毎週の聖句と黙想2019年(C)

2019年

6月

16日

三位一体の主日

 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14

バルトロメ・エストロバン・ムリーニョ「聖家族(セビリアの聖母)」、1665―1670年、ルーブル美術館所蔵
バルトロメ・エストロバン・ムリーニョ「聖家族(セビリアの聖母)」、1665―1670年、ルーブル美術館所蔵
 復活の主日から聖霊降臨までの復活節。一年でもっとも大切なその季節が終わり年間が始まる前に、二つの祭日が入ってくる。それは三位一体とキリストの聖体である。この二つの祭日は神学的というより歴史的な理由で生まれたもので、祝祭や信仰の公言という性格をもっている。だから、今日の三位一体の主日も、キリスト教の歴史に現れた神学的教義的な議論を紹介するためではなく、山に登ってから一旦立ち止まって景色を見てその美しさを楽しむように、または海の前で海を見渡してその広さと空気を味わうように、観想し祈るためにある。 
 私たちキリスト者の生活は起きる時から寝る時まで、出かける時も食前食後も、十字を切るジェスチャーと「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって三位一体を祝っている(テルトゥリアヌス)。キリスト教の一神教は、ただの一神教ではない。神は孤独な世界に生きるものではなく、愛の交わりなのだ。三位一体を否定するのは、美しさと輝きとユーモアを神に否定することだとバルトも言う。三位一体は聖書のいろいろな箇所に垣間見られるが、キリストの霊によってはじめて私たちにはっきりとあらわされた神秘である。私たちは今日の日曜日、その交わりの測り知れない美しさに憧れ感謝して賛美する。 
 ABCの三つの年の朗読箇所にはそれぞれのニュアンスがあるが、今年のC年のヨハネによる福音書の箇所では、三位一体の中の聖霊の働きに力点が置かれている。 
 第一に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。私たちの目はこの世の美しさと同時に苦しみに捕えられているが、まだ見えない新しい世界を霊が私たちに前もって見せてくれる。私たちにはつぼみだけ見えているが、すでに咲いている薔薇の花を霊が前もって私たちに話してくれる。だから、この世の苦しみにあっても私たちは霊の力によってすでに天国を味わうことができる。私がそれを聞くなら、神の国がすでにこの世にあるような経験が可能になっていく。
 第二に、「[霊は]わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(16:14)。この言葉からも、霊がキリストの霊であり、三位一体の中に分かち合いと交わりがあることがよくわかる。そして、三位一体から愛と真実が溢れ、ちょうど川のように私たちに向かって流れてくるとヨハネはキリストの言葉で私たちに伝える。愛はキリストの霊によって私たちの方に運ばれ、私たちはキリストの霊によって三位一体の中に運ばれ、同じ命を生きる。キリストは人間であり神であるから、そういうコミュニケーションができる橋になる。
 聖書によると、人間は神の似姿として造られた。それは、能力と意志が人間にあるというだけでなく、三位一体のイメージで造られたという意味だ。だから、数年前に話題になったように、ベネディクト16世も、人間のDNAは三位一体だと言った。別の言葉で言えば、たとえ能力がなくても、また口で言わなくても祈りを唱えなくても、人と交わり、人の苦しみを減らし喜びを増やす役割を果たして自分の周りに愛を注ぐなら、それが三位一体を信じることなのだ。「あなたが愛の行ないを見るなら、三位一体を見るvides Trinitatem, si caritatem vides」(アウグスティヌス『三位一体論』第8巻第8章第12節 )。 愛は口先の事柄、哲学的なことではない。逆に無神論者とは神を頭で否定する人ではなく、交わりを断り邪魔して、自分の周りに氷を張る人のことである。
 それで私たちはなぜ、人に愛される時、幸せかがわかる。私たちの中に流れる三位一体的な愛は、人間の本当の召し出しだから。そのために私たちは造られたから。孤独の原因は私たちの中にその愛がないところにある。その三位一体の愛は今キリストの霊によって、教会の秘跡、特に聖体の秘跡によって私たちの中に注がれる。今日は私たちがその神秘を感謝と喜びとともに祝う日曜日。

2019年

6月

09日

聖霊降臨の主日

しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ16・13)

エル・グレコ「聖霊降臨」、1604-14年頃、プラド美術館所蔵
エル・グレコ「聖霊降臨」、1604-14年頃、プラド美術館所蔵

聖霊降臨の主日についてはこちら、この日の福音についてはこちらこちらを参照下さい。

2019年

6月

02日

主の昇天

そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ24・51)

