2019年
11月
30日
土
「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)
Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。
画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。
2017年の黙想の再掲載。
2019年
12月
07日
土
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)
2017年の黙想の再掲載。
2019年
12月
14日
土
「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)
洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。
2017年の黙想の再掲載。
2019年
12月
21日
土
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)
待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。
今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。
「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。
何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。
「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。
「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。
福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。
そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。
教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。
2017年の黙想の再掲載。
2019年
12月
23日
月
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)
待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。
福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。
第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。
第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。
第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。
注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。
そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。
亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。
第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。
最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。
2017年の黙想の再掲載。
2019年
12月
29日
日
それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ2・15)
聖家族への祈り
イエス、マリア、ヨセフ、
あなたがたのうちに、
まことの愛の輝きを見、
信頼を込めてあなたがたにゆだねます。
ナザレの家族よ、
わたしたちの家族をも
交わりの場、祈りの高間、
福音のまことの学びや、
そして小さな家庭の教会としてください。
ナザレの聖家族よ、
家庭の中で決して
暴力も排除も分裂も起こることがありませんように。
傷ついた人、つまずいた人が皆、
直ちに慰められ、いやされますように。
ナザレの聖家族よ、
わたしたち皆が、
家庭の神聖で不可侵な性格と、
神の計画におけるそのすばらしさを自覚することができますように。
イエス、マリア、ヨセフ、
わたしたちに耳を傾け、
わたしたちの願いを聞き入れてください。
アーメン。
(教皇フランシスコ『使徒的勧告 愛のよろこび』より)
2020年
1月
05日
日
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)
主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。
「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。
(以前の黙想のテキストを再掲載)
2020年
1月
12日
日
2020年
1月
18日
土
「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)
洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。
2017年の黙想に加筆。
2020年
1月
25日
土
「わたしについて来なさい」。(マタイ4・19)
今日の箇所には、 まさにそんな状況にあって、まず最初にイエスに憧れを感じた人物への呼びかけがなされる。それがペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブという二組のカップルだ。彼らは漁師にすぎない。イエスは、教育を受けた専門の宗教家ではなく、生活の矛盾に陥っている人々を集めて弟子にするのだ。この人たちにに「天の国は近づいた」のは、この人たちがいい人だからではなく、神がこの人たちに関心があるからなのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
2月
08日
土
あなたがたは世の光である。(マタイ5・14)
塩はものに味をつけ、ものを変えるが、光はものを照らしても、ものを変えない。塩が味をつけ腐敗から防ぐのに対して、光はよく見るための明かりであり、何がいいか悪いかを理解し、何に価値があるかないか、何を選ぶべきかを判断するための力だ。
2017年の黙想に加筆して掲載。
2020年
2月
15日
土
あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5・20)
2.「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。この箇所は、ホセア6・6等を示唆している(「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」、イザヤ58・4以下も参照)。神から赦しを受けた以上、互いに赦し合わないなら、神が喜ぶはずはない。神は親だから、自分の子であり互いに兄弟である人間が互いに喧嘩して愛し合わないなら、耐えられない。互いに愛し合うことこそ本当の宗教であり、聖歌などで外面的にだけミサを美しく執り行うことではない。
2017年の黙想に加筆して掲載。
2020年
2月
23日
日
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5・45)
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。私たちは、相手に親切にするとき、相手からも親切にされたいと自然に思う。私たちの心の中にある互恵主義の考え方(「自分を愛してくれる人を愛する」「自分の兄弟にだけ挨拶する」)は人間の常であり、悪いことでもない。ところが、私たちはこのような考え方を自然に神との関係にも当てはめて、悪いことをしたら神から罰せられ、よいことをしたら神から報われると考える。それは、神についての商売的なイメージだ。しかし、イエスはこのような神のイメージに反対する。彼がその言葉と生と死によって宣言する神は、無償で私たちを愛する神だ。神が私たちを愛するのは、私たちから何かをもらったからではなく、神だから、愛そのものだからなのだ。神が私たちを愛するのは、私たちがよい行いをしたからではなくて、たとえ私たちが悪いことをするときも私たちを愛し続ける。イエスの弟子は、このような無償の愛の世界に入るように勧められている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
3月
01日
日
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4・10)。
2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
3月
08日
日
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)。
「声が雲の中から聞こえた」。声とは父なる神の声。その声はイエスの洗礼の時にも聞こえたが、今日は荘厳な形で聞こえる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「愛する子」とは、かわいい子という意味ではない。「愛する者」とはヘブライ語では雅歌にも出てくる「ドッティ」で、全財産の相続人を意味する。だから、神が言うのは、神が人間に対してどう思うか、どうしたいかをイエスがいちばんよくわかっているということ。だから、イエスがメシアであること、イエスの道が神が望む道であることを神ご自身が示したのだ。
「手を触れて」。イエスは病を癒す時に相手に触れることが福音書にしばしば書かれているが、ここでも同じ言葉が使われている。
「顔を上げて」。これは詩篇など聖書の多くの箇所に出て来る大切な動作だ。
「イエスのほかにはだれもいなかった」。モーセもエリヤも消えて、イエスだけがメシアとして残る。マタイはイエスだけがメシアだと宣言するのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
3月
15日
日
「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。(ヨハネ4・26)。
「正午ごろのことである」。暑いイスラエルでは水を汲みに行くのは朝か晩。真昼には誰も水を汲みに行かない。ここでヨハネが考えているのはイエスが判決を下されるピラトの裁判。「正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」」(19・14)。つまり、ヨハネがここで言いたいのは、イエスがメシアだということ。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
3月
22日
日
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。
盲人の目が見えるようになったら、本来ならだれもが神のわざに驚き喜ぶはずだが、この物語では代わりに議論が起こり、両親でさえ喜びより恐れにとらわれている。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。ユダヤ人たちにとっては、唯一の基準は憐れみではなく、掟だ。だから、掟を守らないイエスが神であることを否定し、イエスを罪人とさえ決めつける。つまり、宗教的な規則によって、神を否定するのだ。ユダヤ人たちは何かいいか悪いかを決める権利が自分たちにあると思っている。だから、自分の考え方を事実によって変えずに、イエスを罪人と決めつけ、何が起こったかを聞こうともしない。彼らにとっては、実際に起こったことより、自分の考え方が大切なのだ。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この返事にはユーモアさえ感じられる。しかし、ユダヤ人たちは、いやされた人を侮辱し、外に追い出す。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
3月
29日
日
「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。
「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。ほかの人たちは、マリアとマルタを慰めるために彼女たちの家に入るが、イエスは家に入らず、直接墓に向かい、死という敵と戦う。
「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」。「叫ぶ(クラゼイン)」という言葉は福音書の他の箇所にも出て来る。そのうちの一つは聖金曜日に朗読される受難物語で、イエスが裁判にかけられた時、ピラトが「見よ、この男だ」と言うとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。しかし、今日の箇所でイエスはまったく反対で、墓の中から出て来るように私たちに叫ぶ。人間は死を命じるが、神はいのちを命じるのだ。同様に、イエスが十字架上で息を引き取るときの叫びも、神のいのちである聖霊を送ることにほかならず、創造しいのちを新しくする神のわざである。そして、「墓」とは死んでから入る墓だけではない。私たちは生きているうちも、墓の中にいる。それは私たちの過去である。私たちの生活には、解決していない問題や、長い間人に対してもっている偏見、十分に告解しなかった罪、直していない癖など、要らないものや邪魔なものがいろいろある。それが私たちの墓だ。その墓の前に立ってイエスは、出て来なさいと言うのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
4月
05日
日
彼らはイエスを十字架につけた…(マタイ27・35)
十字架につけられたイエス、
私はいつもあなたを運び、
すべてにまさってあなたを愛します。
あなたは私が倒れるときは助け起こし、
泣くときは慰め、
悩むときは癒し、
呼ぶときは答えてくださいます。
あなたは私を照らす光、
私を暖める太陽、
私を養う食べ物、
私をうるおす泉、
私を酔わせるやさしさ、
私に力を与える薬、
私を驚かせる美しさ。
十字架につけられたイエス、
生きているあいだは私を守り、
死を迎えるときは私を慰め支え、
最後の時には私の心の上で安らいでください。
アーメン。
(中世フランスの祈り)
2017年の記事の再掲載。
2020年
4月
12日
日
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(ヨハネ20・16)
2020年
4月
18日
土
「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。
トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
4月
25日
土
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(ルカ24・30-31)。
イエスの二人への関わりはすばらしい。イエスはまずはやさしい態度で、彼らの目から見た物語を語るように促す。「どんなことですか」。次に厳しい言葉で叱って、別の目で出来事を見るように回心を促す。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。続いて、イエスの物語、イエスの聖書研究、イエスのホミリアが始まる。それは教会のホミリア(説教)と重なる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスの見た神の計画とは、人間を救うために自分の子を送るということだった。 二人の弟子は、メシアがどういうものか理解していなかったが、イエスは神の計画を知った上で命を捧げたのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
5月
02日
土
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10・3)
イエスの新しい共同体はそれまでのユダヤの共同体の延長ではない。つまり、律法の上に築かれる共同体ではない。イエスの新しさを中心にしてイエスを神の子と認め、イエスを旅の基準(「わたしは羊の門である」)として選ぶ新しい共同体だ。教会は、完全な人たち、罪がない、または罪がないと思っている人たち、そして他の人を軽蔑する人たち、自分のよい行いの報いを神に期待する人たちの集まりではなく、イエスを救い主として認め、その顔の上に父なる神の輝きを見た人たちの集まりなのだ。この共同体で大切なのは、自分の行いの完全さより、神から受けた永遠の赦しと神への愛だ。キリストの教会のなかでメンバーを繋ぐのはルールではなく、イエスを通して神から賜物として受けた神の愛。今日の福音書にはこういうテーマが種のようにたくさんばらまかれている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
5月
09日
土
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。
「わたしは道である」という言葉でイエスが教えるのは、イエス自身が道であること。教会もこの言葉を思い出すことで、洗礼を受けたばかりの人たちと私たちに大切なことを伝える。イエス自身が道であり、キリスト者とはイエスと特別な関係をもつ人のことなのだ。イエスとのそのような関係、一致の関係がなければ、キリスト教に入れない。この神学的に深い言葉については、泉のように汲みつくせないほどたくさんの解釈があるが、カール・ラーナーはウィーンでキリスト教の根本についての講演の冒頭で、キリスト者であるとはキリストを抱きしめることだと言った。言い換えれば、イエスを知ること、イエスと同じ目でものを見、イエスと同じように生きるということだ。特にヨハネ福音書ではさまざまな箇所でこのテーマが表現されている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
5月
16日
土
2020年
5月
23日
土
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28・29)
昇天はイエスについての真実であるだけではなく、イエスの弟子である私たちにも深い関係がある。第一に、イエスは天に昇ったとき私たちを天に連れて行ったとパウロは言う(エフェソ4・8)。イエスを信じる人はイエスと同じように神のうちにいるのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
5月
31日
日
イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20・22)
今日の朗読でも同じことが言われる。「息を吹きかけて」――この言葉を私たちは大切にすべきだ。息とは命のこと。イエスは私たちの中に神の命を吹きかけるのだ。神の命は私たちの中に流れて、私たちは生きるようになる。それは教会の形でだ。聖霊降臨の主日は教会の誕生日と言われる。私たちは互いに家族として連帯する。それは人間的な好き嫌いの連帯ではなく、キリストを中心にする連帯だ。キリストを信じるから、私たちは互いにつながりができる。キリストから愛され赦されたものとして私たちは互いに関係をもつのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
6月
07日
日
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3・16)
先週の聖霊降臨の主日で復活節が終わり年間に入ったが、今日、教会は三位一体の主日を祝う。毎日曜日の典礼は抽象的神学的なテーマより、イエスの生涯を辿っているから、今日の祭日は少し不規則だ。教会は復活節を終えた後、山に登って全体の景色を見渡すように、立ち止まって神の神秘を観想するように私たちに勧めるのだ。といっても、三位一体について神学的に細かく話すのではなく、聖書の言葉を聞いて沈黙のうちに観想すべきだ。
今日の朗読には印象的な箇所がいくつかあるが、特に二つの表現に注目したい。一つはヨハネ福音書。その短い箇所に「独り子」という言葉が2回出て来る(新共同訳ではそれ以上出てきているが、原文では2回)。私たちも神の子とよく言われるが、イエスは私たち人間がそうである意味でではなく、独特の、本来的な意味で神の子である。「神の独り子」とは、復活のイエスに属する名称であり、信仰宣言で記念されること。私たち人間は誰も神を見ることができないが、イエスを見ることによって、神の姿を垣間見ることができる。特に十字架につけられたイエスを見ることで、神がどういう方かを見ることができた。それだけではなく、イエスと一つになることで、私たちも神の養子にされるのだ。
