毎週の聖句と黙想2020年(A)

2020年

5月

31日

聖霊降臨の主日

イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20・22)

ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
 復活節の50日間には、大きな喜びとともに心配があった。福音書によると、イエスは復活の前も後も何度も、いなくなると話した。弟子たちは最初はイエスといっしょにいる喜びのために、それほど心配しなかったが、別れが近づくと、質問した。あなたはどこに行くか、私たちはどうしたらいいかと。彼らは心配だったのだ。 
 昇天の祭日まで、祭壇の隣には、復活したイエスを意味する大きなろうそくが置かれ、ミサのあいだずっと灯されていた。それは復活徹夜祭に特別に祝別されたもので、私たちのあいだにおられるイエスのしるしだった。その光は、昇天の日に見えなくなった。けれども、昇天によって、イエスは行ってしまったのではなく、新しい形、より深い形で私たちとともにいる。そのために、今日の福音朗読では、復活の日に戻って言われる。「イエスが来て真ん中に立ち」。「真ん中に立つ」ことには聖書で大切な意味がある。イエスには近い人も遠い人もいない。イエスにとってはみなが同じ距離にいるのだ。 
 同じことは昇天の祭日にも言われた。使徒言行録などでいろいろな表現で、イエスは弟子たち(私たち)の目から見えなくなって、天に上げられて、父なる神の右の座についていると言われた。父なる神の右の座につくとは、イエスがただの人間ではなく、まことの神の子であるということ。私たちは神の実子ではなく、作られたものにすぎないが、イエスは神の実子なのだ。そして、大切なことだが、イエスが行ってしまって、私たちはみなし子になったのでもない。第二朗読のパウロの手紙によると、父なる神の右の座についたイエスは、私たちに次々と恵みを注ぐということだった。天に戻ったイエスは、金持ちが召使いに仕事をさせるように私たちに仕事を任せて何もしないのではなく、昼も夜も(イエスは永遠)私たちのために祈り、次々と私たちに力を送るのだ。

  今日の朗読でも同じことが言われる。「息を吹きかけて」――この言葉を私たちは大切にすべきだ。息とは命のこと。イエスは私たちの中に神の命を吹きかけるのだ。神の命は私たちの中に流れて、私たちは生きるようになる。それは教会の形でだ。聖霊降臨の主日は教会の誕生日と言われる。私たちは互いに家族として連帯する。それは人間的な好き嫌いの連帯ではなく、キリストを中心にする連帯だ。キリストを信じるから、私たちは互いにつながりができる。キリストから愛され赦されたものとして私たちは互いに関係をもつのだ。

 聖霊の続唱は、私たちの心の問題を照らし出す。頑固さ、人とよい関係をもてない心、神の言葉への抵抗、罪から離れる難しさ――私たちにはいろいろな問題がある。聖霊はそこに働く。私たちを治し、私たちに新しい命を与え、新しい世界を造り上げる。聖霊によって目が開かれ耳が通じ、匂いや味を感じることができる。弟子たちは、イエスが聖霊を送ってはじめて、イエスが以前に語った言葉の意味がわかった。そして、恐れを乗り越え、外に出て、イエスを証した――命を捧げることができるほど。 
 今日の喜ばしい日を祝うことができたことは大きな恵み。感謝してその力によって生きることにしたい。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

5月

23日

主の昇天

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28・29)

 

ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
 主の昇天の祭日――今日のこの日は、独立してあるのではなく、復活祭と聖霊降臨祭とをつなぐ祭日だ。 
 マタイをはじめ福音書記者たちは、言葉で言い表せないことを言い表すために言葉を使う。だから、彼らの言葉は文字通りに物質的に理解するのではなく、神学的に象徴として理解すべきだ。例えば、復活と言っても、ラザロの蘇生のように、以前の命、この世の命に戻ることではない。それはこの世の命より豊かな命、神の命に到達することだ。昇天も同じ。昇天という言葉には上とか下という空間的なイメージがある。しかし、福音書記者たちがこの言葉を使って表現しようとしているのは、イエスが神と特別な関係にあること。「神の子」とも言われる。イエスは、私たちのように造られたものではなく、神と根本的な関係にある方だと。 ニケア・コンスタンチノープル信条で言えば、「神のひとり子、すべてに先立って、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、作られることなく生まれ、父と一体」だと。だから、イエスは復活と昇天によって、父なる神によって定められた本来の座に戻ったのだ。主日のミサで唱える使徒信条で私たちはこの秘儀を短くまとめて言う、「天に昇って、全能の父である神の右の座につき…」。
 昇天については、使徒言行録や福音書だけではなく、パウロもペトロもいろいろな箇所で書いている。彼らは言う、私たちはイエスを仰ぎ見るべきだと。これはあたり前のことではない。否定して信じないこともできる。これがわかるためには、浄化のプロセス、心の目を清めることが必要だ。復活したイエスが使徒たちに現れた「四十日間」とはそのようなプロセスだ。40日とは実際の日数ではない。40という数字は、アスケーシス(禁欲、苦行)を意味する。使徒たちはそのようなプロセスを通じて、イエスは神の子であると信じるに至ったということ。

 昇天はイエスについての真実であるだけではなく、イエスの弟子である私たちにも深い関係がある。第一に、イエスは天に昇ったとき私たちを天に連れて行ったとパウロは言う(エフェソ4・8)。イエスを信じる人はイエスと同じように神のうちにいるのだ。 

 第二に、教会の誕生。イエスは父なる神から受けた救いのミッションを私たちに引き継がせる。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。イエスの弟子にするとは、イエスと深い個人的な関係をもつようにするということ。昇天によって教会が生まれるのだ。教会はただの外面的な組織ではない。教会の中で私たちは新しい形でイエスに触れることができる。神の言葉を聞くこと、聖体を拝領すること、秘跡を受けること、司祭職や共同体、貧しい人たちとの出会い――それはすべて、イエスに触れるための媒介だ。キリスト教は直観ではなく、いつも何かに媒介されている。人間は直接に神を見ることはできない。けれども人となったイエスが残した秘跡を通じて、私たちは神を見ることができる。
 第三に、父なる神の右に座ったイエスは、宣教のための力を私たちに送る。イエスは昇天によって教会から離れたのではなく、次から次へ聖霊とカリスマを教会に送り続ける――その恵みが世の果てに届くまで。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

5月

16日

復活節第6主日

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14・18)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館

2020年

5月

09日

復活節第5主日

  「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。

「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
 今日の第一朗読と福音朗読は、異なる時代に異なる人物によって書かれた箇所だが、それぞれの背景には共通するところがある。まず、第一朗読の使徒言行録の箇所には「苦情が出た」とある。ルカはその出来事をていねいに記す。問題がどう解決されたかを中心に書くのだが、そもそも教会生活に問題があったことが窺われる。それは、信者同士の関係、ユダヤ人と異邦人の関係の問題で、その問題は司祭と助祭の役割が区別されることで解決されるが、そもそもいっしょに信仰生活を生きる上で問題があったのだ。そして、福音朗読のヨハネ福音書の箇所には、最後の晩餐の話の最初にある言葉が出て来る。イエスが、自分の道は十字架の道だと明らかにした時、弟子たちは不安に思い、「心を騒がせ」たのだ。「心を騒がせる」という動詞はあちこちで使われている。ヨハネ福音書では例えば、イエスがベタニアに来てラザロの墓に行く前に(11・33)、自分の死を思う時に(12・27)、ユダの裏切りを予告する時に(13・21)この動詞が使われている。つまり、それはイエスであれ、弟子たちであれ、信じる人の危機の状態を示す言葉だ。 
 そういう危機の時にどうすればいいか。それは私たちの問題でもある。 イエスは弟子に、落ち着かせ安心させる言葉を言う。「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と。イエスが弟子たちに教えたいのは、彼が死んで見えなくなっても、それは消えてしまったのではなく、新しい形で彼の教会の中にいるということ。イエスの不在はイエスの新しい現存だということ。 
 そこに一つの不思議な言葉がある。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。聖書学者が言うには、それは旧約聖書の偽典であるエノク書からとられたイメージで、神の家の中にいろいろな役割があるという意味。しかし、この言葉は、死後の生について語られているとよく理解される。もちろん、その意味もあるが、イエスは死んでからのことではなく、この世の生のことを話している。それがわかるのは、今日の箇所の後にある23節からである。「父とわたしとはその人[=わたしを愛する人]のところに行き、一緒に住む」。これは、あの世でではなく、この世で、父なる神とイエスがその人とともに住むという意味。これはイエスがもたらしたキリスト教の革命的な新しさだ。神の住まいはあの世ではなく、今ここに、問題のあるところにもある――たとえ今は見えなくても。ヨハネ福音書が言うには、十字架上にも復活があるのだ。つまり、イエスの神は、遠いところにいるのではなく、私たちから迎え入れられることを求める神だ。だから、私たちがさまざまな問題に遭い、苦しむその場に、イエスと一つになり神と一つになる可能性がある。 
 しかし、トマスが口をはさむ。彼はまだわかっていない。「どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。トマスはまだ物質的な道と思っている。それに対して、イエスは荘厳な答を返す。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで二つの点に注意すべきである。 
 第一に、現代の聖書学者はヘブライ語の表現の特徴から次のように解釈する。道であること、真理であること、命であることは別々のことではなく、全部つながっていて、本当の命への正しい道であるということだと。
 第二に、それ以前に注意すべきなのは、「わたしは…である(エゴ・エイミー)」という言葉。ヨハネがこの言葉を使う時は、ヤーウェのモーセへの啓示を思い出している(「わたしはある。わたしはあるという者だ」出エジプト3・14)。だから、この言葉によって、イエスが神であり主であることが表現されているのだ。

 「わたしは道である」という言葉でイエスが教えるのは、イエス自身が道であること。教会もこの言葉を思い出すことで、洗礼を受けたばかりの人たちと私たちに大切なことを伝える。イエス自身が道であり、キリスト者とはイエスと特別な関係をもつ人のことなのだ。イエスとのそのような関係、一致の関係がなければ、キリスト教に入れない。この神学的に深い言葉については、泉のように汲みつくせないほどたくさんの解釈があるが、カール・ラーナーはウィーンでキリスト教の根本についての講演の冒頭で、キリスト者であるとはキリストを抱きしめることだと言った。言い換えれば、イエスを知ること、イエスと同じ目でものを見、イエスと同じように生きるということだ。特にヨハネ福音書ではさまざまな箇所でこのテーマが表現されている。 

 「わたしは真理である」。一般に、知識のある人は傲慢になり、人に教えたり、人を裁いたりする。しかし、イエスと一つになる人は、その逆だ。 
 「わたしは命である」。イエスは十字架上から、神の息を私たちの中に吹き込み、私たちを新しく創造する。
 フィリポは言う、「御父をお示しください」。フィリポは、御父をまだ見ていないと思っている。そして、いつか見せてくださいと頼む。御父を見るのは未来のことだと思っているのだ。それに対するイエスの答えは驚かせる。「わたしを見た者は、父を見たのだ」。それは未来ではなく過去だ。あなたは御父をもう見たとイエスは言う。フィリポは何を見たか。ヨハネ福音書では、聖体の制定の代わりに洗足について書かれているが、イエスが弟子たちの足を洗った時、神が現れた。愛であり、奉仕する神の顔がそこに示されたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にあるように「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。今日ヨハネが言うのは、神は見えないが、キリストの顔の上に神が輝いている。これがキリスト教のユニークなところだ。 
 今日の第一朗読も福音朗読も、私たちのアクチュアルな問題に関わっている。文化の多様性と、それに由来する戦争や貧困、不平等。あるいは、病気や死、災いに対する不安。そういった問題に対して、今日の典礼はキリストとともに答える、キリストに目を開いて信頼しなさいと。祈りと黙想によって、秘跡によってイエスのように生き、キリストの香りをまとうのがキリスト教的生活だ。 
 最後にもう一つ、私たちにとって大きな慰めとなるすばらしい言葉がある。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。これは昇天を意味する。イエスはいなくなるのではなく主として父なる神の右に座るのだ。イエスは見えなくなってかえって、次々と新しい力と賜物を送り、教会をキリストの体として作り上げる。聖グレゴリウス教皇1世は「神の言葉は読めば読むほど大きくなるdivina eloquia cum legente crescunt」と言った。イエスが蒔いた種は教会によって世の中で大きくなる。教会の中にあるすべての愛、教会の中にあるすべての聖性こそ、世の中で大きくなるイエスだ。教会はただの団体ではなく、キリストの体なのだ。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