ピエトロ・ペルジーノ「昇天」、1495―98年、リヨン美術館所蔵
ピエトロ・ペルジーノ「昇天」、1495―98年、リヨン美術館所蔵

2019年

5月

26日

復活節第6主日

聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ  「使徒たちに別れを告げるキリスト」、1308―1311年、ドゥオーモ(シエナ大聖堂)美術館所蔵
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ 「使徒たちに別れを告げるキリスト」、1308―1311年、ドゥオーモ(シエナ大聖堂)美術館所蔵
 今日は復活節第6主日だが、まだ復活節だということを私たちは忘れてしまいがちだ。神が近くに来ていろいろなことを私たちに経験させたにもかかわらず、私たちは世間のことに気を取られて復活祭を遠くに感じる危険が大きい。けれども、信者にとって大切なのは意識すること。イエスは今私たちのうちにいるのだ。福音書には、十字架にかけられたイエスが弟子たちのうちに生きていることがはっきりと書かれている。
 復活節第5主日と第6主日はヨハネ福音書13−15章から選ばれた箇所が読まれる。いずれも最後の晩餐の時のイエスの話だ。どの福音書も深いが、ヨハネ福音書は特別な言葉遣いだから、私たちは読むのに苦労する。しかも、教会のミサでは福音書が少しずつ読まれるが、私たちは先週の日曜日の箇所を忘れ、次の日曜日にどの箇所を読むかもわからなかったり。ミサで特定の箇所だけを読むと、理解に苦労する。今日の箇所で一体ヨハネがイエスについて何を言いたいか。私たちの頭だけではなく、私たちの全体に何かを経験させたいのだろうが、一体何を経験させたいか。ここでは、今日の箇所の全体について話すより、輝くダイヤモンドのように印象的な3つの点にしぼって説明したい。
1.23節から25節まで。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」。この最初の言葉は有名な言葉だが、よく誤解される。この言葉を読んで私たちは自然に、掟を守ることでイエスへの愛を示さなければイエスから愛されないと考えてしまう。しかし、それは人間的な考え方だ。たとえば、父親が子どもに「もし何々するなら、愛するよ」と言うなら、それは条件つきの愛だ。しかし、この言葉をそのような意味で理解するなら、まったくの間違いだ。注意しなければならない。イエスが言うのは、あなたたちが掟を守って私への愛を示すなら私はあなたたちを愛するということではない。イエスが言うのは、私を愛するなら、私の言葉を守ることができるということ。そして、私たちはイエスに愛されたからこそ、イエスを愛しイエスの言葉を守ることができるのだ。つまり、福音書を読むときには、常識とはまったく逆の考え方をしなければならない。たとえば、ルカ福音書の有名なたとえ話、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話がそうだ。二人とも祈りのために神殿に上がったが、ファリサイ派の人は、自分は他の人とちがって十二分に掟を守るから、神から愛されていると考えた。イエスが言うのはそれは大間違いということ。それに対して、「神よ、私を憐れんでください」と胸を打ちながら祈った徴税人こそ、赦されて愛を受け家に帰った。今日の箇所のイエスの言葉もそういうことを言っている。これはキリスト者にとって大切な点であり、今日の箇所の第一のダイヤモンドだ。私たちはイエスから愛されその愛に答えようとするからこそ、イエスの新しい生き方に倣うことができ、家庭や社会でイエスの言葉を守ることができる。イエスから愛されてイエスを愛するのでない限り、私たちはどう生きるべきかがわからない。イエスの愛によって私たちはキリスト者としての信仰生活を送ることができるのだ。
 「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものでなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。父とイエスは一つ。父なる神の言葉はイエスによってわかる。イエスの顔の上に父なる神の光が輝いている。今日の箇所の前の箇所では、弟子の一人が「御父をお示しください」と言うと、イエスは答える、「わたしをわかっていないのか。私を見た人は父を見た」。キリスト者とはイエスの顔の上に神の輝きを見ることができた者だ。神は見えない。しかし、人間が目で見ることができない神がイエスによって人間のそばに来た。イエスの言葉、彼が送った生活、彼が示した愛の態度を見ることで神がどういう方かがわかる。先の日曜日の福音に「わたしがあなたがたを愛したように」とあったが、イエスの態度によって神がどういう方かがわかり、生きる意味もわかるのだ。だからこそ、キリスト者にとっては、掟よりイエスとの関係が大切なのだ。
 「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」。これは奇妙な言葉だが、ヨハネが最後の晩餐について書いたのは何十年も後のこと。すでにイエスは見えなくなっていた。だから、このような言葉は復活したイエスの言葉と言える。
 以上が第一のダイヤモンドだ。その前にとどまり、祈りの心をもって黙想してそのきらめきを楽しみたい。
2.「しかし」。話は変わる。「弁護者、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。今度は聖霊がテーマだ。弟子たちは、イエスが見えなくなることを察し不安に感じる。そこでイエスはその新しい状態を説明するのだ。イエスが使うのは弁護者という言葉だ。この言葉は裁判に関する言葉だ。
 ヨハネはきっと若いときに、イエスの裁判を経験しただろう。その不正な裁判はヨハネにとってショックであったにちがいない。だから、ヨハネの福音書には裁判に関わる言葉がいろいろ出てくる。
 こんにちの弁護士は報酬を受け取って他人の弁護をする職業だ。しかし、当時の弁護者は今とは違っていた。私たちは(間違いであったとしても)何かのことで訴えられ裁判にかけられることがある。それは人生の危機だ。その時、友だちと思っていた人たちも離れて、孤独に陥り、釈明しようとしても、誰も助けてくれなかったりする。こんにちの拘置所ではうつ病になる人が多いようだ。そして、妄想に襲われ、無実であっても自分に非があったかもしれないと考えたりする。ところが、古代世界では裁判に友人を連れて来ることが許された。日本語の「弁護者」という言葉は、自分のためになることを言ってくれる第三者を意味するが、ラテン語のadvocatusは呼ばれた人を意味する。訴えられた人は裁判に友だちを呼んで、隣に座ってもらうのだ。隣に友だちがいたら、気持ちも落ち着き助けられる。友だちはたとえ他のすべての人が離れて逃げたとしても、そばに来て味方して話してくれる。お金のためでなく、友だちとしてただで助けてくれる。イエスが聖霊を表現するために使う「弁護者」はそのような人のことを意味するのだ。
 「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」。これはヨハネ独特の表現だ。ヨハネにとって復活節は50日ではなく1日だ。つまり、イエスは十字架上で復活した。ヨハネの福音書によると私たちは今その一日を過ごしているのだ。その一日の中で、イエスは死ぬ前に、最後に大きな叫びを上げて、息を引き渡した(日本語訳では「引き取る」となっているが、原文では「引き渡す」)。その息はふつう人が死ぬときに吐く息ではない。イエスは私たちのために悪と戦った戦いの最後に、自分のすべてを出し切って、私たちにその息をくれたのだ。その息は神の命であり聖霊だ。それによって罪人は立ち直ることができる。ちょうど春の風が吹くとき蕾が花開くように、イエスは死ぬ瞬間にその息を私たちに与え、私たちは新しい命に再生することができたのだ。
 ルカ福音書には不正な管理人のたとえ話がある(16・1-8)。管理人はあるときに訴えられ、主人に呼ばれて、会計の報告をするように言われる。彼を訴えたのは悪魔だ。神に造られた人間が滅びることを望むのが悪魔だから。悪魔は私たちを誘惑するだけではなく、私たちに嫉妬し、神の作品である私たちを滅ぼそうとするのだ。その時、イエスは自分の霊を私たちに送る。その霊は私たちを弁護し助けるのだ。
 ヨーロッパの中世にこのような神学的テーマを描いた絵がいろいろな教会にある。人は死ぬと天秤で魂が図られる。悪魔はその人を地獄に落とすために、一方の皿にぶら下がる。ところが、反対の皿に、マリアが抱いたイエスが足を入れるから、その人は天国に入ることができる。このような視覚的な表現で中世の庶民が表現したことが今日の箇所では言われている。私たちは罪人だから、自分の魂を何度も悪くするが、イエスは私たちを救うために自分の命を捧げてくださった。その命が聖霊だ。
 「あなたがたにすべてのことを教え」。聖霊は教える。ただし、外面的な教師として命令するのではなく、私たちのうちに住んで、何がいいか悪いかをうちから私たちに教えるのだ。それはすばらしいことだ。つまり、イエスは聖霊を送ることによって私たちのものの感じ方を直すのだ。私たちは毎日の生活の中で何がいいか何が悪いかよくわからない。いい匂いを感じなかったり、いい音が聞こえないというようなものだ。ところが、聖霊を送ることによってイエスは私たちを深いところで癒やしてくださる。だから、私たちは神に祈り、神と語り合うことができる。祈りと言っても、外から無理に押し付けられた祈りではなく、私たちの心の中から起こる祈りだ。パウロも言うように、その霊がなければ、私たちは父なる神に向かって子どもとして「アッバ」「父よ」「お父さん」ということもできないのだ。そして、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。私たちは聖書を読んでも忘れてしまうことが多い。しかし、思い出させるのが聖霊の働きだ。私たちは聖書の言葉の重みもわからないことが多いが、聖霊はその言葉に重みがあることを感じさせる。
3.「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。平和とは戦争と戦争のあいだの休止期間ではない。北朝鮮とアメリカの戦力の均衡を維持することが平和ではない。イエスが私たちにくださる平和は安定する平和であり、人間として生きるための平和なのだ。

(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)


2019年

5月

18日

復活節第5主日

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)

 復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。

1.ヨハネの福音書では最後の晩餐の話は4つの章にわたる長い話。イエスが話したそのままではなく、ヨハネの教会が長い間に黙想しながらいろいろ編集したものだ。だから、この話がどんなジャンルに入るかを理解する必要がある。それは、旧約聖書にもある、太祖たちが亡くなるときの荘厳な話である。旧約聖書では、モーセとかいろんな人が死ぬときに長い話をする。自分の教えのまとめとして、それまで大切にしてきたこと、子供たちに対するアドヴァイスや未来の予言を語る。それは普通の会話ではなく、子供が聞くべき、受け容れるべきことを言い残すものだ。そのことを示しているのは、ヨハネはここで使っている一つの特異な言葉だ。それはギリシア語のテクニアであり、「小さい子供たち」を意味する。ヨハネはこの言葉をこの箇所でだけ使っている。つまり、イエスは父親として、仲間に話をしている。この点が大切だ。ヨハネの福音書では最後の晩餐のイエスの話は彼の教えのまとめとして重要な箇所だ。
2.今日のために教会が選んだ第2朗読の箇所とも関係して、一つの言葉が目立つ。それは「新しい」という言葉である(第2朗読「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」「万物を新しくする」、福音朗読「新しい掟」)。それは、復活祭によって私たちが新しく創造され、死がなく涙も嘆きもない世界に生まれ変わったことを意味する。
3.もう一つ注意すべきなのは、「掟」という言葉だ。ギリシア語ではエントレとある。それは掟だが、義務ではない。愛は押しつけられることではない。どうして掟で愛することができるだろうか。日本語では「道」と言うのがいい。一発で守りなさいと言うのではなく、新しい道をあなたたちに開くという意味だ。使徒言行録でもキリスト者は「この道に従う者」(9・2)と呼ばれている。それはイエスの道だ。彼が押しつける掟というのではなく、彼が実際歩いた道だ。
4.ここで大切な言葉は「(私が愛した)ように」だ。ギリシア語ではカトースとある。旧約聖書にも自分と同じように人を愛するという愛の掟があったが、イエスが愛したようにというところに、この掟の新しさがある。これがわかるためにはイエスの生涯を振り返らなければならない。それは、7の70回赦し、復讐せずに右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、マントをとる人に下着を与え、敵のために命さえ捧げ、愛すべき人だけでなく愛することができない罪人をも愛する愛だ。このような愛が基準になる。これが福音書で大切なところだ。イエスの弟子であるとは、祈りでも権力でも力でもなく、オルガニゼーションでも人より勝った生き方でもなく、道徳でもなく、ただイエスが愛したように愛すること。それが言葉だけでなく現実になることが教会の基準だ。
5.愛は命令から、外から来るのでなくて、新しい状態から出る。私たちが生まれ変わり、新しくされたからこそ、その新しい状態からその愛が自然に出てくる。ルールではなく、中から、心から出てくる。教会の中にあるすべての良いこと美しいことは与えられた愛から生まれる。
 カトースには「ように」(基準)という意味だけではなく「から」(理由)という意味もある。だから、イエスが愛した「ように」愛するだけでなく、イエスが愛した「から」愛するのだ。

