毎週の聖句と黙想

主日のミサで朗読される聖書(特に福音書)の箇所について黙想を毎週掲載します。朗読箇所からは聖句を一つ選んでタイトルとしています。みことばを味わう助けとなりますように。
ミサの朗読箇所についてはカトリック中央協議会の典礼解説を参照いただけます。女子パウロ会Laudateのカレンダーイエズス会の霊性センター「せせらぎ」の祈りのヒント、東京大司教区の福音のヒントにも、朗読箇所や解釈・黙想が掲載されています。また、日ごとの福音のサイトに登録すると、毎日のミサの朗読テキストがメールで送られます。

2017年

8月

20日

年間第20主日

イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15・28)

「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収
「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収

2017年

8月

13日

年間第19主日

ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(マタイ14・29)

ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館
ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館

 今日の箇所は、イエスと弟子たちの生活の中の一つのエピソードのように見える。けれども、よく見れば、ストーリーとしては成り立っていない。具体的な物語だが、アレンジされていて、神学的な物語だ。この物語はマルコ、マタイ、ルカがそれぞれの時代にそれぞれの形で書いているもので、彼らよりずっとあとに、ふつうは他の福音書をあまり参考にしないヨハネさえこの物語に惹かれ同様の物語を書いている。こうして、小さなエピソードと思える物語が神学の大きなテーマとなった。オリゲネスをはじめ教父たちも好んで解釈を加え、こんにちの解釈のもとになっている。神の不在を経験するこんにちの信者も、深く語りかけられるページだ。

 今日の物語は、教会とキリスト者の生活の中でのキリストの役割について元型になるほどの物語だ。単純でわかりやすいが、注意して観察すると、旧約聖書とのさまざまな関連が出てくる。

 マタイはこの出来事がいつどこで起こったか具体的に書いていない。それはただ、イエスが大きな奇跡を行った後の出来事だ。その奇跡とはパンを増やし5000人に食べさせた出来事(実はA年第18主日にその箇所が読まれるが、今年は変容の祝日のため読まれなかった)。その奇跡の意味は聖体だ。イエスは神の言葉であり、イエス自身とその言葉はおおぜいの人を養うパンなのだ。しかし、その奇跡はある意味で失敗で終わった。人々はイエスのメシアの道を誤解し、彼を王にしようとした。そのあと「すぐ」、イエスは人々を解散させて、山に昇る。そういった時いつもそうするように、イエスはひとり父なる神といっしょにいようとする。何か挫折感と孤独感を抱いているようだ。

 イエスは12人の弟子たちには、舟に乗るように「強い」る。「強いて」とはギリシア語で強い命令を意味する動詞だ。なぜ強く命令したか。オリゲネスも言うように、不思議なことだが、弟子たちが行きたがらないからだ。海に慣れた人たちだから、たんに舟に乗るのをいやがったということではない。「向こう岸へ先へ行かせ」。「向こう岸」とは異邦人の世界のこと。つまり、マタイによると、彼らはこちら側にいたいのだ。「向こう岸へ」は何をしに行かされたか。父なる神はイスラエルだけではなく、すべての人の神である。すべての人にその言葉を届けなければならない。

 そこに一つのことがある。パンの増やしの奇跡のあと、弟子たちが「残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった」。彼らはきっとそれをその場に残さず、もっていったことだろう。「パンの屑」とはイエスの言葉の余ったもののこと。「12」とは、イスラエルの12部族、そして12使徒のこと。つまり、弟子の一人ひとりは、パンになるイエスの言葉をもっていくように任されたのだ。しかし、弟子たちは行きたくない。イスラエルから離れたくない。これは復活後のペトロに典型的に見られることだ。その結果、彼らは強く命令されて舟に乗り、イエスなしに自分たちだけで行く。それはマタイにとって、教会の有様を描くイコンだ。

 そこには旧約聖書を連想させる細部がたくさん出てくる。「湖(=海)」。実はその湖は一晩かけて渡る必要がない広さだ。狭いから、一時間ほどで渡れる。他にも「夜」「(安全な)陸から…離れ」「逆風」「波」など旧約聖書を思い出させるモチーフが出てくる。実は、福音書をよく見れば、ちがったたとえが使われるにしても、そのような状態は、弟子たちがイエスの受難と死のあと閉じこもっていた状態、神の不在の状態と同じだ。今日の箇所のその後は、復活物語のように書かれている。その時は、共同体の危機であり、長く苦しい時期だ。信じることは時間がかかるのだ。イエスの受難の時も夜のモチーフが何度も出てくる。ユダが出る時、ゲッセマネの園の時がそうだ。そしてイエスの復活と同じように、今日の箇所でイエスが現れるのは「夜が明けるころ」だ。そして、そばに来るイエスを見て、弟子たちは「幽霊」と思うが、ルカは復活の場面で同じ言葉を使う(24・37)。弟子たちは恐れと悲しみに満たされて信じたくなくなっているから、イエスを見ても幻だと思うのだ。今日の箇所でマタイは、苦しみや反発、迫害(逆風、波)の中で生きる教会に向かって話している。 

 この物語で特に目立つのはペトロの役割だ。ペトロが中心的な役割を果たしているのは彼が教会の中で強い権力をもっているからではない。ペトロは他の弟子たちと同じ問題に悩まされている。ペトロは教会の苦しみを代弁する人物。ペトロはイエスに深い憧れがあるが、同時に弱く十分に考えない。イエスを信じても、その信仰は弱い。大きな奇跡を目撃してもまだわかっていない。そしてイエスを誘惑する役割を演じる。この箇所でもイエスに言う、「あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。それはまさに、イエスを誘惑したときの悪魔のセリフと同じだ。「神の子なら…」。つまり証拠を出すように言うのだ。マタイは今日の箇所ではシモンという名を使わず、ペトロという、頑固者を意味するあだ名だけを使う。ギリシア語では、ホ・ペトロ。冠詞がついているから、あの岩ということだ。

 イエスはペトロの両面性をよく知っていて、やさしい態度をとる、「来なさい」。ペトロは水の上を歩き始める。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。漁師だったペトロは泳げただろうから、溺れることを心配するはずはない。だから、歩くとか沈むというのは一つの象徴だ。つまり、イエスを見る時は歩けるが、イエスを見ずに自分の問題を見ると沈むのだ。ペトロが救われるのはイエスに向かって手を伸ばす時だ。「主よ、助けてください」。すると、イエスが彼をつかんで助ける。マタイが言うのは、人間がイエスの方へ進むのは自分の力ではないということ。人間は神の力によってだけ神に近づくことができる。今日の物語は神学的な物語で、イエスはすべての人の主であるという復活のテーマがそこに示されている。

 ユダヤ人は、フェニキア人など他の民族と異なり、海になじみがない民族だ。彼らにとって海は混沌を意味し、人間を圧迫する否定的な力を象徴する。それを支配できるのは神だけ。だから、水の上を歩くイエスと、イエスに向かって水の上を歩くペトロは、イエスが主であることを暗示している。ヨハネがこの物語を語るときも同じことを暗示する。イエスは神の現れだと言いたいのだ。

 ヨハネの箇所によると、イエスは舟に乗り込まなかったようだが、今日の箇所ではイエスは舟に乗り、弟子たちは「イエスを拝んだ」。イエスは神の子、救い主なのだ。マルコは弟子たちに注目するが、マタイが関心をもつのは却って舟。今日の箇所から、教会が世の悪の上で人々を神に連れて行く舟として語られることになる。

 当時の教会も、こんにちの教会も、イエスの命令で世を進む。イエスがいないように不安に思っても、イエスが現れるとその不安は癒やされる。ゲッセマネの園では、イエスはいるのに、弟子たちは寝ている。イエスに対する信仰がないからだ(「悲しみの果てに」ルカ22・45)。ゲッセマネの園の祈りは最後の晩餐のあと、今日の箇所はパンの増やしの奇跡のあとで、いずれも聖体のあとの出来事だ。こんにちも教会は聖体があるから教会なのだ。聖体は旅路の糧だ。聖体によってイエスはキリスト者のそばにいて「わたしだ。恐れることはない」と言われる。聖体に対する態度はキリスト者の信仰を測る基準なのだ。

 聖霊の力で今日の箇所を細かく観察しながら読んで祈るなら、こんにちの私たちの教会や生活にとって大きな光と力と慰めになる。イエスから離れて波に悩まされることから連想されるのは、こんにちの教会の迫害だ。さまざまな国でキリスト者が迫害されている。教会の歴史の中で今のようにたくさんの迫害や殉教がある時代はもしかしたらなかったかもしれない。教会だけではなく社会にもあてはまる。「流動化社会」(ジグムント・バウマン)とも言われる、伝統的価値観を失った社会。心を忘れてものを追いかける消費社会、人も資源も環境も破壊する投げ捨て社会、グロバリゼーションなど。だから、今日の物語は現代に対してもメッセージを含んでいる。 それはどういうメッセージか。イエスの命令で、教会は舟のように世界の海を進む。教会はいろいろな反発に押し戻される。教会の中にも信仰が足りない状態がある(毒麦のたとえ)。イエスは舟の中にいないようだ。けれども、信者たちは世(夜)の終わりに、イエスは現れるという信仰をもって舟に乗っている。イエスが見えないあいだ、教会は旅を続ける。復活のあとでも、弟子たちはいろんな疑いや不安に襲われていた。ペトロはそんな私たち信者を代表する人物だ。「主よ、助けてください」。イエスはペトロを赦して引き上げる。キリスト者の生活はそこから始まる。「私は罪が赦された者」(教皇フランシスコ)。ペトロのように、弱い人が殉教者になるのだ。


2017年

8月

06日

主の変容

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(マタイ17・2)

カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代
カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代

 8月6日は主の変容の祝日。主の変容は、正教会が非常に大切にする祝日だ。カトリック教会にとっても、主の変容は大切なので、正教会と一致してこの祝日を祝う。日曜日に重なる場合には、年間の主日の代わりに、主の変容の祝日となる。その結果、変容がテーマである四旬節第二主日と同じ福音箇所が読まれることになる。今年A年はマタイの福音書の箇所が読まれるが、マルコとルカにも同じ出来事が報告されている。(マタイの箇所についてはこちらも参照のこと。)

 今日の箇所は非常にすばらしい。マタイは旧約聖書の言葉を使いながら、イエスについて経験したことを私たちに伝えようとする。マタイの箇所にはマルコともルカとも違ったニュアンスがあるが、彼らは彼らの生活を新しくした経験について私たちに伝えたいのだ。よく見れば、今日の箇所はキリスト論的なページ。イエスの言葉でも奇跡でもなく、イエス自身の秘密が表現される箇所であり、特別に注意すべきだ。

 変容という言葉で表されるが、言葉では言い表せない何か不思議なことがイエスに起こった。変容とは何のことか。それはただ服を着替えることではない。服を着替えることは外面的なことだが、変容は内面的なことだ。変容は実は私たちの個人的な生活にもある。例えば私たちが人を愛するときがそうだ。人を愛するとき、何年もいっしょに過ごしてきた人、例えば学校でいっしょに勉強していた人が突然違ったものに見える。そして、うまく行けば、その人に長い人生を賭けることになる。結婚して、子どもをもって、死んだら悲しんで墓に花をもっていくことになる。人を愛するその瞬間、その人にある何か深いこと、それまで気づかなかったことに気づくのだ。

 マタイは言う、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝」いた、つまり変容した。こういう表現でマタイは私たちに、イエスがどういう方であるかを教えたいのだ。イエスは人間だ。ナザレに育ち、30歳の時に宣教活動を始め、3年間ガリラヤを歩き回って布教し、最後に十字架上で死んだ。その人間、私たちが見ることができた人間の顔の上に、神聖な神の光が輝いたのだ。だから、私たちはこれからずっと、イエスの顔を見ることで、人間が目で見ることができない神の顔を見ることができる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。マタイが言いたいのはイエスはただの人間ではなく、父なる神を完全に映す神の子、救い主、メシアであるということ。イエスの顔の上にだけ神の栄光の光が輝く。そして、イエスが神の子であるからこそ、造られたものにすぎない私たちも、洗礼を受けキリストと一つになることで、神の子になることができるのだ。

 だから、今日の箇所は見れば見るほど味が出てくる、ありがたいページだ。祈りの時などに深く観想して、その光、その力に満たされることが大切だ。 最後に一つの点に注目したい。人間を超えた神の出来事の前で恐れてひれ伏した弟子たちに、一人残ったイエスが近づき、彼らの頭の上に手を置いた。これはマタイの天才的な表現だ。イエスの手については福音書によく書かれている。イエスの手は憐れみの手だ。貧しい人や病気の人、重い皮膚病の人や目の見えない人、子どもや女性、罪人に触れる手だった。イエスの手は、憐れみのある父なる神の手だった。私たちが今日教会に来てこの日を祝ってイエスを拝み、聖体を受けてイエスと一つになるなら、その手は私たちの頭の上に置かれる。それは癒しの手、憐れみのある手、愛情のある手だ。私たちは神から愛され受け入れられるのだ。

 ヨハネは黙示録で同じエピソードを引用している。日曜日のミサで超越の体験をしたヨハネにイエスが近づいて、彼の上に手を置いた。そして、「恐れるな」(1・17)、私は救い主であるから、世に勝った者であるから。今日、私たちに同じ信仰が与えられる。イエスを信じ罪の赦しを願うことによって、ミサに与り聖体を受けることによって、私たちも父なる神の力をいただくことができる。


2017年

7月

30日

年間第17主日

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ13・44)

ジェイムズ・ティソ「隠された宝」、1886―1894年、ブルックリン美術館
ジェイムズ・ティソ「隠された宝」、1886―1894年、ブルックリン美術館
 今日の福音書の箇所を理解させるために教会は第一朗読にソロモンの一つのエピソードを選んだ。ソロモンは、父ダビデの王座を継いだときはまだ若く、ヤーウェの神を愛し父に忠実だったが、信仰はまだ弱かった。特に、異なる民族の女たちを通じて、他の国の宗教とその儀式に対して関心と憧れを抱いていた。はじめにある「ギブオン」の丘はちょうど他の神を拝む場所だった。まさにその場所にいたある夜、ソロモンは夢の中で神の言葉を聞いた。神は彼の弱さを叱りはせず、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言った。若いソロモンは、自分の民の数もわからないと言って、「聞き分ける心」を願った。それは、他のさまざまな声の中で神の言葉を聞き分ける知恵であり、そのことが今日の福音を理解するために大切だ。長寿も富も敵の命も求めなかったソロモンを神は褒めて、知恵を与えた。ソロモンは旧約聖書では特に知恵のある者とされ、雅歌やコヘレトの言葉、箴言といった繊細で美しい書物も彼が作者と考えられているが、それはこのエピソードのためだ。 
 福音朗読は、マタイ福音書の第13章の最後の箇所。3つのたとえが出て来る。最初の2つのたとえ、宝物のたとえと真珠のたとえは、双子のたとえとよく言われる。偶然見つけるか探し求めるかの違いはあるが、一枚の紙の表裏のようにセットになっている。 
 宝物のたとえ。古代世界には、失われた宝物を見つける話がよくあった。銀行もなかった時代、戦争が起こると、金銀といった宝物を地中に埋めて、戦争に行ったが、死んで戻らなかったため、宝物が行方不明になったといった話だ。古い土地であるナザレにもきっとそういう話があっただろう。イエスは何かの事件にヒントを得たのかもしれない。 
 マタイはイエスのこのたとえを伝える時に、宝物が具体的にどのようなものだったかを書いていない。このたとえのポイントは、真珠のたとえとも共通するが、喜びと、その後出かけてすること。つまり一生に一度のチャンスを逃さずに、それにすべて賭けるということ。 
 真珠も、金銀と同じく、昔は貴重なものだった。イスラエルだけではなく、インドでもそうだ。例えば仏教美術でも真珠が使われる。現在のように養殖技術がなかった時代、真珠はとても高価なものだった。 
 宝物の場合は突然に、真珠の場合は長い間探した後に、美しく価値のあるものを手に入れる一生に一度のチャンスに出会った。イエスが言いたいのは、神の国の知らせはそのようなものだということ。神の国とは、イエスの言葉だ。教父たちが解釈するように、宝物とは神の言葉であるイエス自身なのだ。神の言葉であるイエスに出会うのは、人間にとって最大のチャンスだ。何よりもその出会いは大きな喜びの原因だ。イエスに出会う人は、ルールを教える法学者でも審判者でもなく、人生に意味と喜びを与える方に出会う。イエスに出会うことで、隠れたもの(「畑に宝が隠されて」)、パウロが言う、人間の目が見ることができないものが明らかにされる(コロサイの信徒への手紙1・26)。神の神秘こそ喜びの源なのだ。これが第一の結論だ。

 そして、第二の結論は、「出かけて行く」ということ。イエスに出会うと、人生は以前と同じではない。イエスに出会うとは、神の目ですべてのものを見ること。自分の限界、自分の苦しみ、さらには自分の罪を越えて、神の言葉は、人間が見ることができない美しい世界を現す。パウロも言う、「

わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」(テトス3・4)。キリスト者は、すべてをそこにかける。

 第一朗読から考えると、キリストは、キリスト者の知恵だ。善悪、つまり神の御旨を聞き分けることができる知恵とはキリストだ。キリストとは肉になって私たちのそばに来た神の知恵なのだ。「知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う」(知恵の書6・14)。それは、私たちのうちに神の国が生まれていくことに気づく知恵だ。神の国は死んでからのことではなく、今この世で生きているうちに始まるのだ。 
 この2つのたとえのあとに、もう一つ小さなたとえが続いている。それは網のたとえだ。よく見ると、先週の毒麦のたとえと同じことがテーマになっている。網の中に、善いものと悪いものが混ざっているが、最後に神がそれを分ける。だから、先週と同じく、忍耐と神への信頼がテーマだ。どのような災いが混ざっていたとしても、最後は神の永遠が成功する。 
 今日の箇所の最後に、少し唐突な言葉がある。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。これはマタイが彼の福音書について言っていると聖書学者は考える。芸術家が作品にサインを入れたり、ミケランジェロやラファエロが作品の中に自分の姿を描くように、マタイはここで、自分の仕事について書いていると。つまり、マタイはその福音書で、「学者」のように、イエスから聞いた言葉の他に、初代教会の黙想を合わせているというのだ。
 要するに、マタイは今日の箇所で、私たちがキリストとの出会いをやり直すことを勧めている。その出会いは私たちの生活を変えることができ、聖アウグスティヌスが言うように、安らぎと喜びを私たちにもたらすことができる。

2017年

7月

23日

年間第16主日

ある人が良い種を畑に蒔いた。(マタイ13・24)

 今日のたとえは、よく理解すれば、教会を変え、私たち信者の生活を変えるほど、よいたとえだ。間違った神のイメージを変えるからだ。「毒麦」のたとえは他の福音書にはなく、マタイが特に大切にするたとえと言える。マタイはこのたとえを他の2つの短いたとえといっしょに伝える。そのつながりはイエス自身に遡るものかもしれない。マタイはいつものように、当時の教会の出来事を考えながらイエスの言葉を思い出して私たちに伝える。
 今日のたとえには、いろいろなニュアンスが含まれており、見方によっていろいろな意味が出て来る。
 先週のたとえと同じく、今日のたとえの舞台は畑。さらに先週のたとえと同じく、主人は畑に種を蒔く。先週読んだように、イエスの説明によると、畑とは第一に、世界のこと。さまざまな人がいて、さまざまな事情や出来事のある世界のことだ。第二に畑とは教会共同体のこと。先週読んだように、神は教会共同体という畑に種を撒く。第三に畑とは私たち一人ひとりの心のこと。それはさまざまな人物があらわれる歴史のことでもある。そして、種蒔く人とは、神ご自身であり、種とは神の言葉のこと。種は私たちを成長させ、この世界のうちに神の国が現れる。
 今日のたとえの中心は毒麦。毒麦とは罪のこと。私たち一人一人の心の中に突然芽を出し、現れる罪のことだ。それはショッキングなことだ。神によって造られた人間がどうして悪を行うのか。キリストに救われ洗礼を受けた信者がどうしてまた罪を犯すか。
 僕たちとは、教会共同体でイエスのために働く信者のこと。彼らは問題を神のせいにする。「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか」。彼らは畑の麦を大切に思って心配するより、神に対して怒っているようだ。そして、神より賢く、神より問題がわかっているかのように言う、「行って抜き集めておきましょうか」。その態度は、イエスがサマリアの人たちから受け入れられなかった時のヨハネとヤコブを思い出させる。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9・54)。あるいは罪人への罰を望み神が罪人を赦したことに腹を立てたヨナも思い出される。彼らは暴力をふるい、教会から罪人を追い出したいのだ。彼らはエリートで自分が清らかで罪人とはまったく関係がないと思い込んでいる。そして、他人にある悪に対して厳しい考え方をして、正義感をもって罰を下そうとする。放蕩息子の兄もそうだったし、私たちキリスト者もしばしばそうだ。彼らがわからないのは、毒麦を抜き集める気持ちは、毒麦そのものよりも悪いことだということ。彼らのやり方は問題よりも危ないということ。罪人を追い出すことは、神の働きをだめにするということ(「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」)。言い換えれば、人間は神にとって大切で、イエスが人のために命を捧げるほどだと彼らはわかっていないのだ。彼らは、結局のところ、毒麦に対して怒っても、神が撒いた良い種の価値をよく知らないのだ。それに対して、イエスは忍耐を教える。その忍耐は受け身でも投げやりでもない。彼は他の2つの例えで、どう待つべきかを教える。
 イエスの言葉は、私たち一人ひとりにも当てはまる。私たちも気づかないうちに悪魔に誘惑され、何かの罪に陥ってから気づくことがある。私たちの心の中には良い種といっしょに悪い種があるのだ。イエスが言うのは、罪に陥った時、自分の罪にばかり気をとられるよりも、神の愛を考えるべきということ。自分の罪に固着したのはユダだ。ユダは絶望に陥り、命を絶った。完全主義は、霊的生活の病気だ。それは本当の罪の意識ではなく、罪悪感に過ぎない。完全主義は人に対して冷酷にして厳しく審判させ、自分に対しても心を麻痺させて、心の中にある良いものを殺す危険がある。神は罪人がそのようになることを望まない。神は人間の罪ではなく、人間がなることができる聖人を見る。神にとっては、聖性の1グラムは何トンもの罪より重い(1ペトロ4・8「愛は多くの罪を覆う」)。イエスが言うのは、罪から解放されたければ、高いところに目を向け、神を愛しなさいということ。それは、教会の中に、また自分の心の中に罪を放任することではない。ただ、悪に対して戦うのは善しかないのだ。神が望むのは、自分の心の片隅にある悪に対しても憐れみの目を向けること。なぜなら、自分が神から赦されたと自覚する人だけ、人を赦すことができるから。キリスト者は神の愛によって罪を赦されたことを自覚した人のこと。福音書の道徳は、自分の正しさを中心にするファリサイ派の道徳ではなく、洗礼者ヨハネの道徳でもない。

ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)
ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)

 「毒麦」のたとえのすぐ後に二つの短いたとえが続く。最初はからし種のたとえ。ユダヤ人にとってエルサレムは山の上のレバノン杉のようなものだった(エゼキエル17章参照)が、新しいエルサレムであるイエスの教会はそうではない。ほとんど目に見えず風に飛ばされるほど小さな種から成長する。イエスは大きなものや権力ではなく、謙遜で小さなものを愛するのだ。イエスが考える教会共同体も大きなものや権力を求めず、人に奉仕する。
 次はパン種のたとえ。そこには、信者が信頼を抱き勇気をなくさないためのメッセージがある。教会共同体は小さな存在で力もなく、キリスト者一人一人の生活も役割も第二朗読のパウロが言うように「弱い」が、絶望してはいけないとイエスは言うのだ。イエスはきっと子どもの頃、母マリアがパンを作った時のパン種の様子を何度も見たことだろう。少しのパン種がたくさんの粉を動かす。死んだものが生きたものになる。パンの文化がある国々では、数十年前まで家でパンを作っていたから、子どもたちはパンが大きくなる様子を見て驚くことができた。少しのパン種で家族の一週間分のパンを作ることができたのだ。
 このパン種のたとえには、よく見逃されるディテールがある。「三サトンの粉」とあるが、それは40キロにもなる。家庭の主婦がそれだけの小麦粉を使うわけではない。それは何百人もの人たちを食べさせることができるほどの量だ。だから、イエスが言おうとしているのは、家族のパン(あるいは教会共同体の日曜日の聖体)のことではない。むしろ、宴会、特に婚礼の宴会のことだろう。福音書では神の国がよく大宴会にたとえられる。つまり、イエスは小さな家族ではなく、全世界を考えていて、希望をもちなさいと言っているのだ。 

 この三つのたとえの後に、弟子たちが質問する箇所がある。イエスが話の後に家に入ると、わかっていない弟子たちがイエスに説明を求める。日本語訳では「説明してください」と丁寧語だが、ギリシア語では命令で、「説明しなさい」というほどのニュアンス。実は弟子たちは理解していなかったというより、納得してなかったようだ。彼らはたとえの意味がわからないのではなく、内容に納得していないのだ。つまり、彼らはまだイエスの言っていること、イエスの言う「小さな人」についてまだ十分にわかっていなかった。このことは福音書に何度も出てくる。イエスが天に昇った後でも、弟子たちはなかなか信じなかった。それはよく見れば、私たちの誘惑でもある。私たちは今日の日曜日の福音書によっては自分の考え方や態度を調べるように勧められている。


2017年

7月

16日

年間第15主日

ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ13・8)

JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)
JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)

 山上の説教と弟子の派遣に続くマタイ福音書第13章。それは七つのたとえが出て来る有名な章だ。イエスのたとえをマタイは自分なりの形で編集する。そこでは「天の国は次のようにたとえられる」という表現がよく使われる。天の国は遠い未来のことではなく、私たちが正しい態度で生きるなら、今ここで始まるとマタイは言いたいようだ。

 イエスのたとえ話はとても美しい。一見素朴だが、意味深長で、深く聞くことを要求する。イエスはすぐれた説教者で、心に触れる例を使ったのだ。そのたとえは彼の神性からとったものではなく、周りの自然についての注意深い観察から得られている。空の鳥と野の百合、雀、太陽、雨、雲、夕日、稲妻、いちじくの木とぶどうの木、麦の穂、アザミ、野良犬、木の虫と枯草、カラス、魚、羊、狐、サソリなど。

 今日の箇所には、種と種撒く人のたとえが出て来る。他の共観福音書にも出て来るたとえで、私たち信者には親しまれたイメージだが、読めば読むほど驚くべきニュアンスが出てくる。今日の典礼はこのたとえ話のポイントを示すために、第一朗読にイザヤ書の一つの箇所を選んだ。それは文学的にも美しい箇所で、もしかしたらイザヤ書でもっともすばらしい箇所かもしれない。それによると、種とは神の言葉だ。その言葉は、私たちに語るだけではなく、神の力を示し、神の子の名を意味する言葉であって、世にあるすべての美しいものの最初にあって創造する言葉なのだ。

 今日の福音書の箇所をよく見ると、大きく二つに分かれている。第一の部分は、イエス自身に遡る。第二の部分は、イエス自身の言葉以外に、教会とマタイが編集したところ。イエスの言葉についての初代教会の反省を表している。その難しい言葉をどう理解したらいいのか、教会の反省を示す部分だ。

 第一の部分の主人公は、種撒く人。それは父なる神ご自身だ。イザヤがすでに注意しているように、神はその言葉によってすべてを創造する。だから、種とは、世のはじめにあって、創造する力のある神の言葉のこと。このたとえでイエスが私たちに語る父なる神は遠い神ではなく、私たちのそばで力強く働いている。それは、イエスによって働く神だ。

 種蒔く人のたとえは私たち現代人からすると、何かピンと来ないところがある。もし主人公が神なら、なぜ種をこんなに闇雲に蒔くのか。当然のことだが、イエスは、当時の百姓たちのやり方を参考にしている。当時は今とは違い、土を耕してから種を撒くのではなく、種を蒔いてから鋤で種に土をかけていた。今から考えると、不合理なやり方だ。つまり、イエスはまず、当時の農業の方法を前提としている。

 しかし、それだけではない。イエスが種蒔く人の態度で示したいのは、もう一つのこと。だから、このたとえは私たちにも大切な意味がある。つまり、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神はどんな人(土)にも、キリストによって自分の言葉(種)をもたらす。つまり、ペトロも言うように、神は人を選ばないのだ。神は、善い人だけではなく、あらゆる人に自分の言葉を力強く届ける。そして、どんなことがあったとしても、反発するどんな悪い状態(土)があったとしても、どんな災いや問題(雑草)があったとしても、イザヤが暗示するように、必ず最後にその言葉(種)が実ることをイエスは何よりも言いたいのだ。別な言葉で言えば、神は人間に対して限りない信頼を寄せている。宣教の難しさ、イエス自身、そしてイエスの弟子がぶつかる困難にもかかわらず、神の国は必ず完成する。

 このことは私たちに何を言おうとしているか。たとえば、ルカが報告するように、悪い生活を送った強盗も、十字架上の最後の瞬間でイエスから癒しを得て天に入ることができたことがそうだ(23・42ー43)。または教会の中にある、さまざまな聖性の歴史が思い出される。このたとえの最後に、父なる神の言葉の力が示唆されている。すべてのものの中で最後に残るのが父なる神の言葉なのだ。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。だから、マタイがイエスの言葉について私たちに言うのは、注意しなさい、この言葉は他の言葉と違う、他のつまらない言葉と違って、この言葉に対しては特別な聞く態度が必要だということ。

 第二の部分は、イエスの言葉についてのマタイの教会の反省。ちょうど説教のようなもので、どのようにその言葉を聞くべきかを教えようとする。初代教会の信者たちがイエスのこのたとえに対してどのような態度をとっていたかがわかる。この第二の部分は、こんにちの私たちにも特別な意味がある。

 まず、神の言葉は、すべての人に対して変わらず同じ形で与えられている。それに対して、その言葉に対する態度は、拒否する人から受け入れて百倍の実りを結ぶ人までさまざまだ。イエスの言葉に対する態度は、4つのグループに分かれる。

 第一のグループ。その人たちは神の言葉を聞くが、言葉は心の中には入らず、悪魔がその言葉を奪ってしまう。種は道の上に落ちて鳥が食べてしまう。当時は今のような道ではなかったが、道の上を人が何度も通ると、 土が固くなり種を受け付けないようになる。それはこんにちの私たちの世界に似ている。マスコミやネットにさまざまな情報があふれ、何が正しいか正しくないか、さまざまな意見によって私たちは振り回される。私たちは洗礼を受けても、世間的な価値観に流される危険がある。キリスト者であるためには、キリストについておおまかに知るだけでは十分ではなく、イエスを深く知り、イエスに深くつながらなければならない。

 第二のグループ。石の上に落ちた種は根を下すことができず、日に焼かれて枯れてしまう。それは感情的に好きになるが、すぐに忘れてしまう人のこと。例えば、洗礼を受けてしばらくしたら、教会から消えてしまう人がいる。教会に来て活動をしていても、イエスが中心ではないなら、十分ではない。種のように忍耐強く成長しなければならない。引き続き、知識を深める必要がある。そして知識だけではなく、キリスト教的態度の訓練をしなければならない。例えば、長いあいだ他の信者とのあいだに喧嘩が続いて、赦し合えない状態なら、キリスト信者としての基本が欠けているのだ。

 第三のグループは、茨にふさがれる。教皇フランシスコは最近よく、世俗化という言葉を使う。つまり茨とは、世俗的な価値観や世俗的な生き方のこと。何に重きを置くかが間違っているのだ。

 最後の、第四のグループは、「良い」というより「美しい」土地に落ちる。実るとは、外面的な知識をもっているだけではなく、それぞれの形で人に赦しを与えることができるようになるということ。「百倍」という実りの大きさについてはイエスは「からし種」という別のたとえも使う。イエス自身、弟子の成長、キリスト者の霊的生活の深まりに驚くのだ――我が子が赤ちゃんから大人になるのに驚く母親のように。詩編1にも、流れのほとりに植えられた木が季節ごとに実をつけるとある。

 そのためにはしかし、その言葉に対して私たちの側に受け入れる態度が必要だ。それは具体的に言うとどのような態度か。それは騒ぎを抑えて、沈黙し、その沈黙の中で、他の邪魔になることを消すこと。例えば、自分が足りないものである自覚が必要だ。自分には何もかもわかるという態度ではイエスの言葉はわからない。エゴイズムを捨てて、神に場所を与えること。神が私たちのために働いていることに信頼すること。心を清めて、内面的な静けさを保つこと。要するに、祈りの態度が必要だ。

 今日のたとえについて思い出されるのは、司教や司祭、カテキスタなど、教会の中で神の言葉に対して責任をもつ人のこと。マタイが私たちに思い出させるのは、他のものを混ぜないで純粋な種を蒔くこと。そしてついでに、イエスのように困難に負けず、種を撒きつづけること。司祭の最大の役割は聖体と神の言葉への奉仕であり、そのために深い愛情と、細やかで謙遜な準備の仕事が必要とされる。神の言葉を伝えるのは大きな喜びであると同時に大きな責任があるから、習慣に流されて説教をすませてはならない。そのような難しい役割のために、信者の祈りも必要だ。司祭職については教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』第三章Ⅱ及びⅢ(135~159)にすばらしいページがあるから、私たちはそれを共有すべきだ。

 神の言葉に責任をもつ人だけではなく、聞く人の準備も同時に大切だ。たとえば、教会のミサの時間を守らず途中で来る人がいる。私たちは聞く人にならなければならない。聞くことを学ばなければならない。聞くことは簡単なことではない。どのように神の言葉を聞く準備をするか、どのように霊的生活を育てるか、どのように神の言葉について反省するか、考えていかなければならない。それは抽象的なことではない。私たちは、騒がしい一般の会話から急にミサに移ることはできない。いろいろな具体的なことが考えられる。

 今日のたとえはさまざまな時代に当てはまるだけではなく、私たちの共同体、まさに今日この日の私たちの共同体にも当てはまる。日曜日ごとに神は、私たちの心に種を撒く――信頼し忍耐し、たゆまず惜しみなく。そして、例え話のように私たちの共同体でも、ある人たちは100倍、ある人たちは60倍、ある人たちは30倍の実を結ぶのだ。


2017年

7月

09日

年間第14主日

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。(マタイ11・29)

オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵
オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵

 今日の箇所は有名な箇所。いろいろな解釈があり、もしかしたらマタイ福音書の中で一番有名かもしれない。このページには大切な宝物がある。とにかく目立つのは、イエスの悲しみと喜び。イエスは神でありながら、人間として私たちのように悲しみ喜ぶ。

 今日の箇所はイエスの公生活のはじめのころの出来事。イエスは、彼の言葉を受け入れない古臭いナザレから出て、ティベリアス湖のほとりにあるカファルナウムやベトサイダで布教を始めた。そこでも何か月か経つと次第にナザレと同じように反発に遭うようになる。洗礼者ヨハネも弟子をイエスのところに送って、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせる。ヨハネもイエスの教えに納得していなかったようだ。それに始まり、ナザレとは違った形だが、反発が次々と出て来る。イエス自身の弟子も何人か、失望しあきらめて離れてしまったようだ。要するに、今日の箇所はイエスの布教の失敗という状況が背景にある。なぜ失敗したか。何よりも、イエスは聞いている人たちに対して厳しい態度をとるということが考えられる。「…する人は災いだ」ということも言う。失敗して失望をあらわすイエス。

 私たちにもそういうことがある。私たちも信者として、両親として、司祭として、宣教師として、課題に一生懸命取り組んで、神について、また一つの理想について話そうとするが、相手に受け入れてもらえないことがある。そんな時、私たちはよく失望して、落ち込む。

  このような状況に対してイエスがどのような態度をとるのかは興味深い。マタイによると、イエスはその時祈りに入る。祈りと言っても、何かの願いをするわけではない。イエスは祈りのうちで、そのような状況を父なる神の目から見ようとするのだ。今の状況にはどのような意味があるか、父なる神の思いはどこにあるのか。挫折を経験したイエスは、いつものように祈りに行くのだ。

 そこで、今日の箇所でもっともすばらしい一つの祈りが出て来る。短いが明解で、美しく、神学的にも重要だ。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。「父」とは原語でアッバだ。福音書には182回出て来る。181回はイエスが使っており、1回だけ(最後の晩餐の時に)フィリポが「御父をお示しください」と言うが、イエスから習った言葉であり、イエス独特の言葉だ。よく知られているアッバとは父という意味だが、赤ちゃんが使う言葉なので、ラビなど律法学者にとっては神に対して使うことが考えられなかった言葉だ。イエスがアッバという言葉を使ったということは私たちにとって大切な意味がある。例えば神について子どもに教えるとき、アッバという言葉の意味を踏まえて、イエスの心を伝えなければならない。この言葉によってイエスは父なる神と彼自身との関係を示している。

  「ほめたたえます」とは原語ではベラカーで、祝福や感謝を意味し、聖書では大切な言葉だ。このような言葉を使って、イエスは失敗の悲しみの中にもある喜びを示す。それは、何か大切なことを見い出して、天に昇るような喜びの叫びだ。

  「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、山上の説教などで示されたイエスの教えであり、人間に対する神の計画のこと。「知恵ある者」とは聖書の知恵文学を連想させる。「幼子のような者」とは「小さい者」ということ。「賢い者」と「幼子のような者」との対語には注意しなければならない。知識があるかどうかという外面的なことではなく、内面的な態度のこと。学者であっても、神の言葉を学ぼうとして「幼子のような者」であるかもしれないし、逆に本を読まない人も、自分の考えにこだわって「賢い者」のようであるかもしれない。イエスがこの言葉で言おうとするのは、自分の考えに満足し、他に何も探し求めず、新しいものに目を向けない状態、つまり、自分に閉じこもり神に心を開くことがない状態の人のことだ。だから、イエスは外面的な身分のことではなく、内面的な心の状態について言っているのだ。

 教皇フランシスコは、イエズス会員は未完結で開かれた考え方をする人でなければならないと言っている。つまり、教義に書いてあり、教科書で習ったことよりも、神はいつも向こうを行くと考えるのだと。つまりこの言葉でイエスは自分の道を示すとともに、同じような問題にぶつかる私たちにも進むべき道を教えている。彼が見い出したのは、父なる神がその賜物を人間に与える時に、人間の自由を尊重もするということ。神は誘うが、押し付けない。だから、イエス自身が失敗と感じたことは外面的なことにすぎない。人を信頼すること、人に忍耐し暴力を振るわないこと(「柔和」!)、人を毒麦扱いしないこと――それはイエスの教えのうちにいつも出て来ることだ。要するに、作物の成長を見守る百姓のように、無理せずにその時期を待つこと。私たちも失敗して落ち込む時も、神を祝福し、信頼を忘れず神に任せて忍耐するようにイエスは教えてくれているのだ。

 今日の箇所の最後にも大切な言葉がある。それはこの箇所を照らす言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。すばらしい言葉で、私たち誰もが言ってほしいことだ。まさにイエスのやさしさ、「柔和」と「謙遜」を感じさせる。メシアであるイエスは、第一朗読にある通り、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」者なのだ。  「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。軛とは、今の日本の生活には見られないが、牛などの動物を対で、同じ速度で働かせるためのもの。牛の軛は非常に重い。当時は、律法は軛であり、ファリサイ派や律法学者のような権力者は、民を動物のように奴隷として支配するための道具として律法を使った。それに対して、イエスは厳しい言葉を口にしている。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・4)。律法学者が抱かせる、独裁者のような神のイメージと、神の掟についてのゆがんだ考え方に対してイエスはきわめて厳しく、まったく逆の、独特の考えを抱いている。イエスはここでその言葉を使って、「わたしの軛」と言う。ただし、その軛は「負いやす」いと言う。弘法大師が遍路とともに歩くことを同行二人と言うが、「わたしの軛を負う」とは、イエスを基準として、イエスと同じように生きる勧めだ。「わたしの軛」とは「わたしの掟」のこと。イエスの掟は、神から愛されて、神と隣人を愛することだ。「私から習いなさい」とは、そのような掟、神の御心をどのように行うかをイエスから習うということ。つまり、イエスといっしょに、イエスのような態度で、父なる神の掟を生きること。  2011年のバチカンのコロッセオでの十字架の道行きでは、アウグスティヌスのヨハネ福音書注解2・2より「十字架から離れるな。離れないなら、十字架はあなたを背負う」という言葉が引用されていた。律法学者やファリサイ派は「重荷を」「人の肩に載せ」ていた。つまり、人に自由を与える代わりに、人を奴隷にしていた。掟を網のように人にかけていたのだ。そして、その掟に縛られて、神との関係について議論する状態だった。それに対して、イエスは、彼自身といっしょに彼自身のように掟を実現することを勧める。その荷が「軽い」のは外から動かされるのではなく、イエスが心に吹き込んだ聖霊によって内から動かされるから。その掟は愛の要求だから。 

 「柔和」とはヘブライ語のアナウィンという言葉に相当する。アナウィンとは、もっとも弱い、見捨てられた、何もない、神だけに委ねられた、貧しい、ということ。それによって本当の喜びが見い出されるのだ。結局のところ、イエスの言葉、神の言葉、聖書を理解するのは、「賢い者」ではなく、愛を込めてその言葉を受け止めた聖人なのだ。

 イエスの悲しみと喜びを記す今日の箇所は、私たちにとって大きな意味がある。失敗を経験したイエスが祈りのうちに見出したこと――実はイエスはいつもそうで、その道を最後まで歩むのだ。


2017年

7月

02日

年間第13主日

 イエスがキリストであり主であることを悟り深く経験した復活節の後に、教会はイエスの言葉と行いについて黙想する。それが年間と呼ばれる期間だ。それはイエスが自分の共同体を作り教育する期間でもある。そして、先週から読まれているのは、マタイが記すイエスの四つの有名な説教の一つ、宣教についての説教だ。先週の箇所でイエスは派遣する弟子たちに「恐れてはならない」と言うが、今日の箇所では、派遣のもう一つの面が示される。 
 今日の箇所には一見難しく反発を感じさせるところがある。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。イエスは天の国が近づいたことを知らせるために弟子たちを派遣するが、それは簡単な任務ではなく、危険や苦難や孤独を伴い、迫害や脅迫に遭い、イエスと同じように殺されることもある十字架の道だとイエス自身わかっている。今日の箇所をまとめたマタイの当時、すでに迫害が始まっていた。しかし、今日の箇所の最後には印象的な表現がある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。「小さな者」という言葉には、弟子たちに対するイエスの愛情深い心が表れている。この言葉は、今日の箇所全体を照らす言葉だ。 
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。この言葉にもショッキングなところがある。しかし、イエスは両親を大切にしなくてよいと言っているのではない。イエスが言うのは、イエスが信仰の基準であり、すべてを判断する基準であるということ。多神教にはさまざまな神々がいて、それぞれの神が何かの役割を果たすが、旧約聖書のヤーウェはそうではなく、自分を燃やし尽くす神であり、愛のジェラシーを抱く。キリスト教にもそういう面がある。唯一の神だからこそ、深い関係をもつことができるのであり、どの神でもいいなら、最終的にどうでもいいことになる。 
 今日の箇所でもう一つ大切なのは「受け入れる」という言葉。それは客を自分の家に迎え入れるということ。今日の箇所には原文で6回出て来る。福音書の他の箇所にも使徒書簡や使徒言行録のさまざまな箇所にも出て来る。
 教会は今日の福音書の箇所の理解の助けとして、預言者エリシャの有名な美しい物語を第一朗読に選んだ。金持ちの婦人はエリシャを家に迎え入れる。彼女は彼をふつうの客として迎え入れたのではない。彼が「聖なる神の人」だとわかったから、階上に部屋を増築して、ベッドとテーブルと椅子とスタンドを備えたのだ(何か居心地がよさそうで、ゴッホが描いた部屋さえ思い起こさせる)。今日の箇所をまとめたマタイはこのような物語を記憶していたかもしれない。イエスも、パウロをはじめとする初代キリスト教の弟子たちもみな、彼らを家に迎え入れた人たちといっしょに宣教した。パウロの手紙のさまざまな箇所に恩人の名前が出て来る。ヘブライ人への手紙にも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(13・2)と書かれている。注意すべきなのは、ただのもてなしではなく、神から送られた者を迎え入れること。つまり、移民の受け入れのようにただ人を受け入れるだけではなく、「預言者として」「正しい者として」「わたしの弟子だという理由で」受け入れることが今日の箇所で勧められている。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵

  「受け入れる」とは「信じる」と似た態度だ。キリスト者とは言葉を聞く人、受け入れる人のこと。「信仰は聞くことから始まる Fides ex audito 」。キリストは肉になった神の言葉だから、キリスト者は、自分の家に神を、キリストを迎え入れて世話をする。神の言葉を自分のうちに受け入れ守って瞑想した代表的な人物がマリアだ。生まれつきキリスト者である人はおらず、キリスト者であることは世襲ではない。信者の両親から生まれた赤ちゃんもキリスト者として生まれるのではなく、神から送られた人を受け入れることからキリスト者としての生活が始まる。 

 キリストを受け入れるのは、実はキリストから受け入れられることだ。パウロは言う、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。私たちはミサの時にキリストから受け入れられ、互いを受け入れるように要求される。 
 今日の箇所はこんにちの私たちの信仰生活について何を語っているか。「預言者」、「正しい人」、キリストから送られた人とは、具体的に言うと、教会で教皇や司教、司祭など、さまざまな形で神を伝える人のこと。今日の日曜日は、そのような人たちのことを考えて感謝するよい機会だ。そして、私たちはそのような人たちに、神について話してくれるように頼むべきだ。それが彼らの役割だから。だから、司祭たちの邪魔をしないように遠慮するというのは信者の正しい態度ではない。司祭たちにしなければならないことがあれば別だが、話をしてくれるように頼んで司祭たちに仕事をさせた方がいいのだ。 
 そして、彼らが言うことを受け入れるためには、ドチリタス―学ぶ能力が必要だ。そもそも何かを学ぶためには、自分の知識が十分ではなく他人から学ぶ必要があるという自覚が前提だ。これは当たり前の態度ではない。この態度を信者は育てなければならない。 
 こんにちの私たちの社会は深い関係をもたず表面的外面的一時的だ。長い間いっしょにミサを捧げても、名前も知らず話をしたこともない人もいる。相手を知ろうとすること、相手の言葉に耳を傾けること、お金だけではなく時間を費やすこと、相手が必要としているものに気づくこと、違いを受け入れること――それが相手を受け入れることだ。

