2018年
11月
25日
日
わたしが王だとは、あなたが言っていることです。(ヨハネ18・37より)
2015年の黙想の再掲載。
2018年
11月
18日
日
その時、大天使長ミカエルが立つ。
彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。(ダニエル書12・1)
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マルコ13・31)
(2015年の黙想の再掲載)
2018年
11月
11日
日
「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12・44より)
マルコ福音書では、今日の箇所がイエスの公生活の最後のエピソード(次の13章は終末論の長い話、14章は受難物語)。
それに対して、その「やもめ」は、第一朗読のやもめが小麦粉と油を命がけで預言者に差し出したように、すべてを神に捧げた。マルコは言っていないが、イエスはそのやもめを、子供が母親を見るように限りない優しさで見ている。もしかしたら、そのやもめを見て、その頃すでにやもめの生活を送っていた母マリアを思い出したのだろうか。イエス自身もまもなく、十字架上で父なる神に向かって、私たちのためにすべてをゆだね、命も捧げた。
要するに、イエスが弟子たちに教えた宗教、そして神が望む宗教は、心と真実、神と人に対する愛に基づく宗教なのだ。こんにちの私たちは、中身よりも見かけ、誠実よりも評判や地位を気にして、例えば健康のためではない整形手術のために考えられないほどのお金を使ったりもする。イエスの教えはそんな私たちにも向けられている。
2000年前、自分の名誉を求める金持ちがたくさんいる中で、一人のやもめが神殿の賽銭箱にわずかなお金を入れた。あまりにも小さい金額だったので、もしかしたら大祭司の帳簿係も気づかなかったかもしれない。しかし、そのお金は、金持ちのあり余るほどのお金と違い、永遠に神の心の帳簿に記されている。なぜなら、神の心の帳簿にはどんな小さな子供の愛情の溜息であっても永遠に記されているから。
(2015年の黙想の再掲載)
2018年
11月
04日
日
「あなたの神である主を愛しなさい…隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・30、31)
イスラエルの代表的な果物であるザクロ。民数記13:23をはじめ、旧約聖書のさまざまな箇所に出て来る。大祭司の衣服にもザクロの模様が使われた。ルビーのようなその赤い粒は、ミツワーと呼ばれるトーラ―の掟の数と同じく613あると言われている。ミツワーについてはこちらを参照のこと。
エルサレムに向かうイエスの長い旅は終着点に到達した。今日の箇所はイエスが十字架につけられる数日前のエピソードだ。典礼では、次の2つの年間主日と王であるキリストの祭日で、そのあと待降節と降誕節を祝う。だから、イエスの受難と死と復活が読まれるのは、さらに四旬節を経て聖週間になってからであり、その時は典礼年がB年からC年に代わっているから、マルコ福音書ではなくルカ福音書が読まれる。しかし、今日のマルコ福音書の箇所は、イエスの最後の数日の出来事であり、劇的な局面だと心に留めておきたい。
マルコ福音書冒頭の2章と3章と同じように、エルサレムでイエスはさまざまな議論や批判に遭遇する。マルコ福音書では、イエスの公生活はその最初と最後で、無理解や批判、特にファリサイ派や律法学者など宗教の権力者たちの反発で挟まれているのだ。
エルサレムへのイエスの到着は、民衆から歓迎されたが、大祭司をはじめ宗教の権力者たちから反発を受ける。しかし、外面的にはこのような劇的な状況でも、イエスの心の奥底には神聖な静けさがある。海が荒れていても、イエスの心の奥底は大地のように静かだ。マルコがその福音書で伝えるいくつかのエピソードは、開かれた窓のように、イエスの心の奥底にある根本的な体験を覗き見させてくれる。
例えば、次の年間第32主日には、貧しいやもめのエピソードが読まれる。劇的な状況の中、イエスは静かに落ち着いて、人々が賽銭箱に入れるのを見、小さなことに気づくのだ。考えられないほど大きな事件に遭うのに、イエスは、考えられないほど繊細な愛情を示すのだ。 今日の箇所では、イエスの心の繊細さは律法学者に対する返答に示される。イエスは、法律的哲学的な議論に入らずに、自らの心の深み、父なる神の体験を表現する。今日の箇所はちょうど人々とのさまざまな議論が終わったばかりで、盛り上がった双方の感情はまだ落ち着いていなかったと想像してしまう。しかし、マルコが伝えるところでは、イエスは親密さややさしさを示すのだ。
今日の箇所に出てくる律法学者は、イエスに反発する悪の世界に割れ目ができたかのように、自分が属する集団と違った態度をとる。イエスが戦っている世界は永久に存続するのではなく、崩れる気配がある。みなが反発しても、一人がイエスの味方をする。確かにまだその時ではない。マルコが言うように、イエスが十字架上で息を引き取った時はじめて、至聖所の幕が裂けた。だから、その時はまだだが、困難の中でも悪の世界が崩れる兆しがある。
「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。 その律法学者も、イエスの敵の集団の一人だ。その人は仲間とイエスの議論を目撃していた。そして、その集団に属しているにもかかわらず、イエスの言葉、イエスの考え方に魅力を感じた。イエスと議論した人たちはすでに立ち去っており、彼は内密にイエスと話すために近づく。そして、批判や罠のためではなく、彼自身が抱えている大切な質問をイエスに出す。
律法学者たちは神から啓示を受けたことを誇っていた。しかし、法律やルールを扱う人に当時も今もよく起こることだが、網にかかった魚のように、ルールにはまって動けなくなる。最初は善意から神の言葉を大切にしても、研究しているうちに掟にがんじがらめになり、法律家になって、正しい生き方を見失うのだ。旧約聖書には613個の掟があるとされていた。禁止の掟と義務の掟があり、禁止の掟は一年の日数である365あり、義務の掟は人体の骨の数だけあるとされていた。女性が守るべきなのは前者だけだった。時代が進むと、学派によって解釈の相違も生まれ、イエスの時代には、細かい決まりが増えていた。一つの言い伝えによると、掟はざくろの種と同じく613あるということだった。掟の数については旧約聖書にすでに出ている。詩篇15では10の掟が大切にされ、イザヤ33・15では掟は6つ、ミカ6・8では3つ、アモス5・4では2つ挙げられている。
イエスはその律法学者は他の律法学者とちがっていると感じて、心を開き、自らの心の奥底にあることをその人に示そうとする。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である』」。イエスの返答は外面的に見れば、法律のレベルで答えているようだが、そうではない。「シェマー・イスラエル(イスラエルよ、聞け)」。これは出エジプト記6章にあり、ユダヤ人が毎日3回繰り返す大切な祈りの言葉だ。つまり、イエスはたくさんの掟から一つを選んで答えたのではなく、毎日唱えていた祈りの言葉で答えたのだ。だから、イエスにとって大切なのは、掟ではなく、信仰の体験そのものだ。
4つの福音書のさまざまな箇所でイエスの祈りの深みを知ることができる。喜びの時と悲しみの時、一人山にこもる時の、父なる神への親密な祈りを福音書で読むことができる。イエスにとっては祈りは深い体験なのだ。
「イスラエルよ、聞け」。聞けとは、従えという意味。しかし、イエスの道徳は権力者の命令から生まれるのではなく、深い心の中の愛情の経験から生まれる内面的な要求だ。父なる神と心の中で語り合う体験から、その言葉と一つになる要求が生まれる。受けた愛から愛を返す要求が生まれるのだ。こんにちの言葉を使って、イエスの道徳が生まれるのは神秘的体験からと言ってもいい。 「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。イエスにとって、神への愛と隣人への愛は2つの異なる愛ではない。
イエスとその律法学者は、エルサレムの神殿の一番大きな広場にいた。レビ族ではないイエスは祭司ではないから、神殿の至聖所に入ったこともなかったが、その広場にはいつものようにたくさんのユダヤ人がいて、お香と生贄の匂いが充満していただろう。その律法学者が属していたイスラエルの宗教の荘厳さを経験するには、その場所以上の場所はなかっただろう。 私たちはなかなか想像できないが、イスラエル人にとって神殿はその建築も儀式もすばらしい場所だった。弟子たちも神殿の建物を見て感動している(マルコ13・1)。また、第二朗読からわかるように、後にキリスト者となった人もまだいろいろな理由からエルサレムの神殿の荘厳さを懐かしんでいた。だから、イエスとその人がいた場所はイスラエルの宗教の偉大さを実感するためにもっともふさわしい場所だった。
しかし、イエスの言葉について、その律法学者はとても美しい言葉で感動を表現する。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です」。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。神を愛することはどんないけにえやホロコーストよりもすぐれている。神殿で行われるイスラエルの宗教よりそのような宗教はすぐれているのだ。
イエスの道は掟や儀式ではなく、愛にある。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(エゼキエル11・19)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5・23、24)。
「あなたは神の国から遠くない」。私たちはこれを読むと、その人がイエスに従うことを期待するが、そのような記述はない。この物語も、福音書の別の物語と同じように結末がないのだ。なぜなら、その結末はその人ではなく私たちが生きることだから。
2018年
10月
28日
日
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。(マルコ10・50)
私たちがこのところ読んでいるマルコ福音書の真ん中あたりは旅の物語。イエスは故郷を出て、神の国の始まりを宣言し、あちこち宣教しながら弟子を集め、さまざまな出会いがあり、さまざまな事件が起こる。その間イエスは何度も、自分が何者か、何のために来たか、本当の弟子であるとはどういうことかを弟子たちに教えようとする。もちろんマルコは起きた出来事をただ記録するのではなく、読者である私たちのことを考えている。私たちも弟子たちと同じようにイエスと歩きイエスを見ながら、イエスは一体何者か、本当の信者であるためにどうすればいいか、という問題を抱いているのだから、その私たちのためにマルコは書いているのだ。イエスがどれほど説明しても、どれほど癒やしや奇跡を行っても、弟子たちはなかなかわからず、最後までわからない。先週の箇所でも、二人の弟子がイエスのところに行って頼み事をした。イエスはエルサレムで殺されることを三度目に彼らに知らせたのに、彼らはまったくわからずに、えらくなることや権力をずっと考えていたのだ。それはイエスにとって大きな失望の時だ。「あなたがたは…分かっていない」。あなたたちが願う権力がどれほど危ないかわからないか、というイエスの正当な指摘だ。
今日の箇所の理解のために大切だが、マルコ福音書では奇妙なことに、エルサレムへの旅のはじめと終わりにいずれも、盲人の癒やしの奇跡がある。旅のはじめはベトサイダという町で、イエスは盲人の目につばをつけたりして盲人を癒やした。その盲人は名前がなく、また一度には治らず、最初はまだ人間が木に見えたりした。他方、旅の最後の奇跡が今日の箇所だ。今日の箇所には、バルティマイという盲人の名前が書いてある。バルティマイという名前は半分ヘブライ語、半分ギリシア語だ。聖書学者によると、それには特別な意味がある。また、この人は一度にはっきりと見えることになる。
数年前、ベルギーの有名な聖書学者が、マルコ福音書は一晩で読めるほど短くもっとも古い福音書だから復活徹夜祭に朗読されるために書かれたのではないかという見解を提示し、学者たちが議論している。その見解によると、エルサレムへの旅は求道者の旅だ。イエスから呼ばれ、イエスに癒やされて、信仰によって目が開き、イエスの道に入るのだ。今日の箇所は奇跡物語だから、ただの歴史的な出来事ではなく、教訓的神学的な意味をもっている。だから、求道者が洗礼の準備をするため、または信者が洗礼の意味を理解するための大切なエピソードなのだ。短い物語だが、大切なことが含まれている。とても美しく印象的な箇所だ。
「一同はエリコの町に着いた」。エリコはエルサレムから25、6キロ離れた町。エリコを出ると、イエスが十字架につけられるエルサレムは目前だ。だから、旅のきわめて真剣な段階だ。
エリコは八千年以上前からあり、世界最古の町とも言われる。世界一標高が低く、そこから、山にあるエルサレムへは狭く険しい道が続いていた。その道はよきサマリア人のたとえ話の舞台でもあり、よく強盗が現れたために人々はできるだけ集団でその道を通った。また、過ぎ越し祭の時にユダヤ人たちがよく上った道だ。イエスもその道をよく知っていた。エリコはオアシスだったから緑があったが、周りはほとんど荒れ地だった。
「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」。イエスはエリコに入ったが泊まらずにエルサレムに向けて町を出ようとしていた。ちょうどその時大切なことが起きる。
「ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた」。バルティマイは、目が見えないだけでなく貧しかった。それは最下位の人だ。自立して生活できず、所有しているのはマント(上着)だけ。マントは貧しい人が所有する最低限のものだ。例えば旧約聖書では、貧しい人からマントを借りても、毛布としても使われたマントがなければ寝ることもできないから、夜は返さなければならなかった。だから、バルティマイ人は貧しい中でも貧しい人だ。他人に生かしてもらうしかない人だ。
マルコが言うのは、バルティマイの状態は、私たちがイエスを知らずイエスの道を探している時の状態だということ。何がいいか何が悪いか、どう生きるべきかという問題を抱えて、私たちも道端に座っている。その道は当時たくさんの人たちが通っていた。その時は過ぎ越し祭に近かったから、エルサレムに向かうたくさんの人がいたことだろう。私たちの生活でも同じことだ。いろいろな人のいろいろな声が周りに聞こえる。
「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」。ここで大切なのは、バルティマイが目は見えないが、耳はいいこと。イエスが通っていること、この人は特別な人だということを聞くことができたのだ。神学的に言えば、信仰は耳から、言葉を聞くことから始まる。それはパウロが後にその神学で深く反省することだ。もし言葉を伝える人がいなければ、人は信じることができない。信仰が始まるのは聞くことによって、何よりも道の途上で与えられるイエスの言葉によってだ。それが信仰の始まりだ。キリスト教の根本は聞くことなのだ。イエスの言葉を聞いて、その言葉が神の言葉だと信じることによって、私たちの再生、生まれ変わりが始まる。バルティマイは目は見えないが、聞くことはできた。
「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」。人々はイエスに気を取られたり、自分の用事に気を取られたりして、バルティマイを邪魔者扱いする。イエスの後に歩いていた弟子たちでさえ、この人の憐れな状態に気づかない始末だ。 バルティマイは求道者のシンボルだ。求道者はまず自分の状態を意識し、自分に問題があると気づいた人だ。そして、求道者は救いを求める人、問題から立ち直ろうとする人だ。周りの人たちはそんな問題はどうでもいいと言うかもしれない。私たちも問題を乗り越えるために何かしようとしたら、周りの人たちが反発する。常識の考え方、テレビやマスコミの考え方がそんな問題はどうでもいいと言うのだ。私たちが信者になろうとするとき、信者になるともう結婚や再婚ができなくなるなど理屈を言って反対する声があったりする。友達であったり知り合いであったりマスコミであったり。教会に対する批判もそうだ。
「が、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」。バルティマイは周りの人たちに負けない。3年間イエスの後に歩いていた弟子たちさえイエスをわかっていなかったのに、バルティマイはイエスに近づこうとする。 彼にとってそれは救いの時、ギリシア語で言えばカイロスだ。それは私たちの生活の中にある何かのきっかけのことだ。イエスが私たちの生活に近づく時、そのチャンスを掴むべきだ。それが求道者の技術だ。
「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。イエスはバルティマイの叫びに気づく。イエスの周りには、いろいろな声があったのに、イエスはこの人の泣き声、この人の頼みの声を聞く。神の愛は、人類一般に対しての愛ではなく、私たち一人ひとりへの愛なのだ。
そこにとても素晴らしい3つの言葉がある。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。これはマルコの3つの宝物だ。「安心しなさい」。もうだいじょうぶ。もう救いがあなたに届いた。もう道端に座らなくてもいい。神がもうあなたのそばに来ている。それは神が求道者に近づく時の言葉だ。「立ちなさい」。それは、イエスが復活した時に使われる言葉で、復活を意味する。イエスが人に近づく時、罪のために叱らない。イエスが罪人に、弱い人に近づくのは、地獄に落とすためではない。イエスにとっては罪はどうでもいい。どんな聖人になりうるかを見るのが神の目だ。福音書には、願いを抱いて近づいた人たちをイエスが叱った例は一つもいない。「お呼びだ」。神が私たちを愛するときは群衆として、グループとして、教会として、全人類としてではない。私たちの愛はそうだが、神の愛はそのような愛ではない。神はその人個人を愛するのだ。
「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。それは、先に言及した聖書学者の言うことが正しいなら、復活徹夜祭の夜に洗礼を受ける人のことだ。上着は彼の全財産だった。神が自分を愛していることを知ったバルティマイはまさにすべてを捨てて、イエスのところに行くのだ。
「何をしてほしいのか」。すばらしいイエスの言葉で、福音書にはこれに似た表現が何度も出てくる。例えば、弟子たちが一晩中湖で漁をしたのに魚が釣れなかった時、岸に立ったイエスが「子たちよ、何か食べるものはあるか」と尋ねる。それは神が私たち一人ひとりに聞くことだ。生きるために何があるか。慰めや愛はあるか。
「先生、目が見えるようになりたいのです」。日本語には「目が見えるようになる」と訳されているが、ギリシア語原語アナブレインは「もう一度見える」「もっとよく見える」という意味。先週の日曜日の二人の弟子はイエスの右と左につくこと、つまり権力を望んだが、ここでバルティマイと二人の弟子の違いが明らかになる。バルティマイはイエスを見ることを望んだのだ。「あなたの信仰があなたを救った」。イエスはベトサイダの盲人とは違って、目につばを塗ったりはしない。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。バルティマイは、イエスの後に従って歩き始める。エルサレムに向かって。
その後どうなったかは書かれていない。それは福音書に何回も出てくる結末のない(オープン・エンドの)物語だ。それは私たちの事柄だから。バルティマイのように私たちもイエスから名前を呼ばれ、イエスに従うように言われ、慰めと癒やしの言葉を与えられ、イエスの道に入ろうとする。だから、今日の物語の結末は私たち次第なのだ。
2018年
10月
21日
日
あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。(マルコ10・38)
今日の福音箇所を読むにあたって、直前の32ー34節を読むと理解に役立つ。それは忘れがたい光景だ。イエスが一人先に行き、弟子たちがずっと後ろの方で歩いている。「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」。この光景によってマルコは内面を表現しようとする。長い旅の途上で、イエスは3度目に受難を予告するが、弟子たちはなかなかわからない、否、わかろうとしないのだ。
今日の典礼のために選ばれた箇所は、イエスが愛した弟子、他の弟子より優れ後には神学者とも神秘主義者とも呼ばれるヨハネが兄弟ヤコブといっしょにイエスのところに走ってきて、甘やかされた子供のようにおねだりする場面で始まる。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。それを聞いたイエスの落胆と孤独を十分に想像できるだろうか。それは、オリーブの園で弟子たちが眠る時と同じ孤独だ。どうしてこんなことがありうるのか。3年間イエスと歩き回り、大勢の人たちが癒やされたり食べ物で満たされたのを目撃した弟子たちなのに、イエスがエルサレムで十字架につけられて死ぬと3度言ったことをまったく理解できないとは考えられないことだ。しかし、イエスは彼らの鈍感な態度を見ても、怒りも気を落としもせずに、もう一度愛情と忍耐をもって、彼らにとって理解し難くても彼自身にとって大切なことを説明しようとする。それはイエスが世に来た最終的な目的だ。
「あなたがたは、自分が何を頼んでいるか、分かっていない」。右と左に座るとは他人に対する権力をもつことを意味する。二人の弟子が願っているのは権力だ。彼らには権力欲がある。それがこの世のあらゆる悪の原因だとわからないか、権力欲が人間を不幸にし、神から離れるきっかけになるとまだわからないか、とイエスは言うのだ。
イエスのこの言葉が正しいことを示す証拠として、教会の歴史で最初のシスマ(分裂)が彼の目の前で始まる。他の10人の弟子たちはその時きっと少し離れていたが、そのことを聞き嫉妬に駆られてヨハネとヤコブに怒る。弟子たちは互いにライバルになるのだ。第一の予告の時のペトロへのイエスの言葉にもかかわらず、弟子たちはみなそれぞれの形で、自分が一番になりたかったのだ。それは、その後教会の歴史の中で何度も起こった事態だ。大きな教会にも小さな教会にも、私たちの共同体にも起きる事態だ。イエスの孤独と失望は計り知れない。
「イエスは一同を呼び寄せて言われた」。イエスは忍耐をもってもう一度彼らを教育しようとする。エルサレムはすぐそこだ。世間の考え方に染まっている弟子たちがなかなか理解できないイエス自身の考え方を説明しようとするのだ。世間の考え方とイエスの考え方は正反対だ。マルコは世間の考え方とイエスの考え方の違いを強調しようとする。マルコを参考にしてこのエピソードを記録するルカは、そのやさしさのせいか、あるいはルカの時代にはヤコブがすでに殉教していたからか、ヨハネとヤコブの代わりに母親が頼んだということにしている。もっとも、ルカは、それがもっと悪い状態だとは考えなかった。つまり、二人だけではなく彼らの家族にもそういう世間的な考え方があることが明らかになる。それは重大な点だ。
「先生、…わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。彼らは甘やかされた子供のように、神が自分たちを必要としていると考えて、その結果イエスに条件をつけている。彼らがまだわかっていないのは、救いが自分の活動の結果ではなく無償の賜物であること。
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。イエスは他人を束縛する権力の危険を指摘する。強者は弱者を圧迫するのだ。マルコ福音書の読者はローマ人であり、ローマ帝国の独裁を身をもって知っていたから、イエスの言葉が正しいことがよくわかったことだろう。
そして大切な点だが、「しかし、あなたがたの間ではそうではない」。ここでイエスの基準が提示される。イエスはさまざまな機会に権力の問題に触れたが、この箇所でその教えをもっとも明確に示す。「いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい」。そしてイエスは自分がヤーウェの神の僕として来たこと、仕えられるためではなく仕えるために来たことを明言する。 イエスの言葉では2つの神学的なしるしが用いられている。洗礼と杯だ。洗礼とは、苦しみの血の海に沈むことだ。それは受難を意味する。イエスはエルサレムの敵の中に行き、受難の海に沈むのだ。杯は聖書では両義的だ。一方では慰めや喜びを意味する(たとえば、詩篇23・5)。しかし、杯は、他方では神の審判と怒り、苦しみを意味する(特に詩篇75・8)。イエスは神の僕として受難と死によって全人類の罪を身に背負った時は、恐ろしい苦しみの杯を飲んだ。マルコが伝えるように、イエスはゲッセマネの園の孤独にあって、父なる神に向かって言う、「アッバ…この杯を私から取りのけてください」(14・36)。イエス自身それを避けることを望んだが、最終的にそれを飲むことになる。ヨハネ福音書でも、同じくオリーブの園でペトロがマルコスという人の耳を剣で切った時に、イエスは言う、「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(18・11)。だから、杯は受難を意味する。イエスは後もう少しでエルサレムに入るところだ。エルサレムでイエスは敗者としてではなく、自分の命を進んで自分を捧げた者として死ぬのだ。右と左に座りたいと言う二人の弟子に対してイエスはそう答える。イエスは敵に対する勝利を捨て、罪人を滅ぼさない。そして、永遠の食卓に主人として座らずに、召使いとして食卓に座る人の給仕をする。イエス自身は権力を捨てるのだ。だから、イエスはエルサレムで殺されることだけではなく、その道を愛のために自ら受け容れたことを弟子たちに教えようとするのだ。彼はそのためにエルサレムに向かっているところだ。
イエスの言葉では身代金についても短く触れられている。イエスの命が人を罪から解放する身代金になったことはまさにパウロが、それもマルコの読者でもあったローマ人に向けて説明している(ローマの信徒への手紙6・16−23、8・14−24)。 要するに、イエスの教えを伝えながらマルコが言いたいのは、弟子たちの共同体のいちばん上の席は王座の右と左ではなく、十字架の右と左の場所だということ。
今日の箇所には「異邦人の間では」「あなたがたの間では」という比較がある。ギリシア語では、その比較は接続法でも命令形でもなく現在形で書かれている。だから、それは勧めや望みや願いではなく識別の基準なのだ。もしそうであるなら、イエスの共同体だということ。だから、それはただの理想ではなく、今現在の私たちの共同体を識別する基準になる。僕の心についてはパウロのフィリピへの手紙にも書かれている(2・4ー11)。 今日のような箇所は結末のある物語ではない。ちょうどマタイ福音書の最後の節と同じように、またルカ福音書の放蕩息子のたとえ話の最後の父の言葉と同じように、結末がない。なぜなら、それは私たちの事柄だから。今日の言葉は私たちに向けられている。
2018年
10月
14日
日
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
(マルコ10・25)
私たちはみな幸福を求めている。しかし、何が幸せかはなかなかわからない。わかったとしても、それに命をかけるのは難しい。その結果、幸せになる好機を失う危険がある。今日の福音書の箇所の主人公はそういう人だったかもしれない。
今日の箇所は3つに分けられる。1.イエスとその人。2.イエスと弟子たち。3.ペトロとイエス。