(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM


2016年の黙想の再掲載。

2019年

5月

12日

復活節第4主日

わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)

「戦士としてのキリスト」、6世紀、アルチヴェスコヴィーレ礼拝堂( 大司教館礼拝堂、ラヴェンナ)モザイク
「戦士としてのキリスト」、6世紀、アルチヴェスコヴィーレ礼拝堂( 大司教館礼拝堂、ラヴェンナ)モザイク
 山があり羊が多いイスラエルの地では、羊飼いは馴染みのある職業。旧約聖書ではまずアベルが羊飼いで、アブラハムもヨコブもモーセもダビデも羊飼いだ。神もイスラエルの牧者と言われる(詩編など)。メシアも、聖なる民を牧する者として預言されてきた。そして、福音書記者ヨハネは復活のイエスがキリストであり神であることを示すために、羊飼いという象徴(シンボル)を使う。教会が復活節に羊飼いのテーマをとりあげるのはそのためだ。
 よい羊飼いイエスと言うと、私たちはルカを思い出す。失われた羊を探しに行く羊飼いイエスは、キリスト教美術でも好んで描かれ、子羊を肩に乗せた姿で親しまれている。それはやさしさ(パパ様の言う「テルヌーラ」)のイメージだ。ところが、ヨハネは少し違った特徴に注目する。それはやさしさより、力、勇気、強さ、タフさのイメージだ。羊を盗もうとする泥棒や強盗(1節など)から羊を守る者、羊を食い殺そうとする狼と(ライオンや熊と戦ったダビデ(サムエル記上17・34-35)のように)命がけで戦い、羊を救い出す者がヨハネの言うよい羊飼いなのだ。結局、ヨハネが言いたいのは、イエスが絶対的な救い主であること。ただ(無償)の愛を注ぎ、命を与え守るイエス。救いはそこから始まる。イエスの後を行けば、確実に救われるから、彼に命を任せることができる。だから、「羊飼い」とはただの比喩ではなく、「救い主」「メシア」という言葉と同じように、復活のイエスを示すためのキリスト論的称号なのだ。
 では、救われるには具体的にどうしたらいいか。27節には三つの大切な条件が出て来る。
1.第一は聞くこと。
 そもそも教会の信者とはキリストの言葉を聞く者である。グループの作り方はいろいろあって、例えば互いに似た者や気が合う者、共通の趣味をもつ者同士が集まりグループを作るが、キリストの教会に属する根本的な特徴は、キリストの言葉を聞くことにある。キリストの声を聞くことから、すべてが始まる。
 聞くという言葉は旧約聖書でも大切だ。イエスエルへの神の最初の言葉は、「シェーマ、イスラエル(聞け、イスラエルよ)」だった。
 司祭でもパパ様でもなく、まず第一にキリストの声を聞くこと。司祭の言うことは、ただキリストの言葉を伝える限りで聞くべきだ。(復活節第4主日は世界召命祈願の日ではあるけれども)教会の牧者はただ一人キリストだけだから。
 「聞き分ける」。世の中には、テレビとか一般の常識とか、偽物の声がいっぱいある。キリストの声を聞き分けるためには、聞き慣れる必要がある。クリスマスとイースターにしか教会に来ないなら、聞き分けることができない。
 第二は知ること(「わたしは彼らを知っており」)。知るという言葉は旧約聖書では、婚礼を意味し、夫婦の関係を示す。それは、親しさ(インティマシー)の関係、互いに譲り合う愛の関係だ。
 第三は従うこと(「彼らはわたしに従う」)。イエスの後を行くにはイエスを知るべきだ。イエスはずっと人によい行いをして生きたとペトロも説教で言う(使徒言行録)。イエスを知りイエスの真似をすることで私たちは救われる。
 救われると言うと、死んでから天国に行けるというだけの意味ではない。この世でも生きるべき命を生きること、自分の命を本当に生きることを意味する。それがイエスが与える命である。イエスはその力を与えるからだ。だから、永遠の生命とはもちろん死んでも永遠にという意味もあるが、終わりのない命というよりも、神聖な命、神の命を意味する。イエスがその命を与える。
 こうしてヨハネが言う羊飼いは絶対に頼れる者であり、だから私たちは自分の命を失うことがない(「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」、28節)。なぜか。それこそが父なる神の意志だから。その権限を神がイエスに与えたから。イエスと父とのあいだには絶対的な関係があるから(「わたしと父とは一つである」、30節)。これが復活祭の意味である。そのために私たちは復活節にこの箇所を読む。
 電気製品を買うと保証書がついている。何年間かは故障しても修理してもらえる。イエスが羊飼いであるとは、絶対的にイエスが救い主であること。だから、イエスに従う人は絶対に後悔しない。
********
 画像は、「戦士としてのキリスト」のモザイクであるが、ヨハネ福音書独特の「良い牧者」を表現しているものとして掲載した。キリストが足で踏みつけているライオンと蛇は、悪魔と人間の心と体にある悪を意味する。

2016年の黙想の再掲載。

2019年

5月

04日

復活節第3主日

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。(ヨハネ21・7より)

ジャン・ジュヴネ「奇跡の大漁」、1695―97年、デトロイト美術館所蔵
ジャン・ジュヴネ「奇跡の大漁」、1695―97年、デトロイト美術館所蔵
 ヨハネ福音書は本来20章で終わる。21章は、おそらくヨハネの死後に誰かが書いたページだ。どういう人が書いたかもわからないが、大切な教えが書かれていて、古くからヨハネ福音書の最後に合わせて伝えられている。心に染み入る二つのエピソードが記された有名なページだ。
 最初のエピソードはこうだ。イエスが十字架上で死んだ後の弟子たち。エマオの弟子たちもそうだったが、絶望して自分の生活に戻る。しかし、以前とはぜんぜん違う。7人は以前にいた湖で昔からよく知っている仕事をするのに、実りがない。夢が消えてしまった真っ暗な夜の不安。
 そこにイエスの声がする――「何か食べる物があるか」。食べ物だけではなく、立ち上がるための、先に進むための支え、生きる希望があるか、というニュアンス。湖畔で火を起こして朝食を用意していたイエスは、失敗した子どもを迎える母親のようだ。イエスの言葉通りにしてとれる魚の数153(17番目の三角数、ナルシスト数など数学的にも特異な数)は、絶望を越える可能性と教会の普遍性を意味する。

 もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。

 このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。


2019年

4月

28日

復活節第2主日

信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)

ベルナルド・ストロッツィ「疑い深いトマス」、1620年頃、ポンセ美術館所蔵
ベルナルド・ストロッツィ「疑い深いトマス」、1620年頃、ポンセ美術館所蔵
 復活から昇天を経て聖霊降臨に至る復活節の50日間は、教会にとって一年で一番大切な時節。新約聖書だけが使われるなどいろいろな特徴があるが、イエスの復活を知った弟子たちの物語を通じて、私たちもイエスの復活を経験することができる。そこにはいろいろなエピソードがあり、違った角度からイエスの復活を経験することができる。

 今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。

 最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。

 ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。

 そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。

 イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。

 次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。

 トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。

 

 彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。

 今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。

 トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。

 最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。


2016年の黙想の再掲載。2017年の黙想も参照のこと。

2019年

4月

21日

復活の主日

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。(ヨハネ20・3)