第一朗読でモーセが捜していた神、あらゆる山の頂きと雲と雷の上方にいる神は、イエスによって私たちのうちにいる。三位一体の神は、私たちの外だけではなく、内にも存在する。遠いところだけではなく、私たちの心の中にもいる。聖書によると、キリストと一つになった私たちの心には、測ることができないほど深い深淵があり、そこは豊かな宝物がある。私たち一人一人の心の中に照らす光があり、それによって私たちは神の子として生きることができる。だから、外界に向かう心の窓を閉じて、自分の中に沈潜する祈りが大切だ。イエスは父なる神にアッバと呼びかける勇気を私たちに与えた。私たちは、父なる神と交わりができる、話を聞き話すことができるようになったのだ。私たちは、愛され、受け容れられ、赦され、願いが聞き入れられることを信頼して祈ることができる。ペトロも手紙で「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさいと言っている(1ペトロ5・7)。
もう一つ注目したいのはパウロの手紙。その中に、私たちが親しんでいる言葉がある。それは第二バチカン公会議によって、ミサの開祭の挨拶の一つとして選ばれた美しい言葉だ。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。ギリシア語では、恵みはカリス、愛はアガペー、交わりはコイノニア。私たちがしばしば意識せずに使うこの言葉には深い意味がある。
第一に、父(神)。私たちには父がいる。私たちをみなしごにはしておかないとイエスが約束したとおり、父がいる。神とはどういう方かと言うと、聖書を見るとまず、命の与え主、創造主だ。すべてが神から始まる。それは大昔に世界がどのように始まったかということだけではない。神は今日も被造物に存在する力を与え、支えている。この世界にある、よいもの美しいもの、価値あるもの、真実なもの、聖なるものはすべて休みなく神から湧き出している。愛する力も、美しいことを夢見る力も。神は父として、母として、私たちのうちに聖性を作り上げる。尽きることのないその命の泉は私たちのうちにあり、逆に言うと、私たちはその豊かな海に浸されている。
第二に、父だけでなく、子がいる。子であるイエスは昇天後、いなくなったのではなく、私たちのうちにいる。復活節の50日間、イエスは自分がいなくなってもより深い形で私たちのうちに残ると約束した。具体的に言うと、御言葉を聞き受け容れる時、秘跡を受ける時、共同体との一致を生きる時、貧しい人たちを迎える時、キリストの代わりとなる人と関わる時、イエスは私たちとともにいる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。ヘブライ人への手紙に「いけにえ」という言葉が出て来る。「いけにえ」とは何かを燃やすことではなく、尽すこと。ちょうど病気の赤ちゃんを看病する母親のように、イエスは昼も夜も私たちのために祈り尽してくださる。そして、誘惑をどう斥けるか、平和をどう取り戻すか、イエスは私たちに教えて下さるのだ。
第三に、聖霊。先週は聖霊降臨の主日だったが、聖霊とは息のこと。命を意味する息は、私たちが受け入れられて安心した時に、満ちて来る。喜びや節制、柔和、一致などの聖霊の賜物についてパウロはさまざまな箇所で書いている。祈ること、神の言葉を思い起こし理解すること、神の国のために働くことは聖霊によってできる。聖霊の力は神の国が世に広がるために与えられているのだ。
『無名の巡礼者―あるロシア人巡礼の手記』という東方教会の有名な本がある。それは、神を求めて神を探す旅に出た人の物語だが、ある箇所でこのように書かれている。心の内奥に戻って祈った時、周りのすべてが美しく見えた。木も草も鳥も、土も空気も光も。すべてが私といっしょに神の栄光をたたえ歌っていた。その時、私は万物の言葉を理解でき、神と被造物と会話する力も与えられたと。
聖霊の賜物を願い祈るなら、答えがある。神の言葉、キリストの言葉を理解でき、神を知る知恵が与えられる。イエスが約束した慰め、人を愛する力が得られる。聖霊は私たちの心の本物の宝物だ。
最終的に、三位一体は私たちの命の基準なのだ。だから、キリスト信者にとって、三位一体は一番わかりやすく、暖かく、喜ばしく、生き生きとさせるテーマだ。教会は今日の典礼で、難しい哲学的な理屈を考えるようにではなく、このような世界に入って喜ぶように勧めている。
最後に、聖霊に満たされて神の母となり、教会の母、私たちの母となったおとめマリアの取り次ぎを願いながら、祈りたい。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が私たちとともにあるように。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
6月
14日
日
「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・51)。
先週に続き、今日の祭日も一年の典礼の流れの中で特異。なぜこの祭日が出て来るかを理解するために、この祭日がどのように始まったかを見る必要がある。キリストの聖体の祭日は、聖体に深い信心を抱いていたフランドル地方の修道女たちの信心から始まった。そして、彼女たちの司牧をしていた司祭がパパ様になったことをきっかけとして、西洋の信者のあいだに少しずつ広がった。この祭日の典礼(ミサや教会の祈り)の言葉には、聖トマスが作ったものもある。西洋のキリスト教国では、今日の祭日は聖体行列などその地方の風俗に合わせた形で祝われ、社会の中で信仰が表現される。
日本の教会には西洋のような風習はほとんどないが、この祭日はミサの捧げ方や聖体に対する態度、主日の生き方を見直す、よい機会になる。というのも、教会に行ってミサに与っても、習慣に流されて、考えずに同じことを自動的に繰り返してしまう危険があるから。聖体はそもそも、神から教会への特別な賜物だ。復活したキリストはその言葉と聖体で共同体に現存する。キリスト者にとっては、主日の喜びのうちに復活したキリストに出会うことは、生活全体の中心であるはずだ。初代教会の時代、信仰を捨てるなら命を助けようと迫害者から言われたのに対して、若い信者たちは「主日のキリストなしに私たちは生きることはできないsine
Christo Dominico vivere non possumus」と答えて殉教したという有
名な逸話がある。新しい週のはじめであり、イースターを意味する主日はキリスト者にとってそれほど大切なのだ。その日に私たちは、イエスに言われたように、イエスを思い出しながら、ミサでいっしょに食べる。それなのに、私たちはしばしば、習慣的に祈ったり聖体拝領して、聖体がキリストに対するどのような契約であり、兄弟に対してどういう関係を要求するかを忘れ、いっしょに集まりながら互いを受け容れなかったりする。習慣に流される危険は信徒だけではなく司祭にもある。マンネリでミサを立てたり、十分な祈りの準備なしに話をしたり、または自分が宣言することを十分に考えなかったり、キリストを示す代わりに何か変わったことをして自分をアピールしたり。だから、私たちの共同体の主日の聖体祭儀は、私たちの信仰の体温計でもある。今日の祭日はそれについて反省する大切な機会だ。
第二バチカン公会議の典礼改革によって、今日の祭日に読まれる聖書の箇所(第一朗読、答唱詩編、第二朗読、福音朗読)は増えて、3年周期で12箇所となった。簡単に言うと、A年のテーマは、聖体祭儀が命を与える神の言葉であること。B年のテーマは、新しい契約の生け贄。C年のテーマは、キリストであるパンを受け入れることによって、キリストが戻るまでキリストを宣言するという終末論的なテーマ。
今年A年の三つの朗読について見てみよう。
第一朗読は出エジプト記の箇所。荒れ野をさまようユダヤ人たちにエジプトの玉ねぎの代わりに旅路の糧として与えられたマナ。それによって聖体が前もって示されている。聖体も旅路の糧だ。
しかし、聖体は他のすべての食べ物と違う。福音朗読で言われるように、マナを食べた人も死んだが、聖体は、人間が用意できず期待もできない特別な神の賜物だ。先日教皇フランシスコが言ったように、人間が生きるために必要なのは物質的な食べ物ではない。必要なのは、愛情や幸せ、生きる意味だ。多くの人たちは物質的な食べ物があっても、先に進む力になる糧を知らない。自分の人生の意味がわかったり、何がいいか悪いかを区別する力がない。結果として、生きているように見えても、死んだ人のように孤独だ。それに対して、神の言葉であるキリストは彼こそが本当の食べ物であり、生きる意味を与え完成すると宣言する。キリストは、私たちが永遠に愛されていること、そして永遠に愛する力があることを知らせてくださるのだ。食べ物になるキリストだけが、私たちに命を取り戻させ、私たちに命を与えることができる。それによって、失敗した後であっても、新しく生まれることができる。神にとっては私たちの罪の一つ一つは問題ではない。神が心配するのは私たちの罪ではなく、先へ進めないことなのだ。
第二朗読はパウロの手紙。コリントの教会は生き生きとした共同体だったが、大いに喧嘩好きで、争いが絶えなかった。コリントの信者たちはキリストに出会い神に出会っていたが、個人的な性格や社会的な状況の違いのために、あるいは権力争いのために対立し合っていた。こんにちの私たちの共同体も世界中どこでも同じ問題が起こりうる。小教区でも教区でも、考えの相違で衝突したり、互いに人の上に立とうとしたり。だからこの箇所は聖体の話をしているが、パンだけではなく共同体の事情についても語っている。社会全体の中で起こっている問題はさまざまな形で、私たちの小さな信仰共同体にも響いている。
パウロは言う。裂かれたキリストの体だけが私たちを一致へと導くと。私たちキリスト者は、互いに似ていたり、共通の趣味や習慣をもつから一つに集まるのではない。もともと違っているが、十字架につけられて死んだキリストに呼ばれたから一つに集まるのだ。しかも、自分の力で行なったよい行いの功徳の報いとしてために呼ばれたのではない。キリスト者は、キリストに愛され恵みによって救われ、いただいた赦しに感謝して、それによって人を赦し愛すると自覚している。だから、聖体祭儀は人間が作った儀式ではなく、教会堂は、一般的な願い事をする場ではない。教会堂は、私たちのうちに命が湧いてくる場所であり、永遠の命に向かって歩むことができる希望の場所だ。
福音朗読は、ヨハネ福音書より。聖体について述べる第6章は初代教会の説教とも言われているが、今日の箇所は第二朗読と同じく疑いと争いの箇所だ。私は生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きるとイエスが言った後、ユダヤ人のあいだに大きな騒ぎが起こった。このスキャンダルは、私たちにとって大切だ。なぜなら、私たちはイエスのこのような言葉に慣れてしまって、その革命的な力を感じなくなりがちだから。私たちは毎日曜日集まって自動的に同じ言葉を繰り返して、席の順番に聖体を拝領したりする。だから、このショッキングな出来事はとても大切だ。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。その賜物は、旧約時代にすでに預言されていたが、ここにリアルに私たちの前にある。イエスはサマリアの女にも同じことを言ったが、それは人間的には理解できず、神によってのみ理解できることだ。ある人たちはこの言葉を受け容れることができないが、イエスは、この言葉を受け容れこの言葉に身をゆだねるように私たちに求める。この言葉を受け容れるには聖霊が必要だ。
今日の祭日は私たちの聖体祭儀のあり方、ミサに参加する態度を見直すべき日。ミサのためにどのように心の準備をするか、どれだけ祈りの中でミサを始めるか、ミサの後でどう感謝するか。ミサをよりよくし聖体を生きるために何が妨げとなるか、祈りの中で見直したい。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
6月
21日
日
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10・27)
復活節の輝かしい主日が続いた後、典礼は唐突にマタイ福音書の朗読に私たちを連れ戻す。今日のテーマは派遣と迫害だから、夢から突然目が覚めたように感じられる。実はマタイが今日の箇所を書いたとき、キリスト者の迫害が目の前にあった。イエスを信じた信者たちはユダヤ人たちから訴えられ迫害されていた。そのような難しい危機の時期をどのように生きるべきか。それに対してマタイはイエスの言葉を思い出してそれを信者たちに伝える。エマオの弟子たちについてルカは、心が燃えていたことに気づいたと書くが、同じようにマタイは、心が燃えていることを感じさせるために、イエスの言葉をまとめて私たちに伝える。
マタイ福音書第10章は、弟子たちの派遣について五つの話がある。派遣された人、宣教する人、迫害された人はどうしたらいいか。今日の箇所はその2番目の話だが、文章と文章のあいだに直接的な関係がなく、いくつかの言葉がまとめられているようだ。
今日の福音書の箇所を理解するために大切なのは第一朗読。今日の典礼をまとめた人たちは旧約聖書から一人の派遣された人物の美しいエピソードを出す。それは預言者エレミヤだ。エレミヤとキリスト者には大きな共通点がある。暗闇、試練、苦しみ、迫害に遭うが、同時に光もある。エレミヤ書20章を聖書学者は聖アウグスチヌスの『告白(録)』に倣い、エレミヤの告白録と呼ぶ。エレミヤは繊細で、祖国と民を愛し、愛情に敏感な人物だった。しかし、さまざまな問題が起こり、親族から見捨てられ、友人からは裏切り者として憎まれ、愛する女性から引き離され、民から訴えられ拷問まで受けて、当てもなく放浪した。神からの召し出しに忠実であったがために、光と喜びだけではなく、暗闇と疑いを経験した。20章1~6節に書かれているように、イエスと同じように鞭で打たれ、ゲッセマネや十字架のイエスと同じように神から見捨てられる経験をしたのだ。しかも同時に、その中にも突然、神の現存を経験した。「主は恐るべき勇士として私と共にいます」。神は派遣した弟子たちの孤独と苦しみを知っているというのが今日のテーマだ。
ルカが報告する、エマオの弟子たちはイエスの姿が見えなくなってから語り合う、「わたしたちの心は燃えていたではないか」。それは、苦しみの中の喜び、血まみれの喜び、見捨てられても愛されていることの喜びだ。キリスト教の歴史の中で殉教者たちはいつでも、言葉で言えないそのような喜びを感じてきたことが記録されている。 今日の箇所でマタイはイエスの言葉を思い出して二つのことを信者たちに伝える。
一つは「恐れるな」。パウロが言うように、宣教にはさまざまな危険がある(第二コリント11・23-29参照)。しかし、召し出しを受け派遣された人は、赤ちゃんのように胎内に閉じこもり危険から逃げる誘惑、受けた宝物を独り占めにして秘密にする誘惑を乗り越えなければならない。教皇フランシスコも「外に出かけなさい」と言う。偽物の宣教師は人気や称賛を求めるが、本物の宣教師は伝えるべきメッセージを曲げず迫害される。肉体的な迫害だけではなく精神的な迫害もある。今は血が流されるだけでなく、からかわれたりばかにされたりして、名誉が傷つけられる。
しかしイエスが言うのは「恐れてはならない」。なぜか。宣教師のために神が見張りをするから。イエスの神は、名誉教皇ベネディクト16世がよく言っていたように、大きな権力や名誉や称賛だけではなく、一番小さいことを見るのだ(「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」)。イエスの神は、大きな象だけではなく、小さな雀を見る。イエスが話をしていたときに、彼の目の前に一羽の雀が飛んでいたかもしれない。またはイエスは一つの詩編を思い出したのかもしれない。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています」(詩84・4)。だから、命を奪う人を恐れてはいけない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。権力の前であっても、イエスの教えを曲げずにそのまま伝えなければならない。イエスは派遣された弟子たちの苦しみを知っている。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)イエスは弟子たちの弱さを知っている。こういう言葉を聞く時、教会のために尽し名前も残さず消えてしまった人たちのことも思い出したい。
今日の福音書にはもう一つの宝物がある。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。これは直前の節と混同されて、秘密にしてはいけないという意味だとよく誤解されるが、そうではない。暗闇で語ったり耳元でささやくということは、床をともにする男女の親密さを思わせる。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」(雅歌2・6)。宣教とは最終的に、技術でもでも学問でもない。宣教とは神から愛された経験を伝えること。イエスから秘かに打ち明けられた愛の言葉を人に黙っていられないことだ。本物の召命の最初にあるのはそのようなイエスとのあいだの経験なのだ。ルカによると、イエスは父なる神との祈りの中に夜を過ごしていた。イエスと父なる神のあいだにどのような夜の会話があったか。そこからイエスの宣教が始まり、弟子の召命が始まる。その美しい愛の経験をマタイは、年間に戻る今日の主日に、思い出させたいのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
6月
28日
日
「受け入れる」とは「信じる」と似た態度だ。キリスト者とは言葉を聞く人、受け入れる人のこと。「信仰は聞くことから始まる Fides ex audito 」。キリストは肉になった神の言葉だから、キリスト者は、自分の家に神を、キリストを迎え入れて世話をする。神の言葉を自分のうちに受け入れ守って瞑想した代表的な人物がマリアだ。生まれつきキリスト者である人はおらず、キリスト者であることは世襲ではない。信者の両親から生まれた赤ちゃんもキリスト者として生まれるのではなく、神から送られた人を受け入れることからキリスト者としての生活が始まる。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
7月
05日
日
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。(マタイ11・29)
今日の箇所は有名な箇所。いろいろな解釈があり、もしかしたらマタイ福音書の中で一番有名かもしれない。このページには大切な宝物がある。とにかく目立つのは、イエスの悲しみと喜び。イエスは神でありながら、人間として私たちのように悲しみ喜ぶ。
今日の箇所はイエスの公生活のはじめのころの出来事。イエスは、彼の言葉を受け入れない古臭いナザレから出て、ティベリアス湖のほとりにあるカファルナウムやベトサイダで布教を始めた。そこでも何か月か経つと次第にナザレと同じように反発に遭うようになる。洗礼者ヨハネも弟子をイエスのところに送って、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせる。ヨハネもイエスの教えに納得していなかったようだ。それに始まり、ナザレとは違った形だが、反発が次々と出て来る。イエス自身の弟子も何人か、失望しあきらめて離れてしまったようだ。要するに、今日の箇所はイエスの布教の失敗という状況が背景にある。なぜ失敗したか。何よりも、イエスは聞いている人たちに対して厳しい態度をとるということが考えられる。「…する人は災いだ」ということも言う。失敗して失望をあらわすイエス。
私たちにもそういうことがある。私たちも信者として、両親として、司祭として、宣教師として、課題に一生懸命取り組んで、神について、また一つの理想について話そうとするが、相手に受け入れてもらえないことがある。そんな時、私たちはよく失望して、落ち込む。
このような状況に対してイエスがどのような態度をとるのかは興味深い。マタイによると、イエスはその時祈りに入る。祈りと言っても、何かの願いをするわけではない。イエスは祈りのうちで、そのような状況を父なる神の目から見ようとするのだ。今の状況にはどのような意味があるか、父なる神の思いはどこにあるのか。挫折を経験したイエスは、いつものように祈りに行くのだ。
そこで、今日の箇所でもっともすばらしい一つの祈りが出て来る。短いが明解で、美しく、神学的にも重要だ。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。「父」とは原語でアッバだ。福音書には182回出て来る。181回はイエスが使っており、1回だけ(最後の晩餐の時に)フィリポが「御父をお示しください」と言うが、イエスから習った言葉であり、イエス独特の言葉だ。よく知られているアッバとは父という意味だが、赤ちゃんが使う言葉なので、ラビなど律法学者にとっては神に対して使うことが考えられなかった言葉だ。イエスがアッバという言葉を使ったということは私たちにとって大切な意味がある。例えば神について子どもに教えるとき、アッバという言葉の意味を踏まえて、イエスの心を伝えなければならない。この言葉によってイエスは父なる神と彼自身との関係を示している。
「ほめたたえます」とは原語ではベラカーで、祝福や感謝を意味し、聖書では大切な言葉だ。このような言葉を使って、イエスは失敗の悲しみの中にもある喜びを示す。それは、何か大切なことを見い出して、天に昇るような喜びの叫びだ。