「イエスが旅に出ようとされると、ある人が」。マルコはその人の名前を書いていない。福音書で人の名前が書かれていないのは、私たちが自分のことを考えるためとよく言われる。その人は、自分を大きく見せるため、富と名前、評判と宗教的な名声にすべてをかけた人だ。もしかしたら、生まれてこのかた、愛された経験がなかったかもしれない。自分には愛される価値がないと思い込んで、外面的に金持ちになって人の注意を引こうとしているのかもしれない。その結果、自分の幸せは富だと決めつけているが、内面では不幸せで寂しい。イエスの評判に惹かれてイエスのところに行く。もしかしたら幸せの秘密を教えてくれるかもしれないと考えるのだ。
マルコ福音書には注意すべき2つの細部がある。「走り寄って、ひざまずいて」。ユダヤ人にとって走るのは賢明ではなかった。偉い人は走らない。マルコ福音書では二人だけがその態度をとる。悪霊に取りつかれたゲラサの人(「走り寄って」、5・6)と重い皮膚病を患っている人(「ひざまずいて」、1・40)だ。ただし、その二人は心も体も病気だったが、今日の箇所の人の病気は深いところに隠れていて見えない。幸せを求めているが、なかなかうまく行かない人という印象だ。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。「永遠の命」は死後の生命ではない。ユダヤ人は死後の生命にあまり関心を抱かなかった。「永遠の命」とは現在のことであり、こんにちの言葉でいえば、幸せとか生きる意味のことだ。その人は深い悩みをもっているようだ。
イエスはユダヤ人の常識から話を始める。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。イエスは十戒のうち、神についての掟を無視して、隣人についての5つを引用する。そこにも注意すべきことがある。イエスは「隣人の妻を欲してはいけない」を避ける。先行する箇所のイエスの言葉によると、女性にも男性と同じ価値があるからだ。その代わりに、「奪い取るな」を入れる。この掟は十戒になく、申命記24・14から来る。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」。この掟をイエスが入れるのは、その人が金持ちとわかっていて、その富が他の人から奪い取った不正なものであるかもしれないからだ。
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。その人は、熱心なユダヤ人だと自慢するのだ。何かファリサイ派のような響きがある。彼らは、ユダヤ人に生まれたことを自慢していた。
「イエスは彼を見つめ」。これには注目すべきだ。その人の心の奥深くを見るのだ。「慈しんで」。この言葉にも注意が必要だ。慈しみ、愛という言葉を聞くと、現代の私たちは感情と考えるが、福音書ではそういう意味ではない。「イエスは彼を見つめ」。イエスは神の目で、その人にある可能性を見る。創造主である神として、罪人の中に聖人になる可能性を見るのだ。だから、イエスの愛は最終的に憐れみだ。イエスは自分が創造したものを神聖な目で見て、その真実を明るみに出す。「あなたに欠けているものが一つある」。あなたに富も名誉もあり、自分の民族にも地位にも満足しているが、足りないことがある。それはたくさんの中の一つではなく、根本的なことだ。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。ここには3つの動詞がある。それはいずれも有名な言葉だ。それをすれば、虫に食われない宝物を天に「積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は何かの祈りなど特別なことを教えてもらうつもりだっただろう。しかし、不幸の深い原因が指摘された。人に自分をよく見せようと防護壁を作ることが生きる邪魔になっていたのだ。ザアカイと同じだ。ザアカイは背が低くて人から見下げられていたが、金持ちになれば見上げられると考えた。今日の箇所の人も、自分の努力、自分の宗教的な熱心さを褒めてもらえると思っていたのに、それが幻だと突きつけられたのだ。
イエスは新しい世界を彼に開こうとする。神は人間の努力を見るのではなく、心の態度を見る。何よりも大切なのは、自分が与えることではなく、神の賜物をいただくこと。神を動かすのは、私たちの力ではなく、私たちの弱さであり、神の愛を受け入れる態度だ。マルコは今日の箇所の直前に、イエスと子どもたちのエピソードを記していた。私たちの弱さは神にとって大切だ。
悪霊に取りつかれたゲラサの人は「走り寄って」、重い皮膚病を患っている人は「ひざまずいて」イエスに癒やされたが、今日の箇所の人はそうではない。イエスの言葉を聞いて、その人は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」。その気持ちは癒やされなかった。大金持ちだったからだ。今日の箇所のメッセージはここにある。富には他の罪や弱さより危険なところがあるのだ。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。イエスは金持ちを憎んでいるわけではない。イエスの友には金持ちもいた。金持ちはいろいろな方法でイエスに協力した。住む家や食べ物を提供し、いっしょに旅をした。イエスの理想は貧しさでも空腹でもなく、神から愛されている者同士がきょうだいとして分かち合うこと。福音書には、レビ、ザアカイ、スザンナ、ヨハンナ、ラザロなど、そのような人たちの名前が出ている。彼らはみなイエスの言葉に従って、家に人を受け入れたり(ホスピタリティ)、貧しい人たちを助けたりした。そのような例は、例えばパウロを援助した女性リディア(使徒言行録16・14―15)をはじめ教会の歴史にも数多くある。イエスの弟子であるキリスト者は、神からいただいたものをみなと分かち合う時に幸せを感じる。それは物質的な富だけではなく、精神的な富、さまざまな神の賜物にあてはまる。
イエスが使った有名な比喩では、人と分かち合いができない金持ちは、大きな荷物を積んで砂漠を渡るらくだが狭い扉にひっかかって通れないようなものだ。らくだは大きく醜く汚くて臭く、ユダヤ人には汚れた動物だった。「針の穴を通る」。ある解釈者たちは、エルサレムの城壁にいくつもの門があり、そのうちの一つはとても狭く、「針の穴」と呼ばれていたと言うが真実はわからない。
大切なのは、イエスの厳しい言葉が弟子を行者にするためではないということ。イエスが教えようとするのは、新しい家族になる道だ。そこにはポジティブな面がある。「人間にできることではないが、神にはできる」。人間に不可能なことがなぜ可能になるか。その道を行くために大切なのは神のまなざしだ。神から見られ愛されている気づきが不可能なことを可能にする。立ち去った金持ちは自分の壁に閉じこもり、自分の行いに先行する神の愛情に気づくことができなかった。イエスの弟子は自分を失う恐れにとらわれるのではなく、自分が愛されている喜びに生きる。
今日の福音書のイエスの言葉は理解しがたい。けれども、それぞれの時代にこのような言葉を現実の生活で生きる人たちがいる。目立つのは、富を利己主義的に集めないこと、富を分かち合うこと、そして人を受け入れること。ある教父は言う、節約のためだけに断食するならただのケチだが、分かち合うために断食するならキリスト者だ、と。今日の箇所についてキリスト者同士で分かち合いをしてみたい―現代で清貧を生きるにはどうしたらいいか。
2018年
10月
08日
月
天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。(マルコ10・6)
マルコ福音書によると、受難と死と復活の場所であるエルサレムに向かう旅の途中、イエスは弟子たちと人々にさまざまなことを教える。第一に、彼自身について。イエスが何者かを理解するのに弟子たちも人々も苦労していた。第二に、イエスは、弟子としてイエスに従うとはどういうことかを教える。
主日の福音朗読では飛ばされる箇所もあり、その中にも大切なことが書いてある。しかし、主日の福音朗読箇所を続けて読むだけでも、私たちはイエスを知り、それによってイエスを愛しイエスの弟子としてイエスに従うとは具体的にどういうことかを少しずつ理解していく。その理解のための力もイエスは聖霊として注いでくださる。
先週のテーマは権力だった。今日の福音朗読のテーマは離婚とよく言われるが、そうではない。イエスに対して出されたのは離婚の問題だが、イエスが問題にするのは女性と男性の関係であり、愛だ。
「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」。カファルナウムを出たイエスは、エルサレムに近づいていく。「ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた」。離婚の問題を扱うのは、こんにちでは裁判所や弁護士だが、当時のユダヤ社会ではラビたちだった。モーセの後、律法(トーラー)による離婚についてさまざまな解釈や意見があった。しかし、離縁するのは男性の権利で、些細な理由(料理を焦がした、病気になった、ただ気に入らないなど)で離縁することが許されており、女性の苦しみの原因ともなっていた。離縁された女性の立場を示すアグナーというヘブライ語もある。追い出され、金もなく、離縁状がなければ再婚さえできないという悲惨な状況だった。
「イエスを試そうとしたのである」。ファリサイ派の人々は、離縁される女性たちを助けようとして、イエスに尋ねたわけではない。実はイエスがその時滞在していたのは、ヘロデが離婚して別の女性を妻としたのは罪だと訴えた洗礼者ヨハネがサロメの一件で殺された地方。だから、彼らは、イエスを罠に落とすために質問をしかけたのだ。
さて、イエスはどうするか。イエスは、細かい法律の問題に入らない。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。モーセは神から啓示を受けた預言者で、ユダヤ人にとってはもっとも重要な人物だった。「心が頑固」とは、神が人間について何を思っているか、神の言葉、神の意志、神の掟がわからない鈍感さのこと。だから、離婚が許されたとしても、それは神の考え方ではないのだ。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。…神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。イエスは、創世記の有名な箇所を引用する。それは今日私たちが第一朗読として読んだすばらしい箇所だ。
創世記は、旧約聖書の最初に置かれているが、書かれたのはイエスの降誕の約500年前。数千年にわたるユダヤ民族の宗教体験の真骨頂だ。「人間とは何か」「人間がこの世界に現れたのはなぜか」「なぜ男性と女性がいるのか」――どんな時代のどんな民族でも抱くこのような根本的な問題に対するユダヤ民族の解答がまとめられたのが創世記だ。科学的な記述ではないが、文学的神話的な様式で、大切なことを伝えようとする。
今日の第一朗読の箇所は、天地の創造について書かれた第二章。復活徹夜祭でも読まれる箇所だ。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」。自分を鏡に映して見ながらであるかのように、神は人間を自分と似た姿に造ったが、神は人間が孤独であることに気づく。
神が三位一体であることは旧約聖書では隠されていたが、イエスによって啓示された私たちの信仰の根本だ。神は遠いところにいる方ではなく、生きている方で、愛の動きが神の中にある。古代教父たちは、踊りを意味するペリコレーシスというギリシア語を使って、父と子と聖霊のあいだの喜びと幸せの動きを表現しようとした。
しかし、神はその自らに似たものとして人間を造ったのに、人間は何か寂しそうだ。宇宙の中にただ一人アダムがいる。神は天も星も山も川も緑も造って人間のものにしたが、人間には会話できる相手がいなかったのだ。人間は、神のように自分の中でコミュニケーションができない状態だった。
「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」。人間には、他の生き物にない神と似た力があって、ものに名前をつけることができる。しかし、ものは会話ができない。人間に合うものがいなかったのだ。
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた」。手術のために麻酔を受けると、意識がぼんやりして何もわからなくなる。手術が終わって麻酔が切れると、自分の体の周りのガラスの鎧が突然に割れる感じがする。何かあった気がするが、何があったかわからない。同じように、神が人間に何かして、人間は何かあったと感じるが、何があったかはわからない。人間を越えた神の世界に入るとき私たちは何もわからない。アダムはその体験をしたのだ。
「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。「あばら骨」と訳されているが、それは訳の一つの可能性に過ぎない。ヘブライ語の原語tselaには他にもさまざまな意味があり、半分という意味もある。だから、神はアダムが眠り込んだ時、アダムを二つに分けたとも理解できる。
「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
k『ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから』」。
目が覚めたアダムは、宇宙の中にはじめて、「彼に合う(kenegdo)」相手、自分と会話ができる相手、友にも敵にもなる相手を見い出して驚く。これが聖書が言う男と女の創造の意味であり、イエスはそれを掘り起こそうとしたのだ。
女をはじめて見たアダムは、女が他のものとちがい、土で造ったものではなくて、自分の一部だと言う。それは、聖書学者によると、最初の愛の歌であり、最初の雅歌だ。
それは過去の出来事ではない。一人の男の子が、幼い頃から近所や幼稚園や小学校でいっしょにいた女の子をある時はじめて異性として意識する。それまで身だしなみを気にかけなかったのに、ある時はじめてポケットに櫛を入れて出かける。女性の前で男性であることを意識すること――それが神の世界でアダムに起きたことなのだ。
こんにち、ジェンダーという言葉が使われる。ジェンダー論は、男性であること、女性であることが自然ではなく、文化に由来することだと主張する。赤ちゃんを男性として育てたり女性として育てることから、男性になったり女性になったりする。それはキリスト教に反対する考え方で、世界中で流行している。しかし、イエスの考え方ははっきりしている。
ただ、アダムはまだ誤解している。「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」。アダムはまだ自分が上だと思っているのだ。しかし、私たちは見過ごしてしまいがちだが、今日の箇所でイエスは女性に対する男性の優位を否定している(11、12)。ユダヤ人社会では、離縁は男の権利だったが、イエスが言うのは、男性と女性は同じものということ。人間は観音開きの扉の両側にある柱のようなもの。男性も女性も大切で、神に似ている。
今日の箇所でイエスがファリサイ派の人々に言うのは、離婚の権利があるかないかという法律的な問題ではなく、神の考えに戻るべきだということ。そこからすべてが出て来る。それは、男性と女性の関係、あるいは家族の問題だけでなく、私たちの日常生活のさまざまな問題の中心にある。たとえば教会の中で意見が違ったり性格がぶつかったり問題が起こる時、どう解決すればいいか。イエスが言うのは、家族であっても職場の人間関係であっても教会の中の問題であっても、こんにちの問題を本当に解決するためには、原点に戻るべきということ。
私たちはこの十月、パパ様の言葉に従い、教会の一致のために祈る。つまらない問題で考え方が違うからと言ってぶつかるのではなく、根本的なことを考えるべきだ。たとえば、キリスト者になろうとしたのはどういうことだったか。その最初の瞬間に戻ることが今の問題の解決になる。
2018年
9月
23日
日
イエスは、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。(マルコ9・36―37)
先週の年間第24主日に、イスラエルの果てへのイエスの旅を私たちに伝えたマルコ。これから、イエスの逆方向の旅、エルサレムへの旅を報告してくれる。それは2つの理由で特別な旅だ。第一に、その旅によってイエスは、自分の使命、自分が何のために来たかを弟子たちに理解させたい。その旅は、イエスが弟子たち、そして私たちをどれほど愛しているかを知らせる旅だ。第二に、その旅のさまざまなエピソードから、弟子たちがイエスを理解し受け入れることに苦労していることが読み取られる。その苦労は弟子たちだけではなく、私たちの苦労でもあるから、彼らが苦労したことは私たちの助けにもなる。
イエスと弟子たちの旅と言うと、私たちはふつう、イエスが12人の弟子たちに和やかに囲まれて歩いている姿を想像する。しかし、興味深いことに、マルコ10章32節によると、イエスは弟子たちに構わず一人で先を歩き、弟子たちはずっと後から文句を言いながら歩いている印象だ。今日の箇所でも、イエスは家に着いてから弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねる。イエスが一人で恐れ苦しみながら先を行き、何もわかっていない弟子たちが後からバラバラに互いに言い争いながら歩いている情景が目に浮かぶ。この箇所の記述から私たちは、受難に近づく時、そして受難の時のイエスの深い孤独と弟子たちの理解の困難を予想できる。エルサレムへの旅は重大だ。私たちも、人生の暗闇の中でキリストの後を歩いている。
マルコは受難の予告を3回それぞれ違った形で書き記しているが、それには教育的な意味がある。弟子たちはイエスの予告を理解するのに3回とも苦労するのだ。今日の箇所は、イエスからペトロが「サタン」扱いされる先週の箇所に続いて、2回目の受難の予告。弟子たちは自分たちのあいだでは話をして口論するのに、イエスに向かっては質問さえ怖れている。
「一行はカファルナウムに来た」。カファルナウムは、弟子たちがよく知っている場所だ。カファルナウムで彼らは最初に、イエスの権威と奇跡と人々の驚嘆―つまり受難と死の予告とは矛盾すること―を目撃して、イエスがメシアだと信じたのだ。「家に着いてから」。「家」とは、イエスが住む家。信者に向かって書いているマルコは、キリスト者の共同体、教会を考えている。それは、イエスが誰かをわかるために一番ふさわしい場所だ。私たちの教会共同体を考えてもいい。
「イエスは弟子たちに…お尋ねになった」。弟子たちが怖がっているのに対して、イエスはもう一度イニシアチブをとる。イエス自身は自分の道がどのような道かをはっきり知っており、疑うことはない。だから、それを知るために弟子たちに尋ねるのではなく、弟子たちの理解を気にかけて尋ねるのだ。「途中で何を議論していたのか」。ギリシア語でも、単なる会話ではなく、激しい言い合い、口論や喧嘩を意味する動詞が使われている。
「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論しあっていたからである」。信じられない事態だ。彼らの愛するイエス、友であり主であるイエスが自分の受難と死について話したのに、彼らが議論していたのは自分たちのうちでだれが偉いかだった。彼らの関心は人間的な権力であり、人よりも上であることだ。弟子たちはまだ、イエスがこれから、自分たちが想像していた神の国を権力によって開くと思っていたようだ。イエスの言葉を信じることがまだできなかったのだ。ちょうど父親が自分が死ぬ話をする時に、子どもたちが財産について議論するのと同じ事態だ。だから、弟子たちはふさわしくないことを議論したと気づいて黙る。
当時もこんにちも、ユダヤ人は上下関係に大きな関心をもつ。旧約聖書にも書いてあるが、ラビたちは、道を歩く時に誰が先に行くべきか、会堂や食卓で誰が前に座るべきかなどいつも議論していた。死後の世界にもランクがあるとラビたちは論じている。その一例がファリサイ派の人と徴税人のたとえ(ルカ18・9−14)だ。要するに、他人よりも偉いかどうかが彼らの関心だったのだ。
弟子たちのこのような状態を読むと、私たちは滑稽に感じるほどだ。しかし、少し考えると、それは私たちの状態でもある。家庭でも学校でも地域でも職場でも、収入や地位などで他人より目立ったり、賞をもらったりすることが関心の的になる。イエス自身、こうした問題に対して深い関心があり、自分のメッセージを中断するほどだ。
「イエスが座り」。それはラビが教えるときの典型的な姿勢だ。マルコはイエスの言葉を記す前に、まず教師としてのイエスの姿を描くのだ。イエスに知恵があり、これからイエスは教師として大切なことを教えると言うのだ。それは過ぎ去る言葉ではなく、真実を述べる言葉であり、神の言葉だと言いたいのだ。二千年間黙想してきた教会もこの箇所を読む時、そのことをよく理解して、第二朗読としてヤコブ書から知恵について触れている箇所を選んでいる。「12人を呼び寄せて言われた」。カファルナウムの家はきっと会堂のように大きくはなく、小さな家だっただろう。しかし、弟子たちがすぐ近くではなく遠くにいたかのように「呼び寄せて」とマルコは記す。つまり、イエスと弟子たちのあいだには精神的な距離があったのだ。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。注意すべきだが、誰もが同じ才能をもっているとかどの仕事も同じ価値がある、とイエスが言いたいわけではない。イエスは人のあいだに何の違いもない悪平等を教えたいわけではない。例えば家を建てることが服を作ることと同じというような単純なことを言いたいわけではない。イエスはさまざまな神からの召し出し、カリスマ、役割があるとよく知っているが、誰も他人よりも偉いわけではないのだ。「仕える者」。ここではディアコノスというギリシア語が使われている。この言葉は助祭をも意味する。助祭とは仕える者なのだ。
そこでイエスは、ヨハネ福音書が記す最後の晩餐の洗足式と同じように、自分にとって大切なこの教えを理解させ遺言として残すために、言葉だけではなく、一つの動作を使う。それは、弟子たちの頭だけではなく、彼らの目、彼らの想像力に働きかけるためだ。
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。ここに出てくる「子供」は、10・13に出てくる「子供たち」とは違う。その箇所に出てくるのは赤ちゃんのように幼い子供で、自分では何もできず愛情を受けるだけの存在を意味し、それが神の国に入るための条件になる。それに対して、この箇所の子供は、さまざまな雇い人の中でいちばん下で働く少年だ。現在の先進国では子供の労働は法律によって禁じられているが、かつては子供が使い走りなどの簡単な労働のために使われていた。英語で言うボーイ、日本語で言う丁稚に当たるだろう。そのような子供がイエスの周りにいたのだ。「手を取って」。ギリシア語では「強く引っ張る」という意味の動詞が使われている。イエスは少年を自分の方へ力強く引き寄せたのだ。「真ん中に立たせ」。真ん中とは師であるイエスがいる場所だ。「抱き上げて」。抱くとは一つになるということ。イエスは自分がその子供と同じだと言いたいのだ。メシアもその子供のようにいちばん下で人に仕え(ディアコノス)、自分の命を人に与えると弟子たちに教えたいのだ。
「このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れる」。イエスと同じ生き方をする人を受け入れる人はイエスを受け入れるのだ。雇い人は給料のためにするが、それもなく人に尽くす人はイエスと同じなのだ。いちばん偉くなりたい人はこの子供のようになりなさいということ。奉仕する人、他人に尽くす人こそ、イエスの教会の基準であるべきだ。
弟子たちの想像する神の国とはちがって、イエスが望む共同体は偉さが基準とならない。教会は、偉くなるための機会や名誉を提供する場所でない。自分が目立つため、人の上に立つための場所ではない。教会とは、一人ひとりが神から受けたカリスマや賜物によって人に尽くす共同体なのだ。神の目から見ると、いちばん偉い人とはみんなの召使い、僕になる人、イエスに似た人だ。今日の箇所を理解するためには、イエスの全生涯を考えに入れるべきだ。ここで示されているのはイエスが弟子たちに残した最大の教えであり、イエスの青写真だ。そのことがはっきりするのは何よりも感謝の祭儀の時だ。
今日の箇所にはこんにちにも大切な教えがある。今の私たちの社会は競争社会であり、さまざまな能力や才能、美貌や社会的地位で人の上に立つことが関心の的になる。しかし、イエスは、社会の中で見捨てられた人たちにも目を向けるように私たちに教える。イエスの弟子が受け容れるべきなのは強い人ではなく、病気や高齢、偏見や貧困のために弱い立場にいる人だ。社会で役に立たない人、もらうことしかできない人もそうだ。たとえ問題も起こす人であっても受け入れるべきだ。もちろんそのような人を甘やかすだけではなく成長させることも必要だ。そのためには理解や知識がなければならない。当時の弟子たちもこんにちの弟子である私たちも当然それを理解するのに苦労する。それを実現するのは簡単なことではない。主日の聖体を拝領する時、イエスは今日の箇所のような言葉を基準とするように私たちに言い続けている。
2018年
9月
16日
日
イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(マルコ8・27)
B年の典礼ではマルコ福音書が読まれるが、すべて読まれるわけではなく、読まれない箇所もある。先週の箇所と今日の箇所のあいだもかなりの箇所が飛ばされている。マルコが今日の箇所を書いた時に言おうとしていたことを理解するには、典礼で読まれない箇所も読んでおくのが理想的だ。
今日の箇所はマルコ8・27-35。イエスは長い旅路の途中で、自らの大切な使命を弟子たちに少しずつ伝えながら歩んでいる。聖書学者が言うには、今日の箇所はマルコ福音書の中心だ。イエスは、今日の箇所に始まって3回にわたり(8・31-33、9・33-34、10・32-40)、自らの受難(十字架)と死について弟子たちにはっきりと予告することになる。その中で今日の箇所を読むと、マルコの神学の理解に役立つ一つの特徴が浮かび上がる。3回とも、イエスが予告した後、弟子たちの反発や無理解が見られるのだ。マルコはそうした反応を伝えることによって、イエスを知る難しさと大切さを表現しようとする。今日の箇所の直前の箇所は盲人の癒しだが、盲人はイエスに一度ではなく二度触れられることで癒される。つまり、イエスがわかるのは一度にではなく少しずつなのだ。マルコの文体は教育者の文体だ。イエスを知るのは簡単なことではない。イエスが誰かを言葉で抽象的に教えるだけでは十分ではない。イエスの道の予告は、後に続く弟子たちの道に直結するからだ。
第一の予告に反応するのはペトロ。ペトロは、師であるはずのイエスをいさめようとする。第二の予告に対して弟子たちは質問できないばかりか、誰がいちばん偉いかと言い争う。第三の予告に対して、ゼベダイの子たち、ヨハネとヤコブがイエスの右と左に座りたいと言う。要するに、マルコにとって、イエスの予告はいつも弟子たちの無理解に遭遇する。彼らはわかっていると思っているが、わかっていない。彼らはイエスがメシアだと思っても、権力や名誉に関心があり、イエスの弟子であることを完全に誤解している。
今日私たちがミサで読むのは第一の予告だ。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」。フィリポ・カイサリアはイスラエルの最北に位置し、以北は異邦人の地。ヨルダン川の支流の一つの起点となる滝があり、水の豊かな土地だ。バニアスと呼ばれ、古代ギリシアのパーン神に捧げられた神殿があった。出血症の女性の出身地だったという伝説もある。とても美しい地域で、イエスの「奥の細道」とでも言えようか。現在は国立自然公園に指定されている。