ウジェーヌ・ビュルナン「ヨハネとペトロは復活の朝に墓に急ぐ」、1898年、オルセー美術館所蔵
ウジェーヌ・ビュルナン「ヨハネとペトロは復活の朝に墓に急ぐ」、1898年、オルセー美術館所蔵
 キリスト者として心を整える長い四旬節と聖週間の後、50日間に及ぶ長い復活節が始まる。それは復活したイエスとともにいる期間である。いつものように教会は私たちのために聖書の豊富な箇所を選んで用意する。それによって、また私たちの心にあることによって私たちは、イエスが復活して生きているとはどういうことか、復活したイエスが私たちの生活にどんな役割を果たしているかを悟ることができる。
 今年の復活節第一主日の福音書はヨハネ福音書の箇所。ヨハネは「復活」という言葉をあまり使わないが、復活したイエスについて他の福音書の倍ぐらい書く。復活の後にイエスが弟子たちの中に生きていることを中心にした他の福音記者と違って、ヨハネが強く出すのは死に打ち勝ったキリスト、十字架上で神の栄光を顕し父なる神の本当の子として天に上るキリストである。それはヨハネ福音書の最初のページから繰り返し出てくるテーマである。
 今日の箇所を含む20章には4つのエピソードがある。ペトロともう一人の弟子、マグダラのマリア、弟子たち、そして最後はトマス。この4つのエピソードによってヨハネは復活したイエスのしるしを示し、復活したイエスに出会うように私たちをも導こうとしている。十字架の大きな苦しみ、その挫折とスキャンダルの後に、生きているイエスを発見するにはどうすればいいかを教えてくれているのだ。
 今日の箇所は旧約聖書へのさまざまな示唆が含まれる神学的な物語であり難しいが、同時にそこからいろんな結論が出て来るすばらしい物語である。「朝早く」――他の福音書ではそうとだけあり、曙を意味するが、ヨハネ福音書では「まだ暗いうちに」とあり、夜を意味する。夜のうちに探し求めるとは雅歌の花嫁を思い出させる。花婿を見失い、絶望して、花婿を探す花嫁(雅歌3・1-3)。まだしるしは何もない。まだ信仰の目が開かれていない。マグダラのマリアは石がとりのけられているのを見て、誰かが盗んでしまったと思うほどだ。
 彼女は「走って行って」、ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子に知らせる。聖書学者が強調する、急いで走ることは、初代教会の時代も、そしてこんにちも、イエスのしるしを探し求めることを思い起こさせる。イエスを探し求める教会の態度はさまざまである。マリアのような愛情を込めた態度、ヨハネのように神秘主義的直観的な態度、ペトロのように鈍感で遅く確認する態度。ただいっしょに走る。みんながイエスについて悟ったことを教会の中でお互いに分かち合いコミュニケーションをとって、それぞれのカリスマによってお互いに助け合うことが大切だと今日の箇所は教えている。
 「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」。それはヨハネだと100年後の教父たちは言ったが、当のヨハネ福音書には名前が挙げられていない。イエスが愛した弟子とは本当の弟子のこと。だから、それは私たちでもありうると聖書学者は言う。最後の晩餐の時にユダの裏切りに気づき、ペトロが否認しても十字架の下までイエスのそばに残り、母を引き取る。今日の箇所でも次の21章のティベリアス湖でもペトロより先にイエスに気づく。イエスに出会うときに迷いなしについていき、寝ることも忘れ、イエスの敵もわかるほどイエスを愛し、そして必要なときに命を捧げる。私たち自身もそうであるように勧められている。
 9節の印象的な言葉「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」には大切な示唆がある。イエスはどこに行ってしまったかと教会が迷うとき、大切なのは聖書である。ヨハネ福音書が書かれた時代は、イエスの生き証人たちの時代が終わったあと、イエスに直接に会った人がいない時代。私たちの時代もそうである。けれども、聖書がイエスを見分けるための大きな力になる。だから、私たちも聖書を愛して、聖書の言葉を黙想したり祈ったりする道を今日の福音書は強く思い起こしてくれる。

2016年の黙想の再掲載。

2019年

4月

14日

受難の主日(枝の主日)

 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」(ルカ19・38)

マイスター・ベルトラム「エルサレム入城」、1380―90年、ニーダーザクセン州立博物館所蔵
マイスター・ベルトラム「エルサレム入城」、1380―90年、ニーダーザクセン州立博物館所蔵

2019年

4月

07日

四旬節第5主日

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)

Isaak Asknaziy「イエスと姦淫の女」
Isaak Asknaziy「イエスと姦淫の女」

 求道者が受洗に向かって、そして求道者も信者も復活祭に向かって準備する四旬節。解放と赦しを求める求道者と信者に教会は第5主日の今日、福音書の特別なページを手渡す。それは、神の驚くべきいつくしみを知ることができるページである。

1.状況はこうだ。イエスを殺し、その権威を失墜させるきっかけを探す律法学者とファリサイ派。そんな彼らにとって絶好のチャンスが訪れた。朝早く若い女性が姦通の場で捕まえられたのだ。モーセによると、こんな女は石打ちの刑で殺せと書いてあるが、どう思うかという問いを携えて彼らはその女をイエスのもとに連れて来るが、それは罠である。なぜか。イエスがモーセの掟に賛成するなら、人々は失望し遠ざかるだろう。これまでは憐れみの話をしていたのだから。逆にイエスがこの女を解放するように言うなら、律法に反したことを言ったイエスを神殿に訴えることができる。どちらにしてもイエスは窮地に陥るだろう。

2.このページを書いた福音記者(聖書学者はルカとも推測する)が伝えるイエスの姿は非常に印象的である。イエスは沈黙し、言葉を使わない。騒ぐ代わりに、体をかがめ土に指で書く。特に目立つのは、ファリサイ派のように、人のプライベートな生活に好奇の目を向け、訴えの種にする宗教をイエスが拒否すること。そして、殺される危険があるのに、彼ら自身の罪を堂々と指摘する勇気である。

3.注意すべきなのは、イエスが彼女の罪を弁明していないこと。彼自身は愛について、結婚について高い理想を抱いている。しかし、こういうことに関する間違いが大きな苦しみをもたらすこともよくわかっている。イエスにとって、神からいただいた掟は、相手を裁き傷つけるためのものではない。それは、皆が同じように神から赦しを得て救っていただかなければならないことを知るためのものだ。これがイエスの考えである。

4.イエスは、訴える人の心の中にある嘘を掘り出す。彼らは、自分を民の霊的指導者に見せようとしたが、人を死に導く悪魔の家来だった。その証拠に、この女性だけではなく、イエスをも殺そうとしていた。彼らは癒しや救いを求めるのではなく、復讐などの思いにとらわれていた。それに対して、彼らの罪を知るイエスの自信あふれる言葉(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)の前で、彼らの嘘はばれて一人一人去っていった。

5.イエスと女性の会話はとても美しい。それまでは身をかがめていたイエスがこの女性の前に立って、この女性に尊敬を示す。彼女の顔に何があったか―死の恐れか、罪の悲しさか、驚きかー私たちは知らない。とにかくイエスはこの女性を叱らず、放蕩息子の帰りを迎えるお父さんのように受け容れ、回心を勧めることさえしない。この人の未来を見て、救いの命を彼女に勧め、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うだけなのだ。イエスは、人に石を投げて殺す預言者ではなく、愛である神のメッセンジャーとして自分の言葉を食べ物として与える。

6.イエスは今回も敵の罠から逃げることができた。しかし、イエスの教えを理解するのに苦労したのは敵だけではない。初代教会の信者たちもそうだった。姦通の女にイエスが与えた赦しは、いろいろな人にとってスキャンダルだった。その結果、長いあいだ(聖ヒエロニムスに至るまで)このページが聖書から省かれ、典礼でも300年ほど使われなかった。アウグスチヌスが言うには、本当の信仰を知らない人たちがこのページの意味を勘違いして、写本から隠したと(『ヨハネによる福音書講解説教』第33説教5)。イエスのいつくしみとあわれみは敵にとってだけではなく、キリスト者である私たちにとってもいつでも信じられないほど大きい。特に私たちが自分の罪を忘れるときの神のあわれみといつくしみは私たちの想像を越えている。

(2016年の黙想の再掲載)

2019年

3月

31日

四旬節第4主日

「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。(ルカ15・23、24)

グエルチーノ「放蕩息子の帰還」、1654―55年、ティムケン美術館
グエルチーノ「放蕩息子の帰還」、1654―55年、ティムケン美術館

 放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえ話の中でもっともすばらしいたとえ話だ。しかし、このたとえ話にはさまざまなニュアンスがある。そのニュアンスはどの登場人物に自分を置くかによって異なる。

 例えば、放蕩息子の立場から読むなら、どんなに悪いことがあったとしても神から愛されているという慰めを受けることができる。大袈裟なほどの愛情をもった父親の姿をしているのがイエスにとっては神である。しかし、人間――あるいは人間に嫉妬して(人間の不幸よりむしろ)人間の滅びを願う悪魔――は正義を口実として、仇討ち、復讐を果たそうとし、神のイメージをもゆがめる。そして厳しく冷たく情にほだされない裁判官として人間を滅ぼす神のイメージを作り上げる。そのような残酷な神に対してイエスが宣言するのがあわれみとやさしさ(教皇フランシスコの言う「テルヌーラ」)のある父である神である。だから、どんな時代のキリスト者もこのたとえ話から慰めを受けていた。

