毎週の聖句と黙想2019年(C)

2019年

1月

20日

年間第2主日

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562-63年、ルーブル美術館所蔵
パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562-63年、ルーブル美術館所蔵

  ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
 「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
 「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
 「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
 「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
 「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。

 「水がめ」はふつう焼き物だったが、ここには「石」とあり、十戒が刻まれ契約を意味する石を思い出させる。水がめが「6つ」というのはやはり新しい創造の数字。完全な日はまだ現れていないが、その直前、その曙だということ。清めの水で一杯であったはずの水がめが、空だったのは、係りの人がぼんやりして入れなかったから。人間はぼんやりして、大切なことを忘れ、意味のないつまらない生活を送る。それは人間の罪である。水がめの中に入れられる「水」はイエスによって私たちに与えられた神の恵み。私たちの空っぽの心を縁まで満たすほど入れられる。水は命のために基本的なものだが、ヨハネによる福音書ではイエスがよく水にたとえられる(たとえばサマリアの女)。
 しかし、救いが行われるためには、神の行いだけでは十分ではなく、「召し使い」が必要。「召し使い」という言葉はマリアも自分について使った(ルカ1・38「わたしは主のはしため」)。「召し使い」とは、イエスを信じてその言葉通りにする人。そこには、信仰という、ヨハネの典型的なテーマが出ている。イエスを信じて言われた通りにすると、救いが可能になる。
 「くんで」。イエスは私たちの心に、赦しや救いの希望を起こしてくださるから、イエスの言葉という冷たい水を空っぽの心に入れると、そこから汲むことができる。
 宴会の「世話役」とは、ギリシア語では「大祭司」と似た言葉。つまり、民に対し、教会に対し何らかの形で大祭司のような役割を果たす人を意味する。しかし、その世話役はするべき仕事をちゃんと果たさなかった。ぶどう酒を用意することもせず、ぶどう酒がなくなったことにも気づかず、ぶどう酒に変わった時にも何が起こったかわからないし、新しいぶどう酒がどこから来たかわからないという、頼りない世話役だ。世話役だけでなく、招待された人たちも、花婿でさえ、何も気づかなかった。わかったのは弟子たちと召し使いだけ。ヨハネは、イエスが「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という序章の箇所をほのめかしているかもしれない。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと出て来る。イエスのすることが人はわからない。
 よく知られていることだが、ヨハネは奇跡という言葉を使わない。奇跡という言葉は外面的だが、ヨハネが使うのは「しるし」という言葉。しるしは、外面的なことより、心の中のこと。神が働いていることに心の深いところで気づくこと。
 この不思議で美しい物語でヨハネが言いたいのは、今日(ヨハネの大切な言葉)こそ私たち一人一人にとっても大切な「時」だということ。私たちの生活の中に、私たちの周りに通りかかるイエスのしるしをよく読み取り、そのために神を賛美したい。

2016年の黙想の再掲載。

2019年

1月

12日

主の洗礼

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた。(ルカ3・21より)

ジョヴァンニ・ベッリーニ「キリストの洗礼」、1500―1502年、サンタ・コロナ教会(ヴィツェンツァ)
ジョヴァンニ・ベッリーニ「キリストの洗礼」、1500―1502年、サンタ・コロナ教会(ヴィツェンツァ)

 他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。

 第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。

 しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。

 そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。

 最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。

 

 洗礼者ヨハネはたとえば仏陀のように偉大な宗教者であり行者であり人格者だった。宗教的な権力と肩書もなく、その心の清らかさとその生活の正しさには多くの人が心を引き寄せられ水と回心の洗礼を受けていた。だから、彼が救い主でないかと誰もが考えていた。イエスも彼を愛し、彼の弟子たちが来たときには、彼を大いにたたえた。確かに、洗礼者ヨハネは旧約時代のすべての預言者の中でキリストに一番近く、キリストの道を用意する人物であり、花婿の友だった。しかし、彼は救うことはできなかった。私たちが神の国に入るのは道徳や正しい行いによってではなく、永遠のはじめから神に愛され救われているから。その愛はイエスの洗礼によって明らかになったのだ。

 毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。


(2016年の黙想の再掲載)

2019年

1月

05日

主の公現

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

フラ・アンジェリコ「東方三博士の礼拝」、1437―1446年、サンマルコ修道院(フィレンツェ)
フラ・アンジェリコ「東方三博士の礼拝」、1437―1446年、サンマルコ修道院(フィレンツェ)

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 

 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。 

 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 

 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。名誉教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

(以前の黙想のテキストを再掲載)


2018年

12月

30日

聖家族

「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)

ハインリッヒ・ホフマン「神殿にいる12歳のイエス」、1884年、ハンブルク美術館所蔵
ハインリッヒ・ホフマン「神殿にいる12歳のイエス」、1884年、ハンブルク美術館所蔵

 日本では降誕節とお正月が重なり、その結果、奇妙なことが起きる。世間では11月から店などでクリスマスツリーが飾られたりしてクリスマス気分だが、教会ではまだ待降節だから私たちはまだクリスマス気分にはなっていない。私たちがやっと降誕祭を迎え、その夜と次の朝にお祝いをすると、その25日にはもう、クリスマス気分は周りにない。安売りのケーキが売られているぐらいで、お正月を迎える雰囲気だ。もっとも、いつか日本がキリスト教国になったら、雰囲気はまったく変わるだろう。ヨーロッパやアメリカではキリスト教がすたれてきていて、アジアでキリスト教が勢いを増しているのが今の時代。

 典礼上、クリスマスは一日だけのお祭りではない。もちろん、降誕祭で私たちに与えられる言葉はとても大切だ。主の降誕の夜半や日中のミサの聖書の言葉は十分に消化できないぐらい豊かだ。けれども、それだけではなく、降誕のテーマはしばらく続く。私たちはいろいろなことで忙しくしていて気がつかない危険がある。たとえば今日、降誕祭直後の日曜日は聖家族の祝日と呼ばれる。聖家族とはイエス、マリア、ヨセフのこと。実は、教会で祝われる祝日としては比較的遅く定められた。もちろん教会にとって家族はとても大切だ。今のパパ様も家族についてのシノドスを開き、使徒的勧告『愛のよろこび』を出したほどだ。だから、この日に自分の家族や他人の家族のために祈ることは望まれるが、よく見ると降誕節の中の一日だ。12月25日から主の洗礼の祝日までは降誕節と呼ばれる。この間、聖書のとても大切な言葉が私たちに与えられる。それが私たちの信仰の根本だ。

 クリスマスと言うと、一般の人は、クリスマスツリーやサンタクロースを連想するだろう。少し知識がある人なら、イエスが生まれた時だと考える。しかし、それだけでは十分ではない。私たちがクリスマスに祝うのは、イエスが生まれたことだけではない。もちろん、イエスは実際に歴史の中で生まれた。ルカが書いたように「皇帝アウグストゥス」の時代に生まれたのだ。けれども、私たち信者がクリスマスに祝うのはもっと大切なことだ。2000年前にそこに生まれたその人が神であったこと、復活したことだ。だから、クリスマスはイースターと同じことを祝うのだ。それがキリスト者の信仰にとって一番大切なこと。私たちはこのことを念頭に置きながら、その降誕節の朗読を聞くのだ。

 C年の今年はルカ福音書を読みながら、イエスを見てイエスを知りイエスの後に歩むことになるが、今年の聖家族の祝日に私たちに与えられた朗読は少し不思議な出来事を語る。ルカがこの物語を書いたのは紀元70年頃。それは、イエスが宣教し十字架につけられ復活した後、キリスト教がローマ帝国に広がる頃だった。ルカは、イエスの復活のずっと後に、イエスの幼い頃のことを書いたのだ。ルカはその福音書と使徒言行録を書くときによく調べマリアからもよく聞いて、昔の出来事について書く。しかし、大切だが、ルカは細かい事実を記録するのではなく、神学者として書くのだ。つまり、何があったかを伝えるだけではなく、その出来事の意味を知らせようとする。ルカはその乳飲み子が誰だったか、どう生きて、何を教えて、どういう死に方をしたかを知った上で、昔のことを書いているのだ。そのために私たちは注意して読まなければならない。外面的な言葉の裏に、私たちのためのメッセージがあり、宝物があるから。