「その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。一般に私たちは自分のことがわからなくなると、他人の意見を尋ねるものだ。イエスはそうではない。後のペトロとのやりとりから明らかになるように、イエスは自分のことがわからずに自分を疑って弟子たちに尋ねているのではない。イエスは却って、自らの言動がどのように理解されているかを知りたい。イエスが最初の奇跡を行ったときから、彼がめざしていることと人々の受け止め方のあいだに落差がある。だから、イエスは、自分が何者か、何のために来たかを理解してもらうために弟子たちに質問したのだ。それに対する返答は混乱そのものだ。
「弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』」「洗礼者ヨハネ」。当時、殉教者はすぐ復活するという信仰があった。「エリヤ」。エリヤは偉大な預言者だが、異邦人を力で征服した権力者の一人だ。要するに、人々は、イエスに過去の再現を見るだけで、新しさを見ない。人々はそれまでのユダヤ人の考え方をし、自分の国を勝利に導く人物を期待していた。イエスを何もわかっていないのだ。弟子たちもそうだ。
「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』」。この問いは当時の弟子たちだけではなく、どの時代の信者にとっても重い問いだ。今日イエスは私たちにも同じ問いを投げかけている。私たちにとってイエスは何者か。
「ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』」。弟子たちを代表してペトロが答える。何度も確認したことだが、ペトロとは本名ではなくあだ名で、「頑固者」「頭の固い人」という意味で、ユーモアと厳しさが込められている。ペトロはイエスに憧れていたはずだが、イエスが誰かを理解するのにイエスの復活の後まで苦労する。「あなたは、メシアです」。メシア、キリストとは油で塗られた人、資格がある人を意味する。ちなみに、マタイ福音書の並行箇所ではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるが、マルコによると、ペトロはイエスが神の子だとはまだわかっていない。この点にも、マルコの教育者的な面が現れている。
ペトロは立派な返事をしたと思っただろう。しかし、マルコが強調するように、イエスは自分の道をペトロと他の弟子たちに告げる。
「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。それは弟子たちにとって考えられないことだった。苦しみを受けること。排斥されること。それはイエスが愛情と憐れみを向ける罪人からではなく、宗教の権力者からの排斥だ。そして、殺されること。
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。 マルコはペトロに対する厳しい言葉を記す。「サタン」とは、イエスが悪霊にとりつかれた人に対して使う言葉だ。大切なのは、イエスが弟子たちを見ながら言っていること。この言葉はペトロだけではなくて弟子たち皆に対する言葉なのだ。「引き下がれ」とは「遠ざかれ」ではない。原語は「私の後に」となっている。イエスが言うのは、私の後に歩きなさい、本物の弟子になりなさいということ。だから、イエスはペトロを見捨てたり追い出すのではなく、自らの道の理解をペトロに求めているのだ。 「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロが考えていたのは自分の利益だ。ペトロは他の人よりも権力の中心につきたかったのだ。それは偶像崇拝と言える。サタン(悪魔)とは神の計画を失敗させようとする者。種蒔く人のたとえ話では、イエスが蒔く種(神の言葉)を食べてしまう鳥がサタンだ。計画を作るのはペトロではなく、ペトロは神の計画を実現するために呼ばれている。自分個人の考え方、自分の権力ではなく、神の考え方、神の権力が大切だ。
イエスの宗教はそれまでの宗教に儀式などを加えたものではない。イエスの教えには根本的な変化がある。その新しさが大切で、イエスのすべての掟はそこからわかる。それは、それまでの神のイメージを完全に覆してイエスが宣言する神のイメージだ。罪人を滅ぼす神ではなく罪人を生かす神。それが神の国が近づいたことだ。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。マルコはこの箇所ではじめて十字架という言葉を使う。イエスが言うのは、十字架につけられて死ぬという最後のことだけではない。イエスは「自分を捨て」とも言う。つまり、成功、野心、権力の夢を捨てるのだ。当時の習慣では、裁判で十字架刑に定められた犯罪者は、十字架の横木を肩に担いで、兵士に突かれて街中を歩かされ、からかわれたり唾を吐かれたりした。ラテン語でパティブルムと言われる。だから、イエスは最後の死だけではなく、死に至るまでの侮辱の過程を示唆している。犯罪者の孤独と侮蔑の経験を考えて「十字架を背負って」と言っているのだ。イエスが言うのは、イエスの後に従うとそのような可能性が出て来るということ。しかし、十字架を背負うのは決して義務ではない。「わたしの後に従いたい者」と訳されているが、原語では「わたしの後に従いたいなら」。弟子になることを神は義務づけない。人間にはそれを選ぶ自由がある。愛が無理矢理に押し付けられる義務ではないのと同じだ。イエスの後に従う人には、一部ではなくすべてをかけて試練と苦しみを選択する根本的な決断が必要だ。もっともイエスは人が弱いものだとよく知っている。だから、弟子も小さき者と呼ばれる。イエスが弟子に要求するのは、どんなことがあっても選択をやり直すこと。ペトロのように恐れや弱さのために裏切ったり罪を犯すことがあっても、毎日、試練の中でも拒否の中でも、イエスの道を選択し直すこと。イエスはそばにいて、その力を与える。
今日の箇所には、十字架の最初の予告とともに、復活の最初の予告が含まれている。それはイエスに信頼を置くことができる証拠だ。苦しみを通った後に救いがある。イエスを信頼する人は絶対に滅びない。
今日の箇所からはイエスと弟子たちの親密さも感じ取られる。すでに言ったように、舞台は水と緑の豊かな美しい地方であり、出血症の女性とイエスとの出会いも連想させる場所だ。そのような場所をわざわざ選んで、ちょうど恋人に愛を打ち明けるように、イエスは自らにとって大切なことを弟子たちに告げたいのだ。私のために舟も家族も捨て3年間私といっしょにいて、いろんなことを見ていろいろな言葉を聞いて、私の友であるあなたたちは一体私について何を考えているか。
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。今日の箇所のこの問いは、復活のイエスがペトロに投げかけた問いと同じだ。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21・15)。同じような質問を三度イエスからされた「悲しくなった」ペトロからイエスは愛情を求め、教会を委ねる。
今日、イエスは私たちにもこの問いを向けている。
2018年
9月
02日
日
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7・15)
5つの主日にわたってヨハネ福音書6章を読んだが、今日からマルコ福音書に戻る。
今日の箇所は、私たちの問いにイエスがわかりやすく答える感動的な箇所。日本の宗教との関係で注目すべきところがある。仏教や神道などの人々といっしょに読むと、イエスの特徴を理解してもらいやすい。
ファリサイ派や律法学者に対する厳しい言葉が出て来るが、それと同時に喜びを感じることもできる。イエスの宗教は、厳しい罰や地獄で脅して私たちを恐れさせ抑えつける宗教ではなく、私たちを解放し自由にし元気にする宗教だからだ。だから、今日の箇所の裏には、本当の宗教とは何かという問題がある。
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」。イエスはカファルナウムにいるが、カファルナウムはエルサレムから歩いて3日かかる田舎。それなのに、エルサレムからファリサイ派と律法学者の人たちがやって来る。これで2度目だ。ファリサイ派は一般の信徒で、宗教の決まりを熱心に守ろうとする。それには、神の言葉だけではなく、人間の「言い伝え」、つまり613あったルールも含まれる。ファリサイ派の人たちは厳格に掟を守る生活をしていて、自分たちは宗教者だと考えていた。それに対して、律法学者は神学者のような存在で、組織に属する宗教者。彼らは、たとえるなら、バチカンから特使が送られるようにイエスのところに送られたのだ。イエスの評判はエルサレムまで届いており、エルサレムの神殿の大祭司たちは、イエスが異端ではないかと懸念していた。
「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」。ローマでローマ人のために福音書を書いたマルコは注釈をつける。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず」。手を洗うとは、こんにちの母親が食事の前に子どもに注意するように、単に衛生的な行為ではなく、宗教的な清めの式だった。ユダヤ教では、清めの式が細かく定められていて、時間をかけて右手と左手に水をかけるとか、肘から先を洗うとか、間違ったら最初からやり直すとか、面倒な儀式だった。
「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」。ユダヤ人たちは市場で異邦人に接触して汚れる心配をしていた。
このような注釈を読むと、大げさな慣習に思えるが、考えてみれば、日本にも同じようなしきたりが見られる。一例を挙げると、葬式から帰宅した時に玄関先で使う清めの塩がそうだ。その裏には、死は汚れたものだという考え方がある。
今日の福音箇所の最後でイエスは二つの大切なことを言う。
1.まずイエスが言うのは、汚れたものはないということ。私たちは二元論的な考え方をする。このやり方は汚れていて、あのやり方は清いと考える。カトリック信者であっても、日曜日はミサに行くが、普通の日はそれを忘れてすごす。日曜日のミサと日常生活があって、二元論になっている。しかし、日曜日のミサと日常生活は別物ではなく、一つのものだ。神を愛することと人間を愛することとは別のことではない。
2.次にイエスが問題にするのは心だ。今日の箇所には、「思い」という言葉が出てくる。心の中の思い、考え方が大切だ。何かが汚れているとか清いではなく、心の姿勢が大切なのだ。このことはキリスト教を理解し解放された生活を送るために欠かせないことだ。一例を挙げると、パウロの手紙に出てくるが、ローマでは、神々に捧げられた肉の残りが市場で安く売られていた。キリスト者にはユダヤ人もギリシア人もいたから、大きな議論になった。神々に捧げられた肉は、汚れているから食べてはいけないとユダヤ人は主張したが、パウロが言うのは、問題は食べ物ではないということ。きょうだいにスキャンダルとならないように避けてもいいが、問題は肉が清いか汚れているかではなく、神に感謝しなかったり、人と分かち合わないのが汚れなのだ。大切なのは、神に感謝しながら生きているか、人と分かち合うかだ。それは食べ物だけではなく、すべてにあてはまることだ。こんにちでも、富を所有することがよいことかどうかが問題になる。しかし、心がどうあるかが問題なのだ。
「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」。ここで列挙されているのは、罪のリストに見える。パウロの手紙には逆のリストもある。しかし、このリストには、いくつかの特徴がある。たとえば、ここには12の名詞が挙げられているが、最初の6つは、日本語訳からはわからないが、複数形だ。つまり、何かの行為というより、態度を意味する。たとえば「盗み」の対象はポケットの中の財布だけではなく、他人の考え方や他人の名誉でもありうる。
本当の宗教は外面的な行いではない。たとえキリスト教にとってミサが大切であるとしても、ミサに行きさえすればよい信者で、毎日ミサに行けば一週間に一度行くよりもよい信者だというわけではない。大切なのは動機だ。もし他人よりもいい信者であるためにミサに行くなら、動機が間違っている。逆に一生懸命して失敗に終わったとしても、神からは受け入れられる。たとえ人から批判されたり見捨てられたとしても、よい動機で行ったなら、神はそれをご覧になるのだ。
このことは私たちにとって大きな慰めだ。私たちは皆それぞれの形で罪人であって、毎日神の赦しを願うべきところがあるが、神の言葉によって人に対する感情を整え、心の動機をまっすぐに直したい。他人を赦さないままで聖体拝領するのは神に喜ばれることではない。きょうだいを赦しきょうだいに赦しを願わない限り、どんなに立派な行いをしたとしても、イエスにとってそれは本物の宗教ではない。イエスの今日の言葉に感謝しながら、一週間の一日一日を生きたい。
2018年
8月
26日
日
2018年
8月
19日
日
2018年
8月
18日
土
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6・51)
学校の夏休みや盆休みがある8月は特別な月。教会でも信者が帰省や旅行で移動して、落ち着かない。ちょうどその時期に教会の典礼はマルコ福音書の朗読を中断し、有名なヨハネ福音書6章を私たちに示す。最後の晩餐の記述がないヨハネ福音書だが、そこで聖体が取り上げられている。じっくり読むことができなくても、その箇所に大切なことがあると意識したい。それは私たちにとって大きな恵みだ。ヨハネは、イエスは何者か、そして聖体は何かを彼なりの仕方で私たちに教えてくれているのだ。
今日の主日はその3回目だが、第6章は一つの出来事の簡潔な報告で始まった。それをヨハネは奇跡ではなく、しるしと呼ぶ。しるしはヨハネ福音書では重要な言葉。ヨハネが言いたいのは、外面的な出来事そのものが大切なのではなく、その裏に本当に大切な意味が隠されているということ。だから、心を開いて、イエスが行った事柄が指し示しているものに目を向け、イエスが何を伝えようとするかに注目することが肝心なのだ。
その出来事の後に、カファルナウムでイエスが群衆(ユダヤ人)に説明する長い箇所が続く。そこにはさまざまなテーマが出てくる。一つ一つのテーマは、ダイヤモンドのきらめきのように、互いに映し合う。あるいは、ヨハネ福音書に特異なスタイルとして、次々と打ち寄せる海の波にもたとえられる。
それだけではない。教会の典礼は2000年の経験に基づいて、もう一つの助けを今日私たちに示す。第一朗読で読まれたエリヤのエピソードは、旧約聖書で特異なテーマだ。迫害を受けて逃げるエリヤ。もっとも、ヨハネ福音書の今日の箇所に出て来るのは、迫害ではなくつぶやきだ。つぶやきとは、聖書では単なる文句ではなく、反発を意味する。そこではイエスの言葉に対するユダヤ人の反発が出て来るから、教会はこの箇所を理解するためにエリヤの迫害のエピソードを私たちに読ませるのだ。
当時、イスラエルの北の王国はアハブが王。その妻イゼベルは聖書では一番の悪女として知られる。彼女は、異邦人の国フェニキアの女性で、イスラエルの神ヤーウェではなくバアルの神を信奉し、アハブと結婚したときも、北の王国にその宗教を広げようと、何百人もの祭司を連れてきた。当然、イスラエルの預言者たち、特にエリヤとのあいだに摩擦が生じる。エリヤは殺される危険を感じて、エルサレムのずっと南に逃げるが、荒れ野でイゼベルの家来たちに追いかけられ、疲れ力を失い絶望して神への信仰も揺らぐ。どうして私はこんな目に遭うのか。私には未来がない。もう死にたい。彼は神を疑ったのだ。そして寝てしまう。旧約の他の預言者にもそんな時期があった。その時、エリヤは、パンを食べ水を飲むように天使から言われる。それは、彼の信仰が生まれたホレブの山に向かって歩き出す力になる。
だから、教会が言いたいのは、イエスによって神に出会った私たちにとって、聖体はその出会いに戻る力になるということ。聖体は信仰の根源に戻るための糧なのだ。エリヤだけではなく、他の人物もそうだ。モーセも燃える柴に出会う前に信仰の試練を体験した。だから、教会は、エリヤのエピソードが私たちにも役立つと考えたのだ。神は創造の原初だけに存在するのではなく、キリストによって私たちの旅路の糧になる。孤独や絶望や反発にあって死さえ考えるときの神の呼びかけなのだ。
カファルナウムでのイエスの説教をよく見ると気づかれるのは、イエスに対する反発はいつも一つのポイントから出てくること。ヨハネが言うユダヤ人にとって、イエスはスキャンダルだった。スキャンダルとは、つまずかせる石のことだが、ユダヤ人たちは、イエスが人間であったことに引っかかっていた。「ヨセフの息子のイエスではないか」(42節)。同じ問題はマルコ福音書にも出てくる。それは、イエスに出会わない人たちに共通する問題だ。彼らの妨げになるのは、イエスの謙虚さであり、イエスによって示された神の私たちへの親しさだ。イエスが近くなって目に見え手で触れるようになり、私たちのうちの一人になったから、彼らにとっては大きな邪魔なのだ。不信と言ってもいい。それがヨハネにとっては最大の問題だ。そのことは、ヨハネ福音書の序文でも言われている。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1・12)。イエスに具体的に出会うのは大きな恵みであるにもかかわらず、神がイエスによって私たちの友、支え、同伴者となったのは彼らにとっては妨げだった。受肉と十字架はスキャンダルなのだ。
興味深いことに、この箇所では明確に聖体について語られている。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(6・51)。この一文は、ヨハネ共同体のミサの奉献文の中心の言葉だったかもしれない。パウロ、マタイ、マルコ、ルカは、ソーマ(体)という言葉を使うが、ヨハネはサルクス(肉)という言葉を使う。ソーマは物質的で生きていないものだが、サルクスは生きていて、弱いものだ。ヨハネ福音書の序文の「言は肉となっ…た」(1・14、カイ・オ・ロゴス・サルクス・エゲネト)でも同じ言葉が使われている。ヨハネは、十字架にかけられて殺されるイエスの弱さを考えて、サルクスという言葉を使っているのだろう。
この箇所は、別の意味でも大切だ。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」。「わたしは…である」(エゴ・エイミー)は、出エジプト記3・14に基づいてヨハネがしばしば使う表現であり、イエスの荘厳な自己定義だ。「私は世の光である」(8・12)「わたしは羊の門である」(10・7)「わたしは良い羊飼いである」(10・11)「わたしは復活であり命である」(11・25)「わたしである」(18・5)。だから、聖体はただのシンボルではなく、イエス自身であり、神の啓示なのだ。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。イエスに出会うのは外面的な出会いではない。ヨハネによると、イエスに惹かれその言葉に帰依しそのパンを受け容れる男女は、キリストのようになる。パウロも言う、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。ミサで聖体を拝領するのは、私たちの生活を変える許可をイエスに与えること。それに対して、つぶやく人、反発する人は、霊を悲しませることになる(エフェソ4・30)。最後の晩餐でイエスはその体を食べ物として与える。その命、その魂、その心、そのすべてを、私たちが永遠の命を生きるために。
2018年
8月
05日
日
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。(ヨハネ6・35)
2015年の黙想を参照ください。
2018年
7月
29日
日
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。(ヨハネ6・11)
今日から5つの主日は、マルコ福音書の代わりにヨハネ福音書第6章が読まれる。第6章はヨハネ福音書でもっとも長い章であり、聖体について書かれている。今日読まれる冒頭の箇所の出来事は、他の福音書の5つの箇所に出てくるから、大切だ。第6章の残りの部分は、カファルナウムでの対話だが、その出来事についての神学的な解釈になっている。ヨハネはその大切な出来事の意味を私たちに伝えたいのだ。そこにはイエスの生涯と教会生活の意味が含まれている。だから、この第6章は、教会に与えられた大きな恵みであり、私たちは心を静かにして細部にまで注目すべきだ。感謝のうちにいただくと、信仰のすばらしさと大きな喜びが感じられる。
ヨハネは出エジプト記を念頭に置きながらこの出来事を物語る。舞台は他の福音書では湖だが、この箇所では山。場面はイスラエルの過ぎ越しに合わせて、当時の過ぎ越し祭。そして、誘惑と試み、餓えと空腹、マナとパン。旧約聖書では、イスラエルの民が食べ物を願ってマナが与えられたが、この箇所では、人々が願わなくても神から食べ物が与えられる。
フィリポとアンデレは他の箇所にあまり出てこず、目立たない弟子。二人の発言が記されているのは、弟子たちが直面している困難な事態を示すため。それは、大勢の群衆がいるのに食べ物がないという事態だ(民数記11・13参照)。それに対してイエスはどのような態度をとるか。病人の癒やしなどを見てやってきた人たちに向かってイエスと弟子たちはどのような態度をとるか。それは私たちの問題でもある。
イスラエルの民はその歴史の中でさまざまな形で飢えを体験した。金持ちでない一般の人々は一日に一度だけ食事をするのが習慣だった。聖書では飢えとは、人間の根本的な乏しさを意味する。
フィリポは言う、200デナリオンでも足りないと。それは常識的な判断だ。フィリポのその発言を記すことでヨハネが何よりも言いたいのは、人間の常識では不可能なイエス独特の解決があるということ。ヨハネはそれを奇跡ではなく、しるしと呼ぶ。ヨハネ独特の言葉遣いだ。それは、何か重大なことを指す看板のようなもので、そこに止まらずにもっと深く見なければならない。それは、イエスが誰かを知るためのしるしだ。
この出来事には、多数の人々が出てくる。男だけで5000人で、女と子どもも入れるともっと増える。それに対して人間が差し出すのは、5つのパンと2匹の魚というわずかなもの。落差は大きい。人間がキリストに捧げたわずかなものがすべての人の食べ物になるのだ。ヨハネの関心はただ不思議な物語を伝えるのではなく、イエスは誰か、最後の晩餐でイエスが残したパンのしるしは何を意味するかを明らかにすることにある。前者はキリスト論的テーマであり、後者は聖体論的テーマだ。
注目すべき細部の一つは、弟子たちは困っているのに、イエスは困っていないこと。「御自分では何をしようとしているか知っておられた」(6節)。イエスは父なる神から送られたメシアとして、自分の民の空腹を満たそうとしていたから。ヨハネが言いたいのは、イエスは、食べ物を与えて空腹を満たし、安らぎを与える方ということ。人間の問題を解決する力のある方ということだ。
それを示すために、ヨハネはさまざまな細部を使う。「草がたくさん生えていた」。それは春の季節を暗示する。過ぎ越し祭も春の祭だ。また、世のはじめを思い出させる。神は男と女を創造し祝福し「増えよ」と言った後、食べ物を与える。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記1・29)。預言書でも、食べ物は宗教的なシンボルとしてよく使われる。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」(イザヤ25・6)。ヨハネはメシアが来たことを、そしてそれとともに喜びに満たされる新しい時代が来たことをそのような細部で言うのだ。その救いは人間の努力で得られるものではなく、ただで上から与えられる。そして、マナのように、その日の分だけ与えられるのではなく、残るほど豊かに与えられるのだ。また、貧しい人たちも金持ちのように横になった(日本語訳では「座った」)。横になって食べると召使いが必要だが、みなが金持ちのように豊かになったのだ。
さらに、ヨハネはさまざまな細部によって、イエスが誰かだけではなく、イエスが最後に残したパンのしるしが何を意味するかを教えようとする。ヨハネはミサのときの言葉を使いながら物語る。たとえば「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから」。それはユダヤ人にとって普通の動作だったが、最後の晩餐のときのイエスの典型的な動作だ。ヨハネは「分け与える」という言葉も使う。ヨハネは彼の共同体に向かって、聖体を配るときに、それはキリストが行った動作であることを教えるためにそのような細部を記すのだ。
聖体について深く理解させるために今日の典礼は預言者エリシャの物語を第一朗読として選んだ。二つのパンで100人の人たちが満足する話だ。しかし、イエスの場合は100人どころか5000人以上が満足する。
ヨハネが私たちに教えようとしているのは、「残ったパンの屑」、つまり割かれたパン(ラテン語のフラクチオ)がキリストの受難と死を意味すること。「残ったパンの屑」でいっぱいになった12の籠とはイスラエルの12部族と12使徒のこと。そのパンは、自分のためだけではなく、すべての人のために与えられている。だから、ヨハネは、最後の晩餐で割かれたパンは、十字架上で傷を受けたキリストの体であり、受け入れる人を満たす本当のパンであること、そのパンを食べる人は神の食べ物を受け入れることを教えたいのだ。そして、そのパンを割くとき、私たちは私たちの命を神と兄弟に捧げる。聖体は、愛をただ受けるだけではなく、受けた愛に応えることも含まれている。神を愛するだけではなく兄弟を愛さなければ聖体はありえない。
最後に、福音書記者ヨハネが何度も書いているように、イエスがしるしを示したにもかかわらず、人々はなかなか信じることができない。今日の箇所では、イエスを王にするために連れて行こうとする。後の箇所では、多くの弟子がイエスから離れる。それを聖書学者はガリラヤの危機と呼ぶ。人々はーイエスを王にしようとした。つまり、彼らは未熟な赤ちゃんのように、食べ物を与えるイエスに依存しようとした。けれども、イエスの神は、人間が未熟な状態にとどまらず成熟した大人として、神を選び神を愛することを求める。神は私たちをパートナーとして望むのだ。世界のすべての生き物と同じように蟻も神を賛美する。けれども、神は人間に対してはそのような賛美では満足しない。多くの詩篇にあるように、造られたものが生きているだけで神を賛美しているのと同じような仕方だけで人間が神を賛美することを神は望まない。人間は神を選ぶことも拒むこともできるからこそ、神は人間の愛を求めるのだ。
だから、今日の箇所でイエスは一人で山に逃げる。人々がイエスを追いかけたのはまだ不完全な仕方でだった。イエスが誰かを知ってではなく、ただの利益のために追いかけたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にもある。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)。それに対して「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。それは私たちにとって大きな賭けだ。
2018年
7月
22日
日
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6・34)
