毎週の聖句と黙想2020年(A)

2020年

1月

18日

年間第2主日

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
 主の洗礼の祝日とともに教会暦は待降節から年間に移行したが、年間第2主日には、主の公現の祭日に祝った現れとのつながりを意識して、共観福音書ではなくヨハネ福音書が読まれる。今年A年に読まれるのは、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼について証しする箇所。イエスの洗礼について、ヨハネ福音書はそれ自体としてではなく洗礼者ヨハネの証しとして書くが、三つの共観福音書はその出来事とその神学的意味をそれぞれの形で書いている。今年の主の洗礼の祝日にはマタイ福音書から読まれた。まず、その箇所を見ることにする。
* * * 
 マタイ福音書では、イエスの幼少時代の物語は、ヘロデの迫害の後のエジプト逃避行とナザレへの帰還で終わる。イエスが次に登場するのは、その30年ほど後のこと。その間の出来事について福音書記者マタイは何も書いていない。なぜか。それはマタイにとって大切ではないから。マタイにとって大切なのは、イエスの死と復活、その前にある公生活である。イエスの洗礼はその公生活のはじめにあり、イエスを知るために重要な出来事だが、マタイにとって洗礼は特に重要だ。マタイ福音書は、イエスの洗礼と、福音書最後の弟子たちの派遣の言葉「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」で両側から包まれているから。 
 マタイ福音書では、イエスの洗礼は一つの問題で始まる。それは、福音書では洗礼者ヨハネとイエスの会話の形でまとめられているが、初代教会が抱えていた大きな疑問である。救い主であるイエスがなぜ洗礼を受けたか。ヨハネの洗礼が意味するのは死であり、罪人が回心して罪に死ぬことであるのに、罪人に対して裁きを行うべき「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。 
 これに対するイエスの答えは大切だ。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、正義ということ。ヨハネにとって、正義とは悪に対する裁きであり、罪人の死だったが、イエスにとって、正義とは、世に注がれる、父なる神の愛情のことだ。イエスによって現される神は、生贄を求める神ではなく、罪に落ちた人間を愛して自分の子を捧げる神なのだ。イエスは、ライオンのような姿でなく、ヨハネ福音書で洗礼者ヨハネが言うように「子羊」として、民の罪をかぶって身代わりとなって砂漠の中に死ぬ神の子羊として現れる。上空を飛ぶ強い鷲ではなく、ルカが言うように「雛を羽の下に集める」(13・34)めん鶏として現れる。洗礼者ヨハネが考えていたように、斧で切り倒し火で焼き払う強い者ではなく、弱い赤ちゃんとして現れる(「わたしはこの方を知らなかった」)。イエスが宣言する神の国は、イチジクのつぼみ、一つまみのパン種、未亡人の二レプタのように小さく目立たないものなのだ。イエスが言おうとしているのは、人間の罪を取り除くのは軍人のような力ではなく、母のようなやさしさ(教皇フランシスコがいつも言う「テルヌーラ」)、そして神の愛の美しさだということ。罪の根本は人間の弱さではなく、神に反する人間の心だから。

  洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。 

 「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。当時のユダヤ人の理解では、七つの天があり、律法学者の説明によると、そのあいだには500キロの距離があり、その奥に神の王座があった。神はそれほど遠い方だと考えられていたのだ。しかし、イエスによって開かれた天はもはや永遠に閉じられることがない。
 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。「イエスは…ご覧になった」。マタイによると、それはイエスの内面的な経験なのだ。神の霊が降るとは、神の力が完全にイエスの中にある、イエスが神の子である、ということ。「鳩のように」とは、洪水の後に戻ってきて新しい創造を告げる鳩をはじめ旧約聖書の箇所を参照している。洗礼を受けたイエスは、神の霊が宿る巣であり、父なる神は、この巣の中に降りて永遠にとどまる。 
 「そのとき、…声が、天から聞こえた」。何百年も前から、神は民の罪に怒り、民に語ることをしなかった。その神の声が、イエスの洗礼の時に遂に聞かれたのだ。 
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この短い言葉の中には、旧約聖書の次の三つの箇所が見事にまとめられている。1.「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)。2.「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク…を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22・2)。3.「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ」(イザヤ42・1)。僕とはただの召使いではなく、権限を与えられた代理のこと。
 イエスが洗礼を受ける時、神はイエスが自らの子であることを荘厳な形で私たちに知らせる。イエスは、父なる神の愛の完全なイメージ。神を見ることができる人間はいないが、イエスを見る人は神を見る。
* * * 
 福音書記者マタイにとってはイエスの洗礼それ自体が大切だが、福音書記者ヨハネにとっては洗礼者ヨハネによる証しということが大切だ。ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出て来るだけではなく、福音書そのものが「証し」として書かれていることがその結びの箇所からもわかる。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21・24)。私たちも、キリストを知った体験を人に伝えるように呼ばれている。

2017年の黙想に加筆。

2020年

1月

12日

主の洗礼

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)

ピエトロ・ペルジーノ「キリストの洗礼」、1498/1500年、ウィーン美術史美術館所蔵
ピエトロ・ペルジーノ「キリストの洗礼」、1498/1500年、ウィーン美術史美術館所蔵

 教皇フランシスコは主の洗礼の祝日である12日朝9時半からシスチン礼拝堂で32人の幼児たちに洗礼を授けました。バチカン・ニュースによると、パパ様は幼児洗礼の重要さを強調し、受洗は子どもたちへのこの上なく貴重な贈り物になると語ったということです。子どもたちは洗礼によって授けられた聖霊の恵みに支えられ強められて、健やかに成長していくことができるということでした。詳しくはこちら

 主の洗礼については2016年の黙想(こちら)を参照下さい。

2020年

1月

05日

主の公現

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

アンドレア・マンテーニャ「東方三博士の礼拝」、1500年、J・ポール・ゲティ美術館
アンドレア・マンテーニャ「東方三博士の礼拝」、1500年、J・ポール・ゲティ美術館

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 

 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。 

 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 

 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。名誉教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

(以前の黙想のテキストを再掲載)


2019年

12月

29日

聖家族

それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ2・15)

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「エジプトへの逃避の途上の休息」、1423年、ウフィツィ美術館所蔵
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「エジプトへの逃避の途上の休息」、1423年、ウフィツィ美術館所蔵

聖家族への祈り


イエス、マリア、ヨセフ、

あなたがたのうちに、

まことの愛の輝きを見、

信頼を込めてあなたがたにゆだねます。


ナザレの家族よ、

わたしたちの家族をも

交わりの場、祈りの高間、

福音のまことの学びや、

そして小さな家庭の教会としてください。


ナザレの聖家族よ、

家庭の中で決して

暴力も排除も分裂も起こることがありませんように。

傷ついた人、つまずいた人が皆、

直ちに慰められ、いやされますように。


ナザレの聖家族よ、

わたしたち皆が、

家庭の神聖で不可侵な性格と、

神の計画におけるそのすばらしさを自覚することができますように。


イエス、マリア、ヨセフ、

わたしたちに耳を傾け、

わたしたちの願いを聞き入れてください。

アーメン。


(教皇フランシスコ『使徒的勧告 愛のよろこび』より)

2019年

12月

23日

主の降誕

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)

タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)
タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)

 待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。

 福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。

 第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。

 第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。

 第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。

 注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。

 そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。

 亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。

 第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。

 最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。 

 


2017年の黙想の再掲載。

2019年

12月

21日

待降節第4主日

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)

フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。

 今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。

 「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。

 何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。

 

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。

 「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。

 「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。

 福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。

 そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
 宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。

 教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。


2019年

12月

14日

待降節第3主日

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)

アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
 今日の福音書は先週と違った形で洗礼者ヨハネを登場させる。ヨハネは今度は、ガリラヤから離れた死海のほとりの牢にいる。聖書学者が言うには、ヨハネは牢でも特別な扱いを受けていた。ヨハネを牢に入れた領主ヘロデは後にヘロディアの娘のためにヨハネを殺させる(マタイ14・10)が、ヨハネのことを嫌ってはいなかった。だから、弟子たちが牢に出入りしていたようだ。それで、ヨハネは、自分の目で見ることができないとはいえ、キリストが行なった奇跡について人から聞いていたのだ。 
 話を聞いたヨハネは、弟子をイエスのところに送って、核心的な質問をする。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ここでヨハネがはじめて発したこの問いはそれ以降、救いを探し求める人の問いだ。それは、抽象的な理屈の問いではなく、命賭けの深い問いだ。母の胎内にいた時にもイエスに洗礼を授けた時にもキリストに気づいた偉大な神秘主義者であり、旧約時代の最後の預言者であったヨハネが今、死の危険に面して、迷いと荒みにあってその問いを発する。死ぬ前のマザー・テレサにもこのような暗闇の時期があったと言う。 
 洗礼者ヨハネは、メシアは良い実を結ばない木を斧で倒し、もみ殻を火で焼き払うと考えていた。つまり、メシアが来るとき、世の罪人が滅ぼされると考えていた。だから、イエスの行ないについて聞いたとき、イエスがメシアだと確信をもつことができなかったのだ。イエスについてのこのようなつまずきは他にもある。例えば、イエスの受難と死の予告を聞いてイエスをいさめるぺトロ(マタイ16・22)。あるいは、「お前は神の子、メシアなのか」と聞いた大祭司カイアファ(マタイ26・63)もイエスにつまずいた。 
 イエスはカイアファに対して「それは、あなたが言ったことです」と答える。イエスは、メシアかどうかの答をその人自身にゆだねる。イエスをメシアと信じるかどうか、それは一人一人の賭けなのだ。イエスは洗礼者ヨハネに対しても直接的には答えず、イザヤを引用して間接的に答える。イザヤのその箇所で預言される癒しは、マタイ第8章と第9章の5つの奇跡――2人の盲人(9・27-30)、重い皮膚病の人(8・2-4)、中風の人(9・1-7)、ヤイロの娘(9・18、23-26)、口の利けない人(9・32-33)――で伝えられている。そして、イザヤの「貧しい人は福音を告げ知らされている」は真福八端の最初(マタイ5・3)だ。 
 イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」と言う。イエスを信じるためには、そのつまずきを乗り越え、メシアについての、神についての考え方を根本的に変えなければならない。新しい見方を受け容れ、神の深みを知らなけれならない。つまり、来るメシアは、私たちが想像するような、いい人の神、よい行いに報いる神ではなく、人間のあらゆる期待を越えて人間を愛する神、人間のどのような行動よりも先に人間に愛を与えいつくしみを注ぐ神なのだ。貧しく無力で、最後に十字架につけられる神はそのような神だ。待降節に私たちに求められるのは、悪い生活からよい生活に移る単なる道徳的な回心ではなく、まさにそのような変化だ。

 洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。

 さて、それまでの箇所では、洗礼者ヨハネがメシアについて話していたが、ここで役割の変化が起こる。ここからは、メシアであるイエスが洗礼者ヨハネについて話すのだ。マタイは、洗礼者ヨハネに感動するイエスの言葉を記録している。イエスが言うには、ヨハネは雅人ではなく、骨のある人。偽物の人間ではなく、本物の人間、権力も利益も求めず自由な人間だ。イエスはヨハネを愛する。清く正しく真っ直ぐな生活を送ったヨハネをこれまで生きた人の中でもっとも偉大だと誉める。 
 しかし、イエスは言う、神の国(マタイは「天の国」と言うが、聖書学者によると、それはイエス自身の言葉ではなく、弟子が変えた言葉かもしれない)では、どんなに小さな子供でも、ヨハネより偉大だと。キリスト者は恵みによって救われる。救われるために必要なのは神からただで来る恵みを子供のように受け入れる心だけ。誰もが最初から愛されているという自覚から私たちは自分の罪と弱さを告白し神から救われて、その救いを人に伝えることができる。 
 それでは、洗礼者ヨハネは救われなかったのだろうか。古代の教父たちのあいだにはそのような論争があった。しかし、アレクサンドリアのクレメンスによると、ヨハネは救いから除外された者ではないと言う。ヨハネが語った言葉だけではなく、彼が送った生活を見ると、神の愛を受け容れる態度をとっていた、と。 
 今日、教会が私たちに示す洗礼者ヨハネの姿は偉大な宣教者の姿だ。ヨハネについて本を書いたダニエル大枢機卿は、ヨハネは弟子を自分のところに引っ張るより、自分の弟子を手放してイエスのところに送ったのであり、そこによい宣教者の模範があると言う。ヨハネは、自分のために人を奴隷にするのでなく、キリストのために人を自由にする、と。 
 なぜヨハネは待降節に登場するのか。やはり当たり前のことにとどまらず、大きな問いを抱く必要があるから。私が信じているのは本当にキリストの教えか。私は本当に神の言葉を理解しているか。それとも理解を改めなければならないか。いつでも思い出さなければならないのは、神は私たちをはるかに越えているということ。そして私たちを越えているキリストに会う喜びだ。

2017年の黙想の再掲載。

2019年

12月

07日

待降節第2主日

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)

