2019年
11月
24日
日
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)
ピオ11世が今日の日曜日を定めた年から百年近くが経った。もしかしたらよく言われるように人間の歴史の中で一番残酷な百年間だったかもしれない。その残酷さはこんにちも続いていて、この先どうなるか私たちにはわからない。今の時代のために、そして今の時代の中に生きている私たちのために今日の箇所には特別なメッセージがある。十字架につけられて降りなかったイエスを見なさい。イエスは十字架上で死んだ。その瞬間、私たちは救われた。イエスが命を与えたからこそ、私たちは命に戻ることができたのだ。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
11月
17日
日
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21・6)
今日のルカ福音書の箇所は一見したところ世の終わりをテーマとしている。世の終わりに天と地がどうなるかは当時もこんにちも人々が関心をもつテーマであり、私たちもいろいろなきっかけからこの箇所をそのような終末論として読んでしまいがちだ。しかし、今日の箇所は終末についての好奇心を満たすための箇所ではない。イエスはそのような好奇心に何も答えていない。ルカが私たちに伝えるイエスの言葉は、よく観察すると、私たちキリスト者がどのような心で生きるべきかを語っている。イエスは歴史の中のさまざまな問題を予期していた。彼は自分自身が十字架死に向かって歩んでいたように、自分の弟子の人生がさまざまな苦難や危険に巻き込まれることを予期していた。イエスは、どの時代のキリスト者にも、その時代のしるしを読み取るための新しい目を下さるのだ。
今日の箇所はイエスの最後の一週間の出来事。イエスは、いつものように神殿に行く。神殿は当時はまだ建設中であり、その現場には裁断された立派な石などさまざまな材料があった。ある人たちがその美しい石や飾りについて話したとき、それが破壊されると言ったイエスはきっと自分の体である神殿のことも考えていたことだろう。つまり、十字架上での自分の死について考えていただろう。しかし、ルカがイエスのこのような言葉を私たちに伝えるとき、マタイとは違って、ストーリーを伝えるだけではなく、別のメッセージを伝えようとしている。ルカは、災いの預言より、災いを越えるための希望と喜びの言葉を信者に伝え信者を力づけようとするのだ。ルカは迫害を受けている当時の信者に向かって話しているから、その言葉はそのときだけではなく、それぞれの時代に苦しみを経験している信者にとって大切な遺産だ。
この箇所にはいくつかのテーマがある。
1.「「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。これは信仰についての注意だ。最大の危険はさまざまな声の中からキリストの声を聞き分けられないことにある。
2.「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」。ここでイエスは何を言いたいか。私たちが迫害されるとき、嘘や虚偽、暴力など、迫害する人たちが使う方法を使って自分を守ろうとしないこと。一言で言うと、非暴力を貫くことだ。イエスの非暴力の教えについてはさまざまな箇所に書かれている。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・39-41)。悪に対して悪で応えてはいけない。イエスの弟子の強さは、弱さと思われることにある。どんなことがあったとしても、神は信じる人のそばにいる。イエスは自ら十字架上でその非暴力の生き方を示した。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)。
3.「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。キリスト者は神の国のために働き困難に遭うときに奇跡的な解放を待たないこと。もしかしたら財産、仕事、評判、家族、そして命さえ失うかもしれない。自分の働きの実りを見ることもないかもしれない。しかし、イエスが言うのは、そのような苦しみによってすでに神の国に入っている。その人のことが忘れられ、記憶さえ消し去られるかもしれないが、大切なのは神の判断だけだ。
4.ルカはイエスのメッセージを二つの言葉にまとめる。それは信頼と忍耐だ。信頼とは、どんなことがあったとしても、イエスは彼を信じる人のそばにいると信じること。忍耐とはギリシア語でイポモネで、耐えるというより踏みとどまるという意味。ルカはこの言葉やそれと似た言葉を大切にしていて、その福音書と使徒言行録に何回も使っている(ルカ8・15、使徒11・23、使徒13・43、使徒14・22)。ルカにとってはこの箇所での忍耐はキリスト者の特徴であって、魂を救い(「命をかち取りなさい」)実りを生み神の国に入る秘密だ。迫害の時代に生きたルカは、信頼と忍耐という二つのメッセージを大切にした。それは、こんにちの教会の私たちの心にも響くメッセージだ。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
11月
10日
日
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(ルカ20・38)
2019年
11月
03日
日
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19・5)
この出会いについてルカが私たちに書き残してくれているのは、一番最初の言葉「…ぜひあなたの家に泊まりたい」と一番最後の言葉「今日、救いがこの家を訪れた…」だけだ。その間には、何時間にもわたる、二人の親密な会話があっただろう。けれども、二人が何を話し合ったかについてルカは何も書いていない。それは二人のあいだの永遠の秘密として残る。けれども、イエスに出会って洗礼を受けキリスト者になった私たちは同じことを経験して知っている。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
10月
27日
日
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカ18・14)
画像は、ウヴェーヌ・ビュルナン「ファリサイ派と徴税人」(『たとえ話』、1908年、ベルジェ・レヴロー社)。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
10月
19日
土
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18・1)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
10月
19日
土
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17・15-16)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
10月
05日
土
自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17・10)
この箇所に出て来る小ささは福音書そのものの大きなテーマだ。神は小さい道具で人を救う。イエスは小さくなることによって私たちを救った。これが受肉の結論だ。イエスが選んだ弟子たちも小さきものだった。神にゆだねる心、信頼する心は、人間が考えられないほど大きな効果がある。主人公は神だからだ。だから、大切なのは量じゃなくて質だ。信仰生活も布教も、大きなイベントや集まり、騒ぎじゃなくて、本物の深い信仰が大切だ。名誉や成功を求めるのではなく、殉教者やアシジのフランシスコ、マザー・テレサなどの聖人たちのように、神との親しさや神への信頼を求めるべきだ。
2.「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」。外でずっと働いて疲れた僕に給仕をさせる主人は非情だ。ルカ自身、別の箇所(12・37)では、主人が僕のために給仕をすると言っている。これはどういうことか。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
9月
28日