今日、福音書記者マルコは、やさしさあふれるイエスの言葉を伝える。宣教から帰ってきた12人の弟子は、成功を得意に思うと同時に疲れているはず。群衆がいない人里離れた所でしばらく時間を過ごすようにイエスは彼らを誘う。それはイエスと弟子たちとの親密なひとときであり、神とともに休む安息日だ。夏の休暇に入った人たちは自分に引き寄せてこの箇所を読むことだろう。この箇所はよく、忙しさの中で静かな時間をもったり、煩わしい活動から離れて休みをとる勧めとして理解される。もちろん、そのようなことも役に立つ。
けれども、今日の典礼は、この箇所をもう少し深く理解するように私たちに勧める。この箇所を読む前に、それと関連する第一朗読として、ユダヤ人の牧者についてのエレミヤの言葉を教会は選んだのだ。だから、この二つの朗読は合わせてイエスについて表現しているものとして読むべきだ。
牧者についてのエレミヤの言葉はきわめて厳しい。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」。この箇所と結びつけて読むと、マルコが伝えた出来事は特別な意味をもつ。
第一朗読の箇所がとりあげるのは、聖書によく出てくる、牧者と群れの関係。現代日本の私たちには馴染みのない生活だから見逃してしまうところがあるが、ユダヤ人には親しまれよく理解される話だ。
羊は他の動物と違って、羊飼いがいないと生きることができない動物。危険から自分を守る手段をもたず、狼が現れると逃げるしかできない。視力が弱いから、崖から落ちたり迷子になる危険がある。そのために互いに身を寄せ集団で生活する。だから、人間はよく羊にたとえられる。今日の第一朗読もそうだ。羊は、根本的に弱い人間、神に導かれるのでなければ生きることができない人間のシンボルだ。人間は最終的に神なしに生きることができない。人間の最大の間違いは、その状態に気づかないこと。そして、自分が神だと思ってしまったり、自分の力に信頼しすぎたりして、さまざまな災いや危険が生じる。逆に、自分の限界に気づき神が必要だとわかるのは人間の成長のしるしだ。自分の力だけ、自分の価値だけに信頼する人間は必ず滅びる。人間は根本的にケアを必要とする。愛情を注がれなければ生きていけない存在だ。だから、やさしくしてもらったり、慰めてもらったり、話を聞いてもらったり、導いてもらったり、治してもらったり、教えてもらわないと生きられない存在だ。しかし何よりも赦してもらわないといけない。どんな人も、赦しのあわれみを受けずに生きることができないし、それなしには、家族関係であれ友人関係であれ人間関係はありえない。子供も愛情を受けなければ、成長できない。私たちはしばしばそのような根本的な弱さを隠そうとするが、それが人間の根源状態だ。だから、人間は羊にたとえられるのだ。
第二に、もう一つのテーマが今日の箇所に含まれている。マルコが伝えるように、神であるイエスが教えるところでは、人間は羊であるだけではなく、羊飼いでもある。人間らしく生きるには、他人に迷惑をかけないだけでは十分ではない。人間は他人を世話する必要がある。人間は、他者に対して司牧的な役割を果たすように造られている。それが人間の根本的な召し出しだ。 イエスの弟子は特にその召し出しを受けている。だから、イエスは、宣教から帰ってきて食事もできず疲れている弟子たちに、自分といっしょに休むように言うと同時に、大切なことを教えようとするのだ。弟子たちは人が癒やされ悪霊を追い出されたことで得意になっていたが、イエスは彼らにあわれみを教える。イエスが彼らに教えようとするのは、休まずに活動するという非人間的なことに見えるが、そうではない。イエスにとって一番大切なのは活動ではなく、他者に対して憐れみの心をもつこと。だから、今日の福音箇所でイエスが伝えるのは、ただの道徳や癒やしの活動ではなく、他者に対する心を整える必要があること。心の中にある思いだけが弟子たちの活動に意味を与える。 冒頭に「使徒たちはイエスのところに集まって来て」とあるが、「集まる」の原語としてはシュナゴンタイという動詞が使われている。名詞のシナゴーグはユダヤ人の会堂を意味する。つまり、弟子たちが集まったのは、いいことをしたから神に受け入れられるというようなユダヤ人的な考え方をしているからだ。それに対して、イエスは内面的な態度を示す。弟子たちも食事の暇がないほど活動はしていたが、イエスの特徴はあわれみを抱くことにある。休息や食事を忘れるのは、愛する人の特徴だ。恋人、友人、父母やきょうだいの特徴だ。大切なのは行いではなく、心だ。
今日の箇所でイエスは、牧者のいない羊を見るように人々を見て、休みを返上する。続く箇所、パンを増やす箇所でイエスが弟子たちに伝えるのは、大切なのはよい活動をすることではなく、たとえ小さなことでも神に捧げることによって奇跡的な活動になるということだ。だから、教会にとって今日の箇所は、休暇を勧めることで次の箇所へただつなげるだけではなく、大切なことを示すことで深くつながっている。
2018年
7月
15日
日
イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。(マルコ6・7)
先週の福音箇所で、ナザレに戻ったイエス。しかし人々が信じないために奇跡を行うことができず、彼自身驚く。それ以降、マルコ福音書では、イエスは一度も会堂に行っていない。奇妙なことに、宗教の場所は神の霊を受け入れるのがもっとも難しい場所で、行っても無駄だと考えたのだろう。そしてイエスは、周りの村々で宣教を始める。宗教の中心ではなく、見捨てられた貧しい人たちのところに行くのだ。
今日の箇所でイエスは、そのために選んだ弟子たちを集める。そこには大切な言葉がある。「イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた」。「呼び寄せる」「遣わす」という二つの動詞が大切だ。そして、実は、ギリシア語では「遣わすことを始める」とある。つまり、派遣は一度だけの出来事ではなく、それ以降ずっとこんにちまで続く出来事であり、それがその時始まったのだ。だから、今日の箇所は教会にとってキリストによる派遣が始まる決定的な瞬間だ。その大切な原点に今日、教会は私たちを連れ戻す。
その大切さがよくわかるように、教会の典礼は、まったく違った時代に書かれた別のページを紹介する。第一朗読のアモス書はすばらしい本だが、紀元前8世紀に書かれた。ということは、第一朗読と福音朗読のあいだには900年の年月がある。それなのに、なぜこの箇所が選ばれたか。イスラエルには古くからさまざまな預言者がいて、預言者の集団もあった。けれども、最初に自分の言葉を書き残したのがアモス。イザヤをはじめ有名な預言者はずっと後に出て来る。
アモスの時代、イスラエルは北と南の二つの王国に分けられていた。北の王国の中心はベテルという町。現在のエルサレムからは2、30キロだ。ベテルには神殿があって、神殿の中には金の雄牛が祭られ、そのために特別な祭司が任命されていた。その町にアモスが行き、腐敗や不正、性的逸脱を厳しく批判する。それに対し、大祭司アマツヤは王ヤブロアムに味方してアモスを追い出そうとする。自分の国に帰れと。アモスは反論して言う、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」。私はその集団に属しているから活動しているのではない。私は自分の国で仕事があり、食べていくことができたから、お金のために預言しているのではない。私には大きな出来事があった。神の声が聞こえたのだ。―この点が重要だ。つまり、預言者アモスが活動するのは、神の声を聞いたから、神に呼ばれたからだ。教会はそこに今日の箇所との共通性を見出す。最初の預言者アモスと、イエスが12人の使徒たちを集めて彼らに指示を与えたことには共通するものがある。どちらも、教会にとって大切な原点だ。神からの呼び出し、神の経験がなければ、派遣もないのだ。イエスはすでに山に登ったときに、12人の弟子を使徒として任命していた。そして、今日の箇所で、彼らを遣わすことを始める。それはこの箇所で終わることではなくて、イエスから呼ばれて送られる宣教はキリスト者の道でもあるのだ。
「二人ずつ組にして」。「二人」は、最小の共同体で、共同体の始まりだ。イエスの考えでは、宣教はいつも共同体にかかわること。一人ではなく二人で出かけることによって、互いに信頼し合い、助け合い、苦労を分かち合い、相談し合うことができる。宣教は教会の事柄なのだ。
「汚れた霊に対する権能を授け」。「権能」と言っても、悪霊を追い出すためのものだから、人より上に立つとか人を抑圧するということではない。だから、「権能」とは、権力ではなく、役割を意味する。弟子たちもそれを理解するのに苦労していた。
「汚れた霊」。霊には、神からの霊と、神に反する霊の二つがある。使徒たちは神に反する霊を追い出すために送られたのだ。
「命じられた」。この言葉をマルコはこの箇所だけで使っているようだ。使徒たちはひょっとするとイエスの指示に反発していたかもしれない。
「旅には杖一本のほか、何ももたず、パンも、袋も、また帯の中に金ももたず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」」。派遣については、マタイ福音書にもルカ福音書にも記述があるが、マルコの記述はもっとも古い。もしかしたら、この言葉はイエスが使った言葉そのままかもしれない。
不思議なことにマルコは宣教の内容を記していない。神の国を述べ伝えるために行きなさいとイエスが言ったとは書いていない。マルコが強調するのは、何をしに送られたか、どんなメッセージを預かったかより、出かけるときのあり方だ。マルコはメッセージの内容より、メッセージを伝える人のあり方を伝える。内容と内容の伝え方は関連する。話し方、生き方がメッセージの妨げになってはいけない。遣わされる人たちは人に自由を与えるだけではなく、自ら自由でなければならない。圧迫されておらず、重荷を負っていないのでなければならない。要するに、間違った宗教、イデオロギーから解放されたあり方だ。神の国の知らせを受ける妨げになるものから人を解放するためには、自ら解放されていなければならないのだ。宣教の特徴は素朴さ、シンプルさだ。大げさなことではなく、神と人との直接の関係なのだ。
「足の裏の埃を払い落としなさい」。ユダヤ人には、異邦人の家から帰る時に足の埃を払う習慣があった。しかし、ここは逆だ。イエスにとって問題なのは、ユダヤ人に対する異邦人ではなく、神の御心を行わない人だ。そこに、汚れがある。イエスは自分の家族が来たとき、彼の家族は血縁関係ではなく、神の御心を行う人だとはっきり言った(4・35)。
今日の第一朗読と福音朗読は宣教の始まりだ。この二つの箇所は、2000年前、あるいは3000年前の物語ではない。教会にとってこんにちの私たちにもあてはまることだ。第二朗読でパウロはすばらしい言葉で神と出会う7つの段階について語っているが、そのように神と出会った私たちも宣教の担い手になると教会は言いたいのだ。私たちは世が始まる前から選ばれ、いろいろな恵みをいただき、キリストに出会い、キリストの復活を知って、キリストから送られるのだ。私たちのその物語は最初の派遣の続きだ。
最後に、派遣と宣教は信仰の尺度だ。いただいた神の言葉を人に伝えたい心があるかどうかが、信仰があるかどうかを測るものさしになる。宣教は義務ではなく、心の要求だ。自分が経験したことを人に伝える要求がないなら、本当の信仰をもっていないことになる。
2018年
7月
08日
日
「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。(マルコ6・3)
労働者イエスを描いた現代の作品は、こちらのサイトにあります。右欄のPagina1から10をクリックすると、それぞれのページにいくつかの絵画があります。
2018年
7月
01日
日
2018年
6月
24日
日
2018年
6月
17日
日
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。(マルコ4・26―29)
神の言葉を信じて一生懸命やっても結果が見えてこない時、権力や人間的な知恵を使う誘惑を感じる。そんな私たちに向かってイエスが今日の福音で言うのは、神の国は目立たない形ですでにあるということ。そして、その力は人間の技術、人間の論理、人間の賢さによらない。神の国は、自動的(今日の福音書のキーワードautomate)に実をつける。
だから、大切なのは、いい種、つまり神の言葉を蒔いたなら、必ずそれは実ると信じること。子供の教育や宣教をする時に私たちは「こんなことをして何になるか」「何も実りがない」と言うが、結果を判断するのは私たちの役目ではない。私たちの役目は忠実であること―イエスその方に、イエスの道に。
*2015年の黙想を再掲載。
2018年
6月
10日
日
2018年
6月
03日
日
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マルコ14・22-24)
2018年
5月
27日
日
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ38・19-20)
教会の典礼暦によると、キリストの復活・昇天、聖霊降臨を祝う復活節が終わって、イエスの行いを黙想する年間に入るところだ。ところが、復活節直後には二つの特別な祭日がある。三位一体の主日と聖体の祭日だ。この二つの祭日はもともとは信者から始まり、ヨーロッパでは町中の行列などの催しによって盛大に祝われてきた。そのために、第二バチカン公会議の典礼改革の際にも残され、またABC年のそれぞれに違った朗読箇所が選ばれた。だから、今年の箇所だけではなく、3年分の箇所を合わせ読めば、祭日の意味をよく理解することができ、三位一体は一年に一回だけ思い出されるべき事柄ではなく、私たちの信仰の根本であることがわかる。そのことは聖体の祭日も同じだ。
三位一体と言うと、難しい印象があるが、よく考えると、赤ちゃんでもわかることだ。三位一体という言葉は2世紀ごろ神学者が使ったもので、聖書には出て来ないが、三位一体という事柄そのものは新約聖書に書かれており、旧約聖書にも萌芽的に含まれている。水を指す言葉と水そのものが違うように、教義としての三位一体と私たちを生かしている三位一体は違うのだ。三位一体を私たちにもっとも知らせたのがイエスだ。イエスは自身神の子でありながら、三位一体が何であるかを理解させるためにわざわざ私たちのところに来た。それは教師として教科書に書いてあることを教えるということではなく、十字架上で死ぬほど命がけで、神がどういう方であるかを私たちに伝えようとしたのだ。だから、三位一体は大切なことだ。
今日の福音朗読箇所はマタイ福音書の最後の箇所。短い箇所だが、いくつかの点について黙想したい。
「十一人の弟子たち」。11人とは衝撃的だ。ふつう福音書には、イエスの弟子は12人とあるが、この箇所はユダがいなくなった後のことなのだ。(ユダはただ弱くて裏切ったわけでない。ユダはイエスの教えを三年間聞いて、納得できず、信じられなかった。イエスを異端者、危険人物と考え、祭司長たちに任そうとしたのだ。)マタイが言う「十一人の弟子たち」とは、一人がイエスから離れていなくなり、信仰の面で欠落がある教会共同体のこと(それはずっと後の時代の私たちのことでもある)。同じことは少し後にも言われる。
「しかし、疑う者もいた」。不思議なことだが、弟子たちは50日間、生きているイエスを経験し、イエスといっしょに食事をし、イエスの傷に手を入れても、信じない人がまだいたのだ。私たち一人一人にそのようなところがある。公教要理を習っても聖書を読んでも説教を何回も聞いても、イエスをまだ十分に知らず、まだ信仰者になりきっていないのだ。だから、今日の福音は昔の話ではなく、私たちについての福音だ。
「ガリラヤに行き」。なぜガリラヤか。イエスが十字架につけられたのも、復活したイエスが婦人たちに現れたのもエルサレムだった。しかし、イエスは婦人たちに「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」と言った。ガリラヤとは最初の時だ。イエスが今日私たちに言うのは、最初の出会いに戻りなさいということ。あなたの生活にはいろいろなことがあった、いいことも弱さも罪もあったが、私に会った最初の頃に戻りなさいということなのだ。
「イエスは、近寄って来て言われた」。これからイエスが言うこと、神が父であり子であり聖霊であることー三位一体は、人間がその知恵と努力を振り絞って神について考えたことではなく、神自身がイエスによって私たちのそばにまで来て(「近寄って来て」)教えたことなのだ。このことが大切だ。三位一体は理屈ではない、哲学ではない、ただの教義ではない。三位一体はイエスが命をかけて私たちに伝えようとしたことなのだ。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」。この言葉は派遣を意味する。死んで復活したイエスは、罪だらけの弱い教会を派遣するのだ。ペトロをはじめ弟子たちは、イエスが死んだ後、自分の弱さを知って、怖れおびえていた。それは私たちの状態だ。信仰はあっても、弱さのため恐れ疑うことがある。しかし、そんな弱い教会なのに、イエスは大切な知らせを世界に届けるために派遣する。それがこの言葉だ。この言葉は、新約聖書で三位一体についてもっともはっきり言われる大切な言葉だ。
「洗礼」。洗礼と言うと、私たちは自分が信者になった時に教会で司祭が頭に水を注いだ洗礼式を思い出すが、しかし当時教会にそういった式はまだなかった。典礼は200年のあいだに少しずつ形ができてきた。最初期の洗礼ももちろん洗礼者ヨハネの洗礼とはちがっていて、イエスの名によって洗礼を授けたにちがいない。ここで注意すべきなのは、洗礼は式だけではないこと。洗礼は、恵みと力に溢れる経験だ。水の中に沈んで浮かび上がるように、三位一体の神の愛の中に死んで復活するという経験だ。私たちは、魚が水の中にいるように、三位一体のうちに生かされるのだ。そして、教会が世界に送られた目的は出会ったイエスによって罪を赦されるなど体験したことを伝えるためであって、教義を教えるためではない。その体験は人生を根本から変えるもので、言葉で言い表すことができない。おびえていた弱い弟子たちも、どんどん力が出てきて、殉教者になったほどだ。
「父と子と聖霊の名によって」。2世紀のローマ教父テルトゥリアヌスは、朝起きた時、食事をする時、仕事や勉強を始める時、寝る時、「父と子と聖霊の名によって」十字を切るのがキリスト者のしるしと言った。十字を切ることを大切にして、子どもにも教えるべきだ。十字を切ることで私たちは、大切なことを思い出す。大切なことが生活の力になるように私たちは十字を切るのだ。それを深めることで私たちはいい信者になる。
「父」。神が父であることはイエスが教えたことで、それまで誰も知らなかったこと。また誰もアッバという赤ちゃん言葉を神に向かって使う資格がなかった。私たちはみな造られたもので、神の子ではないから。しかし、イエスが私たちに教えたのは、私たちは造られただけでなく、神のまことの子であるキリストと信仰によって一つになって、神の子になることができること。それは深い神秘だ。ヨハネ福音書によると、イエスは弟子たちに現れた時、弟子たちに息を吹きかけた(20・22)。それは彼が十字架上で死んだ時、吐いた最後の息であり、神の命だ。弟子たちは神の命そのものを吹き込まれたのだ。だから、私たちは神の子になることができる。
「子」。子とはイエスのこと。神自身が人間となって世に来て、難しい言葉や教義ではなく、赤ちゃんが使う言葉(「アッバ」)さえ使って父なる神との関係を私たちに教えようとした。
「聖霊」。父と子が愛し合う愛が聖霊だ。春一番の風が吹く時、冬のあいだ死んでいるように見えた自然が甦り、花が咲き、緑が生い茂り、川は流れる。それと同じように、私たちは聖霊によって生かされて、愛や喜びや平和といった実を結ぶ(ガラテヤ5)のだ。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これはマタイ福音書の中心的なメッセージだ。マタイ福音書はその最初(1・23)と最後で、インマニエル、ともにいる神によってはさまれている。
イエスが私たちに教えたのは、神の中に交わりがあること。私たちの神は遠いところにひとりぼっちでいる神ではない。私たちの神は一神教の神であるだけでなく三位一体の神なのだ。いろいろな国のいろいろな民族が一神教を信じるが、神は遠いところにいると考えている。そして、神について自分勝手な考えを抱く。ところが、神自身がイエスによって人間となって、自身がどのような神でありどのような心をもっているかを私たちに教えに来たのだ。それを今日私たちは祝う。それはたいへんなことだ。大切にして、時間をかけて祈り観想すべきだ。三位一体を頭ではなく、心で知り、たとえおびえながらの信仰であったとしても、イエスの前に、三位一体の前にひれ伏して拝み、その喜びを味わうようにしたい。
三位一体は、世界にあるすべてのよいものが湧き出る泉なのだから。
2018年
5月
20日
日
2018年
5月
13日
日
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16・15-20)
2018年
5月
06日
日
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15・12―15)
2015年の黙想を参照ください。
2018年
5月
02日
水
2018年
4月
22日
日
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10・11)
復活節は、イエスの復活から昇天を経て聖霊降臨までの50日間。昇天によってイエスは私たちの前から姿を消し、聖霊降臨によって教会の時代が始まる。それを知っている教会は、この大切な期間のあいだ、よく選ばれた聖書の言葉をはじめいろいろな形で、イエスを知るように私たちを導く。
復活節の50日間、典礼では詩編以外の旧約聖書は読まれない。今や預言の時代は終わり、実現の時代だから。キリストは世に来て死んで復活したのだ。だから、復活節には新約聖書だけが読まれる。復活節のもう一つの特徴はヨハネ福音書。古代教会では、復活節には特にヨハネ福音書が大切にされ連続的に読まれた。復活節の特徴は他にもある。たとえば第2主日、神のいつくしみの主日には毎年必ず聖トマスの物語が読まれる。そして、第4主日の今日は「よい牧者の主日」と呼ばれ、ABCの典礼年ごとに違った箇所ではあるが、どの年もヨハネ福音書10章から読まれる。
復活節の50日間を生きる時に大切なのは、復活節の目的を忘れないこと。その目的とは、ミサの式文やイエスの一つ一つの教えではなく、イエス自身を知ること、それだけだ。復活したイエスは私たちにとってどういう方なのか―それを知るために私たちに与えられた恵みの期間が復活節なのだ。だから、復活節は本当は他のことを忘れてそれに集中すればいい。ミサの中に与えられる聖書の言葉は、復活のイエスに出会った弟子たちの物語だ。彼らはそれぞれの形で、一つの大切なことを私たちに教えようとしている。イエスとは何者か。イエスがキリストであるとは何を意味するか。それによって私たちの生活はどう変わるべきか。復活節の50日間によって、一年間の残りの期間は照らされることができる。だから、私たちの目の前に燃えているともし火(イエス・キリスト)をともすことが大切だ。今日のミサではその恵みを願いたい。与えられた恵みによってイエス自身を私たちが知ることができるように。
「よい牧者」はキリスト者によく親しまれた言葉だ。この言葉は、修道会や教会の名称として、あるいは何かの善意の活動の名称としても使われる。けれども、イエス自身は「よい牧者」というより「美しい牧者」だ。「よい」という言葉の原語もギリシア語では「美しい」という意味。それは、観想的な言葉であり、愛する時の言葉だ。もちろんその言葉の中には、行いが道徳的に善いというようなニュアンスもあるが、その土台には観想的なところがある。私たちは復活したイエスの前にいて、その美しさを楽しみ、その光を浴びるのだ。それがヨハネの言う「よい牧者」だ。ただの道徳的善ではなく、心から出るもっと深い霊的な美しさ、それがイエスの美しさだ。
ヨハネ福音書は4つの福音書の中では一番最後に書かれた福音書。紀元80年頃、ヨハネとその周りに集められた教会はイエスを黙想していた。ヨハネ福音書はその黙想の産物だ。ヨハネ福音書は他の福音書と違って、エピソードよりもいくつかの言葉を大切にする。命とか水とか愛とか、それらの言葉はダイヤモンドのようだ。ダイヤモンドをいくつも集めると、ダイヤモンドとダイヤモンドのあいだのきらめきが大きくなる。それがヨハネ福音書だ。すばらしい言葉がたくさん出て来るから、一つ一つを分析し、そしてそれをいっしょにして眺めてみたい気にさせるのだ。
今日のダイヤモンドは「羊飼い」という言葉だ。ヨハネ福音書10章では羊飼いについてさまざまなことが言われる。その一つは、以前の教会堂の時から私たちの聖堂の扉の上に掛けてある言葉だ。「わたしは門である」。大切な言葉だから、通る時は見ておきたい。「わたしは…である」というのはヨハネ福音書独特の啓示だ。ヤーウェの神は自分の神を言わず、やることを言う。ヨハネが言いたいのは、キリストが神だということ。
そして、B年の今年はヨハネ福音書10章の2番目の箇所が読まれる。いくつかの点について黙想したい。
ルカ福音書の「見失った羊」のたとえはイエスのやさしさを感じさせる。私たちがいなくなったら、イエスは探し回って、私たちを見つけ、私たちを抱き上げる。イエスは私たちの罪を赦すのだ。しかし、今日私たちが読むヨハネの箇所は違う。今日の箇所にも羊が出て来るが、ヨハネが示したいのは、やさしい羊飼いというより、命を捨てる勇敢な羊飼いだ。もちろんやさしさもあるが、命がけで敵と戦う羊飼いだ。羊の敵とは狼。狼は獰猛だ。羊を襲う時には、一頭だけではなく何頭も殺す恐ろしい動物だ。今日ヨハネは、イエスが羊飼い、しかも雇い人ではなく本物の羊飼いだと言う。だから、今日のテーマは、雇い人と羊飼いの違いだ。
ヨハネによると、羊飼いとは羊を愛する者であり、それに対して雇い人は羊を愛さない者だ。私たちが仕事をする時多くの場合そうだが、雇い人はその仕事を愛するよりも、その仕事でもらえるお金を愛する。当時もこんにちも、人を雇う時には仕事の内容の取り決めがあり、それ以上のことをしないのが雇い人だ。だから、雇い人は狼が襲う時に命を捨てることをしない。羊を守るためにはじめは何かしたとしても、手に負えないなら自分の命を守るために逃げる。ヨハネが言うには、ユダヤ人はそういう雇い人だが、イエスはそうではない。イエスは私たちを救うために自分の命を捨てる方だ。イエスは私たちが自分よりも大切だと思っている方なのだ。聖木曜日、私たちはイエス自身から同じことを聞いた。イエスは弟子たちの足を洗った時、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言った。ペトロは理解せず驚いていたが、足を洗うとは、イエスにとって私たちが自分よりも大切だというしるしなのだ。神学者パウロもその手紙で、イエスは自分が神であることを捨てるほど、私たちを愛してくださった神だと言う(フィリピ2・6、7)。イエスにとって私たちは自分よりも大切なのだ。だから、彼にとっては私たちに自分を捧げるために死ぬのが当然のことなのだ。今日イエスが言うのは、私が死んだのは敵が強かったからではなくて、私は自由に死んだ、あなたたちを愛しているために死んだということ。だから私たちは救われたのだ。