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、山上の説教などで示されたイエスの教えであり、人間に対する神の計画のこと。「知恵ある者」とは聖書の知恵文学を連想させる。「幼子のような者」とは「小さい者」ということ。「賢い者」と「幼子のような者」との対語には注意しなければならない。知識があるかどうかという外面的なことではなく、内面的な態度のこと。学者であっても、神の言葉を学ぼうとして「幼子のような者」であるかもしれないし、逆に本を読まない人も、自分の考えにこだわって「賢い者」のようであるかもしれない。イエスがこの言葉で言おうとするのは、自分の考えに満足し、他に何も探し求めず、新しいものに目を向けない状態、つまり、自分に閉じこもり神に心を開くことがない状態の人のことだ。だから、イエスは外面的な身分のことではなく、内面的な心の状態について言っているのだ。
教皇フランシスコは、イエズス会員は未完結で開かれた考え方をする人でなければならないと言っている。つまり、教義に書いてあり、教科書で習ったことよりも、神はいつも向こうを行くと考えるのだと。つまりこの言葉でイエスは自分の道を示すとともに、同じような問題にぶつかる私たちにも進むべき道を教えている。彼が見い出したのは、父なる神がその賜物を人間に与える時に、人間の自由を尊重もするということ。神は誘うが、押し付けない。だから、イエス自身が失敗と感じたことは外面的なことにすぎない。人を信頼すること、人に忍耐し暴力を振るわないこと(「柔和」!)、人を毒麦扱いしないこと――それはイエスの教えのうちにいつも出て来ることだ。要するに、作物の成長を見守る百姓のように、無理せずにその時期を待つこと。私たちも失敗して落ち込む時も、神を祝福し、信頼を忘れず神に任せて忍耐するようにイエスは教えてくれているのだ。
今日の箇所の最後にも大切な言葉がある。それはこの箇所を照らす言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。すばらしい言葉で、私たち誰もが言ってほしいことだ。まさにイエスのやさしさ、「柔和」と「謙遜」を感じさせる。メシアであるイエスは、第一朗読にある通り、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」者なのだ。 「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。軛とは、今の日本の生活には見られないが、牛などの動物を対で、同じ速度で働かせるためのもの。牛の軛は非常に重い。当時は、律法は軛であり、ファリサイ派や律法学者のような権力者は、民を動物のように奴隷として支配するための道具として律法を使った。それに対して、イエスは厳しい言葉を口にしている。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・4)。律法学者が抱かせる、独裁者のような神のイメージと、神の掟についてのゆがんだ考え方に対してイエスはきわめて厳しく、まったく逆の、独特の考えを抱いている。イエスはここでその言葉を使って、「わたしの軛」と言う。ただし、その軛は「負いやす」いと言う。弘法大師が遍路とともに歩くことを同行二人と言うが、「わたしの軛を負う」とは、イエスを基準として、イエスと同じように生きる勧めだ。「わたしの軛」とは「わたしの掟」のこと。イエスの掟は、神から愛されて、神と隣人を愛することだ。「私から習いなさい」とは、そのような掟、神の御心をどのように行うかをイエスから習うということ。つまり、イエスといっしょに、イエスのような態度で、父なる神の掟を生きること。 2011年のバチカンのコロッセオでの十字架の道行きでは、アウグスティヌスのヨハネ福音書注解2・2より「十字架から離れるな。離れないなら、十字架はあなたを背負う」という言葉が引用されていた。律法学者やファリサイ派は「重荷を」「人の肩に載せ」ていた。つまり、人に自由を与える代わりに、人を奴隷にしていた。掟を網のように人にかけていたのだ。そして、その掟に縛られて、神との関係について議論する状態だった。それに対して、イエスは、彼自身といっしょに彼自身のように掟を実現することを勧める。その荷が「軽い」のは外から動かされるのではなく、イエスが心に吹き込んだ聖霊によって内から動かされるから。その掟は愛の要求だから。
「柔和」とはヘブライ語のアナウィンという言葉に相当する。アナウィンとは、もっとも弱い、見捨てられた、何もない、神だけに委ねられた、貧しい、ということ。それによって本当の喜びが見い出されるのだ。結局のところ、イエスの言葉、神の言葉、聖書を理解するのは、「賢い者」ではなく、愛を込めてその言葉を受け止めた聖人なのだ。
イエスの悲しみと喜びを記す今日の箇所は、私たちにとって大きな意味がある。失敗を経験したイエスが祈りのうちに見出したこと――実はイエスはいつもそうで、その道を最後まで歩むのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
7月
12日
日
ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ13・8)
山上の説教と弟子の派遣に続くマタイ福音書第13章。それは七つのたとえが出て来る有名な章だ。イエスのたとえをマタイは自分なりの形で編集する。そこでは「天の国は次のようにたとえられる」という表現がよく使われる。天の国は遠い未来のことではなく、私たちが正しい態度で生きるなら、今ここで始まるとマタイは言いたいようだ。
イエスのたとえ話はとても美しい。一見素朴だが、意味深長で、深く聞くことを要求する。イエスはすぐれた説教者で、心に触れる例を使ったのだ。そのたとえは彼の神性からとったものではなく、周りの自然についての注意深い観察から得られている。空の鳥と野の百合、雀、太陽、雨、雲、夕日、稲妻、いちじくの木とぶどうの木、麦の穂、アザミ、野良犬、木の虫と枯草、カラス、魚、羊、狐、サソリなど。
今日の箇所には、種と種撒く人のたとえが出て来る。他の共観福音書にも出て来るたとえで、私たち信者には親しまれたイメージだが、読めば読むほど驚くべきニュアンスが出てくる。今日の典礼はこのたとえ話のポイントを示すために、第一朗読にイザヤ書の一つの箇所を選んだ。それは文学的にも美しい箇所で、もしかしたらイザヤ書でもっともすばらしい箇所かもしれない。それによると、種とは神の言葉だ。その言葉は、私たちに語るだけではなく、神の力を示し、神の子の名を意味する言葉であって、世にあるすべての美しいものの最初にあって創造する言葉なのだ。
今日の福音書の箇所をよく見ると、大きく二つに分かれている。第一の部分は、イエス自身に遡る。第二の部分は、イエス自身の言葉以外に、教会とマタイが編集したところ。イエスの言葉についての初代教会の反省を表している。その難しい言葉をどう理解したらいいのか、教会の反省を示す部分だ。
第一の部分の主人公は、種撒く人。それは父なる神ご自身だ。イザヤがすでに注意しているように、神はその言葉によってすべてを創造する。だから、種とは、世のはじめにあって、創造する力のある神の言葉のこと。このたとえでイエスが私たちに語る父なる神は遠い神ではなく、私たちのそばで力強く働いている。それは、イエスによって働く神だ。
種蒔く人のたとえは私たち現代人からすると、何かピンと来ないところがある。もし主人公が神なら、なぜ種をこんなに闇雲に蒔くのか。当然のことだが、イエスは、当時の百姓たちのやり方を参考にしている。当時は今とは違い、土を耕してから種を撒くのではなく、種を蒔いてから鋤で種に土をかけていた。今から考えると、不合理なやり方だ。つまり、イエスはまず、当時の農業の方法を前提としている。
しかし、それだけではない。イエスが種蒔く人の態度で示したいのは、もう一つのこと。だから、このたとえは私たちにも大切な意味がある。つまり、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神はどんな人(土)にも、キリストによって自分の言葉(種)をもたらす。つまり、ペトロも言うように、神は人を選ばないのだ。神は、善い人だけではなく、あらゆる人に自分の言葉を力強く届ける。そして、どんなことがあったとしても、反発するどんな悪い状態(土)があったとしても、どんな災いや問題(雑草)があったとしても、イザヤが暗示するように、必ず最後にその言葉(種)が実ることをイエスは何よりも言いたいのだ。別な言葉で言えば、神は人間に対して限りない信頼を寄せている。宣教の難しさ、イエス自身、そしてイエスの弟子がぶつかる困難にもかかわらず、神の国は必ず完成する。
このことは私たちに何を言おうとしているか。たとえば、ルカが報告するように、悪い生活を送った強盗も、十字架上の最後の瞬間でイエスから癒しを得て天に入ることができたことがそうだ(23・42ー43)。または教会の中にある、さまざまな聖性の歴史が思い出される。このたとえの最後に、父なる神の言葉の力が示唆されている。すべてのものの中で最後に残るのが父なる神の言葉なのだ。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。だから、マタイがイエスの言葉について私たちに言うのは、注意しなさい、この言葉は他の言葉と違う、他のつまらない言葉と違って、この言葉に対しては特別な聞く態度が必要だということ。
第二の部分は、イエスの言葉についてのマタイの教会の反省。ちょうど説教のようなもので、どのようにその言葉を聞くべきかを教えようとする。初代教会の信者たちがイエスのこのたとえに対してどのような態度をとっていたかがわかる。この第二の部分は、こんにちの私たちにも特別な意味がある。
まず、神の言葉は、すべての人に対して変わらず同じ形で与えられている。それに対して、その言葉に対する態度は、拒否する人から受け入れて百倍の実りを結ぶ人までさまざまだ。イエスの言葉に対する態度は、4つのグループに分かれる。
第一のグループ。その人たちは神の言葉を聞くが、言葉は心の中には入らず、悪魔がその言葉を奪ってしまう。種は道の上に落ちて鳥が食べてしまう。当時は今のような道ではなかったが、道の上を人が何度も通ると、 土が固くなり種を受け付けないようになる。それはこんにちの私たちの世界に似ている。マスコミやネットにさまざまな情報があふれ、何が正しいか正しくないか、さまざまな意見によって私たちは振り回される。私たちは洗礼を受けても、世間的な価値観に流される危険がある。キリスト者であるためには、キリストについておおまかに知るだけでは十分ではなく、イエスを深く知り、イエスに深くつながらなければならない。
第二のグループ。石の上に落ちた種は根を下すことができず、日に焼かれて枯れてしまう。それは感情的に好きになるが、すぐに忘れてしまう人のこと。例えば、洗礼を受けてしばらくしたら、教会から消えてしまう人がいる。教会に来て活動をしていても、イエスが中心ではないなら、十分ではない。種のように忍耐強く成長しなければならない。引き続き、知識を深める必要がある。そして知識だけではなく、キリスト教的態度の訓練をしなければならない。例えば、長いあいだ他の信者とのあいだに喧嘩が続いて、赦し合えない状態なら、キリスト信者としての基本が欠けているのだ。
第三のグループは、茨にふさがれる。教皇フランシスコは最近よく、世俗化という言葉を使う。つまり茨とは、世俗的な価値観や世俗的な生き方のこと。何に重きを置くかが間違っているのだ。
最後の、第四のグループは、「良い」というより「美しい」土地に落ちる。実るとは、外面的な知識をもっているだけではなく、それぞれの形で人に赦しを与えることができるようになるということ。「百倍」という実りの大きさについてはイエスは「からし種」という別のたとえも使う。イエス自身、弟子の成長、キリスト者の霊的生活の深まりに驚くのだ――我が子が赤ちゃんから大人になるのに驚く母親のように。詩編1にも、流れのほとりに植えられた木が季節ごとに実をつけるとある。
そのためにはしかし、その言葉に対して私たちの側に受け入れる態度が必要だ。それは具体的に言うとどのような態度か。それは騒ぎを抑えて、沈黙し、その沈黙の中で、他の邪魔になることを消すこと。例えば、自分が足りないものである自覚が必要だ。自分には何もかもわかるという態度ではイエスの言葉はわからない。エゴイズムを捨てて、神に場所を与えること。神が私たちのために働いていることに信頼すること。心を清めて、内面的な静けさを保つこと。要するに、祈りの態度が必要だ。
今日のたとえについて思い出されるのは、司教や司祭、カテキスタなど、教会の中で神の言葉に対して責任をもつ人のこと。マタイが私たちに思い出させるのは、他のものを混ぜないで純粋な種を蒔くこと。そしてついでに、イエスのように困難に負けず、種を撒きつづけること。司祭の最大の役割は聖体と神の言葉への奉仕であり、そのために深い愛情と、細やかで謙遜な準備の仕事が必要とされる。神の言葉を伝えるのは大きな喜びであると同時に大きな責任があるから、習慣に流されて説教をすませてはならない。そのような難しい役割のために、信者の祈りも必要だ。司祭職については教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』第三章Ⅱ及びⅢ(135~159)にすばらしいページがあるから、私たちはそれを共有すべきだ。
神の言葉に責任をもつ人だけではなく、聞く人の準備も同時に大切だ。たとえば、教会のミサの時間を守らず途中で来る人がいる。私たちは聞く人にならなければならない。聞くことを学ばなければならない。聞くことは簡単なことではない。どのように神の言葉を聞く準備をするか、どのように霊的生活を育てるか、どのように神の言葉について反省するか、考えていかなければならない。それは抽象的なことではない。私たちは、騒がしい一般の会話から急にミサに移ることはできない。いろいろな具体的なことが考えられる。
今日のたとえはさまざまな時代に当てはまるだけではなく、私たちの共同体、まさに今日この日の私たちの共同体にも当てはまる。日曜日ごとに神は、私たちの心に種を撒く――信頼し忍耐し、たゆまず惜しみなく。そして、例え話のように私たちの共同体でも、ある人たちは100倍、ある人たちは60倍、ある人たちは30倍の実を結ぶのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
7月
19日
日
ある人が良い種を畑に蒔いた。(マタイ13・24)
今日のたとえは、よく理解すれば、教会を変え、私たち信者の生活を変えるほど、よいたとえだ。間違った神のイメージを変えるからだ。「毒麦」のたとえは他の福音書にはなく、マタイが特に大切にするたとえと言える。マタイはこのたとえを他の2つの短いたとえといっしょに伝える。そのつながりはイエス自身に遡るものかもしれない。マタイはいつものように、当時の教会の出来事を考えながらイエスの言葉を思い出して私たちに伝える。
今日のたとえには、いろいろなニュアンスが含まれており、見方によっていろいろな意味が出て来る。
先週のたとえと同じく、今日のたとえの舞台は畑。さらに先週のたとえと同じく、主人は畑に種を蒔く。先週読んだように、イエスの説明によると、畑とは第一に、世界のこと。さまざまな人がいて、さまざまな事情や出来事のある世界のことだ。第二に畑とは教会共同体のこと。先週読んだように、神は教会共同体という畑に種を撒く。第三に畑とは私たち一人ひとりの心のこと。それはさまざまな人物があらわれる歴史のことでもある。そして、種蒔く人とは、神ご自身であり、種とは神の言葉のこと。種は私たちを成長させ、この世界のうちに神の国が現れる。
今日のたとえの中心は毒麦。毒麦とは罪のこと。私たち一人一人の心の中に突然芽を出し、現れる罪のことだ。それはショッキングなことだ。神によって造られた人間がどうして悪を行うのか。キリストに救われ洗礼を受けた信者がどうしてまた罪を犯すか。
僕たちとは、教会共同体でイエスのために働く信者のこと。彼らは問題を神のせいにする。「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか」。彼らは畑の麦を大切に思って心配するより、神に対して怒っているようだ。そして、神より賢く、神より問題がわかっているかのように言う、「行って抜き集めておきましょうか」。その態度は、イエスがサマリアの人たちから受け入れられなかった時のヨハネとヤコブを思い出させる。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9・54)。あるいは罪人への罰を望み神が罪人を赦したことに腹を立てたヨナも思い出される。彼らは暴力をふるい、教会から罪人を追い出したいのだ。彼らはエリートで自分が清らかで罪人とはまったく関係がないと思い込んでいる。そして、他人にある悪に対して厳しい考え方をして、正義感をもって罰を下そうとする。放蕩息子の兄もそうだったし、私たちキリスト者もしばしばそうだ。彼らがわからないのは、毒麦を抜き集める気持ちは、毒麦そのものよりも悪いことだということ。彼らのやり方は問題よりも危ないということ。罪人を追い出すことは、神の働きをだめにするということ(「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」)。言い換えれば、人間は神にとって大切で、イエスが人のために命を捧げるほどだと彼らはわかっていないのだ。彼らは、結局のところ、毒麦に対して怒っても、神が撒いた良い種の価値をよく知らないのだ。それに対して、イエスは忍耐を教える。その忍耐は受け身でも投げやりでもない。彼は他の2つの例えで、どう待つべきかを教える。
イエスの言葉は、私たち一人ひとりにも当てはまる。私たちも気づかないうちに悪魔に誘惑され、何かの罪に陥ってから気づくことがある。私たちの心の中には良い種といっしょに悪い種があるのだ。イエスが言うのは、罪に陥った時、自分の罪にばかり気をとられるよりも、神の愛を考えるべきということ。自分の罪に固着したのはユダだ。ユダは絶望に陥り、命を絶った。完全主義は、霊的生活の病気だ。それは本当の罪の意識ではなく、罪悪感に過ぎない。完全主義は人に対して冷酷にして厳しく審判させ、自分に対しても心を麻痺させて、心の中にある良いものを殺す危険がある。神は罪人がそのようになることを望まない。神は人間の罪ではなく、人間がなることができる聖人を見る。神にとっては、聖性の1グラムは何トンもの罪より重い(1ペトロ4・8「愛は多くの罪を覆う」)。イエスが言うのは、罪から解放されたければ、高いところに目を向け、神を愛しなさいということ。それは、教会の中に、また自分の心の中に罪を放任することではない。ただ、悪に対して戦うのは善しかないのだ。神が望むのは、自分の心の片隅にある悪に対しても憐れみの目を向けること。なぜなら、自分が神から赦されたと自覚する人だけ、人を赦すことができるから。キリスト者は神の愛によって罪を赦されたことを自覚した人のこと。福音書の道徳は、自分の正しさを中心にするファリサイ派の道徳ではなく、洗礼者ヨハネの道徳でもない。
「毒麦」のたとえのすぐ後に二つの短いたとえが続く。最初はからし種のたとえ。ユダヤ人にとってエルサレムは山の上のレバノン杉のようなものだった(エゼキエル17章参照)が、新しいエルサレムであるイエスの教会はそうではない。ほとんど目に見えず風に飛ばされるほど小さな種から成長する。イエスは大きなものや権力ではなく、謙遜で小さなものを愛するのだ。イエスが考える教会共同体も大きなものや権力を求めず、人に奉仕する。
次はパン種のたとえ。そこには、信者が信頼を抱き勇気をなくさないためのメッセージがある。教会共同体は小さな存在で力もなく、キリスト者一人一人の生活も役割も第二朗読のパウロが言うように「弱い」が、絶望してはいけないとイエスは言うのだ。イエスはきっと子どもの頃、母マリアがパンを作った時のパン種の様子を何度も見たことだろう。少しのパン種がたくさんの粉を動かす。死んだものが生きたものになる。パンの文化がある国々では、数十年前まで家でパンを作っていたから、子どもたちはパンが大きくなる様子を見て驚くことができた。少しのパン種で家族の一週間分のパンを作ることができたのだ。
このパン種のたとえには、よく見逃されるディテールがある。「三サトンの粉」とあるが、それは40キロにもなる。家庭の主婦がそれだけの小麦粉を使うわけではない。それは何百人もの人たちを食べさせることができるほどの量だ。だから、イエスが言おうとしているのは、家族のパン(あるいは教会共同体の日曜日の聖体)のことではない。むしろ、宴会、特に婚礼の宴会のことだろう。福音書では神の国がよく大宴会にたとえられる。つまり、イエスは小さな家族ではなく、全世界を考えていて、希望をもちなさいと言っているのだ。
この三つのたとえの後に、弟子たちが質問する箇所がある。イエスが話の後に家に入ると、わかっていない弟子たちがイエスに説明を求める。日本語訳では「説明してください」と丁寧語だが、ギリシア語では命令で、「説明しなさい」というほどのニュアンス。実は弟子たちは理解していなかったというより、納得してなかったようだ。彼らはたとえの意味がわからないのではなく、内容に納得していないのだ。つまり、彼らはまだイエスの言っていること、イエスの言う「小さな人」についてまだ十分にわかっていなかった。このことは福音書に何度も出てくる。イエスが天に昇った後でも、弟子たちはなかなか信じなかった。それはよく見れば、私たちの誘惑でもある。私たちは今日の日曜日の福音書によっては自分の考え方や態度を調べるように勧められている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