土
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(ルカ16・26)
画像は、ウヴェーヌ・ビュルナン「金持ちとラザロ」(『たとえ話』、1908年、ベルジェ・レヴロー社)。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
9月
21日
土
わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカ16・9)
画像は、ウジェーヌ・ビュルナン「不正な管理人」。
2019年
9月
14日
土
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15・32)
2019年
9月
07日
土
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14・33)
イエスが十字架上で死んだのは、運が悪かったからでも敵に負けたからでもない。イエスはたまたま死んだのではなく、愛のために自ら死ぬことを選び、神の御旨を果たしたのだ。イエスは顔を固くしてエルサレムに向かったとルカは言う(9・51)。ヨハネ福音書も同じことを言う。世の中に私一人しかいなかったとしてもキリストは同じように十字架にかかっただろうと聖イグナシオは言う。今日の箇所で言われる十字架も、そのような命がけの愛のことなのだ。イエスの弟子であるためにはそのような愛を生きなければならない。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
8月
31日
土
婚宴に招待されたら、上席についてはならない…だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカ14・8、11)
先週の日曜日の福音朗読は「戸口」がテーマだったが、今日の日曜日の福音朗読ははっきりと別のテーマを中心にしている。「食事」「婚宴」「宴会」と言葉はいろいろだが、いっしょに食べるというテーマだ。それはルカ福音書でも他の福音書でも様々な箇所に出てくる。それを読むと、洗礼者ヨハネとちがってイエスは食事の集まりに参加するのが好きなようだ。それは人と会って言葉を伝えるだけではない。イエスにとっては、食事や宴会はもっと根本的なことであり、私たちの神との関係を連想させることであり、神の国を意味するのだ。
今日の箇所も、エルサレムへの重大な旅の途中だ。イエスは自分の死に向かって顔を硬くして迷わず歩きながら、弟子たちに最後の教えを説く。「安息日のことだった」。どこかわからないが、小さな町か村に入ったイエスは、安息日だから、弟子たちといっしょに会堂にちがいない。「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」。その土地の人々はおそらく、イエスについての評判を聞いていただろうし、イエスと弟子たちが来たことで大騒ぎだっただろう。だから、会堂での儀式の後に、ファリサイ派の人がイエスを招いたのだろう。評判のイエスが来たから、大勢の人が集まった。そういう状況だ。
「人々はイエスの様子を伺っていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいた」。ここで何かルカのユーモアが感じられる。つまり、人々はイエスに好奇心を抱いて、イエスの一挙手一投足に注目している。「伺っていた」とは好奇心半分、批判半分だ。イエスを見るため、この人たちはイエスを招く。しかし、実際には彼らはイエスに見られるのであり、見るのはイエスだ。彼らは、イエスがどんな態度をとるか、何を言い何を行うか見ようとする。しかし逆に、本来イエスこそが見る者だ。イエスは、ものやしるし、自然、人間の行動に深い関心を抱いて読み取った。彼らはイエスを見ようとするが、実際にはイエスが彼らを見るのだ。
このことは実は、こんにちの私たちの経験でもある。神を見ようとして、神から見られる。たとえば、私たちは私たちが神のために働くと思っているが、実際は神が私たちのために働いているのだ。
この箇所でルカは、何が起こったかを細かく書いていない。却って、ルカはこの出来事をきっかけとして、イエスの2つの大切な言葉を並べる。もしかしたらそれはイエスが別な時に話したことかもしれない。今日教会はこの2つの言葉を私たちの黙想のために選んだ。
1.「婚宴に招待されたら」。イエスは婚宴という言葉を使っているが、この場面は婚宴の食事ではなく、安息日の食事だ。だから、ルカはもしかしたら、別の時に話されたことをここに書いているかもしれない。「上席についてはならない」。これは一見すると、相手におもねるための世間的常識的な助言に見える。それは浅知恵、小賢しさにも思える。しかしよく見ると、イエスが言っていることは、ただの外面的社会的人間的な謙遜、劣等感や卑屈さや卑下ではない。それは根本的なことであり、イエスが言うところの幸いと結びつくことであり、イエスが伝える神のイメージにかかわることで、ファリサイ派の人々とのあいだで議論になって彼らを怒らせたことなのだ。神が人に近づく時はいつも、自分の言葉や態度や行いを自慢に思う人ではなく、見捨てられた人など最後の人から奉仕を始める。ぶどう園の労働者のたとえ話(マタイ20・1ー16)がその典型だ。また別のたとえ話では、会堂の前の方に立って自己満足しているファリサイ派の人は罪とされ、会堂の後ろで胸を打つ徴税人は赦され家に戻る。他にも、福音書にはいろいろな話がある。「施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。…施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・2、3)。お返しができない人に善を行うとは、先と同じように、イエスの言う賢さと結びつく。なぜなら、神の国に入る時、ちょうどそのような人たちが、扉を開けに来るからだ。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。
2.今日の箇所には、イエスが弟子たち(人々)だけではなく、会堂(教会)や社会などさまざまな環境で地位や権威、責任がある人たちに向けるもう一つの言葉がある。「お返しをするかもしれない」人を食事に呼んではいけない。却って、「貧しい人」や弱い人などを呼んで、そのような人たちで家をいっぱいにしなさいと。イエスが言うのは、慈善活動も見返りを求めず無償で行わなければならないということ。イエスはよく知っているのだ、慈善活動を行うことによって利益を得る可能性もあると。たとえば、金やサービス、奉仕によって、相手を奴隷にすることもできると。スペイン語に、カリンニョ・ケ・マータという言葉がある。人を殺す愛情・やさしさという意味だ。確かに、政治家など、相手を奴隷にできる。
ルカが伝えるイエスの2つの言葉はこんにちも私たちに向かって、信者として、人間として、市民としてどのような態度をとるかと重い問いを投げかけている。たとえば、信者として神に向かってどのような態度をとるのか、どのような心でミサに与るのかと。感謝を抱き謙遜になって相手に心を開くことが信仰生活の根本であり、慈善活動もそこから行わなければならない。
ミサは神とともに食べる宴会であるが、回心の祈りで始まる。教会が考えるのは、神の言葉を聞く前、聖体を分かち合う前に、回心の祈りが必要だということ。しかし、残念なことに、私たちはよくミサに遅刻して回心の祈りをせずに済ませてしまう。回心の祈りは司祭も必要だ。神の言葉を伝える司祭も自分が罪人であることを認めることからその資格を得るのだ。ミサに遅刻すると、その大切な部分を飛ばしてしまい、必要な態度をもてなくなってしまう。ミサ以外にも何かをするために聖堂に入るとき、私たちはよく心を整えるのを忘れてしまう。たとえば、私が花を用意するために教会に行くのではなく、教会に行く時神が私の世話をして下さるのだ。
神の前で自分が罪人であり赦しが必要であると感じる自覚が信仰体験の中心だ。その体験に基づいてはじめてキリストの言葉を聞くことができ癒やしを受けることができる。