イエスはどうしてそれほどの愛で私たちを愛することができたか。それについて今日の箇所に大切なヒントがある。イエスは父なる神から愛されているから。イエスは、父なる神から愛されているその体験から、私たちを自由に愛することができるのだ。このことは、イエスを理解するために、そして私たちが互いにどうすべきかを理解するためにとても大切なことだ。なぜか。私たちは、父なる神から、キリストから愛されているという自覚がないと、人を赦すことができない。人を愛することができない。自分の子どもを殺した人や自分の人生を滅茶苦茶にした人を赦し愛するのは人間にはできないことだから。もしそれができるなら、振り返って、自分がどれだけ父なる神から、キリストから愛されていることを知っているからだ。人を赦す力はその自覚からだけ得ることができる。イエスが父なる神の前で神の実子として永遠に生きていると同じように私たちも同じ愛で満たされているという自覚から、私たちは新しく創造され、新しい人間になり、憎しみと罪を超えることができる。さまざまな困難、苦しみや病気や死を超えることはその自覚がなければできるはずはない。これはとても大切なことだ。どんなことがあったとしても、たとえ父母から見捨てられ友人から裏切られたとしても、イエスから絶対に愛されていること、イエスが私から絶対に離れないことを自覚するなら、立ち直ることができる。
イエスは私たちのために命を捨てた。そして、50日間の終わる時、イエスは自分の属する永遠なる神の世界に戻る。その時も、十字架にかけられた時に私たちのために血を流したその手と足の傷口はしるしとして残る。私たちはそこから生きる力を得る。今日私たちはヨハネの言葉に導かれ、この美しいイエスの前に連れて来られた。その言葉が私たちの心の中に種のように入り、災いの時、苦しみの時、人に触れる時、さまざまな生活の問題の中で力をいただくことができるようにイエスの恵みを願いたい。
2018年
4月
15日
日
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。(ルカ24・39)
今日の箇所は、復活したイエスがエマオで弟子たちに現れた箇所の続き。エマオは宿が一軒だけあるような小さな村で、エルサレムから10数キロ離れていたようだが、正確にどこにあったか専門家にもよくわからないようだ。それにもかかわらず、私たちキリスト者、そしてキリスト者以外の人もエマオへの旅を知っている。それは失意の経験だ。病気、災い、友人の死、裏切りなど、生きる喜びを失わせる苦い経験だ。
エマオでイエスが二人の弟子に現れたことを先行する箇所で細かく記したルカは今日の箇所で、二人の弟子が喜び勇んでエルサレムに駆けつけたことを書く。エマオでの出来事は夕方だから、もう夜だが、それは、イエスが復活したその日の夜だ。エルサレムに戻ると、他の弟子たちから知らせがあり、二人もエマオの出来事を報告し、大騒ぎになる。まさにその時、突然イエス自身が現れる。「あなたがたに平和があるように」。イエスがここにいる。きっと顔に笑みを浮かべ、手を広げていただろう。
言葉で言い表せない一日だったにちがいない。朝早く、婦人たちの衝撃的な経験で始まった。天使がいて、イエスの復活を告げる。その話を聞いても、弟子たちは真に受けなかった。その一日の終わりの出来事が今日の箇所だ。不思議なことに、イエスが復活した一日ははじめと終わりで疑いに挟まれている。今日の箇所には、「恐れおののき」「うろたえ」「疑い」について書かれている(36−38)。ルカは、弟子たちのその反応に一つの説明を加える―「喜びのあまりまだ信じられず」(41)―が、それは説明にならない説明だ。
もう一つの言葉はヒントになる。「亡霊を見ているのだと思った」。イエス自身も「亡霊」という言葉を使う。福音書記者ヨハネは復活したイエスに会った喜びを強調する(20・20)が、ルカは「亡霊」のことを書く。それは、大切なことを私たちに伝えたいからだ。ルカが言いたいのは、イエスの復活が亡くなった人の実体のない思い出ではなく、完全に新しいことだということ。イエスは死ななかったかのように以前の命に戻ったのではなく、新しい命を生きている。神学者パウロも苦労しながら「霊の体」について書く(1コリ15・35−)。イエスの体は雲を掴むようなものではなく、何かリアルなもの。弟子たちはそれを表現するのに苦労したが、ルカはこの箇所だけではなくその福音書全体で、さまざまなイメージを用いてイエスの新しい現実性を表現しようとする。たとえば「恐れおののき」は、イザヤ6章で、主なる神を見たイザヤが自分の汚れを感じたことを思い出させる。復活の経験も、それを理解するために、心を清め命を委ねなければならないのだ。お告げの時のマリアも、御変容の時の弟子たちもそうだ。
また、この箇所には、手や足を見せるとか食べるといった親しさも表現されている。ルカはギリシア人のためにギリシア語で書いているが、ギリシア文学には、死んだ人の亡霊が現れるという話がよくある。たとえばホメロス『オデュッセイア』。死者の国に行き着いたオデュッセウスに母親が現れるが、抱こうとしても空気のように消えてしまう。『アエネーイス』でも、アエネーアースが死者の国で父親を3度抱こうとしても、その度に父親は消えてしまう。しかし、復活したイエスは、「亡霊」ではない。それは、弟子たちが三年間いっしょにいたとき見たイエス、触ったイエス、いっしょに食べたイエスだ。変容の山ではそれは垣間見られただけだったが、今は永続的にそうだ。たとえばアウグスチヌス『告白』の有名なページでは、オスティアで母モニカと話しているうちに神に触れた超越体験について書かれているが、復活したイエスの経験は、そういう一時的な体験ではなく、永続的な経験なのだ。ルカが言いたいのは、十字架死の後イエスはいなくなってしまったのではなく、自分を信じる人のそばに永遠にいるということ。喜びの時も悲しみの時もそうなのだ。
イエスは父なる神のもとに戻った後にも、人間性を保っている。たとえばミケランジェロの「最後の審判」でも、イエスに傷が残っている。三位一体の中のイエスは十字架のしるしがあるのだ。それだけではなく、信仰によってキリストと一つになった私たちの人間性も神の中に移された。私たちの生活の中で、つまらなく思えたこと、苦しめられたことも、イエスの復活によって永遠の価値をもつものとなる。私たちの歴史は神の歴史のうちに移されたのだ。
イエスは死を通って復活した。しかし、それはイエスに限られる出来事ではない。イエスは一人っ子ではなく、長子なのだ。「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です」(コロサイ1・18)。イエスは新しい世界の「初穂」であり、彼に起こったことは、信じるすべての人に起こることができると福音書記者ルカは言いたいのだ。それは教会の大切なメッセージだ。
今日の箇所で印象的なのは、イエスが手と足を弟子たちに示したこと。「わたしの手や足を見なさい」。それは十字架の釘の跡、傷のある手と足だ。ふつう、人のアイデンティティを示すのは顔だ。しかし、ここでは、傷のある手と足が復活したイエスの現実性を示す。イエスのアイデンティは私のために命を捧げたこと。十字架につけられたその姿のうちに、私たちを永遠に愛する神の愛を見るように勧められている。ミサの中で割かれるパンも、私たちのために十字架上で亡くなったイエスの姿をしている。今日の箇所では、イエスは共同体の中に現れる。いっしょにキリストの体を分かち合う感謝の祭儀によって、キリスト者は神から赦され、その赦しを人と分かち合うことができる。
最後にルカが思い出させるのは、本当に生きた聖体から宣教も始まるということ。宣教とは復活した生きたイエスに出会って、人に黙っていられないこと。イエスの復活を信じるのは、根本的に自分を変えること、死から命に移り、恐怖から宣言に移ることだ。
私たちの共同体も今日、イエスとの曖昧な関係(「亡霊」)ではなく、イエスと個人的な友情をもち、イエスを価値観の尺度としてものを判断するように勧められている。復活節の七つの日曜日の恵みを逃さないように努めたい。
2018年
4月
08日
日
2018年
3月
31日
土
あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ16・6)
今年B年の復活徹夜祭の福音朗読箇所はマルコ福音書16章1−7(8)節。この箇所でイエスの復活を祝うのは教会にとって勇気が要ること。日本でなどミサでは読まれないが、8節に次のようにあるからだ。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
よく知られているように、もともとのマルコ福音書はこの文で終わる。マルコ福音書は4つの福音書の中で最初に書かれた福音書だから、復活とはどういうことかを知るためにもっとも読むべきなのがこの箇所だ。しかし、初代教会の時代から、信者たちはこの箇所にショックを受け、おそらくそのショックを和らげるために、他の福音書を参考に書かれた別のテキストが付け足された(マルコ16章9−20節)と考えられる。だから、マルコ福音書には二つの末尾がある。マルコが書いた末尾と、他の福音書を参考に後から付け足された末尾であり、私たちが読む聖書はその末尾で終わっている。
今日の箇所、特に8節は、イエスの復活を信じる私たちを戸惑わせる。イエスの復活を見ていない私たちは、イエスの復活物語を読む時、当然、復活の様子についての記述や、目撃した人たちの証言と彼らの喜びや興奮などを期待する。しかし、この箇所は、私たちの期待を完全に裏切る。たとえばイエスが墓から出る様子についてはまったく書かれていない。そのような記述は2、3世紀になってはじめて出てくる。
その代わり今日の箇所から見て取られるのは、婦人たちがイスラエルの律法にまだしばられていること。彼女たちは墓に行くのに安息日を避けて、イエスの死後3日目まで待ったのだ。イエスが自分の復活を生前に予告していたにもかかわらず、イエスの復活をまったく予期していなかった婦人たち。彼女たちが墓に行ったのは、生きている愛する者に会うためではなく、尊敬していた先生の遺体を律法に従って処置するためだった。
続いて書かれているのは、大きな石についての心配。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。この言葉は彼女たちの内面を表現している。婦人たちは石のことを心配し、イエスについては死んでいるとばかり思っていたのだ。その石はしかし、すでにわきに転がしてあり、彼女たちは白い服を着た人(天使)から、イエスが復活したと告げられる。
天使は、ガリラヤに行くように弟子たちに伝えるという任務を彼女たちに与える。この婦人たちは生前のイエスの周りにいたが、世話をするボランティアではあっても本格的な弟子ではなかった。その彼女たちにはじめて任務が与えられたのであり、その任務は本来の弟子たちに伝えるという任務だ。ここには役割の逆転がある。それにもかかわらず、彼女たちは恐怖に圧倒されて伝えに行かない。マルコが使う「恐れ」という言葉は、旧約聖書でも(たとえば創世記でも)神に出会った時の気持ちを表現する。しかし、彼女たちは復活の証人であるのに、その出来事を前にして喜びではなく恐れを抱く。十字架の経験の後に、イエスが生きていると言われてどうして黙っていることができたのか。復活とは何のことか。
今日の箇所に後から付け加えられた箇所にも、私たちの常識や期待を裏切る記述がある。「彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(16・11)。その後、イエスは弟子たちのそのような態度を叱る(16・14)。
復活徹夜祭の夜は教会にとって、一年でもっとも聖なる夜だ。その夜、教会は、イエスの復活というもっとも大切なメッセージを伝えるために、信じる難しさを表現するこのような箇所を選んだ。この箇所を飛ばしたり他の福音書を参照したりせずに、この箇所にとどまって反省することがとても大切だ。この箇所に私たちの信仰の分かれ目があるからだ―私たちの信仰が表面的な信仰か深い信仰か、もっとはっきり言うと、名前だけのキリスト者か、本物のキリスト者か。
そのほか、ガリラヤに行くようにという指示も単純な理解に反している。ふつうに考えると、イエスはエルサレムで死んで、エルサレムで葬られたのだから、もしイエスが生きているなら、エルサレムにいると考えられる。それなのに、なぜ、歩いて3日以上かかるガリラヤに行くのか。しかし、ここで扱われている問題は、イエスをどこで探せばいいかという問題なのだ。復活の主日に読まれる福音箇所にあるように、ヨハネとペトロもそうだ。墓にいないとマグダラのマリアに告げられたのに墓に行く。生きている人を死んだ人の中に探してもいないのに、世界中で墓にだけは行く必要がないのに。彼らは混乱している。
このような記述でマルコは私たちに何を伝えたいのか。イエスの復活は私たちの信仰の核心だ。しかし、死を通って生きているイエスに出会うのは単純なことではない。私たちキリスト者も復活について当たり前のことのように話したりするが、マルコにとってはそうではない。一般的な考え方でも、人間は死んでも何か残るという予想があるが、マルコが伝えたいことはそのような常識的なことではない。生きているイエスの体験は、常識をひっくり返し言葉で言うのも難しい体験だ。その知らせは、神からだけ(天使を通して)ありうる。それは人間の知識、知恵、グノーシス、悟りよりもっと上のレベルのことだ。なぜなら、イエスは以前の命に戻ったのではなく、神の世界の命を生きているから。それを一瞥する体験をマルコは私たちに伝えたいのだ。そして、イエスを信じた人にも永遠の命が与えられるが、それは、それまでの命の回復ではなく、それ以上のことであり、神聖なもの。たとえばギリシア哲学でも霊魂の不滅について言われるが、その程度のものではない。それはそれまで誰も経験どころか聞くこともなかった真実だ。マルコと他の福音書記者たちは、私たちがこのようなことを知識として理解するために語っているのではない。彼らの第一の関心は、キリストの恵みによって私たちが同じことをすること。だから、私たちは信じて委ねるべきなのだ。
多くの信者にとって、復活祭は特別な祭ではあっても、お祝いの言葉やパーティやイースターエッグなど外面的に祝うだけだろう。そして、その日が終わったら、終わったのだ。復活祭はただの祭であり、生活にも世界にも影響のないものとして祝われる。それは、信者としての私たちの弱さを意味する。しかし、復活祭はただの祭ではない。教会にとっては、典礼を見ても、復活祭は長い霊的な旅の出発点だ。復活節の長い50日間のあいだ、典礼は、私たちが大きな石に塞がれた状態から空の墓を体験し生きたイエスに出会うように、さまざまな神の言葉を用意する。
イエスの故郷ガリラヤに行くとは、イエスの死を体験してからもう一度新しい目でイエスの生涯を見直すということ。マタイ福音書では、イエスが指示しておかれた山に登ると言われている(28・16)。それは、最近パパ様が言ったように、初恋の場所に戻ることだ。だから、天使の指示は、新しい目でイエスを見るようにという勧めなのだ。私たちのところに来た神であるイエスを十分に受け入れる心を作るために復活節の50日間がある。
マルコ福音書の結末は、ハッピーエンドではなく、失敗を意味する。その結末が私たちに伝えるのは、復活の経験は、軽いことではなく、真剣なことだということ。逆に言うと、私たちは、キリスト者であったとしても、その体験をしておらず、イエスを本当に見ないで自分勝手な形で見ているという恐ろしい危険もある。キリスト者と言っても、イエスが復活していないような生活を送る可能性があるのだ。 もう一つのエピソードを思い出すと、マタイ福音書によると、イエスが父なる神のもとに戻る昇天の時に、弟子たちのうちにまだ疑っている者もいたと言う。その可能性があるのが信仰の状態だ。私たちの信仰は、儀式や信心業、組織や行事、建物や掃除にあるのではなく、生きたイエスの体験にある。だから、今夜私たちが知った婦人たちの「恐れ」は、卵の祝福よりもずっと大切な宝物なのだ。
復活節の50日間、教会はさまざまな形で、イエスが生きているしるしに敏感になる(「目を開く」)教育をしてくれる。そして、イエスのように生きる力を与えてくれる。イエスは、有名で歴史に残っても死んだ人であるのではない。イエスは、私たちを愛する神、そして私たちが愛すべき生きている神。その方に会うことが復活祭なのだ。
2018年
3月
25日
日
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マルコ11・7)
受難の主日(枝の主日)から聖週間が始まる。この週の典礼は私たちの個人的信仰だけではなく、教会の信仰の真ん中に十字架を据える。聖週間の福音朗読はイエスの受難物語が中心だ。受難物語は新約聖書の中でもっとも古くもっとも大切な部分で、新約聖書の他の部分は、受難物語の注釈のようなものとよく言われる。福音書の中でも受難物語は長く、他の部分は前書きのようなものとも言われる。受難物語を会得しないでいてはキリスト者でありえない。イエスの受難物語の細部を考察するだけではなく、四人の福音書記者それぞれの見方を踏まえておくと理解に役に立つ。簡単に説明すると、ヨハネの受難物語は、四旬節第5主日のように、イエスの時を強調する。ヨハネは、神の子であるイエスが栄光を受ける時(12・24)として十字架を中心にするのだ。それに対して、ルカはその受難物語で、イエスに倣って、迫害する人を赦す(23・34)ように、また神の手に自分を委ねる(23・46)ように信者を指導する。マタイにとって、イエスの死の神秘を理解するために旧約聖書の助けが必要だ(27・43、または詩編22・9)。
今年B年の受難の主日はマルコの受難物語が読まれる。マルコの受難物語は簡潔で明確で個性的だ。マルコの福音書は短いが、十字架の経験は突然訪れることなく、さまざまな形で何度も予告される。それがいわゆるマルコの秘密だ。イエスはその生涯の中で少しずつ十字架に近づいていく。マルコが描くイメージによると、イエスは生涯を通して孤独な生き方をし、人から理解されず、人に距離を置く。最後にいじめられ、通りかかる人にもからかわれて死ぬのだ(15・29、32)。ゼッセマネでも、いっしょに目を覚ましているべき弟子たちは寝てしまい、イエスは一人自分の苦しみに向かう。イエスが捕らえられた時も、弟子たちは逃げてしまう。裁判の最中にペトロが裏切った後、雄鶏はイエスの予言どおりに鳴く。群衆の前に引き出される時は強盗の横に立たされ、そして彼よりも強盗が釈放され、兵士たちからは笑いものにされる。マルコの特徴だが、イエスは受難の時、言葉を発しない。ただ最後に父なる神に向かって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15・34)。マルコは時間を追うごとに、裸にされるイエスを描く。3時(新共同訳では9時)に人間から見捨てられ(15・25―32)、6時(同12時)に宇宙から見捨てられ(15・33「全地は暗くなり」)、9時(同3時)に父なる神から見捨てられる。そこに完全なケノーシス(空しくなること)が表現される。兵士たちがイエスの服を分ける(15・24)ことがそのシンボルだ。イエスは、まったくの裸で、支えてくれる人はひとりもなく、共同体から見捨てられ、神からも見捨てられ、通りかかる人の冷酷なまなざしにさらされ、完全な孤独の中、いじめられて死ぬ。その姿をマルコは描く。しかしながら、まさに暗闇が支配するただ中に、「されこうべの場所」に、イエスの存在の意味が完全にあらわれる。イエスがどういう方かが全世界に対して明らかにされるのだ。不思議なことに、イエスのそのアイデンティティに気づくのは、イエスの弟子でもユダヤ人でもなく、一人の異邦人、イエスの処刑を担当していたローマの百人隊長だ。それがマルコ福音書の決定的瞬間だ。イエスの顔はそこにあらわになる。「本当に、この人は神の子だった」(15・39)。
聖週間が始まる今日この日、マルコはイエスの弟子に、そしてイエスに惹かれて近づく洗礼志願者に、今一度イエスの十字架を、たとえ離れたところからでも見るように導きたいのだ。
マルコにとって、十字架はイエスの生涯の絶頂だ。マルコにとって、十字架とはケノーシス――権力を捨てて弱くなることだ。十字架はイエスの全生涯を表現する。イエスは力を脱ぎ捨て、人の弱さを身につけ(受肉)、人のそばに来る。そのことは、第二朗読に選ばれたフィリポ書の箇所(2・1−16)に書かれている。だから、十字架は、非暴力、自己放棄、赦し、和解、限界のない愛、癒やしだ。それは、自分を主人公ではなく、無にすることだ。第一朗読に選ばれたイザヤ書の箇所はそれを示唆している(50・4−7)。十字架上で死んだイエスはそれによって悪に勝利して、愛の勝利を示す。マルコはイエスの受難物語によって、イエスの弟子になりイエスのような生き方をするように勧めたいのだ。
最後にもう一つ。今日の典礼の最初に、イエスのエルサレム入城が記念される。イエスはエルサレムで殺されて死に、エルサレムで復活する。今日の典礼はその受難物語を再現することによって、イエスが権力をもったメシアではなく、愛のために自らを低くした神であることを宣言する。だからイエスは権力者の馬ではなく、旧約聖書のザカリヤ書を思い出させる子ロバを使って謙遜な姿でエルサレムの町に入る。イエスのその弱い姿は一方では、不思議なことに、強い人の反発を買い、そのためにイエスは殺される。しかし他方では、信じる人にとって命のしるしとなるのだ。
2018年
3月
18日
日
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・24)
四旬節は、洗礼志願者にとって、また私たち信者にとって、大きな恵みと学びの時だ。私たちは回心によってだけではなく、教会が選んだ聖書の箇所を読み、信じている事柄の理解を深めることによって復活節に向かって歩んでいく。その際、二つのことが大切だ。第一に、イエスはどういう方か。第二に、イエスの弟子であるために私たちはどう生きるべきか。典礼年によって重点は異なるが、B年の今年を簡単に振り返っておこう。第1主日の重点は、イエスが私たちの罪と闘って勝つ方であること。第2主日(変容)の重点は、イエスが父なる神を映す鏡であること。イエスの顔を見ると、父なる神がどういう方かわかる。第3主日(宮清め)の重点は、イエスが世の罪を取りのぞく方であること。またイエス自身が神殿であること。イエスのうちで私たちは神に出会う。第4主日の重点は、イエスが十字架上から私たちの病いを癒やすこと。イエスを見ることで私たちは癒やされる。
第5主日の今日は、聖週間が始まる受難の主日の直前の大切な主日だ。教会が四旬節のあいだ聖書によって私たちに伝えようとしたことは、モザイクのように少しずつはっきりしてきており、今日、私たちを救うイエスの姿に最終的なスポットライトが当てられる。今日の箇所は、さまざまなテーマが含まれる複雑なページだから、注意すべきだ。
イエスは長い旅の最後にエルサレムに着く。十字架につけられるためだが、今日の箇所はちょうどイエスがメシアとしてエルサレムに入るところだ。そこで、一つの出来事が起きる。福音書記者ヨハネが物語るその出来事の一つの細部は注目される。ギリシア人たちのグループがイエスに会おうとする。彼らは、異邦人だが、イスラエルの掟に従ったりして、イエスに関心を抱いた人たちだ。彼らは過ぎ越し祭のためにエルサレムに来て、イエスのことを聞いた。そして、フィリポのところに来て、「イエスを見たい(イエスにお目にかかりたい)」と言う。
ここで注目されるのは、「見る」という言葉がヨハネにとって宗教的な意味がある特別な言葉であること。彼らは、たんに好奇心を抱いて、有名なイエスを見たいと思っただけではない。たとえば、仏教でも、無明に対して悟りという言葉が使われ、「見る」という言葉には深い意味がある。この人たちは、イエスが誰かを深い意味で知りたいと思っていたのだ。
教会が今日の箇所を選んだのは、何よりも洗礼志願者のため。二千年前からこんにちに至るまで、イエスを知りイエスに出会うためにこの時期に洗礼の準備をしている洗礼志願者のためだ。「イエスよ、わからせてください。あなたは誰か。あなたが示す神はどういう方か。私はなぜ生まれたか。私はどう生きるべきか。私の人生の意味は何か。なぜ苦しみがあるか。罪や絶望から逃れるためにどうすればいいか。」彼らはイエスを深く知り味わい、イエスと一つになることを望んでいる。そのことを表現するために、ヨハネ福音書ではさまざまな言葉が用いられる。イエスは水であり、光であり、命であると言われる。
ヨハネ(あるいはその弟子)が福音書を書いたのはその出来事の数十年後になる。そんなに昔の出来事の細部を書くのには意味がある。「何人かのギリシア人がいた。彼らは…フィリポのもとに来て…フィリポは行ってアンデレに話し、フィリポとアンデレは行ってイエスに話した」。福音書記者ヨハネ、そしてこの箇所を選んだ教会が言いたいのは、イエスを見るのは抽象的哲学的な経験ではないということ。イエスが死んで復活したことはグノーシス的直観ではなく、人から人へ手渡され救いをもたらす具体的なメッセージだ。病気だった私が癒やされ、人に伝える。その伝承(使徒伝承)の鎖が教会であり、洗礼を受ける人はその鎖の中に入るのだ。
ギリシア人たちがイエスに会うと、イエスは衝撃的なことを言って驚かせる。イエスの返答はいつも質問と噛み合わない。イエスの返答にある4つの言葉に注目しよう。
1.「人の子が栄光を受ける時が来た」。 この言葉には注意すべきだ。ヨハネ福音書では、宣教を始めたイエスの最初のしるしはカナのしるしだ。母に頼まれてもイエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言う。ところが、今日の箇所では「時が来た」と言う。それはイエスの時であり、イエスによって神の栄光が現れる時であり、十字架の時だ。その時明らかになるのは、私たちが神から愛されていること、神がその神性を捨てるほど私たちを愛してくださること。
ふつう私たちが何かを理解する時は、さまざまな資料を集めて知識を増やす。ところが、福音書では逆だ。イエスを理解するためには、余計なものを取り除いていくと核心がはっきりしてくる。今はどんどん十字架が見えてくる時なのだ。
福音書記者ヨハネにとって、イエスはまことの神の子だ。イエスは命であり、私たちのために十字架上で自らの命を捨てる。それこそがメシアの約束の実現であり、イエスの秘密だ。十字架にイエスの秘密がある。
ギリシア語でアゴニアという言葉がある。「闘い」という意味だ。イエスは十字架上で悪魔との最後の闘いに勝つ。大きな叫び声を上げて、息を吐く(日本語訳では「引き取る」)。それは聖霊を「吹きかける」ことだ。その時がヨハネにとって最高の時。ヨハネにとって復活は十字架上にある。
2.「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この言葉によって、イエスの十字架死に含まれるもう一つのニュアンスが示されている。 イエスが十字架上で死ぬのは、一粒の麦のようにたくさんの実をつけるため。つまり、私たちが再生し、愛によって成長するためだ。イエスの十字架死は命を意味する。私たちは洗礼を受けてその死に入ることで生かされる。私たちの罪はイエスの十字架を見ることで癒やされるのだ。
だから、今日の箇所は、イエスを見るというテーマで先週の箇所とつながっている。ヨハネにとって、信じることはイエスを見ること。私たちの具体的な信仰生活で言うと、たとえば聖体を受ける時、感謝の気持ちで聖体を見ること。他の秘跡の時もそうだ。感謝するとは認知すること。イエスが救い主と知ること。ヨハネ福音書に出てくるさまざまなシンボル――死と命、目が見えないことと見えるようになること、口が聞けないことと話せる(祈れる)ようになること、喉が乾くことと命の水を飲むこと――が意味するのもそのことだ。A年は特に、ラザロの蘇生やサマリアの女などそのようなシンボルが出てくる。
3.死ぬことによって生きるのはイエスだけではない。私たちキリスト者もそうだ。それはキリスト教の常識だ。私たちもイエスのようにイエスとともに死ぬことによって生きる。
「自分の命を愛する者は、それを失う」。私たちは、自分に閉じこもって利己主義的になったり、喧嘩をしたりした時に関係を切ったりする危険がある。それはしかし、罪であり、自分を失うことである。
「この世で自分の命を憎む人はそれを保って、永遠の命に至る」。イエスが洗礼志願者と私たちに言うのは、私がしたにようにしなさいということ。私のように先に愛しなさいということ。自分の命を与える人は自分を見つける。今日イエスは十字架を宣言する。 4.「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。