5月

02日

復活節第4主日

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10・3)

「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
 復活節第3主日までは復活したイエスの現れがテーマだったが、その後の復活節主日では、イエスがその新しい共同体の中でどのような役割を果たしているかがテーマ。それを理解するために教会は、イエスが使ったいくつかのイメージに注目する。
 復活節第4主日に使われるイメージは「羊飼い(牧者)」。このイメージは初代教会からキリスト者に親しまれ、カタコンベをはじめ数多くの絵画で表現されている。羊飼いのイメージと言うと、罪人に対するイエスのやさしさを示すルカの福音書が思い出されるが、ヨハネの言う「よい羊飼い」はやさしいだけではない。力があり、決断を下し、生活の基準になる指導者のイメージだ。ヨハネが羊飼いというイメージを使う時、ヨハネ当時の習慣だけではなく、旧約聖書に基づく理解が背景にある。旧約聖書では、羊飼いと羊の関係はヤーウェとその民の関係を示すためによく使われている。神の言葉を聞く預言者は荒れ野で水のあるところへ民を導く。ヨハネはこのような旧約聖書のイメージを使いながら、新しい民がキリストに導かれることを描きたいのだ。 
 ヨハネの言う「よい羊飼い」を理解するためには、いくつかの点が手がかりとなる。まず第一に、「盗人」「強盗」といった厳しい言葉がある。イエスはひどく怒っているようだ。ユダヤ人との争いなど、ヨハネが福音書を書いた当時の状況も背景にある。ユダヤ人たちは、民を神へと導くのではなく、自分の利益のために神を利用している、彼らは神のために働くのではなく、神を自分のために使っているとイエスは批判するのだ。
 第二に、「囲い」と訳されている言葉はギリシア語でアウレという言葉。この言葉は聖書では、羊の居場所を指すためにではなく、神殿の境内にあるいろいろな区画を指すために何百回も使われている言葉だ。そこに門番役がいたようだ。
 第三に、特に注意すべきなのは、今日の話が、生まれつきの盲人の癒しの後の話ということ(四旬節第4主日参照)。それはイエスの生涯で大切な出来事であり、イエスの受難の大きなきっかけとなる。ユダヤ人たちは、盲人の癒しに神の働きを見る代わりに、イエスを神から来た預言者と言った、癒された人を会堂から外に追い出した(ヨハネ9・30-34)。追い出されたその人は、「見失った羊」(ルカ15・4)のように思われるけれども、そうではない。イエスを信じる人、イエスに賭けてイエスに帰依する人は、神の本当の「囲い」に入るということ。その人は、キリストというただ一つの門を通り神の家に入るのだ。
 その囲いに入るということは、一つの掟から別の掟に移るということではなく、そもそも掟から解放されること。律法から解放されて、イエスに従う自由を得るのだ。ヨハネが言いたいのは、イエスを信じて、掟の外に追い出されても自由へ導かれるということ。神は自分の掟を人に押し付けることをしない。神が望むのは愛だから。神は無理矢理に罪人を滅ぼすことではなく、罪人が自由に自分に向かうことを望む。だから、宣教も、不幸で人を脅したり地獄を恐れさせたりして無理矢理に人を引っ張るのではなく、名誉教皇ベネディクト16世がよく言うように、愛の魅力と憧れを感じさせること。

 イエスの新しい共同体はそれまでのユダヤの共同体の延長ではない。つまり、律法の上に築かれる共同体ではない。イエスの新しさを中心にしてイエスを神の子と認め、イエスを旅の基準(「わたしは羊の門である」)として選ぶ新しい共同体だ。教会は、完全な人たち、罪がない、または罪がないと思っている人たち、そして他の人を軽蔑する人たち、自分のよい行いの報いを神に期待する人たちの集まりではなく、イエスを救い主として認め、その顔の上に父なる神の輝きを見た人たちの集まりなのだ。この共同体で大切なのは、自分の行いの完全さより、神から受けた永遠の赦しと神への愛だ。キリストの教会のなかでメンバーを繋ぐのはルールではなく、イエスを通して神から賜物として受けた神の愛。今日の福音書にはこういうテーマが種のようにたくさんばらまかれている。 

 もう一つの種は、呼ぶこと。当時の習慣では、夜、いくつもの群れの羊を一か所に集め、泥棒や動物から守るために岩で囲いをして、一か所だけを囲わずに残した。そこで一人の羊飼いが番をし、他の羊飼いたちは寝に行った。朝になると、他の羊飼いたちが戻ってきて、それぞれ自分の群れの羊に向かって決まった言葉を言う。すると、その羊飼いの群れの羊だけその羊飼いについていく。「自分の羊の名を呼んで」。羊飼いは羊を一頭ずつ呼ぶのだ。つまり、羊飼いと羊には、深い関係がある。ちょうどそのように私たちはみな一人一人個人的にイエスによって救いに呼ばれているとヨハネは言いたいのだ。そして、「連れ出す」。ユダヤ人たちは癒された盲人を会堂から外に追い出したが、その時と同じ言葉が使われている。しかし、イエスが外に出すのは、中に引き入れて奴隷にするのとは逆の意味でだ。イエスは自由を与えて外に出すのだ。教皇フランシスコも、キリスト者の場所は教会の中ではなく、教会の外、つまり世の中だと言う。パパ様は言う、外に出かけなさい、どんなことがあったとしても、と。 宣教は教会の本質の一部なのだ
 最後に、今日の「よい牧者の主日」に教会は特に、教会の中で司牧者の役割を果たしている人と、その召命のために祈る。音楽家が演奏中に音を外すことはありうるが、音楽を愛さないことは考えられない。教皇フランシスコがいつも「私は赦された罪人」と言うように、司祭も完全な人間ではないが、イエスを愛さない司祭はありえない。今日は特に司牧者とその召命のために祈りたい。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

4月

25日

復活節第3主日

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(ルカ24・30-31)。

レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
 復活節――教会はさまざまな朗読によって、ただ昔の出来事を知るだけではなく、復活して生きているイエスに出会うように私たちを導く。今日の福音朗読は、復活したイエスの非常に有名な物語。表現はドラマティックで、さまざまなテーマを含んでいる。それはルカが80年、90年頃、フィリピにいた頃に書いたものだ。フィリピの教会は、熱心なよい共同体だったが、彼らはイエスに会ったことがない信者、いわゆる第三世代の信者だった。そもそもルカ自身、使徒ではないし、生前のイエスを知らなかった。そのような信者がどうしたらイエスに出会えるか。ルカはそのような信者のために今日の物語を書いたのだ。 
 「ちょうどこの日」。今日は復活節第3日曜日だが、婦人たちが墓に行った最初の日の話に戻る。
 「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。二人は使徒ではなく、大勢の弟子のうちの二人だった。そして、二人のうち一人の名前は後で出て来るが、もう一人の名前は出て来ない。先週の「双子と呼ばれるトマス」を私たちの双子という意味で読むことができるのと同じように、もう一人の弟子は私たち自身と考えることができる。生前のイエスに会ったことがない私たちがどうしたら復活のイエスを経験できるか。 
 二人はエルサレムの共同体から離れるところだった。新共同訳では「暗い顔」となっているが、以前の訳では「悲しそうな顔」。「望みをかけて」いたイエスが殺されたことを悲しみ絶望していたのだ。希望していたことはすでに過去のことになった。「もう今日で三日目」。だが、何も起こらない。それで、二人は、「話し合い論じ合って」いた。「話し合う」とはギリシア語でホミレイン。つまりイエスの出来事を解釈すること、その意味を見い出すことだ。しかし、彼らは平和的に論じ合うだけではなく口喧嘩になっていた。イエスの言葉に出て来る「やり取り」のギリシア語原語はアンティバレインで、互いの意見を戦わせること――ちょうど今の私たちが教会の中でよく言い争うように。イエスがなぜ殺されたのか、誰のせいなのかーーそれは初代教会の信者たちの大きな問題だった。「行いにも言葉にも力のある預言者」だったイエスを「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった」とは初代教会でよく使われた表現で、今日の第一朗読にも同様の表現がある。 
 このように彼らにとってイエスの物語は失敗の物語でしかなかった。だから、イエスが近づいてもまだわからない。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。そして、イエスの言葉に驚く。「あなただけはご存じなかったのですか」。けれども、イエスが見ている物語はまったく違った物語なのだ。それは神の御旨、神の計画だ。二人が完全に見逃していたのは、彼らが目撃した出来事には別の意味があるということ。それで、二人は、女性たちに天使が「イエスは生きておられる」と言ったことさえ見逃してしまった。

 イエスの二人への関わりはすばらしい。イエスはまずはやさしい態度で、彼らの目から見た物語を語るように促す。「どんなことですか」。次に厳しい言葉で叱って、別の目で出来事を見るように回心を促す。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。続いて、イエスの物語、イエスの聖書研究、イエスのホミリアが始まる。それは教会のホミリア(説教)と重なる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスの見た神の計画とは、人間を救うために自分の子を送るということだった。 二人の弟子は、メシアがどういうものか理解していなかったが、イエスは神の計画を知った上で命を捧げたのだ。

 ルカが言いたいのは、イエスといっしょに聖書を読むことで、イエスの出来事の意味がわかるということ。逆にイエスの出来事から聖書の意味もはっきりするのだ。こうして聖書を読むことでイエスとその道を知ることができる。後で二人は言う、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。 神の言葉を知ることは喜びの源だ。それによって新しい命が始まる。
 二人がイエスに気づくのは、エマオでいっしょに食卓に着いたイエスがパンを裂いた時。それはミサの動作であり、ミサの根本だ。ミサには挨拶や聖歌などいろいろな要素があるが、ミサはただの儀式ではなく、パンを裂いて渡すのがミサの根本だ。それはキリストの命に養われキリストと一つになるということで、他のいろいろな要素は飾りにすぎない。そしてミサの基準となるのが、復活の日、主の日である日曜日のミサだ。日曜日に神の言葉と「心を燃え」立たせる解釈を聞く(ミサの前半)と、「目が開け」てパンを裂いて渡すイエスに気づく(ミサの後半)。イエスは目には見えないが、ミサで、聖体の形でイエスに出会うことができるとルカは第三世代の信者たちに伝えたかったのだ。 
 すると、イエスは見えなくなってしまう。もうその必要がないから。二人は夕方で疲れていたはずなのに、60スタディオン(約10キロ)の道を引き返してエルサレムに戻り、共同体に合流する。「本当に主は復活して、シモンに現れた」。弟子たちは復活の経験でいっしょになったのだ。 
 復活のイエスが弟子たちに声をかけるのは神殿でではなく、生活の場でだ。庭で(マグダラのマリア)、疑いの時に(トマス)、旅の途上で(エマオの二人の弟子)、イエスは声をかける。日常生活の中でキリストに出会うように福音書は、そして教会は私たちを導く。今の教会にもいろいろな問題があるから、私たちは教会に疲れたり失望したりすることがある。けれども、ミサの言葉と聖体を本当に大切にするなら、キリストに出会えるとルカは言う。日曜日のミサは私たちの信仰の基本だ。第二バチカン公会議の『典礼憲章』にあるように、ミサは「キリスト教生活全体の泉であり頂点」なのだ。今日の日曜日の機会に、私たちの共同体のミサの中でキリストに出会うことを大切にしたい。加えて、神の言葉を解釈する使徒職を授かった人たちのためにも祈りたい。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

