。そして、その掟に縛られて、神との関係について議論する状態だった。それに対して、イエスは、彼自身といっしょに彼自身のように掟を実現することを勧める。その荷が「軽い」のは外から動かされるのではなく、イエスが心に吹き込んだ聖霊によって内から動かされるから。その掟は愛の要求だから。 

 「柔和」とはヘブライ語のアナウィンという言葉に相当する。アナウィンとは、もっとも弱い、見捨てられた、何もない、神だけに委ねられた、貧しい、ということ。それによって本当の喜びが見い出されるのだ。結局のところ、イエスの言葉、神の言葉、聖書を理解するのは、「賢い者」ではなく、愛を込めてその言葉を受け止めた聖人なのだ。

 イエスの悲しみと喜びを記す今日の箇所は、私たちにとって大きな意味がある。失敗を経験したイエスが祈りのうちに見出したこと――実はイエスはいつもそうで、その道を最後まで歩むのだ。


2017年

7月

16日

年間第15主日

ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ13・8)

JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)
JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)

 山上の説教と弟子の派遣に続くマタイ福音書第13章。それは七つのたとえが出て来る有名な章だ。イエスのたとえをマタイは自分なりの形で編集する。そこでは「天の国は次のようにたとえられる」という表現がよく使われる。天の国は遠い未来のことではなく、私たちが正しい態度で生きるなら、今ここで始まるとマタイは言いたいようだ。

 イエスのたとえ話はとても美しい。一見素朴だが、意味深長で、深く聞くことを要求する。イエスはすぐれた説教者で、心に触れる例を使ったのだ。そのたとえは彼の神性からとったものではなく、周りの自然についての注意深い観察から得られている。空の鳥と野の百合、雀、太陽、雨、雲、夕日、稲妻、いちじくの木とぶどうの木、麦の穂、アザミ、野良犬、木の虫と枯草、カラス、魚、羊、狐、サソリなど。

 今日の箇所には、種と種撒く人のたとえが出て来る。他の共観福音書にも出て来るたとえで、私たち信者には親しまれたイメージだが、読めば読むほど驚くべきニュアンスが出てくる。今日の典礼はこのたとえ話のポイントを示すために、第一朗読にイザヤ書の一つの箇所を選んだ。それは文学的にも美しい箇所で、もしかしたらイザヤ書でもっともすばらしい箇所かもしれない。それによると、種とは神の言葉だ。その言葉は、私たちに語るだけではなく、神の力を示し、神の子の名を意味する言葉であって、世にあるすべての美しいものの最初にあって創造する言葉なのだ。

 今日の福音書の箇所をよく見ると、大きく二つに分かれている。第一の部分は、イエス自身に遡る。第二の部分は、イエス自身の言葉以外に、教会とマタイが編集したところ。イエスの言葉についての初代教会の反省を表している。その難しい言葉をどう理解したらいいのか、教会の反省を示す部分だ。

 第一の部分の主人公は、種撒く人。それは父なる神ご自身だ。イザヤがすでに注意しているように、神はその言葉によってすべてを創造する。だから、種とは、世のはじめにあって、創造する力のある神の言葉のこと。このたとえでイエスが私たちに語る父なる神は遠い神ではなく、私たちのそばで力強く働いている。それは、イエスによって働く神だ。

 種蒔く人のたとえは私たち現代人からすると、何かピンと来ないところがある。もし主人公が神なら、なぜ種をこんなに闇雲に蒔くのか。当然のことだが、イエスは、当時の百姓たちのやり方を参考にしている。当時は今とは違い、土を耕してから種を撒くのではなく、種を蒔いてから鋤で種に土をかけていた。今から考えると、不合理なやり方だ。つまり、イエスはまず、当時の農業の方法を前提としている。

 しかし、それだけではない。イエスが種蒔く人の態度で示したいのは、もう一つのこと。だから、このたとえは私たちにも大切な意味がある。つまり、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神はどんな人(土)にも、キリストによって自分の言葉(種)をもたらす。つまり、ペトロも言うように、神は人を選ばないのだ。神は、善い人だけではなく、あらゆる人に自分の言葉を力強く届ける。そして、どんなことがあったとしても、反発するどんな悪い状態(土)があったとしても、どんな災いや問題(雑草)があったとしても、イザヤが暗示するように、必ず最後にその言葉(種)が実ることをイエスは何よりも言いたいのだ。別な言葉で言えば、神は人間に対して限りない信頼を寄せている。宣教の難しさ、イエス自身、そしてイエスの弟子がぶつかる困難にもかかわらず、神の国は必ず完成する。

 このことは私たちに何を言おうとしているか。たとえば、ルカが報告するように、悪い生活を送った強盗も、十字架上の最後の瞬間でイエスから癒しを得て天に入ることができたことがそうだ(23・42ー43)。または教会の中にある、さまざまな聖性の歴史が思い出される。このたとえの最後に、父なる神の言葉の力が示唆されている。すべてのものの中で最後に残るのが父なる神の言葉なのだ。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。だから、マタイがイエスの言葉について私たちに言うのは、注意しなさい、この言葉は他の言葉と違う、他のつまらない言葉と違って、この言葉に対しては特別な聞く態度が必要だということ。

 第二の部分は、イエスの言葉についてのマタイの教会の反省。ちょうど説教のようなもので、どのようにその言葉を聞くべきかを教えようとする。初代教会の信者たちがイエスのこのたとえに対してどのような態度をとっていたかがわかる。この第二の部分は、こんにちの私たちにも特別な意味がある。

 まず、神の言葉は、すべての人に対して変わらず同じ形で与えられている。それに対して、その言葉に対する態度は、拒否する人から受け入れて百倍の実りを結ぶ人までさまざまだ。イエスの言葉に対する態度は、4つのグループに分かれる。

 第一のグループ。その人たちは神の言葉を聞くが、言葉は心の中には入らず、悪魔がその言葉を奪ってしまう。種は道の上に落ちて鳥が食べてしまう。当時は今のような道ではなかったが、道の上を人が何度も通ると、 土が固くなり種を受け付けないようになる。それはこんにちの私たちの世界に似ている。マスコミやネットにさまざまな情報があふれ、何が正しいか正しくないか、さまざまな意見によって私たちは振り回される。私たちは洗礼を受けても、世間的な価値観に流される危険がある。キリスト者であるためには、キリストについておおまかに知るだけでは十分ではなく、イエスを深く知り、イエスに深くつながらなければならない。

 第二のグループ。石の上に落ちた種は根を下すことができず、日に焼かれて枯れてしまう。それは感情的に好きになるが、すぐに忘れてしまう人のこと。例えば、洗礼を受けてしばらくしたら、教会から消えてしまう人がいる。教会に来て活動をしていても、イエスが中心ではないなら、十分ではない。種のように忍耐強く成長しなければならない。引き続き、知識を深める必要がある。そして知識だけではなく、キリスト教的態度の訓練をしなければならない。例えば、長いあいだ他の信者とのあいだに喧嘩が続いて、赦し合えない状態なら、キリスト信者としての基本が欠けているのだ。

 第三のグループは、茨にふさがれる。教皇フランシスコは最近よく、世俗化という言葉を使う。つまり茨とは、世俗的な価値観や世俗的な生き方のこと。何に重きを置くかが間違っているのだ。

 最後の、第四のグループは、「良い」というより「美しい」土地に落ちる。実るとは、外面的な知識をもっているだけではなく、それぞれの形で人に赦しを与えることができるようになるということ。「百倍」という実りの大きさについてはイエスは「からし種」という別のたとえも使う。イエス自身、弟子の成長、キリスト者の霊的生活の深まりに驚くのだ――我が子が赤ちゃんから大人になるのに驚く母親のように。詩編1にも、流れのほとりに植えられた木が季節ごとに実をつけるとある。

 そのためにはしかし、その言葉に対して私たちの側に受け入れる態度が必要だ。それは具体的に言うとどのような態度か。それは騒ぎを抑えて、沈黙し、その沈黙の中で、他の邪魔になることを消すこと。例えば、自分が足りないものである自覚が必要だ。自分には何もかもわかるという態度ではイエスの言葉はわからない。エゴイズムを捨てて、神に場所を与えること。神が私たちのために働いていることに信頼すること。心を清めて、内面的な静けさを保つこと。要するに、祈りの態度が必要だ。

 今日のたとえについて思い出されるのは、司教や司祭、カテキスタなど、教会の中で神の言葉に対して責任をもつ人のこと。マタイが私たちに思い出させるのは、他のものを混ぜないで純粋な種を蒔くこと。そしてついでに、イエスのように困難に負けず、種を撒きつづけること。司祭の最大の役割は聖体と神の言葉への奉仕であり、そのために深い愛情と、細やかで謙遜な準備の仕事が必要とされる。神の言葉を伝えるのは大きな喜びであると同時に大きな責任があるから、習慣に流されて説教をすませてはならない。そのような難しい役割のために、信者の祈りも必要だ。司祭職については教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』第三章Ⅱ及びⅢ(135~159)にすばらしいページがあるから、私たちはそれを共有すべきだ。

 神の言葉に責任をもつ人だけではなく、聞く人の準備も同時に大切だ。たとえば、教会のミサの時間を守らず途中で来る人がいる。私たちは聞く人にならなければならない。聞くことを学ばなければならない。聞くことは簡単なことではない。どのように神の言葉を聞く準備をするか、どのように霊的生活を育てるか、どのように神の言葉について反省するか、考えていかなければならない。それは抽象的なことではない。私たちは、騒がしい一般の会話から急にミサに移ることはできない。いろいろな具体的なことが考えられる。

 今日のたとえはさまざまな時代に当てはまるだけではなく、私たちの共同体、まさに今日この日の私たちの共同体にも当てはまる。日曜日ごとに神は、私たちの心に種を撒く――信頼し忍耐し、たゆまず惜しみなく。そして、例え話のように私たちの共同体でも、ある人たちは100倍、ある人たちは60倍、ある人たちは30倍の実を結ぶのだ。


2017年

7月

23日

年間第16主日

ある人が良い種を畑に蒔いた。(マタイ13・24)

 今日のたとえは、よく理解すれば、教会を変え、私たち信者の生活を変えるほど、よいたとえだ。間違った神のイメージを変えるからだ。「毒麦」のたとえは他の福音書にはなく、マタイが特に大切にするたとえと言える。マタイはこのたとえを他の2つの短いたとえといっしょに伝える。そのつながりはイエス自身に遡るものかもしれない。マタイはいつものように、当時の教会の出来事を考えながらイエスの言葉を思い出して私たちに伝える。
 今日のたとえには、いろいろなニュアンスが含まれており、見方によっていろいろな意味が出て来る。
 先週のたとえと同じく、今日のたとえの舞台は畑。さらに先週のたとえと同じく、主人は畑に種を蒔く。先週読んだように、イエスの説明によると、畑とは第一に、世界のこと。さまざまな人がいて、さまざまな事情や出来事のある世界のことだ。第二に畑とは教会共同体のこと。先週読んだように、神は教会共同体という畑に種を撒く。第三に畑とは私たち一人ひとりの心のこと。それはさまざまな人物があらわれる歴史のことでもある。そして、種蒔く人とは、神ご自身であり、種とは神の言葉のこと。種は私たちを成長させ、この世界のうちに神の国が現れる。
 今日のたとえの中心は毒麦。毒麦とは罪のこと。私たち一人一人の心の中に突然芽を出し、現れる罪のことだ。それはショッキングなことだ。神によって造られた人間がどうして悪を行うのか。キリストに救われ洗礼を受けた信者がどうしてまた罪を犯すか。
 僕たちとは、教会共同体でイエスのために働く信者のこと。彼らは問題を神のせいにする。「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか」。彼らは畑の麦を大切に思って心配するより、神に対して怒っているようだ。そして、神より賢く、神より問題がわかっているかのように言う、「行って抜き集めておきましょうか」。その態度は、イエスがサマリアの人たちから受け入れられなかった時のヨハネとヤコブを思い出させる。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9・54)。あるいは罪人への罰を望み神が罪人を赦したことに腹を立てたヨナも思い出される。彼らは暴力をふるい、教会から罪人を追い出したいのだ。彼らはエリートで自分が清らかで罪人とはまったく関係がないと思い込んでいる。そして、他人にある悪に対して厳しい考え方をして、正義感をもって罰を下そうとする。放蕩息子の兄もそうだったし、私たちキリスト者もしばしばそうだ。彼らがわからないのは、毒麦を抜き集める気持ちは、毒麦そのものよりも悪いことだということ。彼らのやり方は問題よりも危ないということ。罪人を追い出すことは、神の働きをだめにするということ(「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」)。言い換えれば、人間は神にとって大切で、イエスが人のために命を捧げるほどだと彼らはわかっていないのだ。彼らは、結局のところ、毒麦に対して怒っても、神が撒いた良い種の価値をよく知らないのだ。それに対して、イエスは忍耐を教える。その忍耐は受け身でも投げやりでもない。彼は他の2つの例えで、どう待つべきかを教える。
 イエスの言葉は、私たち一人ひとりにも当てはまる。私たちも気づかないうちに悪魔に誘惑され、何かの罪に陥ってから気づくことがある。私たちの心の中には良い種といっしょに悪い種があるのだ。イエスが言うのは、罪に陥った時、自分の罪にばかり気をとられるよりも、神の愛を考えるべきということ。自分の罪に固着したのはユダだ。ユダは絶望に陥り、命を絶った。完全主義は、霊的生活の病気だ。それは本当の罪の意識ではなく、罪悪感に過ぎない。完全主義は人に対して冷酷にして厳しく審判させ、自分に対しても心を麻痺させて、心の中にある良いものを殺す危険がある。神は罪人がそのようになることを望まない。神は人間の罪ではなく、人間がなることができる聖人を見る。神にとっては、聖性の1グラムは何トンもの罪より重い(1ペトロ4・8「愛は多くの罪を覆う」)。イエスが言うのは、罪から解放されたければ、高いところに目を向け、神を愛しなさいということ。それは、教会の中に、また自分の心の中に罪を放任することではない。ただ、悪に対して戦うのは善しかないのだ。神が望むのは、自分の心の片隅にある悪に対しても憐れみの目を向けること。なぜなら、自分が神から赦されたと自覚する人だけ、人を赦すことができるから。キリスト者は神の愛によって罪を赦されたことを自覚した人のこと。福音書の道徳は、自分の正しさを中心にするファリサイ派の道徳ではなく、洗礼者ヨハネの道徳でもない。

ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)
ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)

 「毒麦」のたとえのすぐ後に二つの短いたとえが続く。最初はからし種のたとえ。ユダヤ人にとってエルサレムは山の上のレバノン杉のようなものだった(エゼキエル17章参照)が、新しいエルサレムであるイエスの教会はそうではない。ほとんど目に見えず風に飛ばされるほど小さな種から成長する。イエスは大きなものや権力ではなく、謙遜で小さなものを愛するのだ。イエスが考える教会共同体も大きなものや権力を求めず、人に奉仕する。
 次はパン種のたとえ。そこには、信者が信頼を抱き勇気をなくさないためのメッセージがある。教会共同体は小さな存在で力もなく、キリスト者一人一人の生活も役割も第二朗読のパウロが言うように「弱い」が、絶望してはいけないとイエスは言うのだ。イエスはきっと子どもの頃、母マリアがパンを作った時のパン種の様子を何度も見たことだろう。少しのパン種がたくさんの粉を動かす。死んだものが生きたものになる。パンの文化がある国々では、数十年前まで家でパンを作っていたから、子どもたちはパンが大きくなる様子を見て驚くことができた。少しのパン種で家族の一週間分のパンを作ることができたのだ。
 このパン種のたとえには、よく見逃されるディテールがある。「三サトンの粉」とあるが、それは40キロにもなる。家庭の主婦がそれだけの小麦粉を使うわけではない。それは何百人もの人たちを食べさせることができるほどの量だ。だから、イエスが言おうとしているのは、家族のパン(あるいは教会共同体の日曜日の聖体)のことではない。むしろ、宴会、特に婚礼の宴会のことだろう。福音書では神の国がよく大宴会にたとえられる。つまり、イエスは小さな家族ではなく、全世界を考えていて、希望をもちなさいと言っているのだ。 

 この三つのたとえの後に、弟子たちが質問する箇所がある。イエスが話の後に家に入ると、わかっていない弟子たちがイエスに説明を求める。日本語訳では「説明してください」と丁寧語だが、ギリシア語では命令で、「説明しなさい」というほどのニュアンス。実は弟子たちは理解していなかったというより、納得してなかったようだ。彼らはたとえの意味がわからないのではなく、内容に納得していないのだ。つまり、彼らはまだイエスの言っていること、イエスの言う「小さな人」についてまだ十分にわかっていなかった。このことは福音書に何度も出てくる。イエスが天に昇った後でも、弟子たちはなかなか信じなかった。それはよく見れば、私たちの誘惑でもある。私たちは今日の日曜日の福音書によっては自分の考え方や態度を調べるように勧められている。


2017年

7月

30日

年間第17主日

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ13・44)