日本では、ミサの聖体拝領の前に私たちは次の言葉を唱える。「主よ、あなたは永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」。しかし、外国でミサに与る経験がある人は、聖体拝領の前に次の言葉を唱えることに気づいただろう。「主よ、わたしは、あなたをお迎えするねうちのないものです。あなたが、ただひとことおっしゃってくだされば、わたしの魂はいやされます」。この言葉はマタイ8・8とルカ7・6にある百人隊長の言葉をアレンジしたものだ。この言葉に見られる態度は聖体拝領するために大切だ。私たちが聖体に近づくのは、自分にはその価値があるとか、それは当然の権利だということではない。自分が罪人であることを認め赦しを求めて聖体をいただくことから、本当の赦しの力、本当に人を受け入れる力が出てくる。それが私たちの態度であるべきことを忘れ、神に近づく畏れを失わないように、ミサに与る時は静かに心を整えたい。
以下の二つの動画は、聖体拝領の直前の言葉による聖歌(作曲はトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア)。下の動画は歌詞と楽譜付。
2019年
8月
24日
土
狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13・24)
ルカの時代、教会では基準が少しずつ変わっていた。時間が経つとともに、イエスへの最初の憧れが薄れ、信者たちは自分の才能や地位を大切にして生活しようとしていた。しかし、ルカは、それは間違っていると言うのだ。やさしいルカが今日の箇所で突然厳しくなるのは、ちょうど両親が自分の子どもに対して普段はやさしい態度をとっていても、危険があるときは厳しい言葉をかけるのと同じだ。私たちが自分の価値や自分の行いに頼ると、救いの可能性がすべて消えてしまう。イエスのメッセージはまったく逆だ。私たちは赦されたからこそ人を赦すことができる。私たちは憐みの対象であったからこそ人を憐れむことができ、無償で助けられたからこそ人を無償で助けることができる。これがキリスト教のポイントで、ルカが厳しい言葉で私たちに思い出させようとしているところだ。
2.イエスの返答にはもう一つ怖いところがある。「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。神様が私たちに、あなたたちのことを知らないと言ったら、私たちの生活の意味がなくなってしまう。日本語の訳は「不義」となっていて、「不正義」を思い出させるが、ギリシア語の原語の意味は「無駄」だ。これは、あなたたちが自分を中心にしたこと、自分の名誉を探したこと、自分が目立つために努力したことは神からは無意味だということ。私たちが判断されるのはそのためではない。教会の中でどんな地位があったか、どんな名誉があったか、人からどんなに尊敬されたかは救いの基準ではない。救いの基準は、私たちがどのように神のあわれみを受ける器になったかということだ。私たちはよく自分のことで精一杯で人を受け容れることができない。人を赦すことができず、人といい関係を結ぶことができない。イエスが言うのは、自分を空っぽにすること、自分を無にすること。これがイエスの道なのだ。パウロの手紙の有名な箇所にあるように、イエス自身がまさにそう生きたのだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。
私たちの教会の本聖堂の扉の上には、2000年の大聖年の年から「私は門である」の字が掲げられている。これはキリストの言葉だ。狭き門とはキリストなのだ。ちょうど大人が子供と話をするときにひざまづいて子供の目線の高さになって子供の目線で交わるのと同じことを神は私たちのためにした。だから、それは私たちの道でもある。
2019年
8月
10日
土
ともし火をともしていなさい。(ルカ12・35)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
8月
03日
土
人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15より)
2016年の黙想を再掲載。
2019年
7月
28日
日
求めなさい。そうすれば、与えられる(ルカ11:9より)
イエスの祈りを他の福音記者より強調するルカ。その福音書には7回、イエスの祈る姿が出て来る。イエスは、1.「洗礼を受けて」、2.重い皮膚病の人の癒しの後に「人里離れた所に退いて」、3.12人の使徒を選ぶ前に、4.「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねる前に、5.変容の時に、6.今日の箇所で、7.ゲッセマネで、祈っている。いくつかの短い祈りも出て来るが、非常に印象的で感動させられるのは、十字架上の二つの祈りだ。「父よ、彼らをお赦しください」(23・34)、そして最期に「わたしの霊を御手にゆだねます」(23・46)。ルカ福音書では、イエスの全生涯は祈りと結びつけられ、イエスは祈りのマイスター(達人、師)として描かれる。
今日の箇所は、ルカによるイエスの祈りのカテケージスと呼べる箇所だ。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子たちはイエスに、その祈りの秘密を顕すように願う。イエスがどう返事するかに私たちも大きな関心がある。なぜなら、私たちはどう祈ればいいかもわからないから(ローマの信徒への手紙8・26)。
そこでルカが短い形で私たちに紹介する主の祈りは、洗礼の時に荘厳な形で私たちに手渡される祈りであり、キリスト者にとって大切な宝物だ。注意すべきだが、祈りとは言っても、アヴェ・マリアの祈りやさまざまな意向の祈りのように一般の霊的な生活の中で使われる祈りとは違って、人間が作って口先で唱えるような祈りではない。それは、信仰宣言symbolumに並ぶべきものであり、イエスの生涯のコンパクトなまとめであり、祈りの形になった福音書である。父である神と私たちに対するイエスの関係を最高の形で表現する祈りであり、私たちの生活の中に溶かして効かせるべき薬のようなものだ。たとえば町を案内するガイドブックが小説のようにテーブルに座って読む本ではなく、知らない町の中を歩きながら行き先を知るための本であるように、主の祈りは、一般の祈りのように座って唱える祈りでなくて、未知の信仰世界の中に生活し、さまざまな出会いの中で生き方を習うための祈りである。この祈りに導かれて、私たちはこの世で神の子として生きることができるのだ。
イエスの返答の中では、三つの動詞が使われている。「求める(頼む、乞う)」「探す」「叩く(ノックする)」の三つだ。この三つの動詞を使って、祈りの忍耐が表現されている。祈り続けなければならない。求め続け、探し続け、叩き続けるなら、必ず叶えられる。神の答えるのが遅いのではなく、神の計画に心を合わせるのがなかなか難しいことだから。祈りがそのために役立つ。だから、気を落とさず、長い忍耐をもって、祈り続けるべきだとイエスは答える。癖だらけの人間の父でも自分の子供によいものを与えるなら、天の父は当然、賜物を自分の子供たちに与える。そして、父なる神からの祈りへの一番大きな報いが聖霊の賜物なのだ。
2019年
7月
20日
土
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ 10:41-42)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
7月
13日
土
旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)
私たち信者は今日の福音朗読箇所を何回も聞いている。よいサマリア人のたとえ話は、ルカ福音書では、放蕩息子のたとえ話に次いで有名なたとえ話かもしれない。「よいサマリア人」という名前をつけられた数多くの病院があり、その名を持つ教会や修道会(男子も女子も)や活動がある。
よいサマリア人のたとえ話は実にシンプルでわかりやすく魅力的だ。二千年に及ぶキリスト教の歴史にはさまざまなことがありさまざまな問題について神学的に議論されてきたし、こんにちも教会はさまざまなことで(いいことでも悪いことでも)話題になる。けれども、このような箇所は素朴で深く純粋な印象を与える。たとえば、川は、村や町などさまざまなところを通り大きな川になって海に流れ込む。けれども、その川を山へと遡ってゆくと、清らかな水が最初に湧き出る小さな泉にまでゆきつく。その源に憧れるような気持ちを今日の箇所は抱かせる。このような言葉を聞くとき私たちは学問としての神学を知らなくても何らかの形で神の本質を理解し、その本心を知り、その素顔を伺い見ることができるという気になる。