7月
26日
日
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ13・44)
そして、第二の結論は、「出かけて行く」ということ。イエスに出会うと、人生は以前と同じではない。イエスに出会うとは、神の目ですべてのものを見ること。自分の限界、自分の苦しみ、さらには自分の罪を越えて、神の言葉は、人間が見ることができない美しい世界を現す。パウロも言う、「
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」(テトス3・4)。キリスト者は、すべてをそこにかける。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
8月
09日
日
ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(マタイ14・29)
今日の箇所は、イエスと弟子たちの生活の中の一つのエピソードのように見える。けれども、よく見れば、ストーリーとしては成り立っていない。具体的な物語だが、アレンジされていて、神学的な物語だ。この物語はマルコ、マタイ、ルカがそれぞれの時代にそれぞれの形で書いているもので、彼らよりずっとあとに、ふつうは他の福音書をあまり参考にしないヨハネさえこの物語に惹かれ同様の物語を書いている。こうして、小さなエピソードと思える物語が神学の大きなテーマとなった。オリゲネスをはじめ教父たちも好んで解釈を加え、こんにちの解釈のもとになっている。神の不在を経験するこんにちの信者も、深く語りかけられるページだ。
今日の物語は、教会とキリスト者の生活の中でのキリストの役割について元型になるほどの物語だ。単純でわかりやすいが、注意して観察すると、旧約聖書とのさまざまな関連が出てくる。
マタイはこの出来事がいつどこで起こったか具体的に書いていない。それはただ、イエスが大きな奇跡を行った後の出来事だ。その奇跡とは先週第18主日に読まれた、パンを増やし5000人に食べさせた出来事。その奇跡の意味は聖体だ。イエスは神の言葉であり、イエス自身とその言葉はおおぜいの人を養うパンなのだ。しかし、その奇跡はある意味で失敗で終わった。人々はイエスのメシアの道を誤解し、彼を王にしようとした。そのあと「すぐ」、イエスは人々を解散させて、山に昇る。そういった時いつもそうするように、イエスはひとり父なる神といっしょにいようとする。何か挫折感と孤独感を抱いているようだ。
イエスは12人の弟子たちには、舟に乗るように「強い」る。「強いて」とはギリシア語で強い命令を意味する動詞だ。なぜ強く命令したか。オリゲネスも言うように、不思議なことだが、弟子たちが行きたがらないからだ。海に慣れた人たちだから、たんに舟に乗るのをいやがったということではない。「向こう岸へ先へ行かせ」。「向こう岸」とは異邦人の世界のこと。つまり、マタイによると、彼らはこちら側にいたいのだ。「向こう岸へ」は何をしに行かされたか。父なる神はイスラエルだけではなく、すべての人の神である。すべての人にその言葉を届けなければならない。
そこに一つのことがある。パンの増やしの奇跡のあと、弟子たちが「残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった」。彼らはきっとそれをその場に残さず、もっていったことだろう。「パンの屑」とはイエスの言葉の余ったもののこと。「12」とは、イスラエルの12部族、そして12使徒のこと。つまり、弟子の一人ひとりは、パンになるイエスの言葉をもっていくように任されたのだ。しかし、弟子たちは行きたくない。イスラエルから離れたくない。これは復活後のペトロに典型的に見られることだ。その結果、彼らは強く命令されて舟に乗り、イエスなしに自分たちだけで行く。それはマタイにとって、教会の有様を描くイコンだ。
そこには旧約聖書を連想させる細部がたくさん出てくる。「湖(=海)」。実はその湖は一晩かけて渡る必要がない広さだ。狭いから、一時間ほどで渡れる。他にも「夜」「(安全な)陸から…離れ」「逆風」「波」など旧約聖書を思い出させるモチーフが出てくる。実は、福音書をよく見れば、ちがったたとえが使われるにしても、そのような状態は、弟子たちがイエスの受難と死のあと閉じこもっていた状態、神の不在の状態と同じだ。今日の箇所のその後は、復活物語のように書かれている。その時は、共同体の危機であり、長く苦しい時期だ。信じることは時間がかかるのだ。イエスの受難の時も夜のモチーフが何度も出てくる。ユダが出る時、ゲッセマネの園の時がそうだ。そしてイエスの復活と同じように、今日の箇所でイエスが現れるのは「夜が明けるころ」だ。そして、そばに来るイエスを見て、弟子たちは「幽霊」と思うが、ルカは復活の場面で同じ言葉を使う(24・37)。弟子たちは恐れと悲しみに満たされて信じたくなくなっているから、イエスを見ても幻だと思うのだ。今日の箇所でマタイは、苦しみや反発、迫害(逆風、波)の中で生きる教会に向かって話している。
この物語で特に目立つのはペトロの役割だ。ペトロが中心的な役割を果たしているのは彼が教会の中で強い権力をもっているからではない。ペトロは他の弟子たちと同じ問題に悩まされている。ペトロは教会の苦しみを代弁する人物。ペトロはイエスに深い憧れがあるが、同時に弱く十分に考えない。イエスを信じても、その信仰は弱い。大きな奇跡を目撃してもまだわかっていない。そしてイエスを誘惑する役割を演じる。この箇所でもイエスに言う、「あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。それはまさに、イエスを誘惑したときの悪魔のセリフと同じだ。「神の子なら…」。つまり証拠を出すように言うのだ。マタイは今日の箇所ではシモンという名を使わず、ペトロという、頑固者を意味するあだ名だけを使う。ギリシア語では、ホ・ペトロ。冠詞がついているから、あの岩ということだ。
イエスはペトロの両面性をよく知っていて、やさしい態度をとる、「来なさい」。ペトロは水の上を歩き始める。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。漁師だったペトロは泳げただろうから、溺れることを心配するはずはない。だから、歩くとか沈むというのは一つの象徴だ。つまり、イエスを見る時は歩けるが、イエスを見ずに自分の問題を見ると沈むのだ。ペトロが救われるのはイエスに向かって手を伸ばす時だ。「主よ、助けてください」。すると、イエスが彼をつかんで助ける。マタイが言うのは、人間がイエスの方へ進むのは自分の力ではないということ。人間は神の力によってだけ神に近づくことができる。今日の物語は神学的な物語で、イエスはすべての人の主であるという復活のテーマがそこに示されている。
ユダヤ人は、フェニキア人など他の民族と異なり、海になじみがない民族だ。彼らにとって海は混沌を意味し、人間を圧迫する否定的な力を象徴する。それを支配できるのは神だけ。だから、水の上を歩くイエスと、イエスに向かって水の上を歩くペトロは、イエスが主であることを暗示している。ヨハネがこの物語を語るときも同じことを暗示する。イエスは神の現れだと言いたいのだ。
ヨハネの箇所によると、イエスは舟に乗り込まなかったようだが、今日の箇所ではイエスは舟に乗り、弟子たちは「イエスを拝んだ」。イエスは神の子、救い主なのだ。マルコは弟子たちに注目するが、マタイが関心をもつのは却って舟。今日の箇所から、教会が世の悪の上で人々を神に連れて行く舟として語られることになる。
当時の教会も、こんにちの教会も、イエスの命令で世を進む。イエスがいないように不安に思っても、イエスが現れるとその不安は癒やされる。ゲッセマネの園では、イエスはいるのに、弟子たちは寝ている。イエスに対する信仰がないからだ(「悲しみの果てに」ルカ22・45)。ゲッセマネの園の祈りは最後の晩餐のあと、今日の箇所はパンの増やしの奇跡のあとで、いずれも聖体のあとの出来事だ。こんにちも教会は聖体があるから教会なのだ。聖体は旅路の糧だ。聖体によってイエスはキリスト者のそばにいて「わたしだ。恐れることはない」と言われる。聖体に対する態度はキリスト者の信仰を測る基準なのだ。
聖霊の力で今日の箇所を細かく観察しながら読んで祈るなら、こんにちの私たちの教会や生活にとって大きな光と力と慰めになる。イエスから離れて波に悩まされることから連想されるのは、こんにちの教会の迫害だ。さまざまな国でキリスト者が迫害されている。教会の歴史の中で今のようにたくさんの迫害や殉教がある時代はもしかしたらなかったかもしれない。教会だけではなく社会にもあてはまる。「流動化社会」(ジグムント・バウマン)とも言われる、伝統的価値観を失った社会。心を忘れてものを追いかける消費社会、人も資源も環境も破壊する投げ捨て社会、グロバリゼーションなど。だから、今日の物語は現代に対してもメッセージを含んでいる。 それはどういうメッセージか。イエスの命令で、教会は舟のように世界の海を進む。教会はいろいろな反発に押し戻される。教会の中にも信仰が足りない状態がある(毒麦のたとえ)。イエスは舟の中にいないようだ。けれども、信者たちは世(夜)の終わりに、イエスは現れるという信仰をもって舟に乗っている。イエスが見えないあいだ、教会は旅を続ける。復活のあとでも、弟子たちはいろんな疑いや不安に襲われていた。ペトロはそんな私たち信者を代表する人物だ。「主よ、助けてください」。イエスはペトロを赦して引き上げる。キリスト者の生活はそこから始まる。「私は罪が赦された者」(教皇フランシスコ)。ペトロのように、弱い人が殉教者になるのだ。
2017年の黙想に加筆して掲載。
2020年
8月
16日
日
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15・28)
今日の箇所は一見すると、イエスと弟子たちが休みに行く話に思える。5000人を食べさせ、ファリサイ派といろいろ議論したあとのこと。けれども、よく見ると、イエスは状況から距離を置こうとしている。幼子のころエジプトに逃げた時のように、パレスチナの外に出る二回目の逃避のようだ。パンを増やす奇跡は失敗に終わった。人々はそれで確かにイエスのところに集まったが、それは違った目的のため、パンをもらうため。イエスの道は誤解されたのだ。そのあと、ファリサイ派と大きな議論になった(15章)。食事の前に手を洗うことなどで、ファリサイ派にとっては大切な掟で、自分たちを異邦人と区別する点だった。
その後、イエスは「ティルスとシドンの地方に行かれた」。ティルスとシドンはレバノンの南に位置し、パレスチナの外になる。海の近くで、自然の豊かな場所だ。しかし、昔から、イスラエルの敵であるカナンの人たちの地方であり、異邦人の世界だ。イエスの休息はすぐに終わる。一人の女性がやってきて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。彼女は異邦人で、どこかでイエスのことを聞いたのだろう。「ダビデの子」とはユダヤ人たちがメシアについて使う言葉で、彼らは敵を倒しイスラエルを自由にするメシアを望んでいたが、イエスは違った意味のメシアでありたかった。この女性の娘は悪魔に取り憑かれている。どんな病気かは詳しく書かれていないが、とにかく体だけでなく、霊的な問題がある。イエスがこのような人たちに出会うのはこれが最初ではないから、他の場合と同じく簡単に触れることもできたエピソードだ。例えば、一日中働いたあとにまた病気の人が来たとき、イエスはその人を癒やしたと別の箇所にある。却ってこのエピソードは、何か違った物語になる。このエピソードについて、教会は2000年のあいだに考えられないほどたくさんの解釈をしている。それは、このエピソードに引っかかる箇所があるから。
ここで思い出される大切な点はこの箇所も例によって神学的物語であること。だから、マタイの記述の細部に注意すべきだ。たとえば、イエスは最初何も答えない。娘が病気でイエスに助けを求めている人に答えず無関心なのは冷酷に思える。イエスはこの女性を軽蔑する表現も使う(「犬」)。弟子たちもこの女性に距離を置こうとする。ある人は、弟子たちはイエスより憐れみを抱いていると解釈するが、そうではなく、迷惑だから遠ざけるようにイエスに頼むのだ。それは、ユダヤ人がめったに入らない異邦人の世界にイエスが入ったから。イエスも弟子たちも、ユダヤ人の考え方をする。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。この言葉は厳しく、失礼で、冷酷に聞こえる。イエスは最後は、この女性の希望をかなえて娘を癒やし、この女性を褒めたが、最初はなぜこのような態度をとったのか?
ここに注意すべき点がある。マタイがこの箇所を書いたのは85年頃。イエスを信じたユダヤ人共同体にとって大きな危機の時期だった。彼らはユダヤ教からキリスト者になった人たちで、イエスの生前通りユダヤ教のしきたりに従い、安息日を守ったりしながら、イエスに倣って生きていた。しかし、70年に神殿が破壊されたあと、ファリサイ派は、イスラエルの共同体を立て直すためにモーセの掟を守ることに努め、そのためにキリスト者を会堂から追い出すような迫害も行っていた。だから、危機の時期で、本当の掟は何か、誰が正しいか、ファリサイ派かキリスト者かーーそういう問題があった時期なのだ。そして、マタイがその福音書を書いたのは、イエスが新しいモーセでありキリスト教(第二契約)が旧約聖書(第一契約)の完成であるという信仰を確認するとともに、迫害されるキリスト者を慰めるためだった。その同じ目的のため、このエピソードを利用してマタイは、イエス自身が異邦人に道を開いたと言いたいのだ。「イスラエルの家の失われた羊のところ…」について聖ヒエロニムスが言うのは、異邦人のところに送られていないという意味ではなく、まずイスラエルのところに送られ、そしてイスラエルから見捨てられたあとに、異邦人に移ったという意味だと。今日の第二朗読はその経緯を示唆している(ヨハネ1・11も参照)。だから、イエスがその女性に会ったのは、ちょうどその移行の時期にあたる。イエスは神であるとともに人間であるから、祈りのうちに自分の道を少しずつ整えていくと言える。マタイはこのエピソードを使って、マタイ当時のユダヤ人キリスト者が思っていたことをイエスの口に載せて、アイデンティティの問題をイエスも感じていたということを示しながら、神の愛がすべての人に向けられていることを言おうとする。だから、マタイがイエスについて、ファリサイ派から受け入れられず、民からも理解されないと言うのは、マタイ当時の信者も同じこと。民は利益ばかり考えて、イエスの目的を理解しなかったが、イエスが言いたかったのは、神が無償で救う憐れみと恵みの神であること。
異邦人も、救いは恵みということを理解するのに苦労する。今日の箇所の女性に対するイエスの態度や言葉も、彼女の信仰がたんなる「神頼み」から清められるためのものだった。初代キリスト教もイエスが復活したあとでも、それを理解するのに苦労し、聖霊の力とパウロの忍耐によって、ようやくそれがわかってきたのだ。イエスがイスラエルだけではなく、すべての人の救い主であることもそうだ。イエス自身ユダヤ人として、そのような移行を経験した。神はその言葉を取り消してユダヤ人を見捨てたわけではないとはパウロも感じていた(第二朗読)が、それはこんにちも大きな問題として残る。しかし、イエスが宣言する新しい世界では、救いの食卓から落ちたパンくずもすべての人を助ける力がある。いただいたパンを異邦人と分かち合うこと、すべての人と兄弟であることをイエスは弟子たちに教えるのだ。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。イエスはその女性の言葉に感動する。彼女は謙遜に、信仰と愛の完全な形を示したから。イエスの言葉を侮辱と感じず、他の人と比較も競争もせず、ただ救いがイエスから来ることを心の底から表明する。イエスが沈黙して彼女の願いをすぐに叶えなかったのは彼女の信仰が成長するために役に立ったのだ。イエスの救いはエリートのためではなく、神の愛に心を委ねる人のためのもの。ここで連想されるのは出血症の女性だ。彼女はイエスの服の房に触れて癒やされた。救われるためには小さな恵みでも十分なのだ。
最後に、このエピソードは2000年後の私たちに何を教えているか。こんにちのキリスト教ではユダヤ人と異邦人の比率は逆転しているから、私たちは問題をあまり意識していない。しかし、よく見ると、私たちも当時のキリスト者のように、エリートのグループの中に閉じこもる危険がある。教皇フランシスコは、まだ大枢機卿だった2013年に説教でそのテーマに触れ、その後も「出向いていく教会」について語る。「出向いていく教会」とは宣教する教会のこと。フランシスコによると、イエスが私たちの心の扉を叩くのは、彼が中に入るためではなく、私たちが外に出るためだ。本当のキリスト者は、教会の中に避難して閉じこもって生きる人ではなく、外に出かけて宣教し神の言葉を分かち合う人なのだ。全世界に向かうことは教会の根本になる。教皇フランシスコの『福音の喜び』全体がこのテーマについて書かれているから、教会の中で大切にして、勉強の機会をもつことが望まれる。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
8月
23日
日
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16・19)
今日の箇所、またマルコとルカの並行箇所は、カトリックでもプロテスタントでも正教会でも、多くの人が論じている。教会の中でのペトロの役割について書かれているからだ。聖書学の立場や神学の立場、歴史学の立場などからの考えられないほど多くの研究のきっかけになり、いろいろな問題について論じられてきた。第一に、この箇所はイエスの実際の言葉を伝えているのか、それとも初代教会の編集が入っているのか。第二に、聖書解釈をめぐってもさまざまな意見がある。特に3つのたとえについて(石(岩)、鍵、「つなぐ」と「解く」)。第三に神学のレベルで論じられてきた。教会の土台は誰か、ペトロかイエスかなど。これはカトリック教会のアイデンティティやエキュメニズムと関係する問題だ。つまり、ペトロの後継者とされる教皇の役割はどういう役割なのか。ヨハネ・パウロ2世も、教皇の新しい役割を探すための助けを願った。教皇フランシスコもそうだ。しかし、以上のようなさまざまな問題には立ち入らずに、祈りのために、この箇所を簡単に見てみる。
「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」。イエスはよく歩く。あちこち遠いところまで出かける。直前は別の場所にいて、今はパレスチナの最北、フィリポ・カエサリアだ。フィリポとはヘロデ大王の息子。そこではまさに町の建設途中だった。ヨルダン川の3つある源泉の一つがあり、風景が独特だ。異邦人が多く、神々、特にギリシアの神パーンの神殿があった。少し険しい山手は、死者の世界、陰府の国の入り口と異邦人は考えていた。イエスは、きっとファリサイ派やサドカイ派から離れるために、弟子たちを遠いその場所へ連れて行ったのだろう。
「弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。弟子たちをあちこちに派遣したイエス。弟子たちの宣教にどんな反応があったか、知りたかったのだろう。 弟子たちの答えはおおむねイエスを失望させるものだった。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。エリヤは、メシアが来る時再来すると考えられていた昔の預言者。エレミヤも迫害された預言者だ。いずれにしても、過去の人物だ。つまり、当時の人たちはイエスの教えを聞いても、新しさを感じず、昔の人が戻ってきたと考えたのだ。
よく考えると、私たちの時代もそうだ。イエスについての知識が多い西洋でも、そうでない東洋でも、たとえ教会に反発するにしても、イエスは重要な人物の一人とされ、聖書から離れてもいろいろなイエス像が昔からある。たとえばイエスは本当の社会主義者、または自由を愛するヒッピーだったと言う人もいる。フェミニストからは女性を擁護する人物として、環境保護論者からは自然を大切にする人物として考えられ、また貧しい人のために正義を行う人物やヒーラーと理解された。アジアでもグルーと考えられ、座禅を組むイエス像もあちこちにある。西洋ではイエスについてさまざまな映画も製作されてきた。確かにイエスにはそういった面もあっただろうが、知っている過去の人物と理解し、イデオロギーの代表者として利用しているにすぎない。イエスは誰かという問題は、私たちキリスト者をも考えさせる。私たちはイエスについてどういうイメージをもっているか。
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。3年間私といっしょに歩き回り、私の言葉を聞き私の行いを見たあなたたちはどう思うのか。これは重い質問だ。私たちも、私たちの共同体も問われている―あなたにとってイエスは誰か、あなたのイエス像は真実のイエス像かと。