 「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」。イスラエルの民は年に2回神殿に上るように決められていた。けれども、ナザレはエルサレムへは100キロ以上かかったから、ほとんどの人はその規則を守らず、せいぜい年に1度上るぐらいだった。あまり信仰のない一般の人は一生に1度だけエルサレムに上った。しかし、マリアとヨセフは熱心な家族だったから、毎年エルサレムに上る習慣があった。興味深いことに、今日の福音書のこの冒頭には「両親」とあって「マリアとヨセフ」とは書いていない。後の箇所には「ヨセフ」という名前が出てくるが、ここに出てこないのだ。ルカにとって、この箇所の「両親」とはイスラエルの民の代表者を意味する。イエスもその両親からユダヤ人として育てられ、しきたり、行事、祈り、聖書を教えられたのだ。当時は私たちが知っているキリスト教はまだ存在しなかった。

 「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」。当時は、13歳になると一人前のユダヤ人として、儀式や食べ物に関するたくさんの掟を守らなければならなかった。12歳はその直前の年齢だ。今の日本では12歳は小学校を出る年齢なので考えられないが、日本で言えば成人式の直前の年齢に当たる。 「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」。外面的に見ればこの物語は少し奇妙だ。神から授かったかわいい子供を忘れて一日が経つとはありえないことだ。ルカはこの物語で何を言いたいのか。そのことを理解しようとして聖書学者たちはいろいろなおもしろいことも言う。当時はバスなどがなかったから、きっと歩いて帰ったが、男性と女性が別々に歩いていたのではないか。つまり、ヨセフとしては、イエスはマリアと特別な関係にあるから、あるいはまだ子供だからマリアといっしょにいると思い、他方マリアは、イエスはもう12歳で一人前だから父親といっしょに歩きたいのだろうと思ったなどと。聖書学者たちはそのような問題について考える。しかしながら、そういうことは実はなかったのだ。

 「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。エルサレムは小さい町だから、子どもを見つけるのに、そんなに時間はかからないはず。子供がいないと気づいてから3日の後に見つけるとはどういうことか。ルカは私たちに何を言いたいか。聖書に親しんでいる私たちはあることを思い浮かべる。イエスが死んで婦人たちが墓に行き墓が空であることを知ったのが3日目だ。

 「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。ここは少し注意すべきだ。日本語訳では「驚く」という言葉は今日の福音箇所に2回出ている。その一つがこの箇所。律法学者たちは子供の賢い返答を聞きながら驚いていた。ギリシア語原語では、ショックを受けるような驚きを意味する。それは、自分たちの考え方とちがったことをイエスが話していたから。つまり、ルカはこの物語で私たちに注意を促し、大人になったイエスを暗示したいのだ。この箇所には、ルカ福音書では最初のイエスの言葉について語られる。幼い時の物語はこのエピソードで終わり、20年足らず後、イエスの公生活が始まる。イエスの最初の言葉によって、それまで伝統を伝えてきた律法学者たちは驚いた。それは、その後、公生活が始まった時、イエスの教えに律法学者たちが驚いたのと同じだ。イエスは言う、「あなたがたも聞いているとおり、…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」(マタイ福音書5章参照)。

 もう一つの「驚き」は両親の「驚き」だ。それは理解できない「驚き」だ。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。心配した母の言葉は心に沁みるが、それに答えるイエスの言葉は厳しく聞こえる。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。それはエマオの弟子たちへのイエスの言葉とも通じる(ルカ24・25)。しかし、ここに「父」という大切な言葉が出ている。ルカが私たちに伝えたいのは、ベツレヘムでマリアから生まれヨセフが世話したこの子が、人間であるだけではなく、父なる神の子だということ。イエスが来たのは、私たちに神の本当の意志を伝えるため、だからこれから注意するように、とルカは言いたい。