ジェイムズ・ティソ「隠された宝」、1886―1894年、ブルックリン美術館
ジェイムズ・ティソ「隠された宝」、1886―1894年、ブルックリン美術館
 今日の福音書の箇所を理解させるために教会は第一朗読にソロモンの一つのエピソードを選んだ。ソロモンは、父ダビデの王座を継いだときはまだ若く、ヤーウェの神を愛し父に忠実だったが、信仰はまだ弱かった。特に、異なる民族の女たちを通じて、他の国の宗教とその儀式に対して関心と憧れを抱いていた。はじめにある「ギブオン」の丘はちょうど他の神を拝む場所だった。まさにその場所にいたある夜、ソロモンは夢の中で神の言葉を聞いた。神は彼の弱さを叱りはせず、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言った。若いソロモンは、自分の民の数もわからないと言って、「聞き分ける心」を願った。それは、他のさまざまな声の中で神の言葉を聞き分ける知恵であり、そのことが今日の福音を理解するために大切だ。長寿も富も敵の命も求めなかったソロモンを神は褒めて、知恵を与えた。ソロモンは旧約聖書では特に知恵のある者とされ、雅歌やコヘレトの言葉、箴言といった繊細で美しい書物も彼が作者と考えられているが、それはこのエピソードのためだ。 
 福音朗読は、マタイ福音書の第13章の最後の箇所。3つのたとえが出て来る。最初の2つのたとえ、宝物のたとえと真珠のたとえは、双子のたとえとよく言われる。偶然見つけるか探し求めるかの違いはあるが、一枚の紙の表裏のようにセットになっている。 
 宝物のたとえ。古代世界には、失われた宝物を見つける話がよくあった。銀行もなかった時代、戦争が起こると、金銀といった宝物を地中に埋めて、戦争に行ったが、死んで戻らなかったため、宝物が行方不明になったといった話だ。古い土地であるナザレにもきっとそういう話があっただろう。イエスは何かの事件にヒントを得たのかもしれない。 
 マタイはイエスのこのたとえを伝える時に、宝物が具体的にどのようなものだったかを書いていない。このたとえのポイントは、真珠のたとえとも共通するが、喜びと、その後出かけてすること。つまり一生に一度のチャンスを逃さずに、それにすべて賭けるということ。 
 真珠も、金銀と同じく、昔は貴重なものだった。イスラエルだけではなく、インドでもそうだ。例えば仏教美術でも真珠が使われる。現在のように養殖技術がなかった時代、真珠はとても高価なものだった。 
 宝物の場合は突然に、真珠の場合は長い間探した後に、美しく価値のあるものを手に入れる一生に一度のチャンスに出会った。イエスが言いたいのは、神の国の知らせはそのようなものだということ。神の国とは、イエスの言葉だ。教父たちが解釈するように、宝物とは神の言葉であるイエス自身なのだ。神の言葉であるイエスに出会うのは、人間にとって最大のチャンスだ。何よりもその出会いは大きな喜びの原因だ。イエスに出会う人は、ルールを教える法学者でも審判者でもなく、人生に意味と喜びを与える方に出会う。イエスに出会うことで、隠れたもの(「畑に宝が隠されて」)、パウロが言う、人間の目が見ることができないものが明らかにされる(コロサイの信徒への手紙1・26)。神の神秘こそ喜びの源なのだ。これが第一の結論だ。

 そして、第二の結論は、「出かけて行く」ということ。イエスに出会うと、人生は以前と同じではない。イエスに出会うとは、神の目ですべてのものを見ること。自分の限界、自分の苦しみ、さらには自分の罪を越えて、神の言葉は、人間が見ることができない美しい世界を現す。パウロも言う、「

わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」(テトス3・4)。キリスト者は、すべてをそこにかける。

 第一朗読から考えると、キリストは、キリスト者の知恵だ。善悪、つまり神の御旨を聞き分けることができる知恵とはキリストだ。キリストとは肉になって私たちのそばに来た神の知恵なのだ。「知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う」(知恵の書6・14)。それは、私たちのうちに神の国が生まれていくことに気づく知恵だ。神の国は死んでからのことではなく、今この世で生きているうちに始まるのだ。 
 この2つのたとえのあとに、もう一つ小さなたとえが続いている。それは網のたとえだ。よく見ると、先週の毒麦のたとえと同じことがテーマになっている。網の中に、善いものと悪いものが混ざっているが、最後に神がそれを分ける。だから、先週と同じく、忍耐と神への信頼がテーマだ。どのような災いが混ざっていたとしても、最後は神の永遠が成功する。 
 今日の箇所の最後に、少し唐突な言葉がある。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。これはマタイが彼の福音書について言っていると聖書学者は考える。芸術家が作品にサインを入れたり、ミケランジェロやラファエロが作品の中に自分の姿を描くように、マタイはここで、自分の仕事について書いていると。つまり、マタイはその福音書で、「学者」のように、イエスから聞いた言葉の他に、初代教会の黙想を合わせているというのだ。
 要するに、マタイは今日の箇所で、私たちがキリストとの出会いをやり直すことを勧めている。その出会いは私たちの生活を変えることができ、聖アウグスティヌスが言うように、安らぎと喜びを私たちにもたらすことができる。

2017年

8月

06日

主の変容

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(マタイ17・2)

カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代
カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代

 8月6日は主の変容の祝日。主の変容は、正教会が非常に大切にする祝日だ。カトリック教会にとっても、主の変容は大切なので、正教会と一致してこの祝日を祝う。日曜日に重なる場合には、年間の主日の代わりに、主の変容の祝日となる。その結果、変容がテーマである四旬節第二主日と同じ福音箇所が読まれることになる。今年A年はマタイの福音書の箇所が読まれるが、マルコとルカにも同じ出来事が報告されている。(マタイの箇所についてはこちらも参照のこと。)

 今日の箇所は非常にすばらしい。マタイは旧約聖書の言葉を使いながら、イエスについて経験したことを私たちに伝えようとする。マタイの箇所にはマルコともルカとも違ったニュアンスがあるが、彼らは彼らの生活を新しくした経験について私たちに伝えたいのだ。よく見れば、今日の箇所はキリスト論的なページ。イエスの言葉でも奇跡でもなく、イエス自身の秘密が表現される箇所であり、特別に注意すべきだ。

 変容という言葉で表されるが、言葉では言い表せない何か不思議なことがイエスに起こった。変容とは何のことか。それはただ服を着替えることではない。服を着替えることは外面的なことだが、変容は内面的なことだ。変容は実は私たちの個人的な生活にもある。例えば私たちが人を愛するときがそうだ。人を愛するとき、何年もいっしょに過ごしてきた人、例えば学校でいっしょに勉強していた人が突然違ったものに見える。そして、うまく行けば、その人に長い人生を賭けることになる。結婚して、子どもをもって、死んだら悲しんで墓に花をもっていくことになる。人を愛するその瞬間、その人にある何か深いこと、それまで気づかなかったことに気づくのだ。

 マタイは言う、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝」いた、つまり変容した。こういう表現でマタイは私たちに、イエスがどういう方であるかを教えたいのだ。イエスは人間だ。ナザレに育ち、30歳の時に宣教活動を始め、3年間ガリラヤを歩き回って布教し、最後に十字架上で死んだ。その人間、私たちが見ることができた人間の顔の上に、神聖な神の光が輝いたのだ。だから、私たちはこれからずっと、イエスの顔を見ることで、人間が目で見ることができない神の顔を見ることができる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。マタイが言いたいのはイエスはただの人間ではなく、父なる神を完全に映す神の子、救い主、メシアであるということ。イエスの顔の上にだけ神の栄光の光が輝く。そして、イエスが神の子であるからこそ、造られたものにすぎない私たちも、洗礼を受けキリストと一つになることで、神の子になることができるのだ。

 だから、今日の箇所は見れば見るほど味が出てくる、ありがたいページだ。祈りの時などに深く観想して、その光、その力に満たされることが大切だ。

 最後に一つの点に注目したい。人間を超えた神の出来事の前で恐れてひれ伏した弟子たちに、一人残ったイエスが近づき、彼らの頭の上に手を置いた。これはマタイの天才的な表現だ。イエスの手については福音書によく書かれている。イエスの手は憐れみの手だ。貧しい人や病気の人、重い皮膚病の人や目の見えない人、子どもや女性、罪人に触れる手だった。イエスの手は、憐れみのある父なる神の手だった。私たちが今日教会に来てこの日を祝ってイエスを拝み、聖体を受けてイエスと一つになるなら、その手は私たちの頭の上に置かれる。それは癒しの手、憐れみのある手、愛情のある手だ。私たちは神から愛され受け入れられるのだ。

 ヨハネは黙示録で同じエピソードを引用している。日曜日のミサで超越の体験をしたヨハネにイエスが近づいて、彼の上に手を置いた。そして、「恐れるな」(1・17)、私は救い主であるから、世に勝った者であるから。今日、私たちに同じ信仰が与えられる。イエスを信じ罪の赦しを願うことによって、ミサに与り聖体を受けることによって、私たちも父なる神の力をいただくことができる。


2017年

8月

13日

年間第19主日

ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(マタイ14・29)

ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館
ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館

 今日の箇所は、イエスと弟子たちの生活の中の一つのエピソードのように見える。けれども、よく見れば、ストーリーとしては成り立っていない。具体的な物語だが、アレンジされていて、神学的な物語だ。この物語はマルコ、マタイ、ルカがそれぞれの時代にそれぞれの形で書いているもので、彼らよりずっとあとに、ふつうは他の福音書をあまり参考にしないヨハネさえこの物語に惹かれ同様の物語を書いている。こうして、小さなエピソードと思える物語が神学の大きなテーマとなった。オリゲネスをはじめ教父たちも好んで解釈を加え、こんにちの解釈のもとになっている。神の不在を経験するこんにちの信者も、深く語りかけられるページだ。

 今日の物語は、教会とキリスト者の生活の中でのキリストの役割について元型になるほどの物語だ。単純でわかりやすいが、注意して観察すると、旧約聖書とのさまざまな関連が出てくる。

 マタイはこの出来事がいつどこで起こったか具体的に書いていない。それはただ、イエスが大きな奇跡を行った後の出来事だ。その奇跡とはパンを増やし5000人に食べさせた出来事(実はA年第18主日にその箇所が読まれるが、今年は変容の祝日のため読まれなかった)。その奇跡の意味は聖体だ。イエスは神の言葉であり、イエス自身とその言葉はおおぜいの人を養うパンなのだ。しかし、その奇跡はある意味で失敗で終わった。人々はイエスのメシアの道を誤解し、彼を王にしようとした。そのあと「すぐ」、イエスは人々を解散させて、山に昇る。そういった時いつもそうするように、イエスはひとり父なる神といっしょにいようとする。何か挫折感と孤独感を抱いているようだ。

 イエスは12人の弟子たちには、舟に乗るように「強い」る。「強いて」とはギリシア語で強い命令を意味する動詞だ。なぜ強く命令したか。オリゲネスも言うように、不思議なことだが、弟子たちが行きたがらないからだ。海に慣れた人たちだから、たんに舟に乗るのをいやがったということではない。「向こう岸へ先へ行かせ」。「向こう岸」とは異邦人の世界のこと。つまり、マタイによると、彼らはこちら側にいたいのだ。「向こう岸へ」は何をしに行かされたか。父なる神はイスラエルだけではなく、すべての人の神である。すべての人にその言葉を届けなければならない。

 そこに一つのことがある。パンの増やしの奇跡のあと、弟子たちが「残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった」。彼らはきっとそれをその場に残さず、もっていったことだろう。「パンの屑」とはイエスの言葉の余ったもののこと。「12」とは、イスラエルの12部族、そして12使徒のこと。つまり、弟子の一人ひとりは、パンになるイエスの言葉をもっていくように任されたのだ。しかし、弟子たちは行きたくない。イスラエルから離れたくない。これは復活後のペトロに典型的に見られることだ。その結果、彼らは強く命令されて舟に乗り、イエスなしに自分たちだけで行く。それはマタイにとって、教会の有様を描くイコンだ。

 そこには旧約聖書を連想させる細部がたくさん出てくる。「湖(=海)」。実はその湖は一晩かけて渡る必要がない広さだ。狭いから、一時間ほどで渡れる。他にも「夜」「(安全な)陸から…離れ」「逆風」「波」など旧約聖書を思い出させるモチーフが出てくる。実は、福音書をよく見れば、ちがったたとえが使われるにしても、そのような状態は、弟子たちがイエスの受難と死のあと閉じこもっていた状態、神の不在の状態と同じだ。今日の箇所のその後は、復活物語のように書かれている。その時は、共同体の危機であり、長く苦しい時期だ。信じることは時間がかかるのだ。イエスの受難の時も夜のモチーフが何度も出てくる。ユダが出る時、ゲッセマネの園の時がそうだ。そしてイエスの復活と同じように、今日の箇所でイエスが現れるのは「夜が明けるころ」だ。そして、そばに来るイエスを見て、弟子たちは「幽霊」と思うが、ルカは復活の場面で同じ言葉を使う(24・37)。弟子たちは恐れと悲しみに満たされて信じたくなくなっているから、イエスを見ても幻だと思うのだ。今日の箇所でマタイは、苦しみや反発、迫害(逆風、波)の中で生きる教会に向かって話している。 

 この物語で特に目立つのはペトロの役割だ。ペトロが中心的な役割を果たしているのは彼が教会の中で強い権力をもっているからではない。ペトロは他の弟子たちと同じ問題に悩まされている。ペトロは教会の苦しみを代弁する人物。ペトロはイエスに深い憧れがあるが、同時に弱く十分に考えない。イエスを信じても、その信仰は弱い。大きな奇跡を目撃してもまだわかっていない。そしてイエスを誘惑する役割を演じる。この箇所でもイエスに言う、「あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。それはまさに、イエスを誘惑したときの悪魔のセリフと同じだ。「神の子なら…」。つまり証拠を出すように言うのだ。マタイは今日の箇所ではシモンという名を使わず、ペトロという、頑固者を意味するあだ名だけを使う。ギリシア語では、ホ・ペトロ。冠詞がついているから、あの岩ということだ。

 イエスはペトロの両面性をよく知っていて、やさしい態度をとる、「来なさい」。ペトロは水の上を歩き始める。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。漁師だったペトロは泳げただろうから、溺れることを心配するはずはない。だから、歩くとか沈むというのは一つの象徴だ。つまり、イエスを見る時は歩けるが、イエスを見ずに自分の問題を見ると沈むのだ。ペトロが救われるのはイエスに向かって手を伸ばす時だ。「主よ、助けてください」。すると、イエスが彼をつかんで助ける。マタイが言うのは、人間がイエスの方へ進むのは自分の力ではないということ。人間は神の力によってだけ神に近づくことができる。今日の物語は神学的な物語で、イエスはすべての人の主であるという復活のテーマがそこに示されている。

 ユダヤ人は、フェニキア人など他の民族と異なり、海になじみがない民族だ。彼らにとって海は混沌を意味し、人間を圧迫する否定的な力を象徴する。それを支配できるのは神だけ。だから、水の上を歩くイエスと、イエスに向かって水の上を歩くペトロは、イエスが主であることを暗示している。ヨハネがこの物語を語るときも同じことを暗示する。イエスは神の現れだと言いたいのだ。

 ヨハネの箇所によると、イエスは舟に乗り込まなかったようだが、今日の箇所ではイエスは舟に乗り、弟子たちは「イエスを拝んだ」。イエスは神の子、救い主なのだ。マルコは弟子たちに注目するが、マタイが関心をもつのは却って舟。今日の箇所から、教会が世の悪の上で人々を神に連れて行く舟として語られることになる。

 当時の教会も、こんにちの教会も、イエスの命令で世を進む。イエスがいないように不安に思っても、イエスが現れるとその不安は癒やされる。ゲッセマネの園では、イエスはいるのに、弟子たちは寝ている。イエスに対する信仰がないからだ(「悲しみの果てに」ルカ22・45)。ゲッセマネの園の祈りは最後の晩餐のあと、今日の箇所はパンの増やしの奇跡のあとで、いずれも聖体のあとの出来事だ。こんにちも教会は聖体があるから教会なのだ。聖体は旅路の糧だ。聖体によってイエスはキリスト者のそばにいて「わたしだ。恐れることはない」と言われる。聖体に対する態度はキリスト者の信仰を測る基準なのだ。

 聖霊の力で今日の箇所を細かく観察しながら読んで祈るなら、こんにちの私たちの教会や生活にとって大きな光と力と慰めになる。イエスから離れて波に悩まされることから連想されるのは、こんにちの教会の迫害だ。さまざまな国でキリスト者が迫害されている。教会の歴史の中で今のようにたくさんの迫害や殉教がある時代はもしかしたらなかったかもしれない。教会だけではなく社会にもあてはまる。「流動化社会」(ジグムント・バウマン)とも言われる、伝統的価値観を失った社会。心を忘れてものを追いかける消費社会、人も資源も環境も破壊する投げ捨て社会、グロバリゼーションなど。だから、今日の物語は現代に対してもメッセージを含んでいる。 それはどういうメッセージか。イエスの命令で、教会は舟のように世界の海を進む。教会はいろいろな反発に押し戻される。教会の中にも信仰が足りない状態がある(毒麦のたとえ)。イエスは舟の中にいないようだ。けれども、信者たちは世(夜)の終わりに、イエスは現れるという信仰をもって舟に乗っている。イエスが見えないあいだ、教会は旅を続ける。復活のあとでも、弟子たちはいろんな疑いや不安に襲われていた。ペトロはそんな私たち信者を代表する人物だ。「主よ、助けてください」。イエスはペトロを赦して引き上げる。キリスト者の生活はそこから始まる。「私は罪が赦された者」(教皇フランシスコ)。ペトロのように、弱い人が殉教者になるのだ。


2017年

8月

20日

年間第20主日

イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15・28)

「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収
「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収

 今日の箇所は一見すると、イエスと弟子たちが休みに行く話に思える。5000人を食べさせ、ファリサイ派といろいろ議論したあとのこと。けれども、よく見ると、イエスは状況から距離を置こうとしている。幼子のころエジプトに逃げた時のように、パレスチナの外に出る二回目の逃避のようだ。パンを増やす奇跡は失敗に終わった。人々はそれで確かにイエスのところに集まったが、それは違った目的のため、パンをもらうため。イエスの道は誤解されたのだ。そのあと、ファリサイ派と大きな議論になった(15章)。食事の前に手を洗うことなどで、ファリサイ派にとっては大切な掟で、自分たちを異邦人と区別する点だった。

 その後、イエスは「ティルスとシドンの地方に行かれた」。ティルスとシドンはレバノンの南に位置し、パレスチナの外になる。海の近くで、自然の豊かな場所だ。しかし、昔から、イスラエルの敵であるカナンの人たちの地方であり、異邦人の世界だ。イエスの休息はすぐに終わる。一人の女性がやってきて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。彼女は異邦人で、どこかでイエスのことを聞いたのだろう。「ダビデの子」とはユダヤ人たちがメシアについて使う言葉で、彼らは敵を倒しイスラエルを自由にするメシアを望んでいたが、イエスは違った意味のメシアでありたかった。この女性の娘は悪魔に取り憑かれている。どんな病気かは詳しく書かれていないが、とにかく体だけでなく、霊的な問題がある。イエスがこのような人たちに出会うのはこれが最初ではないから、他の場合と同じく簡単に触れることもできたエピソードだ。例えば、一日中働いたあとにまた病気の人が来たとき、イエスはその人を癒やしたと別の箇所にある。却ってこのエピソードは、何か違った物語になる。このエピソードについて、教会は2000年のあいだに考えられないほどたくさんの解釈をしている。それは、このエピソードに引っかかる箇所があるから。

 ここで思い出される大切な点はこの箇所も例によって神学的物語であること。だから、マタイの記述の細部に注意すべきだ。たとえば、イエスは最初何も答えない。娘が病気でイエスに助けを求めている人に答えず無関心なのは冷酷に思える。イエスはこの女性を軽蔑する表現も使う(「犬」)。弟子たちもこの女性に距離を置こうとする。ある人は、弟子たちはイエスより憐れみを抱いていると解釈するが、そうではなく、迷惑だから遠ざけるようにイエスに頼むのだ。それは、ユダヤ人がめったに入らない異邦人の世界にイエスが入ったから。イエスも弟子たちも、ユダヤ人の考え方をする。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。この言葉は厳しく、失礼で、冷酷に聞こえる。イエスは最後は、この女性の希望をかなえて娘を癒やし、この女性を褒めたが、最初はなぜこのような態度をとったのか?