そこでペトロが答える。ただし弟子たちを代表してではない。「あなたはメシア、生ける神の子」。「生ける神の子」とは命を与える神の子という意味。それはとても見事な表現で、イエス自身よい意味で驚いたほどだ。もっとも、ペトロの言ったメシアとは、イエスの考えるメシアではなく、権力をもち他の国を支配するメシアだ。先週の箇所の女性の言った「ダビデの子」もそうだった。イエスは、実際にはそういうメシアではありたくなかったが、それでもその答えを受け入れて、ペトロを祝福する。「あなたは幸いだ」、あなたは神を見る目がある、心が清いと。その面ではイエスは肯定的な反応を示した。しかし、イエスはポジティブなだけではない。「シモン・バルヨナ」。バルヨナとはヨナの子。これは珍しい言葉で、あだ名だ。ヨナの子とはヨナと同じという意味。ヨナは預言者の中でただ一人、神から言われたことと反対のことをする。東に行くように命じられて西に行く。そしてなかなか回心しない。特に罪人に対する神の憐れみを理解できず、罪人に対して神より厳しい。頑固で、神が人を滅ぼさないから、木の下で死にたいぐらいに思っている。自分が正しいと考え、町の人が王様から動物まで回心しても、罰を求める。自分の間違いを認めるくらいなら、罪人が死んでもかまわないと思うのがヨナだ。ペトロはそんなヨナと同じだとイエスは言いたいのだ。だから、イエスの答えには2つの部分がある。最初はペトロを褒め、次はペトロにを褒めているのだ(日本語訳では順番が逆になっている)。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロは権力や自分を中心にする危険があるとイエスは言いたいようだ。
「あなたはペトロ」。ギリシア語にはペトロスとペトラという2つの言葉がある。ペトロスは小石を意味し、ペトラは女性形で岩を意味する。つまり、イエスが言うのは、あなたは小石だが、キリストが岩だと。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3・1)。この点に基づいてプロテスタントはきっと、ペトロ(とその後継者)よりキリストが中心だと主張することだろう。イエス自身の言葉か初代教会の付け加えかという問題もこの点に関係する。簡単に言うと、初代教会には、教会の中心を巡って競争があった。イエスのその言葉は、ペトロが他の人より教会の中心だということを主張するために使われた。イエスが言うのは、神の国を作るためにあなたは必要な一部だが、もう一つの土台が大切だと。教会が立つ本当の岩、動かない岩はキリスト自身だと。イエスは新しい会堂を作るために来たのではない。イエスは今までと同じメシアではない。イエスの共同体は、死ではなく命を与える神の子の上に建てられる。
イエスが彼の共同体を建築にたとえたのは、もしかしたらその町が建築途中だったから。だから、そのたとえを使う。「陰府」という言葉も、その町に死者の世界への入り口と思われた場所があったから、イエスがそこからその言葉をとってきたとも考えられる。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。「鍵」とは、かつぐほど大きな町の鍵のこと。イエスが言うのはペトロは神の国の責任者ということ。だから、ペトロはいつも天国の係とされ、臨終の扉とよく呼ばれる。しかし、マタイにとっては、神の国は後の世のことではなく、今のこと。だから、鍵を授けられて具体的に何をするか、考えるべきところがある。
「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。ここでイエスはペトロに言うが、同じマタイ福音書の18章では、その権限が弟子たちみなに与えられる。つまり、その権限は教会の中心であるペトロだけでなく、教会に与えられたのだ。これに関して議論があるが、今はそれには入らない。とにかく、この言葉は宣教への呼び出しだ。
「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。これはマルコにもあるが、イエスがメシアであることを秘密にしなければいけないということではなく、イエスの秘密を弟子たちがまだ十分にわかっていないということ。権力で国を収めるメシアだと言ってはいけない、私はそういうメシアではないとイエスは言いたいのだ。イエスはメシアだが、彼らが期待していたようなメシアではない。洗礼者ヨハネが考えていたメシア、力をもって罪人を滅ぼすメシアではない。イエスがどのようなメシアであるかは十字架上ではじめて明らかになる。十字架につけられる時にイエスは父なる神をうつすのだ。イエスが神の子であるのはその意味だ。そしてダビデの子は神ではないが、十字架につけられたイエスは神だ。
最終的に、ペトロもまだキリストに至る道を最後まで歩んでおらず、キリストを十分に理解していない。彼はまだ自分の弱さを意識していない。イエスへの憧れや信仰があったとしても、大切なことがまだわかっていない。まだ自分に自信をもち、利己主義的な立場でイエスといっしょに死ぬと言ったりする。彼はまだ十分に神の愛がわかっていない。人間が罪を犯したあと、その罪を赦したい神の心、神の憐れみをまだわかっていない。ペトロの信仰はまだ自己意識の立場だ。彼が本当の教会の中心、イエスの羊と子羊を牧する者になるのは、自分の罪に涙を流しイエスに赦されその喜びとありがたさを知る時。その時はじめて、ペトロは教会の小石になる。マタイがこの話を大切にしていたのは、彼がユダヤ人の世界で話していたからだが、ヨハネ福音書によると、ペトロは復活したイエスから、私を愛しているかと3回質問される。神の憐れみを身をもって経験したペトロは、その時はじめて教会を牧する資格をもらう。神の無償の愛を経験した人、赦しをいただいた人だけが牧する資格がある。
今日の日曜日のきっかけに私たちはまず、パパ様や教会の中で権力を持っている人のために、また教会の一致のために祈る。教会の中でのペトロの役割は、彼自身の経験から切り離すことができない。キリストがペトロを兄弟たちの信仰を強めるために選んだのは復活のあとだ。霊的指導者としてのペトロの歴史的な役割は、彼の人間としての個人的な経験と深い関係がある。もし神秘主義者ヨハネがパパ様になっていたらどうなっていたか私たちは知らないが、ヨハネの個人的な経験はきっとその役割と一つになっていただろう。または、もし異邦人への宣教者パウロがパパ様になっていたとしても同じように、彼の個人的な経験による影響があったはず。それぞれ自分の信仰の経験からその役割を果たしていただろう。だから教皇の役割は、個人の経験と無関係な、抽象的な役割ではない。イエスに対して感情的な愛情を示すと同時に、イエスを裏切るペトロ。彼がパパ様となって、信じる人の家である教会は、弱い人の家になった。ペトロのその経験があったから。信仰と疑いの間で迷う人たちの家、キリストへの憧れや帰依と不信とのあいだに悩む人の家になった。どのような弱さがあっても、教会はペトロのようにイエスを仰ぎ見て信じている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
8月
30日
日
2020年
9月
06日
日
兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタイ18・15)
マタイによる福音書は「教会の福音書」と呼ばれるが、教会と訳されるのはギリシア語のエクレジア。この言葉はマタイ福音書では16章と18章で使われる。エクレジアとは「呼び集められた人々」という意味。だから、教会とは神によって呼び集められた家族を意味する。それは旧約時代に神の言葉によって呼び集められた民の完成だ。ということは、マタイの福音書にあるエピソードはただイエスを信じる一人ひとりの物語ではなく、その裏にちゃんとした共同体があるのだ。イエスを信じた人たちは、ただ一時的に集まったのではなく、少しずつ共同体を作り上げた。その共同体にはよいところもあれば弱いところもある。特に18章からは共同体の有様が見て取れる。当時すでにできていた共同体は小さな形であるとしても、こんにちの私たちの共同体がもつ問題を抱えていた。だから、今日のような箇所は、私たちにとって、私たち自身を映し見る鏡であり、成長するきっかけにもなる。
18章全体が共同体にかかわるが、今日読まれる15節から20節まではイエスのいくつかの言葉が集められ、罪の赦しが問題にされている。それは私たちの共同体の問題でもある。罪について互いに兄弟として忠告し合うこと(兄弟的矯正corretio
fraterna)については、教会の歴史の中で、例えば修道生活の中でさまざまな反省や研究がなされてきた。罪人であるというのがイエスを信じた人たちの状態だ。イエスに憧れ彼の後に歩こうとしている人たちが同時に罪を犯すのだ。教会の中には罪が存在する。どのような態度でその問題に向かうべきか。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」。よく誤解されるが、ここで言われる罪とは悪一般ではなく、教会の中で兄弟から受ける罪だ。そして、注意すべきだが、私たちはすぐに、教会共同体の中にいい人と悪い人を区別して、悪い人にどういう態度をとるかが問題だと考えてしまう。けれども、この区別は教会共同体だけでなく、私たち一人ひとりに言えること。一人ひとりがみな、場合によって、罪人と、罪人に傷つけられる人との両方の役割を互いにするから。
兄弟の罪に対するイエスの指針は次のとおりだ。「行きなさい」ーこれは罪人から傷を受けた人に対する言葉だ。「忠告」はギリシア語ではいろいろな意味に解釈できる。相手の罪を告発することとも解釈できるが、イエスが言うのはそうではない。それは「二人だけのところで」という脈絡からわかる。「忠告」とは、罪の被害者として罪人に対して厳しい態度をとり、罪人の回心を求めるということではなく、その問題を超えて一致を取り戻すために話をするということ。イエスは罪人の罰を望まないから。「二人だけのあいだで」、つまり、イニシアチブをとるのは罪人に傷つけられた人だ。南米訪問時に教皇フランシスコは、受けた被害に対する復讐の誘惑を乗り越え平和を築くためのイニシアチブをとる人が必要だと話した。希望が存在するためには一人でも十分で、私たちの誰もがその一人になれると(詳しくはこちら)。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。ここで「兄弟」と言われている。つまり、イエスが言うのは、自分を傷つけた人が失ってはいけない宝物であるということ。放蕩息子のたとえ話では、父なる神にとって罪は神への侮辱ではなく、愛する子どもを失うことだが、それと同じことなのだ。「言うことを聞き入れたら」。だから、相手に対する話し方、ふるまい方、心の姿勢が非常に大切だ。イエスが言う忠告は簡単なことではない。正義の側に立って、相手が正しくないという判断を下すことではなく、相手を宝物と考えた上でとる愛の行動であり、特別な心の姿勢と技術が要求されることであり、実現が難しいことだ。たとえば、祈るために神殿に上った二人の男のエピソードを思い出すと、ファリサイ派の態度が「忠告」ではない。自分が相手より正しいと考えて、そのプライドから相手に対して態度をとることではない。このことは非常に重要だ。世間ではよく、相手の上に立つために相手に目を向ける。たとえば、相手が災いを受ける時、いろいろな人が慰めてくれるが、相手にいいことが起こる時、いっしょに喜ぶ人は少ない。要するに、上の立場から相手を叱ることは、相手を宝物と考えて話をするのとぜんぜん違うことだ。
だから、イエスが言う「忠告」は、罪人をいじめることではなく、「忠告」する人にしかるべき心の姿勢が求められる。もっと具体的に言うなら、自分も罪人で罪を赦されたと自覚している人こそ、兄弟を助けるためにふさわしい心の姿勢をもっている。これはヘブライ人の手紙に強く出てくる。イエスは謙遜と注意と繊細さを要求する。怒りを超えた強い人だけ、相手を赦し相手に「忠告」する力がある。
「二人または三人の証人」。これは、旧約聖書を思い出させる表現だが、憐れみと一致のカリスマのある人のことだ。問題を解決するのは知識と恵みの人なのだ。イエスが教える赦しは一時的な感情ではなく、神の恵みによって育てていくべき技術だ。こんにちの教会は、戦争を終結させるだけではなく平和を維持することに敏感だ。イエスにとってモラルとは罪人に投げつける石ではなく、罪人が回心しやりなおすための助けなのだ。それと正反対なのは偽証や中傷やゴシップ。相手について嘘を言ったり、本当のことだとしても相手の悪を言いふらしたり。必要でない限り相手の悪を言いふらすことは罪だ。相手が立ち直るための妨げになるから。聖人ぶって、上から人に注意するなら、結局相手を傷つけることになる。逆に必要なのは、子どもを叱るときの母親のような愛情だ。そうでないと、怒りにかられて相手に復讐し相手を苦しめることになってしまう。教皇フランシスコは聖霊の賜物についての連続講話で、平和を築くための賜物の大切さに触れている。罪人に石を投げるのではなく、兄弟のように手を差し伸べることが大切だ。
「聞き入れなければ、教会に申し出なさい」。教会とはエクレジアであり、キリストを中心とする共同体、つまり赦され罪から救われた共同体のこと。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に」。これは一般に罪人の破門と理解される。その人がもう存在していないかのように扱いなさいという意味だと。しかし、注意しなければならないが、そうではない。これは異邦人と徴税人に対してイエスがとった態度をとらなければならないということ。つまり、もし兄弟愛を取り戻すことができないなら、イエスがしたように一方的に愛しなさいということ。罪を犯した人がたとえ回心しなくても、教会は見捨てるのではなく、祈りでその人の罪を負うべきということ。ボンヘッファーにも共同体について有名なページがある。報われなくても、愛し続けるべきだと。病気の子どもに対する母親のように、一方通行の愛で愛し続けるべきだ。それこそイエスが自ら、徴税人や罪人に対して最後まで、十字架死に至るまで示した愛だ。キリスト者の共同体では、人を区別する愛ではなく、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神の愛が必要だ。人を愛して愛されるのはすばらしいことだが、それよりもイエスが教えた愛がある。愛し返されなくても愛するのは命を捧げること。
「つなぐ」「解く」、これは赦しと関係することで、法律的な対応ではなく、内面的な心の態度のことだ。イエスは自分の教えをまとめて主の祈りを教えたときにもこれに触れた。私たちは人を赦したように神から赦される。その結果、赦さない人は私たちの中に神の愛が入るのを邪魔してしまう。
「二人が心を一つにして」。ギリシア語ではシンフォニー。これはいっしょに響くという意味で、教会共同体を非常に美しいイメージで表現する言葉だ。信者は、同じ型で押された人間ではなく、オーケストラの楽器がさまざまな音を出すように、さまざまな才能や性格をもっている。その結果、教会が大きくなるほど、それを調和させるのは当然難しくなる。そのためには、まさにオーケストラのように、美(イエス)への憧れと忍耐が必要だ。人より大きな声を出したい人、自分の声と相手の声が混ざることを許せない人は合唱団に合わない。人と混ざり合うことができない人、赦しの心を持たない人、愛さない人は、ちょうど合唱団の中で外れた音を出す人だ。
「二人が心を一つにして求めるなら」、先の二人の証人を示唆している。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。ユダヤの伝統にはこれと似た表現があった。二人または三人が聖書を勉強するために集まれば、神の栄光に覆われると言われたが、マタイはその表現をアレンジしたのだ。つまり、これは、イエスが平和の基準であり、シンフォニーの楽譜であるということ。同じことは、パウロの手紙やヘブライ人への手紙にもある。キリスト者にとっては、父なる神は聖書のことばだけではなく、新しい共同体、教会の中のキリスト自身によって現存する。マタイはキリストを、謙遜で平和を愛する者として、生き方の模範として私たちに示す。
こんにち、世界のさまざまな国でたくさんのキリスト者が平和を築くために命がけで働いている。教皇フランシスコもそうだ。今日のミサは、そのパパ様のため、また彼のように働いている人のために祈る、よいきっかけだ。私たちの共同体にも平和を築く人がいる。そのような人のためにも祈りたい。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
9月
13日
日
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。(マタイ18・35)
歴史的な犯罪から、私たち一人ひとりが日常生活の中で被る身近な悪まで、悪に対してどのような態度をとるか。暴力に対して暴力を返すのか。それはとても難しい問題だ。宗教家に限らず、さまざまな思想家がこの問題について考えて答えを出そうとし、処罰の法律や報復の限度や条件が定められたりしてきた。
先週に続き、今日の福音書もマタイ18章。教会共同体のあり方、特に赦しがテーマだ。ペトロがまた出てきて、イエスに質問する。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。当時は、ある学者によると、3回までは赦す義務があったが、3回を超えたら仕返しすることができた。別の学者によると、妻の姦通の罪は1回だけ、友人の罪は5回まで赦すべきとされたが、それはイスラエルの民の内部のことだった。ペトロとしては、イエスが赦しの問題について特別な基準を示すと予想して、先回りし、当時イスラエルで要求されていた数字以上の数字を出して「7回までですか」と尋ねたのだろう。7は完全数でもある。ペトロはイエスが同意して自分を褒めてくれるとでも考えただろう。あるいは、イエスもそこまでは求めないと少しは思っていたかもしれない。
イエスの返答は、ペトロの予想を覆すものだった。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。これは制限のない赦しを意味する。イエスはおそらく、カインの子孫レメクの言葉(創世記4・23−24)を考えていただろう。しかし、イエスが言う赦しは、残酷なレメクの復讐とはまったく逆だ。
それがわかるのは、あとに続く「仲間を赦さない家来」の有名なたとえ話からだ。この例え話は、マタイがイエスのいくつかの言葉をまとめたものとも考えられているが、3つの段階に分かれている。1.王は家来(位が高い人物と考えられる)の借金を帳消しにする。2.仲間の借金を赦さなかった家来を王は牢に入れる。3.イエスの結論。
1.理由は書かれていないが、家来は王に借金を返せない。イエスが使っている数字には注意すべきだ。タラントンは本来、貨幣の単位ではなく、金塊の重量の単位で、1タラントンは26−36キログラムに当たる。当時は58キログラムだったと言う学者もいる。1タラントンが58キログラムなら、1万タラントンは58万キログラム、1トントラックに載せると、580台のトラックが必要で、そのトラックを並べると5キロメートルになる。5キロと言うと、北白川教会から白梅町修道院ぐらいの距離。つまり、とてつもなく大きな数字で、帳消しにすることができない金額だ。けれども、奇跡が起こる。家来がひれ伏してしきりに願うと、王(神)は憐みに思って(放蕩息子のたとえ話も思い出される)、借金を赦し、帳消しにする。それは考えられないことだ。
2.ところが、この家来は外に出て、自分が大きな借金を赦されたことを忘れて、仲間に借金の返済を求める。100デナリオンについてはさまざまな解釈があり、一日の賃金と言われたり、それ以上と言われたりするが、どちらにしてもわずかだ。家来は仲間を「捕まえて首を絞め」て、返済を迫る。これは仲間たちにとって「心を痛め」るほどのスキャンダルになる。実は、この家来が自分の金を返せということ自体は正しい。その金はその家来のものだからだ。問題は、王(神)が自分に対して示した憐れみを忘れたことだ。王(神)はその家来を「不届き」と表現するが、それは自分が借金を赦されたことを忘れたからだ。
3.「心から兄弟を赦さないなら」。赦しについてのイエスの考え方は独特だ。仏陀は、相手に赦される価値があるからではなく、自分の心が恨みで損なわれないように、相手を赦すべきだと言った。こんにちでは、心理学者がさまざまな調査や研究に基づいて、心の安定のための赦しの必要性について本に書く。しかし、イエスの考える赦しとはそれだけではない。イエスの言う7の70回はただの数字ではなく、赦しの中身(「心から」)を表現している。赦しの規則を作ってほしいペトロにはそれがまだわかっていない。却って、イエスが言う無制限の赦しは、神の体験から生まれるのだ。どの程度神を体験したかに応じて与えることができる赦しだ。ペトロの理解では7回を超えると罰を与えることができるが、イエスの場合はそうではない。イエスが言うには、彼の教会共同体の中で赦しが本当であるためには、父なる神から受けた憐れみに根を下ろすべきだ。自分が赦されたからこそ、その神の体験から赦しが生まれる。神を知る人、神の恵みによって救われたと自覚する人だけ、「心から」の、完全な赦しが可能になる。教会共同体を作り上げる、そして教会共同体によって新しい世界を作り上げるのはそういう赦しなのだ。
一般には憐れみは、正義を行った上で示される。たとえば、刑を課した上で、刑期を短くするのがそれだ。イエスが言う憐れみはそれとは違う。その憐れみは人間的な努力から生まれるのではなく、神から受けた憐れみと赦しから生れる。神の深い経験をせずに、相手を完全に赦すことはできない。ペトロはまだわかっていない。ペトロが本当にわかるのは、イエスを裏切ってから、イエスの眼差しを見て涙を流し、復活したイエスに会って愛を求められたときなのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