4月

18日

復活節第2主日

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。

ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
 復活節第二主日は、第一・第二朗読の箇所は年によって変わるが、福音朗読の箇所は毎年同じ。ヨハネ福音書から、復活のイエスが弟子たちに現れる箇所が読まれる(去年の黙想のページはこちら)。ただし、「現れる」という言葉はこの箇所には出て来ていない。使われるのは「立つ」と言う言葉(「イエスが来て真ん中に立ち」)。「現れる」という言葉はヴィジョンを連想させ、実際福音書には復活したイエスの体の特徴がいろいろと記されているが、福音書記者が伝えたいのはヴィジョンではなくリアルな現存だ。それに対して、「立つ」とは生きた者として、死に対する勝利者として教会の中に現存するということ。 
 人間の常識で言うと、他の人の態度に傷つけられたら、仕返しするところだ。そのチャンスを掴んで人を苦しめるために使う。みんなの前でその人の罪を暴露し叱って恥をかかせたり、仲間外れにしたりする。それに対して、イエスがトマスに限らず弟子たちのところに来る時は、そういう気持ちが一切なく、愛と赦しと癒しだけがある――そもそも十字架上でそうだったように。これは非常に感動させるところだ。イエスは自分の体面ではなく、弟子たちのことを心配して、彼らに会いに行く。彼らは恐くて隠れているが、イエスは探しに行くのだ。イエスは神として復活したから。神は罪人を見捨てることをせず、麻痺状態のままに残さず、希望を消さず、自分の家(教会共同体)から追い出すことをしない。神は、人が立ち直るために導き助けるのだ。 
 復活を語る時、二つの言葉がよく出て来る。「目覚める」と「起き上がる(立ち上がる)」。この二つの言葉は私たちの日常生活からとられた言葉で、私たちの朝の行動にあてはまる。私たちは朝になると目が覚める。弟子たちは目覚めて、イエスに気づいた。また私たちは朝ベッドから起き上がる。イエスは御父によって死から起き上がらされた。 
 イエスが来たとき、弟子たちは喜んだが、喜びはヨハネ福音書を貫く大きなテーマだ。第二朗読のペトロの第一の手紙にも喜びのテーマが出て来る。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

 トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。 

 そして、トマスの場合も他の弟子たちの場合と同じだ。イエスの目は私たちの罪の先を見る。神は私たちがどんな罪をおかしたかよりも、私たちがこれからどんな聖人になるかに関心がある。イエスはマグダラのマリアについて「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7・47)と言った。神が何もできないのは生ぬるさに対してだ。聖アウグスティヌスも「異端者になるのは偉大な人だけだ」(『詩編註解』第124章第5節)と言う。平凡な罪しか犯さない人は平凡な人にしかならない。逆に、大きな罪人は大きな聖人になる可能性がある。トマスは他の弟子と同じようにイエスを見捨てたが、彼の中にはイエスに対しての愛が燃えていた。彼は復活したイエスの前で、ヨハネ福音書で一番すばらしい信仰と愛の告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスについては何も知られていないが、言い伝えによると、シリア、ペルシアなどローマ帝国の外にまで出て、インドにまで行って宣教したと言う。インドの教会は使徒トマスに遡るのだ。 
 私たちもイエスへの愛を表現するにはトマスの言葉を使うしかない――ミサの聖変化の時、また聖体の前で「わたしの主、わたしの神よ」。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

4月

12日

復活の主日

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(ヨハネ20・16)

ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)
ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)

2020年

4月

05日

受難の主日(枝の主日)

彼らはイエスを十字架につけた…(マタイ27・35)

十字架につけられたイエス、

私はいつもあなたを運び、

すべてにまさってあなたを愛します。

あなたは私が倒れるときは助け起こし、

泣くときは慰め、

悩むときは癒し、

呼ぶときは答えてくださいます。

あなたは私を照らす光、

私を暖める太陽、

私を養う食べ物、

私をうるおす泉、

私を酔わせるやさしさ、

私に力を与える薬、

私を驚かせる美しさ。

十字架につけられたイエス、

生きているあいだは私を守り、

死を迎えるときは私を慰め支え、

最後の時には私の心の上で安らいでください。

アーメン。

(中世フランスの祈り)

 


2017年の記事の再掲載。

2020年

3月

29日

四旬節第5主日

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。

セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
 私たちはみなそれぞれの形で死を経験している。家族の誰かが病気などで亡くなることがある。マスコミの報道では毎日、戦争や事故や犯罪でたくさんの人が殺されている。胎児も毎日たくさん堕胎で殺されている。私たちは死に囲まれて生きている。けれども、私たちは死を忘れるために、いろいろなことをする。葬儀屋は儀式やきれいな言葉で飾り立てる。だから、四旬節最後の日曜日である今日の福音書の箇所は、死と命について考える大切なきっかけになる。 
 ラザロの死と呼ばれる今日の箇所。ラザロが仮死状態にあったのか、本当に死んでいたのか、聖書学者はいろいろな言葉に注意しながら解釈する。復活はキリストの復活について使われる言葉だから、ラザロについては蘇生という別の言葉も使われる。 
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」。ベタニアは、エルサレムの近く、2、3キロ離れた場所。ルカ福音書によると、マルタは強く元気な女性で、マリアは静かな女性。ラザロはその名前以外は、マルタとマリアの兄弟としてのみ知られている。マルタとマリアの方がラザロより知られていたようだ。 
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。三人はイエスと特別な関係にあった。この家族との友情は暖かみを感じさせる。 
 「なお二日間同じ所に滞在された」。ラザロの病気を聞いてもイエスがすぐに出発しなかったのは、イエスにとってこの出来事がただの出来事ではなく、神の御旨が示される大きなきっかけであったから。 
 「イエスは…心に憤りを覚え、興奮して…涙を流された」。これから何が起こるかを知っていたはずのイエスが涙を流したのは、死の深みがよく知っているから。しかも、マルタとマリア、ラザロをかわいそうに思って涙を流しただけではなく、二度も「憤り」を覚えた。ギリシア語では普通に使われない特別な言葉が使われている。神の子としてイエスは、死に対して怒っているのだ。これは大切なことだ。なぜなら、ふつう私たちは死に慣れようとするからだ。宗教でさえ、死はいのちの一部で当たり前のことだと考えようとする。しかし、イエスの父である神にとってはそうではない。イエスの神は死の神ではなく、いのちの神であり、人間を造ったのも、人間が生きるために作ったのだから、私たちが生きることを望むのだ。神自身がいのちの神だから、死に対して怒るのだ。また、エピクロス派やストア派では、禍に対しても動じない心の落ち着き(アタラクシア)が重んじられる。それに対して、ヨハネによる福音書にはまったく逆の言葉がある。ギリシア語でタラクセインは、心の底から動きを感じること。イエスは、心の底から悲しみを感じて、涙を流したのだ。

 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。ほかの人たちは、マリアとマルタを慰めるために彼女たちの家に入るが、イエスは家に入らず、直接墓に向かい、死という敵と戦う。

 「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」。「叫ぶ(クラゼイン)」という言葉は福音書の他の箇所にも出て来る。そのうちの一つは聖金曜日に朗読される受難物語で、イエスが裁判にかけられた時、ピラトが「見よ、この男だ」と言うとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。しかし、今日の箇所でイエスはまったく反対で、墓の中から出て来るように私たちに叫ぶ。人間は死を命じるが、神はいのちを命じるのだ。同様に、イエスが十字架上で息を引き取るときの叫びも、神のいのちである聖霊を送ることにほかならず、創造しいのちを新しくする神のわざである。そして、「墓」とは死んでから入る墓だけではない。私たちは生きているうちも、墓の中にいる。それは私たちの過去である。私たちの生活には、解決していない問題や、長い間人に対してもっている偏見、十分に告解しなかった罪、直していない癖など、要らないものや邪魔なものがいろいろある。それが私たちの墓だ。その墓の前に立ってイエスは、出て来なさいと言うのだ。 

 「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた」。衣笠墓地に葬られたあるアメリカ人司祭の墓碑銘には、イエスのこの言葉(Unbound him and let him go)が刻まれている。私たちはみないろいろな形でぐるぐる巻きにされている。偏見をもったり、嫉妬や恨みや憎しみを抱いたりして、人を自由に愛することができない。しかし、イエスは私たちを自由にするとヨハネは今日力強いしるしで私たちに示す。これは求道者への大きなメッセージだ。これまでの生活がどうであったとしても、あなたはこれから洗礼を受けることで新しく生まれ変わることができる。今まさに桜が開花しようとしているが、まさにそのようにキリストの力で新しく生まれ変わることができる。 
 マルタはラザロの姉妹であったのに「もうにおいます」と言った。家族の誰かが死んだら、私たちは最初は悲しみに襲われたとしても、次第に慣れてあきらめ忘れてしまう。「におい」とは、人が怖くなったり恨んだりするときに私たちが感じるもののこと。そんなとき、キリストが私たちを救い出してくれる。今日の福音書の後には、ベタニアのマリアが香油をイエスの足に塗ると、家はその香りでいっぱいになったと書いてある。それはキリストの香りだ。堅信の油の香りもキリストを思い出させる。私たちはキリストを知ることによって、新しく造られ、新しい香りを身にまとうのだ。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

3月

22日

四旬節第4主日

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。

オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
 ヨハネ福音書第9章は、生まれつきの盲人のいやしの物語。しかし、ヨハネは奇跡の具体的な出来事を報告するより、イエスを知り認めるプロセスを示す。この長い物語は、ある聖書学者によれば、三つの部分に分けることができる。 
1.イエスの癒し 
 第7章で仮庵祭の機会にエルサレムに上ったイエスは、第8章の終わりで、ユダヤ人から石を投げられて、神殿を出る。その時、イエスは、生まれつきの盲人に会う。すると、弟子たちは、その人の盲目が彼自身のせいか、彼の両親のせいか、という宗教的な議論を起こす。当時は、病気、特に盲目は、罪に対する罰と理解されていたからだ。このように目の前にいる人を忘れて、その人が抱えている問題を議論の材料にしてしまうのは、ファリサイ派のように制度化した宗教によくあることで、イエスの弟子もそうだった。しかし、イエスはちがう。彼は他の人が見ないことを見る。ヨハネ福音書では、イエスのまなざしはまず、たとえ罪人であっても、その人の罪ではなく、その人の苦しみに向かう。彼は審判するのではなく憐れみに駆られる。イエスは、人間の苦しみに納得しない神の顔だ。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。少し驚かせられる行動だが、当時は、唾には特別な治癒力があると考えられていた。つまり、唾は息と同じように、創造し新しくする神の力の象徴なのだ。だから、唾と土を混ぜて目に塗ることはアダムの創造を思い出させる。また、母親が子どもの傷を舐めるように、ぬくもりのある動作だ。 
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」。シロアムとはメシアと音も似ている。つまり、メシアのところに行きなさいということ。ここでは、洗礼による洗いが示唆されている。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。この物語は、初代教会の時代、洗礼志願者のために使われた箇所だ。 
2.ファリサイ派の尋問 
 「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」。キリストに出会って洗礼を受けた人は、外面的には他の人と同じ生活を送っても、別人になっている。これまでは座って物乞いをし人に頼る生活を送っていたが、今は目が開かれ杖なしに立って元気に生きている。それがイエスに会った人の姿だ。「わたしがそうなのです」。これは、神の自己啓示の言葉「エゴ・エイミー」。つまり、ヨハネが言いたいのは、キリストに出会った人は癒され照らされて、ある意味で神の子として新しく生まれたということ(ヨハネ1・12参照)。
  