ただし、今日の箇所には、たとえ話だけではなく、絵の額縁に当たるようなところもあって、それも大切だ。それは律法の専門家とイエスのやりとりだ。イエスは旅の途中で座って話をしていたところだった。「ある律法の専門家が立ち上がって、イエスを試そうとして言った」。「律法の専門家」とは、こんにちの神学者にあたるだろう。権威をもつ人物だ。「試す」という日本語訳には罠に落とすというニュアンスがある。しかし、そこは聖書学者の見解が揺れるところだ。その専門家は実はそんなに悪い人ではなかったという見解もある。当時、律法学者のあいだに大きな議論があった。トーラー―神の掟、律法、(旧約)聖書―の中で一番大切な掟は何か。その問題を彼は、権威ある「先生」と考えたイエスに投げかけたのだ。「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるのでしょうか」。「永遠の生命」とあるから、この問いは、この世で幸せになるためにどうしたらいいかという質問ではない。究極的に大切なものは何か、流れていく物事の中で、過ぎ去っていく人生の中で何に命をかけるべきかという大切な質問だ。イエスはその人を見て、律法の専門家だとわかる。イエスはすぐには答えず、あなたはどう思うかと問い返す。それに対してその専門家が口にするのは、ユダヤ人にとって旧約聖書でもっとも重要な言葉だ。ユダヤ人はこんにちも熱心な人はその言葉を唱える。それは「シェマー、イスラエル(聞け、イスラエル)」ということばで始まる祈りだ。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。イエスは同意し、その専門家を褒める。すると、専門家は、もう一つ、当時大きな議論になっていた問題をイエスにぶつけた。「わたしの隣人とはだれですか」。今の私たちは、隣人という言葉を、隣の人という単純な意味で理解するが、ユダヤ人にとって重大な言葉だった。隣人とは同じ宗教の人だけか。同じ国の人だけか。正しい人だけか。悪いことをする人は隣人か。その質問は単純な質問ではない。よく見れば、私たちのうちにもそのような問題が起こっている。日本にも、仕事などのために第三世界など外国から来た人が住んでいて、日本人とは違った対応をして問題になったりする。ヨーロッパ、例えばイタリアでは現在、アフリカなどから毎日数千人の移民が到着し、大きな問題になっている。国民には反発する人もいる。だから、隣人とは誰かというのは大きな問題だ。要するに、その専門家は2つの大きな問題をイエスにぶつけたのだ。
イエスは有名なたとえ話で答える。「ある人がエリコからエルサレムに下っていく途中」。エルサレムは山の上の町。エリコは海より300m低いところにある町で、エルサレムからは30キロ離れている。2つの町を結ぶ道はとても険しく、植物はほとんど生えていないが、たくさんの洞穴があり、危険な道だ。イエスは毎年家族とエルサレムに行くためにその道を通っていたから、その道をよく知っていた。エリコは金持ちの町で、今の日本で言えばベッドタウンだった。エルサレムの神殿には一万人の祭司たちが交代で仕えていたが、その多くはエルサレムに家がなかったから、30キロ離れたエリコの町に家をもっていた。だから、その道はさまざまな人が通っていた。けれども、追いはぎに襲われる危険があったから、一人で道を行く人はほとんどおらず、ふつうはキャラバンを組んでその道を通っていた。 その道で事件が起きる。「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま、立ち去った」。そのような事件はよくあったようだ。道端にけが人が倒れていて、祭司が通り、レビ人が通る。レビ人とは今の教会の香部屋係に当たるだろう。神殿でさまざまな仕事をしていた人だ。この人たちは反対側を通っていく。その理由についても聖書学者たちの間にさまざまな説がある。ある人たちが言うのは汚れの問題だ。その人は血だらけだったが、血に触れたら汚れになるから、彼らは避けたのだと。それに対して、ルターが言うのは、追いはぎはまだ隠れていて、襲われる危険があったと。
ここで注意してほしいところがある。初代教会が編集しルカが福音書に書き記したイエスのたとえ話には特別な意味がある。このたとえ話はただの道徳ではない。あなたも隣人を愛しなさいとか、このようにしなさい、という教訓ではない。それよりもっと大切なことをこのたとえ話は言おうとしているのだ。このたとえ話には道徳的な教えを超えた神学的な意味があるのだ。ルカが言いたいのは、私たちが日常生活でどう行動すべきかということよりも、イエスが私たちにとってどういう方かということ。それを理解するためにこのたとえ話をもう一度振り返り、このたとえ話にどのような象徴的な意味があるかに目を向ける必要がある。
まず、エルサレムからエリコに向かう危険な道とは、世間の中の私たちの生活のこと。世間にはさまざまなことがあり、さまざまな人たちが幸せはこれだと言うが、それは罠かもしれない。過ちを犯したり、過ちを受けたりするかもしれないのだ。 怪我をしてその道に横たわっている人とは私たちだ。私たちはさまざまな形で傷を受ける。外面的な傷もあれば、精神的な傷もある。他人から受ける傷もあれば、自分で問題を起こして受ける傷もある。若いうちはさまざまな夢を抱いたとしても、生きていくうちに、まちがったり、限界にぶつかったり、失敗したり。「男子家を出れば七人の敵あり」ということわざもある。子どもを学校に行かせても、その子をだめにするさまざまな危険が待ち構えている。「裸にして、半殺しにしたまま、立ち去った」。「裸」は、聖書ではアダムとイブを連想させる。あるいは、私たちが洗礼の時に身に着けた白い衣を失った状態とも言える。幸せが失われ、心配と不安と妄想に押しつぶされる状態だ。「半殺し」とは、半分生きていて半分死んでいる状態。罪を犯して、どうしたらよいかわからず、立ち直ることができず、先に進む力もない。それは紛れもなく私たちの状態だ。
その状態にいる私たちに大切なことが起こる。「旅をしていたあるサマリア人は」。サマリア人はエルサレムの神殿ではなく山の上で神を礼拝するなどして、他のユダヤ人から異端者とみなされて差別されていた。先々週の箇所にも、エルサレムに向かうイエスをサマリア人が歓迎しなかったとあった。だから、イエスがサマリア人を模範とするたとえ話を語るとは、律法の専門家は驚いたことだろう。
日本語訳では分けるのが難しいが、イエスのたとえ話では、サマリア人の行動が10の言葉で描写されている。「その人を見て」。サマリア人はまずその人に気がつく。「憐れに思い」。ギリシア語の原語は、「はらわたを突き動かされる」を意味する有名な動詞だ。「近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せて、宿屋に連れて行って、介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」。
以上の描写はイエスの青写真だ。ルカが言いたいのは、イエスはそういう方だということ。あなたが道端に倒れているとき、立ち上がることができないときに、あなたのそばにイエスが通る。よく見なさい。その方は金持ちだから金を少し出すだけではなく、すべてを与える。その方はあなたを背負う。そして、あなたにその命を差し出す。ミサを立てるとき祭壇に十字架を置かなければならない。人を癒やす秘跡であるミサはイエスが自分を捧げることで制定されたものだ。だから、それはただの慰め、痛み止めではない。イエスはエルサレムでではなく、エルサレムの外の山の上で十字架につけられ見捨てられて血を流して死ぬことで、私たちを救ってくださった方だ。隣人は誰かという質問に対して、ルカは答える。あなたのそばにいるのはこの方だ。イエスだけがあなたのそばにいてあなたを憐れんで、あなたの問題を自分の問題にして自分の命を与えるほど、あなたを救い、癒やすことを望むのだ。