  他方で、このたとえ話には、私たちにとって受け入れにくいところがある。ルカはその福音書第15章で、3つのたとえ話(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)に先立って、イエスがたとえ話を語ったきっかけを私たちに伝えている。つまり、罪人と食事をしているイエスにファリサイ派が文句を言ったのがそのきっかけである。だから、ルカの意図は、私たちが放蕩息子の立場よりも、またよき父親の立場よりも、兄の立場から読むことにある。ルカは兄の回心をねらっており、このたとえ話を読む私たちをも回心させたいのだ。ところが、それがなかなか受け入れにくい。

 イエスが私たちに伝えるのは神との和解であり、私たちの再生である。それは私たちの能力やよい生活やよい行いによってではなく、神の恵みによってのみ可能である。イニシアチブは神にある。ファリサイ派の間違いはそこにあった。彼らは最終的に自分の力で、自分の正しい生活、自分の道徳的な生活で救われると思っていたのだ。しかしながら、罪人である私たちは最初に神から赦されたからこそ、再生が可能である。ベネディクトが言う通り、キリスト者はいつも赦された者なのだ。

 ルカがその福音書のさまざまな箇所で述べるように、神は救いの食卓に私たちを招く。その食卓につくことができるためには深い変化が必要である。ところが、私たちは(聖人であっても)毎日少なくとも7回罪を犯して、神のあわれみが必要な状態なのに、間違いをしてしまう兄弟をなかなか赦すことができない。弟が家に戻ったときに、無事に戻ったのだから喜びなさいと神が私たちに言うのが典型的な不正義に見える。結果として、弟に会いたくもない、弟のそばに座りたくない。そして自分も救いの食卓につけない。

 洗礼に向かう求道者にとって、またイースターに向かうキリスト者にとってこのような読み方が非常に大切だ。主の祈りにあるように、私たちは兄弟を赦す限り、赦される。相手に心を閉ざし、相手を審判しようとする心から立ち直るように新しい心がイエスから与えられるよう祈りたい。

 放蕩息子の兄が父親に言われて命と喜びの祝宴の場に入ったか、私たちは知らない。イエスもルカもそれについて何も言ってくれていない。たとえ話は途中で終わるようだ。たとえ話の本当の結末は私次第なのだ。

2016年の黙想に加筆して掲載。

2019年

3月

24日

四旬節第3主日

「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」。(ルカ13・8、9)

ジェームズ・ティソ「ぶどう園の園亭といちじくの木」、1886―94年、ブルックリン美術館所蔵
ジェームズ・ティソ「ぶどう園の園亭といちじくの木」、1886―94年、ブルックリン美術館所蔵

2016年の黙想を参照のこと。

2019年

3月

17日

四旬節第2主日

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。(ルカ9・29)

フラ・アンジェリコ「変容」、1440―42年、サン・マルコ美術館
フラ・アンジェリコ「変容」、1440―42年、サン・マルコ美術館

2019年

3月

10日

四旬節第1主日

イエスは荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。(ルカ4・1、2)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「山の上での誘惑」、1308―1311年、フリック・コレクション
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「山の上での誘惑」、1308―1311年、フリック・コレクション

2019年

2月

17日

年間第6主日

イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)。

ジェームズ・ティソ「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵 
ジェームズ・ティソ「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵 

 人は成長するために、ほめられることも叱られることも必要だ。ほめられることによって自信をもち、叱られることによって間違いに気づく。しかし、ほめることも叱ることも簡単ではない。お世辞のようにほめてばかりだと傲慢になり、逆に叱ってばかりだと自信を失ってしまう。そこには愛情がなければならない。今日のルカ福音書の箇所でイエスは愛情をこめてほめ、また叱ることで、弟子たちを教育しようとする。

 今日の第一朗読のエレミヤの預言の箇所と、答唱詩編(詩編1)は、2つの生き方を比べている。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は」。「呪われよ」と言っても、藁人形を木に釘で打ち付けて災いや死を願うということではない。エレミヤが言おうとするのは、そのような生き方をする人は、岩盤の上に建てられていない家のように土台のない人生を送っているということ。それは、意味なく消えてしまう人生だ。そのような人をエレミヤは「荒れ地の裸の木」にたとえる。それは砂漠に生えて水分を得られずに枯れそうな木だ。それに対して、「水(川)のほとりに植えられた木」はいつでも根から水を吸い上げることができるから、枯れない。暖かくなると新しい葉を出し、季節になると果実をつける。正しい人はちょうどそのように神に根を下ろす生き方をしているのだ。

 エレミヤのその箇所を第一朗読として教会が選んだのは福音を理解させるためだ。今日の箇所には「不幸」という言葉が出てくるが、それは第一朗読の「呪われる」という言葉と同じで、ギリシア語の「ウアイ」だ。以前は新約聖書の日本語訳でも、呪いという訳語が使われたが、今は誤解を防ぐために「不幸」という訳語が使われている。ただし、欧語では「呪い」を意味する訳語が使われる。要するに、イエスが話そうとしているのは命と死のちがいだ。神の下で神に照らされて生きる人、あるいは神から離れて死んでいる人について話をするのだ。だから、生きるか死ぬか、私たちが命に向かっているか、それとも神から離れ死に向かっているか――それを考えるのが今日の福音箇所だ。また、「…は幸い」という表現はルカ福音書をはじめ新約聖書のさまざまな箇所に見られる。ルカ福音書では、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人はなんと幸いでしょう」(1・45)、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11・27)、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・38)。またヨハネ福音書でも、「見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)とある。

 以下、今日の箇所を具体的に見ていく。

 「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」。 マタイ福音書が最初に伝えるイエスの教えは山の上での言葉だ。だから、「山上の説教」と呼ばれる。それに対して、ルカ福音書の並行箇所は「平地の説教」と呼ばれる。イスラエルの歴史を意識するマタイは、イエスが新しい掟を教える新しいモーセであることを理解させるために、イエスが弟子たちに教える舞台を「山の上」に設定した。それに対して、パウロといっしょに宣教したルカは、異邦人に関心があるから、ちがった舞台を設定するのだ。

 「大勢の弟子とおびただしい民衆が」。今日の場面はイエスが12使徒を選んだ直後だ。その前にはいくつかの奇跡を行っているから、人々はイエスに関心を抱いたのだろう。しかし、それだけではない。「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」。イスラエルを越えた異邦人の世界からも、たくさんの人が来たのだ。

 「イエスは目を上げ」。それは父なる神に向かってだ。「弟子たちを見て」。弟子たちとは私たち、教会のこと。今日の箇所は特に教会のための教えなのだ。

 続く箇所については、聖書学者などによるさまざまな研究があるが、いくつかの点についてだけ注意しておきたい。

 「今泣いている人々は幸いである」。イエスのこのような言葉を誤解してはならない。イエスは決して、涙や苦しみ、病気や失敗や追放がいいことだと言っているわけではない。イエスが言うのは、神がそのような人たちの味方だということ。彼は、私たちの成長と幸せを考えているのだ。私たちが神の子として生きることを考えて、こういう言葉を使うのだ。この点もに注意しなければならない。

 キリスト教について暗いイメージを抱く人がいる。また、洗礼を受けてキリスト者になると、清い生活を送らなければならないとか、ルールに縛られ自由がなくなると考える人がいる。しかし、それはキリスト教についての間違った理解だ。たとえば、修道者は結婚しないが、キリスト教において結婚生活が劣った生活であるわけではない。キリスト教の独身生活や他の犠牲は結婚の否定を意味しない。カトリックでは、秘跡を通じて神の恵みが私たちに注がれるが、結婚は7つの秘跡のうちの一つなのだ。パパ様の使徒的勧告『喜びに喜べ』ではその点が強調されている。