「心騒ぐ」。イエスは神であるが、人間であるから、十字架の前で不安を感じる。遠藤周作も言うように、イエス自身も私たちのように不安を感じていたから、私たちはイエスがそばにいると感じる。 しかし、イエスは、「この時から私を救ってください」と言う代わりに、自分を委ねる。神の子羊であるイエスは、私たちの苦しみ、孤独や病気や困難をその身に負って、私たちの身代わりとなる。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスは、喧嘩しやすく愛することが難しい私たちのために十字架上で死ぬのだ。
次の日曜日の受難の主日から聖週間が始まる。主日のミサ(土曜日の復活徹夜祭と日曜日の復活の主日のミサ)だけではなく、木曜日と金曜日も教会に来て典礼に与ることが勧められる。
2018年
3月
11日
日
モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3・14―18)
ミケランジェロには4つのピエタ作品があります。もっとも有名なのはバチカン・サンピエトロ大聖堂にあるピエタで、弱冠24歳の時に制作された作品です。それに対して、上の画像は、バンディーニのピエタと呼ばれるもので、ミケランジェロの死の直前に、さまざまな困難と苦しみの中で制作されました。
イエスの両脇にいるのは母マリアとマグダラのマリア。背後にいるのが今日の福音箇所の登場人物であるニコデモです。イエスのしなるような独特の姿は蛇を連想させます。
2018年
3月
04日
日
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2・21、22)
今日ヨハネ福音書記者が示すイエスの姿は、ふつう私たちが知っているやさしい姿と違っている。しかし、今日のエピソードはイエスを知るために大切だ。それは他の3人の福音書記者も書いていることからわかる。今日の箇所を理解するのが難しいのは、その中に旧約聖書とのさまざまな関連が隠れているから。また、私たちがふつうよく考えない神殿というシンボルが出ているから。さらに、今日の箇所には、イエスにとって宗教とは何か、そして宗教の中でイエスが私たちのためにどんな役割を果たすかという大きなテーマがある。入り組んだところのある箇所だから、いくつかのポイントにしぼって考えてみたい。
他の福音書ではイエスの活動期間は1年ほどで、イエスが神殿に行くのもその最後に1回だけ。それに対してヨハネ福音書では活動期間は3年で、イエスが神殿に行ったのも3回だ。そして、今日の箇所は、イエスがその最初、しかも公生活の最初に神殿に行く箇所。
第一に注意すべきなのは、イエスがエルサレムに上がって神殿に行くたびに、祭司長たちと争いが起こること。それは、神と宗教についてイエスが抱くイメージが彼らとはずいぶん違うから。そのことは最初にヨハネが使う表現からわかる。「ユダヤ人の過越祭」。これはヨハネ独特の表現だ。旧約聖書ではいつも「主(ヤーウェ)の過ぎ越し」と呼ばれるのに、「ユダヤ人の」とは批判的なニュアンスがある。ヨハネにとって「ユダヤ人」という言葉は、民一般ではなく、祭司長のように、宗教の中で権力を握っている民の指導者のこと。ヨハネにとって、過越祭は、エジプト脱出の記念ではあっても、むしろそれよりユダヤ人たちがその権力を誇示する機会だった。儀式や儀礼、典礼はすべて彼らの権力と利益の口実になる。
イエスは幼いころからイスラエルにとっての神殿の意味を理解し、神殿に憧れ神殿を愛していた。しかし、その日イエスが神殿に行くと、彼の予想どおり、そこは感謝や祈りや礼拝の場ではなく、商売の場だった。神殿は巨大な建物(「建てるのに46年もかかった」)で、数百メートルの長さがあった。硬貨を両替する人たちの列といけにえのための動物を売り買いする人たちの列が延々続いていて、混み合い、騒がしかったようだ。動物の匂いや糞便もあっただろう。動物をいけにえとして燃やしたから、その肉や油の煙も立ち込めていただろう。「牛や羊や鳩を」。これは大きい順に挙げられている。「座って両替をしている者たち」。神殿では皇帝の像がある硬貨が禁止されていたから、神殿で使う硬貨に両替する必要があった。間違ったり、ごまかしたりすることもあっただろう。そして、およそ20%の両替料も徴収されていた。両替や動物の販売を担当して儲けていたのは、祭司長たちの家族のようだ。
ユダヤ人にとって、神殿は何よりも神が現存する場所だった。いろいろな部屋がある真ん中に神が臨在する至聖所があった。それにもかかわらず、神殿が商売の場所になっていたから、イエスは失望し怒っている。ヨハネは、イエスの気持ちを表現するために、ギリシア語でゼロスという言葉(日本語訳では「熱意」)を使った。ゼローティ(熱心党)もそこから派生する言葉だ。ヘブライ語でもギリシア語でも現代欧語でも、ゼローティに当たる言葉は、テロリストのように武器を使って人を殺すほどの人たちを意味する。つまり、ゼロスという言葉の意味には暴力を振るって他人に強制するほど激しい熱狂も含まれる。ヨハネはこの言葉が入った旧約聖書の言葉を引用する。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。これは来るべきメシアに使われた言葉だ。 「イエスは縄で鞭を作り」。これは、事実ではなくシンボルにすぎないかもしれない。とにかく、それ自体は暴力でないが、450人の異邦人の祭司を殺したエリヤを思い出させる。旧約聖書によると、メシアの役割の一つは罪人から神殿を清めることだった。そのような厳しい態度でイエスは商売と両替の場所を回った。
「羊や牛をすべて境内から追い出し」。先とちがい、ここでは最初に羊が挙げられている。そして、イエスは羊には怒らずに、羊を外に出すのだ。ある解釈によると、羊とは、一般の弱い人たちのこと。彼らは祭司たちに多くのお金を払って、宗教の奴隷になっていた。羊は、初代キリスト教では、弟子たち、信者たちを意味する。よい牧者であるイエスは力をふるって彼らを自由にする。ヨハネにとって、メシアであるイエスは、宗教の奴隷である貧しい人たちを解放するために来たのだ。
「両替人の金をまき散らし、その台を倒し」。イエスが怒っているのは、権力を握る祭司長たちであり、宗教で金を儲けて利益を得る人たちに対してだ。
「鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」。イエスは鳩を売る人には力を行使しない。鳩は、ヨセフとマリアのように貧しい人たちが神に捧げるものだった。そして、ヨハネ福音書には、神の霊が鳩にたとえられる箇所もある。
大切なのは、イエスが批判するのが、律法に従って生きている貧しい庶民ではなく、祭司長たちだということ。彼らは権力を乱用し、自分の利益のために神の名を使い、宗教を金儲けのために利用する。イエスは、金、評判、名誉、地位、権力を追求する人たちに非常に厳しい。たとえよいことをするにしても神の栄光のためではなく自分の名誉を求めてするのは、神の名前で商売することだ。イエスにとって、神の愛をお金で売り買いすることは通常の罪より重い罪であり、いわゆる大罪に当たる。それは偶像崇拝であり、売春のようであり、神の目には疎んじられる行為だ。こんにちも、またキリスト教だけではなく、他の宗教にあっても、権力や金と宗教のつながりは重大な問題だ。日本でも、新興宗教による詐欺が大きな問題になることがある。
しかし、ここに少し注意すべき点がある。福音書記者ヨハネは、エリヤを思い出させるイエスの行動について書く。そして、イエスが神殿を罪人たちから清めるために来たと考えている。しかし、それはまだ福音書のはじめだからで、ヨハネはまだ暴力や権力への誘惑を感じているからだ。変容の出来事を見てもペトロたちがイエスをまだ理解していなかったように、ヨハネもまだイエスの行動の意味がわかっていない。ヨハネと他の弟子たちは、イエスが死んで復活した時はじめて理解する。イエスが来たのは、神殿を清めるためではなく、そういう石の神殿を止めさせるためだと。それはサマリアの女の箇所に出てくる。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4・21)。メシアが来る時、神が現存するのは石の神殿ではない。それはヨハネの福音書のテーマだ。イエスが示す神はそれまでと違った完全に新しい神だ。神殿では恵みを受けるために牛や羊などのいけにえを屠る必要があった。しかし、イエスの神はいけにえを求める神ではない。預言者イザヤも言う、「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」(1・11)。だから、イエスが宣言する神は、人間のいけにえを必要とせず、人間のために自らいけにえになる神だ。神がご自身を私たちに捧げることによって、私たちは救われる。
イエスの行動は当然、大騒動となった。そこに出てくるのは、イエスを止める警備員のような人物ではなく、ふたたびヨハネの言うユダヤ人、つまり祭司長たちだ。しかも、彼らの関心はイエスを止めることではなく、イエスがどんな権限と資格をもっているかということ。つまり、イエスが誰かということ。いつものように、ユダヤ人は信じるためのしるしを求める。「しるし」とはヨハネの神学の言葉だ。しかし、イエスはユダヤ人の要求に応じない。イエスにとっては、信仰はしるしの後ではなく、信仰が先にある。見たから信じるのではなく、信じたから見るのだ。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。このやり取りには神学的な意味がある。ここで、「神殿」を指す言葉は二つの異なった意味で使われているようだ。ユダヤ人たちが言う「神殿」とは、その巨大な建物全体のこと。その中にはさまざまな区域があった。異邦人も入れる区域、女性は入れない区域、病人や障がい者は入れない区域、祭司しか入れない区域、祭司長しか入れない至聖所、と奥に行くほど制限があった。イエスが言う「神殿」とはその至聖所を意味していたのだ。だから、イエスとユダヤ人とのやり取りには食い違いがある。この食い違いは、実際のやり取りの食い違いと言うより、福音書記者ヨハネの神学的な意図から来ていると考えられる。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだった」。この言葉で、ヨハネは、イエスがメシアであることを宣言し、自分の弟子にもそれを教える。イエスこそ本当の神殿だ。神の愛と力と栄光が現れる本当の神殿は、人間の手で作られた建物、さまざまな区域に分けられた建物ではなく、イエスの体そのものだ。愛のために十字架上で殺され復活したイエスの体は神殿だ。
後にパウロは、イエスを信じる人も神殿だと言う。信者一人ひとりも教会もそうだ。以前の古い神殿の時には、そこに入るためには、汚れなく清らかでなければならず、神殿には人を差別するさまざまな区域があった。それに対して、イエスが十字架上で息を引き取った時、神殿の垂れ幕が裂けて、人と人、神と人を分ける区別がなくなった。だから、すべてが一つになる。神の国は、ヨハネ黙示録の最後にあるように(21・2)、天から賜物としてこの世に入ってくる。 もっとも、こうしたことはまだ垣間見られるにすぎない。すべてがわかるのは復活の後だ。復活の経験の後、そして信仰によって自分を委ねた後はじめて、それを完全に理解することができる。
最後に少し悲しい言葉がある。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」。イエスの行動を見て、多くの人がイエスを信じたが、その信仰はまだ完全ではなかったのだ。ここには、「マルコの秘密」に似たことがある。人々はまだまだわかっていない。ヨハネ福音書もまだ始まったばかりだ。特にヨハネの場合は、十字架につけられることがすでに「上げられる」ことだ。そのことがわからなければ、今日の箇所で黙想したこともつかの間の直観にすぎない。イエスに出会って洗礼を受けても、その信仰は失われやすい。洗礼志願者の信仰もまだまだだ。警告のようなその言葉で今日の箇所は終わる。
2018年
2月
25日
日
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。(マルコ9・2―3)
先週(四旬節第一主日)の福音朗読は、イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受ける箇所だった。この箇所によって教会は洗礼志願者に、イエスによる救いを示すとともに、イエスに倣うように勧めるということだった。
もっとも、イエスのサタンとの闘いは40日間だけではなかった。イエスは私たちの救いのために全生涯を通して悪と闘ったのだ。サタン、悪魔と言っても、超自然的な存在というだけではなく、世の中に存在する悪の力のこと。サタンは、イエスの弟子たちの中にさえ働いて、道から外れるように全力を振るう。
四旬節第2主日に読まれるのは変容の箇所。イエスの変容は神の啓示だ。イエスがどういう方で、私たちとどういう関係にあるか――その真実にもう一歩近づくことができるように教会はこの箇所を選んでいる。変容について3人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ)はそれぞれの仕方で物語っている(マタイの箇所についてはこちら、主の変容の祝日についてはこちらを参照)。教会にとって黙想のために重要なテーマだ。
今日の箇所はマルコ第9章から。先の第8章でマルコはすでに、受難の予告について語っている。イエスは、彼の道が力をもって敵を退ける勝利者の道ではないことを弟子たちにはじめて告げる。イエスの後をついて来たとはいえ、彼の本質を理解しないままだった弟子たち。イエスが「岩」(頑固者、石頭)というあだ名で呼ぶペトロは、イエスをいさめようとさえした(「そんなことがあってはなりません」マタイ16・22)。その時、イエスはサタンという言葉を使って、ペトロを厳しく叱る。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスは、力をもって罪人を無理矢理に連れ戻すためではなく、愛をもって自分を捧げるために来たメシアだ。そのために、権力者や宗教の代表者から迫害され、十字架につけられて殺される。第8章のこのエピソードは、今日の箇所を理解するためにぜひ思い出しておく必要がある。
「[そのとき]」。今日の朗読では省かれているが、聖書原文では「6日の後」。つまり、第9章の受難の予告から6日後ということ。「6日」とは天地創造の6日間を連想させる。
「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」。ここでマルコは意図的にシモンではなく、ペトロという呼び名を使っている。ペトロとは「岩」という意味で、イエスがつけた呼び名だ。頭が固い人、理解が遅い人という意味。イエスは偉大な教育者だ。ペトロを愛するが、褒め言葉で引き寄せようとはせず、ペトロの弱さを表現するあだ名をつけるのだ。マルコはこの箇所では、イエスを理解できないペトロの弱さについてそのまま語っている。それは弟子であるマルコにペトロが話したことだろう。自分の弱さを隠さないのはペトロの偉大さだ。それは私たちにとって大切なことだ。ペトロは罪のない清らかな人ではない。ペトロはその弱さから回心した人だ。だから、マルコに話す時に、自分の弱さを隠さない。ヤコブとヨハネも、問題のある弟子だった。そのことをよく理解すべきだ。二人は、イエスからギリシア語でボアネルゲスというあだ名をつけられていた。雷の子という意味だ。つまり、二人は、怒りやすく、暴力的だった。彼らはイエスのように人の弱さに憐れみを抱くことをせず、神の罰を願うからだ。つまり、回心する前の二人は、ファリサイ派や律法学者に典型的に見られる態度を示していたのだ。この二人はイエスの後をついてきたが、イエスがどういう方かがまだわかっていない。イエスがこの三人を高い山に誘ったのは、遠足のためではなく、自分と彼らの召し出しのエッセンス、つまり十字架の道を彼らに教えるためだったのだ。
「高い山」。聖書では、山はいつも神が住む場所だ。聖書には、いくつかの重要な山があるが、ここはシナイ山を連想させる。詩編に書いてあることだが、神はこの世に入る時、山を踏み台として使う。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」。変容は、イエスのうちに隠されているものがあらわになることで、神だけがその真実を表現することができる。「この世のどんなさらし職人の腕も及ぼぬほど」。これはマルコの特徴的な表現で、とてもおもしろい。つまり、この出来事は人間の知恵や悟りや努力ではなく、神の啓示、神の働きなのだ。「服は真っ白に輝き、白くなった」。白さは神の色だ。ダニエル7・9、「その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった」。それは神のことだ。ただし、ここで神はご自身を啓示するのではなく、我が子を啓示する。神聖な光を発した服はイエスが神であることを示している。イエスに従う人にとって、それは、イエスを知るための大きな出来事だ。(それは、ルカ福音書では、イエスが祈りのあいだに体験したこととして、イエスの内面を中心にして語られる)。
「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。モーセは律法の土台だ。彼を通してイスラエルは神から掟を受け、神と契約を結んで、神の民になった。だから、モーセはユダヤ人にとって根本的な人物だ。他方、エリヤはメシアの前に来ると言われていた預言者だ。エリヤは暴力的な預言者で、神の掟を異邦人に課そうと暴力を奮った(列上18・40参照)。だから、モーセとエリヤの二人はユダヤ人にとって重要な人物だ。マルコの記述について注意すべきなのは、この二人が三人の弟子たちとではなく、イエスと語り合っていたこと。何を話していたかをマルコは書いていない(ルカは十字架についてと書いている)。ここで示唆されているのは、イエスが中心であること。モーセとエリヤはメシアではなく、最後の預言者だった洗礼者ヨハネのようにただの預言者で、前もって語った者にすぎない。だから、旧約聖書全体はイエスによってのみ理解すべきだ。ヘブライ人への手紙では「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1・1−2)。つまり、いろいろな預言者がいたけれども、イエスは預言者とは違うのだ。エリヤとモーセは今後言うことは何もない。
それは私たちも同じことだ。洗礼志願者に向かっても、神はいろいろな方法であなたたちに近づいたが、最後にキリストによってそばに来たと言うことができる。
「ペトロは、どう言えばいいのか、分からなかった。弟子たちは非常に怖れていたのである」。ペトロはイエスをまだ理解できず、混乱している。ペトロは中途半端で、一方ではイエスに魅力を感じ、他方ではイエスをいさめる。まだサタンの影響を受けているのだ。ペトロが理解するのはずっと後のこと。イエスの復活の後だ。
イエスを理解するのは長いプロセスが必要なことだ。ペトロの苦労を見ると、私たちは慰められる。ペトロはイエスを信じるすべての人のシンボル。教会には、そのプロセスをたどった人がたくさんいる。神は一方では遠い大きな存在だが、他方でそばにいる。イエスによって示された神は、聖なる方でありながら、私たちのそばに来て、やさしさと愛をもって、罪人を腕に抱いたのだ。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。まだわかっていないペトロはイエスに向かってラビ(先生)という言葉を使う。マルコ福音書でラビという言葉を使うのはユダとペトロだけだ。イエスを裏切った二人だけがこういう言葉を使うのだ。要するに、ペトロにとって、イエスはまだ知恵のある者、力のある者、力をもって世を救おうとする者だったのだ。
「仮小屋を三つ建てましょう」。仮小屋とはスコット。ユダヤ人たちには、エジプト脱出を記念する祭があった。その際、彼らは小屋を作って、一週間そこに住む習慣があった。こんにちもそうだ。彼らは、ちょうどその祭の時にメシアが来ると考えていた。
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」。雲と声という二つのしるしは神の現存を示す。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。神は、シナイ山でモーセに姿をあらわしたように、ここでキリストである我が子を啓示する。イエスはただの預言者の一人ではなく、神の子そのもの。律法と預言書に書いてあるすべてが彼の光によって、彼を中心にして理解しなければならない。その声を聞くのは、喜びと苦しみが混ざった体験で、人間の言葉で表現できない。「愛する子」とはただのかわいい子ではなく、兄弟の中で全財産を相続する人、跡取り息子のこと。「これに聞け」。神の子としてイエスは神の真実を語る。イエスの言葉は、神の言葉であり、絶対的だ。
「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。彼らのそばにいたのは、人間の姿をしているイエス。その目で貧しい人たちを見、その手で病気の人たちに触れて癒やしたイエスだ。人となったイエスに触れられることによって、弟子たちも私たちも神の子たちになる(filii in
Filio)。
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」。変容によって、イエスがどういう方かがほんの一瞬明らかにされたが、イエスを本当に知るのは十字架と復活のときだけだ。だから、イエスは誰にも話さないように命じる。それを聖書学者たちはマルコの秘密と呼ぶ。イエスは何人かを癒やした後にも沈黙を指示したことがある(たとえば、1・25、1・34、3・12、5・43、8・30)。悪魔もイエスが誰かを知っていた。そのような知識は十分ではない。
ペトロが弟子のマルコに語り、マルコが私たちに書き残したように、ペトロがイエスを理解するのに苦労したことを知ると、私たちは感動しさえする。マルコに語ったペトロは、神の愛とイエスの美しさについて話しながらも、なかなかわからない自分自身の弱さ、またイエスの後についていくのに苦労する人たちについても話したからだ。イエスの弟子は英雄ではない。人間的な知識や道徳や能力をもつ強い人ではない。イエスの弟子は自分自身癒やされ救われて、その体験から人を癒やす力をもっている人なのだ。今日の3人の弟子は聖人だったから選ばれたのではなく、石頭だったからイエスから特別なことを教えられた。私たちにはなかなかわからないことだが、神の子であるメシアは力や名誉ではなく、十字架によって貧しい人のそばにいる。
2018年
2月
18日
日
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。(マルコ1・13)
天使たち、荒れ野の野獣、空の虹――今年B年の四旬節第一主日の魅力はその意外なイメージの組み合わせにある。イエスの荒れ野での誘惑については、具体的な内容を詳しく語るマタイ(こちらを参照)やルカと違い、マルコ福音書にはわずかなことしか書かれていない。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。しかし、マルコはこの短い箇所で四旬節の私たちの黙想を深めてくれる。
今日の朗読箇所で第一に注目されるのは野獣。説教する司祭たちはよく、イエスの誘惑について細かく説明するが、野獣を素通りしてしまう。しかし、野獣といっしょにいたとは何を意味するのか。これについては若干の解釈がある。
第一に、野獣とは荒れ野でのつらい経験を意味する。イスラエルにとって、荒れ野は、相反する二つの意味を思い出させる。荒れ野とは、自分の弱さを経験した辛い場所であると同時に、神の根本的な経験をした場所だ。つまり、荒れ野は罪と癒やしの両方を意味するのだ。イザヤやエレミヤは、荒れ野での根本的な心細さ、寂しさ、つらさ、罪や神の罰を表現するために野獣を出す。知恵の書11・15もそうだ。
四旬節の旅に出る私たちにとって、野獣とは、自分の生活の暗い片隅を調べ自分の弱さを見出して見つめる旅のつらさを意味する。同時に、イエスに従いイエスとともにその旅に出る人は、イエスのように神から送られた天使の助けを得ることができるということもマルコのこの箇所で示唆されている。
第二に、野獣は、個人の心の中にいるだけではない。たとえばダニエル書7章を参照すると、別のニュアンスがある。そこには獅子や熊や豹など野獣が登場するが、それはバビロンやペルシアなど当時イスラエルを圧迫していた周辺の大国を意味する。野獣とは、貧しく弱い人々を脅かす武力や暴力なのだ。誘惑を受けた後宣教を始めたイエスも、政治的経済的宗教的な残酷な権力者と戦うことになる。そのことをマルコははじめから言っておこうとしているのかもしれない。
四旬節の典礼とのつながりで言うなら、洗礼志願者はイエスとともに戦う者、コンペテンテース(こちらを参照)になることを覚悟しなければならないということだ。しかし、イエスの後をイエスといっしょに歩く決心をするなら、神からさまざまな形で助ける力や人が送られる。それが天使だ。天使はただ翼をもつ存在ではない。生活の中で、また教会の中で私たちをあらゆる形で助けてくれる神の力だ。私たちもイエスのように天使に囲まれている。だから、荒れ野と言っても、ホセアが語ったように(2・16)、神との出会い、親密さ(インティマシー)、愛情、恋愛の場所という面もあるのだ。
悪霊(サタン)の誘惑を斥け勝利をおさめたイエスは、神の道を歩む完全なイスラエルのシンボルだ。そのために荒れ野は潤い花咲く場所になる。そうすると、荒れ野にはエデンの園のニュアンスも出てくる。おとなしくなった野獣に静かに囲まれるイエスというイメージを描くこともできる。だから、第三に、野獣には、否定的なニュアンスだけではなく、肯定的なニュアンスもある。美術作品ではよく、真ん中に座ったイエスの周りにさまざまな動物が描かれる。この場合、野獣がいるのは調和のシンボルだ。古いアダムではなく新しいアダムであるイエスが、神が造られた世界に平和に生きて、父なる神と兄弟とよい関係をもつことを示唆している。このことは、洗礼志願者に向けては、自分の中にあるさまざまな弱さに気づきながらも希望を失わず、兄弟たちや世界とよい関係をもつことができるというメッセージになる。この箇所は過去のためではなく未来のために書かれている。マルコ、そしてこの箇所を選んだ教会が志願者と信者に言いたいのは、イエスの後に歩く人は心の安定を見いだすということ。自分の心にさまざまな弱さがあっても、自分自身とも、世間とも、兄弟たちとも調和を保つことが可能なのだ。
キリストに癒やされた世界については、イザヤ11・6−8でイメージ豊かに表現されている。今日の箇所を理解するためにはこのような美しい箇所をぜひ読んでおきたい。そうすれば、アウグスティヌスの有名な言葉も思い出されるだろう。「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができない」。それは志願者の実感ではないか。
イエスに出会うことで、すべての問題が一気に消えるわけではない。イエスの道に入る人には、彼のように困難もある。けれども、イエスに出会いその名で洗礼を受ける人は必ず、平安が与えられる。サタンも乱すことができない内面的な平安だ。イエスに出会うことで命が再生するのだ。
第二に注目されるシンボルは第一朗読にある。それはノアの洪水の物語の最後に出てくる。中東には、7、8千年前に起こった洪水についての神話的伝承がある。その物語をもとにイスラエルの祭司文学は、人間の罪や神からの罰について考えた(創世記6・5―9・28)。すべてを創造した神が、ある段階で、人間を造ったことを自ら後悔しているようだ(6・5―7)。神は、人間が神自身ではなく、互いに対して、また自然に対して犯した恐ろしい悪に心を痛め後悔さえする。しかし、たとえ人間が悪いことをして洪水が起きても、残りの者――この場合はノアの家族――がいる。だから、悪があるとしても神への信頼を失わず希望を持ち続け絶望しないように聖書は語る。創世記のその箇所でも、神は新しい世界を約束する。古い世界の瓦礫の上に新しい世界が続けられるのだ。それはノアから始まる救いの歴史だ。