2017年

6月

25日

年間第12主日

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10・27)

ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂
ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂

 復活節の輝かしい主日が続いた後、典礼は唐突にマタイ福音書の朗読に私たちを連れ戻す。今日のテーマは派遣と迫害だから、夢から突然目が覚めたように感じられる。実はマタイが今日の箇所を書いたとき、キリスト者の迫害が目の前にあった。イエスを信じた信者たちはユダヤ人たちから訴えられ迫害されていた。そのような難しい危機の時期をどのように生きるべきか。それに対してマタイはイエスの言葉を思い出してそれを信者たちに伝える。エマオの弟子たちについてルカは、心が燃えていたことに気づいたと書くが、同じようにマタイは、心が燃えていることを感じさせるために、イエスの言葉をまとめて私たちに伝える。

 マタイ福音書第10章は、弟子たちの派遣について五つの話がある。派遣された人、宣教する人、迫害された人はどうしたらいいか。今日の箇所はその2番目の話だが、文章と文章のあいだに直接的な関係がなく、いくつかの言葉がまとめられているようだ。

 今日の福音書の箇所を理解するために大切なのは第一朗読。今日の典礼をまとめた人たちは旧約聖書から一人の派遣された人物の美しいエピソードを出す。それは預言者エレミヤだ。エレミヤとキリスト者には大きな共通点がある。暗闇、試練、苦しみ、迫害に遭うが、同時に光もある。エレミヤ書20章を聖書学者は聖アウグスチヌスの『告白(録)』に倣い、エレミヤの告白録と呼ぶ。エレミヤは繊細で、祖国と民を愛し、愛情に敏感な人物だった。しかし、さまざまな問題が起こり、親族から見捨てられ、友人からは裏切り者として憎まれ、愛する女性から引き離され、民から訴えられ拷問まで受けて、当てもなく放浪した。神からの召し出しに忠実であったがために、光と喜びだけではなく、暗闇と疑いを経験した。20章1~6節に書かれているように、イエスと同じように鞭で打たれ、ゲッセマネや十字架のイエスと同じように神から見捨てられる経験をしたのだ。しかも同時に、その中にも突然、神の現存を経験した。「主は恐るべき勇士として私と共にいます」。神は派遣した弟子たちの孤独と苦しみを知っているというのが今日のテーマだ。

 ルカが報告する、エマオの弟子たちはイエスの姿が見えなくなってから語り合う、「わたしたちの心は燃えていたではないか」。それは、苦しみの中の喜び、血まみれの喜び、見捨てられても愛されていることの喜びだ。キリスト教の歴史の中で殉教者たちはいつでも、言葉で言えないそのような喜びを感じてきたことが記録されている。 今日の箇所でマタイはイエスの言葉を思い出して二つのことを信者たちに伝える。

 一つは「恐れるな」。パウロが言うように、宣教にはさまざまな危険がある(第二コリント11・23-29参照)。しかし、召し出しを受け派遣された人は、赤ちゃんのように胎内に閉じこもり危険から逃げる誘惑、受けた宝物を独り占めにして秘密にする誘惑を乗り越えなければならない。教皇フランシスコも「外に出かけなさい」と言う。偽物の宣教師は人気や称賛を求めるが、本物の宣教師は伝えるべきメッセージを曲げず迫害される。肉体的な迫害だけではなく精神的な迫害もある。今は血が流されるだけでなく、からかわれたりばかにされたりして、名誉が傷つけられる。

 しかしイエスが言うのは「恐れてはならない」。なぜか。宣教師のために神が見張りをするから。イエスの神は、名誉教皇ベネディクト16世がよく言っていたように、大きな権力や名誉や称賛だけではなく、一番小さいことを見るのだ(「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」)。イエスの神は、大きな象だけではなく、小さな雀を見る。イエスが話をしていたときに、彼の目の前に一羽の雀が飛んでいたかもしれない。またはイエスは一つの詩編を思い出したのかもしれない。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています」(詩84・4)。だから、命を奪う人を恐れてはいけない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。権力の前であっても、イエスの教えを曲げずにそのまま伝えなければならない。イエスは派遣された弟子たちの苦しみを知っている。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)イエスは弟子たちの弱さを知っている。こういう言葉を聞く時、教会のために尽し名前も残さず消えてしまった人たちのことも思い出したい。

 今日の福音書にはもう一つの宝物がある。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。これは直前の節と混同されて、秘密にしてはいけないという意味だとよく誤解されるが、そうではない。暗闇で語ったり耳元でささやくということは、床をともにする男女の親密さを思わせる。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」(雅歌2・6)。宣教とは最終的に、技術でもでも学問でもない。宣教とは神から愛された経験を伝えること。イエスから秘かに打ち明けられた愛の言葉を人に黙っていられないことだ。本物の召命の最初にあるのはそのようなイエスとのあいだの経験なのだ。ルカによると、イエスは父なる神との祈りの中に夜を過ごしていた。イエスと父なる神のあいだにどのような夜の会話があったか。そこからイエスの宣教が始まり、弟子の召命が始まる。その美しい愛の経験をマタイは、年間に戻る今日の主日に、思い出させたいのだ。


2017年

6月

18日

キリストの聖体

「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・51)。  

ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵
ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵

 先週に続き、今日の祭日も一年の典礼の流れの中で特異。なぜこの祭日が出て来るかを理解するために、この祭日がどのように始まったかを見る必要がある。キリストの聖体の祭日は、聖体に深い信心を抱いていたフランドル地方の修道女たちの信心から始まった。そして、彼女たちの司牧をしていた司祭がパパ様になったことをきっかけとして、西洋の信者のあいだに少しずつ広がった。この祭日の典礼(ミサや教会の祈り)の言葉には、聖トマスが作ったものもある。西洋のキリスト教国では、今日の祭日は聖体行列などその地方の風俗に合わせた形で祝われ、社会の中で信仰が表現される。
 日本の教会には西洋のような風習はほとんどないが、この祭日はミサの捧げ方や聖体に対する態度、主日の生き方を見直す、よい機会になる。というのも、教会に行ってミサに与っても、習慣に流されて、考えずに同じことを自動的に繰り返してしまう危険があるから。聖体はそもそも、神から教会への特別な賜物だ。復活したキリストはその言葉と聖体で共同体に現存する。キリスト者にとっては、主日の喜びのうちに復活したキリストに出会うことは、生活全体の中心であるはずだ。初代教会の時代、信仰を捨てるなら命を助けようと迫害者から言われたのに対して、若い信者たちは「主日のキリストなしに私たちは生きることはできないsine Christo Dominico vivere non possumus」と答えて殉教したという有 名な逸話がある。新しい週のはじめであり、イースターを意味する主日はキリスト者にとってそれほど大切なのだ。その日に私たちは、イエスに言われたように、イエスを思い出しながら、ミサでいっしょに食べる。それなのに、私たちはしばしば、習慣的に祈ったり聖体拝領して、聖体がキリストに対するどのような契約であり、兄弟に対してどういう関係を要求するかを忘れ、いっしょに集まりながら互いを受け容れなかったりする。習慣に流される危険は信徒だけではなく司祭にもある。マンネリでミサを立てたり、十分な祈りの準備なしに話をしたり、または自分が宣言することを十分に考えなかったり、キリストを示す代わりに何か変わったことをして自分をアピールしたり。だから、私たちの共同体の主日の聖体祭儀は、私たちの信仰の体温計でもある。今日の祭日はそれについて反省する大切な機会だ。
 第二バチカン公会議の典礼改革によって、今日の祭日に読まれる聖書の箇所(第一朗読、答唱詩編、第二朗読、福音朗読)は増えて、3年周期で12箇所となった。簡単に言うと、A年のテーマは、聖体祭儀が命を与える神の言葉であること。B年のテーマは、新しい契約の生け贄。C年のテーマは、キリストであるパンを受け入れることによって、キリストが戻るまでキリストを宣言するという終末論的なテーマ。
 今年A年の三つの朗読について見てみよう。
 第一朗読は出エジプト記の箇所。荒れ野をさまようユダヤ人たちにエジプトの玉ねぎの代わりに旅路の糧として与えられたマナ。それによって聖体が前もって示されている。聖体も旅路の糧だ。

 しかし、聖体は他のすべての食べ物と違う。福音朗読で言われるように、マナを食べた人も死んだが、聖体は、人間が用意できず期待もできない特別な神の賜物だ。先日教皇フランシスコが言ったように、人間が生きるために必要なのは物質的な食べ物ではない。必要なのは、愛情や幸せ、生きる意味だ。多くの人たちは物質的な食べ物があっても、先に進む力になる糧を知らない。自分の人生の意味がわかったり、何がいいか悪いかを区別する力がない。結果として、生きているように見えても、死んだ人のように孤独だ。それに対して、神の言葉であるキリストは彼こそが本当の食べ物であり、生きる意味を与え完成すると宣言する。キリストは、私たちが永遠に愛されていること、そして永遠に愛する力があることを知らせてくださるのだ。食べ物になるキリストだけが、私たちに命を取り戻させ、私たちに命を与えることができる。それによって、失敗した後であっても、新しく生まれることができる。神にとっては私たちの罪の一つ一つは問題ではない。神が心配するのは私たちの罪ではなく、先へ進めないことなのだ。

 第二朗読はパウロの手紙。コリントの教会は生き生きとした共同体だったが、大いに喧嘩好きで、争いが絶えなかった。コリントの信者たちはキリストに出会い神に出会っていたが、個人的な性格や社会的な状況の違いのために、あるいは権力争いのために対立し合っていた。こんにちの私たちの共同体も世界中どこでも同じ問題が起こりうる。小教区でも教区でも、考えの相違で衝突したり、互いに人の上に立とうとしたり。だからこの箇所は聖体の話をしているが、パンだけではなく共同体の事情についても語っている。社会全体の中で起こっている問題はさまざまな形で、私たちの小さな信仰共同体にも響いている。
 パウロは言う。裂かれたキリストの体だけが私たちを一致へと導くと。私たちキリスト者は、互いに似ていたり、共通の趣味や習慣をもつから一つに集まるのではない。もともと違っているが、十字架につけられて死んだキリストに呼ばれたから一つに集まるのだ。しかも、自分の力で行なったよい行いの功徳の報いとしてために呼ばれたのではない。キリスト者は、キリストに愛され恵みによって救われ、いただいた赦しに感謝して、それによって人を赦し愛すると自覚している。だから、聖体祭儀は人間が作った儀式ではなく、教会堂は、一般的な願い事をする場ではない。教会堂は、私たちのうちに命が湧いてくる場所であり、永遠の命に向かって歩むことができる希望の場所だ。
 福音朗読は、ヨハネ福音書より。聖体について述べる第6章は初代教会の説教とも言われているが、今日の箇所は第二朗読と同じく疑いと争いの箇所だ。私は生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きるとイエスが言った後、ユダヤ人のあいだに大きな騒ぎが起こった。このスキャンダルは、私たちにとって大切だ。なぜなら、私たちはイエスのこのような言葉に慣れてしまって、その革命的な力を感じなくなりがちだから。私たちは毎日曜日集まって自動的に同じ言葉を繰り返して、席の順番に聖体を拝領したりする。だから、このショッキングな出来事はとても大切だ。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。その賜物は、旧約時代にすでに預言されていたが、ここにリアルに私たちの前にある。イエスはサマリアの女にも同じことを言ったが、それは人間的には理解できず、神によってのみ理解できることだ。ある人たちはこの言葉を受け容れることができないが、イエスは、この言葉を受け容れこの言葉に身をゆだねるように私たちに求める。この言葉を受け容れるには聖霊が必要だ。
 今日の祭日は私たちの聖体祭儀のあり方、ミサに参加する態度を見直すべき日。ミサのためにどのように心の準備をするか、どれだけ祈りの中でミサを始めるか、ミサの後でどう感謝するか。ミサをよりよくし聖体を生きるために何が妨げとなるか、祈りの中で見直したい。 


2017年

6月

11日

三位一体の主日

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3・16)

アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵
アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵

 先週の聖霊降臨の主日で復活節が終わり年間に入ったが、今日、教会は三位一体の主日を祝う。毎日曜日の典礼は抽象的神学的なテーマより、イエスの生涯を辿っているから、今日の祭日は少し不規則だ。教会は復活節を終えた後、山に登って全体の景色を見渡すように、立ち止まって神の神秘を観想するように私たちに勧めるのだ。といっても、三位一体について神学的に細かく話すのではなく、聖書の言葉を聞いて沈黙のうちに観想すべきだ。
 今日の朗読には印象的な箇所がいくつかあるが、特に二つの表現に注目したい。一つはヨハネ福音書。その短い箇所に「独り子」という言葉が2回出て来る(新共同訳ではそれ以上出てきているが、原文では2回)。私たちも神の子とよく言われるが、イエスは私たち人間がそうである意味でではなく、独特の、本来的な意味で神の子である。「神の独り子」とは、復活のイエスに属する名称であり、信仰宣言で記念されること。私たち人間は誰も神を見ることができないが、イエスを見ることによって、神の姿を垣間見ることができる。特に十字架につけられたイエスを見ることで、神がどういう方かを見ることができた。それだけではなく、イエスと一つになることで、私たちも神の養子にされるのだ。
 第一朗読でモーセが捜していた神、あらゆる山の頂きと雲と雷の上方にいる神は、イエスによって私たちのうちにいる。三位一体の神は、私たちの外だけではなく、内にも存在する。遠いところだけではなく、私たちの心の中にもいる。聖書によると、キリストと一つになった私たちの心には、測ることができないほど深い深淵があり、そこは豊かな宝物がある。私たち一人一人の心の中に照らす光があり、それによって私たちは神の子として生きることができる。だから、外界に向かう心の窓を閉じて、自分の中に沈潜する祈りが大切だ。イエスは父なる神にアッバと呼びかける勇気を私たちに与えた。私たちは、父なる神と交わりができる、話を聞き話すことができるようになったのだ。私たちは、愛され、受け容れられ、赦され、願いが聞き入れられることを信頼して祈ることができる。ペトロも手紙で「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさいと言っている(1ペトロ5・7)。
 もう一つ注目したいのはパウロの手紙。その中に、私たちが親しんでいる言葉がある。それは第二バチカン公会議によって、ミサの開祭の挨拶の一つとして選ばれた美しい言葉だ。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。ギリシア語では、恵みはカリス、愛はアガペー、交わりはコイノニア。私たちがしばしば意識せずに使うこの言葉には深い意味がある。
 第一に、父(神)。私たちには父がいる。私たちをみなしごにはしておかないとイエスが約束したとおり、父がいる。神とはどういう方かと言うと、聖書を見るとまず、命の与え主、創造主だ。すべてが神から始まる。それは大昔に世界がどのように始まったかということだけではない。神は今日も被造物に存在する力を与え、支えている。この世界にある、よいもの美しいもの、価値あるもの、真実なもの、聖なるものはすべて休みなく神から湧き出している。愛する力も、美しいことを夢見る力も。神は父として、母として、私たちのうちに聖性を作り上げる。尽きることのないその命の泉は私たちのうちにあり、逆に言うと、私たちはその豊かな海に浸されている。

 第二に、父だけでなく、子がいる。子であるイエスは昇天後、いなくなったのではなく、私たちのうちにいる。復活節の50日間、イエスは自分がいなくなってもより深い形で私たちのうちに残ると約束した。具体的に言うと、御言葉を聞き受け容れる時、秘跡を受ける時、共同体との一致を生きる時、貧しい人たちを迎える時、キリストの代わりとなる人と関わる時、イエスは私たちとともにいる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。ヘブライ人への手紙に「いけにえ」という言葉が出て来る。「いけにえ」とは何かを燃やすことではなく、尽すこと。ちょうど病気の赤ちゃんを看病する母親のように、イエスは昼も夜も私たちのために祈り尽してくださる。そして、誘惑をどう斥けるか、平和をどう取り戻すか、イエスは私たちに教えて下さるのだ。
 第三に、聖霊。先週は聖霊降臨の主日だったが、聖霊とは息のこと。命を意味する息は、私たちが受け入れられて安心した時に、満ちて来る。喜びや節制、柔和、一致などの聖霊の賜物についてパウロはさまざまな箇所で書いている。祈ること、神の言葉を思い起こし理解すること、神の国のために働くことは聖霊によってできる。聖霊の力は神の国が世に広がるために与えられているのだ。
 『無名の順礼者―あるロシア人順礼の手記』という東方教会の有名な本がある。それは、神を求めて神を探す旅に出た人の物語だが、ある箇所でこのように書かれている。心の内奥に戻って祈った時、周りのすべてが美しく見えた。木も草も鳥も、土も空気も光も。すべてが私といっしょに神の栄光をたたえ歌っていた。その時、私は万物の言葉を理解でき、神と被造物と会話する力も与えられたと。
 聖霊の賜物を願い祈るなら、答えがある。神の言葉、キリストの言葉を理解でき、神を知る知恵が与えられる。イエスが約束した慰め、人を愛する力が得られる。聖霊は私たちの心の本物の宝物だ。
 最終的に、三位一体は私たちの命の基準なのだ。だから、キリスト信者にとって、三位一体は一番わかりやすく、暖かく、喜ばしく、生き生きとさせるテーマだ。教会は今日の典礼で、難しい哲学的な理屈を考えるようにではなく、このような世界に入って喜ぶように勧めている。
 最後に、聖霊に満たされて神の母となり、教会の母、私たちの母となったおとめマリアの取り次ぎを願いながら、祈りたい。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が私たちとともにあるように。



 

2017年

6月

04日

聖霊降臨の主日

イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20・22)

ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
 復活節の50日間には、大きな喜びとともに心配があった。福音書によると、イエスは復活の前も後も何度も、いなくなると話した。弟子たちは最初はイエスといっしょにいる喜びのために、それほど心配しなかったが、別れが近づくと、質問した。あなたはどこに行くか、私たちはどうしたらいいかと。彼らは心配だったのだ。 
 昇天の祭日まで、祭壇の隣には、復活したイエスを意味する大きなろうそくが置かれ、ミサのあいだずっと灯されていた。それは復活徹夜祭に特別に祝別されたもので、私たちのあいだにおられるイエスのしるしだった。その光は、昇天の日に見えなくなった。けれども、昇天によって、イエスは行ってしまったのではなく、新しい形、より深い形で私たちとともにいる。そのために、今日の福音朗読では、復活の日に戻って言われる。「イエスが来て真ん中に立ち」。「真ん中に立つ」ことには聖書で大切な意味がある。イエスには近い人も遠い人もいない。イエスにとってはみなが同じ距離にいるのだ。 
 同じことは昇天の祭日にも言われた。使徒言行録などでいろいろな表現で、イエスは弟子たち(私たち)の目から見えなくなって、天に上げられて、父なる神の右の座についていると言われた。父なる神の右の座につくとは、イエスがただの人間ではなく、まことの神の子であるということ。私たちは神の実子ではなく、作られたものにすぎないが、イエスは神の実子なのだ。そして、大切なことだが、イエスが行ってしまって、私たちはみなし子になったのでもない。第二朗読のパウロの手紙によると、父なる神の右の座についたイエスは、私たちに次々と恵みを注ぐということだった。天に戻ったイエスは、金持ちが召使いに仕事をさせるように私たちに仕事を任せて何もしないのではなく、昼も夜も(イエスは永遠)私たちのために祈り、次々と私たちに力を送るのだ。

  今日の朗読でも同じことが言われる。「息を吹きかけて」――この言葉を私たちは大切にすべきだ。息とは命のこと。イエスは私たちの中に神の命を吹きかけるのだ。神の命は私たちの中に流れて、私たちは生きるようになる。それは教会の形でだ。聖霊降臨の主日は教会の誕生日と言われる。私たちは互いに家族として連帯する。それは人間的な好き嫌いの連帯ではなく、キリストを中心にする連帯だ。キリストを信じるから、私たちは互いにつながりができる。キリストから愛され赦されたものとして私たちは互いに関係をもつのだ。

 聖霊の続唱は、私たちの心の問題を照らし出す。頑固さ、人とよい関係をもてない心、神の言葉への抵抗、罪から離れる難しさ――私たちにはいろいろな問題がある。聖霊はそこに働く。私たちを治し、私たちに新しい命を与え、新しい世界を造り上げる。聖霊によって目が開かれ耳が通じ、匂いや味を感じることができる。弟子たちは、イエスが聖霊を送ってはじめて、イエスが以前に語った言葉の意味がわかった。そして、恐れを乗り越え、外に出て、イエスを証した――命を捧げることができるほど。 
 今日の喜ばしい日を祝うことができたことは大きな恵み。感謝してその力によって生きることにしたい。

2017年

5月

28日

主の昇天

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28・29)

 

ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
 主の昇天の祭日――今日のこの日は、独立してあるのではなく、復活祭と聖霊降臨祭とをつなぐ祭日だ。 
 マタイをはじめ福音書記者たちは、言葉で言い表せないことを言い表すために言葉を使う。だから、彼らの言葉は文字通りに物質的に理解するのではなく、神学的に象徴として理解すべきだ。例えば、復活と言っても、ラザロの蘇生のように、以前の命、この世の命に戻ることではない。それはこの世の命より豊かな命、神の命に到達することだ。昇天も同じ。昇天という言葉には上とか下という空間的なイメージがある。しかし、福音書記者たちがこの言葉を使って表現しようとしているのは、イエスが神と特別な関係にあること。「神の子」とも言われる。イエスは、私たちのように造られたものではなく、神と根本的な関係にある方だと。 ニケア・コンスタンチノープル信条で言えば、「神のひとり子、すべてに先立って、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、作られることなく生まれ、父と一体」だと。だから、イエスは復活と昇天によって、父なる神によって定められた本来の座に戻ったのだ。主日のミサで唱える使徒信条で私たちはこの秘儀を短くまとめて言う、「天に昇って、全能の父である神の右の座につき…」。
 昇天については、使徒言行録や福音書だけではなく、パウロもペトロもいろいろな箇所で書いている。彼らは言う、私たちはイエスを仰ぎ見るべきだと。これはあたり前のことではない。否定して信じないこともできる。これがわかるためには、浄化のプロセス、心の目を清めることが必要だ。復活したイエスが使徒たちに現れた「四十日間」とはそのようなプロセスだ。40日とは実際の日数ではない。40という数字は、アスケーシス(禁欲、苦行)を意味する。使徒たちはそのようなプロセスを通じて、イエスは神の子であると信じるに至ったということ。

 昇天はイエスについての真実であるだけではなく、イエスの弟子である私たちにも深い関係がある。第一に、イエスは天に昇ったとき私たちを天に連れて行ったとパウロは言う(エフェソ4・8)。イエスを信じる人はイエスと同じように神のうちにいるのだ。 

 第二に、教会の誕生。イエスは父なる神から受けた救いのミッションを私たちに引き継がせる。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。イエスの弟子にするとは、イエスと深い個人的な関係をもつようにするということ。昇天によって教会が生まれるのだ。教会はただの外面的な組織ではない。教会の中で私たちは新しい形でイエスに触れることができる。神の言葉を聞くこと、聖体を拝領すること、秘跡を受けること、司祭職や共同体、貧しい人たちとの出会い――それはすべて、イエスに触れるための媒介だ。キリスト教は直観ではなく、いつも何かに媒介されている。人間は直接に神を見ることはできない。けれども人となったイエスが残した秘跡を通じて、私たちは神を見ることができる。
 第三に、父なる神の右に座ったイエスは、宣教のための力を私たちに送る。イエスは昇天によって教会から離れたのではなく、次から次へ聖霊とカリスマを教会に送り続ける――その恵みが世の果てに届くまで。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。

2017年

5月

22日

復活節第6主日

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14・18)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「最後の晩餐」、1308ー1311年、ドゥオーモ大聖堂メトロポリターナ美術館

2017年

5月

14日

復活節第5主日

  「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。

「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
 今日の第一朗読と福音朗読は、異なる時代に異なる人物によって書かれた箇所だが、それぞれの背景には共通するところがある。まず、第一朗読の使徒言行録の箇所には「苦情が出た」とある。ルカはその出来事をていねいに記す。問題がどう解決されたかを中心に書くのだが、そもそも教会生活に問題があったことが窺われる。それは、信者同士の関係、ユダヤ人と異邦人の関係の問題で、その問題は司祭と助祭の役割が区別されることで解決されるが、そもそもいっしょに信仰生活を生きる上で問題があったのだ。そして、福音朗読のヨハネ福音書の箇所には、最後の晩餐の話の最初にある言葉が出て来る。イエスが、自分の道は十字架の道だと明らかにした時、弟子たちは不安に思い、「心を騒がせ」たのだ。「心を騒がせる」という動詞はあちこちで使われている。ヨハネ福音書では例えば、イエスがベタニアに来てラザロの墓に行く前に(11・33)、自分の死を思う時に(12・27)、ユダの裏切りを予告する時に(13・21)この動詞が使われている。つまり、それはイエスであれ、弟子たちであれ、信じる人の危機の状態を示す言葉だ。 
 そういう危機の時にどうすればいいか。それは私たちの問題でもある。 イエスは弟子に、落ち着かせ安心させる言葉を言う。「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と。イエスが弟子たちに教えたいのは、彼が死んで見えなくなっても、それは消えてしまったのではなく、新しい形で彼の教会の中にいるということ。イエスの不在はイエスの新しい現存だということ。 
 そこに一つの不思議な言葉がある。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。聖書学者が言うには、それは旧約聖書の偽典であるエノク書からとられたイメージで、神の家の中にいろいろな役割があるという意味。しかし、この言葉は、死後の生について語られているとよく理解される。もちろん、その意味もあるが、イエスは死んでからのことではなく、この世の生のことを話している。それがわかるのは、今日の箇所の後にある23節からである。「父とわたしとはその人[=わたしを愛する人]のところに行き、一緒に住む」。これは、あの世でではなく、この世で、父なる神とイエスがその人とともに住むという意味。これはイエスがもたらしたキリスト教の革命的な新しさだ。神の住まいはあの世ではなく、今ここに、問題のあるところにもある――たとえ今は見えなくても。ヨハネ福音書が言うには、十字架上にも復活があるのだ。つまり、イエスの神は、遠いところにいるのではなく、私たちから迎え入れられることを求める神だ。だから、私たちがさまざまな問題に遭い、苦しむその場に、イエスと一つになり神と一つになる可能性がある。 
 しかし、トマスが口をはさむ。彼はまだわかっていない。「どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。トマスはまだ物質的な道と思っている。それに対して、イエスは荘厳な答を返す。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで二つの点に注意すべきである。 
 第一に、現代の聖書学者はヘブライ語の表現の特徴から次のように解釈する。道であること、真理であること、命であることは別々のことではなく、全部つながっていて、本当の命への正しい道であるということだと。
 第二に、それ以前に注意すべきなのは、「わたしは…である(エゴ・エイミー)」という言葉。ヨハネがこの言葉を使う時は、ヤーウェのモーセへの啓示を思い出している(「わたしはある。わたしはあるという者だ」出エジプト3・14)。だから、この言葉によって、イエスが神であり主であることが表現されているのだ。

 「わたしは道である」という言葉でイエスが教えるのは、イエス自身が道であること。教会もこの言葉を思い出すことで、洗礼を受けたばかりの人たちと私たちに大切なことを伝える。イエス自身が道であり、キリスト者とはイエスと特別な関係をもつ人のことなのだ。イエスとのそのような関係、一致の関係がなければ、キリスト教に入れない。この神学的に深い言葉については、泉のように汲みつくせないほどたくさんの解釈があるが、カール・ラーナーはウィーンでキリスト教の根本についての講演の冒頭で、キリスト者であるとはキリストを抱きしめることだと言った。言い換えれば、イエスを知ること、イエスと同じ目でものを見、イエスと同じように生きるということだ。特にヨハネ福音書ではさまざまな箇所でこのテーマが表現されている。 

 「わたしは真理である」。一般に、知識のある人は傲慢になり、人に教えたり、人を裁いたりする。しかし、イエスと一つになる人は、その逆だ。 
 「わたしは命である」。イエスは十字架上から、神の息を私たちの中に吹き込み、私たちを新しく創造する。
 フィリポは言う、「御父をお示しください」。フィリポは、御父をまだ見ていないと思っている。そして、いつか見せてくださいと頼む。御父を見るのは未来のことだと思っているのだ。それに対するイエスの答えは驚かせる。「わたしを見た者は、父を見たのだ」。それは未来ではなく過去だ。あなたは御父をもう見たとイエスは言う。フィリポは何を見たか。ヨハネ福音書では、聖体の制定の代わりに洗足について書かれているが、イエスが弟子たちの足を洗った時、神が現れた。愛であり、奉仕する神の顔がそこに示されたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にあるように「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。今日ヨハネが言うのは、神は見えないが、キリストの顔の上に神が輝いている。これがキリスト教のユニークなところだ。 
 今日の第一朗読も福音朗読も、私たちのアクチュアルな問題に関わっている。文化の多様性と、それに由来する戦争や貧困、不平等。あるいは、病気や死、災いに対する不安。そういった問題に対して、今日の典礼はキリストとともに答える、キリストに目を開いて信頼しなさいと。祈りと黙想によって、秘跡によってイエスのように生き、キリストの香りをまとうのがキリスト教的生活だ。 
 最後にもう一つ、私たちにとって大きな慰めとなるすばらしい言葉がある。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。これは昇天を意味する。イエスはいなくなるのではなく主として父なる神の右に座るのだ。イエスは見えなくなってかえって、次々と新しい力と賜物を送り、教会をキリストの体として作り上げる。聖グレゴリウス教皇1世は「神の言葉は読めば読むほど大きくなるdivina eloquia cum legente crescunt」と言った。イエスが蒔いた種は教会によって世の中で大きくなる。教会の中にあるすべての愛、教会の中にあるすべての聖性こそ、世の中で大きくなるイエスだ。教会はただの団体ではなく、キリストの体なのだ。

2017年

5月

07日

復活節第4主日

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10・3)

「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
 復活節第3主日までは復活したイエスの現れがテーマだったが、その後の復活節主日では、イエスがその新しい共同体の中でどのような役割を果たしているかがテーマ。それを理解するために教会は、イエスが使ったいくつかのイメージに注目する。
 復活節第4主日に使われるイメージは「羊飼い(牧者)」。このイメージは初代教会からキリスト者に親しまれ、カタコンベをはじめ数多くの絵画で表現されている。羊飼いのイメージと言うと、罪人に対するイエスのやさしさを示すルカの福音書が思い出されるが、ヨハネの言う「よい羊飼い」はやさしいだけではない。力があり、決断を下し、生活の基準になる指導者のイメージだ。ヨハネが羊飼いというイメージを使う時、ヨハネ当時の習慣だけではなく、旧約聖書に基づく理解が背景にある。旧約聖書では、羊飼いと羊の関係はヤーウェとその民の関係を示すためによく使われている。神の言葉を聞く預言者は荒れ野で水のあるところへ民を導く。ヨハネはこのような旧約聖書のイメージを使いながら、新しい民がキリストに導かれることを描きたいのだ。 
 ヨハネの言う「よい羊飼い」を理解するためには、いくつかの点が手がかりとなる。まず第一に、「盗人」「強盗」といった厳しい言葉がある。イエスはひどく怒っているようだ。ユダヤ人との争いなど、ヨハネが福音書を書いた当時の状況も背景にある。ユダヤ人たちは、民を神へと導くのではなく、自分の利益のために神を利用している、彼らは神のために働くのではなく、神を自分のために使っているとイエスは批判するのだ。
 第二に、「囲い」と訳されている言葉はギリシア語でアウレという言葉。この言葉は聖書では、羊の居場所を指すためにではなく、神殿の境内にあるいろいろな区画を指すために何百回も使われている言葉だ。そこに門番役がいたようだ。
 第三に、特に注意すべきなのは、今日の話が、生まれつきの盲人の癒しの後の話ということ(四旬節第4主日参照)。それはイエスの生涯で大切な出来事であり、イエスの受難の大きなきっかけとなる。ユダヤ人たちは、盲人の癒しに神の働きを見る代わりに、イエスを神から来た預言者と言った、癒された人を会堂から外に追い出した(ヨハネ9・30-34)。追い出されたその人は、「見失った羊」(ルカ15・4)のように思われるけれども、そうではない。イエスを信じる人、イエスに賭けてイエスに帰依する人は、神の本当の「囲い」に入るということ。その人は、キリストというただ一つの門を通り神の家に入るのだ。
 その囲いに入るということは、一つの掟から別の掟に移るということではなく、そもそも掟から解放されること。律法から解放されて、イエスに従う自由を得るのだ。ヨハネが言いたいのは、イエスを信じて、掟の外に追い出されても自由へ導かれるということ。神は自分の掟を人に押し付けることをしない。神が望むのは愛だから。神は無理矢理に罪人を滅ぼすことではなく、罪人が自由に自分に向かうことを望む。だから、宣教も、不幸で人を脅したり地獄を恐れさせたりして無理矢理に人を引っ張るのではなく、名誉教皇ベネディクト16世がよく言うように、愛の魅力と憧れを感じさせること。

 イエスの新しい共同体はそれまでのユダヤの共同体の延長ではない。つまり、律法の上に築かれる共同体ではない。イエスの新しさを中心にしてイエスを神の子と認め、イエスを旅の基準(「わたしは羊の門である」)として選ぶ新しい共同体だ。教会は、完全な人たち、罪がない、または罪がないと思っている人たち、そして他の人を軽蔑する人たち、自分のよい行いの報いを神に期待する人たちの集まりではなく、イエスを救い主として認め、その顔の上に父なる神の輝きを見た人たちの集まりなのだ。この共同体で大切なのは、自分の行いの完全さより、神から受けた永遠の赦しと神への愛だ。キリストの教会のなかでメンバーを繋ぐのはルールではなく、イエスを通して神から賜物として受けた神の愛。今日の福音書にはこういうテーマが種のようにたくさんばらまかれている。 

 もう一つの種は、呼ぶこと。当時の習慣では、夜、いくつもの群れの羊を一か所に集め、泥棒や動物から守るために岩で囲いをして、一か所だけを囲わずに残した。そこで一人の羊飼いが番をし、他の羊飼いたちは寝に行った。朝になると、他の羊飼いたちが戻ってきて、それぞれ自分の群れの羊に向かって決まった言葉を言う。すると、その羊飼いの群れの羊だけその羊飼いについていく。「自分の羊の名を呼んで」。羊飼いは羊を一頭ずつ呼ぶのだ。つまり、羊飼いと羊には、深い関係がある。ちょうどそのように私たちはみな一人一人個人的にイエスによって救いに呼ばれているとヨハネは言いたいのだ。そして、「連れ出す」。ユダヤ人たちは癒された盲人を会堂から外に追い出したが、その時と同じ言葉が使われている。しかし、イエスが外に出すのは、中に引き入れて奴隷にするのとは逆の意味でだ。イエスは自由を与えて外に出すのだ。教皇フランシスコも、キリスト者の場所は教会の中ではなく、教会の外、つまり世の中だと言う。パパ様は言う、外に出かけなさい、どんなことがあったとしても、と。 宣教は教会の本質の一部なのだ
 最後に、今日の「よい牧者の主日」に教会は特に、教会の中で司牧者の役割を果たしている人と、その召命のために祈る。音楽家が演奏中に音を外すことはありうるが、音楽を愛さないことは考えられない。教皇フランシスコがいつも「私は赦された罪人」と言うように、司祭も完全な人間ではないが、イエスを愛さない司祭はありえない。今日は特に司牧者とその召命のために祈りたい。

2017年

4月

30日

復活節第3主日

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(ルカ24・30-31)。

レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
 復活節――教会はさまざまな朗読によって、ただ昔の出来事を知るだけではなく、復活して生きているイエスに出会うように私たちを導く。今日の福音朗読は、復活したイエスの非常に有名な物語。表現はドラマティックで、さまざまなテーマを含んでいる。それはルカが80年、90年頃、フィリピにいた頃に書いたものだ。フィリピの教会は、熱心なよい共同体だったが、彼らはイエスに会ったことがない信者、いわゆる第三世代の信者だった。そもそもルカ自身、使徒ではないし、生前のイエスを知らなかった。そのような信者がどうしたらイエスに出会えるか。ルカはそのような信者のために今日の物語を書いたのだ。 
 「ちょうどこの日」。今日は復活節第3日曜日だが、婦人たちが墓に行った最初の日の話に戻る。
 「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。二人は使徒ではなく、大勢の弟子のうちの二人だった。そして、二人のうち一人の名前は後で出て来るが、もう一人の名前は出て来ない。先週の「双子と呼ばれるトマス」を私たちの双子という意味で読むことができるのと同じように、もう一人の弟子は私たち自身と考えることができる。生前のイエスに会ったことがない私たちがどうしたら復活のイエスを経験できるか。 
 二人はエルサレムの共同体から離れるところだった。新共同訳では「暗い顔」となっているが、以前の訳では「悲しそうな顔」。「望みをかけて」いたイエスが殺されたことを悲しみ絶望していたのだ。希望していたことはすでに過去のことになった。「もう今日で三日目」。だが、何も起こらない。それで、二人は、「話し合い論じ合って」いた。「話し合う」とはギリシア語でホミレイン。つまりイエスの出来事を解釈すること、その意味を見い出すことだ。しかし、彼らは平和的に論じ合うだけではなく口喧嘩になっていた。イエスの言葉に出て来る「やり取り」のギリシア語原語はアンティバレインで、互いの意見を戦わせること――ちょうど今の私たちが教会の中でよく言い争うように。イエスがなぜ殺されたのか、誰のせいなのかーーそれは初代教会の信者たちの大きな問題だった。「行いにも言葉にも力のある預言者」だったイエスを「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった」とは初代教会でよく使われた表現で、今日の第一朗読にも同様の表現がある。 
 このように彼らにとってイエスの物語は失敗の物語でしかなかった。だから、イエスが近づいてもまだわからない。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。そして、イエスの言葉に驚く。「あなただけはご存じなかったのですか」。けれども、イエスが見ている物語はまったく違った物語なのだ。それは神の御旨、神の計画だ。二人が完全に見逃していたのは、彼らが目撃した出来事には別の意味があるということ。それで、二人は、女性たちに天使が「イエスは生きておられる」と言ったことさえ見逃してしまった。

 イエスの二人への関わりはすばらしい。イエスはまずはやさしい態度で、彼らの目から見た物語を語るように促す。「どんなことですか」。次に厳しい言葉で叱って、別の目で出来事を見るように回心を促す。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。続いて、イエスの物語、イエスの聖書研究、イエスのホミリアが始まる。それは教会のホミリア(説教)と重なる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスの見た神の計画とは、人間を救うために自分の子を送るということだった。 二人の弟子は、メシアがどういうものか理解していなかったが、イエスは神の計画を知った上で命を捧げたのだ。

 ルカが言いたいのは、イエスといっしょに聖書を読むことで、イエスの出来事の意味がわかるということ。逆にイエスの出来事から聖書の意味もはっきりするのだ。こうして聖書を読むことでイエスとその道を知ることができる。後で二人は言う、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。 神の言葉を知ることは喜びの源だ。それによって新しい命が始まる。
 二人がイエスに気づくのは、エマオでいっしょに食卓に着いたイエスがパンを裂いた時。それはミサの動作であり、ミサの根本だ。ミサには挨拶や聖歌などいろいろな要素があるが、ミサはただの儀式ではなく、パンを裂いて渡すのがミサの根本だ。それはキリストの命に養われキリストと一つになるということで、他のいろいろな要素は飾りにすぎない。そしてミサの基準となるのが、復活の日、主の日である日曜日のミサだ。日曜日に神の言葉と「心を燃え」立たせる解釈を聞く(ミサの前半)と、「目が開け」てパンを裂いて渡すイエスに気づく(ミサの後半)。イエスは目には見えないが、ミサで、聖体の形でイエスに出会うことができるとルカは第三世代の信者たちに伝えたかったのだ。 
 すると、イエスは見えなくなってしまう。もうその必要がないから。二人は夕方で疲れていたはずなのに、60スタディオン(約10キロ)の道を引き返してエルサレムに戻り、共同体に合流する。「本当に主は復活して、シモンに現れた」。弟子たちは復活の経験でいっしょになったのだ。 
 復活のイエスが弟子たちに声をかけるのは神殿でではなく、生活の場でだ。庭で(マグダラのマリア)、疑いの時に(トマス)、旅の途上で(エマオの二人の弟子)、イエスは声をかける。日常生活の中でキリストに出会うように福音書は、そして教会は私たちを導く。今の教会にもいろいろな問題があるから、私たちは教会に疲れたり失望したりすることがある。けれども、ミサの言葉と聖体を本当に大切にするなら、キリストに出会えるとルカは言う。日曜日のミサは私たちの信仰の基本だ。第二バチカン公会議の『典礼憲章』にあるように、ミサは「キリスト教生活全体の泉であり頂点」なのだ。今日の日曜日の機会に、私たちの共同体のミサの中でキリストに出会うことを大切にしたい。加えて、神の言葉を解釈する使徒職を授かった人たちのためにも祈りたい。

2017年

4月

23日

復活節第2主日

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。

ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
 復活節第二主日は、第一・第二朗読の箇所は年によって変わるが、福音朗読の箇所は毎年同じ。ヨハネ福音書から、復活のイエスが弟子たちに現れる箇所が読まれる(去年の黙想のページはこちら)。ただし、「現れる」という言葉はこの箇所には出て来ていない。使われるのは「立つ」と言う言葉(「イエスが来て真ん中に立ち」)。「現れる」という言葉はヴィジョンを連想させ、実際福音書には復活したイエスの体の特徴がいろいろと記されているが、福音書記者が伝えたいのはヴィジョンではなくリアルな現存だ。それに対して、「立つ」とは生きた者として、死に対する勝利者として教会の中に現存するということ。 
 人間の常識で言うと、他の人の態度に傷つけられたら、仕返しするところだ。そのチャンスを掴んで人を苦しめるために使う。みんなの前でその人の罪を暴露し叱って恥をかかせたり、仲間外れにしたりする。それに対して、イエスがトマスに限らず弟子たちのところに来る時は、そういう気持ちが一切なく、愛と赦しと癒しだけがある――そもそも十字架上でそうだったように。これは非常に感動させるところだ。イエスは自分の体面ではなく、弟子たちのことを心配して、彼らに会いに行く。彼らは恐くて隠れているが、イエスは探しに行くのだ。イエスは神として復活したから。神は罪人を見捨てることをせず、麻痺状態のままに残さず、希望を消さず、自分の家(教会共同体)から追い出すことをしない。神は、人が立ち直るために導き助けるのだ。 
 復活を語る時、二つの言葉がよく出て来る。「目覚める」と「起き上がる(立ち上がる)」。この二つの言葉は私たちの日常生活からとられた言葉で、私たちの朝の行動にあてはまる。私たちは朝になると目が覚める。弟子たちは目覚めて、イエスに気づいた。また私たちは朝ベッドから起き上がる。イエスは御父によって死から起き上がらされた。 
 イエスが来たとき、弟子たちは喜んだが、喜びはヨハネ福音書を貫く大きなテーマだ。第二朗読のペトロの第一の手紙にも喜びのテーマが出て来る。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

 トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。 

 そして、トマスの場合も他の弟子たちの場合と同じだ。イエスの目は私たちの罪の先を見る。神は私たちがどんな罪をおかしたかよりも、私たちがこれからどんな聖人になるかに関心がある。イエスはマグダラのマリアについて「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7・47)と言った。神が何もできないのは生ぬるさに対してだ。聖アウグスティヌスも「異端者になるのは偉大な人だけだ」(『詩編註解』第124章第5節)と言う。平凡な罪しか犯さない人は平凡な人にしかならない。逆に、大きな罪人は大きな聖人になる可能性がある。トマスは他の弟子と同じようにイエスを見捨てたが、彼の中にはイエスに対しての愛が燃えていた。彼は復活したイエスの前で、ヨハネ福音書で一番すばらしい信仰と愛の告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスについては何も知られていないが、言い伝えによると、シリア、ペルシアなどローマ帝国の外にまで出て、インドにまで行って宣教したと言う。インドの教会は使徒トマスに遡るのだ。 
 私たちもイエスへの愛を表現するにはトマスの言葉を使うしかない――ミサの聖変化の時、また聖体の前で「わたしの主、わたしの神よ」。

2017年

4月

16日

復活の主日

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(ヨハネ20・16)

ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)
ジョット「我に触れるな(ノリ・メ・タンジェレ)」、1320年代、サン・フランチェスコ教会(アッシジ)