9月
20日
日
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(マタイ20・16)
「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、どんな注釈書でも難しいと言われる。よく知られたたとえ話だが、よく見ると、納得しにくいところがある。もちろん何も気づかずに読む時もあるが、むしろショックを受けるべきだ。イエスが言っていることは私たちの考え方と違う、そのことに気づくことがとても大切だ。教会は今日の第一朗読として、イザヤ書の有名な箇所を選んだ。そこでイザヤが伝えるヤーウェの言葉は、「わたしの思いはあなたたちの思いと異なる」「天が地を高く超えているように」。つまり、神の考え方は人間の常識と違うのだ。マタイが伝えるイエスの言葉を大切にする私たちも、その違いに注意すべきだ。
聖書にはあらゆる箇所に、ぶどう園が出てくる。ぶどう園はユダヤ人にとって、ぶどう酒を作るぶどうが収穫できる大切な場所だった。ぶどう酒にはは、恵み、喜び、愛、神との関係などさまざまな象意があり、ぶどう園はイスラエルの民を意味する。マタイが「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始めるように、このたとえ話は、ただの道徳的な教えではなく、「天の国」、神の世界、神の考え方を理解させるためにイエスが考えたたとえ話なのだ。伝統的にぶどう畑の多い西洋では、ぶどうの収穫の季節は大騒ぎだ。ぶどうが実ったのに収穫が遅れて雨や霰が降ると、ぶどうがだめになり、よいワインができない。だから、友達や親戚、雇い人など、いろいろな人を集めて収穫する。
そのとても大切な季節に、そのとても大切な仕事のために、たとえ話の主人はまだ涼しい早朝6時に出かける。そして、当時の習慣であり最近までそうであったように、広場に行き、仕事を待っている人を雇って、ぶどう園に来てもらう。そしてイエスが言うには、主人はそのあと、9時、12時、3時、5時と出かける。最初の人たちとは、一日1デナリオンと契約。それは当時の日給だった。
今日の箇所の最後の文章は教訓のようだ。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。実は、今日は読まれなかったが、今日の箇所の20章冒頭の直前、19章の最後の文は、これと同じだ。ぶどう園のたとえ話は、同じ一つの文にはさまれている形になっている。この文が、たとえ話を理解すべき視点であり、マタイが私たちに示すヒントなのだ。
大切なのはたとえ話の結末。主人は監督を呼んで、労働者一人ひとりに1デナリオンを支払わせるが、「最後に来た者から始めて」。なぜか。もし最初の人たちから支払ったなら、1デナリオンは約束通りだったから、彼らは受け取って行ってしまっただろう―主人(イエス)が言いたかったことに気づかずに。最後の人たちから始めるのはわざとだ。その結果、最初の人たちは最後の人たちが1デナリオンをもらうのを見て、自分たちはもっとたくさんもらえると期待する。「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」、ほとんどの仕事をしたのだからと。そして、彼らは不平を言うのだ。福音書では、いろいろな重要な人物がイエスのやり方に不平を言う。例えば、放蕩息子の兄は、同じ考え方をして不平を言う―自分は数年間(一日ではなく!)父親の畑で働いているのに、娼婦と遊んで父親の財産を使い果たしたこいつが帰ると、こんな祝宴をするなんて、と。兄は怒って家に入ろうとしなかったとルカ福音書にある。マルタもそうだ。マリアがイエスの足もとに座っていると、マルタが怒ってイエスに言う、手伝うように言ってくださいと。他にも、ファリサイ派などがよく不平を言う。要するに、不平を言うのは、考え方の違いがあるからだ。イエスの言葉を聞きイエスのよい行いを見ても、最終的に受け入れられないのは心の中に邪魔があるからなのだ。直前の19章で、すべてを捨てイエスに従った報いをペトロが尋ねるのも同じメンタリティだ。
今日のたとえ話の最後で、不平を言う労働者たちに主人は言う、「わたしの気前のよさをねたむのか」。「ねたむ」は、原文では、目が病んでいるという表現。聖書では、目は心を意味するから、この人たちは間違った考え方をしているということ。第二朗読にあるように、何か一つ悪いことをしたのではなく、根本的な考え方が間違っているのだ。このたとえ話のポイントはそこにある。イエスが言うには、神と人間のあいだには根本的な考え方の違いがある。私たちも、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会に通い、公共要理を勉強し、祈りやロザリオ、聖体礼拝をしたりする。けれども、私たちの心の奥にある考え方はどうか。私たちのすべての行い、すべての活動に影響する考え方はどうか。今日のたとえ話はイエスのカテキズムであり、イエスはそれで、父なる神の考え方を教えてくださるのだから、自分の考え方と比較するよいきっかけになる。
主人が出かける時刻、6時、9時、12時、3時、5時はユダヤ人にとって祈りの時間だった。キリスト教の聖職者も今でもそのような祈りをするように勧められている。祈りはふつう私たちが神に向かってする。ところが、このたとえ話では逆に、何か頼むのは神だ。神が私たちに頼んで私たちを迎えに来るのだ。教皇フランシスコも、神を求めるよりも、神が私たちを求めていることに気づくことが大切と言う。
最初の人たちの間違いはどこにあったか。彼らの考え方の基本は利益、有用、功利だ。何かよいことをしたらよい報いがあると考える。主人のために働いたから金をもらえるはず、他の人たちより働いたからもっともらえるはずと考える。これはユダヤ人の考え方の危険だった。ユダヤ人は他の民よりも先に神に呼ばれる経験があり、預言者によって神と契約をし、神と特別な関係ができた。しかしながら、彼らようは神との関係を勘違いして、神に対して自分が奴隷であるように考えたのだ。詩篇にも、掟を守るからその報いをもらう資格があると書かれている。それで、ユダヤ人たちは、役に立つことだけを大切にしがちだった。イエスはそのような危険のために、このたとえ話を話した。イエスが言うのは、そうではない、そのような考え方では、愛がどういうことかわからないということ。なぜか。たとえば、役に立たない人もいる。それはこんにちの社会にもあてはまることだ。たとえば年をとって弱った人や病気の人だ。こんにちでは、そのような人たちが邪魔にならないように社会の隅に追いやる。もっと広げると、出生前診断で病気がわかると、中絶を行う。幸せを口実にしたとしても、同じメンタリティが根本にある。3年前、イギリスの赤ちゃんチャーリーが西洋諸国で大きな話題になった。裁判で、治らないから生きる価値がないという判決が出て、両親が反対し、大勢の人が反対し、パパ様もトランプも反対したが、結局、安楽死処置を施された。これはたいへんな事件だ。裁判官が人の命を終わらせたことになる。これは珍しいケースだが、世界では毎日中絶が行われている。堕胎がはじめて法律で認められたのは戦後の日本だ。どれだけ赤ちゃんが殺されたか。最近、安楽死が大きな問題になっている。あるカトリック国でも、いくつもの病院を経営する修道会が、バチカンに反対されながら、安楽死を行っている。任意でなくても安楽死させていいと。恐ろしい考え方だ。イエスはこの問題について語っている。
今日のたとえ話では、一日の報酬が出てくるが、それは小さな問題に思えても、最終的に大きな問題だ。最初の人たちの考え方には残酷なところがある。一日1デナリオンをもらえなければ、生活ができないから。利益中心の考え方は神との関係だけではなく、他人との関係をもだめにするのだ。
詩篇130にもあるが、私たちのうち誰が神に向かって、私はこれだけのことをしたから私を救いなさいと言えるだろうか。先週の日曜日の箇所にあったように、私たちはみな神の前で借金だらけの状態だ。イエスが言いたいのは、仕事を得るのは神からということ。神の世界で働くのは、もうけるためではなく、いわば「特権」で、私たちが救われたから、愛されたから。だから、イエスが、そしてイエスを通じて父なる神が言うのは、あなたは誰にも雇ってもらえなかったとしても、価値のない人間ではないということ。金がなくても、病気でも、人から見捨てられても、いろいろな理由から迫害されても、刑務所に入れられても、あなたが神から愛されていることを思い出しなさい。あなたの本当の価値はそこから出てくる。
今日のたとえ話は、私たち一人ひとりの問題だ。放蕩息子のたとえ話と同じく、このたとえ話に結末はない。私たちはそれぞれの生活でこのような教えを生きるように勧められている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
9月
27日
日
2020年
10月
04日
日
「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21・43)
画像は、ユーゲン・ブルナンド「邪悪な農夫たち」(『さまざまなたとえ話』1908年)
イエスはぶどう畑(ぶどう園)について好んで語る。細かいことも出てくるから、ぶどう畑を実際に知っていたようだ。小さな村では、秋になると、親戚や友だちを呼んで刈り入れの作業をする。子どもたちも小さな籠を手に、ぶどうを摘んだり食べたり。ぶどうの果汁の匂いが漂い、騒いで歌ったり踊ったり。喜びと祭りの季節だ。
ヨハネ福音書15章でイエスは、自分と愛する弟子たちとの親しい関係を示すたとえとして、ぶどうの木を使う。父なる神はぶどう畑の主人(15・1「農夫」)だ。雅歌にもぶどう畑がよく出てくる。ぶどう畑は愛の喜びを連想させる場所なのだ。ユダヤ人にとって、ぶどう畑はまず、美しさや実りなど人に捧げられたはじめの創造を連想させる場所だ。それから、特に神との契約を連想させる場所だ。そして、神が自分の民を世話することを連想させる場所だ。実りのために、石をとり除いたり、垣根や見張り塔を作ったり、植物のための農夫の世話を連想させる。そのために選ばれたのが第一朗読のイザヤ書の、神とイスラエル(女性名詞)とのあいだの愛の歌だ。
今日の箇所は、「ぶどう園」を舞台にする3番目のたとえ話だ。しかし、このたとえ話には暗い影がある。しかも、その影はイエス自身の生涯にかかる影なのだ。このことは、今日のたとえ話を理解するために思い出すべきだ。このたとえ話を作ったイエス自身がその時期に劇的な瞬間を迎えていた。
このたとえ話はイエスがエルサレムに入ってからのこと。エルサレムの人々はイエスをメシアとして迎えたが、宮清めの事件のあと、祭司長や民の長老たちが怒って、イエスを尋問した―どんな権限でこのようなことをしたかと。そして、激しい議論になった。そこで、先週読んだ二人の息子たちのたとえ話が出て、その最後にイエスの厳しい言葉があった。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。今日のたとえ話はこのような脈絡で出てくる。
このたとえ話では、イスラエルの神が民に示す愛の物語が描かれている。私たちにとってイスラエルは遠いが、私たちキリスト者も気をつけなければならない。新しい民も古い民のようになる危険があるから。祭司長や民の長老たちは自分たちが神の友と思っているが、イエスによると、神の敵になって、神が民に示す愛を邪魔する。彼らは、主人(神)が旅に出ているあいだに、ぶどう畑の世話をする任務を受けたのに、自分がぶどう畑の主人だと思ってしまったのだ。「収穫を受け取るために」―この言葉には少し注意すべきだ。預言者イザヤが言うように、全世界は神のものだから、神は生贄を求めない。神が求めるのは、民に対する憐れみや愛の行いだ。だから、祭司長や長老たちは、神の愛を民に示す任務を受けたにもかかわらず、自分のためにぶどう畑を使ったのだ。
このたとえ話で、神は何度も預言者たち(「僕たち」)を送る。それは彼らの間違いに対する神の忍耐を意味している。しかし、彼らは頑なで、預言者たちを捕えるだけではなく、殺したりもした。神は最後に我が子を送る。我が子を送るのは、民に対する最大の関心であり、最高の愛だ。キリスト教が言うのはそれだ。ところが、彼らは「これは跡取りだ」と言う。彼らにとっては父なる神の財産を自分のものにする最大のチャンスなのだ。跡取りを殺せば、自分たちが主人になると考えた。つまり、イエスが、そしてのちにマタイが言おうとするのは、彼らがイエスが跡取り、神の子だと知っていたということ。知っていたが信じずに、冒涜の罪でイエスを訴え、エルサレム(「ぶどう園」)の外に追い出して殺したのだ。マタイや初代教会がイエスの言葉の意味を理解したのは、イエスの復活のあとだ。けれども、イエスはすでに自分の十字架が近づいていると理解していた。
このたとえ話の最後にイエスは祭司長や民の長老たちに尋ねる。「ぶどう園の主人[は]…この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは言う、「その悪人どもを…殺し、ぶどう園は…ほかの農夫たちに貸すにちがいない」。イエスはもう一つのたとえ話でもう一つのことを私たちに教える。神は殺さない。神は悪人に復讐しない。罪人は神から愛されている。神が望むのは、罪人が回心して新しくなること。そのために、神は我が子を送ったのだ。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは神の建築の指針だ。神が選ぶのは力や権力ではなく、見捨てられた者だということ。神の僕は小さな者。イエスの復活後、キリスト者、特にマタイとマタイの教会はこのことを理解した。ペトロをはじめとするイエスの弟子たちも、イエスが生きていた時はそれを理解するのに苦労した。神の国を作る人は、完全な人、他人より知識がある人、聖性を誇る人ではなく、罪が赦された人なのだ。これが新しい「農夫」の条件だ。だから、神の国のために働くのは、回心した罪人、神の憐れみを浴びた罪人だ。神の憐れみを受け、そのやさしさと喜びを経験し、人と分かち合いたい心をもっている人だ。それを忘れない人だけ、イエスの愛と平和を世にもたらすことができる。
だから、今日のたとえ話の中にもイエスの啓示が含まれている。ミサを捧げる時に私たちは、愛され赦されて人を受け入れることを記念する。ミサの中心は私たちの聖性ではなく、私たちが受けた赦しなのだ。そして、ミサだけではなく、キリスト者の生活全体がそうであるはずだ。
イエスは祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人々を厳しい言葉で批判する。その言葉はユダヤ人だけに向けられたものではない。福音記者たちがイエスに厳しい言葉を語らせるのは、以前の宗教(ユダヤ教)にあった悪い特徴が新しい宗教(キリスト教)の中で芽を出さないため。つまり、イエスが批判するように、ユダヤ教には3つの危険性がある。1.傲慢。自分が人よりまさっていると考えること。2.功績主義。自分の行いで救われると考えること。本末転倒してはならない。神は寄付の金額や祈りの数で喜ぶわけではない。言葉数が多ければ祈りが聞き入れられると思っている異邦人のように祈るなとイエスは言う。3.権力構造(ヒエラルキー)の危険。だからこそ、上に立ちたい人はすべての人に仕えなさいとイエスは言う。
今日の朗読箇所は43節で終わる。しかし、読まれなかった45節によると、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っているとわかったが、回心しなかった。群衆を恐れてイエスを捕えることはしなかったが、その機会を待っていた。
愛に返答(「収穫」)がなく失望する神の悲しみは、ユダヤ人のせいだけではない。それは私たちのせいでもありうる。たとえば教会を自分の利益や力のために使うことがある。1テモテ6章には、高慢、利得、金銭欲といった罪について書かれている。神の国は、ユダヤ人から取り上げられたのと同じように、私たちの手から取り上げられる恐れがある。もっとも、このたとえ話は、恐怖を感じさせるだけではない。却って、イエスを信じる人にとっては、私たちにどんな弱さや罪があるとしても、神の愛はそれにまさるのだ。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
10月
11日
日
家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。(マタイ22・10)
先々週と先週に続き、今日もイエスのたとえ話。今日のたとえ話を理解するためには、特に3つのアドヴァイスが役に立つ。第一に、時代や表現の違いから来る物語の細部にこだわらずに、基本的なポイントに注目することが大切だ。特にイエスが何を言いたいかを理解しようとすべきだ。第二に、先々週、先週もそうだったが、イエスの厳しい言葉が出て来る。私たち現代人はそのような表現に慣れていない。現代では、お世辞など虚しい言葉がいっぱいで、子どもを叱ることも避ける。それでは、自分の間違いや欠点になかなか気づくことができない。これは現代人の霊的な弱さだ。だから、イエスの厳しい言葉に引っかかっても、逃げないで、イエスが医者として私たちの病気を癒やすと考えた方がいい。第三に、今日の箇所には、非論理的なところがあって、解釈を難しくしている。それは、マタイがこの箇所を編集する時に、何かの理由があって、二つの違ったたとえ話を一つにしたからと考えられる。
このたとえ話は、ルカにも似た話がある(14・16−24)。ルカはマタイを参照したようだ。
そして、先週指摘したように、マタイ22章はイエスの生涯の最後の時期。祭司長たち、ファリサイ派の人たち、律法学者たちとの対立がどんどん大きくなり、イエスはその考え方のために捕えられる。そして最後に十字架上で殺される。
また、マタイがこの箇所を編集したのはキリスト者にとって難しい時期だった。パウロなどの宣教によってユダヤ人以外の人たちが教会に入ったために、どのように関わり違いをどう受け入れるかという問題があった。またユダヤ人による迫害も始まっていた。このような難しい時期に、マタイはイエスの言葉を信者たちに伝えているのだ。
今日のたとえ話のテーマは婚宴。披露宴という言葉を使ってもいいが、世俗的な私たちの時代の披露宴とは違いがある。マタイもルカも、第一朗読に出てくるような荘厳な神の婚宴を考えている。ユダヤ人にとって、山の上で食事をともにする婚宴とは神がイスラエルのために行ったさまざまなわざを象徴する。神はいろいろなことをしてイスラエルを幸せにしようとした。先週のぶどう園もそうだった。今日のたとえ話では、イスラエルが幸せに暮らすために招待される。先週のぶどう園の労働者が収穫を渡さなかったのと同じように、今日のたとえ話でも、イスラエルは招待に応じず、拒否した。イスラエルは神から呼ばれ土地を与えられたのに、神から離れた。神の作品であったはずなのに、悪の道を歩んだのだ。大勢入る部屋に食べ物がいっぱい並べられているのに、誰もいない。たとえるなら、母親が子どものために食事を用意したのに、子どもは遊びに行って家に戻らない、あるいは妻が夫の誕生日にごちそうを用意したのに、夫はバーに行ってママさんと祝う状態と言えるだろうか。神は失望し、悲しむ。イスラエルが拒否した理由をマタイは二つ挙げる。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」。神は天と地を創造したのに、自分の畑に出かけ、全世界が神のものであるのに、自分の商売に出かける。ルカも結婚や用事を挙げている。神の招待に応えないのは、ユダヤ人だけではなく、私たちでもありうる。今日の箇所を読む時、私たちは、何のために生きるか、何を選択し何を大切にして生きるかを問われている。細かいことではなく、生活全体が向かっている方向、価値観を問われている。家庭での子どもの教育も、社会生活もすべてそれにかかっているのだ。
「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。マタイは預言者たちや洗礼者ヨハネに対する迫害を考えているだろう。
「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」。この箇所は注意しなければならない。神が報復したのではない。マタイの当時、エルサレムの都はすでにローマ人によって破壊されていた。それは、神の招きを拒否した結果だと言われているのだ。神が復讐したり罰を与えたりしないことは、福音書の他の箇所で書かれている、罪人や悪人に対するイエスの態度からよくわかるところだ。だから、このたとえ話が言おうとするのは、神との間違った関係から、人間の悪い状態が結果するということ。たとえば放蕩息子が放蕩の末、着る服にも食べ物にも困るのがそれだ。神から離れた人間には生きる土台がなくなる。一つ一つの行為が悪いというのではなく、構造的悪―生活全体、社会全体に悪のDNAが入ってしまうことが問題だ。世界の歴史を見ても、戦争のために何百人もの人が殺されたり、不正義が行われたり、自然が破壊されたりする。昔も今もそうだ。ハンナ・アーレントは、ユダヤ人迫害の裁判に参加した際にアイヒマンを目撃し、大きな犯罪を犯したのはつまらない人間だったと言った。人間はつまらないことにこだわって、自分に対し、家族に対し、世界に対し悪を行うのだ。