その救いのシンボルであるのが虹。虹はすぐ消える。せいぜい数分見えるぐらいだから、山のようにいつも見えるものではなく、直観的だ。そこに虹の魅力がある。私たちは虹を見ると、他の人にも見るように促したり、スマホで写真を撮ったり。その儚い美しさは神からの語りかけのようだ。虹は、ヘブライ語でケシェット。ケシェットとは、弓のように曲がったものを意味する。虹は天と地、神の世界と人間の世界をつなぐ契約のシンボルになる。
虹は大雨の後に現れる。虹は雨上がりのしるしだ。だから、洪水の後の契約の際に出てくる(創世記9・13−16)。注意しなければならないのは、契約と言っても、「あなたたちが罪を犯さないなら」という条件を神はつけていないこと。つまり、その契約は条件付きの契約ではなく、無条件の赦しであり完全な愛なのだ。そのしるしである虹も、私たちが見るものであるより先に、神自身がそれを見てその約束を自ら思い出すための目じるしなのだ。神は虹を見て、自分の約束を思い出す――人間を滅ぼさず人間を祝福するという約束を。神は罪人を滅ぼさず恵みで満たす。その愛は永遠の愛だ。そして、虹はその最初の契約のしるしだ。アブラハムのノアはまだイスラエル人人でもキリスト教徒でもイスラム教徒でも仏教徒でもなく、新しい世界の最初の人間なのだ。その彼の上に、神の考えられない愛と祝福が注がれる。
四旬節を考えると私たちがすぐに連想するのは断食や犠牲や苦行だ。ところが、今日の典礼はこのような聖書の朗読箇所によって、神に、そしてイエスに心を委ね希望をもつように勧めている。
第二朗読のペトロも彼なりの仕方で同じことを言っている。ノアの洪水の時、8人だけが救われたが、その8人は、罪を赦されただけではない。彼らが救われたのは、それによって新しく創造され生まれ変わって生きるためだ。だから、その赦しにはキリストにつながる積極性がある。洗礼の水は、一方では古い人間に死ぬことを、他方では新しい人間に生まれ変わることを意味する。それが本当に可能になるのは、イエスによってだ。イエスは十字架上で死んですべての人に命を捧げたから。教会は今日、新しい世界が生まれることを洗礼志願者に宣言する。
2018年
2月
12日
月
2018年
2月
04日
日
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1・31)
今日の箇所を含むマルコ福音書第1章の箇所は、活動を始めたイエスの一日を描く有名な箇所。マルコらしい素朴な記述で、イエス自身の言葉も少ない。その一日にはいくつかの場面がある。第一の場面(先週)は、四人の弟子を連れて会堂に入ったイエスが悪霊を追い出す場面。他の福音書と違い、マルコ福音書では荒れ野での誘惑は詳しく描かれていないが、先週の場面は悪霊と対決する場面だった。イエスにとって、また私たちにとって大切な場面だ。今日の箇所は先週の場面の続きで、まず、イエスがペトロの家に行きペトロのしゅうとめを癒やすエピソード。その癒やしはプライベートな出来事だが、続いて、夕方になって、安息日が終わる。安息日については1521の掟があり、病人の癒やしだけではなく見舞いさえ禁じられていたが、安息日が終わり、掟から自由になると、町中の人がペトロの家の戸口に集まり、イエスは癒やしを行う。第1章の最後には、重い皮膚病の人の癒やしもある。
ペトロの家はゲネサレト湖のほとり、会堂の隣にあり、近くにはいろいろな店が港まで並んでいた。ペトロのしゅうとめの癒やしのエピソードは短いため見逃されがちだが、大切で、安息日、高熱、女性といった、さまざまな神学的なシンボルがある。イエスは弟子たちに言われて、しゅうとめに近づくが、特別に何も言わず、彼女の手をとって、起こす。「起こす」という言葉はギリシア語でエゲイレイン。新約聖書ではマタイでもルカでも使徒言行録でも復活を意味する言葉だ。起こされた彼女は、救いのしるしとしてイエスをもてなし、兄弟たちをもてなす。「もてなす」という言葉はギリシア語でディアコノス。それは荒れ野での誘惑の後天使たちがイエスに「仕えていた」と言われるのと同じ言葉だ。だから、この癒やしは単純な癒やしではなく、イエスに奉仕するためのエピソードだ。ペトロの家は教会を意味する。病気の人のベッドの脇に教会が始まる。ペトロのしゅうとめはもしかしたらイエスと歩んでいた婦人たちの一人だったかもしれない。
悪霊の追い出しや癒やしといったエピソードがあって、小さな町で評判になる。そして、安息日が終わった瞬間に、人々がペトロの家の戸口に集まる。ありとあらゆる病気をもった人たちを中心に街中の人が集まったのだ。たいへんな騒ぎだったことだろう。
ただし、ここにすでに、マルコ福音書に繰り返し出てくるテーマが現れる。それは、イエスとペトロの考え方の違いだ。ペトロはイエスを理解するために長いあいだ苦労した。そのことをペトロはきっとマルコに話したのだろう。
その違いが特に出てくるのは、教えと癒やしの一日が終わった後の成功と人気の晩だ。イエスはみんなから注目され、大切にされ、求められる。ペトロ(まだシモンと呼ばれている)は、その人気を見てすぐに、それを利用しファルナウムに留まるようにイエスに勧めただろう。そこに問題が出てくる。次の朝のことだ。他の人たちが起きて気づく前に、イエスは一人家を出て、寂しいところに行って、祈る。振り返り考えるためだ。マルコ福音書には、私を拝むなら全世界を与えようという悪魔の言葉(マタイ4・9)について書かれていないが、同じテーマがマルコ独特の形でこの箇所に出ているのだ。一人で祈るイエスは、父なる神の前に立ち、どのような道を歩むべきか、神のみ旨が何かを考える。つまり、ペトロの勧めに従って、成功したカファルナウムにとどまるか。それとも、そこから出ていくか。弟子たちはイエスがとどまることを求める、「みんなが探しています」。イエスは却って、他のところに行くことを決心していた。人気にとどまるのは自分の道ではない、十字架の道を行くべきだ、と。その二つの道が、今日の福音箇所のテーマだ。イエスは気づいた、みんなが彼を探すのはイエスが宣言しようとする神の言葉ではなく、健康といった現世利益のためにすぎない、と。第一朗読で示唆されているように、父なる神は人間の苦しみに関心をもっていて、イエスもそうだ。しかし、彼が宣言したい神は苦しみを除いてくれるだけの神ではない。イエスの教会が存在するのもそのためではないとイエスは知っている。それを理解しない人たちは最終的に利己主義的で、神のことを理解できないのだ。このことはマルコ福音書の特徴で、それを聖書学者は「イエスの秘密」と呼ぶ。イエスは、悪霊の追い出しの時も、変容の時も、人に話さないように何度も指示するが、それはイエスが自分の人気ではなく神の言葉が受け入れられることを求めているからだ。だから、イエスは人々が王にしようとしたとき逃げたのだ。メシアの道は、現世利益や、人気、賞賛、名誉にあるのではないとイエスは理解している。彼にとって、癒やしの奇跡は、別の次元にある神のみ旨を理解するためのしるしにすぎない。父なる神への正しい信仰は奇跡から生まれるものではない。十字架によってのみ、彼の道ははっきりする。たとえばトマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』では、イエスの後に行く人は、奇跡の時は多いが、十字架の時は少ないと書かれている。
イエスの学校で教育を受けたペトロ自身、それがなかなかわからず、理解するのに一生かかった。イエスに関心をもちイエスを愛しているが、イエスの十字架を理解しない。受難を予告するイエスにも「そんなことがあってはなりません」と言って、「サタン、引き下がれ」と言われる。今の私たちの教会にも同じ危険がある。イエスの弟子になるのは、イエスから利益や慰めを受けるだけではなく、十字架の次元で生きること。イエスの秘密はそれによってのみ明らかになる。
ヨハネ福音書によると、イエスは他のところに行かなければならないと言う。イエスが離れることによって、弟子たちは一人前になり、イエスが来た意味を深く理解するようになるのだ。だから、キリスト教は強制的な宗教ではなく、自由を与え育てる宗教だ。今日の福音書は、イエスのような道を祈りのうちに見出すことを私たちに勧めている。
2018年
1月
28日
日
B年年間は第2主日にヨハネ福音書を読んでから、しばらくマルコ福音書を読むことになる。マルコによる福音書は4つの福音書の中でもっとも短く、言葉が少ない。そのため、長いあいだ注目されなかったが、現代の聖書学者はマルコ福音書を大切にする。マルコ福音書は最初に書かれた福音書で、マタイもルカもマルコを土台にしていると考えられている。マルコはペトロの弟子であることがほぼ確実だから、マルコ福音書にはペトロが目撃したイエスの言動が含まれている。そしてマルコ福音書はユダヤ人ではなく異邦人のために書かれたと考えられている。異邦人には今の私たちも含まれるだろう。キリストについて知るなら、マルコ福音書に戻るべきだし、人にも勧めるべきだ。マルコ福音書はそれほど大切な福音書なのだ。
マルコ福音書第1章は、洗礼者ヨハネに始まり、荒れ野での誘惑を経て、弟子たちの召し出し(先週)に続く。しかし、福音書はイエスの誕生に始まり死と復活に至るまでの単なる記録ではない。まず最初にイエスの死と復活があり、それによってイエスが何者かを理解してから、イエスの生涯を詳しく読むのだ。降誕節を終えたところの私たちは、イエスがどういう方かを知っている。イエスが預言者より大切な方、神から送られた救い主、神の子であることを知っている。これから私たちはマルコ福音書に導かれながら、イエスの行動を少しずつ見ていくのだ。それは私たちに深くかかわることだ。私たちの健康のために、私たちの再生のために、私たちの解放のためにイエスがどのように働くのかを私たちは少しずつ見ていく。それは信者である私たちの心が喜びであふれる時だ。
「一行はカファルナウムに着いた」。カファルナウムはゲネサレト湖のほとりにあった町。そこにはペトロが住んでいた家があり、そこに後に教会が建てられ、現在もその遺跡が残っている。イエスはその家に住むことになり、カファルナウムはイエスの活動の中心になる。
「イエスは」。新共同訳には訳出されていないが、「すぐに」という言葉がある。マルコはイエスが大切なことを行っていると言いたいのだ。「安息日に」。安息日はイスラエルにとって一週間で一番大切な日だ。安息日に男たちは会堂に集まって、聖書を読み解釈し、祈りをした。「会堂に入って」。マルコ福音書でイエスが会堂に行くのは3回だ。「教え始められた」。イエスが会堂に行くのは祈るためではなく教えるため。マルコはイエスの言葉の力を私たちに示したいようだ。「人々はその教えに非常に驚いた」。「教え」という言葉はまた出てくる。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。今日の箇所の最後にも「権威のある新しい教えだ」。そして、「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。「言うこと」は「教え」と同じ意味。だから、短い箇所の中に同じ意味の言葉が何回も出てきているのだ。そこに注意すべきだ。マルコにとってイエスは、教える者、師なのだ。
イエスが何を教えたか、マルコは言わない。ただ、イエスが教えたことを大切にする。そして、イエスの教えに対して驚きがある。「驚き」という言葉は2回出てくる。「人々はその教えに非常に驚いた」「人々は皆驚いて」。人々が驚いたのはイエスが「権威ある者」として話していたから。その比較の対象となるのは、律法学者たち、ラビたちだ。イスラエルでは、神学者が大切にされ、大祭司よりも尊敬されていた。彼らは、いろいろな学者の意見を集めて必要な時にそれを使って発言した。しかし、マルコが言うのは、イエスは律法学者のようではなかったから、人々は驚いたのだ。イエスは組織の中で任務を与えられていたわけではなかった。イエスの権威は彼自身から出てきていたのだ。イエスが公生活を始める前の30年間何をしていたかについてはいろいろな意見がある。マルコ福音書の別の箇所で、イエスは何の権威でこんなことを教えるのかと聞かれるから、イエスはどこかの学校で勉強したわけではないようだ。マルコが言いたいのは、イエスが神の子として私たちに語っているということ。イエスは神の子として私たちに語るのだから、イエスの言葉や行いに注意しなさいとマルコは言いたいのだ。イエスの言葉は人間の言葉ではない。その言葉は学者が繰り返す言葉ではなく、新しい世界を開く言葉だ。信者である私たちは聖書の箇所を何回も聞いたり読んだりしているから見逃す可能性もある。そこでマルコは注意する、この言葉は力のある新しい言葉だと。世の初めに、神はその言葉によって混沌からありとあらゆる美しいものを創造した。イエスは力のあるその言葉によって、私たちを癒やし元気にするのだ。
この箇所には「汚れた霊」が出てくる。同じく悪霊が出てくる第5章では、いろいろな説明が詳しくなされるが、今日の箇所はコンパクトにまとめられている。霊と言うと、宗教と心理学を区別するこんにちの私たちには理解しにくいものがあるが、当時のユダヤ人にはそうではなかった。 「かまわないでくれ」。原文では、あなたは私と何の関係があるかという言葉。それは、精神的道徳的な問題があって、絶望に陥り救いを期待しない人の反応だ。たとえるなら、病人が病気にあきらめをつけてしまって、病室の外に出ず、医者が近づいて治療しようとしても、希望を失っている状態だ。しかし、イエスはそれに納得しない。イエスは私たちの病気にあきらめない。たとえ私たちがあきらめて、自分は地獄に行くから「かまわないでくれ」と断ったとしても。イエスは、私たちの罪と弱さに納得しない。自分が神であることを捨て、自分の命を捨てるほど私たちを救おうとする。それが今日マルコが私たちに言おうとしていることだ。
「我々を滅ぼしに来たのか」。不思議なことに、「我々」と複数が使われているが、それは私たちの心の問題を意味しているともの考えられる。私たちの心は「一人」ではなく、分裂や矛盾があるからだ。私たちは子どもから大人になる時、周りの人たちからのいろいろな影響を受ける。母親や父親から聞いたこと、宗教の先生から聞いたこと、教会で習ったことを私たちは口にする。それで、私たちはみな、何か理想を抱いているが、生活は理想的でなく、傷や弱さを負っている。だから、私たちは人間関係が難しく、人間関係に悩む。夫婦であって、友人であっても、教会の仲間であっても、会社でも互いに傷つけ合ったりする。それは私たちが「一人」ではないからだ。 「我々を滅ぼしに来たのか」。たとえば、医者が子どもに注射しようとしても、子どもは医者が病気を治そうとしていることがわからず、痛いことをされるから、何か悪いことと思って嫌がるかもしれない。それが私たちの状態だ。ここでマルコは、私たちの洗礼の時の悪霊の拒否を思い出させているようだ。私たちもイエスに出会って洗礼を受けた時、そういう治療を受けたのだ。または何か自分に問題があって困った末に、赦しを願う力が出て告解を受けたことがあるかもしれない。イエスは汚れた霊との会話に入らない。イエスは私たちの態度にもかまわずに、ただ一言、「黙れ」。同じマルコ福音書で、湖の嵐が起きた時、眠っていたイエスを起こすと、海に向かって「黙れ」と言ったのと同じだ。すると、波は収まり穏やかになった。「黙れ。この人から出ていけ」。それは私たちが洗礼の時に聞いた言葉だ。今日もイエスは私たちの上でそう言う。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった」。イエスに会ってその声を聞いた時の深い感動が「けいれん」なのだ。
小屋の中に閉じ込められた動物は扉を開けても小屋から出ないことがある。それはその環境に慣れてしまっているからだ。私たちもそうだ。守ってあげるから外に出なさいとイエスが言っても私たちは小屋の中で安心に思って外に出ないのだ。当時の律法学者たちは、律法の決まりを600ぐらいに増やして、人を奴隷にしていた。イエスはそうではない。イエスは人を自由にする。たとえその人が気づいていなかったとしても。たとえば放蕩息子は父親に再会しても、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言って、自分が奴隷であるように思っている。しかし、父親はそうではなく、放蕩息子に服と指輪を与える。あるいは姦淫の女は、律法学者たちが石打の刑にしようとしていたが、イエスの言葉の後、一人ずつみんな帰ってしまった。「あの人たちはどこにいるのか」とイエスに問われるまで、彼女は自分が自由になったことがわかっていなかった。私たちはイエスの言葉によって自由にされ、その自由によって新しく生まれることができるとマルコは今日私たちに言いたいのだ。
「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」。福音宣教は癒やされた人たちの行動だ。これまで見えなかったものが見えるようになって、黙っていられないのだ。
マルコ第1章には、ペトロの姑の癒やしの後、さらに悪霊の追い出しがある。聖書学者によると、マルコ第1章にはイエスの一日が描かれている。個人的にも読むようにしたい。
私たちは神の子として語るイエスの力強い言葉によって自由になる。たとえそのことに気づいていなくても、たとえ周りに私たちを奴隷にしようとする人がいても、私たちは神から愛されているのだ。神の子として生きることができるように、マルコは今日イエスの力強い声を私たちに思い出させてくれたのだ。
2018年
1月
21日
日
2018年
1月
14日
日
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。(ヨハネ1・39)
降誕節や復活節などの季節以外は年間と言われる。英語ではordinaryだ。つまり「ふつう」という意味だが、よく見れば、ふつうではない。たとえば、今日の日曜日までに私たちは降誕節を過ごしたから、ベツレヘムで生まれた幼子について十分観想し、幼子が誰かを聖書の言葉に導かれて知っている。だから、これから年間に入ると言っても、普段に戻るということではなく、イエスの活動が始まるということ。それは大きなイベントだ。私たち教会共同体、そして私たち一人ひとりがイエスによって神に出会うからだ。私たちの生活にそれ以上に大きなイベントはありえない。私たちはこれから一年間、心の目を開いて、イエスがどう生きているか、どんな言葉を私たちに語るかに注目しなければならない。長い旅をするイエスの後に歩みながら、学ばなければならない。私たちはイエスの弟子になったのだから。
今日の第一朗読と福音朗読は出会いが中心だ。教会がサムエル記のこの箇所を第一朗読に選んだのは、サムエルが最初の預言者だったから。聖書はこの箇所だけではなく他の箇所でも、少年サムエルについて魅力的に物語る。当時はまだエルサレムの神殿はなかった。日本で言えば田舎の神社のような神殿に、年老いた祭司エリと侍者のような少年がいた。夜になると、祭司は自宅で休んだが、少年サムエルは、神殿に置かれている契約の箱の近くで休んだ。契約の箱は、日本の神輿のように神がその民に現存しているしるしだった。契約の箱の横には、聖体ランプのような明かりがその夜はまだ燃えていた(サムエル上2章参照)。なぜなら、当時は悪い時代で、人々は神から離れて金儲けに走り、エリの息子二人も堕落し(サムエル上1、2章参照)、神殿も神殿ではなくなっていた。それなのに、そこで神の呼びかけがあったのだ。腐敗した状態に慣れきっていたエリはそれを予想せず、少年が神の呼びかけを聞いても、すぐにはわからず、3回目になってやっと神の呼びかけだと悟った。この箇所を教会が今日の第一朗読に選んだのは、二人の弟子たちのイエスとの出会いが単純な出会いではなく、人生に深い影響を与える出会いであることをわからせるためだ。時間があれば、サムエル記上第1〜3章を読むと、とても勉強になる。
福音朗読を見よう。イエスの降誕から30年後のことだ。その30年間について福音書はほとんど書いていない。イエスが復活してからイエスの福音を書いた人たちは、イエスの降誕について神学的に非常に深いページを書いた。しかし、その30年間については何も書いていない。そして、イエスが34歳の頃に、突然すべてが始まる。神の子が神の力をもって私たちを癒やし救う活動を始める。その瞬間は、信者である私たち一人ひとりにとって大きなイベントだ。そのイベントについて教会は福音書の言葉によって黙想するように私たちを助ける。
B年の今年、私たちはマルコ福音書を読むが、年間第二主日の今日は例外的にヨハネ福音書の箇所を読む。この箇所は短いが、ちょうどシンフォニーのように、ヨハネ福音書に出てくるさまざまなテーマが含まれている。
この箇所は、呼びかけよりも出会いの箇所だ。「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」。洗礼者ヨハネはすばらしい人物だ。旧約聖書が終わって新約聖書が始まる瞬間に生きる最後の預言者で、力強い言葉と行いによってイエスが来るために心の用意をする。「歩いておられるイエスを見つめて」。ヨハネ福音書には目のシンボルがよく出てくるが、洗礼者ヨハネは、イエスに注目し、イエスを深く見る。私たちもそうすべきだ。
「見よ、神の子羊だ」。これはすばらしい言葉だ。現代日本に住む私たちは羊に慣れていないが、聖書では羊に深い意味がある。「神の子羊」とは過ぎ越し祭で屠られる子羊のこと。それは、暴力を奮って罪人を力で倒すのではなく、柔和な態度で罪人を受け入れる方だ。私たちはミサの聖体拝領の前にいつも「神の子羊」と歌うが、イエスが神の子羊とはどういうことか。イエスは私たちの罪を背負って、私たちの身代わりになった神の子だ。「見よ、神の子羊だ」―この人は、私たちの罪をかぶって十字架の上で死んだ。この言葉はたいへんな宝物だ。イエスは、ただの先生、ただの賢者ではなく、私たちの代わりに十字架の上で死ぬ神なのだ。
「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』」。洗礼者ヨハネの二人の弟子は自分が何を求めているかわからない。私たちも神を探しながらも何を求めているかわからない。イエスに出会う前、神がどういう方か、わからない。ただ何か悩みがあり、苦しみがあり、不安があり、物足りなさがあり、落ち着きがない―それが私たちの状態だ。個人的にも社会的にも家族的にもそうだ。だから、私たちは、何を探しているかを神に言えない。ただ苦労していて、ただ不安で、ただわからない。自分がなぜ生きているかわからないのだ。それで、彼らは聞く、「どこに泊まっておられるのですか」。この二人はイエスに、住所や電話番号を教えてくださいと言っているのではない。ヨハネ福音書では、「泊まる」「住む」「とどまる」(原語はいずれも同じ)という言葉には深い意味がある。あなたは一体誰なのか、どういう方なのか、あなたの本当のアイデンティティはどこにあるか、と二人は聞いているのだ。私たちはイエスとともに住まなければならない。
「来なさい」。イエスは長々と演説しない。ただ「私の後について来なさい」と言う。私たち信者はみな、ある時それぞれの形でその声を聞いた。「そうすればわかる(そして見なさい)」。私の後について来て、私の言うこと、私のすることを見なさい、私の弟子になりなさい。
「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ころのことである」。これはヨハネ福音書の大切なところだ。二人は、一日イエスといっしょにいて、見た。イエスはどんなことを話したか、二人はどう感じたか、二人の心にどう響いたか―私たちは知らない。私たちには想像もできない。でも、私たちは知っている。私たちもある時、そういう体験をした。私たちにも午後4時の体験がある。最初のきっかけを思い出そう。どういう人によってイエスに出会い、洗礼を受けたかを。信者になってから私たちは、疲れたり、納得できないことがあったり、教会に足りないところや問題があったりする。けれども、いつでもその最初の瞬間に戻るべきだ―イエスに出会ったその瞬間、イエスといっしょにいたその一日に。一生そこに立ち戻るべきだ。問題の解決はいつもそこにある。たとえば夫婦と同じだ。夫婦喧嘩をしたとしても、この人に出会った時、この人と結婚すると決めた時、この人といっしょになった時に戻るべきだ。そこに光がある。そこから問題を超えるための力が出てくる。
「[アンデレは]まず自分の兄弟シモンに会って」。一日が終わって、二人は納得し、うちに戻る。けれども、落ち着かない。人に言わなければならない。宝物を見つけて、みんなのために役に立つことを見つけて、黙っていられないのだ。キリスト教の宣教はそういうものだ。キリスト教の宣教は、信者を増やす義務からではなく、話をしたいという気持ちから始めるのだ。その気持ちがあるかないかが、私たちの信仰が生きているか生きていないかのしるしになる。もし私たちが、イエスに出会ったことを人に伝えたい心があれば、実際に伝えられるかどうかはどうでもいい。それは私たちの問題ではない。でも、人に伝えたい心があるかないかが信仰のしるしだ。
「そして、シモンをイエスのところに連れて行った」。もう一つの出会いがある。今度はペトロだ。ペトロのイエスとの出会いは大切だ。それは教会のイエスとの出会いでもある。ペトロはどういう人だったか。それは、ペトロの手紙や、福音書のあちこちの箇所からわかる。力のある人、リーダーシップのある人だ。でも、迷う時もある弱い人だった。そして、頑固なところもあり、えらそうにイエスに説教しようとした時もあった。
「イエスは彼を見つめて」。「見つめて」とは、ヨハネ福音書に典型的な言葉。「見つめる」とは、深く見ること。私たちははじめての人に会うと、まず外面的なことを見る。どんな格好をしているか、いい服を着ているか。私たちは外面的なものを見る。金持ちか、どんな家族の人か、賢いか、どんな勉強をしたか、どんなキャリアがあるか。私たちは人を見る時、過去と現在だけを見ようとする。イエスはそうではない。イエスは人を見る時、その人がどんな人になれるかを見る。それは神の観察だ。
「あなたはヨハネの子シモン」。これはペトロの家族を説明しているだけに見えるが、私はあなたの物語を知っているということ。私たちはイエスに出会い洗礼を受けたが、洗礼を受ける前にイエスの前に出て、私はこうこうこういう人で足りないもの、私は罪人ですとイエスに言うと、イエスは答える。私はあなたを知っている。あなたが生まれる前からあなたを知っている。でも、そうであるからこそ、聖人になれる。そういう罪人であるあなたこそ、そういう聖人になれる。あなたの欠点も、過去の間違ったことも、罪も、神の手の中で、作品に仕上げる材料になると。
「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」。つまり、あなたのその頑固さは、教会の土台になる。ペトロの弱さは、キリストに出会うための大きなしるしになる。イエスが受難にあった時も、まだわからずに、イエスを裏切るほど弱かったペトロが、イエスの手の中で、他の人がイエスに出会うためのしるしになる。それは、私たち一人ひとりの召し出しでもある。だから、神は私たちの過去ではなく、私たちの未来に、私たちの可能性に関心があるのだ。これがイエスの教えの中心であり、キリスト教だ。イエスのその教えは当時はスキャンダルだった。当時、罪人がイエスに近づくと、ファリサイ派の人たちはみな言った、この人は罪人と付き合っている、この人の友だちは悪人だと。それはスキャンダルだった。けれども、それがイエスの教えの中心だ。私たちはどんな弱さや限界があったとしても、どんな罪を犯したとしても、どんなことがあったとしても、イエスに出会うことによって、神が私たちを造った時私たちについてもっていた夢を実現することができる。
そのためにどうすればいいか。イエスに注目することだ。イエスの言葉を愛し、イエスの行動を見つめ、イエスを観想すること。一言で言えば、イエスの弟子になることだ。