 マリアとヨセフはモーセから受けた掟を大切にする人たちだったが、まだイエスの弟子ではなかった。マリアも少しずつ、神を尊敬しイエスの母である者から、イエスの弟子になる。そのことは、ルカ福音書の他の箇所からもわかる。イエスが宣教を始め評判が広がった時、親戚が心配し、マリアもいっしょになって、イエスをナザレに連れ戻そうとした。人が「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と言うと、イエスは言った。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8・21)。マリアもその一生を通じて、イエスの母からイエスの弟子になる過程を辿らなければならなかった。マリアも魔術的にイエスの母、神の母になって、何の苦労もなく過ごしたのではなく、イエスを少しずつ発見しながら、イエスの弟子になって、最後に弟子たちといっしょに聖霊を受けた。そのためにマリアは教会の母と呼ばれる。

 今日ルカが私たちに言いたいのはこのこと。注意しなさい、あなたたちがクリスマスにその誕生を祝ったイエスはかわいい赤ちゃん、弱い者の姿をとっているが、私たちの中に生まれた神であり、私たちはその弟子になるべきだ、と。気をつけなさい、世間から受けたメンタリティをイエスに清めていただき、イエスの弟子になるべきだ、と。ルカが今日私たちに伝えてくれるのはそのことだ。ミサの集会祈願に「聖家族の模範に倣い」とあるが、模範と言っても外面的なことではない。外面的にはマリアになることもヨセフになることもできないが、だいいち時代も違うが、私たちは、イエスの弟子になって、イエスに倣って歩んでいくのだ。 「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り」とあるのも、だからだ。当時座るのは先生のすることだった。今の日本の学校では先生たちは教壇に立つが、当時のイスラエルでは弟子たちが立ち先生だけが座っていた。福音書でも何度でも、イエスが座ったことが書かれている。そして、山上の説教のように宣言するのだ。イエスは今日私たちの真ん中に座って先生として私たちに教えようとする。弟子としての、また使徒としての心が私たちのうちに起こるように祈り求めたい。


聖家族の主日については、2016年2018年の黙想も参照のこと。

2018年

12月

23日

待降節第4主日

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)

エンカレム訪問教会(マリアがエリサベトを訪ねたと考えられる場所に建てられた教会)のモザイク(刻まれている文字はラテン語で、ルカ福音書1・39)
エンカレム訪問教会(マリアがエリサベトを訪ねたと考えられる場所に建てられた教会)のモザイク(刻まれている文字はラテン語で、ルカ福音書1・39)
 イザヤ、そしてヨハネに続き、マリアが待降節を代表する最後の人物として私たちをイエスへ導く。
 マリアは身ごもり、エリザベトの家を訪れて、3か月を過ごす――ルカ福音書の今日の箇所は、新約聖書では唯一、女性だけが登場するページであり、女性のやさしさと喜びが溢れる場面である。マリアから聞いたにちがいないこのエピソードを物語るとき、神学者であるルカは旧約聖書の一つのページを思い出し参考にしている。この点は、今日の箇所を理解するために非常に大切である。そのページとは、ユダヤ民族にとって、教会にとって、キリスト者にとって、メロディーが盛り上がるページである。
 サムエル記下第6章によると、神の箱はエルサレムへ運ばれるときにユダを通った。同じように、マリアはユダに行った。神の箱の前でダビデは踊ったが、洗礼者ヨハネもエリザベトの胎内で踊った。ダビデは「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と神を畏れたが、エリザベトも「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言った。ダビデとイスラエルの民のように、エリザベトも喜びの叫びを上げた。神の箱が3ヵ月間エドムの家にあったように、マリアはエリザベトのところに3ヶ月ほど滞在した。
 旧約時代、神の箱(聖櫃)は神が民のうちに現存するしるしだった。ルカが言うのは、神の現存をあらわすしるしが今はもう箱ではなく、生きた人間であるマリアだということ。木でできた神の箱が外側も内側も純粋な物質である金を貼られていたように、マリアは外側は罪から解放され守られており、内側は聖霊に満たされている。神の箱には神の掟を書いた二つの石板が保存されていたが、マリアの胎内には、神の御言葉そのものであるイエス、神の御旨をはっきりと実現するイエスが宿されている。だから、マリアの胎内は、神の新しい器である。
 ルカが私たちに言おうとしていることには、教会にとって、キリスト者である私たちにとってとても大切な意味がある。マリアがこの世にキリストを生み出したのと同じように、教会はキリストを生み続ける。その妊娠状態は今も続く。神は私たちにそれを求めている――マリアの胎内にもう一つの命が生きていて、その二つの命、その二つの心が切り離すことができないように、私たちがキリストとともに生きることを。クリスマスの深い神学的意味はそこにある。