 盲人の目が見えるようになったら、本来ならだれもが神のわざに驚き喜ぶはずだが、この物語では代わりに議論が起こり、両親でさえ喜びより恐れにとらわれている。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。ユダヤ人たちにとっては、唯一の基準は憐れみではなく、掟だ。だから、掟を守らないイエスが神であることを否定し、イエスを罪人とさえ決めつける。つまり、宗教的な規則によって、神を否定するのだ。ユダヤ人たちは何かいいか悪いかを決める権利が自分たちにあると思っている。だから、自分の考え方を事実によって変えずに、イエスを罪人と決めつけ、何が起こったかを聞こうともしない。彼らにとっては、実際に起こったことより、自分の考え方が大切なのだ。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この返事にはユーモアさえ感じられる。しかし、ユダヤ人たちは、いやされた人を侮辱し、外に追い出す。

3.イエスといやされた人の出会い 
 最後の部分は、イエスとの親しさが表現されているとても美しい場面。洗礼を受けた人はみな、たとえ短くてもこのような親しさの喜びを経験したはずだ。ヨハネは簡潔な言葉で表現するが、そこには深い世界が現れている。 
 「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった」。イエスは自分の弟子の苦しみをいつも知っているのだ。その人は、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けてからも、みんなから見捨てられ、苦しみがある。しかし、イエスがその苦しみを知っていることは慰めだ。例えば、長崎の殉教者聖マグダレナが穴吊りの拷問を受けた時、毎朝、手のようなものが顔を撫でて痛みがなくなったという伝説がある。キリスト者の道はイエスの道と同じように苦しみの道であると同時に、イエスとの親しさから慰めが来る。 
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。イエスが言うのは、あなたをいやした人が今あなたの前にいるということ。マタイ福音書の最後にあるイエスの約束も思い出される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。 
 私たちの教会の求道者も今日で求道生活を終え、キリストに出会い「照らされた者」となる。これからはイエスが神について、自分自身について、生活について指導者になるのだ。洗礼の準備をする彼らのために、キリストの光に照らされその愛の深みを経験することができるように祈りたい。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

3月

15日

四旬節第3主日

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。(ヨハネ4・26)。

アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
 四旬節第3主日に読まれるのはイエスとサマリアの女の有名な物語。信者に好まれ、美術にもたくさんの作品がある。マルコ福音書では「サマリア」という言葉は一度も使われず、マタイ福音書でも一度出て来るだけ、ルカ福音書にはサマリア人について二つのエピソードがあるがこの物語は出て来ない。それに対して、ヨハネはこの物語について詳しく語っている。ただし、聖書学者が言うには不自然な点がいろいろあり、実際の出来事の報告というより、神学的なメッセージと理解した方がいい。この物語は、洗礼の準備をする求道者、そして自分が受けた洗礼を思い出しながら求道者といっしょに復活祭に向かって歩む信者への教会からの大きな賜物だ。 
 「そこにはヤコブの井戸があった」。ヤコブの井戸(泉)は数十メートルもある深い井戸。現在もあるが、当時でも掘られてから1000年経っていた。井戸は当時、羊飼いが水を飲ませるために羊の群れを連れて行ったり、女性が水がめをもって水を汲みに行ったり、商人がものを売るために集まる場所だった。さらに、旧約聖書では男女が出会う場所。三つの例を挙げると、アブラハムの僕はイサクの嫁となるリベカを井戸で見つけ、ヤコブは井戸でラケルに会い、モーセは井戸でツィポラに出会い結婚する。だから、ヨハネがこの物語で語りたいのは、花婿であるイエスと花嫁である人間との出会いの物語なのだ。 そのことはすでに、カナの婚礼(2・1-12)や洗礼者ヨハネの言葉(3・29)で示唆されている。
 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」。福音書で、イエスが疲れているのはこの箇所でだけ。ヨハネがここで示したいのは、人間を探して長い旅をして疲れた神の姿だ。預言者ホセアは姦通した妻ゴメラを買い取ることで、イスラエル(女性名詞)が他の神々を崇めてもイスラエルを愛し続ける神の愛を預言した。神は花婿が花嫁を探すように、離れて行った人間を探すのだ。グレゴリア聖歌(死者のためのミサの続唱)でも、「あなたは私を探し疲れて座っておられ、十字架につけられ私たちを救ってくださったQuaerens me, sedisti lassus: redemisti crucem passus」と歌われる。人間が神なしに自分の力でうまく生きていけると思ったとしても、神は人間なしではいられず人間を探し求める。人間を必要として愛に悩む神――ここでヨハネは、神についての革命的なイメージを示している。そしてこの箇所を読むことで教会が求道者に言いたいのは、神はずっと昔から、あなたが生まれる前からあなたを探してきたということ。
  

  「正午ごろのことである」。暑いイスラエルでは水を汲みに行くのは朝か晩。真昼には誰も水を汲みに行かない。ここでヨハネが考えているのはイエスが判決を下されるピラトの裁判。「正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」」(19・14)。つまり、ヨハネがここで言いたいのは、イエスがメシアだということ。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。 

 「サマリアの女が水をくみに来た」。この女の名前は書かれていない。サマリア人とは、アッシリアからの移民と民族的にも宗教的にも混ざり、偶像崇拝に陥った人たちのこと。彼女の「五人の夫」とは、聖書学者によると、サマリア地方の5つの山のことで、それぞれの山でそれぞれの神が礼拝されていた。 
 「イエスは、『水を飲ませてください』と言われた」。「水」は婚礼の完全な愛のシンボル。イエスが十字架上で「渇く」(19・28)と言ったように、神は人間の愛に渇き、人間の愛を求める。 
 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。サマリアの女とイエスの会話はかみ合わない。イエスとしては神が偶像崇拝に陥ったイスラエルを愛して探し求めることを話しているのに、彼女は自分の力で自分の幸せを得ることを考えているのだ。 
 「もしあなたが、神の賜物を知っており」。キリストは人間が自分の力で探して見つけるものではなく、賜物だ。すべてがそこから始まる。 
 「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。最終的に、人間も渇いている。たとえ気がついていなくても。その渇きを癒すことができるのは神だけだ。 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。権力にしても富にしても名誉にしても、人間が自分の力で探し求めたものは必ず不満で終わる。何かが足りないと感じる。それは私たちも経験することだ。それに対して、命にしても愛にしても生きる意味にしても、善いものはすべて神の賜物だ。だから、神は偉大な与え主だ。 
 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」。イエスに出会ったら、もう他の水は要らない。イエスの美しさに打たれ、イエスに出会った喜びに満たされて、イエスにすべてを委ね、宣教師になるのだ。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

3月

08日

四旬節第2主日

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)。

 四旬節第2主日は大切な主日。テーマは変容だ。変容とは姿が変わること。イエスは弟子たちのため、そして私たちのために、目に見える姿の背後に彼の本当の姿を現す。  
 「[その時]」。実はマタイ福音書には「6日の後」と書いてある。6日前には、ペトロがイエスの質問に「あなたはメシア」と答えた後、イエスははじめて死と復活を予告し、それをいさめたぺトロに「サタン、引き下がれ」と言った。6日とはまた、創造の6日間、そしてシナイ山でモーセに神が現れるまでの6日間を思い出させる。
 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」。ペトロは実名はシモンだが、イエスにペトロと呼ばれていた。ペトロとは岩という意味。彼はがんこな人間だった。ヤコブとヨハネの兄弟も罪人を滅ぼそうとするなど、暴力的なところがあり、イエスから雷の子と呼ばれていた。弟子にあだ名をつけるとはイエスのユーモアも感じられる。イエスは特にこの3人を育てようとしており、十字架にかけられる直前にゲツセマネにもこの3人を連れて行くが、その時でさえイエスが望んでいることをわかっていない3人は寝てしまう。
 「高い山に登られた」。マタイ福音書には4つの山が出て来るが、その一つで、イエスが十字架につけられた山をも連想させる。
 「顔は太陽のように輝き」。モーセはシナイ山の上で雷の中十戒を受けたが、一週間のあいだ神の前にいたために、顔が輝いていて、人々は眩しくて見つめることができなかった。だから、モーセは顔を覆いで隠して、人々に接触した。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが新しいモーセであること。旧約時代はモーセが神から掟を受けたが、今の時代はモーセの掟ではなくキリストの言葉が中心となるということ。
 「服は光のように白くなった」。白は神のこと。つまり、イエスは本当の神の子であることを意味している。
 「お望みでしたら、ここに仮小屋を三つ建てましょう」。ユダヤ教の三大祭の一つに仮庵(仮小屋)祭がある。こんにちでも行われる祭で、ユダヤ人たちは8月か9月に家の外に小屋を建てて、1週間その中で生活する。それはイスラエルがエジプトから解放された出来事の記念であり、メシアを待つ祭でもある。だから、ペトロは仮庵祭を思い出して、メシアが現れることを考えたのだろう。しかし、ペトロは、イエスがどのようなメシアなのかがまだわかっていない(ルカ9・33「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」参照)。ぺトロはまだ、イエスを誘惑したサタンのような考え方をしている。まだ強いメシアを待っている。しかし、イエスは、罪人を滅ぼし力をもってイスラエルを救うメシアではなく、十字架のために来たメシアだ。彼が行くのは特別な道だ。罪人を滅ぼすのではなく、罪人が救われ生きるように人の罪を背負って十字架につけられるという道だ。

  「声が雲の中から聞こえた」。声とは父なる神の声。その声はイエスの洗礼の時にも聞こえたが、今日は荘厳な形で聞こえる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「愛する子」とは、かわいい子という意味ではない。「愛する者」とはヘブライ語では雅歌にも出てくる「ドッティ」で、全財産の相続人を意味する。だから、神が言うのは、神が人間に対してどう思うか、どうしたいかをイエスがいちばんよくわかっているということ。だから、イエスがメシアであること、イエスの道が神が望む道であることを神ご自身が示したのだ。 

  「手を触れて」。イエスは病を癒す時に相手に触れることが福音書にしばしば書かれているが、ここでも同じ言葉が使われている。

 「顔を上げて」。これは詩篇など聖書の多くの箇所に出て来る大切な動作だ。

 「イエスのほかにはだれもいなかった」。モーセもエリヤも消えて、イエスだけがメシアとして残る。マタイはイエスだけがメシアだと宣言するのだ。

 「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。この言葉は、マタイ福音書記者の特徴であり、マルコ福音書でも強く出て来る有名な言葉。この出来事を隠さなければならないのはなぜか。この出来事はすばらしい経験であったとしても、まだ最後の出来事ではない。イエスの輝きは十字架上ではじめて明らかになるからだ。十字架につけられて死ぬ時、人間の目で見れば失敗で終わる時に却って、神によってイエスの勝利が、イエスの栄光が示されるのだ。イエスが本当にわかるのはその時だ。
 今日、教会は求道者に、そして私たちに何を言いたいか。求道者は教会に導かれ、司祭に出会い、キリストの言葉を聞いた。それは喜びにちがいない。けれども、もっと大切なことがある。それは十字架だ。イエスはすでに山上の説教の最後で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言った。苦しい時、見捨てられる時、迫害される時、幸いなのは、神がそばにいるから。私たち一人一人の生活には、病気、失敗、人間関係の悩み、経済的な困窮など困難な時がある。けれども、私たちがその時キリストとともに生き、キリストの十字架を思い出すなら、私たちは幸いである。それを忘れてはいけないと教会は求道者に言いたいのだ。神が人を救うための道具は、権力やお金や名誉ではない。神は暴力や強い言葉を用いず、十字架上で死ぬその弱さで人を納得させる。私たちも同じ生活をするように勧められている。 