2017年

4月

13日

聖木曜日

ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
 聖週間、そして過ぎ越しの聖なる三日間は私たちキリスト信者にとって一年で一番大切な時。そして、(一般的な意味ではなく深い神学的な意味で)「美しい」三日間だ。この三日間で私たちは、神について、そして神が遣わされたキリストについて一番すばらしいことを知り、それを知って喜びを感じる。そして、それによって私たちの生活も変わる。 
 ただし注意しなければならないのは、今日の第一朗読に「記念」という言葉があったが、過ぎ越しの三日間を記念すると言っても、何もなかったかのようにゼロに戻るわけではない。私たちはイエスが復活したという立場から記念するのだ。そして、ヨハネはその福音書で「主」という言葉をよく使うが、私たちはイエスを記念するだけではなく、主を記念する。私たちは、イエスがキリストであり、神から送られた神の子であるという体験をした上で聖週間に入るのだ。 
 イエスの最後の晩餐が行われたのは夜。「夜であった」(ヨハネ13・30)。ちょうど主の晩餐のミサが行われる時だ。この夜、私たちは何がわかるか。それは私たちが愛されていること。この夜、私たちは愛されているということを深く体験する。ヨハネ福音書にはこのテーマがさまざまな箇所に出て来る。例えば、イエスはニコデモに向かって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言う。イエスの生涯全体が愛だった。そして、この夜、このテーマがもう一度強く出て来る。 
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエスはカナの婚礼の時は「わたしの時はまだ来ていません」と言ったが、その時がようやく来たのだ。この夜、イエスがどういう方で私たちに対してどんなことをしてくださるか、私たちがどうなるかがわかる時、そして私たちが救われる時が来たのだ。そして、その時、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」。この日本語訳はよくできた訳と言える。例えば夫婦は死に分かれるまで愛することを結婚式で誓うが、イエスが言うのはそういうことではない。イエスは私たちを愛するため、神である自分の限界にまで至ったのだ。その先には何もない――神の外に何もなく混沌があるだけなのと同じように。神は私たちを愛する、自分を忘れ自分を捨てるほどに。この愛以上の愛はない。イエスは私たちをそれほどの愛で愛してくださったのだ。何とすばらしいことか。このことは新約聖書のいろいろな箇所に書いてある。聖なる過ぎ越しの三日間、その愛の恵みを浴びたい。教会に来て典礼に参加することが勧められる。それが無理なら家で聖書を読み祈りたい。それが私たちの生活にとって一番大事なことだ。それを失うのはもったいない。神聖な愛を粗末にすることだ。キリストの霊の力、聖霊の力に頼って三日間を大切にしたい。

 イエスはその夜捕まえられて苦しみを受け殺されると知っている。知った上で、弟子を見る。3年間いろいろな形で育てた弟子を一人一人見て、愛する。その弟子の強いところ、弱いところ、その弟子の罪まで見る。その弟子の一人から裏切られることも知っている。けれども、ユダも愛されている。イエスはユダに向かって「友」(マタイ26・50)、つまり愛する者と呼びかける。この夜、イエスは私たちを一人ずつ同じ目で見る。同じまなざしで私たちは愛される。私たちのいいところ弱いところ。誰も知らないこと、罪までイエスは知って、私たちを見て慈しむ。このことをヨハネはまず第一に私たちに伝えるのだ。

 この状況で、第二朗読のパウロが書いている聖体の秘跡が制定される。なぜなら、イエスは弟子から離れなければならないと知るが、離れたくないから。イエスが行ってしまって私たちに見えなくなっても、私たちのあいだに残るためにイエスが残した最後のしるしが聖体なのだ。きっと福音書記者ヨハネも驚いたにちがいない。イエスが使った過ぎ越しの祈りの言葉はヨハネも幼い頃から知っていたはずだが、「私の体」「私の血」とイエスが言ったパンとぶどう酒はイエスが私たちのために残した特別なしるしだ。私たちもヨハネと同じように、驚きの心で聖体を受けたい。その夜、弟子たちは聖体がまだわからず、イエスがオリーブの園で悩み祈っても寝てしまい、イエスが捕えられると逃げたり裏切ったりした。聖体をわからせるために、イエスはもう一つのしるしを残した。それはヨハネ福音書だけに書かれているしるし、足を洗うことだ。(ヨハネは聖体については他の福音記者とは違い、受難の前の箇所ではなく第6章で書いている。) 
 洗足式については一つだけ注意しておきたい。教会が洗足式を行う時にはかならず、貧しい人と連帯する。イエスは貧しい者だから、社会の中で一番貧しい人に向けられる愛がイエスを本当に記念することだ。そして、イエスに出会い、イエスに愛される生活を送るためには、互いに愛し合うことがなければならない。

2017年

4月

09日

受難の主日(枝の主日)

彼らはイエスを十字架につけた…(マタイ27・35)

十字架につけられたイエス、

私はいつもあなたを運び、

すべてにまさってあなたを愛します。

あなたは私が倒れるときは助け起こし、

泣くときは慰め、

悩むときは癒し、

呼ぶときは答えてくださいます。

あなたは私を照らす光、

私を暖める太陽、

私を養う食べ物、

私をうるおす泉、

私を酔わせるやさしさ、

私に力を与える薬、

私を驚かせる美しさ。

十字架につけられたイエス、

生きているあいだは私を守り、

死を迎えるときは私を慰め支え、

最後の時には私の心の上で安らいでください。

アーメン。

(中世フランスの祈り)

 


2017年

4月

02日

四旬節第5主日

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。

セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
 私たちはみなそれぞれの形で死を経験している。家族の誰かが病気などで亡くなることがある。マスコミの報道では毎日、戦争や事故や犯罪でたくさんの人が殺されている。胎児も毎日たくさん堕胎で殺されている。私たちは死に囲まれて生きている。けれども、私たちは死を忘れるために、いろいろなことをする。葬儀屋は儀式やきれいな言葉で飾り立てる。だから、四旬節最後の日曜日である今日の福音書の箇所は、死と命について考える大切なきっかけになる。 
 ラザロの死と呼ばれる今日の箇所。ラザロが仮死状態にあったのか、本当に死んでいたのか、聖書学者はいろいろな言葉に注意しながら解釈する。復活はキリストの復活について使われる言葉だから、ラザロについては蘇生という別の言葉も使われる。 
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」。ベタニアは、エルサレムの近く、2、3キロ離れた場所。ルカ福音書によると、マルタは強く元気な女性で、マリアは静かな女性。ラザロはその名前以外は、マルタとマリアの兄弟としてのみ知られている。マルタとマリアの方がラザロより知られていたようだ。 
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。三人はイエスと特別な関係にあった。この家族との友情は暖かみを感じさせる。 
 「なお二日間同じ所に滞在された」。ラザロの病気を聞いてもイエスがすぐに出発しなかったのは、イエスにとってこの出来事がただの出来事ではなく、神の御旨が示される大きなきっかけであったから。 
 「イエスは…心に憤りを覚え、興奮して…涙を流された」。これから何が起こるかを知っていたはずのイエスが涙を流したのは、死の深みがよく知っているから。しかも、マルタとマリア、ラザロをかわいそうに思って涙を流しただけではなく、二度も「憤り」を覚えた。ギリシア語では普通に使われない特別な言葉が使われている。神の子としてイエスは、死に対して怒っているのだ。これは大切なことだ。なぜなら、ふつう私たちは死に慣れようとするからだ。宗教でさえ、死はいのちの一部で当たり前のことだと考えようとする。しかし、イエスの父である神にとってはそうではない。イエスの神は死の神ではなく、いのちの神であり、人間を造ったのも、人間が生きるために作ったのだから、私たちが生きることを望むのだ。神自身がいのちの神だから、死に対して怒るのだ。また、エピクロス派やストア派では、禍に対しても動じない心の落ち着き(アタラクシア)が重んじられる。それに対して、ヨハネによる福音書にはまったく逆の言葉がある。ギリシア語でタラクセインは、心の底から動きを感じること。イエスは、心の底から悲しみを感じて、涙を流したのだ。

 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。ほかの人たちは、マリアとマルタを慰めるために彼女たちの家に入るが、イエスは家に入らず、直接墓に向かい、死という敵と戦う。

 「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」。「叫ぶ(クラゼイン)」という言葉は福音書の他の箇所にも出て来る。そのうちの一つは聖金曜日に朗読される受難物語で、イエスが裁判にかけられた時、ピラトが「見よ、この男だ」と言うとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。しかし、今日の箇所でイエスはまったく反対で、墓の中から出て来るように私たちに叫ぶ。人間は死を命じるが、神はいのちを命じるのだ。同様に、イエスが十字架上で息を引き取るときの叫びも、神のいのちである聖霊を送ることにほかならず、創造しいのちを新しくする神のわざである。そして、「墓」とは死んでから入る墓だけではない。私たちは生きているうちも、墓の中にいる。それは私たちの過去である。私たちの生活には、解決していない問題や、長い間人に対してもっている偏見、十分に告解しなかった罪、直していない癖など、要らないものや邪魔なものがいろいろある。それが私たちの墓だ。その墓の前に立ってイエスは、出て来なさいと言うのだ。 

 「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた」。衣笠墓地に葬られたあるアメリカ人司祭の墓碑銘には、イエスのこの言葉(Unbound him and let him go)が刻まれている。私たちはみないろいろな形でぐるぐる巻きにされている。偏見をもったり、嫉妬や恨みや憎しみを抱いたりして、人を自由に愛することができない。しかし、イエスは私たちを自由にするとヨハネは今日力強いしるしで私たちに示す。これは求道者への大きなメッセージだ。これまでの生活がどうであったとしても、あなたはこれから洗礼を受けることで新しく生まれ変わることができる。今まさに桜が開花しようとしているが、まさにそのようにキリストの力で新しく生まれ変わることができる。 
 マルタはラザロの姉妹であったのに「もうにおいます」と言った。家族の誰かが死んだら、私たちは最初は悲しみに襲われたとしても、次第に慣れてあきらめ忘れてしまう。「におい」とは、人が怖くなったり恨んだりするときに私たちが感じるもののこと。そんなとき、キリストが私たちを救い出してくれる。今日の福音書の後には、ベタニアのマリアが香油をイエスの足に塗ると、家はその香りでいっぱいになったと書いてある。それはキリストの香りだ。堅信の油の香りもキリストを思い出させる。私たちはキリストを知ることによって、新しく造られ、新しい香りを身にまとうのだ。

2017年

3月

26日

四旬節第4主日

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。

オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
 ヨハネ福音書第9章は、生まれつきの盲人のいやしの物語。しかし、ヨハネは奇跡の具体的な出来事を報告するより、イエスを知り認めるプロセスを示す。この長い物語は、ある聖書学者によれば、三つの部分に分けることができる。 
1.イエスの癒し 
 第7章で仮庵祭の機会にエルサレムに上ったイエスは、第8章の終わりで、ユダヤ人から石を投げられて、神殿を出る。その時、イエスは、生まれつきの盲人に会う。すると、弟子たちは、その人の盲目が彼自身のせいか、彼の両親のせいか、という宗教的な議論を起こす。当時は、病気、特に盲目は、罪に対する罰と理解されていたからだ。このように目の前にいる人を忘れて、その人が抱えている問題を議論の材料にしてしまうのは、ファリサイ派のように制度化した宗教によくあることで、イエスの弟子もそうだった。しかし、イエスはちがう。彼は他の人が見ないことを見る。ヨハネ福音書では、イエスのまなざしはまず、たとえ罪人であっても、その人の罪ではなく、その人の苦しみに向かう。彼は審判するのではなく憐れみに駆られる。イエスは、人間の苦しみに納得しない神の顔だ。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。少し驚かせられる行動だが、当時は、唾には特別な治癒力があると考えられていた。つまり、唾は息と同じように、創造し新しくする神の力の象徴なのだ。だから、唾と土を混ぜて目に塗ることはアダムの創造を思い出させる。また、母親が子どもの傷を舐めるように、ぬくもりのある動作だ。 
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」。シロアムとはメシアと音も似ている。つまり、メシアのところに行きなさいということ。ここでは、洗礼による洗いが示唆されている。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。この物語は、初代教会の時代、洗礼志願者のために使われた箇所だ。 
2.ファリサイ派の尋問 
 「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」。キリストに出会って洗礼を受けた人は、外面的には他の人と同じ生活を送っても、別人になっている。これまでは座って物乞いをし人に頼る生活を送っていたが、今は目が開かれ杖なしに立って元気に生きている。それがイエスに会った人の姿だ。「わたしがそうなのです」。これは、神の自己啓示の言葉「エゴ・エイミー」。つまり、ヨハネが言いたいのは、キリストに出会った人は癒され照らされて、ある意味で神の子として新しく生まれたということ(ヨハネ1・12参照)。
  

 盲人の目が見えるようになったら、本来ならだれもが神のわざに驚き喜ぶはずだが、この物語では代わりに議論が起こり、両親でさえ喜びより恐れにとらわれている。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。ユダヤ人たちにとっては、唯一の基準は憐れみではなく、掟だ。だから、掟を守らないイエスが神であることを否定し、イエスを罪人とさえ決めつける。つまり、宗教的な規則によって、神を否定するのだ。ユダヤ人たちは何かいいか悪いかを決める権利が自分たちにあると思っている。だから、自分の考え方を事実によって変えずに、イエスを罪人と決めつけ、何が起こったかを聞こうともしない。彼らにとっては、実際に起こったことより、自分の考え方が大切なのだ。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この返事にはユーモアさえ感じられる。しかし、ユダヤ人たちは、いやされた人を侮辱し、外に追い出す。

3.イエスといやされた人の出会い 
 最後の部分は、イエスとの親しさが表現されているとても美しい場面。洗礼を受けた人はみな、たとえ短くてもこのような親しさの喜びを経験したはずだ。ヨハネは簡潔な言葉で表現するが、そこには深い世界が現れている。 
 「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった」。イエスは自分の弟子の苦しみをいつも知っているのだ。その人は、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けてからも、みんなから見捨てられ、苦しみがある。しかし、イエスがその苦しみを知っていることは慰めだ。例えば、長崎の殉教者聖マグダレナが穴吊りの拷問を受けた時、毎朝、手のようなものが顔を撫でて痛みがなくなったという伝説がある。キリスト者の道はイエスの道と同じように苦しみの道であると同時に、イエスとの親しさから慰めが来る。 
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。イエスが言うのは、あなたをいやした人が今あなたの前にいるということ。マタイ福音書の最後にあるイエスの約束も思い出される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)。 
 私たちの教会の求道者も今日で求道生活を終え、キリストに出会い「照らされた者」となる。これからはイエスが神について、自分自身について、生活について指導者になるのだ。洗礼の準備をする彼らのために、キリストの光に照らされその愛の深みを経験することができるように祈りたい。

2017年

3月

18日

四旬節第3主日

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。(ヨハネ4・26)。

アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
 四旬節第3主日に読まれるのはイエスとサマリアの女の有名な物語。信者に好まれ、美術にもたくさんの作品がある。マルコ福音書では「サマリア」という言葉は一度も使われず、マタイ福音書でも一度出て来るだけ、ルカ福音書にはサマリア人について二つのエピソードがあるがこの物語は出て来ない。それに対して、ヨハネはこの物語について詳しく語っている。ただし、聖書学者が言うには不自然な点がいろいろあり、実際の出来事の報告というより、神学的なメッセージと理解した方がいい。この物語は、洗礼の準備をする求道者、そして自分が受けた洗礼を思い出しながら求道者といっしょに復活祭に向かって歩む信者への教会からの大きな賜物だ。 
 「そこにはヤコブの井戸があった」。ヤコブの井戸(泉)は数十メートルもある深い井戸。現在もあるが、当時でも掘られてから1000年経っていた。井戸は当時、羊飼いが水を飲ませるために羊の群れを連れて行ったり、女性が水がめをもって水を汲みに行ったり、商人がものを売るために集まる場所だった。さらに、旧約聖書では男女が出会う場所。三つの例を挙げると、アブラハムの僕はイサクの嫁となるリベカを井戸で見つけ、ヤコブは井戸でラケルに会い、モーセは井戸でツィポラに出会い結婚する。だから、ヨハネがこの物語で語りたいのは、花婿であるイエスと花嫁である人間との出会いの物語なのだ。 そのことはすでに、カナの婚礼(2・1-12)や洗礼者ヨハネの言葉(3・29)で示唆されている。
 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」。福音書で、イエスが疲れているのはこの箇所でだけ。ヨハネがここで示したいのは、人間を探して長い旅をして疲れた神の姿だ。預言者ホセアは姦通した妻ゴメラを買い取ることで、イスラエル(女性名詞)が他の神々を崇めてもイスラエルを愛し続ける神の愛を預言した。神は花婿が花嫁を探すように、離れて行った人間を探すのだ。グレゴリア聖歌(死者のためのミサの続唱)でも、「あなたは私を探し疲れて座っておられ、十字架につけられ私たちを救ってくださったQuaerens me, sedisti lassus: redemisti crucem passus」と歌われる。人間が神なしに自分の力でうまく生きていけると思ったとしても、神は人間なしではいられず人間を探し求める。人間を必要として愛に悩む神――ここでヨハネは、神についての革命的なイメージを示している。そしてこの箇所を読むことで教会が求道者に言いたいのは、神はずっと昔から、あなたが生まれる前からあなたを探してきたということ。
  

  「正午ごろのことである」。暑いイスラエルでは水を汲みに行くのは朝か晩。真昼には誰も水を汲みに行かない。ここでヨハネが考えているのはイエスが判決を下されるピラトの裁判。「正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」」(19・14)。つまり、ヨハネがここで言いたいのは、イエスがメシアだということ。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。 

 「サマリアの女が水をくみに来た」。この女の名前は書かれていない。サマリア人とは、アッシリアからの移民と民族的にも宗教的にも混ざり、偶像崇拝に陥った人たちのこと。彼女の「五人の夫」とは、聖書学者によると、サマリア地方の5つの山のことで、それぞれの山でそれぞれの神が礼拝されていた。 
 「イエスは、『水を飲ませてください』と言われた」。「水」は婚礼の完全な愛のシンボル。イエスが十字架上で「渇く」(19・28)と言ったように、神は人間の愛に渇き、人間の愛を求める。 
 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。サマリアの女とイエスの会話はかみ合わない。イエスとしては神が偶像崇拝に陥ったイスラエルを愛して探し求めることを話しているのに、彼女は自分の力で自分の幸せを得ることを考えているのだ。 
 「もしあなたが、神の賜物を知っており」。キリストは人間が自分の力で探して見つけるものではなく、賜物だ。すべてがそこから始まる。 
 「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。最終的に、人間も渇いている。たとえ気がついていなくても。その渇きを癒すことができるのは神だけだ。 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。権力にしても富にしても名誉にしても、人間が自分の力で探し求めたものは必ず不満で終わる。何かが足りないと感じる。それは私たちも経験することだ。それに対して、命にしても愛にしても生きる意味にしても、善いものはすべて神の賜物だ。だから、神は偉大な与え主だ。 
 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」。イエスに出会ったら、もう他の水は要らない。イエスの美しさに打たれ、イエスに出会った喜びに満たされて、イエスにすべてを委ね、宣教師になるのだ。

2017年

3月

12日

四旬節第2主日

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)。

 四旬節第2主日は大切な主日。テーマは変容だ。変容とは姿が変わること。イエスは弟子たちのため、そして私たちのために、目に見える姿の背後に彼の本当の姿を現す。  
 「[その時]」。実はマタイ福音書には「6日の後」と書いてある。6日前には、ペトロがイエスの質問に「あなたはメシア」と答えた後、イエスははじめて死と復活を予告し、それをいさめたぺトロに「サタン、引き下がれ」と言った。6日とはまた、創造の6日間、そしてシナイ山でモーセに神が現れるまでの6日間を思い出させる。
 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」。ペトロは実名はシモンだが、イエスにペトロと呼ばれていた。ペトロとは岩という意味。彼はがんこな人間だった。ヤコブとヨハネの兄弟も罪人を滅ぼそうとするなど、暴力的なところがあり、イエスから雷の子と呼ばれていた。弟子にあだ名をつけるとはイエスのユーモアも感じられる。イエスは特にこの3人を育てようとしており、十字架にかけられる直前にゲツセマネにもこの3人を連れて行くが、その時でさえイエスが望んでいることをわかっていない3人は寝てしまう。
 「高い山に登られた」。マタイ福音書には4つの山が出て来るが、その一つで、イエスが十字架につけられた山をも連想させる。
 「顔は太陽のように輝き」。モーセはシナイ山の上で雷の中十戒を受けたが、一週間のあいだ神の前にいたために、顔が輝いていて、人々は眩しくて見つめることができなかった。だから、モーセは顔を覆いで隠して、人々に接触した。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが新しいモーセであること。旧約時代はモーセが神から掟を受けたが、今の時代はモーセの掟ではなくキリストの言葉が中心となるということ。
 「服は光のように白くなった」。白は神のこと。つまり、イエスは本当の神の子であることを意味している。
 「お望みでしたら、ここに仮小屋を三つ建てましょう」。ユダヤ教の三大祭の一つに仮庵(仮小屋)祭がある。こんにちでも行われる祭で、ユダヤ人たちは8月か9月に家の外に小屋を建てて、1週間その中で生活する。それはイスラエルがエジプトから解放された出来事の記念であり、メシアを待つ祭でもある。だから、ペトロは仮庵祭を思い出して、メシアが現れることを考えたのだろう。しかし、ペトロは、イエスがどのようなメシアなのかがまだわかっていない(ルカ9・33「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」参照)。ぺトロはまだ、イエスを誘惑したサタンのような考え方をしている。まだ強いメシアを待っている。しかし、イエスは、罪人を滅ぼし力をもってイスラエルを救うメシアではなく、十字架のために来たメシアだ。彼が行くのは特別な道だ。罪人が滅ぼすのではなく、罪人が救われ生きるように人の罪を背負って十字架につけられるという道だ。

  「声が雲の中から聞こえた」。声とは父なる神の声。その声はイエスの洗礼の時にも聞こえたが、今日は荘厳な形で聞こえる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「愛する子」とは、かわいい子という意味ではない。「愛する者」とはヘブライ語では雅歌にも出てくる「ドッティ」で、全財産の相続人を意味する。だから、神が言うのは、神が人間に対してどう思うか、どうしたいかをイエスがいちばんよくわかっているということ。だから、イエスがメシアであること、イエスの道が神が望む道であることを神ご自身が示したのだ。 

  「手を触れて」。イエスは病を癒す時に相手に触れることが福音書にしばしば書かれているが、ここでも同じ言葉が使われている。

 「顔を上げて」。これは詩篇など聖書の多くの箇所に出て来る大切な動作だ。

 「イエスのほかにはだれもいなかった」。モーセもエリヤも消えて、イエスだけがメシアとして残る。マタイはイエスだけがメシアだと宣言するのだ。

 「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。この言葉は、マタイ福音書記者の特徴であり、マルコ福音書でも強く出て来る有名な言葉。この出来事を隠さなければならないのはなぜか。この出来事はすばらしい経験であったとしても、まだ最後の出来事ではない。イエスの輝きは十字架上ではじめて明らかになるからだ。十字架につけられて死ぬ時、人間の目で見れば失敗で終わる時に却って、神によってイエスの勝利が、イエスの栄光が示されるのだ。イエスが本当にわかるのはその時だ。
 今日、教会は求道者に、そして私たちに何を言いたいか。求道者は教会に導かれ、司祭に出会い、キリストの言葉を聞いた。それは喜びにちがいない。けれども、もっと大切なことがある。それは十字架だ。イエスはすでに山上の説教の最後で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言った。苦しい時、見捨てられる時、迫害される時、幸いなのは、神がそばにいるから。私たち一人一人の生活には、病気、失敗、人間関係の悩み、経済的な困窮など困難な時がある。けれども、私たちがその時キリストとともに生き、キリストの十字架を思い出すなら、私たちは幸いである。それを忘れてはいけないと教会は求道者に言いたいのだ。神が人を救うための道具は、権力やお金や名誉ではない。神は暴力や強い言葉を用いず、十字架上で死ぬその弱さで人を納得させる。私たちも同じ生活をするように勧められている。 

2017年

3月

05日

四旬節第1主日

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4・10)。

フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
 復活祭の準備をする四旬節は、一年の典礼で大切な時期。特に求道者にとっては、洗礼を受けキリストに出会う最後の準備の段階であり、信者も求道者といっしょにその旅を歩み、自分の洗礼の霊性を深める。主日毎の典礼では、救いが中心的なテーマとなる。救われるために、どう生きるべきか。教会は言う、イエスを見なさい、彼こそ救い主である、と。特にA年である今年には明確な見取り図がある。第1主日(荒れ野の誘惑)のテーマは、悪の誘惑から私たちを救うキリスト。第2主日(変容)は、救い主として私たちに送られたキリスト。第3主日(サマリアの女)は、生きた水を与えるキリスト。第4主日(生まれつきの盲人)は、暗闇に対する光であるキリスト。第5主日(ラザロの蘇生)は、死に対する命であるキリスト。私たちは主日毎に自分の心の中にこのようなテーマを種として蒔いて、1週間のあいだに成長させなければならない。 
 今日の第1主日では、神の世界が荘厳な形で開かれ、私たちはキリストに出会う。荒れ野の誘惑については、マルコは短く報告しているだけだが、マタイとルカは一つの不思議な出来事を私たちに伝える。 
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。「荒れ野」は、ユダヤ人にとっては根本的な体験の場所。彼らはエジプトを脱出してから、荒れ野を40年間さまよった。荒れ野は、まむしに象徴されるように困難に遭い誘惑を受ける場所であると同時に、モーセがシナイ山で十戒を授かったように神が自らを啓示する場所だ。ユダヤ人たちが罪を犯すといつも、ホセアやエレミアのような預言者が荒れ野に戻るように勧める。旧約聖書では、回心とは、荒れ野の根本的な体験に戻ることなのだ。荒れ野はまた、希望と再生、神の栄光の場所でもある。荒れ野で植物が茂り、花が咲く。岩から水があふれ、特別な食べ物が授けられる。荒れ野の中に道ができる。旧約聖書はこういったイメージにあふれている。福音書でも、荒れ野は大切な場所。神が何百年も沈黙し言葉を発しなかった時に、声を上げ人々に洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。そして、罪がないのに私たちの罪を負って罪人として洗礼を受けたイエス。
 今日の荒れ野の物語には、二人の人物が登場する。一人は悪魔。悪魔とは、ヘブライ語でサタン、ギリシア語でディアボロス。サタンとは文字通りには、嘘つきを意味する。人間を裏切り、たぶらかし、誘惑し、滅ぼそうとするのが悪魔だ。悪魔は、神を拒否する悪のシンボルで、私たちの中に働いて、憎しみと死の種を蒔く。今日の箇所にあるように、聖書を知りながらも、神の言葉をゆがめるのが悪魔だ。悪魔は荒れ野に住んでいる。 
 もう一人の登場人物はイエス。その誕生と洗礼については福音書ですでに伝えられている。清らかで罪がなく悪に強い英雄だ。イエスは今日、悪の国である荒れ野に入って、私たちを救うため悪との戦いを始める。戦いとは、ギリシア語でアゴニア。その戦いが終わるのは十字架上だ。神の子であり、肉によれば私たちの兄弟であるイエスは、イスラエルの民と私たちの罪を負わされて誘惑を受ける40日間の戦いを始め、昼も夜も戦う。
 マタイが記す三つの誘惑は、イスラエルの民が荒れ野で負けて罪を犯した誘惑だ。それは私たちにとっての誘惑でもある。つまり、イエスは、私たちの敗北を受けて、私たちの味方として戦うのだ。 
1.「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。モーセに導かれて、エジプトを脱出したものの、荒れ野では食べ物がなく、エジプトの玉ねぎが恋しくなったイスラエルの民。空腹のせいで不安に思い苦しみを恐れて元に戻ろうとしたのは、モーセが伝える神の言葉を信頼しないという罪だ。それに対して、イエスは誘惑に勝つ。本当のパンは神の言葉だけ、人間を導くのは神の言葉だけだと。神の言葉とはイエス自身のこと。イエスは神の御心を行うために来たのだから(ヨハネ6・38など)。

2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。 

3.「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないために、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民。バアルを崇めるのは偶像崇拝という最大の罪だ。要するに、イスラエルの民は、ヤーウェの神を信じようとしていたものの、それは完全な信仰ではなく、半分は信じても半分は別のものを信じていたのだ。それに対して、イエスはモーセの言葉を使って、神だけを拝むべきだと言う。受難の予告を聞いたペトロが「そんなことはあってはなりません」と言った時も、イエスは「サタン、引き下がれ」と言って、権力の道ではなく十字架の道を選んだ。そして、十字架上で苦しみ、神から見捨てられたと思われる誘惑を受けた時も、神にゆだねて死んだのがイエスだ。 
 イスラエルの民が誘惑に負けて罪を犯すところ、そして私たちも誘惑に負けて罪を犯すところに、イエスは誘惑に打ち勝って勝利の叫びをあげる。「退け、サタン」。その叫びは、十字架上で息を引きとった時の叫び、私たちを悪から解放した勝利の叫びでもある。 
 「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。天使が来るとは、神のあらゆる力が人間を新しく生まれ変わらせるために働き始めるということ。 
 荒れ野の誘惑についての今日の箇所は、復活祭に洗礼を受ける求道者への大きなメッセージだ。教会が今日の箇所で言いたいのは、キリストを見なさい、あなたたちにはいろいろな弱さや困難があるかもしれないが、キリストはあなたたちの悪よりも強い、ということ。洗礼式にも悪霊の拒否と呼ばれる式がある。キリストの勝利の叫びは、洗礼の時にも響いているのだ。 
 だから、四旬節は悲しみの時期ではない。罪の痛悔はあるが、癒しの時期で、新しい命が始まる可能性があるのだ。では、求道者はどうすればいいのか。そしてイエスを救い主と信じて洗礼を受けた信者はどうすればいいのか。 
 教会は伝統的に一つの言葉を大切にしている。それは、洗礼式の最初に使われる言葉で、ラテン語でコンペテンテースと言う。こんにちでは「物知り」という意味だが、もともとは「いっしょに戦う人たち」を意味する。つまり、私たちはキリストとともに戦うのだ。キリストの肩の上に乗って、キリストの背後から、キリストの敵と戦うのだ。キリストが勝利者であると信じて、キリストの戦い方に倣って戦うのだ。それが四旬節の具体的な行いになる。戦うための武器は、イエスが私たちに教える祈り。静かに神の言葉を聞き、信頼して祈ること。それから、回心。ザアカイのように、イエスを迎えイエスとともにいる喜び、癒された感謝など。そして、人に分かち合うこと。義務的にではなく、癒されたから人と分かち合う、与えられたから人に与えるということ。 
 主の祈りの最後は「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と祈る。その祈りは今日実現される。

2017年

2月

26日

年間第8主日

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6・30)

イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
 よく知られている今日の箇所。美しく印象的で、イエスの教えだけではなく感性が垣間見られ、摂理について語られる。私たちが上と下に(「空の鳥」「野の花」)目を向けるなら、生きとし生けるものが自分に命を与えることができず、神から生かされていることがわかる。 
 今日の箇所に限らずイエスの言葉はさまざまなテーマに結びつけて解釈できるが、教会が今日の第一朗読として選んだのは、苦難にあるシオン(イスラエル)の嘆きに神が答える、イザヤ書の箇所。「主はわたしを見捨てられた」「わたしの主はわたしを忘れられた」――私たちもそう思って苦しむ時がよくある。けれども、神は言う、「たとえ、女たちが[自分の乳飲み子を]忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。だから、教会は、福音書の箇所も今日はこの箇所との連関で読んでほしいのだ。神は私たちを決して忘れないということは私たちの信仰の土台だ。このことを私たちは、マリアが見聞きしたことを「心に納めた」ように、心に留めるべきだ。私たちは、信者になった後でも、生活の中で起きるさまざまなことのために疑いを抱き悩み苦しむものだから、預言者イザヤが伝えた言葉、そして今日イエスが言う言葉は私たちにとって大きな力になる。 
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。ここで語られているのは私たちの価値観についてだ。私たちは何に価値を見い出すか。それは私たちの霊的生活にとって大切なことだ。そして本来、富ではなく神に最高の価値があるのに、私たちは無意識的に世間の常識に引きずられて、富に最高の価値を見てしまう。それは本末転倒の間違いだ。 
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「思い悩むな」とは少し厳しい表現だ。でも、イエスは、生きるために働く必要はない、鳥のように働かなくても食べ物が与えられると言っているわけではない。「思い悩むな」とは、たとえ衣食がなければ困るとしても、それを実際以上に大切なものと考えすぎるなという意味だ。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。私たちは知らず知らずのうちに、大切でないものを大切なものとして、大切なものを大切でないものとして扱う間違いをする。例えば、ある人とつまらないことで喧嘩をして、もう二度と会わないことになったり、何かミスをしてそこから立ち直れなかったり。そういう間違いをせずに、すべてのものをその固有の価値に従って扱うべきだとイエスは言っているのだ。ものについての正しい判断と扱いは神の光によって可能になる。神の光の下で深く考えるようにイエスは私たちに勧めているのだ。

 「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。このようなイエスの言葉は、私たちへの問いを含んでいる。あなたは自分をどのように評価しているか。自分にどのような価値を見ているか。このような自己評価に関しても危険がある。それは一方では自分を過大評価する危険であり、他方では自分を過小評価する危険である。一方で、私たちは、自分を実際以上に評価する危険がある。自分が人よりもすぐれていると考えたり、自分がいなければだめだと考えたり。他方で、逆に、私たちは、間違った教育とか、自分の失敗などのために、自分はだめだと考えたり、自信を失ったりする。そして、人を愛したり、新しいことを始めることをあきらめて、硬直状態に陥る危険もある。この二つの正反対の心理学的結果に対して、私たちは、自分の色眼鏡で自分を見るのではなく、神の目で自分を見なければならない。神が自分を見ているように自分を見ることで、妄想によって膨らみすぎたり縮みすぎたりする自分ではなく、等身大の自分を見ることができる。そして、今日の箇所でイエスが言うには、私は神にとって、空の鳥よりも野の花よりも大切なのだ。どんな信者も、子どもから聖人に至るまで、同じ見方をしなければならない。自分の前に神がいて、その神が私を愛しているという自覚がキリスト者の霊的生活である。神は、私のやっていることが正しいとは必ずしも言っていない。もしかしたら私は間違ったことをしていて、罪を犯しているかもしれない。でも、神は変わらず私を愛し続けている。そして、私の前に歩いて、先へ進むように私の力になってくださる。 


2017年

2月

19日

年間第7主日

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5・45)

ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
 今日の箇所は、山上の説教の5つの話題のうち「反対命題」と呼ばれる箇所の続き。「右の頬を…」など6つの具体的なアドヴァイスが出て来る。そのどれにもあてはまるのが、真福八端の第二の柔和さ。柔和と訳される原語のヘブライ語アーナーウには聖書では深い意味がある。それは、真福八端の第一の心の貧しさ、つまりアナウィンと同じように、怒らずに神に信頼して忍耐し人に善意を示すことを意味する。 
 「目には目を、歯には歯を」。この言葉はこんにちでは復讐の容認として理解されるが、もともとはハンムラビ法典にあるこの掟は際限のない報復に限度を定めるものだった。しかし、イエスは、受けた暴力に見合う報復にも反対する。 
 「悪人に手向かってはならない」。イエスが言うのは、ただ無抵抗ということではなく、無償な愛の世界に入るべきということ。 
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。たとえ身体的暴力を受けたとしても、暴力で返すのはいけない。暴力に対して厳しい態度をとらなければならないことがあるとしても、復讐してはいけない。復讐は憎しみから生まれるが、憎しみを捨てなければならない。日本のキリシタンたちも、イエスのにならって、迫害する人たちを赦しながら殉教するように教育されていた。 
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。上着とは、ヨーロッパでは最近まで使われたマントのこと。イエスの当時、マントは貧しい人にとっては寝る時にかぶる毛布でもあった。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。当時、イスラエルを占領していたローマ人は労働を人々に強要していた。イエスの十字架を運んだキレネのシモンもそうだった。「求める者には与えなさい」。服でも労働でも、人に与える時には、惜しみなく与えるべきだ。
 「隣人を愛し、敵を憎め」。聖書学者によると、この言葉どおりの言葉は旧約聖書にない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これは、私たちの毎日の問題でもある。そして、イエスが言うように、自分を攻撃したり、苦しめたりする人を愛するなど到底できないように思える。しかし、大切なのは、イエスが感情的な愛で愛するように言っていないこと。イエスが言うのは、その人のために祈るということ。祈りとは、神に向かうことで、相手を見直すプロセス。遠くから敵に見えた相手も、近づくと人間に見え、もっと近づくと兄弟であることがわかる。祈りの中で、私を苦しめているこの人も、私と同じように神の赦しと癒しを必要としていることに気づく。私が罪人の時に神から愛されたように、この人も神から愛されているのだ。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。私たちは、相手に親切にするとき、相手からも親切にされたいと自然に思う。私たちの心の中にある互恵主義の考え方(「自分を愛してくれる人を愛する」「自分の兄弟にだけ挨拶する」)は人間の常であり、悪いことでもない。ところが、私たちはこのような考え方を自然に神との関係にも当てはめて、悪いことをしたら神から罰せられ、よいことをしたら神から報われると考える。それは、神についての商売的なイメージだ。しかし、イエスはこのような神のイメージに反対する。彼がその言葉と生と死によって宣言する神は、無償で私たちを愛する神だ。神が私たちを愛するのは、私たちから何かをもらったからではなく、神だから、愛そのものだからなのだ。神が私たちを愛するのは、私たちがよい行いをしたからではなくて、たとえ私たちが悪いことをするときも私たちを愛し続ける。イエスの弟子は、このような無償の愛の世界に入るように勧められている。 

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。これは注意しなければならない。私たちが神のように完全であることはもちろん不可能だ。けれども、私たちも私たちなりの仕方で神の無償の愛を実践し、その意味で完全でなければならない。このことをパウロもローマの信徒への手紙で見事な表現で言い換えている、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12・17-21)。

2017年

2月

12日

年間第6主日

あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5・20)

ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
 先週に続き、今日の箇所も山上の説教の一部。かなり長く、さまざまなテーマを含んでいる。その一つ一つを説明すると長くなるから、いくつかの点についてだけ簡単に説明したい。 
 マタイが話している相手は、他の福音書記者とは違い、ユダヤ教徒からキリスト者になった人たち。彼らはある特殊な問題を抱えていた。モーセの掟とイエスの教えの関係をどう考えたらいいかという問題だ。それは、キリストに出会ってから旧約聖書を知ったこんにちの私たちには無縁の問題だ。けれども、その問題に答える今日の箇所にも、よく読めば、私たちにとっても大切なものが含まれている。 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。つまり、これまでの掟の理解は不完全だったということ。ファリサイ派のいろいろな人がそうであるように、掟の文字を守っても、掟の心を忘れてしまったから。それに対して、イエスの弟子は、掟を行なうために、外側からではなく、内側から始めなければならない。新しい掟は心の中から始まる。神から愛を受けた体験から始まる。そして、掟の実現とは、人に対してその愛を分かち合うことなのだ。外側に関心をもつファリサイ派はできるだけ少なく掟を守るが、内側を大切にするキリスト者はできるだけ多く神を愛し、できるだけ多くよい行いを人にすべきだ。
 モーセの掟とキリストの教えの関係を示すために今日の箇所では6つの例が使われている。 目につくのは、どの例でも「…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言われていること。この表現(「反対命題(アンチテーゼ)」)は、当時のラビたちが律法について解釈するときに用いた表現だが、イエスは、この表現によって単なる解釈ではなく、新しい意見を出しており、そこにイエスがメシアであることが示されている。
1.「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが言うのは、殺すとは外面的に殺すことだけではないということ。たとえ人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、いろいろな形で人を殺すことができる。だから、外面的に人を殺していないだけでは十分ではない。

2.「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。この箇所は、ホセア6・6等を示唆している(「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」、イザヤ58・4以下も参照)。神から赦しを受けた以上、互いに赦し合わないなら、神が喜ぶはずはない。神は親だから、自分の子であり互いに兄弟である人間が互いに喧嘩して愛し合わないなら、耐えられない。互いに愛し合うことこそ本当の宗教であり、聖歌などで外面的にだけミサを美しく執り行うことではない。 

3.「『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。男女関係についての当時の考え方はこんにちと異なるところがあり戸惑うが、最終的にイエスが言いたいのは、たとえ外面的に姦通をしなくても、本当の愛情を抱いてではなく自分の欲望を満たす道具として異性を見るなら、神が考えた男女関係ではないということ。
4.「『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。当時のユダヤ人は、何かの約束や契約の際に、それを裏付けるために神の名を出していた。そのような習慣は今の日本にはない。けれども、神について話をするとき、私たちは神に対する尊敬の念をもっているかどうか、私たちが話している神は本当にイエスが私たちに示した神か、それともそこに私たちの考えが入っていないかということを神の言葉に照らして調べなければならない(二コリント2・17参照)。
 最後に大切なのは、イエスは新しい掟を与えるだけではなく、イエス自身が生きた掟であるということ。キリスト者にとって、掟とはキリスト自身なのだ。イエスの言葉だけではなく、イエスの生き方がキリスト者の掟である。

2017年

2月

05日

年間第5主日

あなたがたは世の光である。(マタイ5・14)

ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
 私たちは山上の説教を6週間かけて読む。先週はその最初の箇所を読んだ。少し難しいがすばらしいページで、そこでイエスは美しい生活のイメージを描いた。今日の箇所では、そういう美しい生活が自分のためだけでないこと、イエスの弟子は他の人に対しても大きな責任があることをイエスは教えている。キリスト者は自分の完成を目指すだけではなく、人に伝えなければならない。信者の場所は、教会ではなく、世の中なのだ。 
 このことを教えるためにイエスは、非常に印象的な二つの比喩を使う。一つが塩、もう一つが光だ。イエスが言おうとしていることを理解するためには、この二つの言葉が使われていた当時の環境を黙想すべきだ。 
 「あなたがたは地の塩である」。キリスト者は、イエス自身であるパンを食べ、イエスの味を知って、この世に塩味をつける。塩味とは具体的に何を意味するか。それはイエスの価値観のこと。塩が食べ物に塩味をつけるのと同じように、キリスト者はイエスの価値観をこの世にもたらす。それは、この世的な価値観、人間的な価値観(近頃言われる「ポリティカル・コレクトネス」)とは違った新しい価値観で、人生に意味を与える。 
 イエスの言葉で示唆されているのは、「塩」が食べ物を腐敗から守り保存する役割もあること。山上の説教がなされたカファルナウムの近くにはマグダラの町もある。死海沿岸は岩塩の産地だが、マグダラは何千年も前から魚の塩漬けの技術で有名で、マグダラで塩漬けされた魚はエジプトまでも運ばれたそう。塩が魚の腐敗を防ぐように、キリスト者は社会の中に善や美などの価値が消えないようにする役割がある。神の美しさを世の中に保つのがキリスト者だ。 
 それだけではない。当時、塩には、友情や契約というもう一つの意味があった。塩の契約とは、ヤーウェとイスラエルとのあいだに交わされた絶対に破られない契約のことであり、その契約のしるしとして、塩入りのパンを食べる習慣があった。キリスト者は、神と人との契約をこの世で保つ役割がある。その契約の根本は、神の人間への愛、人間の神への忠実だ。だから、神が人間を愛することを世の中に示すと同時に神に対しての忠実を示すのがキリスト者の役割だ。 
 「塩に塩気がなくなれば」。イエスが言うには、塩もだめになり、塩味を失う恐れがあるということ。ギリシア語原語には、「狂う」とある。 
 塩に塩気がなくなるとは具体的にどういうことか。塩の役割は食べ物の中に浸みこむことだが、塊のまま残るなら、その役割を果たせないということ。つまり、それは、キリスト者が人と交わらず、人から離れてエリートの教会を作る危険、 自己満足の教会(教皇フランシスコ)を作る危険だ。
 または逆に、水や蜜など他のものと混ぜられること。つまり、これは、キリスト者が世の中にいることで、テレビなどのマスコミ、一般常識などを受け容れて、世の価値観に影響されて、キリスト者としてのアイデンティティを失う危険だ。その結果、教会がただの人間的な組織になってしまう。

 塩はものに味をつけ、ものを変えるが、光はものを照らしても、ものを変えない。塩が味をつけ腐敗から防ぐのに対して、光はよく見るための明かりであり、何がいいか悪いかを理解し、何に価値があるかないか、何を選ぶべきかを判断するための力だ。

 光とは具体的に何か。ユダヤ人にとって光とは神そのものであり、また神の掟である律法、トーラーのことだった。そのために、神殿の奥、律法が納められた至聖所には、メノラー(燭台)がいつも灯されていた。だから、「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉には注意すべきところがある。本当の光はやはり神であり、神から送られたイエスであって(「わたしは世の光である」ヨハネ8・12)、イエスの弟子はその光によって照らされた者だ。キリスト者は、太陽に照らされて輝く月のように、自分の光で輝くのではなく、キリストの光に照らされて人のために光になり、人を照らすのだ。
 「あなたがたは世の光である」。これは、これから旧約聖書ではなく、イエスを信じたキリスト者が世の光だということ。シャガールが有名な絵画「白い磔刑」でメノラーの上に十字架を描いたように(こちらを参照)、神の掟の上にキリストの十字架が輝く。イエス自身、そしてその言葉と生活が光であり、キリスト者もそのイエスの光を伝える者として光と言える。
 「山の上にある町は、隠れることができない」。この言葉はイザヤの預言を示唆している。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」(2・2)。 「山の上にある」と言っても、権力をふるうためにではなく、愛やいつくしみを注ぐために、十字架がエルサレムの外の丘の上に立ったようにあるのだ。
 「ともし火をともして升の下に置く者はいない」。当時は、麦を量るために、秤の代わりに升を使っていた。升は逆さまにして燭台としても使われたが、ともし火を消す時にも使われていた。升の下に置くとは、人間的世間的な価値観でイエスの言葉を曲げてしまうこと。さまざまな信心も、イエス自身を隠す御利益宗教になりかねない。自分の利益のためにイエスの教えを使ってはならない。 
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。これは、自分の行いを自慢するという意味ではない。自分の行いを人に見せるとか、自分が目立つとか、宗教を自分の名誉のために使うのではなく、自分は透明になって本当の光である神、イエスを映し出すということ。そして、イエスが示した神の美しさを理解させなさいということ。
 英国国教会からカトリックに改宗した福者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)とともに、祈りたい、「導きたまえ、やさしい光よ」(祈りの全文と訳はこちら)と。