(2016年の黙想の再掲載)


2018年

12月

16日

待降節第3主日

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエルチーノ「洗礼者聖ヨハネ」、1641年、ウィーン美術史美術館
ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエルチーノ「洗礼者聖ヨハネ」、1641年、ウィーン美術史美術館
 待降節第3主日は伝統的にガウデーテの主日と呼ばれる。ガウデーテとは「喜びなさい」(入祭唱、フィリピ4・4)という意味。昔も今も、司祭は薔薇色(つまり薄い紫色)の祭服を着ることができる。待降節の途中のこの日は、第二バチカン公会議の精神では、断食などの小休止というより、イエスの降誕を準備する喜びの日である。
 先週に引き続き今日の箇所でも主人公は洗礼者ヨハネ。ちょうどエルサレムに神殿が完成する頃であり、エルサレムには祭司が溢れ、エルサレムに住むことができない祭司が近くのエリコに住んでエルサレムに通うほどだった。それなのに、たくさんの人が洗礼を受けようとヨルダン川にいたヨハネを訪れた。先週の箇所にあったように、よく考えられた言葉を語るヨハネだが、今日の箇所ではもっと具体的なことを語る。
 たくさんの人が彼に聞く、「どうすればよいのですか」。これは人間にとって基本的な問いである。どう生きればいいか、どんな道を選ぶべきか、何が善で何が悪か。結婚する時、仕事をする時、人との関係において、財産などに対してどうすればよいか。救われるため、神のもとに行くためにどうすればよいか。
 ヨハネの返答は力強く重い。祈りや生贄などの宗教的な営みにはまったく触れずに三つの課題を示す。
1.分かち合うこと、与えること(「下着を二枚持っている者は…」)。これはイエスの教え(マタイ25・31-46)さえ連想させる。
2.徴税人は、正当である以上に人に要求してはいけない。正義に則り生きなさい。
3.兵士(さらに宗教的であれ政治的であれ何らかの権力をもつ人)は、自分の権力で人を脅し、束縛してはいけない。
 この三つの課題に続いて、もう一つの大切な点がある。それはヨハネが自分の権力を利用して自分を中心に置かないことである。そこに「霊と火」という二つの大切な言葉が出て来る。この二つの言葉によってキリストとは誰かが示されている。
 当時のやり方では麦を脱穀して、麦と殻を箕に載せて上げると、風で殻が飛ばされ、麦が残る。その風はイエスが十字架上で引きとった息(霊)である。殻は私たちの罪であり、イエスの愛の火によって燃やされる。
 ヨハネが教えるのはまだ自力の道徳である。彼の洗礼は回心の洗礼であるが、懺悔だけでは救われない。それに対して、イエスの霊と火によって救われたキリスト者の道徳は懺悔からでなく、愛された、救われた体験から始まる。
 ヨハネの言葉は非常に厳しい。第一朗読のゼファニアの預言も他の箇所を読めば非常に厳しい。けれども、ヨハネの言葉にはすでに示されている、キリストはもう来ていると。教会はそれに気づいて言う、ガウデーテ、喜びなさいと。

2016年(C年)の黙想の再掲載。

2018年

12月

09日

待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館
ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

2016年(C年)の黙想の再掲載。

2018年

12月

02日

待降節第1主日

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21・28)

Bernadette Lopez, from http://www.evangile-et-peinture.org/
Bernadette Lopez, from http://www.evangile-et-peinture.org/