しかし、神は人間の弱さにあきらめず、家来たちに言う。「町の大通りに出て」。それは、人の集まるところに行くという意味ではなく、道が続く限り、歩けるところまで、一番遠いところまで、歩けるところまで行くという意味。つまり、聖なる国イスラエルの外に、異邦人のいるところだ。それは、私たち一人一人が罪に倒れているところでもある。
「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」。「家来たち」はギリシア語ではドゥーロスだが、最後にディアコノスという言葉が出てくる。これは助祭を意味する教会用語だ。マタイは教会のことを考えているのだ。「善人も悪人も」はギリシア語ではポネロイ・テ・カイ・アガトスで「悪人をはじめ善人も」と順番が逆になっている。これは親鸞の「悪人なおもて」という有名な言葉を連想させる。法然も、殺されて死んだ父親から復讐しないように言われたという。神が復讐の神ではないことはずっと前にイエスが言っている。仏教にもその影響があったことも考えられなくはない。ルカはギリシア人のために説明して言う、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」。それは私たちのことだ。私たちの教会は町内会ではなく、何か共通の目的や趣味があるのでもなく、好き嫌いで集まったのでもエリートでもない。私たちはそれぞれ弱さをかかえた罪人としてキリストの婚宴に呼ばれ迎えられたのだ。第一朗読では、その婚宴のときは死も涙もないと言われる。神は私たちを幸せにしたいのだ。私たちは、死と苦しみから私たちを解放するために来られた神の子イエスの婚宴に、神の命によって生きるために呼ばれたのだ。これが今日のたとえ話のポイントだ。そこに私たちの喜びの源泉がある。それがわかれば、ミサがどういうことか、ミサのためにどういう準備をし、どういう態度と姿勢で与るべきかがわかる。
「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」。道端で呼ばれた人たちに礼服が求められるとは奇妙だ。しかし、これは、先週のたとえ話がユダヤ教の間違いをしないようにキリスト者に注意しているのと同じことだ。つまり、ここでマタイは当時の信者たちに対して、神の呼びかけを空しくする危険があると注意をしているのだ。
「礼服」についてはいろいろな説があるが、当時の結婚式では入り口で客にマントを渡す習慣があったとも言われる。聖書では白い服は神の服を意味する。パウロもキリストを着ると言い、洗礼の時にも白い衣を受ける。それは内面的な変化を意味する。つまり、婚宴に参加するには内面的な変化、回心が必要なのだ。キリスト者になってミサや聖体に与るのは、人間的なことではなく、新しい価値観をもつことだ。たとえば私たちは子どもが生まれると教会につれていき洗礼を受けさせるが、それで十分ではない。キリスト教的な教育を与えなければならない。大人の場合も洗礼を受けて一度に変わるのではなく、祈り方とか人に対する態度とか、新しい生き方の訓練が必要だ。水の洗礼のあとに、生活に洗礼すべきだ。礼服を着ていない人のように、名前だけキリスト者で心は神から離れている人もいる。教会の組織にも世間的なメンタリティが入る可能性があるから、注意しなければいけない。
「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。「友よ」とは福音書には3回出てくる。ユダへの言葉を含め、3回とも注意すべきニュアンスがある。
「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ」。これも罰ではない。マタイが言いたいのは、新しい人間になってない人たちは、自由も喜びもない生活を送るということ。だから、注意すべきということだ。
イエスは受難に向かっている。今日のたとえ話は、そのイエスが私たちに残した大切なたとえ話だ。
2017年の黙想。
2020年
10月
18日
日
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22・21)
先週の婚宴のたとえ話を聞いても、祭司長たちやファリサイ派の人々は回心しなかった。彼らは、イエスを処分すべき危険な人物と考えて、罠にかけようとする。そして、何も知らないふりをして自分の弟子を送る。ヘロデ派の人々といっしょに、というのは不思議な話だ。ファリサイ派とヘロデ派は敵対していたからだ。ファリサイ派はローマの圧迫を嫌っていたのに対して、ヘロデ派はローマの味方をしていた。しかし、ファリサイ派とヘロデ派はイエスを殺す目的で一致した。そして、イエスは群衆に人気があったが、その前でイエスに恥をかかせようとしたのだ。
彼らは下手に出てイエスに言う、あなたは人を恐れず真実を言う人だと。昔も今も独裁者の前で自分の意見を言うことは危険だから、それを避けることが多いが、あなたはそれをしないだろうとイエスを持ち上げる。
ファリサイ派の人々が考えた罠とは、民にとって切実な税金の問題だ。当時は、各種の税(土地税、収穫税、取引税、職業税、人頭税など)を合わせると全収入の40−50%が税金として徴収されたようだ。収穫の量にかかわらず畑の広さなどに応じて決められた量の収穫物を軍隊が徴収したから、飢饉の時など農民は困窮した。税のうちには、皇帝に払う特別な税金があり、そのためには専用の銀貨が用いられた。ファリサイ派の人々が言ったのはその税金のことで、それを彼らは特に嫌っていた。その税金のせいで、紀元6年にはサマリヤやユダヤで暴動が起きていた。
今日の箇所は教会の歴史の中で、宗教と政治、教会と国家の関係にかかわる箇所として読まれてきた。それは確かに大切な問題だが、現代の聖書学者によると、今日の箇所にはもう一つの大切なポイントがある。「律法に適っているでしょうか」とあるように、ファリサイ派がイエスに突き付けたのは宗教的な問題だった。律法に適っていないと答えれば、ローマ帝国に反逆しているとヘロデ派に訴えられ(実際にルカ23・2によると、イエスは裁判でその点を訴えられた)、律法に適っていると答えれば、ヘロデ派に妥協して律法の「真実」から離れ神を冒涜することになる。その結果、イエスは立ち往生し、群衆の評判が落ちるだろうとファリサイ派の人々は考えたのだ。
イエスは、彼らが罠にかけようとしていることをすぐに見抜いて言う、「偽善者」と。宗教的な関心をよそおっているが、実は悪魔(サタン)のように罠にかけようとしていると。
デナリオン銀貨は、表にはアウグストゥスの子ティベリウスの像があり、AUGUSTUS CAESER
DEVS(神である皇帝アウグストゥス)と書かれていた(当時すでに、皇帝は神であると信じられていた)。銀貨の裏には、オリーブの枝をもつ平和の女神(アウグストゥスの3番目の妻リビアとも言われている)の像があり、PONTIFEX
MAXIMUS(最大の祭司)と書かれていた。そもそもユダヤ教では神の像を(人の像も)作ることは許されなかった。この銀貨の形状はユダヤ人たちの信仰に反したため、この銀貨は汚れたものとされて神殿に持ち込むことが禁じられ、両替する必要があった。
イエス自身はその時その銀貨をもっていなかった。しかし、ファリサイ派の人々はそれをもっていてイエスの目の前に出した。つまり、彼らは熱心な宗教家をよそおっていたけれども、実際には宗教を出しにしていたにすぎず、自分たちの利益のために銀貨を使っていたのだ。そこで、彼らの神が本当はどういうものだったかがはっきりする。それはマンモンであり、お金、利益、もうけだ。彼らがイエスを殺そうとしていたのは、宗教的な理由によってではなく、イエスが彼らにとって邪魔だったからにすぎない。
銀貨を出したファリサイ派の人々にイエスは聞く、「誰の肖像と銘か」と。彼らは「皇帝」と答える。すると、イエスは言う、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これは、2000年に及ぶ教会の歴史の中でさまざまな形で論じられてきた有名な言葉だ。この言葉を手がかりとして、世界や政治や権力と教会との関係について考察されてきた。キリスト者の教会も孤立した団体ではなく、現実には世界の中に生きているから、世俗権力に対する義務もあるというふうに。
しかし、この短い一文でイエスがそういった問題に直接に触れているわけではない。イエスが使った言葉に注意すべきだ。イエスが使った言葉は「払うdidomi」という言葉ではなく、「返すapodidomi」という言葉。この銀貨が皇帝のものなら、皇帝に返すべきだと言っているのだ。
続いてイエスは「神のもの」について言う。それは神の像のことだ。ユダヤ人にとって、そしてキリスト教にとって神の像は物質ではない。それは人間だ。想像されたあらゆるもののうち、人間だけが神の像に似せて造られた。人間という神の像を神に返しなさいとイエスは言うのだ。ファリサイ派の人々はいわば、神の像を自分のものにして、自分の利益のために利用している。それを神に返すようにイエスは言うのだーすべてのものに対して権力をもつ王である神に。イエス自身が来たのは、ファリサイ派が損ない覆ってしまったその像を修復し、顕にするためだ。罪によって、利益によって、人間の考え方によって奪われた神の像を神に返すべきだとイエスは言う。そして、福音書記者マタイにとって、そして私たちにとって神の完全な像はイエス自身だ。イエスの顔の上に神の本当の光が輝く。
今日朗読された箇所には、この箇所の最後の文が抜けている。「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」。立ち去るという言葉はちょうど、荒れ野での誘惑の箇所の最後(マタイ4・8−11)に出てくる。マタイ福音書の最初と最後で、イエスは誘惑を受けていることになる。今日の箇所でもイエスは悪魔に勝つ。ファリサイ派の人々は自分たちが神に近いと思っていたが、却って彼らは悪魔の家来になっていたのだ。
教会の社会教説(詳しくはこちら)はとても大切だ。教会は世界から孤立し隔絶した団体ではない。宗教と政治の関係についてどう考えるべきかは大切な問題だ。
一方で宗教は個人的な事柄だから宗教は政治に関与すべきでないという見解があり、他方でイスラム教のように宗教が政治が密接に関わる宗教もある。しかし、今日の箇所は直接に宗教と政治の関係を論じているわけではない。イエスがこの箇所で私たちに言うのは、そのような議論の土台となるような、もっと深い事柄だ。それは、私たち人間が神のものであること。ちょうどデナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように、どんな人ー男も女もーの心にも神の「肖像と銘」が刻まれている。世の権力に対してイエスが言うのは、人間を自分の持ち物にしてはいけない、束縛してはいけない、いじめてはいけないということ。どの人も神の作品であり、その中に神の息と血が流れている。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
10月
25日
日
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・37ー39)
1921年にノーベル賞を受賞したアインシュタインが翌年に来日し東京の帝国ホテルに泊まった際、配達人がメッセージをもってきたが、チップの持ち合わせがなかったので、ホテルの二枚の便箋にそれぞれ言葉を書いた。一つは「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」。もう一つは「意志あるところに道は開ける」。その二枚の便箋は、オークションで2億円以上の金額で落札されたと言う。
さて、今日私たちは教会から大切な言葉をいただく。それは二千年前のエルサレムでイエスが語った言葉だ。幸いにも教会はその言葉を大切に持ち続け、今日の典礼で私たちに手渡してくれる。アインシュタインの言葉はお金になったが、イエスのその言葉は二千年のあいだ、考えられないほど大きな聖性の力になった。その言葉によって生きることで多くの人たちが聖人になることができたのだ。私たちは今日、特別な心で、心を尽くしてその言葉を聞きたい。
今日の箇所は短い。何週間も前にエルサレムに上ったイエスは、神殿で商売をしていた人たちを追い出し、祭司長やファリサイ派の人たちと議論になった。一般の人たちはイエスを尊敬していたが、彼らはイエスにきつくあたったのだ。そして不思議なことに、先週の福音書にあったように、ファリサイ派とヘロデ派は敵同士であったにもかかわらず、イエスを殺すために手を組んで弟子を送り、イエスを罠にかける質問をした。それに勝ったイエスに対し、今日は、律法の専門家が難しい質問をして、罠にかけようとする。
「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。この質問は一見すると、子どもの公教要理のように単純な質問に見えるが、当時のユダヤ人、特に学者たちにとっては大問題だった。当時は、律法学者たちが宗教を口実としながら自分たちの利益のために掟をどんどん増やし、その結果613の掟があったらしい。それだけ掟があったら、網の中の魚のような気持ちになったことだろう。どの掟が重要かについてさまざまな意見があり、律法学者たちのあいだには対立もあった。しかし、一般には、ユダヤ人にとって最も重要な掟は安息日の掟と考えられていた。ユダヤ人の安息日は私たちキリスト者の土曜日にあたる。その日に仕事をせずに神とともに休む(創世記2・2参照)のが彼らにとって最も重要な掟であった。その掟を守ればすべての掟を守ることになり、その掟に反して安息日に仕事をすればすべての掟に反することになると律法学者たちは言っていた。彼らは、イエスが安息日に病人を癒したり、彼の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたのを批判したから、イエスはその問題を意識していた。
イエスはどう答えたか。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」。イエスは不思議なことに十戒の最初の三つの掟を無視する。613の掟のうちには大きなものも小さなものもあったが、イエスは神についての掟も神殿についての掟もまったく使っていないのだ。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。十戒には「殺してはならない」「盗んではならない」のように隣人に対する掟があるが、イエスはそのような掟を使わない。そのような掟は実は人間の常識に過ぎない。
イエスの返答は旧約聖書の最も古い二つの書物からとられている。第一は申命記から。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」。「聞け、イスラエルよ」の原語、シェマー・イスラエルはよく知られている。この言葉はイスラエル人にとって大切な言葉で、彼らはこの言葉を毎日祈りとして使い、しばしば特別な箱の中にその言葉を入れて扉にかけたりした。つまり、イエスは、彼を試そうとした質問に対して、毎日祈りで使っていた言葉で答えたのだ。しかも、申命記の「力を尽くして」に変えて「思いを尽くして」と言われている。申命記の「力」は財産を意味するが、イエスにとって神は財産を求めないから。
私たちにとって大切なことだが、イエスにとって掟は祈りの体験から生まれるのだ。イエスは祈りの人だった。イエスの祈りについては福音書のあちこちに書かれている。父なる神に向かう親しく愛情深い祈り。一人になった時、成功に感謝する時などさまざまな機会に合わせた祈り。イエスにとって宗教とは、人を圧迫するための道徳的義務ではなく、祈りの体験から生まれる心の要求だ。
イエスが私たちに教えて下さった主の祈り、私たちが毎日唱えるべき主の祈りがそうだ。主の祈りを祈ることでまずわかるのは、父なる神の子であること、愛されていること。その体験から、掟、つまり正しい態度や正しい生き方がわかる。愛されている自覚から、神を愛すること、人を愛すること、人を赦し人から赦されることを覚えるのだ。これはとても大切なことだ。別の言葉で言うと、掟は愛の体験から生まれるのだ。神から愛されている自覚がなければ、掟を理解することも行うこともできず、キリスト教的に生きることができない。キリスト者のあらゆる行動はその根本的な体験にかかっている。私たちは神の愛を知らなければ、人を愛することはできず、よい行いをすることができない。神の愛を知らないなら、よい行いをしようとしても必ず、祭司長たちやファリサイ派の人たち、最終的にイエスを殺した人たちのように、自分の利益のために掟を作って、その掟の網の中に人々を捕えることになる。これが今日の福音書で大切な点だ。
第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」は旧約聖書のレビ記の言葉だ。神を愛することと、隣人を愛することとは一つに結びついていて切り離すことができないとイエスは言うのだ。人を愛さず神を愛するのも、神を愛さず人を愛するのも本当ではない。私たちは神を愛するから人を愛するのだ。神への愛と人への愛はいっしょに育たなければならない。
人を愛することはとても難しい。全世界で何千年も前から、哲学者、文学者、詩人、法律を考える人たち、それぞれの国のために働いた人たちはみな、そのことを考えていた。どう生きるべきか、何がいいか、何が悪いか。現代の私たちもまだ、それがわからない。人間には人を愛することを妨げるものがある。罪と言っても、利己主義、エゴと言っても、仏教的に煩悩と言ってもいい。人間は掟を考える時は必ず人を束縛する。自分の利益をねらってすることは大きな危険がある。アインシュタインの言葉をメディアは幸福の秘密と言ったが、今日私たちが聞いた言葉は、イエスが語る幸福の秘密だ。その言葉を私たちは心の中に受けとめ、祈りによって芽生えさせ花咲かせるために努力すべきだ。その努力は意志ではなく愛になる。イエスは今日の言葉のために十字架につけられた。それは十字架につけられる前のイエスが私たちに遺した言葉なのだ。
今日の言葉はユダヤ人との議論の中でイエスが言った言葉だが、それがすべてではない。マタイ福音書では、今日の箇所の後しばらくすると、イエスは十字架につけられる。その直前の最後の晩餐の時、イエスが弟子たちに言った言葉がある。それは私たちに残された言葉だ。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。相手を自分のように愛する、つまり自分が愛されたいように愛するというのは人間的な基準だが、私たちの師であり兄であるイエスが私たちに言われたのはその程度のことではないのだ。神の子であるキリストが私たちを愛したように愛するのだ。そのために私たちは父なる神に愛されている。
感謝しながら今日の言葉を大切にしそれによって生きることができるように光と恵みを願いたい。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
11月
01日
日
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)
2015年の黙想の再掲載。
2020年
11月
08日
日
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(マタイ25・4)
秋が深まる11月。一年間の教会暦も終わりに近づき、教会がいつも大切に心に留める終末論の空気が感じられる。それは、喜びと心配といった、相反する気分が入り交じった空気だ。今年一年の教会暦はマタイによって導かれてきたが、マタイはモーセ五書(旧約聖書の最初の五つの書物)を真似て、イエスの五つの長い話をまとめた。今日のたとえ話は五番目の話に含まれる。
若い女性がたくさん出てくる今日のたとえ話は華やかな雰囲気だ。だからか、4世紀頃からさまざまな形でキリスト者に親しまれてきた。特にアルプス以北のヨーロッパでは、ゴシック様式の教会の入り口の彫像などで表現された。音楽では、バッハの”Wachet auf, ruft uns die Stimme”(目覚めよと呼ぶ声あり、訳詞はこちら)が有名だ。ベネディクト16世のお気に入りのカンタータで、一般謁見演説でこの曲について話している。その歌詞は、福音書の文面通りではなく、雅歌のいくつかの言葉も挿入され、黙想のようだ。
しかし、このたとえ話を読めば読むほど、問題や矛盾が出てくる。結末も厳しくドラマチックだ。だから、よく調べ深く読む要求が生まれ、神学者や聖書学者もいろいろな解釈をしている。マタイ福音書だけにあるから、イエスの言葉を集めながらマタイとその共同体が作ったたとえ話かもしれない。さまざまな矛盾があるのもそのせいかもしれない。そして、このたとえ話は一つの物語というより、イエスの教えのコンパクトなまとめになっている。ちょうど主の祈りが祈りとはいえ、そこに埋められているものを掘り出さなければならないのと似ている。
「天の国は次のようにたとえられる」。注意すべきは、天の国と言っても死んでからのことだけではない。今の生活、現代の私たちの生活にも関係がある。
「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。人間の救いの神秘を表現するために、小さな明かりを手に暗闇を抜けて婚宴の広間に入る若い女性のたとえを使うとはただの神学者にはできないことだ。神である大芸術家、イエスだけが使えるたとえ話だ。