 ここに注意すべき点がある。マタイがこの箇所を書いたのは85年頃。イエスを信じたユダヤ人共同体にとって大きな危機の時期だった。彼らはユダヤ教からキリスト者になった人たちで、イエスの生前通りユダヤ教のしきたりに従い、安息日を守ったりしながら、イエスに倣って生きていた。しかし、70年に神殿が破壊されたあと、ファリサイ派は、イスラエルの共同体を立て直すためにモーセの掟を守ることに努め、そのためにキリスト者を会堂から追い出すような迫害も行っていた。だから、危機の時期で、本当の掟は何か、誰が正しいか、ファリサイ派かキリスト者かーーそういう問題があった時期なのだ。そして、マタイがその福音書を書いたのは、イエスが新しいモーセでありキリスト教(第二契約)が旧約聖書(第一契約)の完成であるという信仰を確認するとともに、迫害されるキリスト者を慰めるためだった。その同じ目的のため、このエピソードを利用してマタイは、イエス自身が異邦人に道を開いたと言いたいのだ。「イスラエルの家の失われた羊のところ…」について聖ヒエロニムスが言うのは、異邦人のところに送られていないという意味ではなく、まずイスラエルのところに送られ、そしてイスラエルから見捨てられたあとに、異邦人に移ったという意味だと。今日の第二朗読はその経緯を示唆している(ヨハネ1・11も参照)。だから、イエスがその女性に会ったのは、ちょうどその移行の時期にあたる。イエスは神であるとともに人間であるから、祈りのうちに自分の道を少しずつ整えていくと言える。マタイはこのエピソードを使って、マタイ当時のユダヤ人キリスト者が思っていたことをイエスの口に載せて、アイデンティティの問題をイエスも感じていたということを示しながら、神の愛がすべての人に向けられていることを言おうとする。だから、マタイがイエスについて、ファリサイ派から受け入れられず、民からも理解されないと言うのは、マタイ当時の信者も同じこと。民は利益ばかり考えて、イエスの目的を理解しなかったが、イエスが言いたかったのは、神が無償で救う憐れみと恵みの神であること。

 異邦人も、救いは恵みということを理解するのに苦労する。今日の箇所の女性に対するイエスの態度や言葉も、彼女の信仰がたんなる「神頼み」から清められるためのものだった。初代キリスト教もイエスが復活したあとでも、それを理解するのに苦労し、聖霊の力とパウロの忍耐によって、ようやくそれがわかってきたのだ。イエスがイスラエルだけではなく、すべての人の救い主であることもそうだ。イエス自身ユダヤ人として、そのような移行を経験した。神はその言葉を取り消してユダヤ人を見捨てたわけではないとはパウロも感じていた(第二朗読)が、それはこんにちも大きな問題として残る。しかし、イエスが宣言する新しい世界では、救いの食卓から落ちたパンくずもすべての人を助ける力がある。いただいたパンを異邦人と分かち合うこと、すべての人と兄弟であることをイエスは弟子たちに教えるのだ。

 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。イエスはその女性の言葉に感動する。彼女は謙遜に、信仰と愛の完全な形を示したから。イエスの言葉を侮辱と感じず、他の人と比較も競争もせず、ただ救いがイエスから来ることを心の底から表明する。イエスが沈黙して彼女の願いをすぐに叶えなかったのは彼女の信仰が成長するために役に立ったのだ。イエスの救いはエリートのためではなく、神の愛に心を委ねる人のためのもの。ここで連想されるのは出血症の女性だ。彼女はイエスの服の房に触れて癒やされた。救われるためには小さな恵みでも十分なのだ。

 最後に、このエピソードは2000年後の私たちに何を教えているか。こんにちのキリスト教ではユダヤ人と異邦人の比率は逆転しているから、私たちは問題をあまり意識していない。しかし、よく見ると、私たちも当時のキリスト者のように、エリートのグループの中に閉じこもる危険がある。教皇フランシスコは、まだ大枢機卿だった2013年に説教でそのテーマに触れ、その後も「出向いていく教会」について語る。「出向いていく教会」とは宣教する教会のこと。フランシスコによると、イエスが私たちの心の扉を叩くのは、彼が中に入るためではなく、私たちが外に出るためだ。本当のキリスト者は、教会の中に避難して閉じこもって生きる人ではなく、外に出かけて宣教し神の言葉を分かち合う人なのだ。全世界に向かうことは教会の根本になる。教皇フランシスコの『福音の喜び』全体がこのテーマについて書かれているから、教会の中で大切にして、勉強の機会をもつことが望まれる。


2017年

8月

27日

年間第21主日

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16・19)

グイド・レーニ「キリスト、聖ペトロに鍵を授ける」、1625年、ルーブル美術館所蔵
グイド・レーニ「キリスト、聖ペトロに鍵を授ける」、1625年、ルーブル美術館所蔵

 今日の箇所、またマルコとルカの並行箇所は、カトリックでもプロテスタントでも正教会でも、多くの人が論じている。教会の中でのペトロの役割について書かれているからだ。聖書学の立場や神学の立場、歴史学の立場などからの考えられないほど多くの研究のきっかけになり、いろいろな問題について論じられてきた。第一に、この箇所はイエスの実際の言葉を伝えているのか、それとも初代教会の編集が入っているのか。第二に、聖書解釈をめぐってもさまざまな意見がある。特に3つのたとえについて(石(岩)、鍵、「つなぐ」と「解く」)。第三に神学のレベルで論じられてきた。教会の土台は誰か、ペトロかイエスかなど。これはカトリック教会のアイデンティティやエキュメニズムと関係する問題だ。つまり、ペトロの後継者とされる教皇の役割はどういう役割なのか。ヨハネ・パウロ2世も、教皇の新しい役割を探すための助けを願った。教皇フランシスコもそうだ。しかし、以上のようなさまざまな問題には立ち入らずに、祈りのために、この箇所を簡単に見てみる。

 「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」。イエスはよく歩く。あちこち遠いところまで出かける。直前は別の場所にいて、今はパレスチナの最北、フィリポ・カエサリアだ。フィリポとはヘロデ大王の息子。そこではまさに町の建設途中だった。ヨルダン川の3つある源泉の一つがあり、風景が独特だ。異邦人が多く、神々、特にギリシアの神パーンの神殿があった。少し険しい山手は、死者の世界、陰府の国の入り口と異邦人は考えていた。イエスは、きっとファリサイ派やサドカイ派から離れるために、弟子たちを遠いその場所へ連れて行ったのだろう。

 「弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。弟子たちをあちこちに派遣したイエス。弟子たちの宣教にどんな反応があったか、知りたかったのだろう。  弟子たちの答えはおおむねイエスを失望させるものだった。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。エリヤは、メシアが来る時再来すると考えられていた昔の預言者。エレミヤも迫害された預言者だ。いずれにしても、過去の人物だ。つまり、当時の人たちはイエスの教えを聞いても、新しさを感じず、昔の人が戻ってきたと考えたのだ。

 よく考えると、私たちの時代もそうだ。イエスについての知識が多い西洋でも、そうでない東洋でも、たとえ教会に反発するにしても、イエスは重要な人物の一人とされ、聖書から離れてもいろいろなイエス像が昔からある。たとえばイエスは本当の社会主義者、または自由を愛するヒッピーだったと言う人もいる。フェミニストからは女性を擁護する人物として、環境保護論者からは自然を大切にする人物として考えられ、また貧しい人のために正義を行う人物やヒーラーと理解された。アジアでもグルーと考えられ、座禅を組むイエス像もあちこちにある。西洋ではイエスについてさまざまな映画も製作されてきた。確かにイエスにはそういった面もあっただろうが、知っている過去の人物と理解し、イデオロギーの代表者として利用しているにすぎない。イエスは誰かという問題は、私たちキリスト者をも考えさせる。私たちはイエスについてどういうイメージをもっているか。

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。3年間私といっしょに歩き回り、私の言葉を聞き私の行いを見たあなたたちはどう思うのか。これは重い質問だ。私たちも、私たちの共同体も問われている―あなたにとってイエスは誰か、あなたのイエス像は真実のイエス像かと。

 そこでペトロが答える。ただし弟子たちを代表してではない。「あなたはメシア、生ける神の子」。「生ける神の子」とは命を与える神の子という意味。それはとても見事な表現で、イエス自身よい意味で驚いたほどだ。もっとも、ペトロの言ったメシアとは、イエスの考えるメシアではなく、権力をもち他の国を支配するメシアだ。先週の箇所の女性の言った「ダビデの子」もそうだった。イエスは、実際にはそういうメシアではありたくなかったが、それでもその答えを受け入れて、ペトロを祝福する。「あなたは幸いだ」、あなたは神を見る目がある、心が清いと。その面ではイエスは肯定的な反応を示した。しかし、イエスはポジティブなだけではない。「シモン・バルヨナ」。バルヨナとはヨナの子。これは珍しい言葉で、あだ名だ。ヨナの子とはヨナと同じという意味。ヨナは預言者の中でただ一人、神から言われたことと反対のことをする。東に行くように命じられて西に行く。そしてなかなか回心しない。特に罪人に対する神の憐れみを理解できず、罪人に対して神より厳しい。頑固で、神が人を滅ぼさないから、木の下で死にたいぐらいに思っている。自分が正しいと考え、町の人が王様から動物まで回心しても、罰を求める。自分の間違いを認めるくらいなら、罪人が死んでもかまわないと思うのがヨナだ。ペトロはそんなヨナと同じだとイエスは言いたいのだ。だから、イエスの答えには2つの部分がある。最初はペトロを褒め、次はペトロにを褒めているのだ(日本語訳では順番が逆になっている)。

 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロは権力や自分を中心にする危険があるとイエスは言いたいようだ。

 「あなたはペトロ」。ギリシア語にはペトロスとペトラという2つの言葉がある。ペトロスは小石を意味し、ペトラは女性形で岩を意味する。つまり、イエスが言うのは、あなたは小石だが、キリストが岩だと。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3・1)。この点に基づいてプロテスタントはきっと、ペトロ(とその後継者)よりキリストが中心だと主張することだろう。イエス自身の言葉か初代教会の付け加えかという問題もこの点に関係する。簡単に言うと、初代教会には、教会の中心を巡って競争があった。イエスのその言葉は、ペトロが他の人より教会の中心だということを主張するために使われた。イエスが言うのは、神の国を作るためにあなたは必要な一部だが、もう一つの土台が大切だと。教会が立つ本当の岩、動かない岩はキリスト自身だと。イエスは新しい会堂を作るために来たのではない。イエスは今までと同じメシアではない。イエスの共同体は、死ではなく命を与える神の子の上に建てられる。

 イエスが彼の共同体を建築にたとえたのは、もしかしたらその町が建築途中だったから。だから、そのたとえを使う。「陰府」という言葉も、その町に死者の世界への入り口と思われた場所があったから、イエスがそこからその言葉をとってきたとも考えられる。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。「鍵」とは、かつぐほど大きな町の鍵のこと。イエスが言うのはペトロは神の国の責任者ということ。だから、ペトロはいつも天国の係とされ、臨終の扉とよく呼ばれる。しかし、マタイにとっては、神の国は後の世のことではなく、今のこと。だから、鍵を授けられて具体的に何をするか、考えるべきところがある。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。ここでイエスはペトロに言うが、同じマタイ福音書の18章では、その権限が弟子たちみなに与えられる。つまり、その権限は教会の中心であるペトロだけでなく、教会に与えられたのだ。これに関して議論があるが、今はそれには入らない。とにかく、この言葉は宣教への呼び出しだ。

 「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。これはマルコにもあるが、イエスがメシアであることを秘密にしなければいけないということではなく、イエスの秘密を弟子たちがまだ十分にわかっていないということ。権力で国を収めるメシアだと言ってはいけない、私はそういうメシアではないとイエスは言いたいのだ。イエスはメシアだが、彼らが期待していたようなメシアではない。洗礼者ヨハネが考えていたメシア、力をもって罪人を滅ぼすメシアではない。イエスがどのようなメシアであるかは十字架上ではじめて明らかになる。十字架につけられる時にイエスは父なる神をうつすのだ。イエスが神の子であるのはその意味だ。そしてダビデの子は神ではないが、十字架につけられたイエスは神だ。

 最終的に、ペトロもまだキリストに至る道を最後まで歩んでおらず、キリストを十分に理解していない。彼はまだ自分の弱さを意識していない。イエスへの憧れや信仰があったとしても、大切なことがまだわかっていない。まだ自分に自信をもち、利己主義的な立場でイエスといっしょに死ぬと言ったりする。彼はまだ十分に神の愛がわかっていない。人間が罪を犯したあと、その罪を赦したい神の心、神の憐れみをまだわかっていない。ペトロの信仰はまだ自己意識の立場だ。彼が本当の教会の中心、イエスの羊と子羊を牧する者になるのは、自分の罪に涙を流しイエスに赦されその喜びとありがたさを知る時。その時はじめて、ペトロは教会の小石になる。マタイがこの話を大切にしていたのは、彼がユダヤ人の世界で話していたからだが、ヨハネ福音書によると、ペトロは復活したイエスから、私を愛しているかと3回質問される。神の憐れみを身をもって経験したペトロは、その時はじめて教会を牧する資格をもらう。神の無償の愛を経験した人、赦しをいただいた人だけが牧する資格がある。

  今日の日曜日のきっかけに私たちはまず、パパ様や教会の中で権力を持っている人のために、また教会の一致のために祈る。教会の中でのペトロの役割は、彼自身の経験から切り離すことができない。キリストがペトロを兄弟たちの信仰を強めるために選んだのは復活のあとだ。霊的指導者としてのペトロの歴史的な役割は、彼の人間としての個人的な経験と深い関係がある。もし神秘主義者ヨハネがパパ様になっていたらどうなっていたか私たちは知らないが、ヨハネの個人的な経験はきっとその役割と一つになっていただろう。または、もし異邦人への宣教者パウロがパパ様になっていたとしても同じように、彼の個人的な経験による影響があったはず。それぞれ自分の信仰の経験からその役割を果たしていただろう。だから教皇の役割は、個人の経験と無関係な、抽象的な役割ではない。イエスに対して感情的な愛情を示すと同時に、イエスを裏切るペトロ。彼がパパ様となって、信じる人の家である教会は、弱い人の家になった。ペトロのその経験があったから。信仰と疑いの間で迷う人たちの家、キリストへの憧れや帰依と不信とのあいだに悩む人の家になった。どのような弱さがあっても、教会はペトロのようにイエスを仰ぎ見て信じている。


2017年

9月

04日

年間第22主日

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16・24)

アンニバーレ・カラッチ「ドミネ・クォー・ヴァディス」、1602年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵
アンニバーレ・カラッチ「ドミネ・クォー・ヴァディス」、1602年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵

2017年

9月

10日

年間第23主日

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタイ18・15)

ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1773年、ウィーン美術史美術館
ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1773年、ウィーン美術史美術館