 「貧しい人々は幸いである」。特にルカは「貧しいあなたがた」と言うから、財産の所有自体が悪であるように思われる。しかし、福音書をよく読むと、イエスは富が悪だとは言っていない。大切なのは、もっているものの使い方だ。教父たちがよく言うように、禁欲だけなら異邦人も実践するが、キリスト者は単に禁欲を行うだけではなく、人とものを分かち合うのだ。人と分かち合う喜びのために、素朴な生活を送るのだ。旧約聖書にもアナウィンという言葉がある。アナウィンとは「貧しい」という意味。イスラエルが神から離れ掟を守らず異邦人のような生活を送っていた時代にも、神の言葉を忠実に行う少数の人々が残っていた。それがアナウィンであり、キリスト者の生き方の模範でもある。

 また次の二つのことに注意しなければならない。第一に、マタイ福音書の山上の説教や、ルカ福音書の今日のような箇所は、哲学の議論のための抽象的な言葉ではなく、日常生活の中で命に向かっていくための道案内だ。パパ様はおもしろい言葉を使って、今日の箇所のイエスの言葉は「キリスト者のナビゲーター」だと言う。神から示された道を間違わないようにしたい。

 第二に、イエスの弟子であり、キリスト者である私たちにとって、今日の箇所は生きたイエスの写真だ。今日の箇所にある「貧しい」「飢えている」「泣いている」といった言葉は、抽象的なことではなく、イエス自身だ。私たちキリスト者はイエスの生き方を見てイエスの真似をして生きるべきだ。神の子でありながら人間になったイエスの言葉や行い、感じ方や考え方を見ながら生きるのがキリスト者なのだ。キリスト者の生活の中心はイエスでなければならない。ダイヤモンドがきらめくように、柔和さやあわれみなどさまざまな光がイエスから出てくる。私たちは一人ひとりはイエスを真似ることができないが、教会の中でそれぞれのカリスマを合わせて共同体の心をもつことでイエスを真似ることができる。だから、今日の箇所の言葉は私たちにとって大切だ。

 初代教会では洗礼を受けるための7つの段階があり、ある段階で主の祈りを志願者に渡した。イエスは、そして教会は、父なる神に向かって神の子として語りかけるために、主の祈りを私たちに渡したのだ。そして、主の祈りが洗礼の前に荘厳に渡される時、今日の箇所の言葉も渡された。それはキリスト者特有の言葉であり態度である。それを生活の中で実現するのがキリスト者に与えられたすばらしい使命だ。 


2019年

2月

02日

年間第4主日

これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ4・28―29)。

ジェームズ・ティソ「ナザレ近くの丘の頂上」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵
ジェームズ・ティソ「ナザレ近くの丘の頂上」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵
 布教を開始してからはじめて故郷に戻るイエス。それまで誰も示さなかったような権威をもって話し、深い神の体験から罪人を赦し、病気を治し盲人を癒すなどの奇跡を行って、周辺の地方ではすでに有名になっていた。
 ところが、故郷の人たちは却って、驚きを示し、その驚きは彼を殺そうとするまでの憎しみに変わる。驚きとは、ルカ独特の表現だが、信じていないということ。彼らは、子供の時からよく知っている人、自分たちと同じ生活を送ってきた人がまさか神から選ばれたメシアであるとは信じられない。なぜなら、自分で作りあげたイメージのメシアを待っていたから。特に彼らが怒っていたのは、自分の村から出たメシアがよその人のために奇跡を行ったこと。彼らは、神が本当にどういう者かを求めるのではなく、自分の利益になる神を作り上げるという誘惑に陥り、イエスを拒否したのだ。それに対して、他の人たちのためにするという神の愛(第二朗読)の普遍性に生き、そのメッセージを曲げず、十字架死に至るまで神に忠実だったのがイエスだ。
 世の中で生きている私たち信者も、人から受け入れられるために、神の本当のメッセージをアレンジして、人が聴きたがることを言う誘惑を受ける。そんな私たちに向かって、ルカはその福音書の始まりに当たる第4章で、人間でありながら神に忠実なキリストの姿をあらかじめ示している。ルカが第4章で宣言するキリスト論のさまざまなテーマは、後続の章で展開され、最後に十字架において完成される。

2019年

1月

27日

年間第3主日

 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)

ジェームズ・ティソ「イエス、会堂で書物を開く」、1886―1894年、ブルックリン美術館
ジェームズ・ティソ「イエス、会堂で書物を開く」、1886―1894年、ブルックリン美術館
 今日の福音は二つの箇所にまたがっている。第一は福音書の冒頭、前書きの箇所であり、第二はかなり後の第4章、ナザレに戻ったイエスが安息日に会堂でイザヤの箇所(それはいわば公生活のプログラムとなる)を読み解釈する箇所である。
 第二の箇所がドラマチックなために、短い時間の説教では第一の箇所が飛ばされてしまいがち。けれども、ルカ福音書の前書きはとても大切だ。ルカはそこでその福音書の全体をどう読めばよいかを簡略に表現しているから。彼が言うのは、これからイエスについて彼が語るのは抽象的な教義ではなく、非常に現実的なこと(ギリシア語でプラグマトン)であり、歴史的な出来事だということ。一般の宗教、たとえば仏教は知恵や教えについて語る。それに対して、ルカが語るのは、証人がいて証拠があり調べることができる歴史的な出来事についてだ。その一つ一つの出来事は別の世界に向かって開かれた窓である。霊の力に満ちてイエスがナザレに戻ってくる出来事は救いの歴史の出来事なのだ。

 もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。

 第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。

 救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。

 


(2016年の黙想の再掲載)

2019年

1月

20日

年間第2主日

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562-63年、ルーブル美術館所蔵
パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562-63年、ルーブル美術館所蔵

  ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
 「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
 「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
 「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
 「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
 「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。

 「水がめ」はふつう焼き物だったが、ここには「石」とあり、十戒が刻まれ契約を意味する石を思い出させる。水がめが「6つ」というのはやはり新しい創造の数字。完全な日はまだ現れていないが、その直前、その曙だということ。清めの水で一杯であったはずの水がめが、空だったのは、係りの人がぼんやりして入れなかったから。人間はぼんやりして、大切なことを忘れ、意味のないつまらない生活を送る。それは人間の罪である。水がめの中に入れられる「水」はイエスによって私たちに与えられた神の恵み。私たちの空っぽの心を縁まで満たすほど入れられる。水は命のために基本的なものだが、ヨハネによる福音書ではイエスがよく水にたとえられる(たとえばサマリアの女)。
 しかし、救いが行われるためには、神の行いだけでは十分ではなく、「召し使い」が必要。「召し使い」という言葉はマリアも自分について使った(ルカ1・38「わたしは主のはしため」)。「召し使い」とは、イエスを信じてその言葉通りにする人。そこには、信仰という、ヨハネの典型的なテーマが出ている。イエスを信じて言われた通りにすると、救いが可能になる。
 「くんで」。イエスは私たちの心に、赦しや救いの希望を起こしてくださるから、イエスの言葉という冷たい水を空っぽの心に入れると、そこから汲むことができる。
 宴会の「世話役」とは、ギリシア語では「大祭司」と似た言葉。つまり、民に対し、教会に対し何らかの形で大祭司のような役割を果たす人を意味する。しかし、その世話役はするべき仕事をちゃんと果たさなかった。ぶどう酒を用意することもせず、ぶどう酒がなくなったことにも気づかず、ぶどう酒に変わった時にも何が起こったかわからないし、新しいぶどう酒がどこから来たかわからないという、頼りない世話役だ。世話役だけでなく、招待された人たちも、花婿でさえ、何も気づかなかった。わかったのは弟子たちと召し使いだけ。ヨハネは、イエスが「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という序章の箇所をほのめかしているかもしれない。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと出て来る。イエスのすることが人はわからない。
 よく知られていることだが、ヨハネは奇跡という言葉を使わない。奇跡という言葉は外面的だが、ヨハネが使うのは「しるし」という言葉。しるしは、外面的なことより、心の中のこと。神が働いていることに心の深いところで気づくこと。
 この不思議で美しい物語でヨハネが言いたいのは、今日(ヨハネの大切な言葉)こそ私たち一人一人にとっても大切な「時」だということ。私たちの生活の中に、私たちの周りに通りかかるイエスのしるしをよく読み取り、そのために神を賛美したい。

2016年の黙想の再掲載。

2019年

1月

12日

主の洗礼

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた。(ルカ3・21より)

ジョヴァンニ・ベッリーニ「キリストの洗礼」、1500―1502年、サンタ・コロナ教会(ヴィツェンツァ)
ジョヴァンニ・ベッリーニ「キリストの洗礼」、1500―1502年、サンタ・コロナ教会(ヴィツェンツァ)