「花婿の来るのが遅れた」。遅れることは誰にでもある。しかし、結婚式の日に何時間も遅れるとは奇妙だ。しかし実は、マタイによる福音書には、同じように主人(花婿)が留守にするたとえ話がある。「忠実な僕と悪い僕」「タラントン」のたとえがそうだ。だから、このたとえ話も神学的なたとえ話なのだ。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」。イエスはよく「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と言う。ここで注意すべきは、5人の賢いおとめたちだけではなく、10人とも「眠気」がさしたということ。それは教会の私たちみなということだ。私たちは日常生活で眠気に襲われる。たとえば愛する人を看病していても寝てしまったりする。精神的な意味でも、疲れや失望によって、眠気に陥り気力を失う可能性がある。それは、信者になったのにリスクを避けるといった状態だ。その問題は福音書のあちこちに出てくる。花婿を迎える喜びの日に、期待に反して花婿が来ないなら、いい人も悪い人もみな疲れて眠ってしまう。だから、このたとえ話のポイントは眠気そのものではない。信仰に疑いや疲れがあったり、祈りがマンネリに陥ったりすることではない。神はそのことがわかっていて、問題にしない。イエスはただ、そういったことを意識するように私たちに言いたいだけだ。だから、おとめたちの問題は眠っていたことではない。疲れて眠ってしまうのはある意味当たり前のことだ。
「真夜中に…叫ぶ声がした」。真夜中とは12時。それは人生でもっとも暗い時を意味する。聖書で神がイスラエルの民(人間)に近づくのは何よりも、私たちを驚かせる「叫ぶ声」としてだ。「叫ぶ声」と言うと、たとえば預言者たちや洗礼者ヨハネが思い出される。そして、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ人1・1、2)。キリストとは根本的に言葉だ。イエスは人間になった神の言葉で、真夜中に響き渡り私たちの耳に入る。キリスト者とは聞く者だとパウロは言う(ローマ10・17)。
「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。「油」とは何か。マタイは説明していないから、曖昧なところが残る。「ともし火」については福音書のあちこちに出てくる。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(マタイ5・14、15)。つまり、ともし火をもったおとめたちとは、イエスの再臨を待つキリスト者の共同体、教会を意味する。油はともし火の燃料になるが、塗油を思い出させる。メシアとは油注がれた者であり、善いサマリア人は、追いはぎに殴られた人に油を注ぐ。油は、恵まれない人、災いにあった人の傷を癒やすものだ。愚かなおとめと賢いおとめとの違いは、疲れでも眠気でもなく、油を用意していたかどうかだ。マタイによると、イエスが言うには、油は信者が眠っている時ももたなければならないものだ。
雅歌にも次のような言葉がある。「眠っていても/わたしの心は目覚めていました」(5・2)。つまり、それは、疲れや居眠りや弱さがあったとしても、信者である限りどうしてもなければならない大切なことだ。キリスト者とは疲れない人、眠くならない人、罪を犯さない人ではない。イエスは私たちが罪人であることを知っている。しかし、どんな状態にあっても、弱さや苦しみや危機、さらには罪の状態にあっても、キリスト者はキリストの声を聞き分けて、目を覚まして、キリストの声に、彼の愛に答える態度をもたなければならない。
愚かな5人はユダヤ人で、賢い5人はキリスト者のこと。マタイ7章の「岩の上に家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のたとえも思い出される。キリストの弟子は、どんなことがあっても、もう一度ゼロからやり直すことができる。それに対して、世間は、そんなことをしたなら、もう終わりだ、諦めるしかないと言う。それは、希望を奪い絶望に陥らせる悪魔の声だ。言い換えると、夜になっても花婿は来なかったから、もう絶対に来ないと悪魔は言うのだ。
たとえ話の後半は、受け入れにくいことでよく知られている。
「賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」。夜中に油を買いに行けと言うのは不自然だ。彼女たちは他の5人を厳しく突き放しているように思える。しかし、この言葉は、教会によくいるファリサイ派的な人たち、他人の欠点を厳しく指摘して自分が正しいと思っている人たちのことを言っているのではない。また、油が途中で足りなくなるから彼女たちが分けなかったのも当然だと言う人もいるが、ここで言われているのはそのようなことでもない。
「油」とは市場で買ったり、他人に分けたりできるものではない。ともし火の下にある油とは、何か深い意味で個人的なことだ。たとえば、私たちは他人の代わりに信じることができない。他人の代わりに愛することもできない。誰の人生にも、自分にしか答えられないことがある。それは各人が自分の良心の奥底でする根本的な選択だ。マタイによると、イエスが言いたいのは、その機会を逃してはいけないということ。たとえば、神の愛を受け入れる決心がそうだ。
だから、愚かなおとめたちの問題は不完全な生活でも罪でもなく、イエスを知らないことだ。みんなと同じ服を着て、同じ格好をして、同じ行列に入って、同じコーラスで歌うつもりでいたが、花婿を知らなかったのだ。言い換えれば、聖書を最初から最後まで暗記していても十分ではない。悪魔も聖書を知っているのだ。教会に通うのは大切だが、それも十分ではない。広場の真ん中で祈りの人間と見せかけても、それでもない。「主よ、主よ」というのも十分ではない。婚宴の間は当時は誰もが入れるように戸が開けられていたが、ここではもう閉まっている。公共要理を学んだり、神学をすることも十分ではない。今日のたとえ話でイエスが言いたいと思われるのは、イエスの愛を知ることだ。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。ただイエスを知りイエスに知られること、それだけだ。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。この言葉はたとえ話の内容と合わない。マタイはきっと、もともと別々のイエスの言葉を集めたのだろう。
宗教的な儀式も、神のためにする慈善活動も十分ではない。パウロが愛の讃歌(1コリント13章)で言うとおりだ。英雄でなくてもいい、一晩中起きている行者でもなくていい。ただ、憎しみやニヒリズムに陥らず、神が語られることに耳を傾けること。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
11月
15日
日
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25・21)。
神についての間違ったイメージは、信者の生活にダメージを与えることがありうる。今日のたとえ話でマタイは、イエスが伝えた本当の神がどういう方かを示そうとする。
マタイ福音書25章のタラントンのたとえ話は、有名だ。日本語でも使われるタレントという言葉は今日のたとえ話から来ている。
「ある人が旅行に出かけるとき」。「人」とは神である人、キリストのこと(ルカ福音書では「王」とある)。「旅行に出かけるとき」とは、教会がキリストの再臨を待つ期間のこと。「僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。「僕たち」と言っても下位の召使ではなく、上位の人たち。「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」。タラントンはもともと貨幣ではなく、重さの単位。時代によって違うが、26キロから36キロに相当する。一タラントンとはそれだけの重さの黄金のことであり、換算すると、労働者の20年間の賃金に当たる。だから、その財産を「預ける」とは、それを元手に商売をさせ利益を上げて返してもらうためではなく、僕たちとそれを共有するということ。このことはユダヤ人には、ヤーウェの神が天地を創造した時のことを思い出させる。創世記によると、神は万物を創造し、それを成長させ実らせるためにアダムに委ねた。ミサの第四奉献文にもこうある―「(あなたは)ご自分にかたどって人を造り、作り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて支配するよう、全世界を人の手におゆだねになりました」。だから、主人(神)は僕(人間)たちをご自分の協力者として、その忠実さを見ようとしたのであり、彼らは主人の留守中、その財産を楽しむこともできたのだ。
このたとえ話の中心は3番目の僕。その僕についてはいろいろな解釈がある。その僕は少ない財産しか預けられなかったのにひどい扱いをされたと外面的に読んで怒る人たちもいるが、しかしこの僕が預かったのも大金にはちがいない。また「それぞれの力に応じて」ともあるから、彼にできる限りでたくさんもらったという点では他の僕と変わりはない。だから、この僕の問題は、他の人より少ない財産を預かったことではない。
「主人が帰って来て、彼らと精算を始めた」。精算と言っても、「不正な管理人」のたとえ話のように「会計の報告」を見て無駄遣いを探そうとしているのではない。父親が子どもの成長や成功を喜び誇らしく思うように、主人は彼らと共有した財産がどうなったかを見たいのだ。父親にとって子どもの幸せ以上に大きな喜びがないように、神の喜びは自分が造ったものの幸せなのだ。
「忠実な良い僕だ」。「忠実」とは、財産が増えることを望んだ主人への忠実だ。「よくやった」。ちょうど神が世界を造った時に毎晩、良しとされたのと同じだ。「少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。だから、神は預けたものの返却や利益を望んでいるのではない。神が「少しのもの」を預けたのは忠実さを試すということなのだ。
ところが、3番目の僕は(なぜかは説明がないが)、主人(神)に対して自分がどのような立場にあるかを理解せず、自分がただの召使だと思っている。彼は主人に対して冒涜と言えるほどの言葉を使う。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」。彼は財産を預けられ、神の仲間とされたにもかかわらず、それを土に埋める。土に埋めたのは、当時のラビたちの法律によると、人から何かを預かった時に土に埋めれば、盗まれても責任がなく返す義務がないという決まりがあったから。つまり、彼は神に対して責任や義務に縛られる関係にあったのだ。そして、「恐ろしく」という言葉がある。彼は、神を厳しい神と考えて、恐れて閉じこもり、リスクを侵す勇気がなく、自分の安全だけを考えたのだ。
それは、よく見ると、ファリサイ派のように、イエスが生涯争った人たちのこと。たとえば、放蕩息子のたとえ話の兄がそうだ。父の家にとどまっているが、跡継ぎ息子なのに父に対して奴隷のような態度をとって、楽しめず、恨みを抱く。あるいは、ぶどう園の労働者のたとえ話で文句を言う労働者もそうだ。つまり、それは、神に対して、子どもとして、あるいは友人としてではなく、ライバルとして関わり、神の前で自分を正当化する態度だ。そこから、他の人に対する間違った態度も生まれる。この3番目の僕は「あなたのお金」と言うが、放蕩息子の兄も「あなたの息子」と言う。
彼に対して主人は言う、「怠け者の悪い僕だ」。悪いとは、心が病気で、神のみ旨を理解していないということ。つまり、神が宇宙の春であり、宇宙に花と実りをもたらすというみ旨のために人間を召し出したことを理解していないということ。要するに、忠実な良い僕と怠け者の悪い僕がいる。そのことは種撒く人やパン種などイエスのいろいろなたとえ話と共通している。
今日のタラントンのたとえ話は、初代教会の事情を前にマタイがイエスの言葉をまとめて書き残したものだ。この中には、二つの層があるように思われる。一つの層は、イエスが活動した当時の事情とそれを踏まえた人間についてのイエスの教えだ。もう一つの層は、マタイの関心。マタイは、モーセの契約、つまり神とその僕としてのユダヤ人との契約であった第一の契約に対して、イエスの契約、神との新しい関係を意味する第二の契約を示したいのだ。
「財産」とは具体的に何を意味するか。タレントとは英語では、それぞれの人がもっている音楽などの才能を意味する(日本語ではそこから芸能人を意味する)が、僕たちが預かった財産をそのように理解するなら狭い理解だ。彼らが預かった財産とは、その人自身の幸せのために生まれつき授かった個人的な特徴ではない。それは第一に宇宙の中の人間の立場を意味する。そして、キリストによって父なる神との関係は新しい関係になったから、財産とは第二にキリストそのものを意味する。つまり、キリスト信者にとって、キリストの秘跡、キリストの体、キリストの言葉を意味する。だから、このたとえ話は信者に向かって、あなたたちはこのような宝物を他人と分かち合いなさいと言いたいのだ―神への恐れを捨てて。「愛には恐れがない」(第一ヨハネ4・18)。恐れから解放されて、キリストを伝えなさいと言いたいのだ。言い換えれば、宣教ということ。教会の時代にあってキリスト者はキリストを他人に伝えるために呼ばれたのだ。第一朗読として、「有能な妻」について語られる箴言の箇所が選ばれているのも、世話をし育てるという役割について書かれているからだ。教会にはキリストを受け入れ育てるという女性的な使命がある。それを象徴するのがマリアだ。教会はまもなく、マリアの季節である待降節に入る。
2017年の黙想の再掲載。
2020年
11月
22日
日
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25・31)
年間最後の主日に私たちは、王であるキリストを祝う。この祭日は比較的新しく100年ほど前に定められたが、王であるキリストというテーマは古く聖書に遡る(日本語では「王であるキリスト」の「王」と「神の国」の「国」とは別々の言葉だが、欧語では「王」と「国」は同じ語幹)。この祭日は何百万人もの信者の願いで定められ、行列などさまざまな形で祝われる。また、カトリックだけではなくプロテスタントや正教会も王であるキリストを祝う。
第二バチカン公会議によって典礼が整理された際、この祭日のためにABCの3つの年に合わせて旧約新約聖書のさまざまな朗読箇所が選ばれ、その全部を読めば祭日の意味を深く知ることができる。しかし、ここでは、今日の福音朗読に限ることにする。
今日の福音朗読はマタイ第25章から。同じ章に、今日のたとえ話と少し似ている二つのたとえ話――10人のおとめのたとえ話とタラントンのたとえ話がすでにあった。今日のたとえ話はイエスの最後の教えだ。
今日のたとえ話に出て来る王には、羊飼いのイメージとともに審判者のイメージがある。注意すべきは、審判者のイメージがすでに旧約聖書に出ていること。ただし、イエスは、ユダヤ人たちが抱いていた審判のイメージを覆す。つまり、神が審判する基準は律法ではない。そして不思議なことに、神に対する態度でもなく、隣人に対する態度なのだ。なぜマタイはその福音書の最後にそれを私たちに伝えるのか。イエスは私たちとともにいる神というのがマタイの大きなテーマだからだ。つまり、イエスの到来によって、神は遠いところではなく、この世界の私たちのそばに隠れているのだ。
キリスト教の歴史を振り返ると、審判は神学にも霊性にも美術にもよく出てくる主題だ。審判については、罪人を地獄に落とす厳しい神を強調するというふうにしばしば間違った形で語られてきた。けれども、イエスが語る審判は、よく見ると、(いつ来るかは知らないとイエス自身が言う)世の終わりのことよりも、今のことだ。それは私たちの今の生活を案内するナビゲーターのようなものだ。今日のたとえ話が伝えるのは、過去についての未来の審判ではなく、現在の生活のガイドなのだ。
「すべての国の民がその前に集められると」。日本語には「すべての国の民」と訳されているが、ギリシア語は「さまざまな民」を意味するラウス。ここでは、ユダヤ人以外の異邦人を意味する。マタイ福音書では、ユダヤ人についてはすでに審判が記されている。
「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。良いものと悪いものを分けることについてマタイはいろいろな形で語っている(良い木と悪い木、麦と毒麦、良い魚と悪い魚)。よく見ると、分ける基準は人間が犯した罪ではない。マタイ福音書が伝えるところでも、イエスは罪人に対して憐れみがあり、罪人を滅ぼさない。だから、良いものと悪いものを分ける基準は間違ったことをしたかしなかったかではなく、すべきことをしたかしなかった(怠り)かなのだ。そこに6つの例が出てくる(食べさせる、飲ませる、泊める、着せる、見舞う、牢に訪ねる)。それは当時、イスラエルだけではなくエジプトにもあった定式だ。たとえばエジプトの有名な死者の書は、死者の埋葬の際に遺体の横に置かれるものであり、神を喜ばせるためにその人が何をしたかが記されていた。今日のたとえ話でイエスは、そのような定式を使っているのだ。印象的なのは、祈りや神殿など宗教的な態度ではなく、隣人に対する態度が挙げられていること。特に、こんにちの刑務所とは異なり、当時の牢は食べ物の提供もなく、訪問者がもってくるだけだった。神が言うのは、このような人たちに対してしたことは自分に対してしたことだということ。だから、今日の福音は、私たちが生きている今の状態に対する神からの強いメッセージなのだ。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」。「最も小さい者」とは誰か。6つの例からすると、困窮している人たち、社会から差別され見捨てられた人たちと考えられる。それと同時に、マタイはきっともう一つのことを考えている。マタイ福音書には「小さな者」が他にも出てくるが、それはイエスから派遣された弟子のことだ。彼らは狼の群れに送り込まれて、弱い立場にある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)。イエスから遣わされた人たちはイエスの弟子として扱われ、イエス自身であるかのように、イエスといっしょに愛すべきなのだ。
「主よ、いつわたしたちは…したでしょうか」。この人たちはいいことをしたけれども、神にそんなことをしたとは気づいていない。つまり、彼らは、神から愛されたり天国に行くといった目的のためではなく、純粋な動機からそうしたのだ。つまり、良いサマリア人のように、憐れな状態の隣人に憐れみを感じたからそうしたのだ。
「王は左側にいる人たちにも言う」。音楽で同じモティーフが長調と短調で表現されるように、ここでも同じモティーフが反対の表現で繰り返されている。これは当時のラビたちの話法だったが、イエスは言うことをしっかりと受け止めてほしかったから、同じことを反対の表現でも繰り返したのだろう。
「呪われた者ども」。この言葉にも注意すべきだ。イエスが宣言する神は呪う神、地獄に落とす神ではない。終末論文学に厳しいメッセージが含まれるのは、言われていることの重大さを強調するためだろう。「呪われた者」という言葉が意味するのは、この人たちが自分で自分の生活をだめにしてしまったということ。彼らは律法を守って罪を犯さず、神殿で宗教者として尊敬されることで救われると考えていたが、神から見放される。自分のことばかり考えて、隣人の必要に気づかなかったから。逆に、良い行いは、たとえどんなに小さなことでも、たとえ直接に神のためでなくても、神から注目され大切にされるのだ。私たちの生活にある小さないいことを神は大切な宝物として扱う。悪い人たちは「いつわたしたちは…しなかったでしょうか」と言い訳するが、いい人たちも驚く。それは救いの驚きだ。
今日のたとえ話の羊と山羊には注意すべきだ。二元論的な考え方に慣れている現代の私たちは自然に、良い人と悪い人を分けてしまう。確かに、神の前で善と悪の違いはある。しかし、たとえ話の文面に引っ張られないように注意しなければならない。イエスが私たちに示す神は愛だから、羊だけを愛して山羊を愛さない神ではない。それに、羊飼いは山羊も飼う。ある聖書学者によると、羊飼いは羊も山羊も飼うが、違った世話をした。夜になると、毛が長い羊は寒い外に、毛が短い山羊は温かい小屋にいるようにしたのだ。イエスの神にはやさしさと厳しさがあるが、そのどちらも私たちを導く手だ。神はやさしい言葉で私たちを引き寄せ、厳しい言葉で私たちを指導する。聖書にも、神は愛する者を鍛えると書いてある(ヘブライ12・6)。私たちにはいい人と悪い人を分ける習慣があるが、神はそうではない。神の国では、麦と毒麦がいっしょに生えている。そして、良い人と悪い人は別々の人ではないのだ。羊と山羊の分け目は私たち一人ひとりにある。羊とは、罪人の中に神が見る聖人のイメージとも言える。
審判のテーマが典礼に出て来る時には、狭く考えるのではなく、そのテーマで教会が何を教えたいかを見るべきだ。典礼年の最後に教会が教えるのは、終わりの日に行われる審判よりも、今を生きる私たちにとっての理想だ。私たちの今のありふれた日常生活には大切な可能性、神を愛するチャンスが隠されている。だから、私たちの周りの人々、近隣や職場、教会共同体を見直さなければならない。そして、大きなことだけではなく、小さなことに目を向けなければならない。イエスが言いたいこと、マタイ、そして教会が今日私たちに思い出させたいことはそれだ。待降節第一主日にも同じテーマが出てくる。よい待降節を送りたい。
2017年の黙想の再掲載。