2017年

1月

29日

年間第4主日

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。(マタイ5・3)

フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
  降誕節や復活節は、イエスが神から送られた救い主であることを観想する時。「救う」ことは「癒す」ことと同じだから、イエスが私たちの心を癒す本当の医者であることを観想する時とも言える。それに対して、年間は医者であるイエスが私たちの心を治療する時。今日の箇所の裏にも私たちのさまざまな病気が描かれている。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」。イエスが宣教を始めたカファルナウム付近には丘がある程度。また、ルカ福音書の並行箇所では「山」ではなく「平らな所」と書かれている。つまり、福音書記者マタイは歴史的出来事を書いているだけではなく、その出来事の裏にある神学的意味を表現しようとしているのだ。マタイの念頭にあったのはシナイ山。カファルナウムから何千キロも離れた険しい山で、神がモーセに十戒を授けた山だ。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが私たちを神の国に導く本当のモーセであり、モーセはイエスのしるしだったということ。
 今日の箇所から始まるマタイ福音書の三つの章は、山上の説教と一般に呼ばれ、イエスが3年間の公生活で話した内容が5つの話題にまとめられている。この5という数字は、「(モーセ)五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書物を示唆している。つまり、マタイが言いたいのはやはり、イエスが新しいモーセであるということ。
 山上の説教の最初の箇所にあたる今日の箇所は真福八端と呼ばれ、世界の歴史の中で一番素晴らしい言葉とガンジーも言っている箇所。言葉に尽くせないほどの意味がある。解釈するより、沈黙、祈り、観想を通じて、その特別な恵みを汲みとりたい。
 「...幸いである」。日本語で「幸い」と訳されている原語は、ヘブライ語では「アシェール」、ギリシア語では「マカリオス」。いずれの近代語に訳す時も聖書学者が苦労する言葉。「幸い」と言うと、「運がいい」と理解されるが、それでは意味が通じない。苦しんだり、迫害するのが運がいいということになるから。注意すべきなのは、原語が旧約聖書で45回使われる特別な言葉であるということ。フランス人でもユダヤ人でもあり新旧約聖書全巻を仏訳した聖書学者アンドレ・シュラキはこの言葉を、通常のようにbienheureuxではなくavant(先へ)というフランス語で訳した。つまり、イエスがこの言葉を使って言いたいのは、起き上がって(=復活)先へ進みなさいということ。あきらめてはいけない、がんばりなさい、神はあなたとともにいる、ということ。神は、苦しんでいる人のどんなに小さな溜息にも気づき、その泣き声を聞き取って、その目から涙をぬぐい取るのだ。
 マタイのこの箇所には8つの「幸い」について語られている。いくつかの言葉について少し説明しよう。
 「心の貧しい人」。同じ言葉を記録しているルカが金持ちのギリシア人相手に布教していたのに対して、マタイは貧しいユダヤ人を相手に布教していた。貧しさとは何のことか。貧しさとはものが足りないということだけではない。この箇所では、アナウィンという有名なヘブライ語の言葉が使われている。これは、神の貧しい人という意味で、みんなから見捨てられ友だちも味方もまったくいない、もう神しかいないという人のこと。本田哲郎神父は「圧迫された者」と訳す。釜ヶ崎の労働者のように、みんなから見捨てられ踏まれてつぶされた人のことだ。そのような人たちに向かってイエスは言う、「幸いである」、つまり、「がんばれ、神があなたたちのそばにいる」と。今日の第二朗読のパウロの手紙にも、神は「無力な者」を選ぶとある。神は、弱い人によってすべてを新しくするのだ。
 「柔和な人々」。臆病な人という意味ではなく、非暴力を選ぶ人のこと。暴力や権力や富によって人の上に立つことを重視するこんにちの世界ではとても大切なメッセージだ。私たちキリスト者も歴史の中で暴力の誘惑を何度も受けているし、身近なところでは、ゴシップなども暴力の一つ。それに対して、父母のような心をもち、相手の弱さを利用するのではなく、相手を癒す人こそ幸いだとイエスは言う。
 「義に飢え渇く人々」。正義に飢え乾くとは、誰も味方してくれないということ。そんな時、神は言う、私が味方だと。人間の言う正義は往々にして正義ではない。昨年京都賞を受賞したアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウムが言うように、人間はよく正義の名の下で復讐するから。死刑制度もそうだ。しかし、神の正義はそうではない。いつくしみの聖年にパパ様が言い続けたように、神の正義はあわれみだ。母親が病気になった子どもが元気になることを望むように、神は罪人が立ち直ることを望む。神の正義はあわれみなのだ。
 「心の清い人々」。それは貞潔な人を意味するのではなく、神の目でものを見る人のこと。イエス自身、囚われない目でさまざまな人を見てあわれみを感じ、身の回りの自然の有様にも目を留めていた。
 「平和を実現する人々」。暴力が溢れるこんにちの世界。私たち一人一人に何ができるだろうか。たとえ大きなことはできなくても、小さなことから始めることができる。たとえば、挨拶。挨拶とは相手に気がつくこと。聖書でもとても大切だ。天使はおとめマリアに挨拶したし、パウロも手紙で挨拶している。典礼でも大切だ。挨拶するとは、相手が自分にとって大切だと表現すること。相手に対してそのような心をもつのでなければ、教会に来てミサに与っても無意味になってしまうかもしれない。世界平和は身近なところから始まる。相手を理解し、受け容れ、赦すことから始まる。
 「義のために迫害される人々」。この言葉には現代的な意味がある。カトリックは世界でもっとも迫害されている宗教だから。日本のキリシタン時代にも『マルチリヨの勧め』という本が印刷されており、殉教から逃げるのではなく、イエスにならって相手を赦して殉教するように宣教師は信者を教育していた。禁教時代に潜入した宣教師シドッチも、10年間キリシタン屋敷に幽閉されても、牢番が風邪を引かないように気を配っていたという記録が新井白石の『西洋紀聞』にある。
 今日の言葉も山上の説教全体も、イエスの口から出た言葉であるだけではなく、イエスの生活そのもの、イエスのいのちそのものだ。私たちも、言葉でも模範でも神の国に入るために宝物として大切にしたい。そこに私たちの喜びと幸せの秘密がある。

2017年

1月

22日

年間第3主日

「わたしについて来なさい」。(マタイ4・19)

ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
 キリストがどういう方かを黙想した待降節と降誕節の後、年間に入った。30年間にわたるさまざまな準備が終わり、いよいよイエスの活動が始まる。 
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。カファルナウムはティベリア湖のほとりにあった町で、発掘調査によると、当時千人ほどの人口だったと推測される。大きな町ではないが、北と南、東と西をつなぐ重要な道の十字路に位置していて、税関もあり(そこの徴税人の一人がマタイ)、地中海とも連絡していた。エルサレムから離れており、さまざまな民族が入り混じって住み、ギリシアの影響も強い町だった。教皇フランシスコが使う言葉で言うと、ペリフェリア(周辺)の町だ。つまり、イエスがその活動を始めたのは、ユダヤ教の信仰が確立されて熱心に実践される場所ではなく、異教の宗教も入り込んでさまざまな問題がある場所だったのだ。神が世に入るためには、このような状況を選ぶと福音書記者マタイは強調して、イザヤ第8章の最後から引用する。 
 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。マタイはいつも旧約聖書によってイエスの物語を神学的に理解しようとするのだ。私たちが抱えているさまざまな問題という「暗闇」の中にキリストが「光」としてやってくる。イエスは、よい人、正しい人を呼ぶために来たのではなく、病気や悩み、物質的精神的な問題のただ中にある人たちと接触するために来た。それは、福音書に何度も出て来るテーマだ。今のパパ様も、教会が本当に出かけるべきなのはこういうところだと言う。キリストは私たちの限界状況にやって来る。

 今日の箇所には、 まさにそんな状況にあって、まず最初にイエスに憧れを感じた人物への呼びかけがなされる。それがペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブという二組のカップルだ。彼らは漁師にすぎない。イエスは、教育を受けた専門の宗教家ではなく、生活の矛盾に陥っている人々を集めて弟子にするのだ。この人たちにに「天の国は近づいた」のは、この人たちがいい人だからではなく、神がこの人たちに関心があるからなのだ。 

 イエスはこの四人の一人ペトロの家を住まいとして3年間住むことになる。ぺトロが住んでいたその家は今でも残っている。村の一番端の家がペトロの家だったそうだ。 
 今日の箇所で大切なのは最後の節。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。年間の典礼が始まるこの時期に、この最後の節は大切だ。年間の典礼では、イエスの公生活の出来事を外面的に思い出すだけではなく、イエスといっしょに歩む旅であり、そこで私たちの癒しも行われるから。典礼にはその力がある。これから始まる年間の典礼は癒しの旅。イエスは私たちの病いや苦しみの中に入る。だから、私たちも四人の弟子たちのように、イエスがやることなすことにすぐに目を向けるように教会から勧められている。

2017年

1月

15日

年間第2主日

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
 主の洗礼の祝日とともに教会暦は待降節から年間に移行したが、年間第2主日には、主の公現の祭日に祝った現れとのつながりを意識して、共観福音書ではなくヨハネ福音書が読まれる。今年A年に読まれるのは、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼について証しする箇所。イエスの洗礼について、ヨハネ福音書はそれ自体としてではなく洗礼者ヨハネの証しとして書くが、三つの共観福音書はその出来事とその神学的意味をそれぞれの形で書いている。ところが、主の公現の祭日を主日に移して祝う日本では、今年は暦の関係上主の洗礼の祝日がその翌日の月曜日に祝われた。しかし、イエスの洗礼についてのマタイの朗読箇所は非常に大切なので、その箇所を見ることにする。
* * * 
 マタイ福音書では、イエスの幼少時代の物語は、ヘロデの迫害の後のエジプト逃避行とナザレへの帰還で終わる。イエスが次に登場するのは、その30年ほど後のこと。その間の出来事について福音書記者マタイは何も書いていない。なぜか。それはマタイにとって大切ではないから。マタイにとって大切なのは、イエスの死と復活、その前にある公生活である。イエスの洗礼はその公生活のはじめにあり、イエスを知るために重要な出来事だが、マタイにとって洗礼は特に重要だ。マタイ福音書は、イエスの洗礼と、福音書最後の弟子たちの派遣の言葉「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」で両側から包まれているから。 
 マタイ福音書では、イエスの洗礼は一つの問題で始まる。それは、福音書では洗礼者ヨハネとイエスの会話の形でまとめられているが、初代教会が抱えていた大きな疑問である。救い主であるイエスがなぜ洗礼を受けたか。ヨハネの洗礼が意味するのは死であり、罪人が回心して罪に死ぬことであるのに、罪人に対して裁きを行うべき「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。 
 これに対するイエスの答えは大切だ。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、正義ということ。ヨハネにとって、正義とは悪に対する裁きであり、罪人の死だったが、イエスにとって、正義とは、世に注がれる、父なる神の愛情のことだ。イエスによって現される神は、生贄を求める神ではなく、罪に落ちた人間を愛して自分の子を捧げる神なのだ。イエスは、ライオンのような姿でなく、ヨハネ福音書で洗礼者ヨハネが言うように「子羊」として、民の罪をかぶって身代わりとなって砂漠の中に死ぬ神の子羊として現れる。上空を飛ぶ強い鷲ではなく、ルカが言うように「雛を羽の下に集める」(13・34)めん鶏として現れる。洗礼者ヨハネが考えていたように、斧で切り倒し火で焼き払う強い者ではなく、弱い赤ちゃんとして現れる(「わたしはこの方を知らなかった」)。イエスが宣言する神の国は、イチジクのつぼみ、一つまみのパン種、未亡人の二レプタのように小さく目立たないものなのだ。イエスが言おうとしているのは、人間の罪を取り除くのは軍人のような力ではなく、母のようなやさしさ(教皇フランシスコがいつも言う「テルヌーラ」)、そして神の愛の美しさだということ。罪の根本は人間の弱さではなく、神に反する人間の心だから。

  洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。 

 「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。当時のユダヤ人の理解では、七つの天があり、律法学者の説明によると、そのあいだには500キロの距離があり、その奥に神の王座があった。神はそれほど遠い方だと考えられていたのだ。しかし、イエスによって開かれた天はもはや永遠に閉じられることがない。
 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。「イエスは…ご覧になった」。マタイによると、それはイエスの内面的な経験なのだ。神の霊が降るとは、神の力が完全にイエスの中にある、イエスが神の子である、ということ。「鳩のように」とは、洪水の後に戻ってきて新しい創造を告げる鳩をはじめ旧約聖書の箇所を参照している。洗礼を受けたイエスは、神の霊が宿る巣であり、父なる神は、この巣の中に降りて永遠にとどまる。 
 「そのとき、…声が、天から聞こえた」。何百年も前から、神は民の罪に怒り、民に語ることをしなかった。その神の声が、イエスの洗礼の時に遂に聞かれたのだ。 
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この短い言葉の中には、旧約聖書の次の三つの箇所が見事にまとめられている。1.「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)。2.「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク…を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22・2)。3.「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ」(イザヤ42・1)。僕とはただの召使いではなく、権限を与えられた代理のこと。
 イエスが洗礼を受ける時、神はイエスが自らの子であることを荘厳な形で私たちに知らせる。イエスは、父なる神の愛の完全なイメージ。神を見ることができる人間はいないが、イエスを見る人は神を見る。
* * * 
 福音書記者マタイにとってはイエスの洗礼それ自体が大切だが、福音書記者ヨハネにとっては洗礼者ヨハネによる証しということが大切だ。ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出て来るだけではなく、福音書そのものが「証し」として書かれていることがその結びの箇所からもわかる。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21・24)。私たちも、キリストを知った体験を人に伝えるように呼ばれている。

2017年

1月

08日

主の公現

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 
 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。 
 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 
 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

2017年

1月

01日

神の母聖マリア

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)

Sub tuum praesidiumのテキスト(ラテン語原文と日本語訳)はこちらにあります。


 夜は明けて朝になり、冬は終わって春が訪れ、一年は過ぎて新しい一年が始まる。私たちはそう考えて毎日の生活を送っているが、イエスの弟子にとって大切なのは、季節の巡りではなく、神の言葉だ。私たちは神の言葉によって方向を決めて、先へ進む。だから、新しい一年が始まるお正月も教会はイエスの降誕の光によって照らされるのだ。お正月に平和のために祈るとしても、教会が信じるのは、本当の平和は、神から送られ、マリアから生まれたその言葉であるということ。 
 典礼によると、今日は神の母聖マリアの祭日。実は、この祭日に教会が伝えたいのはマリア自身ではなく、イエスについてだ。マリアが神の母であるという信仰によって教会が伝えたいのは、ベツレヘムで生まれたイエスが本当に人間でありながら本当の神であること。だから、マリアの祭日だが、中心はイエスなのだ。
 今日の福音朗読の箇所は実は、主の降誕の早朝のミサと同じ箇所。早朝のミサは日本の教会では捧げられないことも多いが、今日の祭日には読まれる大切な箇所だ。天使のお告げを受けたマリアは「急いで」エリザベトを訪問したと報告したルカはここでも同じことを言う。天使の知らせを受けた羊飼いたちは「急いで」(16節)ベツレヘムに向かうのだ。福音書のこの箇所によって教会は、私たちも急いで(喜んで)ベツレヘムに向かい、生まれた赤ちゃんイエスの観想をするように勧める。なぜなら、その赤ちゃんにキリスト教の中心があるから。そして、愛情を込めたその観想から生まれるのがキリスト者の生活なのだ。 
 「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。出来事だけではなく出来事の裏にある意味を伝えようとする神学者ルカがここで使っている「飼い葉桶」という言葉に注目すべきだ。「飼い葉桶」とは、動物のえさを入れる場所だが、この言葉の裏にはもっと大切なものが隠されている。ある聖書学者が最近強調しているのは、ギリシア語の原語が意味するのは、石でできた容器よりも、編んだ籠だということ。特に当時の習慣では、ロバの鞍の両脇に二つの籠がぶらさげられた。一方の籠には農作業の道具など汚れたものが、他方の籠には清潔な食べ物が入れられたという。また、ベツレヘムという町の名前は「パンの家」を意味する。だから、ルカが言う「飼い葉桶」とはパンの籠であり、その中に寝かされた赤ちゃんは、最後の晩餐の時にイエスが私たちに遺してくださった聖体のことなのだ。 
 実際のところ、クリスマスに教会がミサで記念するのは、二千年前に生まれた一人の人ではなく、聖体の形で今生きているキリストだ。キリストは毎日曜日聖体によって私たちの中に生まれる。それが本当のクリスマスだ。キリストこそが本当の平和であり、私たちはそれを賜物として受け兄弟と分かち合うべきなのだ。私たちは赦されて人を赦すのでない限り、そのパンを受けるのはいけないということになる。

  「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。「知らせる」の原語はギリシア語のラレオーで、ルカはこの言葉を、その福音書と使徒言行録の両方で約90回使っている。飼い葉桶の赤ちゃんを見て驚いた羊飼いたちは宣教師になったのだ。イエスが預言された救い主であることを伝えると同時に、言葉であるイエス自身を伝える宣教師になったのだ。それは、公生活を始めたイエスの言葉と行いにいろいろな人たちが驚き、宣教師になったのと同じだ。 

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。ここでは「(心に)納める」と「思い巡らす」という二つの言葉が使われている。「思い巡らす」とはギリシア語でシンバローという言葉で、「いっしょにする」という意味。つまり、それはイエスをすべての中心にするということ。だから、「心に納めて」「思いめぐらす」とは、イエスを信じて、心の中にそのイエスを保ちながら、世のすべてのことがイエスの方に流れているのを体験することだ。マリアと同じように教会はイエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想する。教会は母マリアから倣って、イエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想して生きるのだ。 
 「羊飼いたちは…帰って行った」。普通の生活に戻るのは宗教の力のしるしだ。普通の生活に戻りはするが、以前の生活に戻るのではない。彼らは大きな体験をして、イエスを知りイエスの弟子になりイエスへの憧れを抱いた。外からは見えないが、見ること聞くこと行うことの意味が以前とは完全に変わっている。彼らは救いの状態に生きているのだ。彼らにとってはすべてが神に向かっておりすべてが神聖なものになっている。キリスト者はその体験の後、マリアのようにキリストを運ぶ神輿として世の中に歩き出す。 
 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」。この節は主の降誕の早朝のミサにはなかった節。ルカはここで、割礼という、神の契約を守ることよりも、名前をつけることを重視している。イエスという名は「救い主」を意味するのだ。  
 私たちの教会の一番小さい鐘には、マリアに対しての教会の一番古い言葉が刻まれている。スブ・トゥウム・プレシディウム――今日の日にはこのような言葉でマリアに祈るのがふさわしい。イエスの名に対しても、キリスト教の霊性には特別な信心がある。私たちも、マリアのように聞く心とイエスの名前を唱える恵みを願いたい。

2016年

12月

25日

主の降誕

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)

タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)
タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)

 待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。

 福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。

 第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。

 第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。

 第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。

 注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。

 そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。

 亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。

 第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。

 最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。 

 


2016年

12月

18日

待降節第4主日

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)

フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。

 今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。

 「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。

 何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。

 

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。

 「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。

 「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。

 福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。

 そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
 宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。

 教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。


2016年

12月

11日

待降節第3主日

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)

アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
 今日の福音書は先週と違った形で洗礼者ヨハネを登場させる。ヨハネは今度は、ガリラヤから離れた死海のほとりの牢にいる。聖書学者が言うには、ヨハネは牢でも特別な扱いを受けていた。ヨハネを牢に入れた領主ヘロデは後にヘロディアの娘のためにヨハネを殺させる(マタイ14・10)が、ヨハネのことを嫌ってはいなかった。だから、弟子たちが牢に出入りしていたようだ。それで、ヨハネは、自分の目で見ることができないとはいえ、キリストが行なった奇跡について人から聞いていたのだ。 
 話を聞いたヨハネは、弟子をイエスのところに送って、核心的な質問をする。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ここでヨハネがはじめて発したこの問いはそれ以降、救いを探し求める人の問いだ。それは、抽象的な理屈の問いではなく、命賭けの深い問いだ。母の胎内にいた時にもイエスに洗礼を授けた時にもキリストに気づいた偉大な神秘主義者であり、旧約時代の最後の預言者であったヨハネが今、死の危険に面して、迷いと荒みにあってその問いを発する。死ぬ前のマザー・テレサにもこのような暗闇の時期があったと言う。 
 洗礼者ヨハネは、メシアは良い実を結ばない木を斧で倒し、もみ殻を火で焼き払うと考えていた。つまり、メシアが来るとき、世の罪人が滅ぼされると考えていた。だから、イエスの行ないについて聞いたとき、イエスがメシアだと確信をもつことができなかったのだ。イエスについてのこのようなつまずきは他にもある。例えば、イエスの受難と死の予告を聞いてイエスをいさめるぺトロ(マタイ16・22)。あるいは、「お前は神の子、メシアなのか」と聞いた大祭司カイアファ(マタイ26・63)もイエスにつまずいた。 
 イエスはカイアファに対して「それは、あなたが言ったことです」と答える。イエスは、メシアかどうかの答をその人自身にゆだねる。イエスをメシアと信じるかどうか、それは一人一人の賭けなのだ。イエスは洗礼者ヨハネに対しても直接的には答えず、イザヤを引用して間接的に答える。イザヤのその箇所で預言される癒しは、マタイ第8章と第9章の5つの奇跡――2人の盲人(9・27-30)、重い皮膚病の人(8・2-4)、中風の人(9・1-7)、ヤイロの娘(9・18、23-26)、口の利けない人(9・32-33)――で伝えられている。そして、イザヤの「貧しい人は福音を告げ知らされている」は真福八端の最初(マタイ5・3)だ。 
 イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」と言う。イエスを信じるためには、そのつまずきを乗り越え、メシアについての、神についての考え方を根本的に変えなければならない。新しい見方を受け容れ、神の深みを知らなけれならない。つまり、来るメシアは、私たちが想像するような、いい人の神、よい行いに報いる神ではなく、人間のあらゆる期待を越えて人間を愛する神、人間のどのような行動よりも先に人間に愛を与えいつくしみを注ぐ神なのだ。貧しく無力で、最後に十字架につけられる神はそのような神だ。待降節に私たちに求められるのは、よい生活からよい生活に移る単なる道徳的な回心ではなく、まさにそのような変化だ。

 洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。

 さて、それまでの箇所では、洗礼者ヨハネがメシアについて話していたが、ここで役割の変化が起こる。ここからは、メシアであるイエスが洗礼者ヨハネについて話すのだ。マタイは、洗礼者ヨハネに感動するイエスの言葉を記録している。イエスが言うには、ヨハネは雅人ではなく、骨のある人。偽物の人間ではなく、本物の人間、権力も利益も求めず自由な人間だ。イエスはヨハネを愛する。清く正しく真っ直ぐな生活を送ったヨハネをこれまで生きた人の中でもっとも偉大だと誉める。 
 しかし、イエスは言う、神の国(マタイは「天の国」と言うが、聖書学者によると、それはイエス自身の言葉ではなく、弟子が変えた言葉かもしれない)では、どんなに小さな子供でも、ヨハネより偉大だと。キリスト者は恵みによって救われる。救われるために必要なのは神からただで来る恵みを子供のように受け入れる心だけ。誰もが最初から愛されているという自覚から私たちは自分の罪と弱さを告白し神から救われて、その救いを人に伝えることができる。 
 それでは、洗礼者ヨハネは救われなかったのだろうか。古代の教父たちのあいだにはそのような論争があった。しかし、アレクサンドリアのクレメンスによると、ヨハネは救いから除外された者ではないと言う。ヨハネが語った言葉だけではなく、彼が送った生活を見ると、神の愛を受け容れる態度をとっていた、と。 
 今日、教会が私たちに示す洗礼者ヨハネの姿は偉大な宣教者の姿だ。ヨハネについて本を書いたダニエル大枢機卿は、ヨハネは弟子を自分のところに引っ張るより、自分の弟子を手放してイエスのところに送ったのであり、そこによい宣教者の模範があると言う。ヨハネは、自分のために人を奴隷にするのでなく、キリストのために人を自由にする、と。 
 なぜヨハネは待降節に登場するのか。やはり当たり前のことにとどまらず、大きな問いを抱く必要があるから。私が信じているのは本当にキリストの教えか。私は本当に神の言葉を理解しているか。それとも理解を改めなければならないか。いつでも思い出さなければならないのは、神は私たちをはるかに越えているということ。そして私たちを越えているキリストに会う喜びだ。

2016年

12月

08日

無原罪の聖マリア

シモーネ・マルティーニとリッポ・メーミ「受胎告知と二人の聖人」、1333年、フィレンツェ・ウフィツィ美術館所蔵
シモーネ・マルティーニとリッポ・メーミ「受胎告知と二人の聖人」、1333年、フィレンツェ・ウフィツィ美術館所蔵
 なぜ私たちカトリック信者はマリアをこんなに大切にするのか? 
 答えは簡単。私たちがキリストに対してもつ心の態度はすべてマリアにあると教会は見るから。第二バチカン公会議は「教会の母」という言葉を使った。マリアは教会の鑑なのだ。マリアについて記した『教会憲章』第8章は神学と美学に溢れており、時に触れて読み返すことが勧められる。有名な神学者H・U・フォン・バルタザールは「教会はマリア的原理によって生きている」と言った。少し難しい表現だが、どういうことか。教会は一般の人が外側から見ると、権威と権力をもった大きな組織に見えるが、バルタザールによれば、それは外面的な覆いにすぎない。教会のエッセンスはそれではない。教会の大切な中身は、キリストに対する驚きや観想、信頼、愛、喜びなのだ。それが教会のすべてだ。だから、教会は善意の活動を一生懸命する人たちのクラブにすぎないのでなく、神に触れられて心から神を愛する人たちの家族なのだ。マリアがそのことを示している。何よりも、マリアはキリスト者の中で一番神を愛する方、一番神のそばにいる方、一番みことばを聞いた方、一番信じた方、一番神に「はい」と答えた方、完全に聞く方なのだから。
 教会がそのことを知ったのは、今日の福音書のページ――美しく、繊細で、神学に溢れるページから。この受胎告知のページこそ、キリスト教の中心であり、私たちが信じていることがすべてそこに含まれている。ルカがこのページを記したのは、イエスが主であることを私たちに伝えるため。ルカはこの短いページに、復活について使う言葉をすべて使った。 
 今日の箇所をルカは、旧約聖書の中で神が現れる時の荘厳な言葉遣いで記す。
 「天使ガブリエルは…おとめのところに遣わされた」。天使は神の使い。おとめであるとは、彼女に起こることがすべて神の働きであるという意味。つまり、イエスは私たちの祈りの結果ではないのだ。前の時代の人たちが祈ったから、メシアが来たということではない。イエスの到来は、私たちの期待があったとしても、完全な賜物なのだ。別の言葉で言えば、私たちが神を知る前から神は私たちを知っていた、私たちが生まれる前から、私たちが母親の胎内にいる時から、そして永遠から、私たちは神から愛されていた。そのことを、マリアが身ごもったイエスが私たちに示しに来るのだ。
 「おめでとう、恵まれた方」。1965年、マリアの家であったと考えられている岩窟(その地上にはナザレ受胎告知教会が建てられている)の柱の土台の石に、2、3世紀に遡る古い落書きが発見された。そこにはギリシア語でXE MAPIA(カイレ・マリア)と刻まれている。カイレ・マリアはラテン語のアヴェ・マリアに当たる(カイレは「よろこびなさい」という意味)。古代の信者たちはマリアに向かって最初からこの言葉を使っていたのだ(画像はこちらのサイトを参照)。
 「恐れることはない」。恐れは恐がることではない。神聖なものに対して敬う気持ちだ。

 「あなたは神から恵みをいただいた」。恵みとは神の命のこと。神の命、神の息があなたの中にすでにある。

 「あなたは身ごもって」。旧約時代、十戒を刻んだ二枚の石板が入った箱は「契約の箱」と呼ばれたが、マリアは本当の契約の箱だ。契約の箱が3ヶ月エドムの家に留まった(サムエル記下6・17)ように、マリアはエリザベトの家に3ヶ月泊まった。あるいは、神殿と言える。マリアはお香の煙が立ち昇る神の神殿だ。あるいは、日本の神輿、京都の祇園祭の山鉾を思い浮かべてもいい。喜びいさんでそれをかつぐと、世の中に神が現存する。私たちもマリアと同じだ。教会は、合理的なことではなく、神を、イエスを運ぶこと。私たちも、ミサに来て、神の言葉を聞いて、聖体拝領して、神にあふれて教会を出て、この世に神を運ぶ。 
 「男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。ここではじめてイエスの名前が出て来る。そして、イエスの使命も教えられる。ルカが言うのは、イエスの誕生がすべての歴史の中心であるということ。 
 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。…聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。 
 この箇所には初代キリスト教の信仰のエッセンスが含まれている。イエスが「人」であること、「偉大」であること、永遠の王であること、ダビデの後継者であること、天の「いと高き方」の子であること、「聖なる者」であること。そして、「聖霊」という言葉も出て来る。だから、私たちの信仰がすべてこの箇所に出ているのだ。 
 さて、天使から知らせを聞いたマリアはどうするか、何と答えるか。クレルヴォーの聖ベルナルドが言うのは、その時、宇宙に大きな沈黙があった(知恵の書18・14参照)。宇宙全体が息を止めて、マリアの返事を待っていた。すると、マリアは「はい」と答えたのだ。 
 「わたしは主のはしためです」。はしためとは、ただのお手伝いさんではなく、神からミッションをもらった人のこと。つまり、マリアはこの返事で、キリストを伝えるキリストの母であることを承諾して、「はい」と言って、それからずっと私たちにイエスを示す役割を受けたのだ。そして、マリアに続いて、マリアと同じように、マリアから力を得て、何億もの人たちが「はい」と答えた。私たちも洗礼の時に同じようにイエスに「はい」と答えたのだ。
 正教会にはたいへん美しい言葉がある。ギリシア語でHodegetriaという言葉で、道を示す者という意味。それは、マリアがイエスを抱きイエスを示すイコンのこと。なぜか。イエスは道だから。待降節のマリアはイエスを示す。この人を見なさい、と。こうして、宣教する教会が生まれる。

2016年

12月

04日

待降節第2主日

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)

画像は、「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵。

 待降節第2主日に前面に出て来るのが預言者イザヤと洗礼者ヨハネ。この二人はまったく違った時代に生きた人物で、立場も違えばスタイルも違う。しかし、教会が今日この二人について伝えるのは、来るべきメシアがどういう方であるかを示すため。第一朗読のイザヤの預言によると、堕落したイスラエルにも倦まずに神が送るメシアは、世界を新しくし、人々のあいだに平和をもたらす方。福音朗読の洗礼者ヨハネによると、メシアとは私たちの複雑な生活を整理し、清める力のある方。そして、第二朗読のパウロによると、メシアは僕として仕える方だ。
<第一朗読>
 イザヤは、イスラエルの歴史で一番重要な預言者。今日読まれた11章の箇所は第一イザヤのうちインマヌエルの書と呼ばれる部分(7・1-11・9)に属していて、詩の形式で書かれている。この箇所で使われているのは二つの違った種類の比喩、植物の比喩と動物の比喩である。 
 植物の比喩とは、切り株(「エッサイの株」「その根」)だ。幹を切りとられ、乾燥し、命を失った枯れ木というシンボルは、ユダヤの王国が罪に陥っている状態を意味する。その状態から、突然、一つの芽が出る。命が絶えたところに、神の力によって命が吹き込まれる。人間が何もできないところに、神の憐れみによって救い主が送られる。パウロのテトスへの手紙では、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(2・11。また3・4、3・5)と言われる。イザヤがこの箇所で言っているのも、神の恵みであるメシアについてなのだ。
 若枝を揺らす風は、イザヤが霊について考えるきっかけとなる。風も霊もヘブライ語では「ルアー」という同じ言葉で呼ばれる。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(11・2)。ここでは、霊という言葉が4回使われている。これは、東西南北という4つの方向を意味し、全世界を表現する。つまり、イザヤが言うのは、救い主によって全世界に霊が注がれ、世界が新しくされるということ。イエスがはじめて故郷ナザレに戻った時、「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)というイザヤの言葉は「今日…実現した」(ルカ4・21)と言ったことが思い出される。
 そして、私たちの心に染み入る美しい言葉が続く。その時、私たちの生活は、見た目や人の噂によって判断されるのではなく、正義と愛によって判断される。私たちの心を本当に知っている方、私たちを愛している方によって判断されるのだ。その方によって私たちは悪から救われ、その霊は私たちの弱さを助けに来る。
 この箇所の後半では、新しい創造のイメージが動物の比喩で描かれている。狼と子羊、豹と子山羊、若獅子と子牛といった、対となる動物は、不正義や束縛を伴う私たちの人間関係を意味する。人間の抱える問題には個人としての問題だけではなく家庭や社会の中での問題がある。当時と同じようにこんにちも、私たちは人間関係に悩み苦しんでいる。人間がいっしょに生きる苦労やつらさに神は憐れみを抱き、その関係を癒すためにメシアを送る。神は来るべきメシアによって、私たちの人間関係を正義と平等と平和の関係に直す。私たちはそれぞれの個性のために互いに敵となるが、新しい世界では自分の個性を保ちながらも、人とうまくつきあうことができる。一人一人の個性は神からの賜物であり、新しい世界ではその個性が生かされるのだ。
<福音朗読>
 今日の福音書の箇所には洗礼者ヨハネが出てくる。彼の特異な言葉遣いには、第一朗読にあったテーマが新しい形で出てくる。
 「荒れ野で宣べ伝え」。「荒れ野」はイスラエルの民にとって大きな意味がある場所。イスラエルの民は荒れ野で神と出会い、また誘惑を受けた。
 「天の国は近づいた」。「天の国」はマタイの特別な言葉だ。マタイは「神の国」と言う代わりに「天の国」と言う。
 「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」――それはエリヤの格好(列王記下1・8)だった。つまり洗礼者ヨハネは預言者の格好をしていたのだ。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者として、強い魅力を放ち、メシアが来る直前であり大きな変化があることを力強い言葉で告げる。 
 「ヨルダン川で」。旧約時代、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったのがヨルダン川だった。だから、ヨルダン川に戻るのは、新しく一から始めることを意味する。 
 「彼から洗礼を受けた」。注意すべきなのは、マタイが洗礼者ヨハネの洗礼について伝えるときに、罪の赦しという言葉を避けていること。ヨハネの洗礼には罪を赦す役割はない。マタイにとっては、人間の罪が赦されるのはイエスの十字架によってだけだから。ヨハネ自身も言う、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
 マタイ福音書で洗礼者ヨハネの言葉に出て来るのは、厳しい裁判官としてのメシアのイメージだ。そこには、もみ殻と火という二つのおもしろい比喩がある。飛ばされ燃やされるもみ殻とは、私たちの生活の中にある無駄なもの、土台のないもののこと。詩編第1章にも、正しい人は「流れのほとりに植えられた木」だが、悪人は「風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。ヨハネの言葉は厳しく思えるが、よく見れば、私たちを悪から清め解放するキリストの役割を示している。
<第二朗読>
 パウロの手紙の箇所は今日の朗読で一番感動するところ。ここで最初に言われているとおり、忍耐と慰め、希望を抱くことができるところだ。つまり、メシアは権力をふるう王として来るのではなく、僕として、「仕える者」として命を尽くし、自分の霊を注いで、平和を宣言する。それは、みんなが一つの心と一つの声でキリストの父である神に栄光を帰することができるためなのだ。こういったテーマはすべて、パウロの手紙に豊富に出てくる。
<まとめ>
 待降節はこのような聖書の流れの中に入るように勧められる時。キリストの言葉と命によって恵みを受け、キリストのようにお互いを受け入れ、お互いに耳を傾け、お互いに目を向ける時だ。来るキリストに心を広げる人だけ、「天の国」に入ることができる。

2016年

11月

27日

待降節第1主日

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)

 「時は空間に優る」と教皇フランシスコは言う(『福音の喜び』222-225)が、今日の福音書の箇所は時、つまり歴史についてのメッセージ。歴史は人類の歴史もあれば個人の歴史もあるが、揺れ動く不安定なもの。このような終末論のテーマは、年間の最後の日曜日と最初の日曜日に強く出て来る。ただ注意すべきだが、福音書のポイントは、そういう、人間の知恵でもわかる哲学的な発想にはない。福音書にとってはそこによい知らせがある。もろく消えやすい歴史の中に神が入る。神は一人一人の生活の中にも入って、その時間をポジティブな時間に変える。揺れ動く時間の中に恵みの時間が生まれる。私たちの限りある歴史が救いの旅になる。神がそばにいるその愛と慈しみを知り天に入るための絶好の機会――それが待降節である。
 「待降節」はラテン語ではアドヴェントゥス。これは「待つ」というより「来る」という意味だ。古代世界ではアドヴェントゥスとは皇帝が民を訪問するよい時だった。そして、皇帝が通る時、民は皇帝に「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と言った。だから、待降節は、神が私たちに憐れみと救いを与える恵みの時なのだ。
 この時期の一日一日を生きるために、教会は三人の人物を私たちに示す。預言者イザヤと洗礼者ヨハネとおとめマリアだ。この三人とも、それぞれのストーリーによって、待降節を具体的にどう過ごすべきかを私たちに教えてくれる。特にキリストと特別な関係にあったヨハネとマリアは、イエスのそばにいること、イエスを中心にすることを教えてくれる。それは待降節の大きなメッセージだ。母親の胎内で踊った洗礼者ヨハネは、イエスが近づく喜びを感じた神秘主義者。彼は、砂漠の中で自分のすべてをキリストに捧げた。マリアは肉体的に母であっただけではなく、キリストを中心にして生きた。みことばを思いめぐらすマリア、イエスを成長させるマリア、十字架の下でイエスといっしょにいるマリア――教会もマリアのように生きるべきだ。私たちもこのような人たちのようにキリストのために場所を作るよう教会から勧められている。それでは、具体的にどうすればいいか。

Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。

 まず第一は神のことばを聞くこと。教会は、毎日曜日だけではなく毎日聖書から注意深くことばを選んで私たちに用意している。だから、待降節の四週間のあいだにみことばに親しむことが理想だ。イエス自身が神のことばなのだから。
 第二は祈り。待降節は代表的な祈りの時期だ。たくさんの言葉を重ねるのではなく、静かな祈り、観想的な祈りが勧められる。聖体を大切にし、習慣になってしまった典礼に新たな心で参加して、その癒しを知り、ミサを再発見すること。それこそ、キリストの降誕だ。
 第三は回心。赦しの秘跡は、自分の罪を中心にした告解ではなく、喜びの秘跡だ。医者に行くとき、私たちは医者に自分の病気を隠さず打ち明ける。同じように、私たちの傷を癒してくださるイエスを信頼して自分の生活について彼に打ち明けるのが告解だ。多くの人が告解する機会に二三分で終わる告解だけではなく、年に一回ぐらいはもっとゆっくりした個人的な告解をしたいもの。内容としては、朝晩の祈りを怠るといった、決まりに反することだけでなく、自分の生き方が本当にキリストに向かっているか、自分の本当の病気を調べて神に示す。
 第四は、人に対するよい行い。この時期、教会は断食など節制を勧める。けれども、その目的は断食そのものではなく、私たちがキリストに対して抱いている希望を実現すること。具体的に言うと、周りの人たちへの関わり方を見直したり、子どもなど家族にどう信仰を伝えるかを考えることなど。
 最後に、待降節は、出産を待つ母マリアのように、キリストの降誕を待つ時期。断食の苦しみではなく、待つ喜びの時期なのだ。苦しみや悪や自分の罪など、喜びに反することはいろいろあるけれど、神から返ってくるのは喜びのチャンスを与える返事なのだ。

画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。


2016年

11月

20日

王であるキリスト

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)

 王であるキリストの主日は1925年に定められた祭日。当時は第一次世界大戦が終わったばかり。第一次世界大戦は日本では数百人の死者にとどまったが、西洋にとっては歴史を変える大きな戦争だった。1915年から1918年までの死者は約1700万人。戦後も、戦争の影響による貧困や病気など数々の問題のために約6000万人が亡くなり、ファシズム・ナチズム・共産主義の台頭、植民地の自立化が起こった。当時の教皇ピオ11世はこうした動きに抗して、王であるキリストの祭日を定めた。
 「王であるキリスト」は言葉こそ新しかったが、聖書に深く根ざすものであり、カトリックの世界に次々と広がり、王であるキリストの名前をもつ修道会・団体・学校・大学が多数生まれ、プロテスタントの教会にも受容された。第二バチカン公会議の典礼刷新後、この祭日は典礼年の最後の主日に置かれた。
 ふつう何かが終わる時、どんちゃん騒ぎで終わるもの。たとえば何かの集まりがあったら、最後に歌を歌ったり。けれども、不思議なことに、典礼年の最後の主日の今日、教会が福音書の箇所として選んだのは心の奥深くに響く柔和なテーマだ。 
 今日の第一朗読では、王という言葉がダビデに使われている。ユダヤ人たちは、救い主である王を待っていたが、彼らの感覚は世俗的で、彼らが考えていたのは、武力を振るって敵を倒し、金の王座に座って他の王にまさる王であった。
 今日の福音書の箇所で私たちは、そういう期待に対しての神様の応答を味わうことができる。今日の箇所として選ばれたルカの箇所は、マタイやマルコと少し異なり、ヨハネとも少し異なるところがある。それはルカが挿入する3つのイメージだ。
1.今日の箇所の直前に書かれているが、「民衆は立って見つめていた」(35節)。ルカは弱い人たちに関心があるから、イエスが十字架につけられても、権力者に振り回され、何もできず、不安に感じながら見ているだけの民衆の姿をわざわざ書き記す。ルカは今日の箇所の後でも、イエスが十字架上で息を引きとった特別な場面を見て、心を打たれる民衆の姿を記している。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」(48節)。それに対して、「(最高法院の)議員たち」とは、当時の権力者であり、イエスの死の責任者である。彼らはイエスを「あざ笑う」。彼らは敵であったイエスが自分たちの権力に負けて、死んでいくことを喜ぶ。 
2.「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。注意して読まないと気づかないが、この言葉はイエスが公生活を送る前に荒野で悪魔から受けた三つの誘惑の一つに似ている。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』(4・9)。その時、イエスは誘惑に勝ち、悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」(4・13)。今がその時なのだ。荒野での誘惑のあと3年間イエスは、悪魔の誘惑と戦いつづけながら、神の癒しといつくしみと愛をいろいろな形で人々に布教したが、最後の晩餐の時に、悪魔がふたたび出てきてユダに入り(22・3)、そして今、この「議員たち」があざ笑うという形で悪魔がイエスを誘惑しているのだ。そして、今日の箇所では「議員たち」だけではなく、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言い、イエスといっしょに十字架にかけられた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言う。それはイエスが受ける最後の誘惑――暴力に対して暴力をふるうこと、悪に対して悪で返すこと、人からやられたら復讐することへの誘惑だ。しかしながら、まずルカが、そして教会が今日私たちに言いたいのは、今日の第二朗読にあるように、宇宙の中心にあって、人と人、神と人のあいだに平和を打ち立てる王は、人間が考えるような王ではないということ。王であるキリストは暴力で敵を殺すのではなく、非暴力によって罪人に命を与える神なのだ。

  ピオ11世が今日の日曜日を定めた年から百年近くが経った。もしかしたらよく言われるように人間の歴史の中で一番残酷な百年間だったかもしれない。その残酷さはこんにちも続いていて、この先どうなるか私たちにはわからない。今の時代のために、そして今の時代の中に生きている私たちのために今日の箇所には特別なメッセージがある。十字架につけられて降りなかったイエスを見なさい。イエスは十字架上で死んだ。その瞬間、私たちは救われた。イエスが命を与えたからこそ、私たちは命に戻ることができたのだ。

3.そこで今日の箇所に出て来るのは、イエスといっしょにその十字架の横で十字架につけられた、もう一人の犯罪人だ。もしかしたら泥棒だったかもしれない。殺人者だったかもしれない。とにかく本物の罪人だ。自分の罪を自分で認めて、キリストを見る時に、もう一人の犯罪人をしかるだけではなく、すばらしい言葉でその命を閉じる。今日私たちはその声を聞く。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。読むたびに感動して止まない祈りの言葉だ。ルカの福音書では、イエスに向かって「イエス」と呼びかける人はほとんどいない。「イエス」とは人間的な名前なので、他の人たちは「主」などと呼びかけるからだ。つまり、「イエスよ」とは、友人や愛する人に向かって言うような呼び方なのだ。
 この犯罪人は、私たちにとって象徴的な人物だ。私たちのなかには、完全な人はいない。私たちはみなそれぞれの形で、自分に対して、神に対して、兄弟や家族に対して、自分の職業に対して罪人だ。教会が言うのは、自分の間違いを認めて、この人を見なさい、救いは十字架につけられたイエスにしかないということ。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ルカは楽園という言葉で、イエスの王国の柔和さと愛情を表現しようとする。日本人は庭を愛するが、イエスの王国は、敵に備えて壁を築き人を殺す武器を備える国ではなく、神自身が太陽のように輝く(黙示録22・5)楽園のような場所なのだ。
 今日、教会は信者一人一人だけでなく、全世界に大きなメッセージを届ける。キリストは本当に平和を作る方――もし私たちがじっとその十字架を見て、その十字架を大切にし、その十字架につけられたイエスの考え方を自分のものにするために毎日努力するなら。今日の日曜日は、新しい典礼年に入る前に、これからの一年間に神様が私たちにしてほしいことを考え、そしてそのために祈るための日曜日なのだ。

画像は、アンドレア・マンテーニャ「キリストの磔刑」、1457-60年、ルーブル美術館。


2016年

11月

13日

年間第33主日

「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21・6)