2017年の黙想の再掲載。

2020年

3月

01日

四旬節第1主日

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4・10)。

フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
 復活祭の準備をする四旬節は、一年の典礼で大切な時期。特に求道者にとっては、洗礼を受けキリストに出会う最後の準備の段階であり、信者も求道者といっしょにその旅を歩み、自分の洗礼の霊性を深める。主日毎の典礼では、救いが中心的なテーマとなる。救われるために、どう生きるべきか。教会は言う、イエスを見なさい、彼こそ救い主である、と。特にA年である今年には明確な見取り図がある。第1主日(荒れ野の誘惑)のテーマは、悪の誘惑から私たちを救うキリスト。第2主日(変容)は、救い主として私たちに送られたキリスト。第3主日(サマリアの女)は、生きた水を与えるキリスト。第4主日(生まれつきの盲人)は、暗闇に対する光であるキリスト。第5主日(ラザロの蘇生)は、死に対する命であるキリスト。私たちは主日毎に自分の心の中にこのようなテーマを種として蒔いて、1週間のあいだに成長させなければならない。 
 今日の第1主日では、神の世界が荘厳な形で開かれ、私たちはキリストに出会う。荒れ野の誘惑については、マルコは短く報告しているだけだが、マタイとルカは一つの不思議な出来事を私たちに伝える。 
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。「荒れ野」は、ユダヤ人にとっては根本的な体験の場所。彼らはエジプトを脱出してから、荒れ野を40年間さまよった。荒れ野は、まむしに象徴されるように困難に遭い誘惑を受ける場所であると同時に、モーセがシナイ山で十戒を授かったように神が自らを啓示する場所だ。ユダヤ人たちが罪を犯すといつも、ホセアやエレミアのような預言者が荒れ野に戻るように勧める。旧約聖書では、回心とは、荒れ野の根本的な体験に戻ることなのだ。荒れ野はまた、希望と再生、神の栄光の場所でもある。荒れ野で植物が茂り、花が咲く。岩から水があふれ、特別な食べ物が授けられる。荒れ野の中に道ができる。旧約聖書はこういったイメージにあふれている。福音書でも、荒れ野は大切な場所。神が何百年も沈黙し言葉を発しなかった時に、声を上げ人々に洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。そして、罪がないのに私たちの罪を負って罪人として洗礼を受けたイエス。
 今日の荒れ野の物語には、二人の人物が登場する。一人は悪魔。悪魔とは、ヘブライ語でサタン、ギリシア語でディアボロス。サタンとは文字通りには、嘘つきを意味する。人間を裏切り、たぶらかし、誘惑し、滅ぼそうとするのが悪魔だ。悪魔は、神を拒否する悪のシンボルで、私たちの中に働いて、憎しみと死の種を蒔く。今日の箇所にあるように、聖書を知りながらも、神の言葉をゆがめるのが悪魔だ。悪魔は荒れ野に住んでいる。 
 もう一人の登場人物はイエス。その誕生と洗礼については福音書ですでに伝えられている。清らかで罪がなく悪に強い英雄だ。イエスは今日、悪の国である荒れ野に入って、私たちを救うため悪との戦いを始める。戦いとは、ギリシア語でアゴニア。その戦いが終わるのは十字架上だ。神の子であり、肉によれば私たちの兄弟であるイエスは、イスラエルの民と私たちの罪を負わされて誘惑を受ける40日間の戦いを始め、昼も夜も戦う。
 マタイが記す三つの誘惑は、イスラエルの民が荒れ野で負けて罪を犯した誘惑だ。それは私たちにとっての誘惑でもある。つまり、イエスは、私たちの敗北を受けて、私たちの味方として戦うのだ。 
1.「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。モーセに導かれて、エジプトを脱出したものの、荒れ野では食べ物がなく、エジプトの玉ねぎが恋しくなったイスラエルの民。空腹のせいで不安に思い苦しみを恐れて元に戻ろうとしたのは、モーセが伝える神の言葉を信頼しないという罪だ。それに対して、イエスは誘惑に勝つ。本当のパンは神の言葉だけ、人間を導くのは神の言葉だけだと。神の言葉とはイエス自身のこと。イエスは神の御心を行うために来たのだから(ヨハネ6・38など)。

2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。 

3.「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないために、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民。バアルを崇めるのは偶像崇拝という最大の罪だ。要するに、イスラエルの民は、ヤーウェの神を信じようとしていたものの、それは完全な信仰ではなく、半分は信じても半分は別のものを信じていたのだ。それに対して、イエスはモーセの言葉を使って、神だけを拝むべきだと言う。受難の予告を聞いたペトロが「そんなことはあってはなりません」と言った時も、イエスは「サタン、引き下がれ」と言って、権力の道ではなく十字架の道を選んだ。そして、十字架上で苦しみ、神から見捨てられたと思われる誘惑を受けた時も、神にゆだねて死んだのがイエスだ。 
 イスラエルの民が誘惑に負けて罪を犯すところ、そして私たちも誘惑に負けて罪を犯すところに、イエスは誘惑に打ち勝って勝利の叫びをあげる。「退け、サタン」。その叫びは、十字架上で息を引きとった時の叫び、私たちを悪から解放した勝利の叫びでもある。 
 「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。天使が来るとは、神のあらゆる力が人間を新しく生まれ変わらせるために働き始めるということ。 
 荒れ野の誘惑についての今日の箇所は、復活祭に洗礼を受ける求道者への大きなメッセージだ。教会が今日の箇所で言いたいのは、キリストを見なさい、あなたたちにはいろいろな弱さや困難があるかもしれないが、キリストはあなたたちの悪よりも強い、ということ。洗礼式にも悪霊の拒否と呼ばれる式がある。キリストの勝利の叫びは、洗礼の時にも響いているのだ。 
 だから、四旬節は悲しみの時期ではない。罪の痛悔はあるが、癒しの時期で、新しい命が始まる可能性があるのだ。では、求道者はどうすればいいのか。そしてイエスを救い主と信じて洗礼を受けた信者はどうすればいいのか。 
 教会は伝統的に一つの言葉を大切にしている。それは、洗礼式の最初に使われる言葉で、ラテン語でコンペテンテースと言う。こんにちでは「物知り」という意味だが、もともとは「いっしょに戦う人たち」を意味する。つまり、私たちはキリストとともに戦うのだ。キリストの肩の上に乗って、キリストの背後から、キリストの敵と戦うのだ。キリストが勝利者であると信じて、キリストの戦い方に倣って戦うのだ。それが四旬節の具体的な行いになる。戦うための武器は、イエスが私たちに教える祈り。静かに神の言葉を聞き、信頼して祈ること。それから、回心。ザアカイのように、イエスを迎えイエスとともにいる喜び、癒された感謝など。そして、人に分かち合うこと。義務的にではなく、癒されたから人と分かち合う、与えられたから人に与えるということ。 
 主の祈りの最後は「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と祈る。その祈りは今日実現される。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

2月

23日

年間第7主日

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5・45)

ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
 今日の箇所は、山上の説教の5つの話題のうち「反対命題」と呼ばれる箇所の続き。「右の頬を…」など6つの具体的なアドヴァイスが出て来る。そのどれにもあてはまるのが、真福八端の第二の柔和さ。柔和と訳される原語のヘブライ語アーナーウには聖書では深い意味がある。それは、真福八端の第一の心の貧しさ、つまりアナウィンと同じように、怒らずに神に信頼して忍耐し人に善意を示すことを意味する。 
 「目には目を、歯には歯を」。この言葉はこんにちでは復讐の容認として理解されるが、もともとはハンムラビ法典にあるこの掟は際限のない報復に限度を定めるものだった。しかし、イエスは、受けた暴力に見合う報復にも反対する。 
 「悪人に手向かってはならない」。イエスが言うのは、ただ無抵抗ということではなく、無償な愛の世界に入るべきということ。 
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。たとえ身体的暴力を受けたとしても、暴力で返すのはいけない。暴力に対して厳しい態度をとらなければならないことがあるとしても、復讐してはいけない。復讐は憎しみから生まれるが、憎しみを捨てなければならない。日本のキリシタンたちも、イエスにならって、迫害する人たちを赦しながら殉教するように教育されていた。 
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。上着とは、ヨーロッパでは最近まで使われたマントのこと。イエスの当時、マントは貧しい人にとっては寝る時にかぶる毛布でもあった。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。当時、イスラエルを占領していたローマ人は労働を人々に強要していた。イエスの十字架を運んだキレネのシモンもそうだった。「求める者には与えなさい」。服でも労働でも、人に与える時には、惜しみなく与えるべきだ。
 「隣人を愛し、敵を憎め」。聖書学者によると、この言葉どおりの言葉は旧約聖書にない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これは、私たちの毎日の問題でもある。そして、イエスが言うように、自分を攻撃したり、苦しめたりする人を愛するなど到底できないように思える。しかし、大切なのは、イエスが感情的な愛で愛するように言っていないこと。イエスが言うのは、その人のために祈るということ。祈りとは、神に向かうことで、相手を見直すプロセス。遠くから敵に見えた相手も、近づくと人間に見え、もっと近づくと兄弟であることがわかる。祈りの中で、私を苦しめているこの人も、私と同じように神の赦しと癒しを必要としていることに気づく。私が罪人の時に神から愛されたように、この人も神から愛されているのだ。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。私たちは、相手に親切にするとき、相手からも親切にされたいと自然に思う。私たちの心の中にある互恵主義の考え方(「自分を愛してくれる人を愛する」「自分の兄弟にだけ挨拶する」)は人間の常であり、悪いことでもない。ところが、私たちはこのような考え方を自然に神との関係にも当てはめて、悪いことをしたら神から罰せられ、よいことをしたら神から報われると考える。それは、神についての商売的なイメージだ。しかし、イエスはこのような神のイメージに反対する。彼がその言葉と生と死によって宣言する神は、無償で私たちを愛する神だ。神が私たちを愛するのは、私たちから何かをもらったからではなく、神だから、愛そのものだからなのだ。神が私たちを愛するのは、私たちがよい行いをしたからではなくて、たとえ私たちが悪いことをするときも私たちを愛し続ける。イエスの弟子は、このような無償の愛の世界に入るように勧められている。 

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。これは注意しなければならない。私たちが神のように完全であることはもちろん不可能だ。けれども、私たちも私たちなりの仕方で神の無償の愛を実践し、その意味で完全でなければならない。このことをパウロもローマの信徒への手紙で見事な表現で言い換えている、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12・17-21)。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

2月

15日

年間第6主日

あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5・20)

ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
 先週に続き、今日の箇所も山上の説教の一部。かなり長く、さまざまなテーマを含んでいる。その一つ一つを説明すると長くなるから、いくつかの点についてだけ簡単に説明したい。 
 マタイが話している相手は、他の福音書記者とは違い、ユダヤ教徒からキリスト者になった人たち。彼らはある特殊な問題を抱えていた。モーセの掟とイエスの教えの関係をどう考えたらいいかという問題だ。それは、キリストに出会ってから旧約聖書を知ったこんにちの私たちには無縁の問題だ。けれども、その問題に答える今日の箇所にも、よく読めば、私たちにとっても大切なものが含まれている。 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。つまり、これまでの掟の理解は不完全だったということ。ファリサイ派のいろいろな人がそうであるように、掟の文字を守っても、掟の心を忘れてしまったから。それに対して、イエスの弟子は、掟を行なうために、外側からではなく、内側から始めなければならない。新しい掟は心の中から始まる。神から愛を受けた体験から始まる。そして、掟の実現とは、人に対してその愛を分かち合うことなのだ。外側に関心をもつファリサイ派はできるだけ少なく掟を守るが、内側を大切にするキリスト者はできるだけ多く神を愛し、できるだけ多くよい行いを人にすべきだ。
 モーセの掟とキリストの教えの関係を示すために今日の箇所では6つの例が使われている。 目につくのは、どの例でも「…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言われていること。この表現(「反対命題(アンチテーゼ)」)は、当時のラビたちが律法について解釈するときに用いた表現だが、イエスは、この表現によって単なる解釈ではなく、新しい意見を出しており、そこにイエスがメシアであることが示されている。
1.「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが言うのは、殺すとは外面的に殺すことだけではないということ。たとえ人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、いろいろな形で人を殺すことができる(たとえば差別やいじめによって)。だから、外面的に人を殺していないだけでは十分ではない。

2.「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。この箇所は、ホセア6・6等を示唆している(「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」、イザヤ58・4以下も参照)。神から赦しを受けた以上、互いに赦し合わないなら、神が喜ぶはずはない。神は親だから、自分の子であり互いに兄弟である人間が互いに喧嘩して愛し合わないなら、耐えられない。互いに愛し合うことこそ本当の宗教であり、聖歌などで外面的にだけミサを美しく執り行うことではない。 

3.「『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。男女関係についての当時の考え方はこんにちと異なるところがあり戸惑うが、最終的にイエスが言いたいのは、たとえ外面的に姦通をしなくても、本当の愛情を抱いてではなく自分の欲望を満たす道具として異性を見るなら、神が考えた男女関係ではないということ。
4.「『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。当時のユダヤ人は、何かの約束や契約の際に、それを裏付けるために神の名を出していた。そのような習慣は今の日本にはない。けれども、神について話をするとき、私たちは神に対する尊敬の念をもっているかどうか、私たちが話している神は本当にイエスが私たちに示した神か、それともそこに私たちの考えが入っていないかということを神の言葉に照らして調べなければならない(二コリント2・17参照)。
 最後に大切なのは、イエスは新しい掟を与えるだけではなく、イエス自身が生きた掟であるということ。キリスト者にとって、掟とはキリスト自身なのだ。イエスの言葉だけではなく、イエスの生き方がキリスト者の掟である。

2017年の黙想に加筆して掲載。

2020年

2月

08日

年間第5主日

あなたがたは世の光である。(マタイ5・14)

ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
 私たちは山上の説教を6週間かけて読む。年間第4主日はその最初の箇所が読まれる(今年は主の奉献の祝日に重なったため読まなかった)。少し難しいがすばらしいページで、そこでイエスは美しい生活のイメージを描いた。今日の箇所では、そういう美しい生活が自分のためだけでないこと、イエスの弟子は他の人に対しても大きな責任があることをイエスは教えている。キリスト者は自分の完成を目指すだけではなく、人に伝えなければならない。信者の場所は、教会ではなく、世の中なのだ。 
 このことを教えるためにイエスは、非常に印象的な二つの比喩を使う。一つが塩、もう一つが光だ。イエスが言おうとしていることを理解するためには、この二つの言葉が使われていた当時の環境を黙想すべきだ。 
 「あなたがたは地の塩である」。キリスト者は、イエス自身であるパンを食べ、イエスの味を知って、この世に塩味をつける。塩味とは具体的に何を意味するか。それはイエスの価値観のこと。塩が食べ物に塩味をつけるのと同じように、キリスト者はイエスの価値観をこの世にもたらす。それは、この世的な価値観、人間的な価値観(近頃言われる「ポリティカル・コレクトネス」)とは違った新しい価値観で、人生に意味を与える。 
 イエスの言葉で示唆されているのは、「塩」が食べ物を腐敗から守り保存する役割もあること。山上の説教がなされたカファルナウムの近くにはマグダラの町もある。死海沿岸は岩塩の産地だが、マグダラは何千年も前から魚の塩漬けの技術で有名で、マグダラで塩漬けされた魚はエジプトまでも運ばれたそう。塩が魚の腐敗を防ぐように、キリスト者は社会の中に善や美などの価値が消えないようにする役割がある。神の美しさを世の中に保つのがキリスト者だ。 
 それだけではない。当時、塩には、友情や契約というもう一つの意味があった。塩の契約とは、ヤーウェとイスラエルとのあいだに交わされた絶対に破られない契約のことであり、その契約のしるしとして、塩入りのパンを食べる習慣があった。キリスト者は、神と人との契約をこの世で保つ役割がある。その契約の根本は、神の人間への愛、人間の神への忠実だ。だから、神が人間を愛することを世の中に示すと同時に神に対しての忠実を示すのがキリスト者の役割だ。 
 「塩に塩気がなくなれば」。イエスが言うには、塩もだめになり、塩味を失う恐れがあるということ。ギリシア語原語には、「狂う」とある。 
 塩に塩気がなくなるとは具体的にどういうことか。塩の役割は食べ物の中に浸みこむことだが、塊のまま残るなら、その役割を果たせないということ。つまり、それは、キリスト者が人と交わらず、人から離れてエリートの教会を作る危険、 自己満足の教会(教皇フランシスコ)を作る危険だ。
 または逆に、水や蜜など他のものと混ぜられること。つまり、これは、キリスト者が世の中にいることで、テレビなどのマスコミ、一般常識などを受け容れて、世の価値観に影響されて、キリスト者としてのアイデンティティを失う危険だ。その結果、教会がただの人間的な組織になってしまう。

 塩はものに味をつけ、ものを変えるが、光はものを照らしても、ものを変えない。塩が味をつけ腐敗から防ぐのに対して、光はよく見るための明かりであり、何がいいか悪いかを理解し、何に価値があるかないか、何を選ぶべきかを判断するための力だ。

 光とは具体的に何か。ユダヤ人にとって光とは神そのものであり、また神の掟である律法、トーラーのことだった。そのために、神殿の奥、律法が納められた至聖所には、メノラー(燭台)がいつも灯されていた。だから、「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉には注意すべきところがある。本当の光はやはり神であり、神から送られたイエスであって(「わたしは世の光である」ヨハネ8・12)、イエスの弟子はその光によって照らされた者だ。キリスト者は、太陽に照らされて輝く月のように、自分の光で輝くのではなく、キリストの光に照らされて人のために光になり、人を照らすのだ。
 「あなたがたは世の光である」。これは、これから旧約聖書ではなく、イエスを信じたキリスト者が世の光だということ。シャガールが有名な絵画「白い磔刑」でメノラーの上に十字架を描いたように(こちらを参照)、神の掟の上にキリストの十字架が輝く。イエス自身、そしてその言葉と生活が光であり、キリスト者もそのイエスの光を伝える者として光と言える。
 「山の上にある町は、隠れることができない」。この言葉はイザヤの預言を示唆している。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」(2・2)。 「山の上にある」と言っても、権力をふるうためにではなく、愛やいつくしみを注ぐために、十字架がエルサレムの外の丘の上に立ったようにあるのだ。
 「ともし火をともして升の下に置く者はいない」。当時は、麦を量るために、秤の代わりに升を使っていた。升は逆さまにして燭台としても使われたが、ともし火を消す時にも使われていた。升の下に置くとは、人間的世間的な価値観でイエスの言葉を曲げてしまうこと。さまざまな信心も、イエス自身を隠す御利益宗教になりかねない。自分の利益のためにイエスの教えを使ってはならない。 
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。これは、自分の行いを自慢するという意味ではない。自分の行いを人に見せるとか、自分が目立つとか、宗教を自分の名誉のために使うのではなく、自分は透明になって本当の光である神、イエスを映し出すということ。そして、イエスが示した神の美しさを理解させなさいということ。
 昨年列聖された(こちらを参照)ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)とともに、祈りたい、「導きたまえ、やさしい光よ」(祈りの全文と訳はこちら)と。

2017年の黙想に加筆して掲載。

2020年

2月

01日

主の奉献

両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(ルカ2・22)。

ジョヴァンニ・ベッリーニ「神殿でのイエスの奉献」、1459年頃、クエリーニ・スタンパリア美術館(ベネチア)所蔵
ジョヴァンニ・ベッリーニ「神殿でのイエスの奉献」、1459年頃、クエリーニ・スタンパリア美術館(ベネチア)所蔵

福音朗読箇所については2018年の聖家族の祝日の黙想(こちら)を参照下さい。

2020年

1月

25日

年間第3主日

「わたしについて来なさい」。(マタイ4・19)

ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
 キリストがどういう方かを黙想した待降節と降誕節の後、年間に入った。30年間にわたるさまざまな準備が終わり、いよいよイエスの活動が始まる。 
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。カファルナウムはティベリア湖のほとりにあった町で、発掘調査によると、当時千人ほどの人口だったと推測される。大きな町ではないが、北と南、東と西をつなぐ重要な道の十字路に位置していて、税関もあり(そこの徴税人の一人がマタイ)、地中海とも連絡していた。エルサレムから離れており、さまざまな民族が入り混じって住み、ギリシアの影響も強い町だった。教皇フランシスコが使う言葉で言うと、ペリフェリア(周辺)の町だ。つまり、イエスがその活動を始めたのは、ユダヤ教の信仰が確立されて熱心に実践される場所ではなく、異教の宗教も入り込んでさまざまな問題がある場所だったのだ。神が世に入るためには、このような状況を選ぶと福音書記者マタイは強調して、イザヤ第8章の最後から引用する。 
 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。マタイはいつも旧約聖書によってイエスの物語を神学的に理解しようとするのだ。私たちが抱えているさまざまな問題という「暗闇」の中にキリストが「光」としてやってくる。イエスは、よい人、正しい人を呼ぶために来たのではなく、病気や悩み、物質的精神的な問題のただ中にある人たちと接触するために来た。それは、福音書に何度も出て来るテーマだ。今のパパ様も、教会が本当に出かけるべきなのはこういうところだと言う。キリストは私たちの限界状況にやって来る。

 今日の箇所には、 まさにそんな状況にあって、まず最初にイエスに憧れを感じた人物への呼びかけがなされる。それがペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブという二組のカップルだ。彼らは漁師にすぎない。イエスは、教育を受けた専門の宗教家ではなく、生活の矛盾に陥っている人々を集めて弟子にするのだ。この人たちにに「天の国は近づいた」のは、この人たちがいい人だからではなく、神がこの人たちに関心があるからなのだ。 

 イエスはこの四人の一人ペトロの家を住まいとして3年間住むことになる。ぺトロが住んでいたその家は今でも残っている。村の一番端の家がペトロの家だったそうだ。 
 今日の箇所で大切なのは最後の節。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。年間の典礼が始まるこの時期に、この最後の節は大切だ。年間の典礼では、イエスの公生活の出来事を外面的に思い出すだけではなく、イエスといっしょに歩む旅であり、そこで私たちの癒しも行われるから。典礼にはその力がある。これから始まる年間の典礼は癒しの旅。イエスは私たちの病いや苦しみの中に入る。だから、私たちも四人の弟子たちのように、イエスがやることなすことにすぐに目を向けるように教会から勧められている。