 マタイによる福音書は「教会の福音書」と呼ばれるが、教会と訳されるのはギリシア語のエクレジア。この言葉はマタイ福音書では16章と18章で使われる。エクレジアとは「呼び集められた人々」という意味。だから、教会とは神によって呼び集められた家族を意味する。それは旧約時代に神の言葉によって呼び集められた民の完成だ。ということは、マタイの福音書にあるエピソードはただイエスを信じる一人ひとりの物語ではなく、その裏にちゃんとした共同体があるのだ。イエスを信じた人たちは、ただ一時的に集まったのではなく、少しずつ共同体を作り上げた。その共同体にはよいところもあれば弱いところもある。特に18章からは共同体の有様が見て取れる。当時すでにできていた共同体は小さな形であるとしても、こんにちの私たちの共同体がもつ問題を抱えていた。だから、今日のような箇所は、私たちにとって、私たち自身を映し見る鏡であり、成長するきっかけにもなる。
 18章全体が共同体にかかわるが、今日読まれる15節から20節まではイエスのいくつかの言葉が集められ、罪の赦しが問題にされている。それは私たちの共同体の問題でもある。罪について互いに兄弟として忠告し合うこと(兄弟的矯正corretio fraterna)については、教会の歴史の中で、例えば修道生活の中でさまざまな反省や研究がなされてきた。罪人であるというのがイエスを信じた人たちの状態だ。イエスに憧れ彼の後に歩こうとしている人たちが同時に罪を犯すのだ。教会の中には罪が存在する。どのような態度でその問題に向かうべきか。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」。よく誤解されるが、ここで言われる罪とは悪一般ではなく、教会の中で兄弟から受ける罪だ。そして、注意すべきだが、私たちはすぐに、教会共同体の中にいい人と悪い人を区別して、悪い人にどういう態度をとるかが問題だと考えてしまう。けれども、この区別は教会共同体だけでなく、私たち一人ひとりに言えること。一人ひとりがみな、場合によって、罪人と、罪人に傷つけられる人との両方の役割を互いにするから。
 兄弟の罪に対するイエスの指針は次のとおりだ。「行きなさい」ーこれは罪人から傷を受けた人に対する言葉だ。「忠告」はギリシア語ではいろいろな意味に解釈できる。相手の罪を告発することとも解釈できるが、イエスが言うのはそうではない。それは「二人だけのところで」という脈絡からわかる。「忠告」とは、罪の被害者として罪人に対して厳しい態度をとり、罪人の回心を求めるということではなく、その問題を超えて一致を取り戻すために話をするということ。イエスは罪人の罰を望まないから。「二人だけのあいだで」、つまり、イニシアチブをとるのは罪人に傷つけられた人だ。南米訪問中の教皇フランシスコは昨日、受けた被害に対する復讐の誘惑を乗り越え平和を築くためのイニシアチブをとる人が必要だと話した。希望が存在するためには一人でも十分で、私たちの誰もがその一人になれると(詳しくはこちら)。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。ここで「兄弟」と言われている。つまり、イエスが言うのは、自分を傷つけた人が失ってはいけない宝物であるということ。放蕩息子のたとえ話では、父なる神にとって罪は神への侮辱ではなく、愛する子どもを失うことだが、それと同じことなのだ。「言うことを聞き入れたら」。だから、相手に対する話し方、ふるまい方、心の姿勢が非常に大切だ。イエスが言う忠告は簡単なことではない。正義の側に立って、相手が正しくないという判断を下すことではなく、相手を宝物と考えた上でとる愛の行動であり、特別な心の姿勢と技術が要求されることであり、実現が難しいことだ。たとえば、祈るために神殿に上った二人の男のエピソードを思い出すと、ファリサイ派の態度が「忠告」ではない。自分が相手より正しいと考えて、そのプライドから相手に対して態度をとることではない。このことは非常に重要だ。世間ではよく、相手の上に立つために相手に目を向ける。たとえば、相手が災いを受ける時、いろいろな人が慰めてくれるが、相手にいいことが起こる時、いっしょに喜ぶ人は少ない。要するに、上の立場から相手を叱ることは、相手を宝物と考えて話をするのとぜんぜん違うことだ。

 だから、イエスが言う「忠告」は、罪人をいじめることではなく、「忠告」する人にしかるべき心の姿勢が求められる。もっと具体的に言うなら、自分も罪人で罪を赦されたと自覚している人こそ、兄弟を助けるためにふさわしい心の姿勢をもっている。これはヘブライ人の手紙に強く出てくる。イエスは謙遜と注意と繊細さを要求する。怒りを超えた強い人だけ、相手を赦し相手に「忠告」する力がある。

 「二人または三人の証人」。これは、旧約聖書を思い出させる表現だが、憐れみと一致のカリスマのある人のことだ。問題を解決するのは知識と恵みの人なのだ。イエスが教える赦しは一時的な感情ではなく、神の恵みによって育てていくべき技術だ。こんにちの教会は、戦争を終結させるだけではなく平和を維持することに敏感だ。イエスにとってモラルとは罪人に投げつける石ではなく、罪人が回心しやりなおすための助けなのだ。それと正反対なのは偽証や中傷やゴシップ。相手について嘘を言ったり、本当のことだとしても相手の悪を言いふらしたり。必要でない限り相手の悪を言いふらすことは罪だ。相手が立ち直るための妨げになるから。聖人ぶって、上から人に注意するなら、結局相手を傷つけることになる。逆に必要なのは、子どもを叱るときの母親のような愛情だ。そうでないと、怒りにかられて相手に復讐し相手を苦しめることになってしまう。教皇フランシスコは聖霊の賜物についての最近の連続講話で、平和を築くための賜物の大切さに触れている。罪人に石を投げるのではなく、兄弟のように手を差し伸べることが大切だ。
「聞き入れなければ、教会に申し出なさい」。教会とはエクレジアであり、キリストを中心とする共同体、つまり赦され罪から救われた共同体のこと。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に」。これは一般に罪人の破門と理解される。その人がもう存在していないかのように扱いなさいという意味だと。しかし、注意しなければならないが、そうではない。これは異邦人と徴税人に対してイエスがとった態度をとらなければならないということ。つまり、もし兄弟愛を取り戻すことができないなら、イエスがしたように一方的に愛しなさいということ。罪を犯した人がたとえ回心しなくても、教会は見捨てるのではなく、祈りでその人の罪を負うべきということ。ボンヘッファーにも共同体について有名なページがある。報われなくても、愛し続けるべきだと。病気の子どもに対する母親のように、一方通行の愛で愛し続けるべきだ。それこそイエスが自ら、徴税人や罪人に対して最後まで、十字架死に至るまで示した愛だ。キリスト者の共同体では、人を区別する愛ではなく、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神の愛が必要だ。人を愛して愛されるのはすばらしいことだが、それよりもイエスが教えた愛がある。愛し返されなくても愛するのは命を捧げること。

 「つなぐ」「解く」、これは赦しと関係することで、法律的な対応ではなく、内面的な心の態度のことだ。イエスは自分の教えをまとめて主の祈りを教えたときにもこれに触れた。私たちは人を赦したように神から赦される。その結果、赦さない人は私たちの中に神の愛が入るのを邪魔してしまう。
 「二人が心を一つにして」。ギリシア語ではシンフォニー。これはいっしょに響くという意味で、教会共同体を非常に美しいイメージで表現する言葉だ。信者は、同じ型で押された人間ではなく、オーケストラの楽器がさまざまな音を出すように、さまざまな才能や性格をもっている。その結果、教会が大きくなるほど、それを調和させるのは当然難しくなる。そのためには、まさにオーケストラのように、美(イエス)への憧れと忍耐が必要だ。人より大きな声を出したい人、自分の声と相手の声が混ざることを許せない人は合唱団に合わない。人と混ざり合うことができない人、赦しの心を持たない人、愛さない人は、ちょうど合唱団の中で外れた音を出す人だ。

 「二人が心を一つにして求めるなら」、先の二人の証人を示唆している。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。ユダヤの伝統にはこれと似た表現があった。二人または三人が聖書を勉強するために集まれば、神の栄光に覆われると言われたが、マタイはその表現をアレンジしたのだ。つまり、これは、イエスが平和の基準であり、シンフォニーの楽譜であるということ。同じことは、パウロの手紙やヘブライ人への手紙にもある。キリスト者にとっては、父なる神は聖書のことばだけではなく、新しい共同体、教会の中のキリスト自身によって現存する。マタイはキリストを、謙遜で平和を愛する者として、生き方の模範として私たちに示す。

 こんにち、世界のさまざまな国でたくさんのキリスト者が平和を築くために命がけで働いている。南米訪問中の教皇フランシスコもそうだ。今日のミサは、そのパパ様のため、また彼のように働いている人のために祈る、よいきっかけだ。私たちの共同体にも平和を築く人がいる。そのような人のためにも祈りたい。


2017年

9月

17日

年間第24主日

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。(マタイ18・35)

ウィレム・ドロステ「無慈悲な家来」、1655年、ウォレス・コレクション
ウィレム・ドロステ「無慈悲な家来」、1655年、ウォレス・コレクション

 歴史的な犯罪から、私たち一人ひとりが日常生活の中で被る身近な悪まで、悪に対してどのような態度をとるか。暴力に対して暴力を返すのか。それはとても難しい問題だ。宗教家に限らず、さまざまな思想家がこの問題について考えて答えを出そうとし、処罰の法律や報復の限度や条件が定められたりしてきた。

 先週に続き、今日の福音書もマタイ18章。教会共同体のあり方、特に赦しがテーマだ。ペトロがまた出てきて、イエスに質問する。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。当時は、ある学者によると、3回までは赦す義務があったが、3回を超えたら仕返しすることができた。別の学者によると、妻の姦通の罪は1回だけ、友人の罪は5回まで赦すべきとされたが、それはイスラエルの民の内部のことだった。ペトロとしては、イエスが赦しの問題について特別な基準を示すと予想して、先回りし、当時イスラエルで要求されていた数字以上の数字を出して「7回までですか」と尋ねたのだろう。7は完全数でもある。ペトロはイエスが同意して自分を褒めてくれるとでも考えただろう。あるいは、イエスもそこまでは求めないと少しは思っていたかもしれない。

 イエスの返答は、ペトロの予想を覆すものだった。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。これは制限のない赦しを意味する。イエスはおそらく、カインの子孫レメクの言葉(創世記4・23−24)を考えていただろう。しかし、イエスが言う赦しは、残酷なレメクの復讐とはまったく逆だ。

 それがわかるのは、あとに続く「仲間を赦さない家来」の有名なたとえ話からだ。この例え話は、マタイがイエスのいくつかの言葉をまとめたものとも考えられているが、3つの段階に分かれている。1.王は家来(位が高い人物と考えられる)の借金を帳消しにする。2.仲間の借金を赦さなかった家来を王は牢に入れる。3.イエスの結論。

1.理由は書かれていないが、家来は王に借金を返せない。イエスが使っている数字には注意すべきだ。タラントンは本来、貨幣の単位ではなく、金塊の重量の単位で、1タラントンは26−36キログラムに当たる。当時は58キログラムだったと言う学者もいる。1タラントンが58キログラムなら、1万タラントンは58万キログラム、1トントラックに載せると、580台のトラックが必要で、そのトラックを並べると5キロメートルになる。5キロと言うと、北白川教会から白梅町修道院ぐらいの距離。つまり、とてつもなく大きな数字で、帳消しにすることができない金額だ。けれども、奇跡が起こる。家来がひれ伏してしきりに願うと、王(神)は憐みに思って(放蕩息子のたとえ話も思い出される)、借金を赦し、帳消しにする。それは考えられないことだ。

2.ところが、この家来は外に出て、自分が大きな借金を赦されたことを忘れて、仲間に借金の返済を求める。100デナリオンについてはさまざまな解釈があり、一日の賃金と言われたり、それ以上と言われたりするが、どちらにしてもわずかだ。家来は仲間を「捕まえて首を絞め」て、返済を迫る。これは仲間たちにとって「心を痛め」るほどのスキャンダルになる。実は、この家来が自分の金を返せということ自体は正しい。その金はその家来のものだからだ。問題は、王(神)が自分に対して示した憐れみを忘れたことだ。王(神)はその家来を「不届き」と表現するが、それは自分が借金を赦されたことを忘れたからだ。

3.「心から兄弟を赦さないなら」。赦しについてのイエスの考え方は独特だ。仏陀は、相手に赦される価値があるからではなく、自分の心が恨みで損なわれないように、相手を赦すべきだと言った。こんにちでは、心理学者がさまざまな調査や研究に基づいて、心の安定のための赦しの必要性について本に書く。しかし、イエスの考える赦しとはそれだけではない。イエスの言う7の70回はただの数字ではなく、赦しの中身(「心から」)を表現している。赦しの規則を作ってほしいペトロにはそれがまだわかっていない。却って、イエスが言う無制限の赦しは、神の体験から生まれるのだ。どの程度神を体験したかに応じて与えることができる赦しだ。ペトロの理解では7回を超えると罰を与えることができるが、イエスの場合はそうではない。イエスが言うには、彼の教会共同体の中で赦しが本当であるためには、父なる神から受けた憐れみに根を下ろすべきだ。自分が赦されたからこそ、その神の体験から赦しが生まれる。神を知る人、神の恵みによって救われたと自覚する人だけ、「心から」の、完全な赦しが可能になる。教会共同体を作り上げる、そして教会共同体によって新しい世界を作り上げるのはそういう赦しなのだ。

 一般には憐れみは、正義を行った上で示される。たとえば、刑を課した上で、刑期を短くするのがそれだ。イエスが言う憐れみはそれとは違う。その憐れみは人間的な努力から生まれるのではなく、神から受けた憐れみと赦しから生れる。神の深い経験をせずに、相手を完全に赦すことはできない。ペトロはまだわかっていない。ペトロが本当にわかるのは、イエスを裏切ってから、イエスの眼差しを見て涙を流し、復活したイエスに会って愛を求められたときなのだ。


2017年

9月

24日

年間第25主日

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(マタイ20・16)

ぶどう園の労働者のたとえ話(『エヒテルナッハの黄金福音書』、11世紀)
ぶどう園の労働者のたとえ話(『エヒテルナッハの黄金福音書』、11世紀)

 「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、どんな注釈書でも難しいと言われる。よく知られたたとえ話だが、よく見ると、納得しにくいところがある。もちろん何も気づかずに読む時もあるが、むしろショックを受けるべきだ。イエスが言っていることは私たちの考え方と違う、そのことに気づくことがとても大切だ。教会は今日の第一朗読として、イザヤ書の有名な箇所を選んだ。そこでイザヤが伝えるヤーウェの言葉は、「わたしの思いはあなたたちの思いと異なる」「天が地を高く超えているように」。つまり、神の考え方は人間の常識と違うのだ。マタイが伝えるイエスの言葉を大切にする私たちも、その違いに注意すべきだ。

 聖書にはあらゆる箇所に、ぶどう園が出てくる。ぶどう園はユダヤ人にとって、ぶどう酒を作るぶどうが収穫できる大切な場所だった。ぶどう酒にはは、恵み、喜び、愛、神との関係などさまざまな象意があり、ぶどう園はイスラエルの民を意味する。マタイが「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始めるように、このたとえ話は、ただの道徳的な教えではなく、「天の国」、神の世界、神の考え方を理解させるためにイエスが考えたたとえ話なのだ。伝統的にぶどう畑の多い西洋では、ぶどうの収穫の季節は大騒ぎだ。ぶどうが実ったのに収穫が遅れて雨や霰が降ると、ぶどうがだめになり、よいワインができない。だから、友達や親戚、雇い人など、いろいろな人を集めて収穫する。

 そのとても大切な季節に、そのとても大切な仕事のために、たとえ話の主人はまだ涼しい早朝6時に出かける。そして、当時の習慣であり最近までそうであったように、広場に行き、仕事を待っている人を雇って、ぶどう園に来てもらう。そしてイエスが言うには、主人はそのあと、9時、12時、3時、5時と出かける。最初の人たちとは、一日1デナリオンと契約。それは当時の日給だった。

 今日の箇所の最後の文章は教訓のようだ。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。実は、今日は読まれなかったが、今日の箇所の20章冒頭の直前、19章の最後の文は、これと同じだ。ぶどう園のたとえ話は、同じ一つの文にはさまれている形になっている。この文が、たとえ話を理解すべき視点であり、マタイが私たちに示すヒントなのだ。

 大切なのはたとえ話の結末。主人は監督を呼んで、労働者一人ひとりに1デナリオンを支払わせるが、「最後に来た者から始めて」。なぜか。もし最初の人たちから支払ったなら、1デナリオンは約束通りだったから、彼らは受け取って行ってしまっただろう―主人(イエス)が言いたかったことに気づかずに。最後の人たちから始めるのはわざとだ。その結果、最初の人たちは最後の人たちが1デナリオンをもらうのを見て、自分たちはもっとたくさんもらえると期待する。「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」、ほとんどの仕事をしたのだからと。そして、彼らは不平を言うのだ。福音書では、いろいろな重要な人物がイエスのやり方に不平を言う。例えば、放蕩息子の兄は、同じ考え方をして不平を言う―自分は数年間(一日ではなく!)父親の畑で働いているのに、娼婦と遊んで父親の財産を使い果たしたこいつが帰ると、こんな祝宴をするなんて、と。兄は怒って家に入ろうとしなかったとルカ福音書にある。マルタもそうだ。マリアがイエスの足もとに座っていると、マルタが怒ってイエスに言う、手伝うように言ってくださいと。他にも、ファリサイ派などがよく不平を言う。要するに、不平を言うのは、考え方の違いがあるからだ。イエスの言葉を聞きイエスのよい行いを見ても、最終的に受け入れられないのは心の中に邪魔があるからなのだ。直前の19章で、すべてを捨てイエスに従った報いをペトロが尋ねるのも同じメンタリティだ。 

 今日のたとえ話の最後で、不平を言う労働者たちに主人は言う、「わたしの気前のよさをねたむのか」。「ねたむ」は、原文では、目が病んでいるという表現。聖書では、目は心を意味するから、この人たちは間違った考え方をしているということ。第二朗読にあるように、何か一つ悪いことをしたのではなく、根本的な考え方が間違っているのだ。このたとえ話のポイントはそこにある。イエスが言うには、神と人間のあいだには根本的な考え方の違いがある。私たちも、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会に通い、公共要理を勉強し、祈りやロザリオ、聖体礼拝をしたりする。けれども、私たちの心の奥にある考え方はどうか。私たちのすべての行い、すべての活動に影響する考え方はどうか。今日のたとえ話はイエスのカテキズムであり、イエスはそれで、父なる神の考え方を教えてくださるのだから、自分の考え方と比較するよいきっかけになる。