 今日のルカ福音書の箇所は一見したところ世の終わりをテーマとしている。世の終わりに天と地がどうなるかは当時もこんにちも人々が関心をもつテーマであり、私たちもいろいろなきっかけからこの箇所をそのような終末論として読んでしまいがちだ。しかし、今日の箇所は終末についての好奇心を満たすための箇所ではない。イエスはそのような好奇心に何も答えていない。ルカが私たちに伝えるイエスの言葉は、よく観察すると、私たちキリスト者がどのような心で生きるべきかを語っている。イエスは歴史の中のさまざまな問題を予期していた。彼は自分自身が十字架死に向かって歩んでいたように、自分の弟子の人生がさまざまな苦難や危険に巻き込まれることを予期していた。イエスは、どの時代のキリスト者にも、その時代のしるしを読み取るための新しい目を下さるのだ。
 今日の箇所はイエスの最後の一週間の出来事。イエスは、いつものように神殿に行く。神殿は当時はまだ建設中であり、その現場には裁断された立派な石などさまざまな材料があった。ある人たちがその美しい石や飾りについて話したとき、それが破壊されると言ったイエスはきっと自分の体である神殿のことも考えていたことだろう。つまり、十字架上での自分の死について考えていただろう。しかし、ルカがイエスのこのような言葉を私たちに伝えるとき、マタイとは違って、ストーリーを伝えるだけではなく、別のメッセージを伝えようとしている。ルカは、災いの預言より、災いを越えるための希望と喜びの言葉を信者に伝え信者を力づけようとするのだ。ルカは迫害を受けている当時の信者に向かって話しているから、その言葉はそのときだけではなく、それぞれの時代に苦しみを経験している信者にとって大切な遺産だ。

 この箇所にはいくつかのテーマがある。
1.「「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。これは信仰についての注意だ。最大の危険はさまざまな声の中からキリストの声を聞き分けられないことにある。
2.「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」。ここでイエスは何を言いたいか。私たちが迫害されるとき、嘘や虚偽、暴力など、迫害する人たちが使う方法を使って自分を守ろうとしないこと。一言で言うと、非暴力を貫くことだ。イエスの非暴力の教えについてはさまざまな箇所に書かれている。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・39-41)。悪に対して悪で応えてはいけない。イエスの弟子の強さは、弱さと思われることにある。どんなことがあったとしても、神は信じる人のそばにいる。イエスは自ら十字架上でその非暴力の生き方を示した。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)。
3.「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。キリスト者は神の国のために働き困難に遭うときに奇跡的な解放を待たないこと。もしかしたら財産、仕事、評判、家族、そして命さえ失うかもしれない。自分の働きの実りを見ることもないかもしれない。しかし、イエスが言うのは、そのような苦しみによってすでに神の国に入っている。その人のことが忘れられ、記憶さえ消し去られるかもしれないが、大切なのは神の判断だけだ。
4.ルカはイエスのメッセージは二つの言葉にまとめる。それは信頼と忍耐だ。信頼とは、どんなことがあったとしても、イエスは彼を信じる人のそばにいると信じること。忍耐とはギリシア語でイポモネで、耐えるというより踏みとどまるという意味。ルカはこの言葉やそれと似た言葉を大切にしていて、その福音書と使徒言行録に何回も使っている(ルカ8・15、使徒11・23、使徒13・43、使徒14・22)。ルカにとってはこの箇所での忍耐はキリスト者の特徴であって、魂を救い(「命をかち取りなさい」)実りを生み神の国に入る秘密だ。迫害の時代に生きたルカは、信頼と忍耐という二つのメッセージを大切にした。それは、こんにちの教会の私たちの心にも響くメッセージだ。

画像は、エルサレム神殿(ヘロデ神殿)の模型(エルサレム博物館)。


2016年

11月

06日

年間第32主日

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(ルカ20・38)

 今日の箇所は、人間にとって最大の問いに答を出している箇所だ。いにしえの昔から、八百万の生き物の中で死を意識するのは人間だけ。「死んだらどうなるのか」――それは人間にとっていつの時代も大きな問いだ。さまざまな時代のさまざまな文明や文化の神話や哲学は、エジプトでもギリシアでも、中国でも日本でも、みな同じ問いに答えようとしてきた。ただし、ユダヤ人の場合、事情が少し異なる。ユダヤ人はショオル(陰府)という言葉をもっていて、人間は死んでから洞窟のように薄暗い死者の世界に入ると考えていたものの、ギリシア人のように神話や哲学という形で死後の生命について考えていたわけではなかった。そして、ダビデにも初期の預言者たちにも、死後の生命についての信仰はなかった。ところが、ダニエル(紀元前六世紀)や今日の第一朗読の七人の兄弟(紀元前二世紀)から、死後の生命についての信仰が生まれ始めており、イエスの当時ではファリサイ派がそうだった。ラザロが死んで三日経ってからベタニアを訪れたイエスに「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったマルタもファリサイ派のような死後の生命への信仰を抱いていた。しかし、その生命はまだ遠くに予感されるものにとどまっていて、証拠はまだなかった。本当の証拠となるのはキリストの復活だ。
 イエスは十字架にかけられる直前の一週間、エルサレムの近くに住み、毎朝神殿に行って、どんどん注目を集め、その最後にいくつかの議論を交わしていた。その議論の一つが今日の箇所だ。
 今日の箇所に出て来るのはサドカイ派。サドカイ派は、サドック(ツァドク)という大祭司の子孫で、祭司として神と人間を仲介し、神殿の儀式や行事を行う役目を古くから果たしていた。しかし、宮清めの事件(ルカ19・45ー46)からも伺えるように、彼らは当時、一般のユダヤ人から受け取る供え物や金銭によって金持ちとなっていた。サドカイ派は福音書にはあまり出てこないが、イエスの受難と十字架死にかかわるアンナスとカイアファの二人はサドカイ派だ。
 サドカイ派は神にかかわる儀式や行事をする祭司なのに、奇妙なことに、死後の生命を信じない。彼らにとって大事なのはこの世の生活だけだった。彼らはイエスが自分たちとは違った考え方をすることを知っていて、一つのストーリーでイエスに挑む。そのストーリーは、当時のしきたりや法律を背景としているために私たちにはわかりにくいところがあるが、今日の箇所から死後の生命について二つの大切な点を拾い出すことができる。 
 第一にイエスが言うには、この世の子らたちはめとったり嫁いだりするが、来世の生活はそうではない。来世ではそのような関係を越えて、みんな神の子であり、みんな「天使に等しい」(イソ・アンジェラス)から。
 第二に大切なのは、イエスが引用するモーセの燃える柴。つまり、イエスが死後の生命の問題に入るのは神の体験からなのだ。他のすべての民族の神は地理上の場所にまつわる神である。日本の氏神もそうだ。しかし、イエスが思い出すユダヤ人の神は、場所より、アブラハム、イサク、ヤコブの神なのだ。神はこの人たちを造り愛したから、そして愛情をもってこの人たちと接触するから死んだままにすることができない。神は死者の神ではなく、生きる者の神である。

画像は、当教会ステンドグラス「燃える柴」、2009年。


2016年

10月

30日

年間第31主日

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19・5)

 エルサレムへの旅、そして公生活の最後に、イエスはもう一度、見捨てられた者、貧しい者、罪人に憐れみを示す。今日の物語は喜びに溢れている――イエスの喜び、ザアカイの喜び、そして物語をまとめるルカの喜び。ルカは、人間の中に入り人間の傷を癒す神の訪れの喜びを感じているのだ。 
 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた」。エリコは、紀元前7000年前にすでに存在した長い歴史のある町で、もしかしたら世界最古の町かもしれない。そして、海抜マイナス250mで、地球上もっとも標高が低い町だ。エリコにはこんにちも、ザアカイが登ったと考えられているいちじく桑が生えていて、巡礼者や観光客が訪れる。 
 「そこにザアカイという人がいた」。ルカはふつうは人の名を書かないのに、ここでは書いている。「ザアカイ」とは「清らかな人」「正しい人」という意味だ。
 「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。徴税人は、敵であるローマ帝国のために働き、泥棒のように無理矢理にお金を集めるその特殊な職業のためにユダヤ人から罪人とされ嫌われていた。想像にすぎないが、特別に背が低かったザアカイは、その劣等感のためにお金にすべてをかけた人だったかもしれない。背は低くても、お金を集めて、えらい人になった。でも、幸せではない。人から必要とされず、尊敬もされず、自分に満足していない。だから、イエスが来たときはいらいらし、変な好奇心も抱いただろう。自分は背の低さや職業のために皆から嫌われ軽蔑され見下されているのに、なぜこの人は大勢の人に取り巻かれているのか、と。 
 「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」。徴税人が子供のように木に登るなんて滅多に見られない光景だ。物語るルカ自身、その滑稽さに顔をほころばせているように感じられる。ザアカイが登ったいちじく桑の木は彼の孤独のシンボルだ。葉っぱの中に半分隠れて、イエスに呼ばれるとは想像もしなかっただろう。しかし、イエスは「上を見上げて」ザアカイの名を呼んだ。ザアカイが木に登ったのは、無理矢理に高いところに登ったにすぎないが、イエスはその彼より低くなって、ザアカイを呼ぶ。イエスがこのような態度で彼に伝えたいのは、大切なのは背の高さやお金や偉さや権力ではなく、愛だけだということ。 
 ザアカイはイエスを見ようとしていたが、じつは神が彼を探していたのだ。ある教父が言うように、イエスはある時いちじくの木に実を探しに行って、その時は見つからなかった(マルコ11・13)が、ここでは、熟して食べられそうな実がちゃんと葉っぱの中に隠れていたのだ。 
 イエスはザアカイに「回心しなさい」とは言わない。イエスが言うのは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。それは、あなたの友になりたいということ。日本語訳の「ぜひ…泊まりたい」は、ギリシア語では「泊まらなければならない」という表現だ。つまり、私にはあなたが必要だ、あなたは私の役に立つということ。ザアカイははじめて愛されていることを経験し、自分が誰かに必要とされていることを知った。
 そこに、誰も想像できなかったことが起こる。「ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた」。「喜んで」―イエスに出会ったその喜びを私たちキリスト者はみなそれぞれの形で知っている。「迎えた」―食事だけ、泊めるだけでなく、迎えたのだ。ユダヤ人の食事は一日に一回だけ、夕食だけだったから、イエスはザアカイといっしょに夕食を食べただろうが、イエスはただ食事だけではなく、泊まるためにザアカイの家に入った。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」―「宿をとった」という表現は、パウロも使う表現で、神が住むということ。 
 イエスがザアカイの家に入った時、ファリサイ派だけでなく町中が驚いたとルカは言う。ユダヤ人たちはザアカイを避けていたから、預言者イエスがザアカイの家に泊まるなんて考えられないことだった。ザアカイは神の友でありえないと誰もが考えていたのだ。けれども、神が罪人を見るとき、過去ではなく、未来を見る。どんな罪を犯したかではなく、どんな聖人になれるかを見る。だから、救いはいつでも神から始まるのだ。

 この出会いについてルカが私たちに書き残してくれているのは、一番最初の言葉「…ぜひあなたの家に泊まりたい」と一番最後の言葉「今日、救いがこの家を訪れた…」だけだ。その間には、何時間にもわたる、二人の親密な会話があっただろう。けれども、二人が何を話し合ったかについてルカは何も書いていない。それは二人のあいだの永遠の秘密として残る。けれども、イエスに出会って洗礼を受けキリスト者になった私たちは同じことを経験して知っている。 

 そして、その会話の結果は次の箇所からわかる。「ザアカイは立ち上がって、主に言った」。「立ち上がる」とは、「復活する」と同じ言葉。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。神の愛を知って、喜びがザアカイを満たし、新しい感謝の生活が始まる。キリスト者の慈善(チャリティー)は、救われるためのわざではない。神に救われた感謝からすべてが始まるのだ。 
 アンブロシウスをはじめ教父たちによると、ザアカイの家は教会のシンボルだ。昔の教会に時々あった破門はこんにちでは少なくなったが、教会を特別な人、エリートの人、清い人のための場所と考え、そうでない人を軽蔑し遠ざける癖がいろいろ残っている。けれども、教会は、罪人が救われる場所であり、罪人こそ入る資格があるのだ。教皇フランシスコが言うように、教会は「野戦病院」なのだ。

2016年

10月

23日

年間第30主日

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカ18・14)

 先週の日曜日に引き続き今日の箇所では、ルカが大切にする祈りのテーマがとりあげられている。先週の箇所では祈る時の神に対する態度が問題になったが、今日の箇所では人に対しての態度が問題になっている。そこに出て来る有名なたとえ話はやはりルカ特有のもので、シンプルでわかりやすいが、注意すべきいくつかの点がある。 
 二人の人物が祈るために神殿に上る。一人はファリサイ派、一人は徴税人だ。ファリサイ派の人の祈りは感謝祭(ユーカリスティア)の祈りとも言える。それはミサのように神への感謝の言葉(ベラカー)で始まるが、すぐに自分がやったことの自慢に変わってしまう。神ではなく自分が中心になるのだ。この人はただ掟を守るだけではなく、断食をはじめ何でも定められた倍のことを果たしていた。そして、この人の祈りは、自分を後ろにいる徴税人と比較し、自分がその徴税人のような生活をしていないことを神に感謝し、その徴税人を軽蔑することになる。他方で、徴税人は、ルカが細かく描くように、後ろに立って目を上げることもなく、胸を打ちながら、しっかりと神に向かっている。この人は自分の自慢ではなく自分の罪の告白のために神殿に行き、罪に対する憐れみを乞うたのだ。 
 ここで注意すべきなのは、私たちキリスト者は二千年に及ぶ聖書解釈の歴史から、ファリサイ派を悪い人と考えてしまいがちだが、そうではないということ。ファリサイ派は簡単に言えば旧約時代の「聖人」で、宗教に通じ、神を重んじ、律法を研究し、中には殉教者もいて、一般のユダヤ人の信心の模範となり、民から尊敬されていた。他方、徴税人は、理由もなく差別されていたのではなく、ルカが言うように「罪人」だった。だから、聖人・罪人についてのイエスの診断は普通の見方とは違っていたのだ。 
 イエスの診断によると、ファリサイ派のその人は大きな病気にかかっている。その人は、自分が救われ癒されるためではなく、自分が行なったよい行ないの報いを受けるために神殿に上った。つまり自分を救うのは自分の行ないだと考えていたのだ。これはイエスによると、大きな間違いだ。人間は自分の行ないによってではなく、神によって救われるからだ。よい行ないはその結果なのだ。救われたからこそ、人間はよい行いをすることができる。たとえ私たちがどんなに悪いことをしたとしても、神は絶対に忠実に私たちから離れることはない。だから、自分の罪を認める人は立ち直ることができる。
 このたとえ話を私たちは、徴税人の立場から読んでしまいがちだ。けれども、注意すべきなのは、ルカがこのたとえ話を書いたのは、罪人のためではなく、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人のためであり、しかも80年ごろの彼の共同体の問題を参考にしている。だから、こんにちの私たちも、自分の中に住んでいるファリサイ派の立場からこの箇所を読むべきだ。たとえば社会問題などで他人について厳しい判断を下し、間違った人を容赦なくけなすのが現代の風潮だ。政治家は政敵を糾弾し、教会に対する世間の攻撃は厳しく、教会内部でも互いを批判する。それは、相手によくなってもらいたいからではなく、相手に勝つためだ。相手の問題をあげつらうことで、自分を正当化するのだ。それはファリサイ派的なメンタリティの現れではないか。だから、ルカが今日のたとえ話で私たちに注意するのは、昔の問題ではなく、こんにちの私たちにもあるファリサイ派の危険なのだ。 
 キリストは罪人に対してまったくちがった態度を示す。ファリサイ派は相手の罪を厳しく告発するが、キリストはいつも相手が罪から立ち直っていくような態度をとる。ファリサイ派は相手が神に帰る道を難しくするが、キリストは相手が神に帰る道を易しくするのだ。

画像は、ベルナールト・ファン・オルレイ「ファリサイ派と徴税人」。


2016年

10月

16日

年間第29主日

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18・1)

 エルサレムに向かうイエスの旅の最後の段階、十字架に近づいてきているその時、ルカはもう一度、祈りについてのカテケーシスを教える。よく知られているように、ルカは特別にイエスの祈りに注目する福音記者だ。いろいろな箇所で祈っているイエスの姿を報告している。公生活の最初から十字架上での最後の瞬間まで、特別な出来事に際しての祈りをルカは記している。ルカにとって、祈りは、イエスとは誰かを示すためにも、イエスの弟子はどうあるべきかを教えるためにも非常に大切なポイントなのだ。 
 先々週の主日の第一朗読のハバククは、すべてがうまく行かず、祈っていた。そのような祈りは詩編にもある。たとえば35章22節に「立ち上がってわたしを助けてください」とある。教会の殉教と深い関係がある黙示録もそうだ。例えば6章10節に「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」とある。ルカにとっても、祈りはロマンチックな感情や美しい言葉ではなく、イエスの十字架や苦しみの体験と深い関係がある。 
 第一朗読にある、手を挙げたモーセの姿は、神と人とを仲介する司祭がとる典型的な祈りの仕草だ。それは海に沈む人が助けを求める最後の姿であって、神に向かって助けを求めるキリスト者の姿を表現している。私たちの力は神だけにあるのだ。 
 ルカが福音書を書いたのは80年ごろ。当時、ドミチアヌス皇帝が自分を神として拝むことを命令したのに対して、キリスト者がそれを拒んだことから、キリスト者に対する激しい迫害が始まるところだった。そのような状況にあって、なぜ神が答えてくれないか、なぜ神が助けてくれないか、神が沈黙するこの荒みと悲しみの時期をどう生きたらいいか、ということが問題になった。ルカが今日の箇所を編集したとき、キリスト者のそのような問題が背景にあった。 
 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」。裁判官と言うと自然に神を連想する。しかし、言うまでもなく、このたとえ話の裁判官は神を意味しているのではない。むしろ、迫害されるキリスト者の苦しみに対して無関心な世間のシンボルだ。 
 「その町に一人のやもめがいて」。やもめ、未亡人とは、夫、つまり自分を守ってくれる人を失った女性のこと。それはルカにとっては、女性に限らず、花婿キリストを失い、キリストのために迫害や災いに遭っているすべての正しい人、つまり教会のシンボルだ。
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。祈りと言っても、たくさんの言葉を並べるという意味ではない。イエス自身、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と言っているし、旧約聖書でも同様のことが言われている。「気を落とさず」「絶えず」という表現が意味しているのは、神との内面的な関係のことだ。言葉を重ねることではなく、周りの事情を神の目で見ること、物事についてイエスのような価値観をもつことが祈りなのだ。だから、祈りは息にたとえられる。息は、意識しなくても、命と深い関係があるからだ。イエスの息、聖霊に生かされることが祈りなのだ。だから、外面的な行為ではなく内面的な動機が大切で、時々たまたま善い行ないをするだけではなく、たとえ1日に7回罪を犯したとしても全生活が神に向かっていること、キリストのように生きようとすることが祈りなのだ。
 祈りによって私たちはまた、神の時を見分けること、また世間に対して神のように忍耐し神の国を待つことを学ぶことができる。マタイ福音書の毒麦のたとえのように、苦しみの中から善が成長するかもしれないのだ。さらに祈りは、間違う人に対して憐れみをもつために力になる。自分の間違いに対する憐れみから、他人の間違いに対する憐れみをもつことができるのだ。最後に、祈りとは、何かの特別な行事やイベントではなく、毎日の生活の中に働く生きた信仰のことだ。生きた信仰は、神の愛の深い体験から、いただいた愛や赦しを人に注ぐことができる。 
 ルカの時代のように、こんにちも教会はさまざまな国でさまざまな形で迫害されている。それでも、奪われた花婿キリストの再来を待っているか、「主イエスよ、来てください」(黙22・20)と祈っているかと今日の箇所は私たちの信仰に問いかけている。

画像は、ニコラース・マース「年老いた女の祈り」、1656年頃、アムステルダム国立美術館所蔵。


2016年

10月

08日

年間第28主日

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17・15-16)

 「エルサレムへ上る途中」。ルカがこのことをわざわざ何度も書くのは、エルサレムへのイエスの旅が十字架と復活への旅であり、その旅の途中でイエスが大切なことを遺言として言い残しているから。その旅の途中ではいろいろな出来事があるが、そのつどの出来事によってルカがイエスについて伝えたい信仰のテーマがある。今日の箇所の出来事は奇跡だが、ルカはイエスが奇跡をどのように行ったかを具体的に記していない。この出来事によってルカは何を伝えたいのか。
 「重い皮膚病を患っている」。「重い皮膚病」とはいろいろな病気に当てはまる言葉だ。それは治らない恐ろしい病気であるばかりか、汚れているとして神殿に入ることができず、また家族から離され人々から見捨てられるなど、社会的に差別された病気だった。聖書ではもっとも重い病気であり、盲目、貧困とともに死にたとえられるほどだ。この病気が治った例は、旧約聖書では二か所だけ、つまりモーセの姉ミリアムと今日の第一朗読のナアマンだけだ。
 「10人の人」。両手の指が10本あることから、10という数字は聖書ではすべてを意味するシンボルだ。つまり、ルカはこのエピソードに神学的なテーマを読み込み、すべての人がその病気にかかっていると言いたいのだ。ユダヤ人と異邦人は互いを差別するが、ユダヤ人であれ異邦人であれ結局同じ罪という病気にかかっていると。
 「イエスさま」。この呼びかけは新約聖書でも数少なく、イエスへの親しみを感じさせる。「わたしたちを憐れんでください」。「癒してください」という言葉ではないのは、その10人の人たちが病気が治ることよりも、人間として扱われることを望んでいたから。ちなみに、「わたしたちを憐れんでください」という言葉はオーソドックスのもっとも有名な祈りだ。
 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。これは、律法に従うように指示するユダヤ教の先生としてのイエスの言葉だ。らい病の治癒は当時、祭司が厳密に検査した上で、本当に治ったことを認め、特別な献金と引き換えに特別な祈りと儀式を行う必要があった。これは、ユダヤ人の律法にある掟だった。確かにイエスは律法の完成でもある。
 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」。ルカが今日の物語で一番具体的な言葉で表現しているのは、奇跡そのものではなく、一人の人のこの振る舞いだ。それは、よく見ると、典礼の振る舞いを意味している。ここでルカは、最後の晩餐の箇所とは別の形だが、私たちキリスト者の日曜日の集まり、感謝の祭儀を考えているのだ。「この人はサマリア人だった」。ルカは、ユダヤ人より、サマリア人の態度を褒める。それは、イエスがユダヤ人から見捨てられ、異邦人から神の子として認められたということを反映している。
 今日の物語によってルカは私たちに何を教えたいのか。9人の人とはユダヤ人であり、イエスを律法の先生と考えてユダヤ教の律法に従い儀式を済ませて普通の生活に戻って行った。彼らは自分が掟を守ったから、病気が治ったと思っている。つまり、ファリサイ派なのだ。自分が神の言葉を守ったから、言われたことをしたから治った、つまり自分の行動で治ったと思っている。だから、イエスのもとに戻らないのだ。却って、ユダヤ人から異端者と思われていた一人のサマリア人が、すべてが神から与えられたものであることに気づき、戻って、癒しを与えた人に出会った。そして、癒されただけではなく、救われた。癒しと救い―この二つの言葉でルカは二つの態度を表現する。ルカにとって救われるとは、自分の問題を解決することではなく、イエスに出会うこと、キリストに出会うことなのだ。信仰とは根本的に、誰が奇跡を行ったかを認めることだ。9人の人たちは掟を守りながら祭司たちのところに行って、癒されたが、救われていない。一人のサマリア人はイエスに出会い、その顔に神の愛を認めることで救われたのだ。
 キリスト者の救いの根本は、宗教的態度をとったり道徳を守ったり福祉を行ったり祈りを唱えることではなく、生きたイエスに出会って、そのイエスが神であることを知ることにある。私たちは洗礼や聖体を始め、信仰のしるしである秘跡を通じてキリストに出会うことができる。ミサとは、私たちが共通にもっている罪の状態から癒されて、聖体によって感謝すること。だから、マンネリでミサに与るのではなく、罪の自覚、救いの自覚、感謝の自覚がとても大切だ。そこからキリスト者としての生活が生まれる。 

画像は、「10人のレプラ患者の清め」(『エヒテルナッハの黄金福音書』、1035-1040年、ニュルンベルク・ゲルマン国立博物館所蔵)。


2016年

10月

02日

年間第27主日

自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17・10)

 旧約聖書のハバクク書は、今日の箇所の最後の言葉「神に従う人は信仰によって生きる」をパウロがローマ人への手紙のメイン・テーマにしたことで有名(1・17、ガラテヤ3・11も参照)だが、今日の箇所は印象的だ。こんにちの世界もそうだが、いろいろな災いや問題があり、なぜか、いつまで続くのかと神に祈っても答がない。詩編にもヨブ記にもそのような祈りがあり、そして最終的に十字架上のイエスもそのような叫びを上げた。ハバクク書のこの箇所は、今日の福音書の箇所とは直接の関係はないが、教会が第一朗読に選んだのはきっと、ルカ当時のキリスト教が経験していた問題と重なるためだろう。当時、迫害と殉教は始まっていたし、教会の中にも問題があった。そして、こんにちの私たちはこの箇所を読むとき、世界の中にある大きな問題を自分の祈りとして祈ることができる。 
 イエスはエルサレムへの長い旅の中で弟子たちにいろいろなアドバイスをするが、今日の福音書の箇所に先立って、イエスは、悔い改めるなら1日7回でも人を赦しなさいと言う。どうしたらそんなことができるかと心細く思う私たちへの答えとして今日の箇所がある。今日の箇所に出て来る二つのポイントはきっと、イエスが別々の時に使っていたものをルカがいっしょにまとめたものだろう。一つは信仰について、もう一つは簡単に言うと謙遜についてだ。 
1.「使徒たちが」。イエスは、先行する赦しについての箇所では、一般の人々に向かって話していたが、今日の箇所では、少数の親しい人々、教会に深い関係のある人々に向かって自分の秘密を打ち明ける。「からし種」とはユダヤ人にとっては一番小さい種だ。「信仰」にはいろいろなニュアンスがあるが、ここでイエスが言っているのは、キリスト教の要理を知り教会に行き祈りを唱えたり教会のために活動したりということだけではなく、神の愛に答えイエスに従う信頼である。「桑の木」とあるのは、ザアカイの登った「いちじく桑の木」(画像を参照)のことだという解釈もある。いちじく桑は巨大な木になるだけでなく、根が深く、きわめて抜けにくい。たとえ抜けたとしても、根っこが何百年も残る。イエスが言うのは、本物の清い信仰が少しでもあれば、私たちの家族、共同体、世界にあるどんなに根の深い問題でも解決する、だから疑わず信頼しなさい、ということ。これは、第一朗読のハバククのような祈りへの答えでもある。
 この箇所に出て来る小ささは福音書そのものの大きなテーマだ。神は小さい道具で人を救う。イエスは小さくなることによって私たちを救った。これが受肉の結論だ。イエスが選んだ弟子たちも小さきものだった。神にゆだねる心、信頼する心は、人間が考えられないほど大きな効果がある。主人公は神だからだ。だから、大切なのは量じゃなくて質だ。信仰生活も布教も、大きなイベントや集まり、騒ぎじゃなくて、本物の深い信仰が大切だ。名誉や成功を求めるのではなく、殉教者やアシジのフランシスコ、マザー・テレサなどの聖人たちのように、神との親しさや神への信頼を求めるべきだ。

2.「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」。外でずっと働いて疲れた僕に給仕をさせる主人は非情だ。ルカ自身、別の箇所(12・37)では、主人が僕のために給仕をすると言っている。これはどういうことか。

 イエスにとって弟子たちは何よりも大切な宝物だ。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マルコ10・42)と言うぐらい大切なのだ。けれども、最終的には、イエスこそ神の子でありながら人の救いのために仕える僕であり、その自分のようになるようにイエスは弟子たちに言い残しているのだ。だから、ただの報いとして何も得ないのは当たり前なのだ。例えば薔薇が咲くのは人から褒められるためではなく、それが薔薇の本質であるように、イエスの弟子の本質は僕であることだ。イエスが弟子たちに言うのは、私と同じように無心になって仕えなさいということ。「取るに足りない」とは役に立たないという意味ではなく、自分の報いのために働いていないという意味。イエスの本当の弟子は、自分の名誉のためではなく、100%神のため、キリストのために尽す者なのだ。

2016年

9月

25日

年間第26主日

わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(ルカ16・26)

 今日のたとえ話――金持ちとラザロのたとえ話も、初代教会の事情の中でルカによって伝えられたイエスのたとえ話であり、いつものように注意して読むべきだ。
 一方で「ある金持ちがいた」。「金持ち」とあるが、他の特徴は書かれず名前も記されていない。つまり、金持ちになるために何か悪いことをした、例えば盗んだとか税金を払わなかったとか召使いに乱暴をしたとは書かれていない。だから、こんにちで言うと、医者とか俳優とかスポーツ選手とか、キャリアを積み一生懸命働いてお金を稼いで外車などを買うような、私たちの社会によくいる人たちのことだろう。私たちはそのような人になれるし、またその生き方を認めている。他方は「貧しい人」。そこに「ラザロ」という名前が記されているだけでも、神から注目されているということだが、ラザロとはヘブライ語で「神が助けてくださる」という意味。ただし、貧しいという以外の特徴は何も書かれていない。例えば、貧しくても信心のある人とか、掟を守って神殿に行く人とは書かれていない。ラザロは祈ることもしない。だから、このたとえ話は悪い人と善い人の話ではないのだ。 
 そして、二人とも「死んで」。このたとえ話が死後について語るのは、大切なことを教えるためだ。しかしまた、天国と地獄について書かれているわけではない。つまり、このたとえ話のポイントは、天国はどのようなものか、地獄はどのようなものか、善い人は天国に行き悪い人は地獄に行く、だからこの世で善を行い悪に耐えなさいということではないのだ。
 「大きな淵があって」。それは死後の淵だが、よく見ると、この淵は金持ちとラザロのあいだに生前にもあった淵だ。その金持ちは、悪いことをせず自分の才能で金を儲けて、余った金で慈善(チャリティー)も行っていたかもしれない(ラザロは残飯を期待して、門前に座っていた)。そうであっても、金持ちの自分と貧しい人を区別していて、慈善も自分の名誉や利益のために行っていた。だから、自分を中心にして、神と隣人を忘れていたのだ。しかしながら、世界中の富は神がすべての人に与えて下さったものであり、そこに金持ちと貧しい人との区別はない。だから、金持ちが貧しい人に施しをしても、本来貧しい人に属しているものを貧しい人に返しているのにすぎない。 そのことにその金持ちは気づいていなかったのだ。
 「わたしには兄弟が五人います」。兄弟とは、ルカにとっては教会の中の兄弟のこと。イエスの弟子であるキリスト者も、富を自分のものだと考え、相手を慈善の対象としか見ない危険がある。 
 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」。神の言葉を聞いてわからないなら、どんな奇跡が起こっても何にもならない。 
 今日のたとえ話は、富についてどう考えるべきかを教えている。イエスが言うのは、この世の富は神がみんなに平等に下さったものと考えるべきということ。だから、あげる人ともらう人のあいだにも本来区別はないのだ。

画像は、フランス・フランケン二世「金持ちとラザロのたとえ話」、17世紀、フランス・カンブレー市美術館。


2016年

9月

18日

年間第25主日

わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。(ルカ16・9)

 不正な管理人のたとえ話は有名だが、古くからいろいろな解釈があり聖書学者にとっても非常に難しいたとえ話だ。主人は私たちの論理で行動せず、イエスも不正な人物をほめるから、誰もが引っかかってしまう。でも、よく見れば、このたとえ話は先週のルカ15章の三つのたとえ話(失われた羊と銀貨と放蕩息子のたとえ話)と同じように罪人をテーマとしている。そして、罪人に恐れではなく希望と励ましを与える大切なたとえ話だ。そして、このたとえ話から生きる力を汲みとるためには、出て来る人物をゆっくり観察しなければならない。
 まず、「主人」とはユダヤ人にとっては神のこと。神は姿が見えないが、人間に対して権利をもっているだけではなく、すべてを所有している。「管理人」とは、人間のこと。私たち一人一人は神の財産を預かっており、神から預かったものを増やす役目を与えられている。金銭や家屋田畑などの文字通りの財産だけではなく、私たちの命や能力や時間や子ども、周りから受けた善意や愛情など、すべてが神から預かったものだ。ところが、神から預かった財産を「無駄使い」するのが人間の基本的な問題だ。人間は、失われた羊や銀貨、放蕩息子のように、罪を犯して、神から離れているのだ。
 「告げ口」とは罪人の立ち直りを望む愛情からではなく、罪人の処罰と滅びを望む悪意から来る。「告げ口をする者」は潜んでいるが、サタンのこと。サタンは聖書によれば神の使いで(ヨブ1・6でも、神の使いたちが集まる時にいっしょに来る)、あちこち見張りをし、人間の犯した罪を神に伝えるのが趣味なのだ。逆に、イエスは罪人のために祈り(ルカ22・32)、罪人に寄り添い味方する弁護者だ。神は罪人が生きることを望む。神の国のメッセージとは、神の憐れみによる罪人の救いの可能性のことなのだ。サタンが認めないのは神のその憐れみだ。
 「会計の報告を出しなさい」。それは死の時かもしれない。あるいは何か重大な問題が起こる時かもしれない。その時、私たちは自分の人生を振り返り、いけないことをしてしまったことに気づく。
 私たち一人一人の人生はいつか神の前で審査される。だからといって、怖がる必要はないが、自分の命や能力、子ども、財産などが神から預けられた大切なものであり、今の時が大切な時だと気づかなければならない。
 「どうしようか」(ルカ3・10、使237など、ルカではいろいろな真剣な場面に出てくる言葉)。管理人にとって最後の最後の瞬間だから、生活を変える時間もない。「土を掘る力もない」。私たちは自分の力で自分を救うこともできない。パウロも言うように、どう祈るかさえ私たちはわからないのだ。「物乞いをするのも恥ずかしい」。その恥ずかしさは、アダムが裸であることに気づいた時の根本的な恥ずかしさだ。
 「そうだ。こうしよう」。自分の弱さや失敗のために追いつめられた時、人間はふつう絶望に陥る。そこにはサタンの働きがある。けれども、自分の状態に挫けない時、回心が始まり、復活が始まる。
 「油百バトス」とは4500リットルであり、175本分のオリーブであり、2年分の労働者の賃金に相当する。「小麦百コロス」は55000キロ、42ヘクトルの畑の収穫に当たる。その借りは膨大だ。その額を少なく書き換えた管理人は、これまで悪いことをしたのに、さらに悪いことをしたように思える。しかし、イエスはそれを「賢い」と言う。なぜか。
 最終的に神がその財産を私たちに預けたのは、ご自身が収穫を得るためにではなく、私たちが互いに分かち合うためだ。管理人は、その神の御心に沿って、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という主の祈りを実行したことになるのだ。私たちは人を赦すことによって赦される。私たちは罪人だが、最後の瞬間に愛することができる(「愛は多くの罪を覆う」、1ペトロ4・8、箴言10・12)。だから、罪を犯し人生に失敗しすべてが崩れても、思い出しなさい、最後の救いの可能性があなたのために与えられている、とイエスはこのたとえ話で教えたいのだ。そして、天国に行くのは、自分のお金によってではなく、この世のものが消える時、助けたり赦したりした人たちが私たちに永遠なる住まいの扉を開く、と。今日のたとえ話は、自分の罪や弱さや失敗のために麻痺状態になった私たちの心に立ち直る力を与えてくれる。

画像は、アヌンチアータ・シピオーネ「脱穀」。


2016年

9月

11日

年間第24主日

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15・32)

 今日の箇所、ルカによる福音書第15章は、ルカによるイエスのメッセージのまとめ。そこには、何かを失ってそれを見つけた人の喜びについて3回出て来る。はぐれた羊を見つけた羊飼いの喜び、無くした銀貨を見つけた婦人の喜び、遠くへ行ってしまって死んだと思っていた子供に再会する父親の喜びだ。 
 この箇所は私たちキリスト者が読み慣れているページであり、罪人である私たちに慰めと喜びを与えてくれるページだ。このページを読んで私たちは感じる――神は私たちを待っている、神の家の扉はいつでも開かれている、私たちは神から見捨てられない、と。 
 けれども、よく見ると、この三つのたとえ話のもともとの目的は、罪人に回心を勧めるというより、イエスが罪人と食事をしていることに文句を言うファリサイ派にイエスの態度を説明することだ。立派な道徳的生活によって自分を正当化するファリサイ派は、二つの根本的な間違いをしていた。その間違いとは第一に神を勘違いしていること。ファリサイ派は、神は正しい人に報い罪人を地獄に落とすと考えているが、イエスの神はあわれみの神だ。教皇フランシスコも言うように、イエスが来たのは、罪人を裁くためではなく、罪人が立ち直って生きるためなのだ。そして第二の間違いは、隣人に対しての間違いで、第一の間違いから生まれる。憐れみの神を理解しないから、隣人に対しても憐みを示すことができない。特に三番目のたとえ話で放蕩息子の兄が自分の弟のことを「あなたの子」と言う。自分の兄弟だと認めずに、他人扱いするのだ。これは父との関係の間違いから来る。兄はすべてをもっているのにそれがわからず、愛のない奴隷のように自分の家に住み、「わたしは何年もお父さんに仕えています」と自分を正当化し、そこから弟についても判断を下す。自分の不幸から相手を不幸にするのだ。こんにちの信仰生活で言うなら、祈りをしてもルールを守っても福祉活動をしても、神への愛からでなく、自分のためにするなら、兄弟との関係もだめにしてしまう。自分の力で自分を救う考え方から、神について、兄弟について、教会について、さまざまな間違いが生まれる。
 ルカは当時のどういう相手を考えて、今日の箇所をまとめたのだろうか。放蕩息子のたとえ話で言うなら、兄とは、教会に入って信者になったばかりの異邦人だったか。あるいは自分こそ本物の信者と考えて他の人たちを軽蔑し差別していたキリスト者だったか。この問題にはここでは立ち入らないが、今日の箇所をどう受け取るかはこんにちの私たちにとっても大切な課題だ。 
 放蕩息子のたとえ話は結末がなく、物語の途中で終わる。兄がその後、弟を弟として認め父の家に入ったかどうか、私たちにはわからない。結末がないのは単なる偶然ではなく、私たちへの問いだからなのだ。神についてどう考えるか、兄弟についてどう考えるか――今日のページは私たちの信仰を試している。
画像は、ジェームズ・テッソ「無くしたドラクメ銀貨」、ブルックリン美術館。

2016年

9月

04日

年間第23主日

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14・33)

 「大勢の群衆が一緒について来た」。教祖や政治家なら、大勢の人たちが後についてきたら喜ぶだろう。しかし、人気も栄誉も権力も求めず、弟子のグループにも小さい群れとかからし種、パン種という言葉を使うイエスは喜ぶ代わりに疑問を抱く。本当にこの人たちは私のメッセージをわかっているのか、と。だから、「イエスは振り向いた」。イエスの眼差しについては福音書のいろいろな箇所に書いてあり、私たちはイエスの眼差しを想像できる。何かに燃えて話そうとするイエス。イエスがどういう方か、イエスの後に続く私たちが弟子としてどうあるべきかを伝えるためにルカは今日のエピソードを使うのだ。
 先週の日曜日の箇所でルカは弟子のあり方について特に二つの点に触れた。その一つは、本当の弟子は自分が目立ったり名誉を受けたりするために婚宴(神の国)を使ってはいけないということ。もう一つは、貧しい人たちを人間的な基準ではなく、キリスト的な価値観で判断すべきということ。 
 そして、今日の箇所には、宝物になる別の三つの言葉がある。その言葉には、私たちをおじけづかせるほどの厳しさもあるが、時間をかけてじっくりと調べ理解しなければならない。そして、イエスのこういう言葉にこそ、私たちのこの世の生活をすでに神の国の生活に変える力があるのだ。
1.「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。この言葉は私たちを驚かせるし、十分に理解しないと危険でさえある。私たちの生活には愛情や家族などすばらしい賜物があるが、この言葉はそれを否定するように感じられるからだ。しかし、イエスが宣言する神は、私たちが孤独な生活を送ることを願う神ではない。ルカがここで「憎む」という言葉を使って言いたいのは「(私より)もっと愛する」(マタイ10・37参照)ということだ。つまり、イエスが言うのは、父母は素晴らしい存在だが、あなたが私を愛し、私の声を聞くなら、もっと深い愛を生きることができる、あなたの生活が神の国になることができるということ。
2.「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。この言葉を読むとき、幼稚な考え方をしてはいけない。ここでイエスが言う十字架とは、私たち誰もが毎日の生活の中で耐えなければならない小さな苦しみのことではない。「自分の十字架」とは確かに私たちの十字架ではあるが、その基準はイエスの十字架である。それは、イエスの限りない愛を意味する。イエスが私たちのために自分を捨てた無償の愛、人に暴力を加えず人を裏切らない愛を意味する。

 イエスが十字架上で死んだのは、運が悪かったからでも敵に負けたからでもない。イエスはたまたま死んだのではなく、愛のために自ら死ぬことを選び、神の御旨を果たしたのだ。イエスは顔を固くしてエルサレムに向かったとルカは言う(9・51)。ヨハネ福音書も同じことを言う。世の中に私一人しかいなかったとしてもキリストは同じように十字架にかかっただろうと聖イグナシオは言う。今日の箇所で言われる十字架も、そのような命がけの愛のことなのだ。イエスの弟子であるためにはそのような愛を生きなければならない。 

 3.「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。ルカはその福音書の中で何度も富について話すが、理解しなければならないのは、富を捨てなさいという要求が犠牲や苦行の要求ではないということ。イエスがまず第一に望むのは、私たちが富の奴隷にならず、物質的な欲望や不安から解放され、内面的な自由をもつことなのだ。たとえばお金があるから、キャリアがあるから、人から尊敬されているから私は重要な存在だと考える間違った鎖からイエスは私たちを解放したいのだ。言い換えると、人間の本当の価値は、物を所有したり、人から尊敬を受けることによって決まるのではない。人間の価値は心の中の愛、神と隣人に対しての愛によって決まるのだ。

 

 ルカが言いたいのは、弟子であるためにはイエスを凝視しなさいということ。イエスを見続けることによって、人間は本当に自由になり、平和を受けて、平和を人と分かち合うことができるようになる。赦されて、人を赦すことができるようになる。この世の生活によって後の世(神の国)のしるしとなることができるのだ。
画像は、フィリップ・ド・シャンパーニュ「山上の説教」。

2016年

8月

28日

年間第22主日

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカ14・11)

画像は、パオロ・ヴェネローゼ「カナの婚礼」、1562ー63年、ルーブル博物館。


2016年

8月

21日

年間第21主日

狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13・24)

 マタイの福音書を参考にしながら、自分が調べたことを加えて福音書をまとめたルカ。ユダヤ人に向かって書いたマタイは、地獄や裁きなどユダヤ人に馴染みのある厳しい言葉をたくさん使うが、旧約聖書を知らないギリシア人などの異邦人に向けてパウロとともに布教していたルカは、イエスのやさしさを描く福音記者とも呼ばれる。しかし、今日の箇所には唯一、驚くほど厳しい言葉が出て来る。なぜルカはその調子を突然変えたのか。 
 今日の箇所では、どういう人かわからないが、一人の人がイエスに一つの質問をする。「救われる者は少ないのでしょうか」。当時、ファリサイ派のあいだでは、誰が救われるかについて大きな議論になっていた。ある人たちはユダヤ人だけが救われ異邦人は救われないと考え、ある人たちはユダヤ人の少数が救われ大多数は救われないと考えていた。質問した人はこのような問題に対してのイエスの考え方を知りたかったのだろう。しかし、イエスはこの質問に直接答えない。質問自体が間違っている場合よくするように、イエスは話題を変える。そして、大切な二つのことを言う。 
1.まずイエスが言うのは、神の国に入るのが難しいということ。このような言葉を読むと私たちは勘違いしがちだ――もしかしたらイエスは私たちにもっと修行しなさいとか、たとえば洗礼者ヨハネのようにもっと厳しい生活を送りなさいとか、もっと道徳的な生活を送りなさいと言っているのだろうかと。もちろんイエスの教えの中にはこれについていろいろ大切な点があるが、ここはそうではない。イエスが言うのは、神の国に入るのは力のある人ではなく、力のない人、弱い人、小さい人だということ。神の国に入れないのは十分に修行していないからでなくて、大きすぎるからだということ。 
 ある聖書学者によると、エルサレムの城壁にはいくつもの門があり、馬車が通れる大きな門の他に、人一人がやっと通ることができる狭い門があって、その門が「針の穴」(マルコ10:25)と呼ばれていた。日本の茶道の茶室に設けられるにじり口は、高山右近などキリシタン茶人の影響があるという説もある。イエスが大切にするのは小ささだ。天国に入るのは私たちのよい行いの功徳ではなく、神のあわれみのためだ。詩編など旧約聖書のさまざまな箇所にもあるように、私たちは誰も天国に入る資格をもっていない。私たちは神の前では、ただ罪人であり、子どもである。神様から愛されているが、罪人であることが私たちの本当のリアリティなのだ。私たちが自分の過ちに気がつく前にすでに神が私たちを救おうとしている――これがイエスの中心的なメッセージであり、今日の箇所で大切な点だ。