イエスが私たちを癒やすのは秘跡によってである。たとえ話の「油とぶどう酒」は秘跡を示唆している。洗礼も堅信も聖体もイエスの薬なのだ。そして、イエスが私たちを癒やすのは教会共同体の中でだ。「宿屋」とは教会共同体のシンボルだ。イエスは私たちを孤独から共同体に私たちを導くのだ。教会とは建物ではない。建物も管理の必要はあるが、教会の本当の意味は建物ではない。教会とは共同体、イエスによって集められた私たちのことだ。共同体の兄弟愛によって、また共同体の中で聞く神の言葉によって私たちは癒やされる。イエスはその言葉によって、またその体を捧げることによって(聖体)私たちをまた元気にして、私たちが永遠の生命を受けるために力になってくださる。それが、ルカが今日私たちに伝える大切なことだ。教会共同体はただの宿屋ではなくイエスの病院なのだから、私たちはそれにふさわしい態度をとるべきだ。ミサで聞く言葉はイエスが私たちを癒やす道具だから、その言葉を聞くときにぼんやりと聞くのではなく、心に染み込むように聞かなければならない。聖体は私たちを癒やすイエスの手であるから、聖体を受ける前に私たちは互いに赦し合う必要がある。赦し合わなければその聖体は毒になる。ルカが今日私たちに言うのはそういうことだ。
2019年
7月
07日
日
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10・3より)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
6月
30日
日
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(ルカによる福音書9・51)
2019年
6月
23日
日
すべての人が食べて満腹した。(ルカ 9:17より)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
6月
16日
日
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14)
A年(2017年)の黙想とB年(2018年)の黙想も参照下さい。
2019年
6月
09日
日
2019年
6月
02日
日
2019年
5月
26日
日
聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)
(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)
2019年
5月
18日
土
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)
復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。
(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
5月
12日
日
わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
5月
04日
土
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。(ヨハネ21・7より)
もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。
このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。
2019年
4月
28日
日
信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)
今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。
最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。
ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。
そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。
イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。
次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。
トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。
彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。
今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。
トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。
最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。
2019年
4月
21日
日
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。(ヨハネ20・3)
2016年の黙想の再掲載。
2019年
4月
14日
日
2019年
4月
07日
日
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)
求道者が受洗に向かって、そして求道者も信者も復活祭に向かって準備する四旬節。解放と赦しを求める求道者と信者に教会は第5主日の今日、福音書の特別なページを手渡す。それは、神の驚くべきいつくしみを知ることができるページである。
1.状況はこうだ。イエスを殺し、その権威を失墜させるきっかけを探す律法学者とファリサイ派。そんな彼らにとって絶好のチャンスが訪れた。朝早く若い女性が姦通の場で捕まえられたのだ。モーセによると、こんな女は石打ちの刑で殺せと書いてあるが、どう思うかという問いを携えて彼らはその女をイエスのもとに連れて来るが、それは罠である。なぜか。イエスがモーセの掟に賛成するなら、人々は失望し遠ざかるだろう。これまでは憐れみの話をしていたのだから。逆にイエスがこの女を解放するように言うなら、律法に反したことを言ったイエスを神殿に訴えることができる。どちらにしてもイエスは窮地に陥るだろう。
2.このページを書いた福音記者(聖書学者はルカとも推測する)が伝えるイエスの姿は非常に印象的である。イエスは沈黙し、言葉を使わない。騒ぐ代わりに、体をかがめ土に指で書く。特に目立つのは、ファリサイ派のように、人のプライベートな生活に好奇の目を向け、訴えの種にする宗教をイエスが拒否すること。そして、殺される危険があるのに、彼ら自身の罪を堂々と指摘する勇気である。
3.注意すべきなのは、イエスが彼女の罪を弁明していないこと。彼自身は愛について、結婚について高い理想を抱いている。しかし、こういうことに関する間違いが大きな苦しみをもたらすこともよくわかっている。イエスにとって、神からいただいた掟は、相手を裁き傷つけるためのものではない。それは、皆が同じように神から赦しを得て救っていただかなければならないことを知るためのものだ。これがイエスの考えである。
4.イエスは、訴える人の心の中にある嘘を掘り出す。彼らは、自分を民の霊的指導者に見せようとしたが、人を死に導く悪魔の家来だった。その証拠に、この女性だけではなく、イエスをも殺そうとしていた。彼らは癒しや救いを求めるのではなく、復讐などの思いにとらわれていた。それに対して、彼らの罪を知るイエスの自信あふれる言葉(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)の前で、彼らの嘘はばれて一人一人去っていった。
5.イエスと女性の会話はとても美しい。それまでは身をかがめていたイエスがこの女性の前に立って、この女性に尊敬を示す。彼女の顔に何があったか―死の恐れか、罪の悲しさか、驚きかー私たちは知らない。とにかくイエスはこの女性を叱らず、放蕩息子の帰りを迎えるお父さんのように受け容れ、回心を勧めることさえしない。この人の未来を見て、救いの命を彼女に勧め、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うだけなのだ。イエスは、人に石を投げて殺す預言者ではなく、愛である神のメッセンジャーとして自分の言葉を食べ物として与える。
6.イエスは今回も敵の罠から逃げることができた。しかし、イエスの教えを理解するのに苦労したのは敵だけではない。初代教会の信者たちもそうだった。姦通の女にイエスが与えた赦しは、いろいろな人にとってスキャンダルだった。その結果、長いあいだ(聖ヒエロニムスに至るまで)このページが聖書から省かれ、典礼でも300年ほど使われなかった。アウグスチヌスが言うには、本当の信仰を知らない人たちがこのページの意味を勘違いして、写本から隠したと(『ヨハネによる福音書講解説教』第33説教5)。イエスのいつくしみとあわれみは敵にとってだけではなく、キリスト者である私たちにとってもいつでも信じられないほど大きい。特に私たちが自分の罪を忘れるときの神のあわれみといつくしみは私たちの想像を越えている。