 主人が出かける時刻、6時、9時、12時、3時、5時はユダヤ人にとって祈りの時間だった。キリスト教の聖職者も今でもそのような祈りをするように勧められている。祈りはふつう私たちが神に向かってする。ところが、このたとえ話では逆に、何か頼むのは神だ。神が私たちに頼んで私たちを迎えに来るのだ。教皇フランシスコも、神を求めるよりも、神が私たちを求めていることに気づくことが大切と言う。

  最初の人たちの間違いはどこにあったか。彼らの考え方の基本は利益、有用、功利だ。何かよいことをしたらよい報いがあると考える。主人のために働いたから金をもらえるはず、他の人たちより働いたからもっともらえるはずと考える。これはユダヤ人の考え方の危険だった。ユダヤ人は他の民よりも先に神に呼ばれる経験があり、預言者によって神と契約をし、神と特別な関係ができた。しかしながら、彼らようは神との関係を勘違いして、神に対して自分が奴隷であるように考えたのだ。詩篇にも、掟を守るからその報いをもらう資格があると書かれている。それで、ユダヤ人たちは、役に立つことだけを大切にしがちだった。イエスはそのような危険のために、このたとえ話を話した。イエスが言うのは、そうではない、そのような考え方では、愛がどういうことかわからないということ。なぜか。たとえば、役に立たない人もいる。それはこんにちの社会にもあてはまることだ。たとえば年をとって弱った人や病気の人だ。こんにちでは、そのような人たちが邪魔にならないように社会の隅に追いやる。もっと広げると、出生前診断で病気がわかると、中絶を行う。幸せを口実にしたとしても、同じメンタリティが根本にある。最近、イギリスの赤ちゃんチャーリーが西洋諸国で大きな話題になった。裁判で、治らないから生きる価値がないという判決が出て、両親が反対し、大勢の人が反対し、パパ様もトランプも反対したが、結局、安楽死著地を施された。これはたいへんな事件だ。裁判官が人の命を終わらせたことになる。これは珍しいケースだが、世界では毎日中絶が行われている。堕胎がはじめて法律で認められたのは戦後の日本だ。どれだけ赤ちゃんが殺されたか。最近、安楽死が大きな問題になっている。あるカトリック国でも、いくつもの病院を経営する修道会が、バチカンに反対されながら、安楽死を行っている。任意でなくても安楽死させていいと。恐ろしい考え方だ。イエスはこの問題について語っている。

 今日のたとえ話では、一日の報酬が出てくるが、それは小さな問題に思えても、最終的に大きな問題だ。最初の人たちの考え方には残酷なところがある。一日1デナリオンをもらえなければ、生活ができないから。利益中心の考え方は神との関係だけではなく、他人との関係をもだめにするのだ。

  詩篇130にもあるが、私たちのうち誰が神に向かって、私はこれだけのことをしたから私を救いなさいと言えるだろうか。先週の日曜日の箇所にあったように、私たちはみな神の前で借金だらけの状態だ。イエスが言いたいのは、仕事を得るのは神からということ。神の世界で働くのは、もうけるためではなく、いわば「特権」で、私たちが救われたから、愛されたから。だから、イエスが、そしてイエスを通じて父なる神が言うのは、あなたは誰にも雇ってもらえなかったとしても、価値のない人間ではないということ。金がなくても、病気でも、人から見捨てられても、いろいろな理由から迫害されても、刑務所に入れられても、あなたが神から愛されていることを思い出しなさい。あなたの本当の価値はそこから出てくる。

 今日のたとえ話は、私たち一人ひとりの問題だ。放蕩息子のたとえ話と同じく、このたとえ話に結末はない。私たちはそれぞれの生活でこのような教えを生きるように勧められている。


2017年

10月

02日

年間第26主日

「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21・28―31)

ユーゲン・ブルナンド「二人の息子」(『さまざまなたとえ話』1908年)
ユーゲン・ブルナンド「二人の息子」(『さまざまなたとえ話』1908年)

2017年

10月

08日

年間第27主日

「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21・43)

画像は、ユーゲン・ブルナンド「邪悪な農夫たち」(『さまざまなたとえ話』1908年)

 イエスはぶどう畑(ぶどう園)について好んで語る。細かいことも出てくるから、ぶどう畑を実際に知っていたようだ。小さな村では、秋になると、親戚や友だちを呼んで刈り入れの作業をする。子どもたちも小さな籠を手に、ぶどうを摘んだり食べたり。ぶどうの果汁の匂いが漂い、騒いで歌ったり踊ったり。喜びと祭りの季節だ。
 ヨハネ福音書15章でイエスは、自分と愛する弟子たちとの親しい関係を示すたとえとして、ぶどうの木を使う。父なる神はぶどう畑の主人(15・1「農夫」)だ。雅歌にもぶどう畑がよく出てくる。ぶどう畑は愛の喜びを連想させる場所なのだ。ユダヤ人にとって、ぶどう畑はまず、美しさや実りなど人に捧げられたはじめの創造を連想させる場所だ。それから、特に神との契約を連想させる場所だ。そして、神が自分の民を世話することを連想させる場所だ。実りのために、石をとり除いたり、垣根や見張り塔を作ったり、植物のための農夫の世話を連想させる。そのために選ばれたのが第一朗読のイザヤ書の、神とイスラエル(女性名詞)とのあいだの愛の歌だ。
 今日の箇所は、「ぶどう園」を舞台にする3番目のたとえ話だ。しかし、このたとえ話には暗い影がある。しかも、その影はイエス自身の生涯にかかる影なのだ。このことは、今日のたとえ話を理解するために思い出すべきだ。このたとえ話を作ったイエス自身がその時期に劇的な瞬間を迎えていた。
 このたとえ話はイエスがエルサレムに入ってからのこと。エルサレムの人々はイエスをメシアとして迎えたが、宮清めの事件のあと、祭司長や民の長老たちが怒って、イエスを尋問した―どんな権限でこのようなことをしたかと。そして、激しい議論になった。そこで、先週読んだ二人の息子たちのたとえ話が出て、その最後にイエスの厳しい言葉があった。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。今日のたとえ話はこのような脈絡で出てくる。
 このたとえ話では、イスラエルの神が民に示す愛の物語が描かれている。私たちにとってイスラエルは遠いが、私たちキリスト者も気をつけなければならない。新しい民も古い民のようになる危険があるから。祭司長や民の長老たちは自分たちが神の友と思っているが、イエスによると、神の敵になって、神が民に示す愛を邪魔する。彼らは、主人(神)が旅に出ているあいだに、ぶどう畑の世話をする任務を受けたのに、自分がぶどう畑の主人だと思ってしまったのだ。「収穫を受け取るために」―この言葉には少し注意すべきだ。預言者イザヤが言うように、全世界は神のものだから、神は生贄を求めない。神が求めるのは、民に対する憐れみや愛の行いだ。だから、祭司長や長老たちは、神の愛を民に示す任務を受けたにもかかわらず、自分のためにぶどう畑を使ったのだ。
 このたとえ話で、神は何度も預言者たち(「僕たち」)を送る。それは彼らの間違いに対する神の忍耐を意味している。しかし、彼らは頑なで、預言者たちを捕えるだけではなく、殺したりもした。神は最後に我が子を送る。我が子を送るのは、民に対する最大の関心であり、最高の愛だ。キリスト教が言うのはそれだ。ところが、彼らは「これは跡取りだ」と言う。彼らにとっては父なる神の財産を自分のものにする最大のチャンスなのだ。跡取りを殺せば、自分たちが主人になると考えた。つまり、イエスが、そしてのちにマタイが言おうとするのは、彼らがイエスが跡取り、神の子だと知っていたということ。知っていたが信じずに、冒涜の罪でイエスを訴え、エルサレム(「ぶどう園」)の外に追い出して殺したのだ。マタイや初代教会がイエスの言葉の意味を理解したのは、イエスの復活のあとだ。けれども、イエスはすでに自分の十字架が近づいていると理解していた。

 このたとえ話の最後にイエスは祭司長や民の長老たちに尋ねる。「ぶどう園の主人[は]…この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは言う、「その悪人どもを…殺し、ぶどう園は…ほかの農夫たちに貸すにちがいない」。イエスはもう一つのたとえ話でもう一つのことを私たちに教える。神は殺さない。神は悪人に復讐しない。罪人は神から愛されている。神が望むのは、罪人が回心して新しくなること。そのために、神は我が子を送ったのだ。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは神の建築の指針だ。神が選ぶのは力や権力ではなく、見捨てられた者だということ。神の僕は小さな者。イエスの復活後、キリスト者、特にマタイとマタイの教会はこのことを理解した。ペトロをはじめとするイエスの弟子たちも、イエスが生きていた時はそれを理解するのに苦労した。神の国を作る人は、完全な人、他人より知識がある人、聖性を誇る人ではなく、罪が赦された人なのだ。これが新しい「農夫」の条件だ。だから、神の国のために働くのは、回心した罪人、神の憐れみを浴びた罪人だ。神の憐れみを受け、そのやさしさと喜びを経験し、人と分かち合いたい心をもっている人だ。それを忘れない人だけ、イエスの愛と平和を世にもたらすことができる。
 だから、今日のたとえ話の中にもイエスの啓示が含まれている。ミサを捧げる時に私たちは、愛され赦されて人を受け入れることを記念する。ミサの中心は私たちの聖性ではなく、私たちが受けた赦しなのだ。そして、ミサだけではなく、キリスト者の生活全体がそうであるはずだ。

 イエスは祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人々を厳しい言葉で批判する。その言葉はユダヤ人だけに向けられたものではない。福音記者たちがイエスに厳しい言葉を語らせるのは、以前の宗教(ユダヤ教)にあった悪い特徴が新しい宗教(キリスト教)の中で芽を出さないため。つまり、イエスが批判するように、ユダヤ教には3つの危険性がある。1.傲慢。自分が人よりまさっていると考えること。2.功績主義。自分の行いで救われると考えること。本末転倒してはならない。神は寄付の金額や祈りの数で喜ぶわけではない。言葉数が多ければ祈りが聞き入れられると思っている異邦人のように祈るなとイエスは言う。3.権力構造(ヒエラルキー)の危険。だからこそ、上に立ちたい人はすべての人に仕えなさいとイエスは言う。
 今日の朗読箇所は43節で終わる。しかし、読まれなかった45節によると、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っているとわかったが、回心しなかった。群衆を恐れてイエスを捕えることはしなかったが、その機会を待っていた。
 愛に返答(「収穫」)がなく失望する神の悲しみは、ユダヤ人のせいだけではない。それは私たちのせいでもありうる。たとえば教会を自分の利益や力のために使うことがある。1テモテ6章には、高慢、利得、金銭欲といった罪について書かれている。神の国は、ユダヤ人から取り上げられたのと同じように、私たちの手から取り上げられる恐れがある。もっとも、このたとえ話は、恐怖を感じさせるだけではない。却って、イエスを信じる人にとっては、私たちにどんな弱さや罪があるとしても、神の愛はそれにまさるのだ。


2017年

10月

15日

年間第28主日

家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。(マタイ22・10)

聖エジディオ共同体によってホームレスの人たちに提供されたクリスマス・ランチ(ローマにあるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で)
聖エジディオ共同体によってホームレスの人たちに提供されたクリスマス・ランチ(ローマにあるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で)

 先々週と先週に続き、今日もイエスのたとえ話。今日のたとえ話を理解するためには、特に3つのアドヴァイスが役に立つ。第一に、時代や表現の違いから来る物語の細部にこだわらずに、基本的なポイントに注目することが大切だ。特にイエスが何を言いたいかを理解しようとすべきだ。第二に、先々週、先週もそうだったが、イエスの厳しい言葉が出て来る。私たち現代人はそのような表現に慣れていない。現代では、お世辞など虚しい言葉がいっぱいで、子どもを叱ることも避ける。それでは、自分の間違いや欠点になかなか気づくことができない。これは現代人の霊的な弱さだ。だから、イエスの厳しい言葉に引っかかっても、逃げないで、イエスが医者として私たちの病気を癒やすと考えた方がいい。第三に、今日の箇所には、非論理的なところがあって、解釈を難しくしている。それは、マタイがこの箇所を編集する時に、何かの理由があって、二つの違ったたとえ話を一つにしたからと考えられる。
 このたとえ話は、ルカにも似た話がある(14・16−24)。ルカはマタイを参照したようだ。
 そして、先週指摘したように、マタイ22章はイエスの生涯の最後の時期。祭司長たち、ファリサイ派の人たち、律法学者たちとの対立がどんどん大きくなり、イエスはその考え方のために捕えられる。そして最後に十字架上で殺される。
 また、マタイがこの箇所を編集したのはキリスト者にとって難しい時期だった。パウロなどの宣教によってユダヤ人以外の人たちが教会に入ったために、どのように関わり違いをどう受け入れるかという問題があった。またユダヤ人による迫害も始まっていた。このような難しい時期に、マタイはイエスの言葉を信者たちに伝えているのだ。
 今日のたとえ話のテーマは婚宴。披露宴という言葉を使ってもいいが、世俗的な私たちの時代の披露宴とは違いがある。マタイもルカも、第一朗読に出てくるような荘厳な神の婚宴を考えている。ユダヤ人にとって、山の上で食事をともにする婚宴とは神がイスラエルのために行ったさまざまなわざを象徴する。神はいろいろなことをしてイスラエルを幸せにしようとした。先週のぶどう園もそうだった。今日のたとえ話では、イスラエルが幸せに暮らすために招待される。先週のぶどう園の労働者が収穫を渡さなかったのと同じように、今日のたとえ話でも、イスラエルは招待に応じず、拒否した。イスラエルは神から呼ばれ土地を与えられたのに、神から離れた。神の作品であったはずなのに、悪の道を歩んだのだ。大勢入る部屋に食べ物がいっぱい並べられているのに、誰もいない。たとえるなら、母親が子どものために食事を用意したのに、子どもは遊びに行って家に戻らない、あるいは妻が夫の誕生日にごちそうを用意したのに、夫はバーに行ってママさんと祝う状態と言えるだろうか。神は失望し、悲しむ。イスラエルが拒否した理由をマタイは二つ挙げる。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」。神は天と地を創造したのに、自分の畑に出かけ、全世界が神のものであるのに、自分の商売に出かける。ルカも結婚や用事を挙げている。神の招待に応えないのは、ユダヤ人だけではなく、私たちでもありうる。今日の箇所を読む時、私たちは、何のために生きるか、何を選択し何を大切にして生きるかを問われている。細かいことではなく、生活全体が向かっている方向、価値観を問われている。家庭での子どもの教育も、社会生活もすべてそれにかかっているのだ。
 「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。マタイは預言者たちや洗礼者ヨハネに対する迫害を考えているだろう。
 「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」。この箇所は注意しなければならない。神が報復したのではない。マタイの当時、エルサレムの都はすでにローマ人によって破壊されていた。それは、神の招きを拒否した結果だと言われているのだ。神が復讐したり罰を与えたりしないことは、福音書の他の箇所で書かれている、罪人や悪人に対するイエスの態度からよくわかるところだ。だから、このたとえ話が言おうとするのは、神との間違った関係から、人間の悪い状態が結果するということ。たとえば放蕩息子が放蕩の末、着る服にも食べ物にも困るのがそれだ。神から離れた人間には生きる土台がなくなる。一つ一つの行為が悪いというのではなく、構造的悪―生活全体、社会全体に悪のDNAが入ってしまうことが問題だ。世界の歴史を見ても、戦争のために何百人もの人が殺されたり、不正義が行われたり、自然が破壊されたりする。昔も今もそうだ。ハンナ・アーレントは、ユダヤ人迫害の裁判に参加した際にアイヒマンを目撃し、大きな犯罪を犯したのはつまらない人間だったと言った。人間はつまらないことにこだわって、自分に対し、家族に対し、世界に対し悪を行うのだ。

 しかし、神は人間の弱さにあきらめず、家来たちに言う。「町の大通りに出て」。それは、人の集まるところに行くという意味ではなく、道が続く限り、歩けるところまで、一番遠いところまで、歩けるところまで行くという意味。つまり、聖なる国イスラエルの外に、異邦人のいるところだ。それは、私たち一人一人が罪に倒れているところでもある。
 「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」。「家来たち」はギリシア語ではドゥーロスだが、最後にディアコノスという言葉が出てくる。これは助祭を意味する教会用語だ。マタイは教会のことを考えているのだ。「善人も悪人も」はギリシア語ではポネロイ・テ・カイ・アガトスで「悪人をはじめ善人も」と順番が逆になっている。これは親鸞の「悪人なおもて」という有名な言葉を連想させる。法然も、殺されて死んだ父親から復讐しないように言われたという。神が復讐の神ではないことはずっと前にイエスが言っている。仏教にもその影響があったことも考えられなくはない。ルカはギリシア人のために説明して言う、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」。それは私たちのことだ。私たちの教会は町内会ではなく、何か共通の目的や趣味があるのでもなく、好き嫌いで集まったのでもエリートでもない。私たちはそれぞれ弱さをかかえた罪人としてキリストの婚宴に呼ばれ迎えられたのだ。第一朗読では、その婚宴のときは死も涙もないと言われる。神は私たちを幸せにしたいのだ。私たちは、死と苦しみから私たちを解放するために来られた神の子イエスの婚宴に、神の命によって生きるために呼ばれたのだ。これが今日のたとえ話のポイントだ。そこに私たちの喜びの源泉がある。それがわかれば、ミサがどういうことか、ミサのためにどういう準備をし、どういう態度と姿勢で与るべきかがわかる。
 「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」。道端で呼ばれた人たちに礼服が求められるとは奇妙だ。しかし、これは、先週のたとえ話がユダヤ教の間違いをしないようにキリスト者に注意しているのと同じことだ。つまり、ここでマタイは当時の信者たちに対して、神の呼びかけを空しくする危険があると注意をしているのだ。
 「礼服」についてはいろいろな説があるが、当時の結婚式では入り口で客にマントを渡す習慣があったとも言われる。聖書では白い服は神の服を意味する。パウロもキリストを着ると言い、洗礼の時にも白い衣を受ける。それは内面的な変化を意味する。つまり、婚宴に参加するには内面的な変化、回心が必要なのだ。キリスト者になってミサや聖体に与るのは、人間的なことではなく、新しい価値観をもつことだ。たとえば私たちは子どもが生まれると教会につれていき洗礼を受けさせるが、それで十分ではない。キリスト教的な教育を与えなければならない。大人の場合も洗礼を受けて一度に変わるのではなく、祈り方とか人に対する態度とか、新しい生き方の訓練が必要だ。水の洗礼のあとに、生活に洗礼すべきだ。礼服を着ていない人のように、名前だけキリスト者で心は神から離れている人もいる。教会の組織にも世間的なメンタリティが入る可能性があるから、注意しなければいけない。
 「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。「友よ」とは福音書には3回出てくる。ユダへの言葉を含め、3回とも注意すべきニュアンスがある。
 「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ」。これも罰ではない。マタイが言いたいのは、新しい人間になってない人たちは、自由も喜びもない生活を送るということ。だから、注意すべきということだ。
 イエスは受難に向かっている。今日のたとえ話は、そのイエスが私たちに残した大切なたとえ話だ。