 ルカの時代、教会では基準が少しずつ変わっていた。時間が経つとともに、イエスへの最初の憧れが薄れ、信者たちは自分の才能や地位を大切にして生活しようとしていた。しかし、ルカは、それは間違っていると言うのだ。やさしいルカが今日の箇所で突然厳しくなるのは、ちょうど両親が自分の子どもに対して普段はやさしい態度をとっていても、危険があるときは厳しい言葉をかけるのと同じだ。私たちが自分の価値や自分の行いに頼ると、救いの可能性がすべて消えてしまう。イエスのメッセージはまったく逆だ。私たちは赦されたからこそ人を赦すことができる。私たちは憐みの対象であったからこそ人を憐れむことができ、無償で助けられたからこそ人を無償で助けることができる。これがキリスト教のポイントで、ルカが厳しい言葉で私たちに思い出させようとしているところだ。

2.イエスの返答にはもう一つ怖いところがある。「主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」。神様が私たちに、あなたたちのことを知らないと言ったら、私たちの生活の意味がなくなってしまう。日本語の訳は「不義」となっていて、「不正義」を思い出させるが、ギリシア語の原語の意味は「無駄」だ。これは、あなたたちが自分を中心にしたこと、自分の名誉を探したこと、自分が目立つために努力したことは神からは無意味だということ。私たちが判断されるのはそのためではない。教会の中でどんな地位があったか、どんな名誉があったか、人からどんなに尊敬されたかは救いの基準ではない。救いの基準は、私たちがどのように神のあわれみを受ける器になったかということだ。私たちはよく自分のことで精一杯で人を受け容れることができない。人を赦すことができず、人といい関係を結ぶことができない。イエスが言うのは、自分を空っぽにすること、自分を無にすること。これがイエスの道なのだ。パウロの手紙の有名な箇所にあるように、イエス自身がまさにそう生きたのだ。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2・6-8)。

 私たちの教会の本聖堂の扉の上には、16年前の大聖年の年から「私は門である」の字が掲げられている。これはキリストの言葉だ。狭き門とはキリストなのだ。ちょうど大人が子供と話をするときにひざまづいて子供の目線の高さになって子供の目線で交わるのと同じことを神は私たちのためにした。だから、それは私たちの道でもある。

画像は、松江市明々庵にじり口。


2016年

8月

14日

年間第20主日

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。(ルカ12・49)

画像は、南チロルのイエスのみこころの火。


2016年

8月

07日

年間第19主日

ともし火をともしていなさい。(ルカ12・35)

 今日の箇所は、エルサレムへのイエスの旅の続きだ。ただ、この箇所で、ルカは、その旅にもう一つの旅を重ねる。それはイエスの小さな群れの旅だ。イエスが死んで復活し昇天して見えなくなった教会の時代を生きるルカ。イエスの弟子たちはすでに迫害の苦しみを生きていた。ルカは、イエスの言葉にひっかけて、そんな彼らに向かって言うのだ、信頼しなさい、イエスは必ず帰って来る、と。 
 「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」。夜という時には人によってさまざまな意味がある。夜はすべてを忘れて体を休める時であったり、楽しみ喜ぶ時であったり。危険を避けて家に閉じこもる時であったり、過去を振り返り祈る時であったり。そして、初代キリスト教には、復活祭の夜にイエスが戻るという信仰があり、信者たちはその夜を徹夜して過ごした。当初は再臨はすぐに起こると考えられていたが、イエスがなかなか戻らないことが少しずつわかってきた。その再臨を待つあいだ、どう生きたらよいのか。このような終末論のテーマはルカの福音書だけではなく新約聖書にさまざまな形で出て来る。 
 終末と言うと、私たちはすぐに審判を連想する。死んでから、天国行きか地獄行きかを決められると。しかし、キリストの再臨の中心的な意味はそうではない。それは愛するキリストが戻ることであり、喜びの再会であり、苦しみのなか忠実を守った人たちを愛情深く迎え入れる時なのだ。彼らは幸せだとイエスは言う。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。花婿が夜に戻る愛の喜びを歌う雅歌の一節が思い出される。 終末はキリスト者の希望の源なのだ。
 旧約聖書や新約聖書の別の箇所からヒントを得たいくつかのイメージを使ってルカは、イエスをどう待つべきかを教える。たとえば、「腰に帯を締め」。腰に帯を締めて、裾をもちあげるのは旅の格好だ。つまり、キリストの再臨を信頼する人にとって、生活は同じ活動の繰り返しではなく、日々新しい場所に向かって旅に出ることなのだ。イエスが彼らを新しい場所に案内する。第二の朗読のアブラハムは、行き先を知らないままに、ただ神の言葉を信じて旅立った信仰の模範だ。
 もう一つは「泥棒」のたとえ。「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。聖書の中ではこの箇所でだけ、イエスがその言葉を口にしているが、ペトロもパウロも手紙の中でこの言葉を使っている(1テサロニケ5・2「盗人は夜やってくるように主の日が来る」、2ペトロ3・10「主の日は盗人のようにやってきます」)。「10人のおとめ」のたとえにも似たところがある。ただし、泥棒という言葉については勘違いしないように注意すべきだ。この言葉にはネガティブなイメージがあるが、しかしこれはイエスの喜ばしい訪れを見逃さないようにという注意だ。イエスのメッセージは地獄に行かないためではなくて、天国に行くためなのだ。 
 もう一つは「管理人」。ルカが使う言葉は、エコノモスで、責任者とか係という意味だ。教会の中で責任者とされた人たちは、間違った態度をとる危険がある。目立つためとかプライドのためとかいろいろな理由で、自分の役割を勘違いする危険がある。イエスが頼むように奉仕するのではなく、独裁者になる危険もある。そして、人を利用したり、人から預かった財産を使いこんだり、人を厳しく扱う危険がある。それはルカの当時に実際起こっていたことで、こんにちも起こりうることだ。そこで、ルカはこの箇所で、特に大きな責任のある人たちに言葉を向ける。ルカが言うのは、注意しなさい、いずれキリストは戻り、あなたたちを厳しく審判し、「異邦人のように扱う(不忠実な者たちと同じ目に遭わせる)」と。「異邦人のように扱う」とは、権力やキャリアなどを自分のために求めたことは、キリストにとっては無であり、彼に無視されるということ(ルカ9・46-50も同じ)。キリストから受け入れられるのは人のために果たした役割だけ。彼が自分の弟子に果たしてほしいのは、小さな群れの世話、愛とやさしさ、慰め、赦し、指導、忍耐、謙遜といったものなのだ。 
 最後にもっと厳しい言葉がある――「ひどく鞭打たれる」。もちろん、神は誰も審判しない。この表現でルカが知らせたいのは、このような人たちの大きな責任だ。
 私たちはイエスが戻ることを信じてイエスを待ちながら生きるべきだ。別の言葉で言えば希望をもって生きるべきだ。教皇フランシスコが言った(2015年12月14日、2016年3月17日)ように、希望とは、私たちが神様からいただいた大きな徳である。希望によって私たちは、今の問題や苦しみ、困難、そして私たちの罪の先を見ることができる。私たちは希望の男女でなければならない。また、希望は控えめだが強力な徳であって、私たちキリスト者の生活の水面下に流れ、私たちを支える。困難に負けないで、いつの日か神の美しい顔を見ることができるように力を与えてくれる。

画像は、ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、1851-1856年、マンチェスター市立美術館。イエスが戸を叩く絵画は多数あるが、この絵はそのもとになったものである。


2016年

7月

31日

年間第18主日

人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15より)

 エルサレムに向かって少しずつ歩むイエスの長い旅。その最後の段階は、イエスがその独特の考え方を私たちに言い遺そうとする大切な時期だ。ほとんどは使徒たちに向かって語られるが、今日の箇所では皆に向かって語られる。 
 聖書を何度も読んでいると慣れてしまって、イエスの厳しい言葉も見逃しがちだが、今日のようにその厳しさがはっきり出て来る箇所もある。この箇所では特に二つの問題が感じられる。 
 1.イエスの話の途中で群衆の一人が言う。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。遺産の分配は当時もこんにちも難しい。兄弟喧嘩の原因にもなり、言葉を交わさない状態にさえなったりする。昔のヨーロッパもそうだが、当時は女性には結婚の持参金があったが、遺産相続は男性だけだった。そして土地は分けると価値がなくなるから、大体長男が土地を相続し、他の兄弟は金銭を相続する形だった。きっとその時に何かの問題があったのだろう。はっきりとは書かれていないが、おそらくその人は次男で、長男が遺産を全部自分のものにしようとしたのだろう。当時もこんにちもそんな場合、私たちは誰かに相談する。こんにちなら保証人や弁護士だが、当時はその村の長老や教師や宗教家など皆から尊敬され知恵のある人物に相談した。ヨーロッパでも昔は、司祭に相談するという習慣があった。だから、その人はイエスが話した時に、単純に自分の問題をイエスにぶつけたのだろう。尊敬される人物にそのような相談をするのは当時の習慣としては当たり前だった。 
 驚かされるのはイエスの返答だ。彼は怒っているようだ。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。私はまったく違う目的のために来た、と言いたいようだ。ここには厳しさが感じられる。ルカはここで何を伝えたいのか。 
2.もう一つの問題は、イエスのたとえ話の中にある。愚かな金持ちのたとえ話だ。ふつうに考えると、いい人だ。別に悪いことをせず、休まず一生懸命働いて、自分の畑の収穫のために働いてきたのだ。ある年は幸いに作物がたくさんできて、どうしたらいいかと考えて、蔵を壊してもっと大きいのを建てようと考える。こんにちに置き換えるなら、定年になって、それまでに貯めた金を使って楽しもうということだ。けれども、そこに「愚か」というイエスの厳しい言葉がある。イエスはなぜこの言葉を使ったのか。 
 この二つの問題について考えたい。 
1.イエスは質問に答える前にいつでも、自分が来た目的をはっきりさせる。ここでイエスが言いたいのは、こういう問題はあなたたちが自分で解決すべき問題だが、それを解決するためにあなたたちが忘れていることが一つあり、私はそれを思い出させるために来たということ。その一つのこととは「貪欲」だ。人間は金や名誉や権力に対して不完全な態度をとっている。イエスはいろいろなところでこのテーマに触れている。ヨハネの福音書にも「イエス御自身は彼らを信用されなかった。…何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2・24、25)とあるが、イエスは私たちの中にある基本的な弱さを知っていて、それに注目させたい。なぜか。それを解決しない限り、他の問題も解決することができないから。 
2.たとえ話で神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と言う。これは神の意地悪ではない。イエスの神は決して意地悪ではない。一生懸命働いた人を死なせるのはイエスの神ではない。イエスの神は罪びとさえ死なせない。イエスの神があわれみの神であることを私たちは十分に知っている。ここでイエスが言いたい大切なことは、私たちの人生が不安定な土台の上に立っているということ。それはもちろん、わざわざ神から言われなくても、私たちが目を開けばわかることだ。例えば、突然ガンを宣告され、余命を告げられる。あるいは災害や事故や戦争、名誉棄損や悪評など。私たちの人生は不安定な土台の上に立っていることをイエスは私たちに強く教えたい。
 人生の無常は仏教の根本的なテーマでもある。たとえば道元の有名な『正法眼蔵』では違ったたとえで同じテーマが表現されている。道元は人間を三頭の馬にたとえる。第一の馬は、鞭の音(死の知らせ)を遠くに聞くと、すぐ走り出す。第二の馬は、鞭の音を近くに聞いてはじめて走り出す。第三の一番鈍感な馬は、体に鞭を受けてはじめて走り出す。イエスのたとえ話にそっくりだ。私たちの財産、関係、名誉は儚いものだ。命でさえそうだ。いくら計画しても、私たちの寿命は短い。私たちの人生は不安定な土台に立っていることを知るべきだ。それを忘れてしまうとたいへんな間違いになる。

 

 では、どうすればいいか。今日の福音のポイントはそこにある。たとえ話の最後にイエスは言う、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。つまり、イエスによると、二つの世界がある。人間の世界と神の世界だ。そして、人間の世界と神の世界のあいだには税関があって、金をもって通過することができない。どういうことか。 
 もう一度たとえ話に戻ろう。その金持ちはなぜ愚かだったか。彼は孤独な人だ。この人の世界の中には自分以外に誰もいない。妻も子どもも友人も出て来ない。財産のためにきっと大勢の人たちを使っていたが、彼の考えの中にはぜんぜん出てこない。利己主義的な人で、自分のためにだけ働き富を積み大きな蔵を立てて自分の未来の幸せだけを望んでいる。これがイエスの言う愚かさだ。
 イエスは金持ちが嫌いではない。彼の生活を見れば、金持ちの人たちから何回も助けてもらい、何回も彼らの家に泊めてもらっている。だから、イエスは人が嫌いなのではなく、私たちの幸せのために大切なことを教えているのだ。富は神からのものだ。金があったり、才能があったり、権力があったり、社会の中で役割があったりするのはすべて神の賜物だ。ただそれは私たちのためではなく、人と分かち合うためのものだ。分かち合わないと、無駄に生きることになる。 
 自分のもっているものをどうしたらいいか。今日の日曜日、またはこの一週間考えてみたい。金であれ才能であれ時間であれ家であれ環境であれ自分のもっているものをどのように人のために使うか。どのように自分の生活を他人と分かち合うか。イエスは福音書のいろんなところでこのテーマに触れている。たとえば寄付をするときに「ラッパを吹き鳴らしてはならない」、または「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」などなど。そこに私たちの永遠の生命がかかっている。 
 私たちは裸で生まれて裸で死ぬ。この世で積んだものを天国にもっていくことはできないが、人と分かち合ったことは天国に入ることができる。イエスの一つのたとえ話にあるように、私たちが助けた貧しい人たちが天国で私たちを迎えに来て、父なる神に引き合わせ、私たちが彼らを助けたことを伝える。このことを大切にして一週間を過ごしたい。

2016年

7月

24日

年間第17主日

求めなさい。そうすれば、与えられる(ルカ11:9より)

 イエスの祈りを他の福音記者より強調するルカ。その福音書には7回、イエスの祈る姿が出て来る。イエスは、1.「洗礼を受けて」、2.らい病人の癒しの後に「人里離れた所に退いて」、3.12人の使徒を選ぶ前に、4.「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねる前に、5.変容の時に、6.今日の箇所で、7.ゲッセマネで、祈っている。いくつかの短い祈りも出て来るが、非常に印象的で感動させられるのは、十字架上の二つの祈りだ。「父よ、彼らをお赦しください」(23・34)、そして最期に「わたしの霊を御手にゆだねます」(23・46)。ルカ福音書では、イエスの全生涯は祈りと結びつけられ、イエスは祈りのマイスター(達人、師)として描かれる。 
 今日の箇所は、ルカによるイエスの祈りのカテケージスと呼べる箇所だ。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子たちはイエスに、その祈りの秘密を顕すように願う。イエスがどう返事するかに私たちも大きな関心がある。なぜなら、私たちはどう祈ればいいかもわからないから(ローマの信徒への手紙8・26)。 
 そこでルカが短い形で私たちに紹介する主の祈りは、洗礼の時に荘厳な形で私たちに手渡される祈りであり、キリスト者にとって大切な宝物だ。注意すべきだが、祈りとは言っても、アヴェ・マリアの祈りやさまざまな意向の祈りのように一般の霊的な生活の中で使われる祈りとは違って、人間が作って口先で唱えるような祈りではない。それは、信仰宣言symbolumに並ぶべきものであり、イエスの生涯のコンパクトなまとめであり、祈りの形になった福音書である。父である神と私たちに対するイエスの関係を最高の形で表現する祈りであり、私たちの生活の中に溶かして効かせるべき薬のようなものだ。たとえば町を案内するガイドブックが小説のようにテーブルに座って読む本ではなく、知らない町の中を歩きながら行き先を知るための本であるように、主の祈りは、一般の祈りのように座って唱える祈りでなくて、未知の信仰世界の中に生活し、さまざまな出会いの中で生き方を習うための祈りである。この祈りに導かれて、私たちはこの世で神の子として生きることができるのだ。 
 イエスの返答の中では、三つの動詞が使われている。「求める(頼む、乞う)」「探す」「叩く(ノックする)」の三つだ。この三つの動詞を使って、祈りの忍耐が表現されている。祈り続けなければならない。求め続け、探し続け、叩き続けるなら、必ず叶えられる。神の答えるのが遅いのではなく、神の計画に心を合わせるのがなかなか難しいことだから。祈りがそのために役立つ。だから、気を落とさず、長い忍耐をもって、祈り続けるべきだとイエスは答える。癖だらけの人間の父でも自分の子供によいものを与えるなら、天の父は当然、賜物を自分の子供たちに与える。そして、父なる神からの祈りへの一番大きな報いが聖霊の賜物なのだ。
 ここからわかるのは、イエスにとって祈りがどういうものかだ。祈りとは、父なる神に自分たちの意志を押しつけて神を動かす道具ではなく、神の御旨(意志)に一つになって、その救いの計画に自分たちを委ねるための手段なのだ。だから、祈りとは、神頼みじゃなく、神の御旨に一つになること。「異邦人」の祈り、一般の祈りは、神を自分の思い通りになる奴隷のように扱うが、イエスの祈りは、子のような心を持って神とひとつになることだ。神の実の子であるイエスの教えた祈りによって、私たちも神の子として祈ることができる。 
 今日の箇所のたくさんのポイントの中で印象的なのは、イエスが使う一つの短いたとえ話だ。真夜中に訪れる友人に起きてパンを貸す人。つまり、人間は困ったときも見捨てられているのではなく、友人である神は、起きるのが遅く見えても、最終的に私たちに恵みをくださるのだ。私たちは神からの恵みを友人のために願うことができる。主の祈りで私たちは、自分の父であるだけでなく「わたしたちの父」である神に祈り、神の国が来るように祈り、人を赦すために祈る。イエスの祈りは自分一人のための祈りではなく、愛である神と私たちが愛する人のあいだにある祈りだ。イエスが教えたように祈る人たちは、愛の世界の中に生きている。 
 今日の日曜日は年に一度、主の祈りを学び直すように教会が私たちに勧める日曜日だ。洗礼を受ける時、私たちは主の祈りについて説明を受けたが、例えば『カトリック教会のカテキズム』を使って、そのすばらしいまとめを改めて勉強すればよいだろう。

画像は、ジェームズ・ティソ「主の祈り」、1886-1894年、ブルックリン美術館。


2016年

7月

17日

年間第16主日

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ 10:41-42)

 今日の箇所はエルサレムへのイエスの旅の終着点近く、ベタニアでの小さなエピソードである。十字架上で殺される時は迫っており、イエスは多くの人に向かって話して宣教するより、自分の弟子の最後の教育をしようとしていた。
 マリアとマルタのエピソードは有名で、さまざまな解釈の歴史があるが、詳細な事実はわからない。昼の出来事か晩の出来事か、弟子は12人か72人かわからない。とにかく大勢の人が突然マルタの家に到着する。旅に疲れ、足も汚れていただろう。玄関も混雑しただろう。もてなすのはたいへんな仕事だ。そのもてなしをするマルタに私たちは同情してしまう。マルタのような人はこんにちも教会の中にいて、彼らが時間やお金や労力を費やして協力するのは、司祭にとっても信者にとってもありがたいことだ。 
 イエス自身も福音書の他の箇所にある通り、マルタのような人たちから助けられた。彼らは財産をイエスに差し出したし、衣服の洗濯などでも協力したことだろう。パウロもそのような人たちに対する感謝の言葉を手紙の最後によく書いている。彼らはさまざまな形でパウロの宣教を手伝った。そのような協力はありがたいことには違いない。 
 ただ、今日のエピソードには、予期しない逆転がある。イエスはマルタに対して厳しい言葉を言うのだ。イエスのその言葉を読んで和らげようと努力する解釈者もいる。イエスはそんなことを言いたくなかったと。しかし、そうではない。ルカがこのエピソードを伝えるのは、ルカ自身にとっても衝撃的な言葉がその中にあったからだ。 
 マルタはイエスに褒めてもらえると思っていたのに、返ってきたのは冷水のような不親切な言葉だった。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。言い換えると、あなたのものの考え方は間違っているということだ。「思い悩む」という訳はおもしろい。考え方に何か問題があって、その考え方からあなたは苦労しているということ。つまり、イエスの診断では、外面的な態度の裏に心の病気があり、大きな変化が必要だということ。「マリアは良い方を選んだ」。つまり、マルタは悪い方を選んだということ。ルカはマルタの反応について何も書いていないが、マルタは当然ショックを受けただろう。 
 第一朗読でアブラハムは一生懸命マルタと同じことをして、最後は神から報われ、子どもが奇跡的に生まれるという知らせまで受ける。マルタのどこが問題だったのか。 
 この箇所を理解するためには識別が必要だ。マルタは、忙しさのためか、性格のためか、大きな勘違いをしてしまった――中心はイエスではなく、自分が中心だと。彼女は自分がもてなすことが大切だと思い、イエスが話をしているのに、その言葉を聞こうとはせず、イエスが誰かを知ろうともしない。つまり、自分がいい恰好をし自分に自信をつけるためにイエスの訪問を使おうとしているのだ。彼女は神が家を訪れたのに、自分のことで精一杯でわからない。イエスの周りをうろうろしているが、イエスといっしょにいる喜び、目の前に神が現れた喜びを感じていない。私たちのこんにちの生活に置き換えれば、貧しい人のためなど福祉活動を一生懸命やりはしても、自分は金持ちだからできると自慢したり、人を助ける自分はいい人だという意識をもったり、いいことをする自分を他人に見せたり、活動が上手だと褒めてもらおうとするようなものだ。
 結局、マルタは自分が神様の訪れを必要としていることすら気づかなかった。もてなすのは実際は自分ではなくて、イエスがその現存と言葉で彼女をもてなすのだと気づかなかった。イエス自身が神の言葉であることにマルタは気づいていない。その結果、ルカが示唆するように、彼女は不満で、疲れ、他の人の振る舞いでいらいらし、ちょっとノイローゼのようで、神であるイエスを叱るほどだ。弟子たちも舟の中で嵐に遭った時、イエスを叱る、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」(マルコ4・28)。彼らは神よりも自分の方が必要なことをわかっていると思っているのだ。
 はじめに述べたように、イエスは、自分の弟子はどうあるべきかを旅の中で教えていた。このエピソードでは、マリアが本当の弟子の姿を示している。「主の足もとに座って」。これが典型的な弟子の態度だ。「その話[=言葉]に聞き入っていた」。本当の弟子とは、たくさんの祈りをしたり善い行いに努める人ではなくて、まず第一に神の言葉に耳を傾ける人だ。神の言葉に耳を傾けるなら、神によってすべてが新しく創造される。そこから、命や喜び、聖霊のやさしさや愛が生まれる――ちょうどルカが福音書の別のページでイエスの母マリアについて書いているように。
 ルカがこのページによってとりあげるのは、教会の歴史の中でさまざまに議論されてきたように観想生活と活動生活のどちらがすぐれているかという問題ではなく、神の言葉を聞くことがどんな生活であれ弟子の生活の土台であるということだ。神の言葉を聞くことはどんな活動にも観想にも先になければならない。観想生活も「自力」ではなく、神の言葉を聞いて神から呼び出されることから始まるのだ。だから、マリアは、観想生活者であれ活動生活者であれ宣教師であれ、あらゆる信者の模範である。神の言葉を糧として私たちはキリスト者として成長する、たとえ罪人であっても。悪霊に取りつかれたゲラサの人が癒されたときイエスの足もとに座っていた(ルカ8・35)。だから癒された後の一番最初の段階はイエスの足もとに座ってその言葉を聞くことである。神の言葉を聞くことはキリスト者のあらゆる生活の土台なのだ。 
 活動生活も観想生活もいずれ終わる。年をとる時、病気になる時、続けることができない。けれども、神の言葉はキリスト者の土台として残る。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。

画像は、フラ・アンジェリコ「ゲッセマネの園のキリスト」、1450年、サン・マルコ修道院


2016年

7月

10日

年間第15主日

旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)

 先週の福音書と今週の福音書のあいだで一つの箇所が省かれている。先週の箇所では、弟子たちが布教から戻って、自分たちの行いなどをイエスに報告していた。しかし省かれた箇所によると、その時イエスは父なる神に向かって喜びにあふれて感謝の祈りをする。だから、よい雰囲気だったが、今日の箇所で突然、難しい問題が投げかけられる。 
 今日の箇所は、ルカ福音書の中でも非常に有名であり、私たちにも慰めにも知恵にもなる箇所であり、二つの質問からできている。 
 「律法の専門家」。イスラエルの掟はもともと10しかなかった(十戒)が、律法学者は10の掟から613の掟を作りだした。彼らにとっては掟が中心であり、それについて議論し合い、自分たちの利益のためには基本的なことも無視し、律法について無学な人を軽蔑していた。 
 「試そうとして」。その人は、イエスが考えを知ることにではなく、イエスの弱点を見つけることに関心があった。 
 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。今日の箇所のポイントとなる二つの質問のうちの第一の質問だ。表現は違うが、どの掟が大切かを尋ねる質問である。 
 律法学者たちとイエスには大きな違いがある。彼らは掟を増やすのが趣味だが、イエスは逆だ。いつも根本に立ち返り、神に遡る。今日の箇所でもそうだ。旧約聖書の二つの箇所を引き合いに出した律法学者を正しいと判断して、イエスは言う。 
 「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。これで、イエスを罠に落とそうとした人が逆に自分の罠に落ちることになる。試される立場だったイエスがその人を試す。その人は困って、ふたたび知るためよりも、逃げるために質問する。 
 「わたしの隣人とはだれですか」。これがポイントとなる第二の質問だ。これは律法学者たちにとって逃げるために便利な質問だった。彼らは当時多くのケースについて論じ合っていたが、その中には「ユダヤ人が道端で死にそうなサマリア人に会ったらどうしたらいいか」という問題があった。この問題に対する律法学者たちの解答は「触ってはいけない」だった。なぜなら、そのサマリア人は二つの理由で汚れているから。第一に、血がついているから。第二に、異端者であるから。つまり、律法学者たちの考えでは、助けるべき隣人は自分の家族や仲間、自分の民であって、そうでない異邦人は触れてはならない者だった。
 ここで印象的なのはイエスの逆転的な立場だ。イエスにとって隣人とは、仲間など自分の利益になる人ではない。苦しんでいる憐れな人、助けを必要としている人が隣人である。イエスは、7つの言葉でサマリア人のやさしさを記述する。「憐れに思い」「近寄って」「傷に油とぶどう酒を注ぎ」「包帯をして」「自分のろばに乗せ」「宿屋に連れて行って」「介抱した」。 
 イエスの返答は革命的であり、そのたとえ話はスキャンダルである。当時の宗教者はその神学のために神の御旨が見えなくなっていた。これに対してイエスは言う、憐れみが神の心だ、あなたもそうしなさいと。 
 教皇フランシスコはこの箇所を解釈して言う――エルサレムからエリコへの道で半殺しになっていた人がいたが、それは私だったと神は言う。お腹を空かしていた子供がいたが、それは私だったと神は言う。誰も受け容れようとしない難民は私だったと神は言う。誰も訪問しない老人ホームの老人は私だったと神は言う。病院に誰も見舞いに来なかった病人は私だったと神は言う。 
 名誉教皇ベネディクト16世にも今日のたとえ話について長いページがある。彼は言う――イエスの言葉を黙想した教父たちにとっては私たちの隣人になったのは誰よりもイエス自身だ。特にミサの時はキリストが中心だから、教父たちのこういう解釈はまちがっていない。 
 最後に、今の私たちの心にも深く響く言葉がある。エルサレムとエリコのあいだ、27kmの長いくだり道に、傷つけられた人をサマリア人が運んだと言われる場所が今でもある。その場所には、中世の一人の巡礼者が石に刻んだ素晴らしい言葉が残っている。その言葉はこうだ――たとえ大祭司とその家来のレビ人が苦しんでいるあなたを通りすぎるとしても、絶望するな。イエスが本物のよきサマリア人であることを知りなさい。イエスがあなたを憐れんで、臨終の時に必ず自分の永遠の宿に泊めてくれる。

画像は、ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵


2016年

7月

03日

年間第14主日

行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10・3より)

 主日のミサでは第一朗読と福音朗読に深い関連があるが、今日の関連は特に印象的である。第一朗読でイザヤは、絶望する民に向かって希望を語り、平和がいずれ川のように流れてくると約束するが、福音朗読でその平和が訪れる時が伝えられる。その平和は神の国であり、最終的にはキリストである。第一朗読では、赤ちゃんを膝の上に載せてかわいがり、乳房で養うやさしい母親のイメージで神の国の平和が預言されるが、その預言がキリスト自身によって実現されるのが福音朗読である。
 イエスとは誰かをテーマとする先々週の箇所、イエスの弟子になるとはどういうことかをテーマとする先週の箇所に続いて、ルカは今日の箇所で弟子のあり方をもっと具体的に説明する。今日の箇所は、イエスの弟子になるには何が必要かを知るために大切なページであり、宣教師である私たちみんなが注目すべきページである。長い箇所からいくつかの点をよく見てみよう。 
1.まず目につくのは72人の弟子たち。ルカによる福音書に突然出て来て、消えてしまう。この72人についてはルカ福音書の他の箇所にも、他の福音書にも出てこない。イエスが72人もの弟子の面倒を見るとは実際問題としても考えにくい。何のことか。
 出来事を集めてまとめるだけではなく、出来事の下にある意味を私たちに伝えようとする神学者ルカ。今日の箇所で、主という言葉を使っている。主とは、ナザレのイエスというだけではなく、復活したイエスを意味する。当時、大勢の人たちが復活した主に呼ばれ送られてあちこちで宣教を始めていた。12人の使徒たちはイスラエルに派遣されたが、ルカが意識したのはイエスのメッセージはユダヤ人のためだけではなく、全世界の人のためのものだということ。そして、72人の弟子の派遣について書いたのだ。当時の人々は世界には70の国があると考えていたし、旧約聖書のギリシア語訳は七十人訳と呼ばれる。
 その頃すでに、イエスに会った人たちがその喜びを人に伝えるために歩き回っていたが、今で言う公教要理も神学も教会の組織もまだなかったから、いろんな問題が出てきていた。ユダヤ人でない人たちにキリストのメッセージを伝えるためにどうしたらいいか。どういう態度をとったらいいか?受け容れられる時はどうしたらいいか、拒否されるときは?ルカは初代キリスト教の信者たちのこのような問題に答えて、今日のページをまとめたわけである。キリスト教はヨーロッパから一番遠い日本まで伝えられたが、世界のいろいろな国やいろいろな民族でどう宣教したらよいかはこんにちの私たちの問題でもあるから、今日のページは私たちにとっても大切である。
2.「二人ずつ」。なぜ二人か。これは大切な点である。旧約聖書の世界では、証人であるためには一人では十分ではなく、二人が必要だった。キリストの証人も同じである。私たちは自分の勝手な考え方を宣教するのではなく、教会の一員としてキリストを伝えるのだ。例えば司祭は説教の時に自分の考え方を言うのではない。司祭の一番大切な役割は神の言葉を、そして教会の心を忠実に伝えること。また今の教会は司祭だけではなく、信者も教会のなかでいろいろな役割や任務を担うが、大切なのは、たとえば集まりの時も自分の考え方がどうであるかではなく、教会がどう考えるかだ。教会の心を知らなければ、私たちは宣教のあり方を理解することもできない。教義的なことについて、または具体的なことについて教会の心を知り大切にするのが、私たちの第一の義務だ。 
3.「先に」。宣教師は何をするために送られるのか。ルカが言うのはイエスの訪れを準備するためだ。私たちが送られるのは準備するため。宣教の主人公は宣教師でも司祭でもシスターでもない、キリスト者でもなく、キリストである。キリストが大きくなって自分は消えてしまうのがミッションの役割。自分を中心にするのではなく、キリストを伝えること。キリストに人を導き、自分は引き上げること――それがキリスト者の本当の宣教である。洗礼者ヨハネが最後に、自分の弟子をイエスに送って、自分は消えたように。
4.「収穫は多いが、働き手が少ない」。宣教には、種を蒔くというイメージがある。宣教師がどこかに行って、まだキリスト教について何も知らない人に説教するというイメージ。しかし、聖書ではそうではない。蒔く人はずっと前から働いている。私たちがキリスト教を知らない人に会うとき、ゼロから始まるのではなく、ずっと前から神が働いているところで出会うのだ。例えば、キリスト教はザビエルよりずっと早く日本に伝わっている。日本神話の表現で言えば「天地初発之時(あまつちのはじめのとき)」から神は働いているからだ。ザビエルは一番最初の宣教師ではなく、収穫を始めるために来たのだ。私たちがキリストに出会ったと思った時は、ずっと前から神が私たちを導いていたことがわかる。私たちがキリストに出会う時、それまでの生活も意味があったこと、神から呼びかけがあったことがわかる。神は最初からずっと、聖書の言葉で言うと生まれる前から、私を愛していたのだと。
5.「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」。このたとえはわかりやすい。狼は恐ろしい動物で、羊は動物の中で一番無防御だ。だから、自分を守るために何もせず殺されたキリストは子羊に例えられる。イエスの世界の中に暴力はなく、罪人を脅していじめることはない。今日の第一朗読にあるやさしい母親のような神、私たちが離れる時も待ち続ける放蕩息子の父親のような神、狼としてではなく子羊として羊を救う神をイエスは私たちに宣言する。イエスは宣教にも柔和な道具を使うのだ。
6.「途中でだれにも挨拶をするな」。これは、根本的なことを大切にしなさいということ。信心などキリスト教の2000年の歴史にはいろいろなことがあるが、洗礼を受けて信者になってから大切なのは、イエスの教え、イエスの言葉、イエス自身をつかむこと。パパ様が最近繰り返すように、キリスト教には大切なことと、そうでないことがある。共同体の中の喧嘩はそれがわからないから生まれる。大切なことを大切にするのが大切で、それが成熟した大人の信仰だ。
7.「家から家へと渡り歩くな」。パパ様は司教たちにも言うらしい、他のもっと大きな教区を狙わず、今自分が働いているところで働きなさい、野心なしで働くように。それがキリスト者の道なのだ。
8.「迎え入れられなければ」。平和を届けるのに、人から差別され、拒否され、見捨てられて、殺されるのは、非常に悲しいが、ルカは厳しい言葉を言う。それは大切なことではない、足についたほこりも捨てて次の段階に移りなさいと。
9.「七十二人は喜んで帰って」。宣教の成功を喜ぶ弟子たちの態度はかわいい。宣教師も信仰が伝わるとうれしく感じる。でも、大切なのはそのうれしさではなく、成功でもない。成功のない時もあるのだ。成功したからではなく、「あなたがたの名前が天に記されていること」。これはすばらしい。神は私たちのことを一切忘れない。
 自分の家族、自分の国を離れて生活する宣教師は羊のように弱い。みんなから攻撃されても、自分を防御することもできない。そこでイエスは言う。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10・42)

2016年

6月

26日

年間第13主日

あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。(ルカによる福音書9・57)

 よく知られているように、ルカはマルコ福音書をもとにして、パウロとの旅などで自分で調べて確かめたものを自分の福音書の中に入れる。今日の箇所から始まる部分(9章から19章まで)はそうしたルカ独特のものがまとめられており、ルカ福音書では一番ルカらしい部分である。 
 ルカは一方で神学者だ。イエスのいろんな出来事を記録するだけでなく、旧約聖書との関連など出来事の深い意味を私たちに伝えたい。もう一方で、ルカは宣教師だ。自身ギリシア人であり、ユダヤ人でない人たちに向かってイエスを知らせたい。そのために、彼らが理解しやすい様式を使う。ギリシア神話を通じて神々が人間の世界に来ることに聞き慣れていた人たちに向かって、ルカはイエスがエルサレムに向かう一つの長い旅を構成する。その旅ではいろいろな出来事が起こり、イエスの有名なたとえ話や有名なジェスチャーも出て来る。それはエルサレムで殺されるイエスの遺言でもある。今日はその大切な旅の始まりだ。 
 はじめに、イエスの決心がある。ルカは、旧約聖書を使って、イエスは顔を硬く(エゼキエル3・8)したと表現する。この旅は十字架で終わる。 
 先週の日曜日はイエスは誰かがテーマだったが、次に出て来るテーマは、イエスの弟子は一体どういう者かということ。 
 結論を先に言うと、イエスの弟子とは、イエスとともに歩む人だ。ルカはギリシア語のsyn(ともに)という接頭語を好んで使う。イエスの弟子とは、哲学者の教えとか、前のファリサイ派シモンや放蕩息子の兄のように厳しい掟を罪人に押し付けるのではなく、イエスを規準にして生きる人だ。掟は決まったことだが、イエスの弟子はイエスとともに旅をすることで、いろいろなことがわかって成長していく。
 旅立ちの時に目立つのは、ルカが不思議なことに、サマリア人に対していつも寛大だということ。サマリア人はユダヤ人からは異端者であり、いろいろ問題であったが、ルカは、善きサマリア人のたとえ話や、らい病を癒されたサマリア人からわかるようにサマリア人を軽蔑しない。
 今日の箇所で弟子たちはイエスの訪問を準備するためにサマリアの村に行くが、きっとイエスの旅の本当の意味がわかっていない。弟子たちはイエスがエルサレムに行くのは神の国の王になるためとまだ思っていた。きっとそう宣伝して、反発を受けたのだろう。ルカは、イエスが最初にナザレで理解されなかったのと同じように、エルサレムへの旅でも反発を受けたことを伝える。ただ大切なのは、イエスの態度が弟子たちと違っていること。弟子たちは暴力を振るおうとするが、イエスにはそれがない。イエスは、前にファリサイ派シモンとの口論でもそうだったように、愛情を込めた柔和な形で自分の道を開始する。ベネディクト16世も言うように、キリストは憧れで人を引きつける。キリスト教の布教は地獄で脅すのではなく、人を誘うのだ。
 次に続くのは、三人の弟子の小さな例だ。 
 1.ある人がどこへでもイエスに従うと言う。「枕する所もない」とイエスは答えるが、実際にイエスにはいろいろな友だちがいて、泊まるところ、世話を受けるところがあった。この言葉でイエスが示したいのは弟子の心だ。イエスの弟子は、固いものではなく、新しさを求める。自分を変えない人、前に向かって進まない人はイエスにふさわしくない。 
2.旧約では、父を葬るのは大切で、最高の義務だった。しかし、イエスが言うのは、今までの生活に祈りとか行事を足すというだけではなく、心を根本的に変えることをめざさないといけないということ。 
3.「後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。神の国は、人間の作った法律、掟、イデオロギーではなく、神から来る恵みを中心とするのだ。

画像は、ジェームズ・ティソ「イエスと弟子たちの語り合い」、1886-1894年、ブルックリン美術館。


2016年

6月

19日

年間第12主日

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(ルカによる福音書9・22)

 今日の箇所の冒頭でルカは、祈っているイエスの姿を伝える。みんながいる中でイエスは一人で祈っていたと。ルカは他の福音記者以上に祈るイエスについて伝える。マルコ福音書では3回だが、ルカの福音書には7回祈るイエスが出て来る。それはいつも大切な時だ。つまり、ルカはただ、祈りは大切だ、イエスが祈っていたから私たちも祈りましょうとだけ言いたいのではなく、祈りの後で起こることを強調したいのだ(たとえば、洗礼など)。祈りとは父とのあいだに完全な一致を体験することだから、ここでルカが言いたいのは、イエスがこれから言う言葉が父なる神からの言葉であるということ。年間の日曜日ではあるが、今日のイエスの言葉は重大な啓示なのだ。さらに、次の日曜日の福音書には、イエスがエルサレムに向かう決意を固めるということが出ている。つまり、今日の箇所は、イエスの公生活の中で新しい時期が始まるという重要な時なのだ。

 

 今日の福音は、大きく言えば二つに分かれている。一つは、イエスとはだれか。それはこれまでの結論でもある。もう一つは、イエスに従うとはどういうことか。これについては、次の日曜日の箇所で具体的に述べられる。

 

 イエスは弟子たちに質問する、「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」。そう質問するのは、彼が自分の評判を気にかけているからではなく、弟子たちを教育したいからである。それはまた、私たちへの質問でもある。私たちにとってイエスは何者か。私たちは今日何を求めてミサに来たのか。

 

 イエスの質問に対して、さまざまな答えが返ってくる。エリア、洗礼者ヨハネ、生き返った預言者など、みんな有名な人物だが、メシアではなく、メシアを準備する人物にすぎない。つまり、一般の人たちは、イエスをまだ理解せず、メシアと認めていないのだ。なぜか。彼らがもつメシアのイメージが間違っているから。結局、当時のユダヤ人たちは、敵に打ち勝ち、ユダヤ民族を解放し、正義を実現する、権力ある者というメシアのイメージをもっていた。彼らは、自分たちの要求を満たすメシアを待っていたのだ。それは、日本語で言えば、「苦しい時の神頼み」であり、病気の時など自分の力が足りない時に頼る神である。それは本当の神ではなく、自分たちの権力や富のための神である。

 

 次にイエスは弟子たち自身に質問する、3年間私といっしょにいていろいろなことを見たあなたたちはどう思うかと。この質問も弟子たちを教育するためである。そのとき、ペトロがみんなを代表して答える、あなたはメシアと。これは外面的には正しい。しかし、ペトロも最終的には、一般の人たちと同じように、権力や富を求めるメンテリティをもっている。そして、敵に対して権力をふるい王になるために来るという間違ったメシアのイメージをもっている。私たちが公教要理を習って口先で正しいことを言っても中身を理解しないなら、それと同じことだ。または、ミサに参加しても、意味を考えないままに、祈りを繰り返すなら、それと同じことだ。
 そこでイエスは弟子たちを戒める。ここでルカが使っている言葉はエピティマウであり、悪魔を追い払う言葉である。権力や富のためにメシアを求める考え方は神からではなく、悪魔から来るからだ。また、「だれにも話さないように命じ」るのは、秘密にするためではなく、弟子たちが理解していないからである。

 

 そして、今日のポイントだが、イエスは弟子たちがわからない大切なことを啓示する。「人の子」という表現は新約聖書で90回ほど使われているが、完全な基準になる生き方をしている人、模範的人間、本当の人間という意味である。「人の子」という表現でイエスは、自分がそのような基準であることを宣言する。「多くの苦しみを受け」――これは苦しみの大切さを説いているわけではない。金、権力、常識などを基準とする「長老、祭司長、律法学者」から、そのような世間的(そして非人間的)なメンタリティーとはまったく違うメンタリティーが反発を受けるのは当然だということ。

 

 そして、イエスは自分の後に歩む人についても触れる。「自分を捨てて」。イエスの後に歩む人は、権力を求めるのではなく、奉仕する人である。つまり、世間的な考え方を捨てる人である。だから、イエスの弟子になるのは、それまでの考え方の延長ではない。例えば、信者になる人がいろいろ勉強しても、洗礼を受けてミサに行っても、祈りをしても、さまざまな行事に参加しても、メンタリティーが同じままでは、「自分を捨てて」イエスの後に歩んでいるとは言えない。水で洗礼を受けるだけ、口で祈りを唱えるだけではなく、生活の中で起こるすべてのことについて、何が大切で何が大切でないか、キリストを基準として判断しなければ、キリストを信じているとは言えない。

 

 「日々」。例えば殉教者など特別な時に、十字架を選ぶということもある。しかし、大きな出来事だけではなく、目立たない日々の生活の中で、忍耐や対話、再出発や非暴力によって十字架を選ぶことがここで言われている。

 

 今日のイエスの言葉は、当時の弟子たちにとっても、こんにちの私たちにとってもショッキングである。私たちは、褒められたり尊敬されたり、有名になったり、えらくなることを自然に求める。私たちはみんな神になりたいのだ。しかし、イエスが私たちに手渡すレシピは正反対だ。私たちは主人になるためではなく、奉仕者になるための召し出しを受けている。宣伝に踊らされてカメラの前で生活するためじゃなく、却って隠れたところで働くのがキリスト者の召し出しである。

 

 このような考えから、いろいろなことを見直すことができるだろう。たとえば治療不可能な病気にかかっている時、人から見捨てられる時、または自分の弱さを感じる時――そんな時こそ、隠れたところで奉仕者になる大切な機会である。なぜか。それがイエスの道だったから。そして、イエスは言う、私のために命を捨てた人は命を見つけると。

画像は、ディエゴ・ベラスケス「キリストの磔刑」、1632年、プラド美術館。


2016年

6月

12日

年間第11主日

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカ7:47より)

 イエスの憐れみの書記と呼ばれる福音記者ルカ。イエスと罪人の出会いの物語に惹かれる彼は第7章で、非常に魅力的なエピソードを物語る。それはルカだけが伝える物語である。普通、ルカはマルコ福音書を使って、その一つ一つのエピソードに独自の視点を付け加えるが、この物語はきっとルカがパウロといっしょにあちこち布教に歩き回っていた時にどこかの地方で聞いたものだろう。それはもてなしの物語であるが、その中には、入れ子の箱のように、一つの短いたとえ話も入れられている。その宝物を取り出してもいいし、入れ物もまた美しい。

 その日は安息日だったかもしれない。当時、会堂での説教の後、説教をした人を金持ちなどが家に招いて交流するという習慣があったが、ファリサイ派シモンもそうだったのだろうか。彼はイエスに関心を抱いてはいるだろうが、イエスが自分の家に来てもそんなに感激はしない。イエスの話に感動したからではなく、彼についてもっと調べるために招いたのだろう。イエスが本物の預言者かどうか知りたかったのではないか。当時の習慣は、そんな時は、男性ばかりで中庭で食事をしながら、神学的な質問をしていた。ただ、ドアは開けたままで、通りかかる人が覗くこともできた。イエスが家に入ったことは名誉にもなっただろう。

 そこに突然、一人の女性が突風のように入ってきて、イエスに向かう。罪人の女とルカ自身も言う。涙、香油(マッサージ用)、接吻など、明らかに大げさな振る舞いだ。それを受け入れるイエスはシモンにとってスキャンダルとなる。彼が使う言葉「触れている」はギリシア語ではエロス的なニュアンスもある。だから、イエスが預言者であることにシモンは疑問を抱く。