今日、私たちはその呼びかけを聞いた。「来なさい」「見なさい」。今日から一年間、日曜日ごとに私たちは共同体の形でイエスに出会うことができる。だから今日は大きな喜びの日なのだ。
2018年
1月
07日
日
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)
主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。
「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。
(去年の黙想のテキストを再掲載)
2017年
12月
31日
日
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。(ルカ 2:22)
待降節で心を準備したあと、降誕節に入った私たち。待降節全体が感動の時期だ。生まれたイエスを、感動しながら見る。感動しながら見るとは、冷たく見るのではなく、心にぬくもりを感じながら見ること。それは宗教的な体験だ。降誕節とは、聖書に導かれて、乳飲み子イエスを見ながら、私たちにとっての意義や影響を考えて祈る季節だ。
生まれたイエスと、そばにいるマリアとヨセフ。今日は聖家族の祝日だ。この祝日が生まれたのは、教会の歴史からすると古いことではない。約300年前、カナダ・ケベック教区の初代司教が、フランスから移住した信徒のために、聖家族を模範とするグループを結成し、祈りやミサの祈願文を作って、聖家族を祝ったのが今日の祝日の始まりだ。それ以降、パパ様たちに認められ、さまざまな国に広がった。家族のテーマは教会にとって大切で、教皇フランシスコも全世界の司教たちを集めて家族についての意見を聞くシノドスを2回開いた。その総括として出されたのが使徒的勧告『愛のよろこび』で、8月に日本語訳も出た。
私たちは、聖家族を見ながら、聖家族に倣って生きるべきだ。もちろん、聖家族と私たちの家族の違いはたくさんある。何よりも私たちの子どもは神ではないし、聖家族とは時代も事情も違う。けれども、私たちは聖家族を模範とすべきだ。第一に模範とすべき聖家族の特徴は神の言葉に導かれること。マリアは、待降節第4主日に黙想したように、神の言葉に「はい」と答えた。神の言葉によって導かれたマリア。ヨセフもそうだ。ヨセフは、神の言葉を聞く者だ。彼の行動――マリアとの結婚、エジプトへの逃避、ナザレへの帰還――はすべて神に導かれたこと。キリスト者である私たちも聖家族を見ながら、神の言葉を中心として生きるべきだ。生まれたイエスはその言葉だ。第二の特徴は、子どもは神の賜物だが、親の所有物ではなく、神からミッションを与えられていること。親であるとは、子どもが神から受けたミッションを果たすためにそばで子どもに力を与えること。子どもが神から与えられた自分の道を見つけるように育てるべきだ。これはよく見ると、私たちがもつ人間的な考え方と異なる。私たちはよく、子どもは親のものであり、親の意志に従わなければならないと考える。しかし神が言うのはそうではない。子どもは何よりも神のものだ。親は子どもを成長させ教育するというミッションを与えられたのだ。この第二の特徴は今日の福音書の箇所からわかる。
今日の箇所を含む、ルカ福音書の最初の部分は、実は福音書で最後に書かれた部分だ。つまり、それは、起きた出来事の単純な記録ではない。ルカはイエスが誰であるかを知っていて、その信仰に基づいて、私たちにイエスについて話そうとしているのだ。ルカは、イエスがどのような生活を送り、どのような死に方をし、どう復活したか、そしてどのように教会の中に生きているかを知っており、そこから遡って最初のことについて書くのだ。だから、この点に注意して読まなければならない。言い換えれば、ルカは神学者として書いているのであり、ルカの言葉は深い意味のある神学の言葉なのだ。
ルカはイエスの誕生からイエスの洗礼のあいだにいろいろなことについて語る。その中に、今日の箇所であるイエスの奉献がある。奉献とは何か。ユダヤ人のしきたりによると、長男が生まれた40日後に母親と父親は神殿に上がり長男を神に捧げた。それは、生まれた赤ちゃんが自分たちが造ったものではなく、神から与えられたことを認めて、神に返すことだ。そして神からまた返してもらうためにいけにえを捧げた。金持ちは子羊一頭、貧しい人はルカが書くように「山鳩のつがいか、家鳩の雛二羽」を捧げる習慣があった。その式は母親の清めの式でもあった。
奉献の時、マリアとヨセフは、生まれたイエスが神から与えられたことを知っていたけれども、まだユダヤ人としての信仰をもって、聖書に従って行った。実際のところ、イエスは神であるから、イエスを神に捧げるということではない。ルカはそのことを説明するために、その時に起こった不思議な出来事を描く。だから、今日の箇所は、旧約から新約に移る瞬間だ。それは「聖書と典礼」の表紙のイコンからもわかる。二つの建物が書かれているが、右の建物はエルサレムにあったイスラエルの神殿を、左の建物はキリスト教の教会を象徴している(クーポラ(丸天井)は、正教会の教会堂に特有)。真ん中の言葉は聖書を意味している。これによって、旧約の預言者たちが伝えた神の言葉が実現され、約束されたメシアが生まれた、ということが描かれているのだ。
そこに突然、二人の年寄りが出てくる。二人とも、信仰深く、神を中心にして生活している。シメオンについては美しい言葉がある。「正しい人」、そして「イスラエルの慰められるのを待ち望み」。年寄りは先が短く過去を振り返りがちだが、シメオンは前向きだ。「慰め」は聖霊によって与えられる。彼は、ユダヤ人の中では一番いい者、いわゆる「残りの者」だ。イスラエルの民のうち多くの人が堕落し、わずかな人だけが忠実に、神の言葉を守りながら生きていた。シメオンはその一人だった。
もう一人は、アンナという女性。彼女の年齡の84は12かける7だが、12はイスラエル12部族、7は完全を意味する。若い時に7年間だけ結婚していたようだが、当時の結婚は13、14歳だったから、20歳の頃から未亡人だったことになる。その間ずっと神殿で断食したり、祈ったりしていた。「アシェル族」とは、イスラエル12部族の一つ。イスラエルの土地が分けられた時に、アシェル族は一番豊かな土地をもらった。しかし、金持ちになったから、どんどん神から離れて、異邦人の宗教と混交し、神の掟を忘れた。アンナは大勢に組みせず、反発する勇気があった。だから、自分の信仰を貫いて生き、神がメシアを送るのをずっと神殿で待っていたのだ。
マリアとヨセフがイエスを連れて神殿に入った時、神殿では何千人もの祭司が活動し、何千人ものの人たちが商売したり出入りしていたことだろう。しかし、神のメシアが近づいたと気づいたのは権力者でも宗教の代表者でもなく、この二人だけだった。この二人は、世間の多くの人たちの騒ぎの中で神に気づいたのだ。
これは今日、教会が私たちに示す模範だ。こんにち、私たちは似た状況にいる。騒がしい世界、いろいろな声が聞こえる世界、神について、教会についていろいろな意見がある世界にいる。シメオンとアンナのような祈りの生活を送り、心の静けさ、鋭さ、正しさをもつように私たちは勧められている。
だから、年をとることは問題ではない。問題はむしろ信仰がないこと、知恵がないことだ。必要なのは人を理解し人を助けることができる年寄りだ。そして、死とは終わりではなく、新しい世界に入ることだ。キリストに出会うことで、それまでの人生に意味が与えられるのだ。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。シメオンが唱えたこの言葉を、司祭と修道者は教会の祈りとして毎晩寝る前に唱える。この言葉の意味は、私は死が近いから、もうどうでもいい、若い人に任せるということではない。シメオンは、イエスがイスラエルのためだけではなく、全世界の救いのために来られたことに感謝しているのだ。素晴らしいのはそこだ。イエスは、神の憐れみを私たちに示すために来たのだが、憐れみはイスラエルにとどまらず、異邦人、全世界の人に伝えられなければならない。異邦人である私たちがキリストの知らせを受けキリスト者になったのは、イエスに会ったこのような人たちに伝えられたことなのだ。感謝したい。イエスは私たちのために生まれた。そして、その子は私たちのためだけではなく、人と分かち合うために生まれた。
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」。マリアへのこの言葉は一般に、イエスの十字架死による母マリアの悲しみを預言したものと解釈される。確かに、剣で胸を刺されている悲しみの聖母(mater
dolorosa)は、どのような時代でもカトリック信者から大切にされてきたイコンだ(禁教時代の日本に潜入した最後の宣教師シドッチも「親指のマリア」の御絵を持参していた)。ところが、ベネディクト16世は『ナザレのイエス』第3巻で「マリアから私たちは、本当の同情[=ともに苦しむこと]を、つまり感傷的にならずに他者の苦しみを自分の苦しみとすることを学ぶことができます」(私訳)と言う。世界の苦しみを負うこと、苦しむ人のそばにいることが教会のミッションなのだ。私たちの神は苦しむことのない神ではなく、憐れみ苦しむ神だからだ。教皇フランシスコも、教会は罪に苦しむ人に対して、野戦病院でなければならないと言う。
降誕節はまだしばらく、イエスの洗礼まで続く。少しずつ聖書の言葉を聞いて楽しみながら、先に進みたい。
2017年
12月
24日
日
「あなたは神から恵みをいただいた」。恵みとは神の命のこと。神の命、神の息があなたの中にすでにある。
2017年
12月
17日
日
2017年
12月
10日
日
神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。…」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(マルコ13・34−35)
私たちが属するローマ典礼の古い伝統によると、待降節第二主日と第三主日は洗礼者ヨハネが主人公。B年の今年、興味深いのは、一年を導くマルコ福音書の冒頭箇所、第1章第1節―8節が読まれること。
特に注目されるのは、第1節。この短い文は簡単には説明できないが、有名な4つの言葉が並んでいる。「神の子」「イエス・キリストの」「福音の」「初め」。「福音」と「福音書」は西洋語では同じ言葉だが、「福音の初め」というのは、たんにマルコ福音書の初めという意味ではない。この4つの言葉は、よく見れば、マルコの福音書全体のまとめだ。それは、マルコが、そしてマルコに続いて教会が世界に伝えようとする信仰のすべてだ。音楽の曲の最初に示されたモチーフが後からさまざまな形で表現されるように、この4つの言葉で言われていることは後にさまざまな形で語られるのだ。
マルコによる福音書は簡潔に書かれている。だから、古い時代にはあまり大切にされていなかった。しかし、現代の聖書学では最初に書かれた福音書として重要視されている。ペトロの弟子であるマルコがペトロといっしょに行ったローマで書いたとも考えられ、ローマ人のために書かれたと考えられている。また、復活祭の夜、全部を朗読するために書かれたとも言われる。こんにちでも通読が勧められる。全部を一度に読んでも、1時間半ぐらいで読め、全体の流れがわかってとてもおもしろい。
さて、最初の文の4つの言葉は日本語訳では順番が逆になっているが、ギリシア語原文では「初め」「福音」「イエス・キリスト」「神の子」の順番である。
簡単に説明すると、第一に、「初め」という言葉は、聖書では非常に重要な言葉だ。創世記の最初の言葉であり、(マルコ福音書の数十年後に書かれた)ヨハネ福音書の最初の言葉でもある。「初め」という言葉はギリシア語ではアルケーだが、この言葉は当時、ギリシア人の哲学者が重要な意味で使っていた言葉でもある。だから、マルコ福音書の冒頭のこの言葉は、神のわざによる根本的な始まり、新しい創造、失敗からの立ち直り、ゼロからの人生の再出発を連想させる。
第二に、「福音」は、ただ福音書ということではなく、文字通り「良い知らせ」ということ。この言葉はイザヤを連想させる。イザヤにとって、「良い知らせ」とは、奴隷が自由を得ること、奴隷の状態から解放されること。マルコ福音書のたくさんの箇所に癒やしの奇跡が出てくるから、「良い知らせ」とは体の癒やし、また心の癒やしのことだろう。「福音」という言葉にはまた、神の養子にされるニュアンスもある。
第三に「イエス・キリスト」。私たちにとって慣れ親しんだ言葉だが、ここで福音書ではじめて、イエスとキリストのつながりが出されたことになる。だからマルコは福音書の冒頭でその中心として、イエスはキリスト(救い主)であると言っているのだ。そして、ここで言われているのは、福音の初め、アルケーが、ただの理屈や知識や哲学ではなく、一人の人、具体的な人物であること。今年B年の一年マルコがエピソードなどいろいろな形で私たちに語るのは、イエスが救い主であることを知るためだ。このことをイエスの弟子たちのうちで最初に宣言したのはペトロだった(9・20)。ペトロはきっと、自分が最初にそう宣言したと自慢しながら弟子のマルコに言っただろう。さらに、マルコ福音書の最後で、弟子たちがイエスを裏切った後、ローマ人の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言う(15・39)。この言葉は、マルコ福音書の中心だ。ローマ人のために福音書を書いたマルコは、他の福音書記者よりもローマ人の百人隊長のことを書いたのだ。
要するに、マルコ福音書最初のこの一文は簡単なことではない。これはマルコ共同体の信仰宣言だったと聖書学者は言う。キリスト教黎明期において、イエスは本当に復活した、イエスは神の子であるということは自分の信仰を表明する信仰宣言だった。それはこんにちに至るまで教会とともに伝えられた信仰宣言だ。ペトロとマルコにとっては、この信仰宣言を伝えることが教会のミッションだった(16・20)。教会は、イエスがキリストであることを宣言するために呼ばれている。
次に洗礼者ヨハネ。マルコにとって、旧約と新約のあいだに洗礼者ヨハネがいるのは、メシア、キリストのための準備のシンボルとなる人物だから。マルコは、洗礼者ヨハネの姿を描く時、二つの特徴を強調して描く。それは預言者としての特徴とエリヤの生まれ変わりとしての特徴だ。洗礼者ヨハネは最後の預言者であり、預言者の役割を完全な形で果たす。それを表現するためにマルコが用いるのは、服装など外面的な特徴だ。私たちにはつまらない特徴に思えても、本当の預言者であることを示している(ザカリヤ13・4「毛皮の外套」)。いなごという特殊な食べ物も、パンがなく断食していたエリヤを連想させる文学的な装置だ。要するに、ペトロ=マルコは洗礼者ヨハネを、ユダヤ人のうちでメシアを待っている人の本物の人物として私たちに示したいのだ。
マルコの洗礼者ヨハネが伝えるメッセージは何か。洗礼者ヨハネの言葉は旧約聖書のマラキやイザヤなどのいくつかの言葉をまとめたものだ。聖書学者が想定するのは、福音書が書かれる前にイエスを宣教していた人たちが所持していて後に失われた覚え書。そこにはたとえば、イエスが救い主である証拠として旧約聖書のいくつもの言葉が記されていたと考えられている。マルコはその覚え書を用いているかもしれない。その覚え書には別の言葉も記されていただろう。イエス自身も変容の山から降りた時、洗礼者ヨハネについて言う、「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」(9・13)。
マルコによると、ヨハネには二つの根本的な役割があった。それは説教することと洗礼を授けることだ(ギリシア語ではケリュグマとバプテスマ)。洗礼者ヨハネはイエスとは違って、祭司の子だった。当時多かった祭司の一つの役割は、過ぎ越し祭などの大きな祭の際に、異邦人の国からエルサレムに上る巡礼者に教えを伝えることだった。ヨハネは異邦人の国との境界にあるヨルダン川で活動していたから、ヨハネの活動はまさにそのような役割から始まったのかもしれない。彼の説教は非常に力強く、言葉だけではなく、情熱を感じさせる。彼は、キリストが来ることを宣言しただけではなく、キリストの迎え方も力強く教えた。今日の箇所には、たくさんの人たちがエルサレムからもやってきたと書いてある。イスラエルには200年前から預言者が現れず、神の言葉が聞かれなかったから、洗礼者ヨハネが現れた時はみんなが集まったのだ。彼の説教の内容は厳しく見えるが、マルコは厳しさよりも魅力を強調する。メシアが来て、新しい時代が始まる印象が強い。
ヨハネは洗礼を授けるが、水と回心の洗礼だけだ。聖霊による洗礼はメシアが授けるはずだから。洗礼者ヨハネの弟子だった福音書記者ヨハネは特に、洗礼者ヨハネが花婿の介添人であることを強調する(ヨハネ3・29)。洗礼者ヨハネは神の子であるキリストとその民の婚姻のために来たのだ。
マルコによると、洗礼者ヨハネの態度は、キリスト者ももつべきだ。洗礼者ヨハネがキリストを宣言したのと同じように、教会もイエスが救い主であることを宣言する宣教の使命を受けている。マルコが示す洗礼者ヨハネは過去の人間ではなく、彼のミッションは今は教会がもたなければならないもの。ペトロは、教会はイエスの再臨に備えなければならないと言う(二ペトロ3・8−14)が、マルコの示す洗礼者ヨハネは、終末論よりも今の生き方にかかわる。洗礼者ヨハネは教会にとって、教会の福音宣教の模範だ。今日の第一朗読にある、慰めと解放をもたらす救い主を宣言する模範だ。私たちも洗礼者ヨハネのように、イエスの先触れであるべきだ。私たち一人ひとりも社会の中でキリストを伝える宣教師として神から派遣されている。
洗礼者ヨハネ、そしてマルコが宣言するイエスは強い人だ。このことはマルコ福音書のあらゆる箇所に出ている。イエスの愛は悪より強く、どこでも働くことができる。
マルコ福音書の洗礼者ヨハネ、そしてマルコ福音書の全体は、キリストに出会う喜びを告げている。そこには、キリストが来る道を整えることが可能だという信仰がある。罪が絶対的最終的な力をもっているのではなく、罪から立ち直ることができるという信仰の上に立っている。だから、私たちも自分が生きている環境の中でキリストの道を整えることができるのだ。キリストはこの道を一度来ただけではなく、私たちの世界のうちにさまざまな形でずっと来ている。新しい目で日々の生活を見直したい。
私たちも預言者だ。ただしキリスト者が預言者であるとは、ただ未来を予知するということではない。それはキリストをこの世にもたらすということだ。私たちは今、イエスをこの世にもたらすため、マリアのように身ごもっている。
2017年
12月
03日
日
それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。(マルコ13・34−35)
1ヶ月ほどだが、一年間の典礼の中でも魅力的な待降節。この季節を送るためにキリスト者は長い歴史の中でさまざまな音楽や美術を生み出した。私たちはこれから少しずつクリスマスに近づいていくが、町ではもうクリスマスの飾り付けがされ、クリスマス・ソングが流れているから、微妙な気持ちになる。けれども、それもまた、待降節を思い出すためのよいきっかけになる。
今日のミサの集会祈願には「(待降節の)歩み」という言葉があった。それは少しずつ近づくことだ。クリスマスはその時だけお祭りをするのではなく、少しずつ近づいていくものだ。キリストに近づく旅の季節が待降節だ。
簡単に言うと、待降節には、2つの大きなテーマがある。第一は、終末論。このテーマは前年A年の最後の方にもあったテーマだ。第二は、降誕祭を祝う準備だ。第一主日は終末論がテーマ、第二主日以降は、降誕を理解するために重要な人物が出てくる。それは、イザヤ、洗礼者ヨハネ、マリアの三人だ。今日も第一朗読でイザヤ書の素晴らしいページが読まれた。そして待降節でキリストの次に大切なのはマリアだ。待降節はマリアと深い関係がある。第二バチカン公会議において、司教たちはマリアを理解するために5月など他の季節より待降節を示唆した。待降節、マリアはお腹に赤ちゃんがいる。教会も同じだ。教会も妊娠している。私たちもそうだ。私たちのうちでキリストが生まれようとしている。私たちはこれから世界にキリストをもたらすのだ。
今年一年、私たちはキリストを知るためにマルコによる福音書によって導かれる。マルコ福音書は最初に書かれたと考えられている福音書で、一番短く、ユダヤ人でない人には一番わかりやすい。マルコは若い頃イエスの受難を目撃し、ペトロについてローマに行き、福音書を書いたと考えられる。
今日の箇所でイエスは「目を覚ましていなさい」と何度も繰り返していて、大げさなほどだ。私たちは徹夜で仕事をしなければならない時とか赤ちゃんが夜泣きをする時とか病気で寝られない時とかに一晩中「目を覚まして」いて寝られない。それは苦しみの状態だ。寝ないで仕事をすると、過労死の危険もある。他方、「目を覚まして」いることはよいこととも結びつく。マルコ福音書ではなくルカ福音書だが、二人の待つ人物が出てくる。シメオンとアンナだ。二人とも年をとっている。アンナは若い時夫をなくしてからずっと神殿の近くで暮らし、メシアが来るのを待っていた。ルカ福音書には、シメオンが歌った祈りが出てくる。その祈りを司祭や修道者は毎晩寝る前に唱える。
「神よ、いまこそ あなたは おことばのとおり、しもべを安らかに行かせてくださる。わたしは この目で あなたの救いを見た。あなたが万民の前に備えられた救い、諸国の民を照らす光、あなたの民イスラエルの光栄」。
だから、待つということには二つの面がある。一方では、苦しく重い気持ち、他方では、雅歌にもあるように、恋人を待つ気持ち。待降節は、この二つの気持ちが混ざっている。この箇所には、「気をつけて(いなさい)」という言葉もあるが、世の終わりが来るから、あるいは死の危険があるから事故などにあわないように注意しなさいという意味ではない。終末論と言っても、終末は悲しいことではなく、神が私たちを訪れるということだから。
イエスは30ぐらいのたとえ話を使っている。たとえ話は物語全体に意味がある。それに対して、今日の箇所はたとえ話というよりもアレゴリーだと聖書学者は言う。アレゴリーは、物語の一つ一つの部分に意味があるから、その一つ一つに注目する必要がある。
「家を後に旅に出る人」。タラントンのたとえ話もそうだった。主人は、旅に出ると見えなくなる。それは私たちの状態だ。万物の持ち主である神は私たちに見えない。イエスが十字架上で死んで復活し天に戻った後、弟子たちに見えなくなった。それはまさに私たちが生きている状態だ。
「僕たちに仕事を割り当てて」。日本語の訳は「仕事を割り当てて」となっているが、不十分だ。もとのギリシア語によると、僕たちに自分の財産をすべて、自分の権力をすべて渡したということ。つまり、神が私たちに渡したのはただのチップではないのだ。イエスが見えなくなっているあいだに、私たちに与えられたのは小さな役割ではない。私たちは神の持ち物をすべていただいたのだ。タラントンのたとえ話を思い出すと、1タラントンとは膨大な額だった。つまり、イエスが天に戻った時に、私たち教会に与えられたのは神の財産のすべてだ。私たちは下位の僕、ただの召使ではなく、神から大きな仕事を与えられたのだ。教会の時と呼ばれるこの期間は神にとって大切だ。だから、何よりもまずしなければならないのは、私たちに与えられた財産を調べて知ること。たとえるなら、医者にとって一番大切なのは患者の価値であり、教師にとって一番大切なのは生徒の価値だ。患者の価値を知らない医者はやぶ医者であり、教え子の価値を知らない教師はただの雇い人だ。この待降節の季節にまず第一にすべきなのは、職業という神から与えられた大きな宝物を理解すること。待降節の季節はそのような大きな黙想のための時期だ。そして、「責任をもたせ」。私たちに与えられた責任は一人ひとり違う。その人がその人に与えられた責任を果たさないと、代わりにその責任を果たせる人はいない。目覚めているとは、その責任の重大さを意識することなのだ。
「門番には目を覚ましているように」。目を覚ますとあるが、ギリシア語の原語を見れば、軍隊の言葉だ。私たちには想像できないが、夜中に敵がやってくるなら、門で見分けなければならない。「あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」。居眠りしてはいけない。なぜなら、居眠りしているあいだに、いろんな危険が入ってくるかもしれない。危険とは何か。私たちは洗礼を受けてキリスト者となり教会に通っているのに、生活の中でテレビを見たり人の話を聞いたりして、気づかないうちに、私たちの価値観がだめになる危険がある。この危険から私たちを救うためのイエスの言葉が「気をつけて(いなさい)」。神から離れた価値観が入らないように。
「いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」。ユダヤ人は夜を3つに分けたが、ローマ人は4つに分けた。マルコはローマ人の分け方に従っている。そして、聖書では有名な夜がいくつかある。天地創造の夜、アブラムが出発した夜、イスラエルがエジプトから脱出した夜、そしてキリストが復活した夜がそうだ。夜は、前後左右を見分けるのが難しい。私たちは薄暗い世界に生きている。しかし、いつか私たちは知らないが、大きな光が来る。主人が戻る。私たちに会いに、私たちを迎えに来るのだ。5人の賢いおとめたちのように、用意していたい。
待降節が始まった今日、そのような心で待降節を生きたい。具体的に何をしたらいいか。いくつかのアドヴァイスをしたい。第一に大切なのは神の言葉。待降節のために神の言葉が特別に選ばれている。「聖書と典礼」のパンフレットの最後のページに1週間の朗読箇所が書かれているから、自分の聖書を開けて、毎日読む。ミサは大切だから、日曜日には、いつもより早めに来て、ミサが始まる前に数分静かに祈り、神の言葉を聞くために心を整えるのが待降節にふさわしい。先日、パパ様がミサの前の沈黙について話したことが全世界のカトリックメディアに報道されている。だから、ミサの前に聖堂でも玄関でも世間話をしないようにする。ミサの前の時間は、神の言葉を聞くため心を整える時間だ。第二は告解。待降節は告解をする時期だ。告解する内容は、つまらない外面的な事柄ではなく、自分にとって大切な深い事柄について話すこと。所属教会でも他の教会でもいい。どの司祭でも頼まれたら受ける。第三は和解。いっしょに生活すると、問題が起きることがある。言葉のすれ違いとかで、関係がこじれることがある。待降節は和解する時だ。勇気を出して、自分から切り出すこと。たとえば誰かと関係が切れていたら、それを直すべきだ。待降節は、そのために神が私たちに恵みを与えてくださる時期だ。第四に祈り。できれば毎日家で10分間静かに座り祈る。そうすれば私たちの生活がずいぶん変わる。子どもたちにも祈りを教える。たとえば寝る前に静かにして神様に祈ることを。外面的なことも役に立つ。たとえば馬小屋を家に置く。部屋の片隅に飾って、その馬小屋の前で、毎日少し祈ったり。最後に宣教。待降節降誕節は代表的に宣教の時期だ。マリアはイエスを産んで私たちに手渡す。教会もマリアのようにこの世界にキリストを産もうとしている。私たちもそれぞれそのチャンスを探したい。友だちとイエスについて話をしたり、または友だちをクリスマスに教会に誘ったり。近所でも何かできないか。いつもと違ったこと、形あることをするのが大切だ。
待降節は簡単ではない。待降節を生きると気づくのは自分の足りなさだ。いくら神のために考えても、一生懸命やっても、足りないところが出てくる。それに気づくことが大切だ。私たちは完全な人間だから、神を探し求めるのではない。素晴らしい人間だから、神について人々に話すのではない。不完全な人間としてキリストについて語るのだ。教皇フランシスコは、あなたは誰かと質問されるなら、私は赦された罪人と答えると言う。私たちもみな罪人で、足りないところがある。足りないからこそ、私たちは神を求める。そして、神を求める心を人と分かち合うことも出てくる。よい季節を生きるように、お互いに力を出し合いたい。