「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
 待降節第2主日に前面に出て来るのが預言者イザヤと洗礼者ヨハネ。この二人はまったく違った時代に生きた人物で、立場も違えばスタイルも違う。しかし、教会が今日この二人について伝えるのは、来るべきメシアがどういう方であるかを示すため。第一朗読のイザヤの預言によると、堕落したイスラエルにも倦まずに神が送るメシアは、世界を新しくし、人々のあいだに平和をもたらす方。福音朗読の洗礼者ヨハネによると、メシアとは私たちの複雑な生活を整理し、清める力のある方。そして、第二朗読のパウロによると、メシアは僕として仕える方だ。
<第一朗読>
 イザヤは、イスラエルの歴史で一番重要な預言者。今日読まれた11章の箇所は第一イザヤのうちインマヌエルの書と呼ばれる部分(7・1-11・9)に属していて、詩の形式で書かれている。この箇所で使われているのは二つの違った種類の比喩、植物の比喩と動物の比喩である。 
 植物の比喩とは、切り株(「エッサイの株」「その根」)だ。幹を切りとられ、乾燥し、命を失った枯れ木というシンボルは、ユダヤの王国が罪に陥っている状態を意味する。その状態から、突然、一つの芽が出る。命が絶えたところに、神の力によって命が吹き込まれる。人間が何もできないところに、神の憐れみによって救い主が送られる。パウロのテトスへの手紙では、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(2・11。また3・4、3・5)と言われる。イザヤがこの箇所で言っているのも、神の恵みであるメシアについてなのだ。
 若枝を揺らす風は、イザヤが霊について考えるきっかけとなる。風も霊もヘブライ語では「ルアー」という同じ言葉で呼ばれる。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(11・2)。ここでは、霊という言葉が4回使われている。これは、東西南北という4つの方向を意味し、全世界を表現する。つまり、イザヤが言うのは、救い主によって全世界に霊が注がれ、世界が新しくされるということ。イエスがはじめて故郷ナザレに戻った時、「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)というイザヤの言葉は「今日…実現した」(ルカ4・21)と言ったことが思い出される。
 そして、私たちの心に染み入る美しい言葉が続く。その時、私たちの生活は、見た目や人の噂によって判断されるのではなく、正義と愛によって判断される。私たちの心を本当に知っている方、私たちを愛している方によって判断されるのだ。その方によって私たちは悪から救われ、その霊は私たちの弱さを助けに来る。
 この箇所の後半では、新しい創造のイメージが動物の比喩で描かれている。狼と子羊、豹と子山羊、若獅子と子牛といった、対となる動物は、不正義や束縛を伴う私たちの人間関係を意味する。人間の抱える問題には個人としての問題だけではなく家庭や社会の中での問題がある。当時と同じようにこんにちも、私たちは人間関係に悩み苦しんでいる。人間がいっしょに生きる苦労やつらさに神は憐れみを抱き、その関係を癒すためにメシアを送る。神は来るべきメシアによって、私たちの人間関係を正義と平等と平和の関係に直す。私たちはそれぞれの個性のために互いに敵となるが、新しい世界では自分の個性を保ちながらも、人とうまくつきあうことができる。一人一人の個性は神からの賜物であり、新しい世界ではその個性が生かされるのだ。
<福音朗読>
 今日の福音書の箇所には洗礼者ヨハネが出てくる。彼の特異な言葉遣いには、第一朗読にあったテーマが新しい形で出てくる。
 「荒れ野で宣べ伝え」。「荒れ野」はイスラエルの民にとって大きな意味がある場所。イスラエルの民は荒れ野で神と出会い、また誘惑を受けた。
 「天の国は近づいた」。「天の国」はマタイの特別な言葉だ。マタイは「神の国」と言う代わりに「天の国」と言う。
 「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」――それはエリヤの格好(列王記下1・8)だった。つまり洗礼者ヨハネは預言者の格好をしていたのだ。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者として、強い魅力を放ち、メシアが来る直前であり大きな変化があることを力強い言葉で告げる。 
 「ヨルダン川で」。旧約時代、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったのがヨルダン川だった。だから、ヨルダン川に戻るのは、新しく一から始めることを意味する。 
 「彼から洗礼を受けた」。注意すべきなのは、マタイが洗礼者ヨハネの洗礼について伝えるときに、罪の赦しという言葉を避けていること。ヨハネの洗礼には罪を赦す役割はない。マタイにとっては、人間の罪が赦されるのはイエスの十字架によってだけだから。ヨハネ自身も言う、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
 マタイ福音書で洗礼者ヨハネの言葉に出て来るのは、厳しい裁判官としてのメシアのイメージだ。そこには、もみ殻と火という二つのおもしろい比喩がある。飛ばされ燃やされるもみ殻とは、私たちの生活の中にある無駄なもの、土台のないもののこと。詩編第1章にも、正しい人は「流れのほとりに植えられた木」だが、悪人は「風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。ヨハネの言葉は厳しく思えるが、よく見れば、私たちを悪から清め解放するキリストの役割を示している。
<第二朗読>
 パウロの手紙の箇所は今日の朗読で一番感動するところ。ここで最初に言われているとおり、忍耐と慰め、希望を抱くことができるところだ。つまり、メシアは権力をふるう王として来るのではなく、僕として、「仕える者」として命を尽くし、自分の霊を注いで、平和を宣言する。それは、みんなが一つの心と一つの声でキリストの父である神に栄光を帰することができるためなのだ。こういったテーマはすべて、パウロの手紙に豊富に出てくる。
<まとめ>
 待降節はこのような聖書の流れの中に入るように勧められる時。キリストの言葉と命によって恵みを受け、キリストのようにお互いを受け入れ、お互いに耳を傾け、お互いに目を向ける時だ。来るキリストに心を広げる人だけ、「天の国」に入ることができる。

2017年の黙想の再掲載。

2019年

11月

30日

待降節第1主日

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)