2017年

10月

22日

年間第29主日

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22・21

ピーテル・パウル・ルーベンス「貢の銭」、1612年頃、サンフランシスコ美術館所蔵
ピーテル・パウル・ルーベンス「貢の銭」、1612年頃、サンフランシスコ美術館所蔵

 先週の婚宴のたとえ話を聞いても、祭司長たちやファリサイ派の人々は回心しなかった。彼らは、イエスを処分すべき危険な人物と考えて、罠にかけようとする。そして、何も知らないふりをして自分の弟子を送る。ヘロデ派の人々といっしょに、というのは不思議な話だ。ファリサイ派とヘロデ派は敵対していたからだ。ファリサイ派はローマの圧迫を嫌っていたのに対して、ヘロデ派はローマの味方をしていた。しかし、ファリサイ派とヘロデ派はイエスを殺す目的で一致した。そして、イエスは群衆に人気があったが、その前でイエスに恥をかかせようとしたのだ。
  彼らは下手に出てイエスに言う、あなたは人を恐れず真実を言う人だと。昔も今も独裁者の前で自分の意見を言うことは危険だから、それを避けることが多いが、あなたはそれをしないだろうとイエスを持ち上げる。
  ファリサイ派の人々が考えた罠とは、民にとって切実な税金の問題だ。当時は、各種の税(土地税、収穫税、取引税、職業税、人頭税など)を合わせると全収入の40−50%が税金として徴収されたようだ。収穫の量にかかわらず畑の広さなどに応じて決められた量の収穫物を軍隊が徴収したから、飢饉の時など農民は困窮した。税のうちには、皇帝に払う特別な税金があり、そのためには専用の銀貨が用いられた。ファリサイ派の人々が言ったのはその税金のことで、それを彼らは特に嫌っていた。その税金のせいで、紀元6年にはサマリヤやユダヤで暴動が起きていた。
  今日の箇所は教会の歴史の中で、宗教と政治、教会と国家の関係にかかわる箇所として読まれてきた。それは確かに大切な問題だが、現代の聖書学者によると、今日の箇所にはもう一つの大切なポイントがある。「律法に適っているでしょうか」とあるように、ファリサイ派がイエスに突き付けたのは宗教的な問題だった。律法に適っていないと答えれば、ローマ帝国に反逆しているとヘロデ派に訴えられ(実際にルカ23・2によると、イエスは裁判でその点を訴えられた)、律法に適っていると答えれば、ヘロデ派に妥協して律法の「真実」から離れ神を冒涜することになる。その結果、イエスは立ち往生し、群衆の評判が落ちるだろうとファリサイ派の人々は考えたのだ。
 イエスは、彼らが罠にかけようとしていることをすぐに見抜いて言う、「偽善者」と。宗教的な関心をよそおっているが、実は悪魔(サタン)のように罠にかけようとしていると。
 デナリオン銀貨は、表にはアウグストゥスの子ティベリウスの像があり、AUGUSTUS CAESER DEVS(神である皇帝アウグストゥス)と書かれていた(当時すでに、皇帝は神であると信じられていた)。銀貨の裏には、オリーブの枝をもつ平和の女神(アウグストゥスの3番目の妻リビアとも言われている)の像があり、PONTIFEX MAXIMUS(最大の祭司)と書かれていた。そもそもユダヤ教では神の像を(人の像も)作ることは許されなかった。この銀貨の形状はユダヤ人たちの信仰に反したため、この銀貨は汚れたものとされて神殿に持ち込むことが禁じられ、両替する必要があった。
  イエス自身はその時その銀貨をもっていなかった。しかし、ファリサイ派の人々はそれをもっていてイエスの目の前に出した。つまり、彼らは熱心な宗教家をよそおっていたけれども、実際には宗教を出しにしていたにすぎず、自分たちの利益のために銀貨を使っていたのだ。そこで、彼らの神が本当はどういうものだったかがはっきりする。それはマンモンであり、お金、利益、もうけだ。彼らがイエスを殺そうとしていたのは、宗教的な理由によってではなく、イエスが彼らにとって邪魔だったからにすぎない。

 銀貨を出したファリサイ派の人々にイエスは聞く、「誰の肖像と銘か」と。彼らは「皇帝」と答える。すると、イエスは言う、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これは、2000年に及ぶ教会の歴史の中でさまざまな形で論じられてきた有名な言葉だ。この言葉を手がかりとして、世界や政治や権力と教会との関係について考察されてきた。キリスト者の教会も孤立した団体ではなく、現実には世界の中に生きているから、世俗権力に対する義務もあるというふうに。
 しかし、この短い一文でイエスがそういった問題に直接に触れているわけではない。イエスが使った言葉に注意すべきだ。イエスが使った言葉は「払うdidomi」という言葉ではなく、「返すapodidomi」という言葉。この銀貨が皇帝のものなら、皇帝に返すべきだと言っているのだ。
  続いてイエスは「神のもの」について言う。それは神の像のことだ。ユダヤ人にとって、そしてキリスト教にとって神の像は物質ではない。それは人間だ。想像されたあらゆるもののうち、人間だけが神の像に似せて造られた。人間という神の像を神に返しなさいとイエスは言うのだ。ファリサイ派の人々はいわば、神の像を自分のものにして、自分の利益のために利用している。それを神に返すようにイエスは言うのだーすべてのものに対して権力をもつ王である神に。イエス自身が来たのは、ファリサイ派が損ない覆ってしまったその像を修復し、顕にするためだ。罪によって、利益によって、人間の考え方によって奪われた神の像を神に返すべきだとイエスは言う。そして、福音書記者マタイにとって、そして私たちにとって神の完全な像はイエス自身だ。イエスの顔の上に神の本当の光が輝く。
  今日朗読された箇所には、この箇所の最後の文が抜けている。「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」。立ち去るという言葉はちょうど、荒れ野での誘惑の箇所の最後(マタイ4・8−11)に出てくる。マタイ福音書の最初と最後で、イエスは誘惑を受けていることになる。今日の箇所でもイエスは悪魔に勝つ。ファリサイ派の人々は自分たちが神に近いと思っていたが、却って彼らは悪魔の家来になっていたのだ。
 教会の社会教説(詳しくはこちら)はとても大切だ。教会は世界から孤立し隔絶した団体ではない。宗教と政治の関係についてどう考えるべきかは大切な問題だ。
一方で宗教は個人的な事柄だから宗教は政治に関与すべきでないという見解があり、他方でイスラム教のように宗教が政治が密接に関わる宗教もある。しかし、今日の箇所は直接に宗教と政治の関係を論じているわけではない。イエスがこの箇所で私たちに言うのは、そのような議論の土台となるような、もっと深い事柄だ。それは、私たち人間が神のものであること。ちょうどデナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように、どんな人ー男も女もーの心にも神の「肖像と銘」が刻まれている。世の権力に対してイエスが言うのは、人間を自分の持ち物にしてはいけない、束縛してはいけない、いじめてはいけないということ。どの人も神の作品であり、その中に神の息と血が流れている。


2017年

10月

29日

年間第30主日

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・37ー39)

永井隆博士が戦後住んだ如己堂。「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。
永井隆博士が戦後住んだ如己堂。「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。

 先日、おもしろいニュースがあった。1921年にノーベル賞を受賞したアインシュタインが翌年に来日し東京の帝国ホテルに泊まった際、配達人がメッセージをもってきたが、チップの持ち合わせがなかったので、ホテルの二枚の便箋にそれぞれ言葉を書いた。一つは「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」。もう一つは「意志あるところに道は開ける」。その二枚の便箋は、この水曜日に行なわれたエルサレムのオークションで2億円以上の金額で落札されたと言う。
 さて、今日私たちは教会から大切な言葉をいただく。それは二千年前のエルサレムでイエスが語った言葉だ。幸いにも教会はその言葉を大切に持ち続け、今日の典礼で私たちに手渡してくれる。アインシュタインの言葉はお金になったが、イエスのその言葉は二千年のあいだ、考えられないほど大きな聖性の力になった。その言葉によって生きることで多くの人たちが聖人になることができたのだ。私たちは今日、特別な心で、心を尽くしてその言葉を聞きたい。
 今日の箇所は短い。何週間も前にエルサレムに上ったイエスは、神殿で商売をしていた人たちを追い出し、祭司長やファリサイ派の人たちと議論になった。一般の人たちはイエスを尊敬していたが、彼らはイエスにきつくあたったのだ。そして不思議なことに、先週の福音書にあったように、ファリサイ派とヘロデ派は敵同士であったにもかかわらず、イエスを殺すために手を組んで弟子を送り、イエスを罠にかける質問をした。それに勝ったイエスに対し、今日は、律法の専門家が難しい質問をして、罠にかけようとする。
 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。この質問は一見すると、子どもの公教要理のように単純な質問に見えるが、当時のユダヤ人、特に学者たちにとっては大問題だった。当時は、律法学者たちが宗教を口実としながら自分たちの利益のために掟をどんどん増やし、その結果613の掟があったらしい。それだけ掟があったら、網の中の魚のような気持ちになったことだろう。どの掟が重要かについてさまざまな意見があり、律法学者たちのあいだには対立もあった。しかし、一般には、ユダヤ人にとって最も重要な掟は安息日の掟と考えられていた。ユダヤ人の安息日は私たちキリスト者の土曜日にあたる。その日に仕事をせずに神とともに休む(創世記2・2参照)のが彼らにとって最も重要な掟であった。その掟を守ればすべての掟を守ることになり、その掟に反して安息日に仕事をすればすべての掟に反することになると律法学者たちは言っていた。彼らは、イエスが安息日に病人を癒したり、彼の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたのを批判したから、イエスはその問題を意識していた。
 イエスはどう答えたか。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」。イエスは不思議なことに十戒の最初の三つの掟を無視する。613の掟のうちには大きなものも小さなものもあったが、イエスは神についての掟も神殿についての掟もまったく使っていないのだ。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。十戒には「殺してはならない」「盗んではならない」のように隣人に対する掟があるが、イエスはそのような掟を使わない。そのような掟は実は人間の常識に過ぎない。
 イエスの返答は旧約聖書の最も古い二つの書物からとられている。第一は申命記から。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」。「聞け、イスラエルよ」の原語、シェマー・イスラエルはよく知られている。この言葉はイスラエル人にとって大切な言葉で、彼らはこの言葉を毎日祈りとして使い、しばしば特別な箱の中にその言葉を入れて扉にかけたりした。つまり、イエスは、彼を試そうとした質問に対して、毎日祈りで使っていた言葉で答えたのだ。しかも、申命記の「力を尽くして」に変えて「思いを尽くして」と言われている。申命記の「力」は財産を意味するが、イエスにとって神は財産を求めないから。

 私たちにとって大切なことだが、イエスにとって掟は祈りの体験から生まれるのだ。イエスは祈りの人だった。イエスの祈りについては福音書のあちこちに書かれている。父なる神に向かう親しく愛情深い祈り。一人になった時、成功に感謝する時などさまざまな機会に合わせた祈り。イエスにとって宗教とは、人を圧迫するための道徳的義務ではなく、祈りの体験から生まれる心の要求だ。

 イエスが私たちに教えて下さった主の祈り、私たちが毎日唱えるべき主の祈りがそうだ。主の祈りを祈ることでまずわかるのは、父なる神の子であること、愛されていること。その体験から、掟、つまり正しい態度や正しい生き方がわかる。愛されている自覚から、神を愛すること、人を愛すること、人を赦し人から赦されることを覚えるのだ。これはとても大切なことだ。別の言葉で言うと、掟は愛の体験から生まれるのだ。神から愛されている自覚がなければ、掟を理解することも行うこともできず、キリスト教的に生きることができない。キリスト者のあらゆる行動はその根本的な体験にかかっている。私たちは神の愛を知らなければ、人を愛することはできず、よい行いをすることができない。神の愛を知らないなら、よい行いをしようとしても必ず、祭司長たちやファリサイ派の人たち、最終的にイエスを殺した人たちのように、自分の利益のために掟を作って、その掟の網の中に人々を捕えることになる。これが今日の福音書で大切な点だ。
 第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」は旧約聖書のレビ記の言葉だ。神を愛することと、隣人を愛することとは一つに結びついていて切り離すことができないとイエスは言うのだ。人を愛さず神を愛するのも、神を愛さず人を愛するのも本当ではない。私たちは神を愛するから人を愛するのだ。神への愛と人への愛はいっしょに育たなければならない。

 人を愛することはとても難しい。全世界で何千年も前から、哲学者、文学者、詩人、法律を考える人たち、それぞれの国のために働いた人たちはみな、そのことを考えていた。どう生きるべきか、何がいいか、何が悪いか。現代の私たちもまだ、それがわからない。人間には人を愛することを妨げるものがある。罪と言っても、利己主義、エゴと言っても、仏教的に煩悩と言ってもいい。人間は掟を考える時は必ず人を束縛する。自分の利益をねらってすることは大きな危険がある。アインシュタインの言葉をメディアは幸福の秘密と言っているが、今日私たちが聞いた言葉は、イエスが語る幸福の秘密だ。その言葉を私たちは心の中に受けとめ、祈りによって芽生えさせ花咲かせるために努力すべきだ。その努力は意志ではなく愛になる。イエスは今日の言葉のために十字架につけられた。それは十字架につけられる前のイエスが私たちに遺した言葉なのだ。
 今日の言葉はユダヤ人との議論の中でイエスが言った言葉だが、それがすべてではない。マタイ福音書では、今日の箇所の後しばらくすると、イエスは十字架につけられる。その直前の最後の晩餐の時、イエスが弟子たちに言った言葉がある。それは私たちに残された言葉だ。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。相手を自分のように愛する、つまり自分が愛されたいように愛するというのは人間的な基準だが、私たちの師であり兄であるイエスが私たちに言われたのはその程度のことではないのだ。神の子であるキリストが私たちを愛したように愛するのだ。そのために私たちは父なる神に愛されている。
 感謝しながら今日の言葉を大切にしそれによって生きることができるように光と恵みを願いたい。


2017年

11月

05日

年間第31主日

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23・11

ジェームズ・ティソ「ファリサイ派への呪い」、1886-94年、ブルックリン美術館所蔵
ジェームズ・ティソ「ファリサイ派への呪い」、1886-94年、ブルックリン美術館所蔵