(2016年の黙想の再掲載)
2019年
3月
31日
日
「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。(ルカ15・23、24)
放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえ話の中でもっともすばらしいたとえ話だ。しかし、このたとえ話にはさまざまなニュアンスがある。そのニュアンスはどの登場人物に自分を置くかによって異なる。
例えば、放蕩息子の立場から読むなら、どんなに悪いことがあったとしても神から愛されているという慰めを受けることができる。大袈裟なほどの愛情をもった父親の姿をしているのがイエスにとっては神である。しかし、人間――あるいは人間に嫉妬して(人間の不幸よりむしろ)人間の滅びを願う悪魔――は正義を口実として、仇討ち、復讐を果たそうとし、神のイメージをもゆがめる。そして厳しく冷たく情にほだされない裁判官として人間を滅ぼす神のイメージを作り上げる。そのような残酷な神に対してイエスが宣言するのがあわれみとやさしさ(教皇フランシスコの言う「テルヌーラ」)のある父である神である。だから、どんな時代のキリスト者もこのたとえ話から慰めを受けていた。
他方で、このたとえ話には、私たちにとって受け入れにくいところがある。ルカはその福音書第15章で、3つのたとえ話(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)に先立って、イエスがたとえ話を語ったきっかけを私たちに伝えている。つまり、罪人と食事をしているイエスにファリサイ派が文句を言ったのがそのきっかけである。だから、ルカの意図は、私たちが放蕩息子の立場よりも、またよき父親の立場よりも、兄の立場から読むことにある。ルカは兄の回心をねらっており、このたとえ話を読む私たちをも回心させたいのだ。ところが、それがなかなか受け入れにくい。
イエスが私たちに伝えるのは神との和解であり、私たちの再生である。それは私たちの能力やよい生活やよい行いによってではなく、神の恵みによってのみ可能である。イニシアチブは神にある。ファリサイ派の間違いはそこにあった。彼らは最終的に自分の力で、自分の正しい生活、自分の道徳的な生活で救われると思っていたのだ。しかしながら、罪人である私たちは最初に神から赦されたからこそ、再生が可能である。ベネディクトが言う通り、キリスト者はいつも赦された者なのだ。
ルカがその福音書のさまざまな箇所で述べるように、神は救いの食卓に私たちを招く。その食卓につくことができるためには深い変化が必要である。ところが、私たちは(聖人であっても)毎日少なくとも7回罪を犯して、神のあわれみが必要な状態なのに、間違いをしてしまう兄弟をなかなか赦すことができない。弟が家に戻ったときに、無事に戻ったのだから喜びなさいと神が私たちに言うのが典型的な不正義に見える。結果として、弟に会いたくもない、弟のそばに座りたくない。そして自分も救いの食卓につけない。
洗礼に向かう求道者にとって、またイースターに向かうキリスト者にとってこのような読み方が非常に大切だ。主の祈りにあるように、私たちは兄弟を赦す限り、赦される。相手に心を閉ざし、相手を審判しようとする心から立ち直るように新しい心がイエスから与えられるよう祈りたい。
放蕩息子の兄が父親に言われて命と喜びの祝宴の場に入ったか、私たちは知らない。イエスもルカもそれについて何も言ってくれていない。たとえ話は途中で終わるようだ。たとえ話の本当の結末は私次第なのだ。
2016年の黙想に加筆して掲載。
2019年
3月
10日
日
2019年
2月
17日
日
イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)。
人は成長するために、ほめられることも叱られることも必要だ。ほめられることによって自信をもち、叱られることによって間違いに気づく。しかし、ほめることも叱ることも簡単ではない。お世辞のようにほめてばかりだと傲慢になり、逆に叱ってばかりだと自信を失ってしまう。そこには愛情がなければならない。今日のルカ福音書の箇所でイエスは愛情をこめてほめ、また叱ることで、弟子たちを教育しようとする。
今日の第一朗読のエレミヤの預言の箇所と、答唱詩編(詩編1)は、2つの生き方を比べている。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は」。「呪われよ」と言っても、藁人形を木に釘で打ち付けて災いや死を願うということではない。エレミヤが言おうとするのは、そのような生き方をする人は、岩盤の上に建てられていない家のように土台のない人生を送っているということ。それは、意味なく消えてしまう人生だ。そのような人をエレミヤは「荒れ地の裸の木」にたとえる。それは砂漠に生えて水分を得られずに枯れそうな木だ。それに対して、「水(川)のほとりに植えられた木」はいつでも根から水を吸い上げることができるから、枯れない。暖かくなると新しい葉を出し、季節になると果実をつける。正しい人はちょうどそのように神に根を下ろす生き方をしているのだ。
エレミヤのその箇所を第一朗読として教会が選んだのは福音を理解させるためだ。今日の箇所には「不幸」という言葉が出てくるが、それは第一朗読の「呪われる」という言葉と同じで、ギリシア語の「ウアイ」だ。以前は新約聖書の日本語訳でも、呪いという訳語が使われたが、今は誤解を防ぐために「不幸」という訳語が使われている。ただし、欧語では「呪い」を意味する訳語が使われる。要するに、イエスが話そうとしているのは命と死のちがいだ。神の下で神に照らされて生きる人、あるいは神から離れて死んでいる人について話をするのだ。だから、生きるか死ぬか、私たちが命に向かっているか、それとも神から離れ死に向かっているか――それを考えるのが今日の福音箇所だ。また、「…は幸い」という表現はルカ福音書をはじめ新約聖書のさまざまな箇所に見られる。ルカ福音書では、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人はなんと幸いでしょう」(1・45)、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11・27)、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・38)。またヨハネ福音書でも、「見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)とある。
以下、今日の箇所を具体的に見ていく。
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」。 マタイ福音書が最初に伝えるイエスの教えは山の上での言葉だ。だから、「山上の説教」と呼ばれる。それに対して、ルカ福音書の並行箇所は「平地の説教」と呼ばれる。イスラエルの歴史を意識するマタイは、イエスが新しい掟を教える新しいモーセであることを理解させるために、イエスが弟子たちに教える舞台を「山の上」に設定した。それに対して、パウロといっしょに宣教したルカは、異邦人に関心があるから、ちがった舞台を設定するのだ。
「大勢の弟子とおびただしい民衆が」。今日の場面はイエスが12使徒を選んだ直後だ。その前にはいくつかの奇跡を行っているから、人々はイエスに関心を抱いたのだろう。しかし、それだけではない。「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」。イスラエルを越えた異邦人の世界からも、たくさんの人が来たのだ。
「イエスは目を上げ」。それは父なる神に向かってだ。「弟子たちを見て」。弟子たちとは私たち、教会のこと。今日の箇所は特に教会のための教えなのだ。
続く箇所については、聖書学者などによるさまざまな研究があるが、いくつかの点についてだけ注意しておきたい。
「今泣いている人々は幸いである」。イエスのこのような言葉を誤解してはならない。イエスは決して、涙や苦しみ、病気や失敗や追放がいいことだと言っているわけではない。イエスが言うのは、神がそのような人たちの味方だということ。彼は、私たちの成長と幸せを考えているのだ。私たちが神の子として生きることを考えて、こういう言葉を使うのだ。この点もに注意しなければならない。