2017年の黙想の再掲載。

2020年

1月

18日

年間第2主日

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
 主の洗礼の祝日とともに教会暦は待降節から年間に移行したが、年間第2主日には、主の公現の祭日に祝った現れとのつながりを意識して、共観福音書ではなくヨハネ福音書が読まれる。今年A年に読まれるのは、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼について証しする箇所。イエスの洗礼について、ヨハネ福音書はそれ自体としてではなく洗礼者ヨハネの証しとして書くが、三つの共観福音書はその出来事とその神学的意味をそれぞれの形で書いている。今年の主の洗礼の祝日にはマタイ福音書から読まれた。まず、その箇所を見ることにする。
* * * 
 マタイ福音書では、イエスの幼少時代の物語は、ヘロデの迫害の後のエジプト逃避行とナザレへの帰還で終わる。イエスが次に登場するのは、その30年ほど後のこと。その間の出来事について福音書記者マタイは何も書いていない。なぜか。それはマタイにとって大切ではないから。マタイにとって大切なのは、イエスの死と復活、その前にある公生活である。イエスの洗礼はその公生活のはじめにあり、イエスを知るために重要な出来事だが、マタイにとって洗礼は特に重要だ。マタイ福音書は、イエスの洗礼と、福音書最後の弟子たちの派遣の言葉「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」で両側から包まれているから。 
 マタイ福音書では、イエスの洗礼は一つの問題で始まる。それは、福音書では洗礼者ヨハネとイエスの会話の形でまとめられているが、初代教会が抱えていた大きな疑問である。救い主であるイエスがなぜ洗礼を受けたか。ヨハネの洗礼が意味するのは死であり、罪人が回心して罪に死ぬことであるのに、罪人に対して裁きを行うべき「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。 
 これに対するイエスの答えは大切だ。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、正義ということ。ヨハネにとって、正義とは悪に対する裁きであり、罪人の死だったが、イエスにとって、正義とは、世に注がれる、父なる神の愛情のことだ。イエスによって現される神は、生贄を求める神ではなく、罪に落ちた人間を愛して自分の子を捧げる神なのだ。イエスは、ライオンのような姿でなく、ヨハネ福音書で洗礼者ヨハネが言うように「子羊」として、民の罪をかぶって身代わりとなって砂漠の中に死ぬ神の子羊として現れる。上空を飛ぶ強い鷲ではなく、ルカが言うように「雛を羽の下に集める」(13・34)めん鶏として現れる。洗礼者ヨハネが考えていたように、斧で切り倒し火で焼き払う強い者ではなく、弱い赤ちゃんとして現れる(「わたしはこの方を知らなかった」)。イエスが宣言する神の国は、イチジクのつぼみ、一つまみのパン種、未亡人の二レプタのように小さく目立たないものなのだ。イエスが言おうとしているのは、人間の罪を取り除くのは軍人のような力ではなく、母のようなやさしさ(教皇フランシスコがいつも言う「テルヌーラ」)、そして神の愛の美しさだということ。罪の根本は人間の弱さではなく、神に反する人間の心だから。

  洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。 

 「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。当時のユダヤ人の理解では、七つの天があり、律法学者の説明によると、そのあいだには500キロの距離があり、その奥に神の王座があった。神はそれほど遠い方だと考えられていたのだ。しかし、イエスによって開かれた天はもはや永遠に閉じられることがない。
 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。「イエスは…ご覧になった」。マタイによると、それはイエスの内面的な経験なのだ。神の霊が降るとは、神の力が完全にイエスの中にある、イエスが神の子である、ということ。「鳩のように」とは、洪水の後に戻ってきて新しい創造を告げる鳩をはじめ旧約聖書の箇所を参照している。洗礼を受けたイエスは、神の霊が宿る巣であり、父なる神は、この巣の中に降りて永遠にとどまる。 
 「そのとき、…声が、天から聞こえた」。何百年も前から、神は民の罪に怒り、民に語ることをしなかった。その神の声が、イエスの洗礼の時に遂に聞かれたのだ。 
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この短い言葉の中には、旧約聖書の次の三つの箇所が見事にまとめられている。1.「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)。2.「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク…を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22・2)。3.「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ」(イザヤ42・1)。僕とはただの召使いではなく、権限を与えられた代理のこと。
 イエスが洗礼を受ける時、神はイエスが自らの子であることを荘厳な形で私たちに知らせる。イエスは、父なる神の愛の完全なイメージ。神を見ることができる人間はいないが、イエスを見る人は神を見る。
* * * 
 福音書記者マタイにとってはイエスの洗礼それ自体が大切だが、福音書記者ヨハネにとっては洗礼者ヨハネによる証しということが大切だ。ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出て来るだけではなく、福音書そのものが「証し」として書かれていることがその結びの箇所からもわかる。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21・24)。私たちも、キリストを知った体験を人に伝えるように呼ばれている。

2017年の黙想に加筆。

2020年

1月

12日

主の洗礼

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)

ピエトロ・ペルジーノ「キリストの洗礼」、1498/1500年、ウィーン美術史美術館所蔵
ピエトロ・ペルジーノ「キリストの洗礼」、1498/1500年、ウィーン美術史美術館所蔵

 教皇フランシスコは主の洗礼の祝日である12日朝9時半からシスチン礼拝堂で32人の幼児たちに洗礼を授けました。バチカン・ニュースによると、パパ様は幼児洗礼の重要さを強調し、受洗は子どもたちへのこの上なく貴重な贈り物になると語ったということです。子どもたちは洗礼によって授けられた聖霊の恵みに支えられ強められて、健やかに成長していくことができるということでした。詳しくはこちら

 主の洗礼については2016年の黙想(こちら)を参照下さい。

2020年

1月

05日

主の公現

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

アンドレア・マンテーニャ「東方三博士の礼拝」、1500年、J・ポール・ゲティ美術館
アンドレア・マンテーニャ「東方三博士の礼拝」、1500年、J・ポール・ゲティ美術館

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 

 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。 

 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 

 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。名誉教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

(以前の黙想のテキストを再掲載)


2019年

12月

29日

聖家族

それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ2・15)

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「エジプトへの逃避の途上の休息」、1423年、ウフィツィ美術館所蔵
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「エジプトへの逃避の途上の休息」、1423年、ウフィツィ美術館所蔵

聖家族への祈り


イエス、マリア、ヨセフ、

あなたがたのうちに、

まことの愛の輝きを見、

信頼を込めてあなたがたにゆだねます。


ナザレの家族よ、

わたしたちの家族をも

交わりの場、祈りの高間、

福音のまことの学びや、

そして小さな家庭の教会としてください。


ナザレの聖家族よ、

家庭の中で決して

暴力も排除も分裂も起こることがありませんように。

傷ついた人、つまずいた人が皆、

直ちに慰められ、いやされますように。


ナザレの聖家族よ、

わたしたち皆が、

家庭の神聖で不可侵な性格と、

神の計画におけるそのすばらしさを自覚することができますように。


イエス、マリア、ヨセフ、

わたしたちに耳を傾け、

わたしたちの願いを聞き入れてください。

アーメン。


(教皇フランシスコ『使徒的勧告 愛のよろこび』より)

2019年

12月

23日

主の降誕

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)

タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)
タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)

 待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。

 福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。

 第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。

 第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。

 第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。

 注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。

 そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。

 亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。

 第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。

 最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。 

 


2017年の黙想の再掲載。

2019年

12月

21日

待降節第4主日

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)

フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。

 今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。

 「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。

 何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。

 

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。

 「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。

 「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。

 福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。

 そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
 宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。

 教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。


2019年

12月

14日

待降節第3主日

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)

アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
 今日の福音書は先週と違った形で洗礼者ヨハネを登場させる。ヨハネは今度は、ガリラヤから離れた死海のほとりの牢にいる。聖書学者が言うには、ヨハネは牢でも特別な扱いを受けていた。ヨハネを牢に入れた領主ヘロデは後にヘロディアの娘のためにヨハネを殺させる(マタイ14・10)が、ヨハネのことを嫌ってはいなかった。だから、弟子たちが牢に出入りしていたようだ。それで、ヨハネは、自分の目で見ることができないとはいえ、キリストが行なった奇跡について人から聞いていたのだ。 
 話を聞いたヨハネは、弟子をイエスのところに送って、核心的な質問をする。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ここでヨハネがはじめて発したこの問いはそれ以降、救いを探し求める人の問いだ。それは、抽象的な理屈の問いではなく、命賭けの深い問いだ。母の胎内にいた時にもイエスに洗礼を授けた時にもキリストに気づいた偉大な神秘主義者であり、旧約時代の最後の預言者であったヨハネが今、死の危険に面して、迷いと荒みにあってその問いを発する。死ぬ前のマザー・テレサにもこのような暗闇の時期があったと言う。 
 洗礼者ヨハネは、メシアは良い実を結ばない木を斧で倒し、もみ殻を火で焼き払うと考えていた。つまり、メシアが来るとき、世の罪人が滅ぼされると考えていた。だから、イエスの行ないについて聞いたとき、イエスがメシアだと確信をもつことができなかったのだ。イエスについてのこのようなつまずきは他にもある。例えば、イエスの受難と死の予告を聞いてイエスをいさめるぺトロ(マタイ16・22)。あるいは、「お前は神の子、メシアなのか」と聞いた大祭司カイアファ(マタイ26・63)もイエスにつまずいた。 
 イエスはカイアファに対して「それは、あなたが言ったことです」と答える。イエスは、メシアかどうかの答をその人自身にゆだねる。イエスをメシアと信じるかどうか、それは一人一人の賭けなのだ。イエスは洗礼者ヨハネに対しても直接的には答えず、イザヤを引用して間接的に答える。イザヤのその箇所で預言される癒しは、マタイ第8章と第9章の5つの奇跡――2人の盲人(9・27-30)、重い皮膚病の人(8・2-4)、中風の人(9・1-7)、ヤイロの娘(9・18、23-26)、口の利けない人(9・32-33)――で伝えられている。そして、イザヤの「貧しい人は福音を告げ知らされている」は真福八端の最初(マタイ5・3)だ。 
 イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」と言う。イエスを信じるためには、そのつまずきを乗り越え、メシアについての、神についての考え方を根本的に変えなければならない。新しい見方を受け容れ、神の深みを知らなけれならない。つまり、来るメシアは、私たちが想像するような、いい人の神、よい行いに報いる神ではなく、人間のあらゆる期待を越えて人間を愛する神、人間のどのような行動よりも先に人間に愛を与えいつくしみを注ぐ神なのだ。貧しく無力で、最後に十字架につけられる神はそのような神だ。待降節に私たちに求められるのは、悪い生活からよい生活に移る単なる道徳的な回心ではなく、まさにそのような変化だ。

 洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。

 さて、それまでの箇所では、洗礼者ヨハネがメシアについて話していたが、ここで役割の変化が起こる。ここからは、メシアであるイエスが洗礼者ヨハネについて話すのだ。マタイは、洗礼者ヨハネに感動するイエスの言葉を記録している。イエスが言うには、ヨハネは雅人ではなく、骨のある人。偽物の人間ではなく、本物の人間、権力も利益も求めず自由な人間だ。イエスはヨハネを愛する。清く正しく真っ直ぐな生活を送ったヨハネをこれまで生きた人の中でもっとも偉大だと誉める。 
 しかし、イエスは言う、神の国(マタイは「天の国」と言うが、聖書学者によると、それはイエス自身の言葉ではなく、弟子が変えた言葉かもしれない)では、どんなに小さな子供でも、ヨハネより偉大だと。キリスト者は恵みによって救われる。救われるために必要なのは神からただで来る恵みを子供のように受け入れる心だけ。誰もが最初から愛されているという自覚から私たちは自分の罪と弱さを告白し神から救われて、その救いを人に伝えることができる。 
 それでは、洗礼者ヨハネは救われなかったのだろうか。古代の教父たちのあいだにはそのような論争があった。しかし、アレクサンドリアのクレメンスによると、ヨハネは救いから除外された者ではないと言う。ヨハネが語った言葉だけではなく、彼が送った生活を見ると、神の愛を受け容れる態度をとっていた、と。 
 今日、教会が私たちに示す洗礼者ヨハネの姿は偉大な宣教者の姿だ。ヨハネについて本を書いたダニエル大枢機卿は、ヨハネは弟子を自分のところに引っ張るより、自分の弟子を手放してイエスのところに送ったのであり、そこによい宣教者の模範があると言う。ヨハネは、自分のために人を奴隷にするのでなく、キリストのために人を自由にする、と。 
 なぜヨハネは待降節に登場するのか。やはり当たり前のことにとどまらず、大きな問いを抱く必要があるから。私が信じているのは本当にキリストの教えか。私は本当に神の言葉を理解しているか。それとも理解を改めなければならないか。いつでも思い出さなければならないのは、神は私たちをはるかに越えているということ。そして私たちを越えているキリストに会う喜びだ。

2017年の黙想の再掲載。

2019年

12月

07日

待降節第2主日

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)

「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
 待降節第2主日に前面に出て来るのが預言者イザヤと洗礼者ヨハネ。この二人はまったく違った時代に生きた人物で、立場も違えばスタイルも違う。しかし、教会が今日この二人について伝えるのは、来るべきメシアがどういう方であるかを示すため。第一朗読のイザヤの預言によると、堕落したイスラエルにも倦まずに神が送るメシアは、世界を新しくし、人々のあいだに平和をもたらす方。福音朗読の洗礼者ヨハネによると、メシアとは私たちの複雑な生活を整理し、清める力のある方。そして、第二朗読のパウロによると、メシアは僕として仕える方だ。
<第一朗読>
 イザヤは、イスラエルの歴史で一番重要な預言者。今日読まれた11章の箇所は第一イザヤのうちインマヌエルの書と呼ばれる部分(7・1-11・9)に属していて、詩の形式で書かれている。この箇所で使われているのは二つの違った種類の比喩、植物の比喩と動物の比喩である。 
 植物の比喩とは、切り株(「エッサイの株」「その根」)だ。幹を切りとられ、乾燥し、命を失った枯れ木というシンボルは、ユダヤの王国が罪に陥っている状態を意味する。その状態から、突然、一つの芽が出る。命が絶えたところに、神の力によって命が吹き込まれる。人間が何もできないところに、神の憐れみによって救い主が送られる。パウロのテトスへの手紙では、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(2・11。また3・4、3・5)と言われる。イザヤがこの箇所で言っているのも、神の恵みであるメシアについてなのだ。
 若枝を揺らす風は、イザヤが霊について考えるきっかけとなる。風も霊もヘブライ語では「ルアー」という同じ言葉で呼ばれる。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(11・2)。ここでは、霊という言葉が4回使われている。これは、東西南北という4つの方向を意味し、全世界を表現する。つまり、イザヤが言うのは、救い主によって全世界に霊が注がれ、世界が新しくされるということ。イエスがはじめて故郷ナザレに戻った時、「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)というイザヤの言葉は「今日…実現した」(ルカ4・21)と言ったことが思い出される。
 そして、私たちの心に染み入る美しい言葉が続く。その時、私たちの生活は、見た目や人の噂によって判断されるのではなく、正義と愛によって判断される。私たちの心を本当に知っている方、私たちを愛している方によって判断されるのだ。その方によって私たちは悪から救われ、その霊は私たちの弱さを助けに来る。
 この箇所の後半では、新しい創造のイメージが動物の比喩で描かれている。狼と子羊、豹と子山羊、若獅子と子牛といった、対となる動物は、不正義や束縛を伴う私たちの人間関係を意味する。人間の抱える問題には個人としての問題だけではなく家庭や社会の中での問題がある。当時と同じようにこんにちも、私たちは人間関係に悩み苦しんでいる。人間がいっしょに生きる苦労やつらさに神は憐れみを抱き、その関係を癒すためにメシアを送る。神は来るべきメシアによって、私たちの人間関係を正義と平等と平和の関係に直す。私たちはそれぞれの個性のために互いに敵となるが、新しい世界では自分の個性を保ちながらも、人とうまくつきあうことができる。一人一人の個性は神からの賜物であり、新しい世界ではその個性が生かされるのだ。
<福音朗読>
 今日の福音書の箇所には洗礼者ヨハネが出てくる。彼の特異な言葉遣いには、第一朗読にあったテーマが新しい形で出てくる。
 「荒れ野で宣べ伝え」。「荒れ野」はイスラエルの民にとって大きな意味がある場所。イスラエルの民は荒れ野で神と出会い、また誘惑を受けた。
 「天の国は近づいた」。「天の国」はマタイの特別な言葉だ。マタイは「神の国」と言う代わりに「天の国」と言う。
 「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」――それはエリヤの格好(列王記下1・8)だった。つまり洗礼者ヨハネは預言者の格好をしていたのだ。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者として、強い魅力を放ち、メシアが来る直前であり大きな変化があることを力強い言葉で告げる。 
 「ヨルダン川で」。旧約時代、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったのがヨルダン川だった。だから、ヨルダン川に戻るのは、新しく一から始めることを意味する。 
 「彼から洗礼を受けた」。注意すべきなのは、マタイが洗礼者ヨハネの洗礼について伝えるときに、罪の赦しという言葉を避けていること。ヨハネの洗礼には罪を赦す役割はない。マタイにとっては、人間の罪が赦されるのはイエスの十字架によってだけだから。ヨハネ自身も言う、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
 マタイ福音書で洗礼者ヨハネの言葉に出て来るのは、厳しい裁判官としてのメシアのイメージだ。そこには、もみ殻と火という二つのおもしろい比喩がある。飛ばされ燃やされるもみ殻とは、私たちの生活の中にある無駄なもの、土台のないもののこと。詩編第1章にも、正しい人は「流れのほとりに植えられた木」だが、悪人は「風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。ヨハネの言葉は厳しく思えるが、よく見れば、私たちを悪から清め解放するキリストの役割を示している。
<第二朗読>
 パウロの手紙の箇所は今日の朗読で一番感動するところ。ここで最初に言われているとおり、忍耐と慰め、希望を抱くことができるところだ。つまり、メシアは権力をふるう王として来るのではなく、僕として、「仕える者」として命を尽くし、自分の霊を注いで、平和を宣言する。それは、みんなが一つの心と一つの声でキリストの父である神に栄光を帰することができるためなのだ。こういったテーマはすべて、パウロの手紙に豊富に出てくる。
<まとめ>
 待降節はこのような聖書の流れの中に入るように勧められる時。キリストの言葉と命によって恵みを受け、キリストのようにお互いを受け入れ、お互いに耳を傾け、お互いに目を向ける時だ。来るキリストに心を広げる人だけ、「天の国」に入ることができる。

2017年の黙想の再掲載。

2019年

11月

30日

待降節第1主日

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)

 「時は空間に優る」と教皇フランシスコは言う(『福音の喜び』222-225)が、今日の福音書の箇所は時、つまり歴史についてのメッセージ。歴史は人類の歴史もあれば個人の歴史もあるが、揺れ動く不安定なもの。このような終末論のテーマは、年間の最後の日曜日と最初の日曜日に強く出て来る。ただ注意すべきだが、福音書のポイントは、そういう、人間の知恵でもわかる哲学的な発想にはない。福音書にとってはそこによい知らせがある。もろく消えやすい歴史の中に神が入る。神は一人一人の生活の中にも入って、その時間をポジティブな時間に変える。揺れ動く時間の中に恵みの時間が生まれる。私たちの限りある歴史が救いの旅になる。神がそばにいるその愛と慈しみを知り天に入るための絶好の機会――それが待降節である。
 「待降節」はラテン語ではアドヴェントゥス。これは「待つ」というより「来る」という意味だ。古代世界ではアドヴェントゥスとは皇帝が民を訪問するよい時だった。そして、皇帝が通る時、民は皇帝に「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と言った。だから、待降節は、神が私たちに憐れみと救いを与える恵みの時なのだ。
 この時期の一日一日を生きるために、教会は三人の人物を私たちに示す。預言者イザヤと洗礼者ヨハネとおとめマリアだ。この三人とも、それぞれのストーリーによって、待降節を具体的にどう過ごすべきかを私たちに教えてくれる。特にキリストと特別な関係にあったヨハネとマリアは、イエスのそばにいること、イエスを中心にすることを教えてくれる。それは待降節の大きなメッセージだ。母親の胎内で踊った洗礼者ヨハネは、イエスが近づく喜びを感じた神秘主義者。彼は、砂漠の中で自分のすべてをキリストに捧げた。マリアは肉体的に母であっただけではなく、キリストを中心にして生きた。みことばを思いめぐらすマリア、イエスを成長させるマリア、十字架の下でイエスといっしょにいるマリア――教会もマリアのように生きるべきだ。私たちもこのような人たちのようにキリストのために場所を作るよう教会から勧められている。それでは、具体的にどうすればいいか。

Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。

 まず第一は神のことばを聞くこと。教会は、毎日曜日だけではなく毎日聖書から注意深くことばを選んで私たちに用意している。だから、待降節の四週間のあいだにみことばに親しむことが理想だ。イエス自身が神のことばなのだから。
 第二は祈り。待降節は代表的な祈りの時期だ。たくさんの言葉を重ねるのではなく、静かな祈り、観想的な祈りが勧められる。聖体を大切にし、習慣になってしまった典礼に新たな心で参加して、その癒しを知り、ミサを再発見すること。それこそ、キリストの降誕だ。
 第三は回心。赦しの秘跡は、自分の罪を中心にした告解ではなく、喜びの秘跡だ。医者に行くとき、私たちは医者に自分の病気を隠さず打ち明ける。同じように、私たちの傷を癒してくださるイエスを信頼して自分の生活について彼に打ち明けるのが告解だ。多くの人が告解する機会に二三分で終わる告解だけではなく、年に一回ぐらいはもっとゆっくりした個人的な告解をしたいもの。内容としては、朝晩の祈りを怠るといった、決まりに反することだけでなく、自分の生き方が本当にキリストに向かっているか、自分の本当の病気を調べて神に示す。
 第四は、人に対するよい行い。この時期、教会は断食など節制を勧める。けれども、その目的は断食そのものではなく、私たちがキリストに対して抱いている希望を実現すること。具体的に言うと、周りの人たちへの関わり方を見直したり、子どもなど家族にどう信仰を伝えるかを考えることなど。
 最後に、待降節は、出産を待つ母マリアのように、キリストの降誕を待つ時期。断食の苦しみではなく、待つ喜びの時期なのだ。苦しみや悪や自分の罪など、喜びに反することはいろいろあるけれど、神から返ってくるのは喜びのチャンスを与える返事なのだ。

画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。


2017年の黙想の再掲載。