 毎日曜日に読む箇所ごとに、イエスと当時の政治的宗教的権力者たちとの溝は深まっていく。祭司長や長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者などとの対立は、十字架を予感させるほどだ。ところが、マタイ福音書の23章を読むと、律法学者とファリサイ派についてのイエスの言葉の激しさに驚かされる。訴えられているイエスが逆に訴えているようだ。
 ファリサイ派など、イエスの時代に存在した多くの党派は後に消えてしまった。それなのに、教会から与えられて今日の箇所を読むのは何のためか。福音書の他の箇所からわかるように、ファリサイ派にもイエスの友だちがいて、彼を食事に招いたりしていたし、ファリサイ派からキリスト者になった人たちもたくさんいた。だから、この箇所を読む時、単純な読み方をしないように注意しなければならない。イエスは当時いろいろな迫害に直面していたが、今日の箇所ではファリサイ派に向かって話しているわけではない。イエスは律法学者とファリサイ派を例として挙げて、彼が観察した彼らのさまざまな態度について話すが、彼らに向かってではなく、「群衆と弟子たちにお話になった」のだ。この表現は、マタイ福音書では、山上の説教の最初の言葉と同じものだ。だから、イエスがユダヤ教の伝統的な宗教家たちについて見た問題について厳しく語っているのは、そういった問題が自分の弟子たちの共同体(「小さな者たち」)、自分の新しい教会にあってはいけないと言っているのだ。つまり、イエスは、私たちキリスト者に向かって話しているのだ。だから、今日の箇所は、特定の時代の特定の宗教にあてはまる問題や、他の宗教の問題について説明しているのではなく、その問題が私たちの共同体に起こらないように強く注意しているのだ。
 さらにマタイがどのような時代にその福音書を書いたかを確認すべきだ。当時、特にエルサレムでは、ユダヤ教からキリスト者になる人たちが増え、ユダヤ教との対立が大きくなっていた。神殿が破壊された紀元70年の後には、ユダヤ教は自分の伝統に閉じこもり、異質な要素を排除する傾向が強くなっていた。少し後になるが、90年頃にヤムニアという町で開かれたとかつて想定されたヤムニア会議の真偽はともかく、100年頃には、ユダヤ教の聖書の正典が定められるとともに、キリスト教徒の排除が決定されていた。だから、マタイの当時はキリスト者にとって非常に難しい時代だったにちがいない。そのために、マタイはイエスのさまざまな言葉を集め、23章の長い章にまとめた。私たちが今日読む箇所はそのうちの一部にすぎないが、イエスは私たちにファリサイ派的な態度をもたないように注意しているのだ。
 今日の箇所には、いくつかの注意すべき大きな問題や危険について書かれている。私たちは確かにイエスの道に入ったのだが、私たちの信仰の共同生活には、以前の態度に陥ってしまう危険がいつもある。それをイエスは豊富な具体例を挙げて指摘する。
 第1の危険は、「座」(「モーセの座」)。コラジンで発掘されたように、多くのシナゴーグの中央に大理石の座があった。それは神の言葉を説明し教える人が座る場所とされていた。その座は根本的にはヤーウェの神のための座だから、空席のままにされるときもあった。初代キリスト教美術にも、誰も座っていない座が描かれた作品がある。イエスが批判するのは、この座についた人たちがその権威を乱用しているということ。つまり、その人たちは神の言葉を宣言する役割を与えられ、預言者のように神の憐れみの心を伝えなければならないのに、外面的な規則中心主義によって貧しい人たちを圧迫していた。自分の利益やもうけのため、自分の名誉のために神の言葉を曲げていたのだ。この人たちがわからなかったのは、宗教は掟ではなく、愛にかかわるということ。それこそイエスが言ったことだ。
 「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。この言葉はよく誤解される。この翻訳では、彼らの言葉は正しいということになるが、そうではない。イエスが言うのは、彼らの行いは彼らの教えが間違っていることを示しているということ。イエス自身は、罪人に対して、間違いをした人に対していつも憐れみ深いが、彼らの態度はそうではない。だから、彼らはその教えもイエスの教えとは根本的に違っており、神から離れていることがわかる。
 第2の危険は言行不一致。言うことと行うことが違う。こんにちで言えば、さまざまな宣言文やメッセージを出すが、コミットしないという危険だ。

 第3の危険。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」。規則中心主義によって彼らは、宗教を心ではなく外面的な規則にしてしまう。そして、外面的な規則を守ることで、人よりも優越感を抱き、そこから兄弟を差別したり排除したりする間違いをする。規則を破ったときには、その汚れを清める儀式を定め、その儀式を行うためにまた新しい規則を作ったりして、どんどんと規則を増やし、息苦しい宗教を人に課し、人を神から離れさせてしまうのだ。こういう宗教は、傷を癒やすよりも、罪悪感を植え付ける。このような宗教の犠牲者に出会う時、イエスはいつも言う、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。パウロもそのような宗教から回心した後に言う、「人を愛する者は、律法を全うしている」(ローマ13・8)。宗教はただ愛なのだ。
 第4の危険は、虚栄や自己顕示(人に見せること)。彼らは神に帰依するのではなく、自分が目立ったり、褒められたり、尊敬されるために宗教を使う。こんにちで言えば、世間に褒められるために、世間の考え方に迎合すること(ポリティカル・コレクトネス)。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」。福音書の他の箇所では、人の前で善行をするとか、施しをするときにラッパを吹くとか、大通りで祈りをするとか、断食の時に暗い顔をするといった例がある(マタイ6章)。「宴会では上座、会堂では上席」、これは名誉を求めるということ。今日読まれなかった23章の続きは有名な7つの呪い(「不幸だ」)の箇所であり、そこでイエスは彼らの名誉志向を厳しい言葉で批判している。
 それに対して、今日の8-12節では、イエスが求める新しい共同体の肯定的なイメージが出て来ている。それは、一般の社会とその中にある一般の宗教とは正反対だ。
 「地上の者を『父』と呼んではならない」。実は初代キリスト教では教会内で「父」という言葉を使うことは禁止されていた(たとえば聖ヒエロニムス)。
 「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。教会では一人ひとりにそれぞれの役割があるが、それは自分の考えを言うのではなく、イエスの教えを伝える役割だ。だから、大切なのは、イエスの教えに忠実であること、自分の人間的な考え方を混ぜないことだ。
 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。これは有名な言葉だ。イエスが求める共同体には、上と下、先輩と後輩がいない。もちろん与えられた役割の違いはあるが、違った階級、違ったランクの人はおらず、みんな同じレベルなのだ。イエスの共同体では、一番高い人は奉仕をする人だ。自分の役割が終わった時に、続ける権利を求めず、特別な賞賛やお世辞など報いも求めず、静かに退く人だ。
 だから、この点で、今日のイエスの言葉には普遍的な意味がある。イエスにとって、宗教を口実として野心を抱くのは大きな罪だ。その間違った態度は、人と人、共同体のメンバーのあいだの関係をゆがめ、共同体の愛を邪魔する。嘘の関係をもたらし、(パパ様がよく言う)ゴシップや内輪もめの原因になる。宗教は何かについて話し合う時に、私たちはよく私たちの価値観とイエスの価値観のちがいに気づく。私たちがあまり大切にしないテーマこそ却ってイエスにとって根本的な意味があるのだ。
 このことについてはルカによる福音書にも書いてある。イエスは最後の時期に弟子たちへの話でこのようなテーマに触れて、「あなたがたはそれではいけない」と言う(ルカ22・24−26)。ファリサイ派的な態度は私たちの中でも息を吹き返すかもしれないからだ。
 今日の箇所のファリサイ派のネガティブなイメージは聞きづらいが、それに対してイエスがもちだすのはポジティブでとても美しいイメージだ。それは本物の人間、パウロの言う「自慢せず、高ぶらない」人間(1コリント13・4)のイメージだ。自分と違ったもの、自分以上のものに見せかけようとはしない、謙遜で純粋な人、与えられた任務を忠実に行う人のイメージだ。神が愛しているのは、私たちの妄想ではなく、私たちのありのままの姿なのだ。
 このことは、パパ様から一般の信徒に至るまで誰でもにとって大切だ。


2017年

11月

12日

年間第32主日

賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(マタイ25・4)

スイスのバーゼル大聖堂ガルス門(Mueffi in der Wikipedia auf Deutsch、詳しくは画像をクリック)
スイスのバーゼル大聖堂ガルス門(Mueffi in der Wikipedia auf Deutsch、詳しくは画像をクリック)

 秋が深まる11月。一年間の教会暦も終わりに近づき、教会がいつも大切に心に留める終末論の空気が感じられる。それは、喜びと心配といった、相反する気分が入り交じった空気だ。今年一年の教会暦はマタイによって導かれてきたが、マタイはモーセ五書(旧約聖書の最初の五つの書物)を真似て、イエスの五つの長い話をまとめた。今日のたとえ話は五番目の話に含まれる。

 若い女性がたくさん出てくる今日のたとえ話は華やかな雰囲気だ。だからか、4世紀頃からさまざまな形でキリスト者に親しまれてきた。特にアルプス以北のヨーロッパでは、ゴシック様式の教会の入り口の彫像などで表現された。音楽では、バッハの”Wachet auf, ruft uns die Stimme”(目覚めよと呼ぶ声あり、訳詞はこちら)が有名だ。ベネディクト16世のお気に入りのカンタータで、一般謁見演説でこの曲について話している。その歌詞は、福音書の文面通りではなく、雅歌のいくつかの言葉も挿入され、黙想のようだ。

 しかし、このたとえ話を読めば読むほど、問題や矛盾が出てくる。結末も厳しくドラマチックだ。だから、よく調べ深く読む要求が生まれ、神学者や聖書学者もいろいろな解釈をしている。マタイ福音書だけにあるから、イエスの言葉を集めながらマタイとその共同体が作ったたとえ話かもしれない。さまざまな矛盾があるのもそのせいかもしれない。そして、このたとえ話は一つの物語というより、イエスの教えのコンパクトなまとめになっている。ちょうど主の祈りが祈りとはいえ、そこに埋められているものを掘り出さなければならないのと似ている。

 「天の国は次のようにたとえられる」。注意すべきは、天の国と言っても死んでからのことだけではない。今の生活、現代の私たちの生活にも関係がある。

 「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。人間の救いの神秘を表現するために、小さな明かりを手に暗闇を抜けて婚宴の広間に入る若い女性のたとえを使うとはただの神学者にはできないことだ。神である大芸術家、イエスだけが使えるたとえ話だ。

 「花婿の来るのが遅れた」。遅れることは誰にでもある。しかし、結婚式の日に何時間も遅れるとは奇妙だ。しかし実は、マタイによる福音書には、同じように主人(花婿)が留守にするたとえ話がある。「忠実な僕と悪い僕」「タラントン」のたとえがそうだ。だから、このたとえ話も神学的なたとえ話なのだ。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」。イエスはよく「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と言う。ここで注意すべきは、5人の賢いおとめたちだけではなく、10人とも「眠気」がさしたということ。それは教会の私たちみなということだ。私たちは日常生活で眠気に襲われる。たとえば愛する人を看病していても寝てしまったりする。精神的な意味でも、疲れや失望によって、眠気に陥り気力を失う可能性がある。それは、信者になったのにリスクを避けるといった状態だ。その問題は福音書のあちこちに出てくる。花婿を迎える喜びの日に、期待に反して花婿が来ないなら、いい人も悪い人もみな疲れて眠ってしまう。だから、このたとえ話のポイントは眠気そのものではない。信仰に疑いや疲れがあったり、祈りがマンネリに陥ったりすることではない。神はそのことがわかっていて、問題にしない。イエスはただ、そういったことを意識するように私たちに言いたいだけだ。だから、おとめたちの問題は眠っていたことではない。疲れて眠ってしまうのはある意味当たり前のことだ。

 「真夜中に…叫ぶ声がした」。真夜中とは12時。それは人生でもっとも暗い時を意味する。聖書で神がイスラエルの民(人間)に近づくのは何よりも、私たちを驚かせる「叫ぶ声」としてだ。「叫ぶ声」と言うと、たとえば預言者たちや洗礼者ヨハネが思い出される。そして、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ人1・1、2)。キリストとは根本的に言葉だ。イエスは人間になった神の言葉で、真夜中に響き渡り私たちの耳に入る。キリスト者とは聞く者だとパウロは言う(ローマ10・17)。

 「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。「油」とは何か。マタイは説明していないから、曖昧なところが残る。「ともし火」については福音書のあちこちに出てくる。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(マタイ5・14、15)。つまり、ともし火をもったおとめたちとは、イエスの再臨を待つキリスト者の共同体、教会を意味する。油はともし火の燃料になるが、塗油を思い出させる。メシアとは油注がれた者であり、善いサマリア人は、追いはぎに殴られた人に油を注ぐ。油は、恵まれない人、災いにあった人の傷を癒やすものだ。愚かなおとめと賢いおとめとの違いは、疲れでも眠気でもなく、油を用意していたかどうかだ。マタイによると、イエスが言うには、油は信者が眠っている時ももたなければならないものだ。 

 雅歌にも次のような言葉がある。「眠っていても/わたしの心は目覚めていました」(5・2)。つまり、それは、疲れや居眠りや弱さがあったとしても、信者である限りどうしてもなければならない大切なことだ。キリスト者とは疲れない人、眠くならない人、罪を犯さない人ではない。イエスは私たちが罪人であることを知っている。しかし、どんな状態にあっても、弱さや苦しみや危機、さらには罪の状態にあっても、キリスト者はキリストの声を聞き分けて、目を覚まして、キリストの声に、彼の愛に答える態度をもたなければならない。

 愚かな5人はユダヤ人で、賢い5人はキリスト者のこと。マタイ7章の「岩の上に家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のたとえも思い出される。キリストの弟子は、どんなことがあっても、もう一度ゼロからやり直すことができる。それに対して、世間は、そんなことをしたなら、もう終わりだ、諦めるしかないと言う。それは、希望を奪い絶望に陥らせる悪魔の声だ。言い換えると、夜になっても花婿は来なかったから、もう絶対に来ないと悪魔は言うのだ。

 たとえ話の後半は、受け入れにくいことでよく知られている。

 「賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」。夜中に油を買いに行けと言うのは不自然だ。彼女たちは他の5人を厳しく突き放しているように思える。しかし、この言葉は、教会によくいるファリサイ派的な人たち、他人の欠点を厳しく指摘して自分が正しいと思っている人たちのことを言っているのではない。また、油が途中で足りなくなるから彼女たちが分けなかったのも当然だと言う人もいるが、ここで言われているのはそのようなことでもない。

 「油」とは市場で買ったり、他人に分けたりできるものではない。ともし火の下にある油とは、何か深い意味で個人的なことだ。たとえば、私たちは他人の代わりに信じることができない。他人の代わりに愛することもできない。誰の人生にも、自分にしか答えられないことがある。それは各人が自分の良心の奥底でする根本的な選択だ。マタイによると、イエスが言いたいのは、その機会を逃してはいけないということ。たとえば、神の愛を受け入れる決心がそうだ。

 だから、愚かなおとめたちの問題は不完全な生活でも罪でもなく、イエスを知らないことだ。みんなと同じ服を着て、同じ格好をして、同じ行列に入って、同じコーラスで歌うつもりでいたが、花婿を知らなかったのだ。言い換えれば、聖書を最初から最後まで暗記していても十分ではない。悪魔も聖書を知っているのだ。教会に通うのは大切だが、それも十分ではない。広場の真ん中で祈りの人間と見せかけても、それでもない。「主よ、主よ」というのも十分ではない。婚宴の間は当時は誰もが入れるように戸が開けられていたが、ここではもう閉まっている。公共要理を学んだり、神学をすることも十分ではない。今日のたとえ話でイエスが言いたいと思われるのは、イエスの愛を知ることだ。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。ただイエスを知りイエスに知られること、それだけだ。

 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。この言葉はたとえ話の内容と合わない。マタイはきっと、もともと別々のイエスの言葉を集めたのだろう。

 宗教的な儀式も、神のためにする慈善活動も十分ではない。パウロが愛の讃歌(1コリント13章)で言うとおりだ。英雄でなくてもいい、一晩中起きている行者でもなくていい。ただ、憎しみやニヒリズムに陥らず、神が語られることに耳を傾けること。


2017年

11月

19日

年間第33主日

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25・21)。

ユーゲン・ブルナンド「タラントン」(『さまざまなたとえ話』、1908年)    
ユーゲン・ブルナンド「タラントン」(『さまざまなたとえ話』、1908年)    

 神についての間違ったイメージは、信者の生活にダメージを与えることがありうる。今日のたとえ話でマタイは、イエスが伝えた本当の神がどういう方かを示そうとする。
  マタイ福音書25章のタラントンのたとえ話は、有名だ。日本語でも使われるタレントという言葉は今日のたとえ話から来ている。
  「ある人が旅行に出かけるとき」。「人」とは神である人、キリストのこと(ルカ福音書では「王」とある)。「旅行に出かけるとき」とは、教会がキリストの再臨を待つ期間のこと。「僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。「僕たち」と言っても下位の召使ではなく、上位の人たち。「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」。タラントンはもともと貨幣ではなく、重さの単位。時代によって違うが、26キロから36キロに相当する。一タラントンとはそれだけの重さの黄金のことであり、換算すると、労働者の20年間の賃金に当たる。だから、その財産を「預ける」とは、それを元手に商売をさせ利益を上げて返してもらうためではなく、僕たちとそれを共有するということ。このことはユダヤ人には、ヤーウェの神が天地を創造した時のことを思い出させる。創世記によると、神は万物を創造し、それを成長させ実らせるためにアダムに委ねた。ミサの第四奉献文にもこうある―「(あなたは)ご自分にかたどって人を造り、作り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて支配するよう、全世界を人の手におゆだねになりました」。だから、主人(神)は僕(人間)たちをご自分の協力者として、その忠実さを見ようとしたのであり、彼らは主人の留守中、その財産を楽しむこともできたのだ。
 このたとえ話の中心は3番目の僕。その僕についてはいろいろな解釈がある。その僕は少ない財産しか預けられなかったのにひどい扱いをされたと外面的に読んで怒る人たちもいるが、しかしこの僕が預かったのも大金にはちがいない。また「それぞれの力に応じて」ともあるから、彼にできる限りでたくさんもらったという点では他の僕と変わりはない。だから、この僕の問題は、他の人より少ない財産を預かったことではない。
 「主人が帰って来て、彼らと精算を始めた」。精算と言っても、「不正な管理人」のたとえ話のように「会計の報告」を見て無駄遣いを探そうとしているのではない。父親が子どもの成長や成功を喜び誇らしく思うように、主人は彼らと共有した財産がどうなったかを見たいのだ。父親にとって子どもの幸せ以上に大きな喜びがないように、神の喜びは自分が造ったものの幸せなのだ。
 「忠実な良い僕だ」。「忠実」とは、財産が増えることを望んだ主人への忠実だ。「よくやった」。ちょうど神が世界を造った時に毎晩、良しとされたのと同じだ。「少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。だから、神は預けたものの返却や利益を望んでいるのではない。神が「少しのもの」を預けたのは忠実さを試すということなのだ。
 ところが、3番目の僕は(なぜかは説明がないが)、主人(神)に対して自分がどのような立場にあるかを理解せず、自分がただの召使だと思っている。彼は主人に対して冒涜と言えるほどの言葉を使う。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」。彼は財産を預けられ、神の仲間とされたにもかかわらず、それを土に埋める。土に埋めたのは、当時のラビたちの法律によると、人から何かを預かった時に土に埋めれば、盗まれても責任がなく返す義務がないという決まりがあったから。つまり、彼は神に対して責任や義務に縛られる関係にあったのだ。そして、「恐ろしく」という言葉がある。彼は、神を厳しい神と考えて、恐れて閉じこもり、リスクを侵す勇気がなく、自分の安全だけを考えたのだ。