キリスト教について暗いイメージを抱く人がいる。また、洗礼を受けてキリスト者になると、清い生活を送らなければならないとか、ルールに縛られ自由がなくなると考える人がいる。しかし、それはキリスト教についての間違った理解だ。たとえば、修道者は結婚しないが、キリスト教において結婚生活が劣った生活であるわけではない。キリスト教の独身生活や他の犠牲は結婚の否定を意味しない。カトリックでは、秘跡を通じて神の恵みが私たちに注がれるが、結婚は7つの秘跡のうちの一つなのだ。パパ様の使徒的勧告『喜びに喜べ』ではその点が強調されている。
「貧しい人々は幸いである」。特にルカは「貧しいあなたがた」と言うから、財産の所有自体が悪であるように思われる。しかし、福音書をよく読むと、イエスは富が悪だとは言っていない。大切なのは、もっているものの使い方だ。教父たちがよく言うように、禁欲だけなら異邦人も実践するが、キリスト者は単に禁欲を行うだけではなく、人とものを分かち合うのだ。人と分かち合う喜びのために、素朴な生活を送るのだ。旧約聖書にもアナウィンという言葉がある。アナウィンとは「貧しい」という意味。イスラエルが神から離れ掟を守らず異邦人のような生活を送っていた時代にも、神の言葉を忠実に行う少数の人々が残っていた。それがアナウィンであり、キリスト者の生き方の模範でもある。
また次の二つのことに注意しなければならない。第一に、マタイ福音書の山上の説教や、ルカ福音書の今日のような箇所は、哲学の議論のための抽象的な言葉ではなく、日常生活の中で命に向かっていくための道案内だ。パパ様はおもしろい言葉を使って、今日の箇所のイエスの言葉は「キリスト者のナビゲーター」だと言う。神から示された道を間違わないようにしたい。
第二に、イエスの弟子であり、キリスト者である私たちにとって、今日の箇所は生きたイエスの写真だ。今日の箇所にある「貧しい」「飢えている」「泣いている」といった言葉は、抽象的なことではなく、イエス自身だ。私たちキリスト者はイエスの生き方を見てイエスの真似をして生きるべきだ。神の子でありながら人間になったイエスの言葉や行い、感じ方や考え方を見ながら生きるのがキリスト者なのだ。キリスト者の生活の中心はイエスでなければならない。ダイヤモンドがきらめくように、柔和さやあわれみなどさまざまな光がイエスから出てくる。私たちは一人ひとりはイエスを真似ることができないが、教会の中でそれぞれのカリスマを合わせて共同体の心をもつことでイエスを真似ることができる。だから、今日の箇所の言葉は私たちにとって大切だ。
初代教会では洗礼を受けるための7つの段階があり、ある段階で主の祈りを志願者に渡した。イエスは、そして教会は、父なる神に向かって神の子として語りかけるために、主の祈りを私たちに渡したのだ。そして、主の祈りが洗礼の前に荘厳に渡される時、今日の箇所の言葉も渡された。それはキリスト者特有の言葉であり態度である。それを生活の中で実現するのがキリスト者に与えられたすばらしい使命だ。
2019年
2月
02日
土
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ4・28―29)。
2019年
1月
27日
日
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)
もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。
第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。
救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。
(2016年の黙想の再掲載)
2019年
1月
20日
日
イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)
ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。
2016年の黙想の再掲載。
2019年
1月
12日
土
イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた。(ルカ3・21より)
他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。
第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。
しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。
そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。
最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。
毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。
(2016年の黙想の再掲載)
2019年
1月
05日
土
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)
主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。
「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。
(以前の黙想のテキストを再掲載)
2018年
12月
30日
日
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)
日本では降誕節とお正月が重なり、その結果、奇妙なことが起きる。世間では11月から店などでクリスマスツリーが飾られたりしてクリスマス気分だが、教会ではまだ待降節だから私たちはまだクリスマス気分にはなっていない。私たちがやっと降誕祭を迎え、その夜と次の朝にお祝いをすると、その25日にはもう、クリスマス気分は周りにない。安売りのケーキが売られているぐらいで、お正月を迎える雰囲気だ。もっとも、いつか日本がキリスト教国になったら、雰囲気はまったく変わるだろう。ヨーロッパやアメリカではキリスト教がすたれてきていて、アジアでキリスト教が勢いを増しているのが今の時代。
典礼上、クリスマスは一日だけのお祭りではない。もちろん、降誕祭で私たちに与えられる言葉はとても大切だ。主の降誕の夜半や日中のミサの聖書の言葉は十分に消化できないぐらい豊かだ。けれども、それだけではなく、降誕のテーマはしばらく続く。私たちはいろいろなことで忙しくしていて気がつかない危険がある。たとえば今日、降誕祭直後の日曜日は聖家族の祝日と呼ばれる。聖家族とはイエス、マリア、ヨセフのこと。実は、教会で祝われる祝日としては比較的遅く定められた。もちろん教会にとって家族はとても大切だ。今のパパ様も家族についてのシノドスを開き、使徒的勧告『愛のよろこび』を出したほどだ。だから、この日に自分の家族や他人の家族のために祈ることは望まれるが、よく見ると降誕節の中の一日だ。12月25日から主の洗礼の祝日までは降誕節と呼ばれる。この間、聖書のとても大切な言葉が私たちに与えられる。それが私たちの信仰の根本だ。
クリスマスと言うと、一般の人は、クリスマスツリーやサンタクロースを連想するだろう。少し知識がある人なら、イエスが生まれた時だと考える。しかし、それだけでは十分ではない。私たちがクリスマスに祝うのは、イエスが生まれたことだけではない。もちろん、イエスは実際に歴史の中で生まれた。ルカが書いたように「皇帝アウグストゥス」の時代に生まれたのだ。けれども、私たち信者がクリスマスに祝うのはもっと大切なことだ。2000年前にそこに生まれたその人が神であったこと、復活したことだ。だから、クリスマスはイースターと同じことを祝うのだ。それがキリスト者の信仰にとって一番大切なこと。私たちはこのことを念頭に置きながら、その降誕節の朗読を聞くのだ。