 他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。

 第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。

 しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。

 そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。

 最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。

 

 洗礼者ヨハネはたとえば仏陀のように偉大な宗教者であり行者であり人格者だった。宗教的な権力と肩書もなく、その心の清らかさとその生活の正しさには多くの人が心を引き寄せられ水と回心の洗礼を受けていた。だから、彼が救い主でないかと誰もが考えていた。イエスも彼を愛し、彼の弟子たちが来たときには、彼を大いにたたえた。確かに、洗礼者ヨハネは旧約時代のすべての預言者の中でキリストに一番近く、キリストの道を用意する人物であり、花婿の友だった。しかし、彼は救うことはできなかった。私たちが神の国に入るのは道徳や正しい行いによってではなく、永遠のはじめから神に愛され救われているから。その愛はイエスの洗礼によって明らかになったのだ。

 毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。


(2016年の黙想の再掲載)

2019年

1月

05日

主の公現

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

フラ・アンジェリコ「東方三博士の礼拝」、1437―1446年、サンマルコ修道院(フィレンツェ)
フラ・アンジェリコ「東方三博士の礼拝」、1437―1446年、サンマルコ修道院(フィレンツェ)

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 

 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。 

 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 

 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。名誉教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

(以前の黙想のテキストを再掲載)


2018年

12月

30日

聖家族

「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)

ハインリッヒ・ホフマン「神殿にいる12歳のイエス」、1884年、ハンブルク美術館所蔵
ハインリッヒ・ホフマン「神殿にいる12歳のイエス」、1884年、ハンブルク美術館所蔵

 日本では降誕節とお正月が重なり、その結果、奇妙なことが起きる。世間では11月から店などでクリスマスツリーが飾られたりしてクリスマス気分だが、教会ではまだ待降節だから私たちはまだクリスマス気分にはなっていない。私たちがやっと降誕祭を迎え、その夜と次の朝にお祝いをすると、その25日にはもう、クリスマス気分は周りにない。安売りのケーキが売られているぐらいで、お正月を迎える雰囲気だ。もっとも、いつか日本がキリスト教国になったら、雰囲気はまったく変わるだろう。ヨーロッパやアメリカではキリスト教がすたれてきていて、アジアでキリスト教が勢いを増しているのが今の時代。

 典礼上、クリスマスは一日だけのお祭りではない。もちろん、降誕祭で私たちに与えられる言葉はとても大切だ。主の降誕の夜半や日中のミサの聖書の言葉は十分に消化できないぐらい豊かだ。けれども、それだけではなく、降誕のテーマはしばらく続く。私たちはいろいろなことで忙しくしていて気がつかない危険がある。たとえば今日、降誕祭直後の日曜日は聖家族の祝日と呼ばれる。聖家族とはイエス、マリア、ヨセフのこと。実は、教会で祝われる祝日としては比較的遅く定められた。もちろん教会にとって家族はとても大切だ。今のパパ様も家族についてのシノドスを開き、使徒的勧告『愛のよろこび』を出したほどだ。だから、この日に自分の家族や他人の家族のために祈ることは望まれるが、よく見ると降誕節の中の一日だ。12月25日から主の洗礼の祝日までは降誕節と呼ばれる。この間、聖書のとても大切な言葉が私たちに与えられる。それが私たちの信仰の根本だ。

 クリスマスと言うと、一般の人は、クリスマスツリーやサンタクロースを連想するだろう。少し知識がある人なら、イエスが生まれた時だと考える。しかし、それだけでは十分ではない。私たちがクリスマスに祝うのは、イエスが生まれたことだけではない。もちろん、イエスは実際に歴史の中で生まれた。ルカが書いたように「皇帝アウグストゥス」の時代に生まれたのだ。けれども、私たち信者がクリスマスに祝うのはもっと大切なことだ。2000年前にそこに生まれたその人が神であったこと、復活したことだ。だから、クリスマスはイースターと同じことを祝うのだ。それがキリスト者の信仰にとって一番大切なこと。私たちはこのことを念頭に置きながら、その降誕節の朗読を聞くのだ。

 C年の今年はルカ福音書を読みながら、イエスを見てイエスを知りイエスの後に歩むことになるが、今年の聖家族の祝日に私たちに与えられた朗読は少し不思議な出来事を語る。ルカがこの物語を書いたのは紀元70年頃。それは、イエスが宣教し十字架につけられ復活した後、キリスト教がローマ帝国に広がる頃だった。ルカは、イエスの復活のずっと後に、イエスの幼い頃のことを書いたのだ。ルカはその福音書と使徒言行録を書くときによく調べマリアからもよく聞いて、昔の出来事について書く。しかし、大切だが、ルカは細かい事実を記録するのではなく、神学者として書くのだ。つまり、何があったかを伝えるだけではなく、その出来事の意味を知らせようとする。ルカはその乳飲み子が誰だったか、どう生きて、何を教えて、どういう死に方をしたかを知った上で、昔のことを書いているのだ。そのために私たちは注意して読まなければならない。外面的な言葉の裏に、私たちのためのメッセージがあり、宝物があるから。

 「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」。イスラエルの民は年に2回神殿に上るように決められていた。けれども、ナザレはエルサレムへは100キロ以上かかったから、ほとんどの人はその規則を守らず、せいぜい年に1度上るぐらいだった。あまり信仰のない一般の人は一生に1度だけエルサレムに上った。しかし、マリアとヨセフは熱心な家族だったから、毎年エルサレムに上る習慣があった。興味深いことに、今日の福音書のこの冒頭には「両親」とあって「マリアとヨセフ」とは書いていない。後の箇所には「ヨセフ」という名前が出てくるが、ここに出てこないのだ。ルカにとって、この箇所の「両親」とはイスラエルの民の代表者を意味する。イエスもその両親からユダヤ人として育てられ、しきたり、行事、祈り、聖書を教えられたのだ。当時は私たちが知っているキリスト教はまだ存在しなかった。

 「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」。当時は、13歳になると一人前のユダヤ人として、儀式や食べ物に関するたくさんの掟を守らなければならなかった。12歳はその直前の年齢だ。今の日本では12歳は小学校を出る年齢なので考えられないが、日本で言えば成人式の直前の年齢に当たる。 「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」。外面的に見ればこの物語は少し奇妙だ。神から授かったかわいい子供を忘れて一日が経つとはありえないことだ。ルカはこの物語で何を言いたいのか。そのことを理解しようとして聖書学者たちはいろいろなおもしろいことも言う。当時はバスなどがなかったから、きっと歩いて帰ったが、男性と女性が別々に歩いていたのではないか。つまり、ヨセフとしては、イエスはマリアと特別な関係にあるから、あるいはまだ子供だからマリアといっしょにいると思い、他方マリアは、イエスはもう12歳で一人前だから父親といっしょに歩きたいのだろうと思ったなどと。聖書学者たちはそのような問題について考える。しかしながら、そういうことは実はなかったのだ。

 「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。エルサレムは小さい町だから、子どもを見つけるのに、そんなに時間はかからないはず。子供がいないと気づいてから3日の後に見つけるとはどういうことか。ルカは私たちに何を言いたいか。聖書に親しんでいる私たちはあることを思い浮かべる。イエスが死んで婦人たちが墓に行き墓が空であることを知ったのが3日目だ。

 「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。ここは少し注意すべきだ。日本語訳では「驚く」という言葉は今日の福音箇所に2回出ている。その一つがこの箇所。律法学者たちは子供の賢い返答を聞きながら驚いていた。ギリシア語原語では、ショックを受けるような驚きを意味する。それは、自分たちの考え方とちがったことをイエスが話していたから。つまり、ルカはこの物語で私たちに注意を促し、大人になったイエスを暗示したいのだ。この箇所には、ルカ福音書では最初のイエスの言葉について語られる。幼い時の物語はこのエピソードで終わり、20年足らず後、イエスの公生活が始まる。イエスの最初の言葉によって、それまで伝統を伝えてきた律法学者たちは驚いた。それは、その後、公生活が始まった時、イエスの教えに律法学者たちが驚いたのと同じだ。イエスは言う、「あなたがたも聞いているとおり、…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」(マタイ福音書5章参照)。