 それは、よく見ると、ファリサイ派のように、イエスが生涯争った人たちのこと。たとえば、放蕩息子のたとえ話の兄がそうだ。父の家にとどまっているが、跡継ぎ息子なのに父に対して奴隷のような態度をとって、楽しめず、恨みを抱く。あるいは、ぶどう園の労働者のたとえ話で文句を言う労働者もそうだ。つまり、それは、神に対して、子どもとして、あるいは友人としてではなく、ライバルとして関わり、神の前で自分を正当化する態度だ。そこから、他の人に対する間違った態度も生まれる。この3番目の僕は「あなたのお金」と言うが、放蕩息子の兄も「あなたの息子」と言う。
 彼に対して主人は言う、「怠け者の悪い僕だ」。悪いとは、心が病気で、神のみ旨を理解していないということ。つまり、神が宇宙の春であり、宇宙に花と実りをもたらすというみ旨のために人間を召し出したことを理解していないということ。要するに、忠実な良い僕と怠け者の悪い僕がいる。そのことは種撒く人やパン種などイエスのいろいろなたとえ話と共通している。
  今日のタラントンのたとえ話は、初代教会の事情を前にマタイがイエスの言葉をまとめて書き残したものだ。この中には、二つの層があるように思われる。一つの層は、イエスが活動した当時の事情とそれを踏まえた人間についてのイエスの教えだ。もう一つの層は、マタイの関心。マタイは、モーセの契約、つまり神とその僕としてのユダヤ人との契約であった第一の契約に対して、イエスの契約、神との新しい関係を意味する第二の契約を示したいのだ。
 「財産」とは具体的に何を意味するか。タレントとは英語では、それぞれの人がもっている音楽などの才能を意味する(日本語ではそこから芸能人を意味する)が、僕たちが預かった財産をそのように理解するなら狭い理解だ。彼らが預かった財産とは、その人自身の幸せのために生まれつき授かった個人的な特徴ではない。それは第一に宇宙の中の人間の立場を意味する。そして、キリストによって父なる神との関係は新しい関係になったから、財産とは第二にキリストそのものを意味する。つまり、キリスト信者にとって、キリストの秘跡、キリストの体、キリストの言葉を意味する。だから、このたとえ話は信者に向かって、あなたたちはこのような宝物を他人と分かち合いなさいと言いたいのだ―神への恐れを捨てて。「愛には恐れがない」(第一ヨハネ4・18)。恐れから解放されて、キリストを伝えなさいと言いたいのだ。言い換えれば、宣教ということ。教会の時代にあってキリスト者はキリストを他人に伝えるために呼ばれたのだ。第一朗読として、「有能な妻」について語られる箴言の箇所が選ばれているのも、世話をし育てるという役割について書かれているからだ。教会にはキリストを受け入れ育てるという女性的な使命がある。それを象徴するのがマリアだ。教会はまもなく、マリアの季節である待降節に入る。


2017年

11月

26日

王であるキリスト

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25・31)

「キリスト、羊と山羊を分ける」、6世紀、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(イタリア・ラヴェンナ)
「キリスト、羊と山羊を分ける」、6世紀、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(イタリア・ラヴェンナ)

 年間最後の主日に私たちは、王であるキリストを祝う。この祭日は比較的新しく100年ほど前に定められたが、王であるキリストというテーマは古く聖書に遡る(日本語では「王であるキリスト」の「王」と「神の国」の「国」とは別々の言葉だが、欧語では「王」と「国」は同じ語幹)。この祭日は何百万人もの信者の願いで定められ、行列などさまざまな形で祝われる。また、カトリックだけではなくプロテスタントや正教会も王であるキリストを祝う。

 第二バチカン公会議によって典礼が整理された際、この祭日のためにABCの3つの年に合わせて旧約新約聖書のさまざまな朗読箇所が選ばれ、その全部を読めば祭日の意味を深く知ることができる。しかし、ここでは、今日の福音朗読に限ることにする。 今日の福音朗読はマタイ第25章から。同じ章に、今日のたとえ話と少し似ている二つのたとえ話――10人のおとめのたとえ話とタラントンのたとえ話がすでにあった。今日のたとえ話はイエスの最後の教えだ。

 今日のたとえ話に出て来る王には、羊飼いのイメージとともに審判者のイメージがある。注意すべきは、審判者のイメージがすでに旧約聖書に出ていること。ただし、イエスは、ユダヤ人たちが抱いていた審判のイメージを覆す。つまり、神が審判する基準は律法ではない。そして不思議なことに、神に対する態度でもなく、隣人に対する態度なのだ。なぜマタイはその福音書の最後にそれを私たちに伝えるのか。イエスは私たちとともにいる神というのがマタイの大きなテーマだからだ。つまり、イエスの到来によって、神は遠いところではなく、この世界の私たちのそばに隠れているのだ。

 キリスト教の歴史を振り返ると、審判は神学にも霊性にも美術にもよく出てくる主題だ。審判については、罪人を地獄に落とす厳しい神を強調するというふうにしばしば間違った形で語られてきた。けれども、イエスが語る審判は、よく見ると、(いつ来るかは知らないとイエス自身が言う)世の終わりのことよりも、今のことだ。それは私たちの今の生活を案内するナビゲーターのようなものだ。今日のたとえ話が伝えるのは、過去についての未来の審判ではなく、現在の生活のガイドなのだ。

 「すべての国の民がその前に集められると」。日本語には「すべての国の民」と訳されているが、ギリシア語は「さまざまな民」を意味するラウス。ここでは、ユダヤ人以外の異邦人を意味する。マタイ福音書では、ユダヤ人についてはすでに審判が記されている。

 「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。良いものと悪いものを分けることについてマタイはいろいろな形で語っている(良い木と悪い木、麦と毒麦、良い魚と悪い魚)。よく見ると、分ける基準は人間が犯した罪ではない。マタイ福音書が伝えるところでも、イエスは罪人に対して憐れみがあり、罪人を滅ぼさない。だから、良いものと悪いものを分ける基準は間違ったことをしたかしなかったかではなく、すべきことをしたかしなかった(怠り)かなのだ。そこに6つの例が出てくる(食べさせる、飲ませる、泊める、着せる、見舞う、牢に訪ねる)。それは当時、イスラエルだけではなくエジプトにもあった定式だ。たとえばエジプトの有名な死者の書は、死者の埋葬の際に遺体の横に置かれるものであり、神を喜ばせるためにその人が何をしたかが記されていた。今日のたとえ話でイエスは、そのような定式を使っているのだ。印象的なのは、祈りや神殿など宗教的な態度ではなく、隣人に対する態度が挙げられていること。特に、こんにちの刑務所とは異なり、当時の牢は食べ物の提供もなく、訪問者がもってくるだけだった。神が言うのは、このような人たちに対してしたことは自分に対してしたことだということ。だから、今日の福音は、私たちが生きている今の状態に対する神からの強いメッセージなのだ。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」。「最も小さい者」とは誰か。6つの例からすると、困窮している人たち、社会から差別され見捨てられた人たちと考えられる。それと同時に、マタイはきっともう一つのことを考えている。マタイ福音書には「小さな者」が他にも出てくるが、それはイエスから派遣された弟子のことだ。彼らは狼の群れに送り込まれて、弱い立場にある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)。イエスから遣わされた人たちはイエスの弟子として扱われ、イエス自身であるかのように、イエスといっしょに愛すべきなのだ。

 「主よ、いつわたしたちは…したでしょうか」。この人たちはいいことをしたけれども、神にそんなことをしたとは気づいていない。つまり、彼らは、神から愛されたり天国に行くといった目的のためではなく、純粋な同期からそうしたのだ。つまり、良いサマリア人のように、憐れな状態の隣人に憐れみを感じたからそうしたのだ。

 「王は左側にいる人たちにも言う」。音楽で同じモティーフが長調と短調で表現されるように、ここでも同じモティーフが反対の表現で繰り返されている。これは当時のラビたちの話法だったが、イエスは言うことをしっかりと受け止めてほしかったから、同じことを反対の表現でも繰り返したのだろう。

 「呪われた者ども」。この言葉にも注意すべきだ。イエスが宣言する神は呪う神、地獄に落とす神ではない。終末論文学に厳しいメッセージが含まれるのは、言われていることの重大さを強調するためだろう。「呪われた者」という言葉が意味するのは、この人たちが自分で自分の生活をだめにしてしまったということ。彼らは律法を守って罪を犯さず、神殿で宗教者として尊敬されることで救われると考えていたが、神から見放される。自分のことばかり考えて、隣人の必要に気づかなかったから。逆に、良い行いは、たとえどんなに小さなことでも、たとえ直接に神のためでなくても、神から注目され大切にされるのだ。私たちの生活にある小さないいことを神は大切な宝物として扱う。悪い人たちは「いつわたしたちは…しなかったでしょうか」と言い訳するが、いい人たちも驚く。それは救いの驚きだ。

 今日のたとえ話の羊と山羊には注意すべきだ。二元論的な考え方に慣れている現代の私たちは自然に、良い人と悪い人を分けてしまう。確かに、神の前で善と悪の違いはある。しかし、たとえ話の文面に引っ張られないように注意しなければならない。イエスが私たちに示す神は愛だから、羊だけを愛して山羊を愛さない神ではない。それに、羊飼いは山羊も飼う。ある聖書学者によると、羊飼いは羊も山羊も飼うが、違った世話をした。夜になると、毛が長い羊は寒い外に、毛が短い山羊は温かい小屋にいるようにしたのだ。イエスの神にはやさしさと厳しさがあるが、そのどちらも私たちを導く手だ。神はやさしい言葉で私たちを引き寄せ、厳しい言葉で私たちを指導する。聖書にも、神は愛する者を鍛えると書いてある(ヘブライ12・6)。私たちにはいい人と悪い人を分ける習慣があるが、神はそうではない。神の国では、麦と毒麦がいっしょに生えている。そして、良い人と悪い人は別々の人ではないのだ。羊と山羊の分け目は私たち一人ひとりにある。羊とは、罪人の中に神が見る聖人のイメージとも言える。

 審判のテーマが典礼に出て来る時には、狭く考えるのではなく、そのテーマで教会が何を教えたいかを見るべきだ。典礼年の最後に教会が教えるのは、終わりの日に行われる審判よりも、今を生きる私たちにとっての理想だ。私たちの今のありふれた日常生活には大切な可能性、神を愛するチャンスが隠されている。だから、私たちの周りの人々、近隣や職場、教会共同体を見直さなければならない。そして、大きなことだけではなく、小さなことに目を向けなければならない。イエスが言いたいこと、マタイ、そして教会が今日私たちに思い出させたいことはそれだ。待降節第一主日にも同じテーマが出てくる。よい待降節を送りたい。


2020年

8月

30日

年間第27主日

「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21・43)

画像は、ユーゲン・ブルナンド「邪悪な農夫たち」(『さまざまなたとえ話』1908年)

 イエスはぶどう畑(ぶどう園)について好んで語る。細かいことも出てくるから、ぶどう畑を実際に知っていたようだ。小さな村では、秋になると、親戚や友だちを呼んで刈り入れの作業をする。子どもたちも小さな籠を手に、ぶどうを摘んだり食べたり。ぶどうの果汁の匂いが漂い、騒いで歌ったり踊ったり。喜びと祭りの季節だ。
 ヨハネ福音書15章でイエスは、自分と愛する弟子たちとの親しい関係を示すたとえとして、ぶどうの木を使う。父なる神はぶどう畑の主人(15・1「農夫」)だ。雅歌にもぶどう畑がよく出てくる。ぶどう畑は愛の喜びを連想させる場所なのだ。ユダヤ人にとって、ぶどう畑はまず、美しさや実りなど人に捧げられたはじめの創造を連想させる場所だ。それから、特に神との契約を連想させる場所だ。そして、神が自分の民を世話することを連想させる場所だ。実りのために、石をとり除いたり、垣根や見張り塔を作ったり、植物のための農夫の世話を連想させる。そのために選ばれたのが第一朗読のイザヤ書の、神とイスラエル(女性名詞)とのあいだの愛の歌だ。
 今日の箇所は、「ぶどう園」を舞台にする3番目のたとえ話だ。しかし、このたとえ話には暗い影がある。しかも、その影はイエス自身の生涯にかかる影なのだ。このことは、今日のたとえ話を理解するために思い出すべきだ。このたとえ話を作ったイエス自身がその時期に劇的な瞬間を迎えていた。
 このたとえ話はイエスがエルサレムに入ってからのこと。エルサレムの人々はイエスをメシアとして迎えたが、宮清めの事件のあと、祭司長や民の長老たちが怒って、イエスを尋問した―どんな権限でこのようなことをしたかと。そして、激しい議論になった。そこで、先週読んだ二人の息子たちのたとえ話が出て、その最後にイエスの厳しい言葉があった。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。今日のたとえ話はこのような脈絡で出てくる。
 このたとえ話では、イスラエルの神が民に示す愛の物語が描かれている。私たちにとってイスラエルは遠いが、私たちキリスト者も気をつけなければならない。新しい民も古い民のようになる危険があるから。祭司長や民の長老たちは自分たちが神の友と思っているが、イエスによると、神の敵になって、神が民に示す愛を邪魔する。彼らは、主人(神)が旅に出ているあいだに、ぶどう畑の世話をする任務を受けたのに、自分がぶどう畑の主人だと思ってしまったのだ。「収穫を受け取るために」―この言葉には少し注意すべきだ。預言者イザヤが言うように、全世界は神のものだから、神は生贄を求めない。神が求めるのは、民に対する憐れみや愛の行いだ。だから、祭司長や長老たちは、神の愛を民に示す任務を受けたにもかかわらず、自分のためにぶどう畑を使ったのだ。
 このたとえ話で、神は何度も預言者たち(「僕たち」)を送る。それは彼らの間違いに対する神の忍耐を意味している。しかし、彼らは頑なで、預言者たちを捕えるだけではなく、殺したりもした。神は最後に我が子を送る。我が子を送るのは、民に対する最大の関心であり、最高の愛だ。キリスト教が言うのはそれだ。ところが、彼らは「これは跡取りだ」と言う。彼らにとっては父なる神の財産を自分のものにする最大のチャンスなのだ。跡取りを殺せば、自分たちが主人になると考えた。つまり、イエスが、そしてのちにマタイが言おうとするのは、彼らがイエスが跡取り、神の子だと知っていたということ。知っていたが信じずに、冒涜の罪でイエスを訴え、エルサレム(「ぶどう園」)の外に追い出して殺したのだ。マタイや初代教会がイエスの言葉の意味を理解したのは、イエスの復活のあとだ。けれども、イエスはすでに自分の十字架が近づいていると理解していた。

 このたとえ話の最後にイエスは祭司長や民の長老たちに尋ねる。「ぶどう園の主人[は]…この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは言う、「その悪人どもを…殺し、ぶどう園は…ほかの農夫たちに貸すにちがいない」。イエスはもう一つのたとえ話でもう一つのことを私たちに教える。神は殺さない。神は悪人に復讐しない。罪人は神から愛されている。神が望むのは、罪人が回心して新しくなること。そのために、神は我が子を送ったのだ。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは神の建築の指針だ。神が選ぶのは力や権力ではなく、見捨てられた者だということ。神の僕は小さな者。イエスの復活後、キリスト者、特にマタイとマタイの教会はこのことを理解した。ペトロをはじめとするイエスの弟子たちも、イエスが生きていた時はそれを理解するのに苦労した。神の国を作る人は、完全な人、他人より知識がある人、聖性を誇る人ではなく、罪が赦された人なのだ。これが新しい「農夫」の条件だ。だから、神の国のために働くのは、回心した罪人、神の憐れみを浴びた罪人だ。神の憐れみを受け、そのやさしさと喜びを経験し、人と分かち合いたい心をもっている人だ。それを忘れない人だけ、イエスの愛と平和を世にもたらすことができる。
 だから、今日のたとえ話の中にもイエスの啓示が含まれている。ミサを捧げる時に私たちは、愛され赦されて人を受け入れることを記念する。ミサの中心は私たちの聖性ではなく、私たちが受けた赦しなのだ。そして、ミサだけではなく、キリスト者の生活全体がそうであるはずだ。

 イエスは祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人々を厳しい言葉で批判する。その言葉はユダヤ人だけに向けられたものではない。福音記者たちがイエスに厳しい言葉を語らせるのは、以前の宗教(ユダヤ教)にあった悪い特徴が新しい宗教(キリスト教)の中で芽を出さないため。つまり、イエスが批判するように、ユダヤ教には3つの危険性がある。1.傲慢。自分が人よりまさっていると考えること。2.功績主義。自分の行いで救われると考えること。本末転倒してはならない。神は寄付の金額や祈りの数で喜ぶわけではない。言葉数が多ければ祈りが聞き入れられると思っている異邦人のように祈るなとイエスは言う。3.権力構造(ヒエラルキー)の危険。だからこそ、上に立ちたい人はすべての人に仕えなさいとイエスは言う。
 今日の朗読箇所は43節で終わる。しかし、読まれなかった45節によると、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っているとわかったが、回心しなかった。群衆を恐れてイエスを捕えることはしなかったが、その機会を待っていた。
 愛に返答(「収穫」)がなく失望する神の悲しみは、ユダヤ人のせいだけではない。それは私たちのせいでもありうる。たとえば教会を自分の利益や力のために使うことがある。1テモテ6章には、高慢、利得、金銭欲といった罪について書かれている。神の国は、ユダヤ人から取り上げられたのと同じように、私たちの手から取り上げられる恐れがある。もっとも、このたとえ話は、恐怖を感じさせるだけではない。却って、イエスを信じる人にとっては、私たちにどんな弱さや罪があるとしても、神の愛はそれにまさるのだ。


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