 「時は空間に優る」と教皇フランシスコは言う(『福音の喜び』222-225)が、今日の福音書の箇所は時、つまり歴史についてのメッセージ。歴史は人類の歴史もあれば個人の歴史もあるが、揺れ動く不安定なもの。このような終末論のテーマは、年間の最後の日曜日と最初の日曜日に強く出て来る。ただ注意すべきだが、福音書のポイントは、そういう、人間の知恵でもわかる哲学的な発想にはない。福音書にとってはそこによい知らせがある。もろく消えやすい歴史の中に神が入る。神は一人一人の生活の中にも入って、その時間をポジティブな時間に変える。揺れ動く時間の中に恵みの時間が生まれる。私たちの限りある歴史が救いの旅になる。神がそばにいるその愛と慈しみを知り天に入るための絶好の機会――それが待降節である。
 「待降節」はラテン語ではアドヴェントゥス。これは「待つ」というより「来る」という意味だ。古代世界ではアドヴェントゥスとは皇帝が民を訪問するよい時だった。そして、皇帝が通る時、民は皇帝に「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と言った。だから、待降節は、神が私たちに憐れみと救いを与える恵みの時なのだ。
 この時期の一日一日を生きるために、教会は三人の人物を私たちに示す。預言者イザヤと洗礼者ヨハネとおとめマリアだ。この三人とも、それぞれのストーリーによって、待降節を具体的にどう過ごすべきかを私たちに教えてくれる。特にキリストと特別な関係にあったヨハネとマリアは、イエスのそばにいること、イエスを中心にすることを教えてくれる。それは待降節の大きなメッセージだ。母親の胎内で踊った洗礼者ヨハネは、イエスが近づく喜びを感じた神秘主義者。彼は、砂漠の中で自分のすべてをキリストに捧げた。マリアは肉体的に母であっただけではなく、キリストを中心にして生きた。みことばを思いめぐらすマリア、イエスを成長させるマリア、十字架の下でイエスといっしょにいるマリア――教会もマリアのように生きるべきだ。私たちもこのような人たちのようにキリストのために場所を作るよう教会から勧められている。それでは、具体的にどうすればいいか。

Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。

 まず第一は神のことばを聞くこと。教会は、毎日曜日だけではなく毎日聖書から注意深くことばを選んで私たちに用意している。だから、待降節の四週間のあいだにみことばに親しむことが理想だ。イエス自身が神のことばなのだから。
 第二は祈り。待降節は代表的な祈りの時期だ。たくさんの言葉を重ねるのではなく、静かな祈り、観想的な祈りが勧められる。聖体を大切にし、習慣になってしまった典礼に新たな心で参加して、その癒しを知り、ミサを再発見すること。それこそ、キリストの降誕だ。
 第三は回心。赦しの秘跡は、自分の罪を中心にした告解ではなく、喜びの秘跡だ。医者に行くとき、私たちは医者に自分の病気を隠さず打ち明ける。同じように、私たちの傷を癒してくださるイエスを信頼して自分の生活について彼に打ち明けるのが告解だ。多くの人が告解する機会に二三分で終わる告解だけではなく、年に一回ぐらいはもっとゆっくりした個人的な告解をしたいもの。内容としては、朝晩の祈りを怠るといった、決まりに反することだけでなく、自分の生き方が本当にキリストに向かっているか、自分の本当の病気を調べて神に示す。
 第四は、人に対するよい行い。この時期、教会は断食など節制を勧める。けれども、その目的は断食そのものではなく、私たちがキリストに対して抱いている希望を実現すること。具体的に言うと、周りの人たちへの関わり方を見直したり、子どもなど家族にどう信仰を伝えるかを考えることなど。
 最後に、待降節は、出産を待つ母マリアのように、キリストの降誕を待つ時期。断食の苦しみではなく、待つ喜びの時期なのだ。苦しみや悪や自分の罪など、喜びに反することはいろいろあるけれど、神から返ってくるのは喜びのチャンスを与える返事なのだ。

画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。


2017年の黙想の再掲載。