 もう一つの「驚き」は両親の「驚き」だ。それは理解できない「驚き」だ。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。心配した母の言葉は心に沁みるが、それに答えるイエスの言葉は厳しく聞こえる。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。それはエマオの弟子たちへのイエスの言葉とも通じる(ルカ24・25)。しかし、ここに「父」という大切な言葉が出ている。ルカが私たちに伝えたいのは、ベツレヘムでマリアから生まれヨセフが世話したこの子が、人間であるだけではなく、父なる神の子だということ。イエスが来たのは、私たちに神の本当の意志を伝えるため、だからこれから注意するように、とルカは言いたい。

 マリアとヨセフはモーセから受けた掟を大切にする人たちだったが、まだイエスの弟子ではなかった。マリアも少しずつ、神を尊敬しイエスの母である者から、イエスの弟子になる。そのことは、ルカ福音書の他の箇所からもわかる。イエスが宣教を始め評判が広がった時、親戚が心配し、マリアもいっしょになって、イエスをナザレに連れ戻そうとした。人が「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と言うと、イエスは言った。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8・21)。マリアもその一生を通じて、イエスの母からイエスの弟子になる過程を辿らなければならなかった。マリアも魔術的にイエスの母、神の母になって、何の苦労もなく過ごしたのではなく、イエスを少しずつ発見しながら、イエスの弟子になって、最後に弟子たちといっしょに聖霊を受けた。そのためにマリアは教会の母と呼ばれる。

 今日ルカが私たちに言いたいのはこのこと。注意しなさい、あなたたちがクリスマスにその誕生を祝ったイエスはかわいい赤ちゃん、弱い者の姿をとっているが、私たちの中に生まれた神であり、私たちはその弟子になるべきだ、と。気をつけなさい、世間から受けたメンタリティをイエスに清めていただき、イエスの弟子になるべきだ、と。ルカが今日私たちに伝えてくれるのはそのことだ。ミサの集会祈願に「聖家族の模範に倣い」とあるが、模範と言っても外面的なことではない。外面的にはマリアになることもヨセフになることもできないが、だいいち時代も違うが、私たちは、イエスの弟子になって、イエスに倣って歩んでいくのだ。 「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り」とあるのも、だからだ。当時座るのは先生のすることだった。今の日本の学校では先生たちは教壇に立つが、当時のイスラエルでは弟子たちが立ち先生だけが座っていた。福音書でも何度でも、イエスが座ったことが書かれている。そして、山上の説教のように宣言するのだ。イエスは今日私たちの真ん中に座って先生として私たちに教えようとする。弟子としての、また使徒としての心が私たちのうちに起こるように祈り求めたい。


聖家族の主日については、2016年2018年の黙想も参照のこと。

2018年

12月

23日

待降節第4主日

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)

エンカレム訪問教会(マリアがエリサベトを訪ねたと考えられる場所に建てられた教会)のモザイク(刻まれている文字はラテン語で、ルカ福音書1・39)
エンカレム訪問教会(マリアがエリサベトを訪ねたと考えられる場所に建てられた教会)のモザイク(刻まれている文字はラテン語で、ルカ福音書1・39)
 イザヤ、そしてヨハネに続き、マリアが待降節を代表する最後の人物として私たちをイエスへ導く。
 マリアは身ごもり、エリザベトの家を訪れて、3か月を過ごす――ルカ福音書の今日の箇所は、新約聖書では唯一、女性だけが登場するページであり、女性のやさしさと喜びが溢れる場面である。マリアから聞いたにちがいないこのエピソードを物語るとき、神学者であるルカは旧約聖書の一つのページを思い出し参考にしている。この点は、今日の箇所を理解するために非常に大切である。そのページとは、ユダヤ民族にとって、教会にとって、キリスト者にとって、メロディーが盛り上がるページである。
 サムエル記下第6章によると、神の箱はエルサレムへ運ばれるときにユダを通った。同じように、マリアはユダに行った。神の箱の前でダビデは踊ったが、洗礼者ヨハネもエリザベトの胎内で踊った。ダビデは「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と神を畏れたが、エリザベトも「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言った。ダビデとイスラエルの民のように、エリザベトも喜びの叫びを上げた。神の箱が3ヵ月間エドムの家にあったように、マリアはエリザベトのところに3ヶ月ほど滞在した。
 旧約時代、神の箱(聖櫃)は神が民のうちに現存するしるしだった。ルカが言うのは、神の現存をあらわすしるしが今はもう箱ではなく、生きた人間であるマリアだということ。木でできた神の箱が外側も内側も純粋な物質である金を貼られていたように、マリアは外側は罪から解放され守られており、内側は聖霊に満たされている。神の箱には神の掟を書いた二つの石板が保存されていたが、マリアの胎内には、神の御言葉そのものであるイエス、神の御旨をはっきりと実現するイエスが宿されている。だから、マリアの胎内は、神の新しい器である。
 ルカが私たちに言おうとしていることには、教会にとって、キリスト者である私たちにとってとても大切な意味がある。マリアがこの世にキリストを生み出したのと同じように、教会はキリストを生み続ける。その妊娠状態は今も続く。神は私たちにそれを求めている――マリアの胎内にもう一つの命が生きていて、その二つの命、その二つの心が切り離すことができないように、私たちがキリストとともに生きることを。クリスマスの深い神学的意味はそこにある。

(2016年の黙想の再掲載)


2018年

12月

16日

待降節第3主日

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエルチーノ「洗礼者聖ヨハネ」、1641年、ウィーン美術史美術館
ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエルチーノ「洗礼者聖ヨハネ」、1641年、ウィーン美術史美術館
 待降節第3主日は伝統的にガウデーテの主日と呼ばれる。ガウデーテとは「喜びなさい」(入祭唱、フィリピ4・4)という意味。昔も今も、司祭は薔薇色(つまり薄い紫色)の祭服を着ることができる。待降節の途中のこの日は、第二バチカン公会議の精神では、断食などの小休止というより、イエスの降誕を準備する喜びの日である。
 先週に引き続き今日の箇所でも主人公は洗礼者ヨハネ。ちょうどエルサレムに神殿が完成する頃であり、エルサレムには祭司が溢れ、エルサレムに住むことができない祭司が近くのエリコに住んでエルサレムに通うほどだった。それなのに、たくさんの人が洗礼を受けようとヨルダン川にいたヨハネを訪れた。先週の箇所にあったように、よく考えられた言葉を語るヨハネだが、今日の箇所ではもっと具体的なことを語る。
 たくさんの人が彼に聞く、「どうすればよいのですか」。これは人間にとって基本的な問いである。どう生きればいいか、どんな道を選ぶべきか、何が善で何が悪か。結婚する時、仕事をする時、人との関係において、財産などに対してどうすればよいか。救われるため、神のもとに行くためにどうすればよいか。
 ヨハネの返答は力強く重い。祈りや生贄などの宗教的な営みにはまったく触れずに三つの課題を示す。
1.分かち合うこと、与えること(「下着を二枚持っている者は…」)。これはイエスの教え(マタイ25・31-46)さえ連想させる。
2.徴税人は、正当である以上に人に要求してはいけない。正義に則り生きなさい。
3.兵士(さらに宗教的であれ政治的であれ何らかの権力をもつ人)は、自分の権力で人を脅し、束縛してはいけない。
 この三つの課題に続いて、もう一つの大切な点がある。それはヨハネが自分の権力を利用して自分を中心に置かないことである。そこに「霊と火」という二つの大切な言葉が出て来る。この二つの言葉によってキリストとは誰かが示されている。
 当時のやり方では麦を脱穀して、麦と殻を箕に載せて上げると、風で殻が飛ばされ、麦が残る。その風はイエスが十字架上で引きとった息(霊)である。殻は私たちの罪であり、イエスの愛の火によって燃やされる。
 ヨハネが教えるのはまだ自力の道徳である。彼の洗礼は回心の洗礼であるが、懺悔だけでは救われない。それに対して、イエスの霊と火によって救われたキリスト者の道徳は懺悔からでなく、愛された、救われた体験から始まる。
 ヨハネの言葉は非常に厳しい。第一朗読のゼファニアの預言も他の箇所を読めば非常に厳しい。けれども、ヨハネの言葉にはすでに示されている、キリストはもう来ていると。教会はそれに気づいて言う、ガウデーテ、喜びなさいと。

2016年(C年)の黙想の再掲載。

2018年

12月

09日

待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館
ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

2016年(C年)の黙想の再掲載。

2018年

12月

02日

待降節第1主日

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21・28)

Bernadette Lopez, from http://www.evangile-et-peinture.org/
Bernadette Lopez, from http://www.evangile-et-peinture.org/