 さて、イエスはどうするか。彼はいつものように、ファリサイ派のシモンにも愛情を示し、教育的に説明しようとする。そして、短いたとえ話を使う。500デナリオンは労働者の2年間の賃金、50デナリオンは2ヶ月ほどの賃金に当たるから、大きな違いである。

 福音書には具体的に書かれていないが、このたとえ話を聞いて私たちが想像するのは、この女性が大きな罪を赦されたということ。だから、彼女の振る舞いは懺悔というよりも、罪を赦された感謝であり、新しい愛を発見した喜びである。それに対して、シモンは罪がないかもしれないが、道徳的に立派な人がもつ鈍感さ、厳しさ、残酷さという病気にかかっている。当時も今日も、宗教を掟の連続と理解する人はこの病気にかかっている。彼は自分が正しいと考えて、すべてを自分を基準として判断する。そして、彼女が救われて喜んでいるということに無感動である――放蕩息子のたとえ話に出て来る兄のように。

 そこでイエスは、この二人の迎え方を徹底的に比較する。イエスに赦された罪人は、大袈裟なほどの愛情をイエスに返す。大きな罪を犯した人は、大きな聖人になるのだ。

 この物語は放蕩息子のたとえ話と同じように、結末がわからない。罪人の女が、後に出てくる、使徒たちといっしょにいる婦人たちの一人になったかどうかわからない。頑固なシモンたちがイエスを受け容れるようになったかどうかもわからない。

 しかし、ルカがこの物語で私たちに言いたいのは、まず第一に、イエスが本当の預言者であり、彼によって、父である神の憐れみが私たちに知らされたことである。第二に、この女性の態度が、イエスに従う人の模範であることである。つまり、1.喜びの涙(悲しみの涙ではなく)。自分の罪を認めるが、自分に絶望するのではなく、罪を手放して、自分が生かされることを知った喜びの涙。2.イエスの足もとにひざまずくこと。つまり、イエスを拝むこと。3.髪を使ってイエスの足を拭うこと。つまり、罪の道具であったものが神を受け容れる道具となる。パパ様も最近、司祭のための黙想会で、私たちの罪は神の憐れみの受け皿だと言った。本当のキリストの弟子は罪を犯していない人ではなく、赦された人であり、赦されたからこそ人を赦すことができる、と。

  イエスを本当に知ったしるしは、自分にとって一番大切なものをすべてイエスに捧げ、皆の前でイエスを公に告白することである。彼女にとってイエスの足への接吻がそうだった。その結果は、赦しと癒しと平和である。

画像は、アンドレイ・ミロノフ「キリストと罪深い女」、2011年、Wikimedia Commons


2016年

6月

05日

年間第10主日

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカ7:13より)

 ナインの女。すでに夫を失っていたが、今また子どもを失う。言葉で言い表せないほど大きな苦しみ。こんにちもこうした出来事が私たちの耳に届く。
 なぜ苦しみが罪のない弱い人に降りかかるのか。他のさまざまな宗教と違い、聖書には、苦しみがなぜあるかという問いへの答えは見当たらない。聖書は哲学の本ではない。しかし、福音書には、苦しむ人に対するイエスの態度がはっきり出ている。

 

 イエスがさまざまな人の苦しみに出会うとき、聖書ではよく三つの言葉が使われる。1.「憐れに思い」。2.「近づいて」。3.「手を触れ」。この三つの言葉がイエスの態度を表現する。

 

 1.「憐れに思い」――聖書では、「スプランクニゾマイ」、はらわたが痛むという意味の特別な言葉が使われている。イエスは人の涙を見て、憐れみに深く打たれ、その人の傷で自分自身傷つけられ、その痛みを自分の痛みにする。イエスは人の目を深く覗いて、その苦しみと、また希望をも見てとることができるのだ。

 

 2.「近づいて」。人の苦しみを知るにはただ一つの方法しかない。立ち止まって、身を低くして、膝まづいて、近くから見るしかない。子供がするように、また恋人がするように、すぐ近くから相手の顔、相手の目を見、相手の声を聞くしかない。隠された苦しみのある人のそばにいるのが新しい愛の始まりであり、新しい世界の始まりだ。

 

 ルカの福音書の今日の箇所で、苦しんでいるこの女性は、他の人以上に宗教的な人ではない。神に向かって祈るとは何も書かれていない。祈りで何かを頼むことも、イエスの名も口にすることも、イエスを呼び求めることもせず、ただ苦しんでいるだけだ。イエスが打たれたのは彼女の祈りではなく、彼女の苦しみだ。その苦しみこそがイエスにとって祈りである。イエスはその涙に打たれ、その女性に近づく――母親が子供に近づくように。

 

 3.「手を触れ」。深く心を動かされるときイエスは必ず手を伸ばす。感染する重い皮膚病にかかった人であっても、盲人であっても、ナインの若者の棺桶であっても。それは簡単なことではない。イエスが手で触れるのは深い意味があるジェスチャーだ。
 イエスは手で触れて言葉を語る、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「起きる」とは「復活する」と同じ言葉。さらに、ルカは復活したイエスが「上げられた」と言うが、それも同じ言葉である(復活は、死と命、下と上という二つのイメージで表現される)。棺桶から起き上がるのは復活を意味し、イエスの復活がそこに込められている。「主」という言葉がルカの福音書でこの箇所ではじめて使われている。イエスは命をもたらす主なのだ。

 

 イエスは母親とその愛情に子供を返し、人々は大預言者が現れたと賛美する。イエスは、私たちの世界の至るところにあるナインの村に入り苦しんでいる人のそばに現れる憐みの預言者であることをルカは宣言する。

 

 隣人とは誰かと問われたとき、苦しんでいる人のそばに立ち止まって手を伸ばす人がその人だとイエスは言う。ぼんやりした宗教者、神殿のことを心配して人に気がつかない宗教者より、手を伸ばす人が。夜が一番星で始まるように、イエスの新しい世界はよきサマリア人であるイエスの業で始まる。

 

 神は私たちに対してもその奇跡を行う。奇跡と言っても、苦しみから一時的に立ち直る奇跡ではない。苦しんでいる人に気づき、その人のそばに立ち止まって、その苦しみを自分に引き受ける恵みを神は与えてくださるのだ。

画像は、17世紀フランス古典主義ウスターシュ・ル・シュウールの弟子による「やもめの息子の復活」。


2016年

5月

29日

キリストの聖体

すべての人が食べて満腹した。(ルカ 9:17より)

 キリストの聖体の祭日は、カトリック信者に親しまれた大切な祭日。さまざまな神学的理由のためだけでなく、この祭日が世に自分たちの信仰を証しする機会だからだ。 
 半面、聖体の祭日には、観想的神秘的で、アニマ(女性の魂)的なところもある。そもそもこの祭日が始まったのは一人の女性から。それは13世紀ベルギーの聖ジュリアーナだ。彼女は子供の頃から聖体に対して深い信心を抱き、あるヴィジョンを受けて、友だちに話し、少しずつ司教から認められる。そのうち、その司教がパパ様になり、その後すぐではなかったものの、聖体の祭日が定められた(詳しくはこちら)。とにかく一人の女性の体験――幼子を抱く聖母マリアのようにイエスの体への愛情を込めた関わりー―がカトリック教会全体の体験になった。聖ジュリアーナだけでなく、例えばライン川神秘主義の有名な女性神秘家たちは聖体の霊性に非常に敏感だった。アヴィラの聖テレジアもイエスの人間性に深い感動を抱いていた。シエナの聖カタリナの手紙にもイエスの血についての有名な箇所がある。

 

*教会の歴史の中で13世紀は聖体の信心にもっともすばらしい表現を与えた。さまざまな讃歌や絵画、大聖堂や教会堂がそうである。

 

 今日の祭日のために教会が選んだ三つの朗読はどれも簡単に見えるが、理解や黙想、祈りや礼拝のために、溢れるほど豊かな神学的霊的テーマを含んでいる。
 第一朗読は、メルキセデクの物語。どこから来たかもわからない異邦人の祭司メルキセデクがアブラハムを祝福し、パンとぶどう酒を神に捧げる。神と民を仲介する祭司がイスラエルにまだいない何百年も昔のことである。この不思議な物語を教会は聖体の予型として読む。
 第二朗読は、最後の晩餐についてのパウロの記録。イエスの体についての初代教会の考え方がわかる大切な箇所である。
 福音朗読は、四つの福音書に豊富に報告されているパンの増やしの出来事。ただし、この箇所は奇跡についての単純な報告ではない。ルカは奇跡という言葉も使わないし、この箇所を外面的に読めばさまざまな矛盾がある。神学者であるルカはさまざまなヒントを使って、文字通りの出来事より深いことを私たちに言いたいのだ。そのヒントをざっと挙げると以下の通りだ。
1.「満腹した」(17節)はマナを食べて「満腹する」(出エジプト記16章)出来事を示唆。2.同様に、食べて満腹しない食べ物に対して満腹する食べ物(イザヤ55章)を示唆。3.同様に、エリヤのパンを焼く壺の粉がなくならない出来事(列王記上17章)を示唆。4.「人里離れた所」(12節)は、イスラエルの民がさまよった荒野を示唆。イエスの後を追った群衆もイスラエルの民のように自由を求めていた。5.「そのようにして[=イエスが言ったことを行って]」(15節)はモーセが預言する預言者(申命記18章)を示唆。6.「日が傾きかけた」(12節)は、エマオ(24:29)を示唆。7.「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して」(16節)は、イエスが復活後に弟子たちにすること(24:30) を示唆。8.「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちはイエスの言葉がパンであることがまだわかっていない。
 以上の点を考え合わせると、ルカは旧約聖書の大切なテーマを連想させて神学的な話をしたいのではないかという印象を受ける。
 もう一つ強く出て来るのは共同体のテーマ。そのパンを食べるのは一人ではなく、「50人ぐらいずつ」座っていっしょに食べる。孤独な人のパンではなく、共同体のパンである。50人とは、初代キリスト教の時代、まだ教会堂がなく、使徒たちの誰か金持ちの家に集まっていた時の信者の数かもしれない。ルカは、イエスの復活の後、初代教会を経験した上でこの出来事を物語っている。
 また、「魚」は初代キリスト教にとってはイエスのことだった。つまり、ルカはすでに聖体の神学を作っている。
 結局、教会にとってイエスの体は何か。なぜイエスの体を拝み祝うのか。イエスの体とは第一に、イエス自身の体である。そして、ルカが語るイエスは復活前のイエスではなく、復活で経験されたイエスである。だから、その体は、本当の人間でありながら神であるイエスの体である。第二に、そのパンとぶどう酒がイエスの体である。一千数百年後に神学者は、実体が変化したと説明するが、とにかくそのパンとぶどう酒はただの内面的な思い出ではなく、本当のキリストの体である。第三に、教会がイエスの体である。復活したイエスはその体の頭である。私たちが祝うのは、以上の三つを合わせた神秘である。それによって、神は私たちの日常生活の中に入り、私たちの歴史の中に入る。それは新しい生活の始まりである。
 五つのパンと二つの魚という物質的なことはそこに神が入るからこそ、5,000人の人たちの食べ物になることができる。ここに私たちの日常生活の可能性が示されている。つまらない私たちでも、イエスを信じ、自分の生活をイエスに預けると、多くの人の命になることができる。これは多くの聖人たちの経験だ。例えば、アシジのフランシスコは特定の時代に生きた人にすぎないが、自分の命をイエスに預けたから、今でも世に神の子を作ることができる。あるいは、私たちの苦しみや生活の困難はキリストの手に預けるなら、人の慰め、人の力、人の命になることもできる。司祭が告解の中で人に赦しの言葉を与えると、神がその人を赦す。一般の人にも慰めの言葉を与えると、寂しさから人を救い出して、新しい生活に移り、生きて行くことができる。私たちのつまらない生活がキリストの手の中で溢れるほど豊かなものになる。
 今日私たちは聖体を祝うことによって、神がキリストによって私たちに与えられたこのような可能性を喜ぶのだ。

2016年

5月

22日

三位一体の主日

 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14

 復活の主日から聖霊降臨までの復活節。一年でもっとも大切なその季節が終わり年間が始まる前に、二つの祭日が入ってくる。それは三位一体とキリストの聖体である。この二つの祭日は神学的というより歴史的な理由で生まれたもので、祝祭や信仰の公言という性格をもっている。だから、今日の三位一体の主日も、キリスト教の歴史に現れた神学的教義的な議論を紹介するためではなく、山に登ってから一旦立ち止まって景色を見てその美しさを楽しむように、または海の前で海を見渡してその広さと空気を味わうように、観想し祈るためにある。 
 私たちキリスト者の生活は起きる時から寝る時まで、出かける時も食前食後も、十字を切るジェスチャーと「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって三位一体を祝っている(テルトゥリアヌス)。キリスト教の一神教は、ただの一神教ではない。神は孤独な世界に生きるものではなく、愛の交わりなのだ。三位一体を否定するのは、美しさと輝きとユーモアを神に否定することだとバルトも言う。三位一体は聖書のいろいろな箇所に垣間見られるが、キリストの霊によってはじめて私たちにはっきりとあらわされた神秘である。私たちは今日の日曜日、その交わりの測り知れない美しさに憧れ感謝して賛美する。 
 ABCの三つの年の朗読箇所にはそれぞれのニュアンスがあるが、今年のC年のヨハネによる福音書の箇所では、三位一体の中の聖霊の働きに力点が置かれている。 
 第一に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。私たちの目はこの世の美しさと同時に苦しみに捕えられているが、まだ見えない新しい世界を霊が私たちに前もって見せてくれる。私たちにはつぼみだけ見えているが、すでに咲いている薔薇の花を霊が前もって私たちに話してくれる。だから、この世の苦しみにあっても私たちは霊の力によってすでに天国を味わうことができる。私がそれを聞くなら、神の国がすでにこの世にあるような経験が可能になっていく。
 第二に、「[霊は]わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(16:14)。この言葉からも、霊がキリストの霊であり、三位一体の中に分かち合いと交わりがあることがよくわかる。そして、三位一体から愛と真実が溢れ、ちょうど川のように私たちに向かって流れてくるとヨハネはキリストの言葉で私たちに伝える。愛はキリストの霊によって私たちの方に運ばれ、私たちはキリストの霊によって三位一体の中に運ばれ、同じ命を生きる。キリストは人間であり神であるから、そういうコミュニケーションができる橋になる。
 聖書によると、人間は神の似姿として造られた。それは、能力と意志が人間にあるというだけでなく、三位一体のイメージで造られたという意味だ。だから、数年前に話題になったように、ベネディクト16世も、人間のDNAは三位一体だと言った。別の言葉で言えば、たとえ能力がなくても、また口で言わなくても祈りを唱えなくても、人と交わり、人の苦しみを減らし喜びを増やす役割を果たして自分の周りに愛を注ぐなら、それが三位一体を信じることなのだ。「あなたが愛の行ないを見るなら、三位一体を見るvides Trinitatem, si caritatem vides」(アウグスティヌス『三位一体論』第8巻第8章第12節 )。 愛は口先の事柄、哲学的なことではない。逆に無神論者とは神を頭で否定する人ではなく、交わりを断り邪魔して、自分の周りに氷を張る人のことである。
 それで私たちはなぜ、人に愛される時、幸せかがわかる。私たちの中に流れる三位一体的な愛は、人間の本当の召し出しだから。そのために私たちは造られたから。孤独の原因は私たちの中にその愛がないところにある。その三位一体の愛は今キリストの霊によって、教会の秘跡、特に聖体の秘跡によって私たちの中に注がれる。今日は私たちがその神秘を感謝と喜びとともに祝う日曜日。

2016年

5月

15日

聖霊降臨の主日

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると(使徒言行録2・1より)

聖霊の続唱


2016年

5月

08日

主の昇天

イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる(使徒言行録1・11より)

(画像は、ジョット・ディ・ボンドーネ「キリストの生涯38:昇天」、1304-1306年、スクロヴェーニ礼拝堂)


2016年

5月

01日

復活節第6主日

聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)

 海に近づくと、海がまだ見えなくても潮風を感じる。ちょうどそのように、復活節第6週は、昇天、そして聖霊降臨を準備するヨハネ福音書の箇所が伝統的に読まれる。
1.今日の箇所の最初の言葉「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」は非常にすばらしいが、勘違いした読み方がよくされる。いろいろな人はそれを読んで、イエスを愛するか愛さないかは掟を守るか守らないかでわかるという意味に受け取り、脅しのように感じるが、イエスが言うのは逆だ。掟を守るのはイエスを愛する結果で、イエスを愛するからこそその言葉を守るのだ。「言葉」は「掟」より意味が広く、ヨハネの福音書によると、イエス自身が神の言葉だ。その言葉を守るとは、それに注目し、それを知りたいと思い大切にすることだが、それは愛の結果で、一番最初に愛があったのだ。イエスのぬくもりを経験し、イエスの美しさに打たれて恋に落ちたからこそ、その結果としてイエスの言葉を守ることが出てくる。だから、プロセスは逆になる。掟から愛へではなく、愛から掟へ。掟と言っても、愛があればもう外からの命令ではない。人を愛する時には、何をしたらいいか何を避けたらいいかが、外から言われてではなく、自然にわかる。そのことをイエスは言いたいのだ。
 教会の中でも私たちはよく、綺麗事として愛について語りながら、相手に厳しく、相手にルールを押し付けるという間違いをする。けれども、キリスト者にとって肝腎なことは愛から行うということなのだ。たとえるなら、暖かい春になると、つぼみが花開くように、イエスに出会いその暖かい愛情を知った人は、眠りから目覚めて、愛の行いの花を咲かせることができる。
2.今日の箇所は、イエスの最後の晩餐の時の長い話の一部だが、ヨハネ(またはその弟子)が100年頃に書いたもの。当時のキリスト者は、特別な状態にあった。まず、栄光を帯びてすぐに戻ってくると思ったイエスは戻って来なかった。さらに、異端や迫害もあった。そんな中悩むキリスト者にヨハネの福音書は答える、イエスは、あなたたちが期待するように、人を征服し圧迫する勝利者としてではなく、素朴で柔和な姿で戻ってくる、と。
 「弁護者」は「慰め主」とも訳されるが、裁判の時に味方する人、つまり訴えられた人の友達だ。イエスが言うのは結局、気をつけなさい、私は、あなたたちが思っているような形ではなく、素朴な形で、心と愛を込めた形で来る、と。つまり、イエスは、彼の言葉を思い出させる友人として来る。ここでは昇天と聖霊降臨に先だって、そのメロディーが奏でられている。イエスが見えなくても、勝利がなくても、いつでもイエスがそばにいて、その言葉が思い出され、受けた愛によって人を同じ愛で愛することを習うことができる。

(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)


2016年

4月

24日

復活節第5主日

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)

 復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。

1.ヨハネの福音書では最後の晩餐の話は4つの章にわたる長い話。イエスが話したそのままではなく、ヨハネの教会が長い間に黙想しながらいろいろ編集したものだ。だから、この話がどんなジャンルに入るかを理解する必要がある。それは、旧約聖書にもある、太祖たちが亡くなるときの荘厳な話である。旧約聖書では、モーセとかいろんな人が死ぬときに長い話をする。自分の教えのまとめとして、それまで大切にしてきたこと、子供たちに対するアドヴァイスや未来の予言を語る。それは普通の会話ではなく、子供が聞くべき、受け容れるべきことを言い残すものだ。そのことを示しているのは、ヨハネはここで使っている一つの特異な言葉だ。それはギリシア語のテクニアであり、「小さい子供たち」を意味する。ヨハネはこの言葉をこの箇所でだけ使っている。つまり、イエスは父親として、仲間に話をしている。この点が大切だ。ヨハネの福音書では最後の晩餐のイエスの話は彼の教えのまとめとして重要な箇所だ。
2.今日のために教会が選んだ第2朗読の箇所とも関係して、一つの言葉が目立つ。それは「新しい」という言葉である(第2朗読「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」「万物を新しくする」、福音朗読「新しい掟」)。それは、復活祭によって私たちが新しく創造され、死がなく涙も嘆きもない世界に生まれ変わったことを意味する。
3.もう一つ注意すべきなのは、「掟」という言葉だ。ギリシア語ではエントレとある。それは掟だが、義務ではない。愛は押しつけられることではない。どうして掟で愛することができるだろうか。日本語では「道」と言うのがいい。一発で守りなさいと言うのではなく、新しい道をあなたたちに開くという意味だ。使徒言行録でもキリスト者は「この道に従う者」(9・2)と呼ばれている。それはイエスの道だ。彼が押しつける掟というのではなく、彼が実際歩いた道だ。
4.ここで大切な言葉は「(私が愛した)ように」だ。ギリシア語ではカトースとある。旧約聖書にも自分と同じように人を愛するという愛の掟があったが、イエスが愛したようにというところに、この掟の新しさがある。これがわかるためにはイエスの生涯を振り返らなければならない。それは、7の70回赦し、復讐せずに右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、マントをとる人に下着を与え、敵のために命さえ捧げ、愛すべき人だけでなく愛することができない罪人をも愛する愛だ。このような愛が基準になる。これが福音書で大切なところだ。イエスの弟子であるとは、祈りでも権力でも力でもなく、オルガニゼーションでも人より勝った生き方でもなく、道徳でもなく、ただイエスが愛したように愛すること。それが言葉だけでなく現実になることが教会の基準だ。
5.愛は命令から、外から来るのでなくて、新しい状態から出る。私たちが生まれ変わり、新しくされたからこそ、その新しい状態からその愛が自然に出てくる。ルールではなく、中から、心から出てくる。教会の中にあるすべての良いこと美しいことは与えられた愛から生まれる。
 カトースには「ように」(基準)という意味だけではなく「から」(理由)という意味もある。だから、イエスが愛した「ように」愛するだけでなく、イエスが愛した「から」愛するのだ。

(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM


2016年

4月

17日

復活節第4主日

わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)

 山があり羊が多いイスラエルの地では、羊飼いは馴染みのある職業。旧約聖書ではまずアベルが羊飼いで、アブラハムもヨコブもモーセもダビデも羊飼いだ。神もイスラエルの牧者と言われる(詩編など)。メシアも、聖なる民を牧する者として預言されてきた。そして、福音書記者ヨハネは復活のイエスがキリストであり神であることを示すために、羊飼いという象徴(シンボル)を使う。教会が復活節に羊飼いのテーマをとりあげるのはそのためだ。
 よい羊飼いイエスと言うと、私たちはルカを思い出す。失われた羊を探しに行く羊飼いイエスは、キリスト教美術でも好んで描かれ、子羊を肩に乗せた姿で親しまれている。それはやさしさ(パパ様の言う「テルヌーラ」)のイメージだ。ところが、ヨハネは少し違った特徴に注目する。それはやさしさより、力、勇気、強さ、タフさのイメージだ。羊を盗もうとする泥棒や強盗(1節など)から羊を守る者、羊を食い殺そうとする狼と(ライオンや熊と戦ったダビデ(サムエル記上17・34-35)のように)命がけで戦い、羊を救い出す者がヨハネの言うよい羊飼いなのだ。結局、ヨハネが言いたいのは、イエスが絶対的な救い主であること。ただ(無償)の愛を注ぎ、命を与え守るイエス。救いはそこから始まる。イエスの後を行けば、確実に救われるから、彼に命を任せることができる。だから、「羊飼い」とはただの比喩ではなく、「救い主」「メシア」という言葉と同じように、復活のイエスを示すためのキリスト論的称号なのだ。
 では、救われるには具体的にどうしたらいいか。27節には三つの大切な条件が出て来る。
1.第一は聞くこと。
 そもそも教会の信者とはキリストの言葉を聞く者である。グループの作り方はいろいろあって、例えば互いに似た者や気が合う者、共通の趣味をもつ者同士が集まりグループを作るが、キリストの教会に属する根本的な特徴は、キリストの言葉を聞くことにある。キリストの声を聞くことから、すべてが始まる。
 聞くという言葉は旧約聖書でも大切だ。イエスエルへの神の最初の言葉は、「シェーマ、イスラエル(聞け、イスラエルよ)」だった。
 司祭でもパパ様でもなく、まず第一にキリストの声を聞くこと。司祭の言うことは、ただキリストの言葉を伝える限りで聞くべきだ。(復活節第4主日は世界召命祈願の日ではあるけれども)教会の牧者はただ一人キリストだけだから。
 「聞き分ける」。世の中には、テレビとか一般の常識とか、偽物の声がいっぱいある。キリストの声を聞き分けるためには、聞き慣れる必要がある。クリスマスとイースターにしか教会に来ないなら、聞き分けることができない。
 第二は知ること(「わたしは彼らを知っており」)。知るという言葉は旧約聖書では、婚礼を意味し、夫婦の関係を示す。それは、親しさ(インティマシー)の関係、互いに譲り合う愛の関係だ。
 第三は従うこと(「彼らはわたしに従う」)。イエスの後を行くにはイエスを知るべきだ。イエスはずっと人によい行いをして生きたとペトロも説教で言う(使徒言行録)。イエスを知りイエスの真似をすることで私たちは救われる。
 救われると言うと、死んでから天国に行けるというだけの意味ではない。この世でも生きるべき命を生きること、自分の命を本当に生きることを意味する。それがイエスが与える命である。イエスはその力を与えるからだ。だから、永遠の生命とはもちろん死んでも永遠にという意味もあるが、終わりのない命というよりも、神聖な命、神の命を意味する。イエスがその命を与える。
 こうしてヨハネが言う羊飼いは絶対に頼れる者であり、だから私たちは自分の命を失うことがない(「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」、28節)。なぜか。それこそが父なる神の意志だから。その権限を神がイエスに与えたから。イエスと父とのあいだには絶対的な関係があるから(「わたしと父とは一つである」、30節)。これが復活祭の意味である。そのために私たちは復活節にこの箇所を読む。
 電気製品を買うと保証書がついている。何年間かは故障しても修理してもらえる。イエスが羊飼いであるとは、絶対的にイエスが救い主であること。だから、イエスに従う人は絶対に後悔しない。

(画像は、クリストフ・ヴァイゲル「よい羊飼い」(羊を守るため狼と戦う羊飼いとしてイエスを描いている)、1708/12年、『聖書図解』)


2016年

4月

10日

復活節第三主日

さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)

 ヨハネ福音書は本来20章で終わる。21章は、おそらくヨハネの死後に誰かが書いたページだ。どういう人が書いたかもわからないが、大切な教えが書かれていて、古くからヨハネ福音書の最後に合わせて伝えられている。心に染み入る二つのエピソードが記された有名なページだ。
 最初のエピソードはこうだ。イエスが十字架上で死んだ後の弟子たち。エマオの弟子たちもそうだったが、絶望して自分の生活に戻る。しかし、以前とはぜんぜん違う。7人は以前にいた湖で昔からよく知っている仕事をするのに、実りがない。夢が消えてしまった真っ暗な夜の不安。
 そこにイエスの声がする――「何か食べる物があるか」。食べ物だけではなく、立ち上がるための、先に進むための支え、生きる希望があるか、というニュアンス。湖畔で火を起こして朝食を用意していたイエスは、失敗した子どもを迎える母親のようだ。イエスの言葉通りにしてとれる魚の数153(17番目の三角数、ナルシスト数など数学的にも特異な数)は、絶望を越える可能性と教会の普遍性を意味する。

 もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。

 このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「ティベリアス湖畔でのキリストの出現」、1308-1311年、シエナ大聖堂マエスタ祭壇画)


2016年

4月

03日

復活節第二主日

信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)

 復活から昇天を経て聖霊降臨に至る復活節の50日間は、教会にとって一年で一番大切な時節。新約聖書だけが使われるなどいろいろな特徴があるが、イエスの復活を知った弟子たちの物語を通じて、私たちもイエスの復活を経験することができる。そこにはいろいろなエピソードがあり、違った角度からイエスの復活を経験することができる。

 今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。

 最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。

 ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。

 そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。

 イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。

 次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。

 トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。

 

 彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。

 今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。

 トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。

 最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「聖トマスの不信」、マエスタ祭壇画、1308年)


2016年

3月

27日

復活の主日

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)

 キリスト者として心を整える長い四旬節と聖週間の後、50日間に及ぶ長い復活節が始まる。それは復活したイエスとともにいる期間である。いつものように教会は私たちのために聖書の豊富な箇所を選んで用意する。それによって、また私たちの心にあることによって私たちは、イエスが復活して生きているとはどういうことか、復活したイエスが私たちの生活にどんな役割を果たしているかを悟ることができる。
 今年の復活節第一主日の福音書はヨハネ福音書の箇所。ヨハネは「復活」という言葉をあまり使わないが、復活したイエスについて他の福音書の倍ぐらい書く。復活の後にイエスが弟子たちの中に生きていることを中心にした他の福音記者と違って、ヨハネが強く出すのは死に打ち勝ったキリスト、十字架上で神の栄光を顕し父なる神の本当の子として天に上るキリストである。それはヨハネ福音書の最初のページから繰り返し出てくるテーマである。
 今日の箇所を含む20章には4つのエピソードがある。ペトロともう一人の弟子、マグダラのマリア、弟子たち、そして最後はトマス。この4つのエピソードによってヨハネは復活したイエスのしるしを示し、復活したイエスに出会うように私たちをも導こうとしている。十字架の大きな苦しみ、その挫折とスキャンダルの後に、生きているイエスを発見するにはどうすればいいかを教えてくれているのだ。
 今日の箇所は旧約聖書へのさまざまな示唆が含まれる神学的な物語であり難しいが、同時にそこからいろんな結論が出て来るすばらしい物語である。「朝早く」――他の福音書ではそうとだけあり、曙を意味するが、ヨハネ福音書では「まだ暗いうちに」とあり、夜を意味する。夜のうちに探し求めるとは雅歌の花嫁を思い出させる。花婿を見失い、絶望して、花婿を探す花嫁(雅歌3・1-3)。まだしるしは何もない。まだ信仰の目が開かれていない。マグダラのマリアは石がとりのけられているのを見て、誰かが盗んでしまったと思うほどだ。
 彼女は「走って行って」、ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子に知らせる。聖書学者が強調する、急いで走ることは、初代教会の時代も、そしてこんにちも、イエスのしるしを探し求めることを思い起こさせる。イエスを探し求める教会の態度はさまざまである。マリアのような愛情を込めた態度、ヨハネのように神秘主義的直観的な態度、ペトロのように鈍感で遅く確認する態度。ただいっしょに走る。みんながイエスについて悟ったことを教会の中でお互いに分かち合いコミュニケーションをとって、それぞれのカリスマによってお互いに助け合うことが大切だと今日の箇所は教えている。
 「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」。それはヨハネだと100年後の教父たちは言ったが、当のヨハネ福音書には名前が挙げられていない。イエスが愛した弟子とは本当の弟子のこと。だから、それは私たちでもありうると聖書学者は言う。最後の晩餐の時にユダの裏切りに気づき、ペトロが否認しても十字架の下までイエスのそばに残り、母を引き取る。今日の箇所でも次の21章のティベリアス湖でもペトロより先にイエスに気づく。イエスに出会うときに迷いなしについていき、寝ることも忘れ、イエスの敵もわかるほどイエスを愛し、そして必要なときに命を捧げる。私たち自身もそうであるように勧められている。
 9節の印象的な言葉「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」には大切な示唆がある。イエスはどこに行ってしまったかと教会が迷うとき、大切なのは聖書である。ヨハネ福音書が書かれた時代は、イエスの生き証人たちの時代が終わったあと、イエスに直接に会った人がいない時代。私たちの時代もそうである。けれども、聖書がイエスを見分けるための大きな力になる。だから、私たちも聖書を愛して、聖書の言葉を黙想したり祈ったりする道を今日の福音書は強く思い起こしてくれる。

(画像は、フラ・アンジェリコ「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」、1438-1440年、サンマルコ修道院)


2016年

3月

20日

受難の主日(枝の主日)

 

「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。」(ルカ19・38)

2016年

3月

13日

四旬節第5主日

 

罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい (ヨハネ8・7より)

 

求道者が受洗に向かって、そして求道者も信者も復活祭に向かって準備する四旬節。解放と赦しを求める求道者と信者に教会は第5主日の今日、福音書の特別なページを手渡す。それは、神の驚くべきいつくしみを知ることができるページである。
1.状況はこうだ。イエスを殺し、その権威を失墜させるきっかけを探す律法学者とファリサイ派。そんな彼らにとって絶好のチャンスが訪れた。朝早く若い女性が姦通の場で捕まえられたのだ。モーセによると、こんな女は石打ちの刑で殺せと書いてあるが、どう思うかという問いを携えて彼らはその女をイエスのもとに連れて来るが、それは罠である。なぜか。イエスがモーセの掟に賛成するなら、人々は失望し遠ざかるだろう。これまでは憐れみの話をしていたのだから。逆にイエスがこの女を解放するように言うなら、律法に反したことを言ったイエスを神殿に訴えることができる。どちらにしてもイエスは窮地に陥るだろう。
2.このページを書いた福音記者(聖書学者はルカとも推測する)が伝えるイエスの姿は非常に印象的である。イエスは沈黙し、言葉を使わない。騒ぐ代わりに、体をかがめ土に指で書く。特に目立つのは、ファリサイ派のように、人のプライベートな生活に好奇の目を向け、訴えの種にする宗教をイエスが拒否すること。そして、殺される危険があるのに、彼ら自身の罪を堂々と指摘する勇気である。
3.注意すべきなのは、イエスが彼女の罪を弁明していないこと。彼自身は愛について、結婚について高い理想を抱いている。しかし、こういうことに関する間違いが大きな苦しみをもたらすこともよくわかっている。イエスにとって、神からいただいた掟は、相手を裁き傷つけるためのものではない。それは、皆が同じように神から赦しを得て救っていただかなければならないことを知るためのものだ。これがイエスの考えである。
 
4.イエスは、訴える人の心の中にある嘘を掘り出す。彼らは、自分を民の霊的指導者に見せようとしたが、人を死に導く悪魔の家来だった。その証拠に、この女性だけではなく、イエスをも殺そうとしていた。彼らは癒しや救いを求めるのではなく、復讐などの思いにとらわれていた。それに対して、彼らの罪を知るイエスの自信あふれる言葉(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)の前で、彼らの嘘はばれて一人一人去っていった。
5.イエスと女性の会話はとても美しい。それまでは身をかがめていたイエスがこの女性の前に立って、この女性に尊敬を示す。彼女の顔に何があったか―死の恐れか、罪の悲しさか、驚きかー私たちは知らない。とにかくイエスはこの女性を叱らず、放蕩息子の帰りを迎えるお父さんのように受け容れ、回心を勧めることさえしない。この人の未来を見て、救いの命を彼女に勧め、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うだけなのだ。イエスは、人に石を投げて殺す預言者ではなく、愛である神のメッセンジャーとして自分の言葉を食べ物として与える。
6.イエスは今回も敵の罠から逃げることができた。しかし、イエスの教えを理解するのに苦労したのは敵だけではない。初代教会の信者たちもそうだった。姦通の女にイエスが与えた赦しは、いろいろな人にとってスキャンダルだった。その結果、長いあいだ(聖ヒエロニムスに至るまで)このページが聖書から省かれ、典礼でも300年ほど使われなかった。アウグスチヌスが言うには、本当の信仰を知らない人たちがこのページの意味を勘違いして、写本から隠したと(『ヨハネによる福音書講解説教』第33説教5)。イエスのいつくしみとあわれみは敵にとってだけではなく、キリスト者である私たちにとってもいつでも信じられないほど大きい。特に私たちが自分の罪を忘れるときの神のあわれみといつくしみは私たちの想像を越えている。

(画像は、アントーン・ヴァン・デン・ウーヴェル「キリストと姦通の女」、17世紀、ゲント聖バーフ大聖堂)


2016年

3月

06日

四旬節第4主日

 

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15・2より)

 

 放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえ話の中でもっともすばらしいたとえ話だ。しかし、このたとえ話にはさまざまなニュアンスがある。そのニュアンスはどの登場人物に自分を置くかによって異なる。
 例えば、放蕩息子の立場から読むなら、どんなに悪いことがあったとしても神から愛されているという慰めを受けることができる。大袈裟なほどの愛情をもった父親の姿をしているのがイエスにとっては神である。しかし、人間――あるいは人間に嫉妬して(人間の不幸よりむしろ)人間の滅びを願う悪魔――は正義を口実として、仇討ち、復讐を果たそうとし、神のイメージをもゆがめる。そして厳しく冷たく情にほだされない裁判官として人間を滅ぼす神のイメージを作り上げる。そのような残酷な神に対してイエスが宣言するのがあわれみとやさしさ(教皇フランシスコの言う「テルヌーラ」)のある父である神である。だから、どんな時代のキリスト者もこのたとえ話から慰めを受けていた。

 

 他方で、このたとえ話には、私たちにとって受け入れにくいところがある。ルカはその福音書第15章で、3つのたとえ話(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)に先立って、イエスがたとえ話を語ったきっかけを私たちに伝えている。つまり、罪人と食事をしているイエスにファリサイ派が文句を言ったのがそのきっかけである。だから、ルカの意図は、私たちが放蕩息子の立場よりも、またよき父親の立場よりも、兄の立場から読むことにある。ルカは兄の回心をねらっており、このたとえ話を読む私たちをも回心させたいのだ。ところが、それがなかなか受け入れにくい。
 イエスが私たちに伝えるのは神との和解であり、私たちの再生である。それは私たちの能力やよい生活やよい行いによってではなく、神の恵みによってのみ可能である。イニシアチブは神にある。ファリサイ派の間違いはそこにあった。彼らは最終的に自分の力で、自分の正しい生活、自分の道徳的な生活で救われると思っていたのだ。しかしながら、罪人である私たちは最初に神から赦されたからこそ、再生が可能である。ベネディクトが言う通り、キリスト者はいつも赦された者なのだ。
 ルカがその福音書のさまざまな箇所で述べるように、神は救いの食卓に私たちを招く。その食卓につくことができるためには深い変化が必要である。ところが、私たちは(聖人であっても)毎日少なくとも7回罪を犯して、神のあわれみが必要な状態なのに、間違いをしてしまう兄弟をなかなか赦すことができない。弟が家に戻ったときに、無事に戻ったのだから喜びなさいと神が私たちに言うのが典型的な不正義に見える。結果として、弟に会いたくもない、弟のそばに座りたくない。そして自分も救いの食卓につけない。
 特にいつくしみの聖年にあたり教皇フランシスコもこのテーマに触れている。また洗礼に向かう求道者にとって、またイースターに向かうキリスト者にとってこのような読み方が非常に大切だ。
 主の祈りにあるように、私たちは兄弟を赦す限り、赦される。相手に心を閉ざし、相手を審判しようとする心から立ち直るように新しい心がイエスから与えられるよう祈りたい。
  放蕩息子の兄が父親に言われて命と喜びの祝宴の場に入ったか、私たちは知らない。イエスもルカもそれについて何も言ってくれていない。たとえ話は途中で終わるようだ。たとえ話の本当の結末は私次第なのだ。

(画像は、レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」、1666-68年、エルミタージュ美術館)


2016年

2月

28日

四旬節第3主日

「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」 (ルカ13・8より)

 神のイメージを歪めてしまう誘惑よりも危ない誘惑はない。四旬節のあいだ教会はイエスの教えに基づいて、神の正しいイメージを求道者に伝えるように努める。

 今日の箇所は二つの面をもつ屏風のようだ。その一方は、神殿で起きた恐ろしい事件。ローマ人によって数人のユダヤ人が殺されたというニュースをイエスの耳に入れる人がいた。ユダヤ人は思う、こんな恐ろしい死に方をした彼らはどんな罪を犯したのだろうか。イエスは言う、神は罪人を裁き地獄に落とす方ではない。もっとも、命は不安定な土台の上に立てられているから、今こそ回心すべきだ。

 他方は、神を求める求道者の心を感謝と喜びで満たすたとえ話。イエスが宣言する神は、実をつけないいちじくの木を切り倒すように命じる神ではない。イエスの神は、いちじくの木に常識以上に忍耐し希望をかける園丁の姿をしている。イエスの神は、私が罪を犯し、実を結ばない時にも私に信頼を置く。実を結ばなかった私の過去を見るよりも、私の中に隠された、聖人になる可能性を見る。私が放蕩息子のように、家から遠く離れた余所の国にいるときも、私を愛してくれる。イエスの神は人を裁いて追い出すのではなく、失われた羊を探しにいく。元気な子どもより、病気の子どもを愛する。罪を犯す兄弟を審判しないように人に頼む。そして、多く赦された人だけ、神のように兄弟を赦すことができるのだ。

 回心というのは、裁く神から、愛と赦しの肥やしをやる園丁である神へ移ること。昼も夜も自分の命をかけて、私たちの命の木を育てようとするこのような神に信頼するように求道者は呼ばれている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。 


2016年

2月

21日

四旬節第2主日

(画像は、ラファエロ「変容」、1519ー20年、バチカン絵画館

 

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」 (ルカ9・35より)

 

 四旬節第二主日の福音は御変容の箇所。ただし、ルカは変容という言葉を使わない。

 今日の箇所の少し前に、イエスは自分の受難と死について弟子たちに話した。自分の道が死に向かっていることに気づき、父なる神の前で時を過ごすために山に登るイエス。父なる神の御旨に「はい」と言ったイエスの上には、洗礼の時と同じように、「これはわたしの子」という父なる神の声が響く。

 ルカは、いくつかのシンボルを使う。1.イエスの顔の美しさ。その顔の上に父なる神の光が輝いている。2.真っ白に輝く服。3.モーセとエリヤ。イエスは旧約聖書の時から預言された救い主であり、聖書は全部イエスに向かう。3人の弟子たちは見ても、完全にはまだわからない。数十年後にも鮮烈に思い出すほどの(2ペトロ書1・16-18)深い喜びを感じても、まだ眠気がある。しかし、神の栄光を意味する雲がイエスを包む。彼らは目で見ることはできないが、彼らの耳に声が響く、「これに聞け」。同じように、教会は求道者に勧める、この人に憧れ、その美しさを辿り、その後に歩んで、弟子になるように。ペトロが、ここにいるのは美しいことと言ったように、教会は求道者に伝える。イエスの弟子になるのはたいへん喜ばしい、言葉で言えないほど意味深い経験だと。

 今日の魅力的なページ―教会にとって宝物であり、東方教会にとっても大切なこのページを黙想すると、特に祈りの大切さがわかる。祈りはキリスト者の生活に意味を与えるもの。ベネディクト16世も引退の際に、どんな活動も深い祈りの体験がなければただの騒ぎにすぎないと言った。四旬節には、求道者も、また彼らと歩みをともにする私たちも祈りを大切にするように勧められる。個人的な祈り、教会としての祈り―一言で言うと霊的な生活を大切にするように、また内面的な価値観を求めるように。

 ルカ9・37に「山を下りる」とあるように、祈ることは世界から離れることではない。祈りと活動、祈りと宣教は根本的な関係がある。祈りから、イエスを伝えイエスのために働くことが始まる。教会の中ではどんなことでも、この大きな光、キリストの体験から生まれるべき。この光を浴びてイエスを愛する人だけ、神がどれだけ世を愛しているか理解することができる。

ビデオの解説は字幕・翻訳をオンにしてご覧ください。


2016年

2月

14日

四旬節第1主日

イエスは……四十日間、悪魔から誘惑を受けられた (ルカ4・1-2より)

(画像は、ボッティチェッリ「キリストの誘惑」、1481-82年、システィーナ礼拝堂


2016年

2月

07日

年間第5主日

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる(ルカ5・10より)

(画像は、ラファエロ「奇跡の漁り」、1515年、ロイヤル・コレクション所蔵


2016年

1月

31日

年間第4主日

 

「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4・22より)

 

 布教を開始してからはじめて故郷に戻るイエス。それまで誰も示さなかったような権威をもって話し、深い神の体験から罪人を赦し、病気を治し盲人を癒すなどの奇跡を行って、周辺の地方ではすでに有名になっていた。
 ところが、故郷の人たちは却って、驚きを示し、その驚きは彼を殺そうとするまでの憎しみに変わる。驚きとは、ルカ独特の表現だが、信じていないということ。彼らは、子供の時からよく知っている人、自分たちと同じ生活を送ってきた人がまさか神から選ばれたメシアであるとは信じられない。なぜなら、自分で作りあげたイメージのメシアを待っていたから。特に彼らが怒っていたのは、自分の村から出たメシアがよその人のために奇跡を行ったこと。彼らは、神が本当にどういう者かを求めるのではなく、自分の利益になる神を作り上げるという誘惑に陥り、イエスを拒否したのだ。それに対して、他の人たちのためにするという神の愛(第二朗読)の普遍性に生き、そのメッセージを曲げず、十字架死に至るまで神に忠実だったのがイエスだ。
 世の中で生きている私たち信者も、人から受け入れられるために、神の本当のメッセージをアレンジして、人が聴きたがることを言う誘惑を受ける。そんな私たちに向かって、ルカはその福音書の始まりに当たる第4章で、人間でありながら神に忠実なキリストの姿をあらかじめ示している。ルカが第4章で宣言するキリスト論のさまざまなテーマは、後続の章で展開され、最後に十字架において完成される。

(画像は、「ナザレの町」、1315-1320年、イスタンブール・カーリエ博物館)


2016年

1月

24日

年間第3主日

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)

 

(画像は、イエスが通っていたと考えられている古代の会堂の跡地に建てられた、ナザレの会堂教会の内部)