C年の今年はルカ福音書を読みながら、イエスを見てイエスを知りイエスの後に歩むことになるが、今年の聖家族の祝日に私たちに与えられた朗読は少し不思議な出来事を語る。ルカがこの物語を書いたのは紀元70年頃。それは、イエスが宣教し十字架につけられ復活した後、キリスト教がローマ帝国に広がる頃だった。ルカは、イエスの復活のずっと後に、イエスの幼い頃のことを書いたのだ。ルカはその福音書と使徒言行録を書くときによく調べマリアからもよく聞いて、昔の出来事について書く。しかし、大切だが、ルカは細かい事実を記録するのではなく、神学者として書くのだ。つまり、何があったかを伝えるだけではなく、その出来事の意味を知らせようとする。ルカはその乳飲み子が誰だったか、どう生きて、何を教えて、どういう死に方をしたかを知った上で、昔のことを書いているのだ。そのために私たちは注意して読まなければならない。外面的な言葉の裏に、私たちのためのメッセージがあり、宝物があるから。
「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」。イスラエルの民は年に2回神殿に上るように決められていた。けれども、ナザレはエルサレムへは100キロ以上かかったから、ほとんどの人はその規則を守らず、せいぜい年に1度上るぐらいだった。あまり信仰のない一般の人は一生に1度だけエルサレムに上った。しかし、マリアとヨセフは熱心な家族だったから、毎年エルサレムに上る習慣があった。興味深いことに、今日の福音書のこの冒頭には「両親」とあって「マリアとヨセフ」とは書いていない。後の箇所には「ヨセフ」という名前が出てくるが、ここに出てこないのだ。ルカにとって、この箇所の「両親」とはイスラエルの民の代表者を意味する。イエスもその両親からユダヤ人として育てられ、しきたり、行事、祈り、聖書を教えられたのだ。当時は私たちが知っているキリスト教はまだ存在しなかった。
「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」。当時は、13歳になると一人前のユダヤ人として、儀式や食べ物に関するたくさんの掟を守らなければならなかった。12歳はその直前の年齢だ。今の日本では12歳は小学校を出る年齢なので考えられないが、日本で言えば成人式の直前の年齢に当たる。 「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」。外面的に見ればこの物語は少し奇妙だ。神から授かったかわいい子供を忘れて一日が経つとはありえないことだ。ルカはこの物語で何を言いたいのか。そのことを理解しようとして聖書学者たちはいろいろなおもしろいことも言う。当時はバスなどがなかったから、きっと歩いて帰ったが、男性と女性が別々に歩いていたのではないか。つまり、ヨセフとしては、イエスはマリアと特別な関係にあるから、あるいはまだ子供だからマリアといっしょにいると思い、他方マリアは、イエスはもう12歳で一人前だから父親といっしょに歩きたいのだろうと思ったなどと。聖書学者たちはそのような問題について考える。しかしながら、そういうことは実はなかったのだ。
「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。エルサレムは小さい町だから、子どもを見つけるのに、そんなに時間はかからないはず。子供がいないと気づいてから3日の後に見つけるとはどういうことか。ルカは私たちに何を言いたいか。聖書に親しんでいる私たちはあることを思い浮かべる。イエスが死んで婦人たちが墓に行き墓が空であることを知ったのが3日目だ。
「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。ここは少し注意すべきだ。日本語訳では「驚く」という言葉は今日の福音箇所に2回出ている。その一つがこの箇所。律法学者たちは子供の賢い返答を聞きながら驚いていた。ギリシア語原語では、ショックを受けるような驚きを意味する。それは、自分たちの考え方とちがったことをイエスが話していたから。つまり、ルカはこの物語で私たちに注意を促し、大人になったイエスを暗示したいのだ。この箇所には、ルカ福音書では最初のイエスの言葉について語られる。幼い時の物語はこのエピソードで終わり、20年足らず後、イエスの公生活が始まる。イエスの最初の言葉によって、それまで伝統を伝えてきた律法学者たちは驚いた。それは、その後、公生活が始まった時、イエスの教えに律法学者たちが驚いたのと同じだ。イエスは言う、「あなたがたも聞いているとおり、…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」(マタイ福音書5章参照)。
もう一つの「驚き」は両親の「驚き」だ。それは理解できない「驚き」だ。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。心配した母の言葉は心に沁みるが、それに答えるイエスの言葉は厳しく聞こえる。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。それはエマオの弟子たちへのイエスの言葉とも通じる(ルカ24・25)。しかし、ここに「父」という大切な言葉が出ている。ルカが私たちに伝えたいのは、ベツレヘムでマリアから生まれヨセフが世話したこの子が、人間であるだけではなく、父なる神の子だということ。イエスが来たのは、私たちに神の本当の意志を伝えるため、だからこれから注意するように、とルカは言いたい。
マリアとヨセフはモーセから受けた掟を大切にする人たちだったが、まだイエスの弟子ではなかった。マリアも少しずつ、神を尊敬しイエスの母である者から、イエスの弟子になる。そのことは、ルカ福音書の他の箇所からもわかる。イエスが宣教を始め評判が広がった時、親戚が心配し、マリアもいっしょになって、イエスをナザレに連れ戻そうとした。人が「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と言うと、イエスは言った。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8・21)。マリアもその一生を通じて、イエスの母からイエスの弟子になる過程を辿らなければならなかった。マリアも魔術的にイエスの母、神の母になって、何の苦労もなく過ごしたのではなく、イエスを少しずつ発見しながら、イエスの弟子になって、最後に弟子たちといっしょに聖霊を受けた。そのためにマリアは教会の母と呼ばれる。
今日ルカが私たちに言いたいのはこのこと。注意しなさい、あなたたちがクリスマスにその誕生を祝ったイエスはかわいい赤ちゃん、弱い者の姿をとっているが、私たちの中に生まれた神であり、私たちはその弟子になるべきだ、と。気をつけなさい、世間から受けたメンタリティをイエスに清めていただき、イエスの弟子になるべきだ、と。ルカが今日私たちに伝えてくれるのはそのことだ。ミサの集会祈願に「聖家族の模範に倣い」とあるが、模範と言っても外面的なことではない。外面的にはマリアになることもヨセフになることもできないが、だいいち時代も違うが、私たちは、イエスの弟子になって、イエスに倣って歩んでいくのだ。 「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り」とあるのも、だからだ。当時座るのは先生のすることだった。今の日本の学校では先生たちは教壇に立つが、当時のイスラエルでは弟子たちが立ち先生だけが座っていた。福音書でも何度でも、イエスが座ったことが書かれている。そして、山上の説教のように宣言するのだ。イエスは今日私たちの真ん中に座って先生として私たちに教えようとする。弟子としての、また使徒としての心が私たちのうちに起こるように祈り求めたい。
2018年
12月
23日
日
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)
(2016年の黙想の再掲載)
2018年
12月
16日
日
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)
2016年(C年)の黙想の再掲載。
2018年
12月
09日
日
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)
今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。
洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。
2016年(C年)の黙想の再掲載。
2018年
12月
02日
日