 今日の福音は二つの箇所にまたがっている。第一は福音書の冒頭、前書きの箇所であり、第二はかなり後の第4章、ナザレに戻ったイエスが安息日に会堂でイザヤの箇所(それはいわば公生活のプログラムとなる)を読み解釈する箇所である。
 第二の箇所がドラマチックなために、短い時間の説教では第一の箇所が飛ばされてしまいがち。けれども、ルカ福音書の前書きはとても大切だ。ルカはそこでその福音書の全体をどう読めばよいかを簡略に表現しているから。彼が言うのは、これからイエスについて彼が語るのは抽象的な教義ではなく、非常に現実的なこと(ギリシア語でプラグマトン)であり、歴史的な出来事だということ。一般の宗教、たとえば仏教は知恵や教えについて語る。それに対して、ルカが語るのは、証人がいて証拠があり調べることができる歴史的な出来事についてだ。その一つ一つの出来事は別の世界に向かって開かれた窓である。霊の力に満ちてイエスがナザレに戻ってくる出来事は救いの歴史の出来事なのだ。
 もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。

 第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。

 救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。

 


2016年

1月

17日

年間第2主日

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

  ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
 「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
 「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
 「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
 「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
 「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。

 「水がめ」はふつう焼き物だったが、ここには「石」とあり、十戒が刻まれ契約を意味する石を思い出させる。水がめが「6つ」というのはやはり新しい創造の数字。完全な日はまだ現れていないが、その直前、その曙だということ。清めの水で一杯であったはずの水がめが、空だったのは、係りの人がぼんやりして入れなかったから。人間はぼんやりして、大切なことを忘れ、意味のないつまらない生活を送る。それは人間の罪である。水がめの中に入れられる「水」はイエスによって私たちに与えられた神の恵み。私たちの空っぽの心を縁まで満たすほど入れられる。水は命のために基本的なものだが、ヨハネによる福音書ではイエスがよく水にたとえられる(たとえばサマリアの女)。
 しかし、救いが行われるためには、神の行いだけでは十分ではなく、「召し使い」が必要。「召し使い」という言葉はマリアも自分について使った(ルカ1・38「わたしは主のはしため」)。「召し使い」とは、イエスを信じてその言葉通りにする人。そこには、信仰という、ヨハネの典型的なテーマが出ている。イエスを信じて言われた通りにすると、救いが可能になる。
 「くんで」。イエスは私たちの心に、赦しや救いの希望を起こしてくださるから、イエスの言葉という冷たい水を空っぽの心に入れると、そこから汲むことができる。
 宴会の「世話役」とは、ギリシア語では「大祭司」と似た言葉。つまり、民に対し、教会に対し何らかの形で大祭司のような役割を果たす人を意味する。しかし、その世話役はするべき仕事をちゃんと果たさなかった。ぶどう酒を用意することもせず、ぶどう酒がなくなったことにも気づかず、ぶどう酒に変わった時にも何が起こったかわからないし、新しいぶどう酒がどこから来たかわからないという、頼りない世話役だ。世話役だけでなく、招待された人たちも、花婿でさえ、何も気づかなかった。わかったのは弟子たちと召し使いだけ。ヨハネは、イエスが「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という序章の箇所をほのめかしているかもしれない。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと出て来る。イエスのすることが人はわからない。
 よく知られていることだが、ヨハネは奇跡という言葉を使わない。奇跡という言葉は外面的だが、ヨハネが使うのは「しるし」という言葉。しるしは、外面的なことより、心の中のこと。神が働いていることに心の深いところで気づくこと。
 この不思議で美しい物語でヨハネが言いたいのは、今日(ヨハネの大切な言葉)こそ私たち一人一人にとっても大切な「時」だということ。私たちの生活の中に、私たちの周りに通りかかるイエスのしるしをよく読み取り、そのために神を賛美したい。

(画像は、ヘラルト・ダヴィト「カナの婚礼」、1500年頃、ルーブル美術館)


2016年

1月

10日

主の洗礼

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた (福音朗読主題句 ルカ3・21より)

 他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。

 第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。

 しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。

 そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。

 最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。

 

 洗礼者ヨハネはたとえば仏陀のように偉大な宗教者であり行者であり人格者だった。宗教的な権力と肩書もなく、その心の清らかさとその生活の正しさには多くの人が心を引き寄せられ水と回心の洗礼を受けていた。だから、彼が救い主でないかと誰もが考えていた。イエスも彼を愛し、彼の弟子たちが来たときには、彼を大いにたたえた。確かに、洗礼者ヨハネは旧約時代のすべての預言者の中でキリストに一番近く、キリストの道を用意する人物であり、花婿の友だった。しかし、彼は救うことはできなかった。私たちが神の国に入るのは道徳や正しい行いによってではなく、永遠のはじめから神に愛され救われているから。その愛はイエスの洗礼によって明らかになったのだ。

 毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。


2015年

12月

27日

聖家族

聖家族の主日について

 家族についての教皇フランシスコの文書が2、3月に出ることが期待されている。しかし、聖家族の主日とは何か。
 第一に、教会にとって家族は偶然存在するものではなく、神が望んだものである。女性に対する男性の憧れ、男性に対する女性の憧れ、愛の絆、そこから生まれる赤ちゃんといった私たちがそれぞれ経験している関係は神から来る関係である。家族の関係は限界があるにしても神からの召し出しである。神は司祭や修道者を呼ぶだけではなく、結婚する人を呼ぶ。呼んで、他の人の模範となるように遣わす。神が望んだことだから、家族には恵みが注がれる。家族がいる場所は、玄関も応接間も書斎も寝室も台所も聖なる場所である。神を信じる人の家族には恵みが溢れる。家族とは聖人になることができる場所である。
  第二に、家族は神の愛とやさしさを知るための場所である。家族の中で私たちははじめて神を知る。教会よりも、カトリック学校よりも先に神を知る。イエスも家族の中で父である神を知った。3年間の公生活でも、ナザレの貧しい家の中でヨセフに対して使っていた言葉を使って、父なる神にアッバと語りかけ、祈る時にはこの言葉を使うように私たちにも言われた。なぜか。男女の愛、親子の愛、祖父母への愛は神の愛にいちばん似ているから。私たちが神から受けた愛、神に返す愛は抽象的な愛ではなく、具体的に経験することができる。そして赤ちゃんを抱いて撫でるように習うことができる。
 第三に、教皇フランシスコはいつくしみの特別聖年を宣言した。それは私たちがあわれみ、やさしさ、慈悲の再教育を受けるためであるが、聖家族こそいつくしみに溢れるところである。愛するということは夢に満ちたロマンチックなことではなく、人に尽くすことである。同時に、互いに憐みを感じたり示したり、相手に謝ったり相手を赦したりすることである。私たちの家族は不完全である。聖家族でさえそうだ。今日のルカの箇所にあるように、マリアもヨセフも神に「はい」と答えたのに、イエスが自分の道を行ったとき理解せず、マリアはイエスを叱った。別の箇所でも、家族はイエスが「気が変になっている」(マルコ3・21)とさえ思った。私たちの家族も同じ問題を抱えている。例えば子どもが神から呼ばれて自分の道を歩こうとするのに、家族が反対し、むしろ利益や名誉になるような就職や結婚を強制する。今日は、私たちの不完全な家族が神の恵みによって人の役に立つことができるよう祈りたい。

両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた(福音主題句 ルカ2・46)

福音について

ルカは奥深い神学者である。道の途中で見失われた「三日の後、神殿に座っている」少年イエスのエピソードを物語りながら、未来の受難の「三日の後」イエスが神の本当の子としてその右の座に「座って」いることを私たちの心に前もって響かせたいのだ。子供を見失ったマリアとヨセフの辛い経験(彼らは少年イエスの言葉をまだ理解できなかった)は、イエスの最初の弟子たちの経験を意味する。そしてさらに、個人として、また共同体としての私たちの弱さと未熟さを意味する。彼らのまだ完全でない信仰に、そして私たちの罪と弱さにも驚くことはないとルカは言う。イエスを発見する道はまだまだこれから、イエスの「現れ」と私たちの癒しの旅路は始まったばかりと。今日、ルカは愛を込めて私たちに勧める、神の恵みと知恵に包まれて私たちのうちで生長しつつあるイエスに目を向けるように。イエスに近づく人は毎日、新しい喜びと深まっていく美しさを経験するように呼ばれている。イエスの後に歩く人は、生活の困難、迫害と病気の中でも、またどのような弱さと罪にもかかわらず、いつでも世界一幸せだ。その人の眼は神を見る。


2015年

12月

20日

待降節第4主日

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)

 イザヤ、そしてヨハネに続き、マリアが待降節を代表する最後の人物として私たちをイエスへ導く。
 マリアは身ごもり、エリザベトの家を訪れて、3か月を過ごす――ルカ福音書の今日の箇所は、新約聖書では唯一、女性だけが登場するページであり、女性のやさしさと喜びが溢れる場面である。マリアから聞いたにちがいないこのエピソードを物語るとき、神学者であるルカは旧約聖書の一つのページを思い出し参考にしている。この点は、今日の箇所を理解するために非常に大切である。そのページとは、ユダヤ民族にとって、教会にとって、キリスト者にとって、メロディーが盛り上がるページである。
 サムエル記下第6章によると、神の箱はエルサレムへ運ばれるときにユダを通った。同じように、マリアはユダに行った。神の箱の前でダビデは踊ったが、洗礼者ヨハネもエリザベトの胎内で踊った。ダビデは「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と神を畏れたが、エリザベトも「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言った。ダビデとイスラエルの民のように、エリザベトも喜びの叫びを上げた。神の箱が3ヵ月間エドムの家にあったように、マリアはエリザベトのところに3ヶ月ほど滞在した。
 旧約時代、神の箱(聖櫃)は神が民のうちに現存するしるしだった。ルカが言うのは、神の現存をあらわすしるしが今はもう箱ではなく、生きた人間であるマリアだということ。木でできた神の箱が外側も内側も純粋な物質である金を貼られていたように、マリアは外側は罪から解放され守られており、内側は聖霊に満たされている。神の箱には神の掟を書いた二つの石板が保存されていたが、マリアの胎内には、神の御言葉そのものであるイエス、神の御旨をはっきりと実現するイエスが宿されている。だから、マリアの胎内は、神の新しい器である。
 ルカが私たちに言おうとしていることには、教会にとって、キリスト者である私たちにとってとても大切な意味がある。マリアがこの世にキリストを生み出したのと同じように、教会はキリストを生み続ける。その妊娠状態は今も続く。神は私たちにそれを求めている――マリアの胎内にもう一つの命が生きていて、その二つの命、その二つの心が切り離すことができないように、私たちがキリストとともに生きることを。クリスマスの深い神学的意味はそこにある。

画像は、ドメニコ・ギルランダイオ「御訪問」、1491年頃、ルーブル美術館所蔵


2015年

12月

13日

待降節第3主日

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

 待降節第3主日は伝統的にガウデーテの主日と呼ばれる。ガウデーテとは「喜びなさい」(入祭唱、フィリピ4・4)という意味。昔も今も、司祭は薔薇色(つまり薄い紫色)の祭服を着ることができる。待降節の途中のこの日は、第二バチカン公会議の精神では、断食などの小休止というより、イエスの降誕を準備する喜びの日である。
 先週に引き続き今日の箇所でも主人公は洗礼者ヨハネ。ちょうどエルサレムに神殿が完成する頃であり、エルサレムには祭司が溢れ、エルサレムに住むことができない祭司が近くのエリコに住んでエルサレムに通うほどだった。それなのに、たくさんの人が洗礼を受けようとヨルダン川にいたヨハネを訪れた。先週の箇所にあったように、よく考えられた言葉を語るヨハネだが、今日の箇所ではもっと具体的なことを語る。
 たくさんの人が彼に聞く、「どうすればよいのですか」。これは人間にとって基本的な問いである。どう生きればいいか、どんな道を選ぶべきか、何が善で何が悪か。結婚する時、仕事をする時、人との関係において、財産などに対してどうすればよいか。救われるため、神のもとに行くためにどうすればよいか。
 ヨハネの返答は力強く重い。祈りや生贄などの宗教的な営みにはまったく触れずに三つの課題を示す。
1.分かち合うこと、与えること(「下着を二枚持っている者は…」)。これはイエスの教え(マタイ25・31-46)さえ連想させる。


2.徴税人は、正当である以上に人に要求してはいけない。正義に則り生きなさい。
3.兵士(さらに宗教的であれ政治的であれ何らかの権力をもつ人)は、自分の権力で人を脅し、束縛してはいけない。
 この三つの課題に続いて、もう一つの大切な点がある。それはヨハネが自分の権力を利用して自分を中心に置かないことである。そこに「霊と火」という二つの大切な言葉が出て来る。この二つの言葉によってキリストとは誰かが示されている。
 当時のやり方では麦を脱穀して、麦と殻を箕に載せて上げると、風で殻が飛ばされ、麦が残る。その風はイエスが十字架上で引きとった息(霊)である。殻は私たちの罪であり、イエスの愛の火によって燃やされる。
 ヨハネが教えるのはまだ自力の道徳である。彼の洗礼は回心の洗礼であるが、懺悔だけでは救われない。それに対して、イエスの霊と火によって救われたキリスト者の道徳は懺悔からでなく、愛された、救われた体験から始まる。
 ヨハネの言葉は非常に厳しい。第一朗読のゼファニアの預言も他の箇所を読めば非常に厳しい。けれども、ヨハネの言葉にはすでに示されている、キリストはもう来ていると。教会はそれに気づいて言う、ガウデーテ、喜びなさいと。

画像は、マティアス・グリューネヴァルト「キリストの磔刑」の一部、1512-1515年、イーゼンハイム祭壇画


2015年

12月

06日

待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内の中でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

ラファエロ「フォリーニョの聖母(聖会話)」、1512年、ローマ・ヴァティカン宮美術館所蔵


2015年

11月

29日

待降節第1主日

 

人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21・36より)

 待降節は女性的な期間である。結局のところマリアの臨月の時である。福音書では、太陽、月、星など宇宙的な表現がされているが、物質的なことではなく、内面的なこと、私たちに深く関わることについて言われている。

 まず第一に、福音書は、年間最後の日曜日とつながりながら、自分の狭い世界から出て広い景色を見るように私たちを導く。生みの不安や苦しみについてはイザヤ13・8やヨハネ16・21で言われている。大きな苦しみの後に命がある。私たちの世界は日々過ぎて行くが、その中にもう一つの世界が成長している。矛盾の中、苦しみの中、繰り返しの中にも神の国が来る。神を忘れたような私たちの世界の中にもその方が来る。
 第二に、福音書は、どう待ったらいいかをキリスト者である私たちに教える。教会も母マリアと同じようにイエスを生もうとしているから。待降節とは、ちょうど妊娠中のお母さんが赤ちゃんが胎内で動いたり蹴ったりするのを感じるように、霊的なことに対する感受性を育てて、自分の中に聖霊の動きに気づき、成長しているキリストを意識するために与えられた期間である。その意味で、この期間、教会はやさしさ、テルヌーラ(教皇フランシスコ)を習うための神の学校である。そして、妊娠した女性がおむつを揃え服を作って、生まれてくる赤ちゃんのための環境を整えるように、神の言葉に親しみ、基本的な祈りやよい行い、神にゆだねる心や赦し、宣教心によって精神的な価値観を作るための期間が待降節である。
 そのために教会は3人の人物を模範として私たちに示す。それはイザヤ、洗礼者ヨハネ、マリアである。洗礼者ヨハネもマリアもイエス中心に生きた。洗礼者ヨハネはすべてを捨てて砂漠に暮らし、命がけで喜びを前もって経験した旧約時代最後の預言者であり旧約時代最大の神秘主義者である。教会はこの3人、特にマリアを見るときに、自分がありたい者の姿を見る。待降節を通じて、教会は世界に渡すためにキリストを生む。


2015年

11月

22日

王であるキリスト(年間第34主日)


わたしが王だとは、あなたが言っていることです。(ヨハネ18・37より)


 年間最後の日曜日は、王であるキリストを祝う。王であるキリストを祝うなら、神の栄光を荘厳に賛美するはずだが、教会が選んだヨハネ福音書の箇所には、心に染みる奇妙な静けさがある。
 そこには二人の男がいる。ピラトとイエス――この二人が顔を合わせている。が、二人のあいだには無限の違いがある。
 一方は権力の人間で、陰謀と策略、偽りと欺きの達人。当時、ローマとその軍隊の一番たちの悪い独裁者であった。残酷で野蛮な人物であり、あまりにも厳しいことを決めたために、彼の上に立つローマ皇帝が介入して止めさせなければならなかったほどであり、最後にはローマに戻された。権力者であると同時に、卑劣な臆病者である。他方は、イスラエルで一番無力でもろいが、イスラエルで一番すぐれた人。その人間的な繊細さのためにやさしく、愛のためだけに生きた人。半裸で手錠をかけられているが、内心は自信に満ち真実と憐みに燃えている。4番目の福音書を書いたヨハネ自身、その受難物語の中で何回も王としてのイエスに惹かれるほどである。

(画像は、アントニオ・シセリ「エッケ・ホモ」、1860-80年)

 イエスの公生活の最初に悪魔がイエスの神性に気づいたのと同じように、この箇所で残酷なピラトが最初に、イエスの王である面に気づく。権力に興味があるからか。ピラトが「あなたは王か」と好奇心半分、恐れ半分で聞くと、イエスは答える、「そう、私は王だ。しかし、私の国はこの世の国ではない。私の国では、王は自分の僕に対して僕になる。私の国では一番大きな権力が愛の権力であるから。私は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない(マタイ12・20)。誰の血も流さず、人を裁かず、排斥せず、傷の手当てをする。また、捕われ人に自由を与え、目の見えない人に視力を与えるため、人と人のあいだにつながりをつくるため、赦しと平和を教え、そして十字架の上で両手を広げるために来た王である」。その後、ピラト自身は外に出て、人々の前にイエスを示し言う、「この人だ」。 
 今日の日曜日、私たちは、ピラトの総督官邸からだけではなく、宇宙のバルコニーに示されるその顔の美しさを仰ぎ見る――王そのものである方の顔、宇宙で一番真実と美しさのあるその顔、誰よりも自由で、誰よりも愛情と真実があるその顔を。愛を込めてその顔を仰ぎ見るなら、私たちの顔も照らされてその顔と同じようになる。ピラトの総督官邸から数時間後、十字架上で息を引き取ったイエスの血まみれの顔から最後の覆いが取り去られ、神の栄光が輝いたように「わたしたちも皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリ3・18)


2015年

11月

15日

年間第33主日

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マルコ13・31)

 今日の箇所はいわゆる終末論の話。「終末」「世の終わり」「アポカリプス」などの言葉はマスコミにもよく出て来るが、恐ろしいイメージがある。しかし、イエスが私たちに何を言いたいかよく理解しなければならない。
 マルコ福音書の第13章は後から挿入されたと聖書学者たちは推測している。その頃、ローマで増えた信者たちに対して迫害が激しくなっていた。今日の箇所はそんな信者たちを励ますためにマルコが思い出して伝えようとしたイエスの言葉である。
 「太陽は暗くなり、月は光を放たず」。最近まで農家の人たちは太陽や月の動きに従って種を蒔くなど農作業を行っていたが、古代の人たちにとって、太陽と月は時計だった。太陽と月は彼らの基準であり土台であり、神々とさえ信じられていた。だから、世の終わりが近づき、太陽と月が光を失うと、不安定な状態になる。けれども、それはユダヤ人にとっては、本当の神ではない偶像が崩れることでもあった。
 古代の人たちだけではなく、今の私たちもそうだ。私たちはみんな生きるために何かを大切にしている。仕事とか家族とか給料とか友人とかがそう。それが奪われると、大きなショックを受ける。例えば検査でガンがあると言われると、自分の世界が崩れてしまう。あるいは、夫や妻、子供など自分にとって大切な人が死ぬと、その人なしにどう生きたらいいかわからない。または一生懸命働いて仕事を大切にしてきても会社が倒産すると、仕事を失い、生活は無茶苦茶、アイデンティティも失われる。私たちの土台は不安定である。私たちが生きるために大切にすることはすべて失われうるものである。
 しかし、偶像が崩れるのも、大切なことがわかる機会になる。病気になっても、裏切られても、その経験のど真ん中から神が私たちに何かを話してくださる。それは、若い時か中年になってからか年をとってからか、人それぞれ違いはあっても、かならず経験することである。だから、その時が来ることを覚えていなければならない(集会祈願「心を照らしてください」、第一朗読「目覚める」、福音朗読「悟りなさい」)。
 イエスは言う、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなことがあったとしても、私たちは神の言葉であるキリストに頼ることができる。イエスが十字架につけられた時、真っ暗になったり、地震があった。その時、イエスを信じる人たちは、すべてが終わったと思ったが、そうではなかった。なぜなら、十字架上で亡くなったイエスの死の中から、私たちは命を得ることができたから。
 だから、どんな病気、どんな苦しみ、どんな問題があったとしても、どんな間違いで生活がめちゃくちゃになったとしても、キリストに希望を置く人は救われる。十字架上のイエスを信じる人にとって、その苦しみは臨終の苦しみではなく、陣痛の苦しみである(ヨハネ13・13)。生みの苦しみ、新しい世界の誕生の苦しみである。その世界はまだはっきりとは見えず(1コリ13・12)、そのしるしが赦しと愛の出来事のうちに此処彼処に閃いているにすぎないけれども。
 マルコがローマの信者たちに言いたかったのはこのこと。安心しなさい、マイナスと思われるこの時、苦しみ、絶望、裏切り、病気の時は、もしイエスに希望を置くなら、あなたにとって却って再生の時となり、新しい世界の始まりになる―これは、教会が一人一人に届ける大きなメッセージである。私たちはこのメッセージを携えて新しい一週間を過ごしたい。

(画像は、第一朗読に出てくる大天使長ミカエルを描いたもの。グイド・レーニ「大天使ミカエル」、1636年頃、ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会所蔵)



2015年

11月

08日

年間第32主日

 「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12・44より)


 マルコ福音書では、今日の箇所がイエスの公生活の最後のエピソード(次の13章は終末論の長い話、14章は受難物語)。

 このエピソードに先立ち、宗教者についてのイエスの厳しい診察が報告される。宗教の専門家である律法学者には3つの特徴がある。1.「長い服」は宗教者として目立つため。労働に適さないが、彼らはそれで自分でないものに見せかける。2.「挨拶される」こととはえらい人として扱われること。彼らは空っぽなのに相手の目によって生きる。「上席」「上座」とは社会的地位。彼らは人の上に乗ることで、自分がえらいと意識する。3.「やもめの家を食い物に」―神も人もかまわない残酷さ、自分をすべての基準にする自己中心主義。やもめは聖書では貧しい人の例としてよく引用される。―「律法学者に気をつけなさい」とは、このような間違った、ものの考え方をしないようにしなさいということ。
 続くエピソードでイエスが「座って」(41節)いるとは典型的な裁判のイコンである。最後の審判の時も神が座って審判する。「賽銭箱」―そこに金が入れられる時に、神殿の祭司が大きな声で金額を告げ人々に聞かせる習慣があった。「金持ち」は、自分に必要なものを確保した上で、一部をそこに入れたが、それも熱心な宗教者としての名誉となった。つまり、彼らは結局自分の利益を求めていたわけである。

 

 それに対して、その「やもめ」は、第一朗読のやもめが小麦粉と油を命がけで預言者に差し出したように、すべてを神に捧げた。マルコは言っていないが、イエスはそのやもめを、子供が母親を見るように限りない優しさで見ている。もしかしたら、そのやもめを見て、その頃すでにやもめの生活を送っていた母マリアを思い出したのだろうか。イエス自身もまもなく、十字架上で父なる神に向かって、私たちのためにすべてをゆだね、命も捧げた。

 要するに、イエスが弟子たちに教えた宗教、そして神が望む宗教は、心と真実、神と人に対する愛に基づく宗教なのだ。こんにちの私たちは、中身よりも見かけ、誠実よりも評判や地位を気にして、例えば健康のためではない整形手術のために考えられないほどのお金を使ったりもする。イエスの教えはそんな私たちにも向けられている。

 2000年前、自分の名誉を求める金持ちがたくさんいる中で、一人のやもめが神殿の賽銭箱にわずかなお金を入れた。あまりにも小さい金額だったので、もしかしたら大祭司の帳簿係も気づかなかったかもしれない。しかし、そのお金は、金持ちのあり余るほどのお金と違い、永遠に神の心の帳簿に記されている。なぜなら、神の心の帳簿にはどんな小さな子供の愛情の溜息であっても永遠に記されているから。

 

 



2015年

11月

01日

諸聖人の祭日

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。
1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。
2.そこには犯されなかった罪がない。殺人(ステファノの石打ちへのパウロの賛成)、浮気、泥棒、詐欺など。
3.しかし、どの聖人にもある特別な経験がある。それは回心の経験である。第一に我に戻り、第二に赦しを得る経験である。ベネディクト16世もよく言っていたように、キリスト者にとって聖人は完全な者ではなく、赦された者なのだ。回心の形はいろいろで、パウロのように馬から落ちる場合もあれば、アヴィラの聖テレジアのように普通に信仰者の生活を送っていて得る場合もある。突然起こる場合もあれば長年かかる場合もある。しかし、心をひっくり返す経験がある。それは悪い生活から善い生活に移るのでなく、受け容れられ愛される経験、自分の力を越えた愛に覆われる経験である。なぜなら、「聖なるもの」は神だけだから。私たちは神に抱かれて、神の愛に自分をゆだねる時だけ聖人になれる。
4.聖人には、キリストに対する、はっきりした、独特の、理屈も疑いもない愛がある。キリストに対する個人的な深い関係がなければ聖人ではありえない。自然や静けさなど宗教的な生活を送るかどうかは無関係である。聖人の中には神秘的な聖人もいればそうでない聖人もいる。ただ聖人にはキリストに対する根本的な関係がかならずある。
5.聖人には深い祈りの経験がある。神学があるかないか、言葉を用いるか沈黙か、座ってか歩いてか、祈りの形はいろいろでも、キリストに対しての親しさがある。聖ヴィアンネが言うように、ある農民は何時間も聖体の前に座ってじっと見るだけ。具体的に言うと、聖体に対しての特別な関係のない聖人はいない。聖体なしに聖性はない。
6.聖人には愛から生まれる創造性がある。深い祈りから、創造的愛、手のある愛があふれ出る。病人に対して、あるいは賢い人に対して新しい道を拓く。リジューの聖テレジアのように、修道院の中で観想生活を送っていても宣教の保護者になる。修道会の創立者なら、一千人、二千人、三千人の人が歩ける道を拓いたことになる。いろいろな国に聖人がいて、その国でどのようにイエスの道を実現するかを教えてくれる。彼らの伝記を読むと、私たちは勇気をもらい、助けられる。
7.聖人には独特の喜びがあり、苦しみも越える。体の病気、敵からの迫害、教会からの迫害など、いろいろだが、人間的世間的でない喜び、「原因のない慰めconsolatio sine causa」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ)がある。食べて喜び、人から拍手されてうれしいのには原因があるが、原因のない喜び、つまり神からの喜びと慰めがある。穴吊の刑を受けた長崎のマグダレナは、十三日間なかなか死なかった。しかし毎朝一つの手に慰められ、苦しみがなくなっていた。

 今日私たちが祝うのは、山上の説教の真福八端であるイエス自身に惹かれた人たちの祝い日。教会の歴史には、聖マリアをはじめ八百万の、記録が残っていないほどたくさんの、それぞれの形でキリストの道を歩んで今神とともにいる人たちがいる。特に私たちが祝うのは、洗礼の時に渡された聖人。そして、私たちの教会堂の守護聖人ヴィアトールを、また日本ではじめて私たちにキリストの話をしてくれたフランシスコ・ザビエルと日本の聖なる殉教者を祝いたい。 

2015年

10月

25日

年間第30主日

 

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

(マルコ10・50より) 



マルコ福音書では、カファルナウムで始まったイエスの癒しは、13番目の癒しである、このエピソードで終わる。
 エルサレムに近づき十字架に向かって進むイエス。エルサレムに入るイエスを枝で歓迎した群衆を思い出させる騒々しい群衆。その道端に一人の盲人が座っている。病気のせいか労働災害のせいか視力を失い、続いて家族、財産、名誉、友人とすべてを失って、ぼろ布のマントだけに包まれ「主よ、憐れんで下さい」と大きな声で叫ぶー十字架の上でイエスが大きな叫びを上げた時のように。こんにちの町の谷間に押しつぶされているホームレスもきっとそう。皆は黙らせようとするが、イエスは彼に気づき彼を呼ばせて目を癒す。

  このエピソードを伝えるマルコは三つの大切な言葉を私たちに託す。その言葉で教会は二千年のあいだイエスに代わり求道者を受け容れて来た。「安心しなさい」―あなたは一人ぼっちではなく、未来は閉ざされていない。「立ちなさい」―どんなことがあったとして、あなたは再生できる。「お呼びだ」―キリストと個人的な関係をもつために、あなた自身が呼ばれている。

  そして、貧乏人の全財産であるマントを捨てて来た彼にイエスは言う、「何をしてほしいのか」。つまり、マルコが示すのは世の泣き声に耳を傾ける神である。イエスは私たちの望みを聞いてくださる神の耳なのだ。
 金持ちの若者はイエスに従えなかったのに、癒されたバルティマイはすぐにイエスの道に入る。キリスト者は決して完全ではない。病気で癒しの必要があったり、罪があったりする。けれども、自分自身神の憐みを経験したからこそ、他者に対して憐みの手を伸ばすことができる。



2015年

10月

18日

年間第29主日


人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである。

(マルコ10・45より)



 前回の金持ちの若者がイエスを知ることを妨げたのは金銭欲だった。今日の箇所にあるのはイエスを知るための、あと二つの妨げ。その一つは野心。ヨハネは野心家だった。もう一つは嫉妬。他の弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立てた。この三つの悪徳がここで問題になっている。

 ヨハネの言葉は「お願いすることをかなえていただきたいのですが」という日本語訳になっているが、ギリシア語では非常に強い命令。つまり、イエスはエルサレムで殺されると三度も言ったのに、弟子たちはまだわかっていなかったということ。でも、前回と同じように、イエスは彼らに対して怒らない。私たちが感じるのは彼の寂しさ悲しさだけ。神は私たちの罪に対して怒らずに悲しむのだ。
  イエスの返事には二つのことが含まれる。まず第一に、彼は単純な人間ではなく、世界のことをよく知っていた。戦争や暴力をはじめとする間違った権力の行使のために、どれほどの苦しみを人々は受けてきたか。しかし第二に、イエスが言うのは、私たちのあいだではそうではないということ。権力、力は人の上に立つため、人を利用するためではなく、人に奉仕するためのもの。なぜか。神がそうだから。
 赤ちゃんが病気の時にお母さんが、主人が病気の時に奥さんが看病するように、神様は私たちのベッドの横に座って尽している。今日読んだヘブライ人の手紙の中にも書いてある通り、イエスは昼も夜も父なる神の右で私たちのために尽して祈る。  
 私たちは少しでも責任を任され権力を渡されると、ヨハネやヤコブのように、すぐに自分が上になりたい気持ちになるが、教会の中で何かの役割をもっている人はみんな仕える心でなければならない。パパ様が昨日言われたように、仕えることは聞くこと。世界宣教、ミッションも相手の悩みを聞くことである。相手の苦しみ、悩み、要求に気づく恵みをいただけるよう今日いっしょに祈りたい。



2015年

10月

11日

年間第28主日

人間にできることではないが、神にはできる(マルコ10・27より)

  

 福音書にはいろいろな形で金持ちが出て来る。レビ、ザアカイ、ラザロ、女性では、スザンナ、ヨハンナがそう。しかし、今日の箇所に出て来る金持ちには名前がない。それはこの物語がエピソードというより教訓として、私たち皆に当てはまることだから。
 その人は、若くて、きれいで、おしゃれで、最初は元気にイエスのもとに走ってくる――究極的な問いを抱いて。宗教的で、掟を知り守っている彼をイエスは慈しんで見る。それは彼が何かしたからではなく、彼のうちに可能性を見ていたから。けれども、その人は最後は絶望して立ち去る。イエスは「欠けているものが一つある」と言ったが、それはすべてを台無しにする大きな問題があるということ。それはカテキズムで言うと、七つの悪徳(悪への傾き)の一つ、avaritia(貪欲、強欲)である。それには二つの面がある。第一は、金に対する間違った欲望である。集めれば集めるほど、不安になり、使って楽しむこともできない。第二は、心の鈍感さである。周りの人の困窮に気づかずに、残酷なほど厳しく金をとりたてるまでに鈍感になる。
 イエス自身は、世を捨てて裸で生きる行者ではなく、人と交わり、美しいものを喜び楽しむことを知っていた。バランスを知り、ものの奴隷にならずにものを正しく使い、相手のことを考え、貧しい人と分かち合うこと。イエスの厳しい言葉は、そのことの大切さを言いたかったから。

 ものに対する間違った態度は、ある個人の問題であるだけではなく、社会全体の問題であり、資源や富の分配のアンバランスにもあらわれる。マザー・テレサも言うように、清貧とは、ものを拒否することではなく、愛のために与えることである。
 イエスの弟子になる呼びかけを受けたのに立ち去った若者。遠ざかって行く彼の後姿を見送ったイエスの悲しい眼差しを思い浮かべながら、私も震えながら自分自身に問いたくなる。もしかしたら、その心の深い病い、avaritiaは私の中にもないかと。

(画像はハインリッヒ・ホフマン「キリストと金持ちの男」、1889年、ニューヨーク・リバーサイド教会)


2015年

10月

04日

年間第27主日


「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2・18より)


 

 秋が深まる10月は実りの月。ぶどう、柿、栗、松茸などが収穫の時を迎える。教会にとっても収穫の多い月。教会暦を見ても、リジューの聖テレジア(1日)、守護の天使(2日)、アシジの聖フランシスコ(4日)、聖ファウスティナ・コヴァルスカ(5日)、聖ヨハネ23世(11日)、アヴィラの聖テレジア(15日)、アンチオケの聖イグナシオ(17日)、聖ルカ(18日)、聖ヨハネ・パウロ2世(22日)とビックネームが並ぶ。また、世界の司教が集まって家族について考えるシノドスがまさにこの日曜日に始まる。ちょうどこの日、聖書の中で私たちの生活に直接にかかわる箇所が出て来る。二千年のあいだに図書館が溢れるほどの本が書かれた、教会にとって大切な大切なイエスの言葉が出て来る。

 福音書には、イエスを罠に落とすために質問しに来る人が何回も出て来る。今回は律法についてである。当時、ユダヤ人にとっても、ローマ人にとっても離婚は法律的に許されていた。しかしイエスは、法律で許されているからと言って、正しいわけではないと私たちに教える。そして、私たちが問題にする法律よりずっと上のところに目を向けさせる。結婚や離婚の問題は、法律や心理学ではなくて、究極的にどうあるべきかの問題である。イエスは、神がこのもっともすばらしい世界の中に(神は毎日最後に「よし」と言われた)もっともすばらしい生き物を男と女に造ったときの神の心を私たちに知らせようとする。男と女、この二人の関係から生まれる家族が神の心である。

 100年前のデンマークの有名な哲学者キルケゴールは、自分の教会の状態を海に浮かぶ一隻の船にたとえた。その船の中に争いがあって、船長が人質にされて牢に入れられ、料理長と平船員が残った結果、毎日、船のスピーカーは大切な行き先ではなく、毎日のメニューと無駄話を告げるようになった。――これは私たちの世界でもある。男性と女性の関係、家族などについてさまざまな意見があって、私たち自身、波に翻弄される時がある。しかし、この日曜日、シノドスに集まった教会とともに私たちは、癒しと希望を与え、船を永遠の生命に導く船長であるキリストの声に耳を傾けたい。教会にとっても、世界にとっても、神の前でもこの秋が実りの多い秋になりますように。

(画像はユダヤの結婚契約書Ketubah。)


2015年

9月

27日

年間第26主日

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(マルコ 9:40)


(画像は当教会鐘楼)

 仲間でない人たちがイエスの名を使って悪霊を追い出すのを見て、イエスの名を使うなと言う弟子たち。彼ら自身は悪霊を追い出せなかった(マルコ9:28)から憤慨していたにちがいない。彼らがなぜ追い出せなかったかと言うと、自分の利益、自分の名誉を求めていたから。私たちはよく権力欲のために、神の国を私たちの組織と同じと考えてしまう。しかし、イエスが言うのは、善意があるなら誰でも、神の名によって働くことができるということ。神の霊はどんな人のうちにも働いているから、宣教も福祉も諸宗教対話もまず、そのことに気づく観想から始まる。

 毎日曜日、私たちは教会の鐘によって感謝と喜びの典礼をするように呼ばれる。鐘の音は私たちだけではなく、京都の町に向かって響く。私たちはその鐘に刻まれているように、すべての人よ、神をたたえよ Laudate Dominum omnes gentes という心で町に向かう。教会を出る時も、私たちは、パウロが主イエスから言われた「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いる」(使18・9-10)という言葉とともに町に出る。

2015年

9月

20日

年間第25主日

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35より)

 先週の箇所に引き続き、今日の箇所はイエスの受難と復活の二度目の予告である。先週はペトロがイエスを叱ったが、今日も弟子たちは、イエスの死の予告を無視して、つまらないことを話している。医者からガンと言われたと友人に言っても友人が無視する場合と同じように、イエスの心も深く傷つけられる。でも、人間なら絶望して縁を切るところだが、マルコはイエスの絶望する姿ではなく、イエスの座って教える姿(イコン)を示す。イエスは愛であるから、私たちの無関心、鈍感さ、罪にも、あきらめず疲れず忍耐をもってやさしく教える。私たちが聖書を読む時、十字架の前にいる時、聖体の前で祈る時、イエスはその傷ついた心をもって私たちに愛を教え続ける。
 そこに三つの大切な言葉が出て来る。それはイエスがどういう者であるか、そして弟子である私たちがどのようにイエスの後に歩けばいいかを示す三つの言葉。それは二千年のあいだ教会が大切にしてきた宝物であり、私たちが祈りと観想によって膨らませ自分の生活の中に浸透させるべき言葉である。

 その第一の言葉は「最後の者(すべての人の後になりなさい)」。私たちは神について「すべてに優る」「力強い」というようなイメージをもつが、イエスはまったく違った神を示す。愛のために自分が神であることを捨て、見捨てられて苦しめられる最後の最後の者。私たちの人生には失敗したり喧嘩したり、病気になったり大金をだましとられたり、さまざまなことが起こるが、そんな時こそイエスのそばにいる可能性がいちばんある時である。たとえ地獄のいちばん深いところに行ったとしても、そこにイエスが待っている。命そのものである、罪のない彼は、私たちよりも死の深みに入った。彼の愛といつくしみは圧倒的に私たちの死と罪に勝る。だから、キリスト者が絶望することはありえない。第二の言葉は「仕える者」。イエスはそのように私たちに尽して、今父なる神の右に座り、栄光のうちに昼も夜も私たちのために祈り働く。第三の言葉は「子供」。そこにうろうろしていたのだろう。それはペトロの家で彼の孫だったかもしれない。その子供の手をとって、抱いて「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。この子供がイエスの腕の中にいたように、私たちは神様の腕の中にいる。


2015年

9月

13日

年間第24主日

「人の子は必ず多くの苦しみを受け……」(マルコ8・31より)

(画像は、ピエル・フランチェスコ・モラ「髭を生やした男である使徒(聖ペトロ)」)

 イエスは何者か――それはマルコ福音書を貫く問いであり、私たちキリスト者一人一人に迫る問いであるが、今日の箇所ではイエス自身がその問いを弟子たちに投げかける。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それに対して、いつものように皆を代表してペトロが「あなたは、メシアです」と答える。しかし、ペトロの抱くメシアのイメージは「サタン、引き下がれ」というイエスの厳しい言葉で斥けられる。イエスが示すメシアの道は、権力によって勝利するのではなく、迫害され殺される道である。

 一つ忘れてはいけないのは、通常は指導者の失策を隠すものなのに、この箇所では、教会の中心であるペトロの誤りについて、ペトロの弟子であるマルコが公にしているということ。イエスが逮捕された後の箇所でも、ペトロの否認、さらには冒瀆(ヨハネが言うように、弟子ではないと言ったから)について伝えられている。そこに、ペトロにとっても、そして私たちにとっても大切な教えがある。キリストの弟子になるのは、私たちが正しいからではなく、神から罪を赦されたから。教皇フランシスコも最初に「一体あなたは自分について何を言うか」と質問されて「私はイエスに罪を赦された者です」と答えた。この意識の上だけ、私たちは本当にキリストを伝えることができる。キリストの証人になるのは、自分が正しい、自分が強いからじゃなくて、自分がその愛情とその赦しを経験したから。


2015年

9月

06日

年間第23主日

「この方のなさったことはすべて、すばらしい」(マルコ7:37より)。

 ユダヤ人にとって聖なる場所エルサレムから来た人たちに理解されず反発されたイエス。エルサレムに行かずに、異邦人の住む汚れた町デカポリスに行く。そこは多神教の世界であり、私たちの環境もそうだが、いろいろな雑音が飛び交う世界である。「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、その中で迷子になった人である。自分の中に閉じ込められ、人と正しい関係をもつことができず、まったくの孤独にある。
 こんにちの私たちは自分の問題で精いっぱいで、「相手に気づく」(教皇フランシスコ)ことができない。でも、神のことばであるイエスは私たちを呼んで雑音から引き離し、耳に入りそれを癒す。芸術家は指で作品を作り、音楽家は指で楽器を演奏する。私たちは指で道を示し、指で撫でて愛情を示す。イエスの指とは神の力である。唾がなければ舌は滑らかに動かず、話すことができない。唾とはユダヤ人にとって水分になった息、いのち、スピリット。イエスが天を仰いでつく溜息、十字架上で吐く息は聖霊である。イエスの指と唾に癒されて、私たちは自分の小さい物語を神のみわざの大きな物語の中で違ったように理解するようになり、五感で人を愛することができるようになる。
 イエスの癒しはペトロに引き継がれ(使3・6)、イエスの指は今も教会の秘跡を通じて働いている。神のことばは肉となったのだから、神の恵みは抽象的にではなく、物質的に――水によって(洗礼)、油によって(堅信等)、パンによって(聖体)――働く。幼児洗礼のとき最近まで司祭は赤ちゃんの耳と口を触ってエファタと唱えていた。耳が聞こえず舌の回らない人が自分ではイエスに近づくことすらできなかったように、私たちは例えば代父や代母など教会を通じてキリストに出会う。キリスト教の信仰が生まれるのはいつでも自分の力ではなく伝えられたから。


(画像は、「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」、15世紀後半、ウルリッヒ・レッシュ修道院長の祈祷書『美しい祈りの本』)

 

2015年

8月

30日

年間第22主日

皆、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい(マルコ7・14より)


  「先に与えられる恵み」がなければ、神をはっきりと知ることができない。神にどう祈ればいいのかもわからず、日常生活の中で何がいいか悪いかを識別することもできない。本当の回心は、卑屈になって反省するときではなく、私たちに回心を呼びかける神の声に聞こうとするときに始まる。

  毎日曜日、主は自分の体をもってそばに来られる。その言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く」(へブライ4:12等)、私たちの心の思いや考えを見分ける。時々、ペトロのように「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いたくなる(ルカ5:8)

   しかし、自分の罪を見いだすときに私たちは絶望(guilty complex)に陥らない。罪を見いだすその同じ瞬間に私たちは、自分が永遠に愛されていること、主が自ら命を尽くして心と魂を癒す医者であることを知らされるから。彼の言葉はーー今日のような厳しい言葉でも――私の心の複雑な動きを診察する医者の聴診器のよう。そして、私たちの心の異常な動きと病いを癒す薬のよう。今日その言葉を聞く人は新しい命を生きることができる。神の愛は私たちの罪や弱さに勝る。「罪の中でも私たちは主に会うことができます」(教皇フランシスコ)。

   主よ、私たちはあなたを愛します。私たちの命を終わりのない感謝の祭儀にしてください。


2015年

8月

23日

年間第21主日

主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます (ヨハネ6・68より)
 今日の箇所で、ヨハネによる聖体についての5回連続のカテケージスが完結する。それは外面的には失敗に終わる。ヨハネ福音書第一章にイエスが自分の家に来たのに受け入れられなかったとあるのと同じように、カファルナウムでの長い話の後、多くの人たちが去って行った。ただペトロがイエスに対しての荘厳な信仰告白をする(私たちも日曜日ごとにミサで同じ信仰告白をしている)。つまり、イエスが私たちに伝えたい神は人間的な栄光や権力の神じゃなく、私たちを癒し救うために小さくなった神である。それは私たちから食べられる神、言い換えれば私たちのために十字架で死ぬ神である。だから、彼の偉大さは彼の惨めさにある。キリスト者はその神から先に愛され赦されたからこそ、人を愛し赦すことができるし、永遠の命を得ることができる。主よ、私たちのミサもあなたの愛のしるしでありますように。


(画像は、当教会十字架の道行「第一留 イエスの最後の晩餐」)

2015年

8月

16日

年間第20主日

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である(福音朗読主題句 ヨハネ6・55より) 
 今日の箇所には「体」ではなく「肉」という言葉が出て来る。これは、ヨハネ福音書第一章の「受肉」に結びつく。つまり、ヨハネが言いたいのは、本当に私たちの姿になった、人間になった神であるイエスの後に歩かないといけないということ。それがイエスを食べるということであり、(ヨハネ福音書が書かれた当時の異端のグノーシス主義のように)イエスの言葉を象徴として哲学的に理解すると、私たちは永遠の命を得ることができない。「血」を飲むということも、ユダヤ人にとってはタブーだったが、私たちは人間の知恵で救われるわけはなく、神の子として神の命をもちながら十字架上で自分の血を流したイエスからしか救いはない。これが私たちの信仰の柱である。
 「私の肉を食べる」(56節)の「食べる」の原語は動物が歯で噛むことを意味する生々しい動詞。牛が一日中口の中で草を反芻するように、私たちはミサで聞いた言葉を自分の中に入れて噛み続ける必要がある。キリスト教国でない日本でキリスト者であるのは難しい。だから、行事を減らし大切なことに戻って、いつでもイエスの言葉を考えていたい。

(画像は、フラ・アンジェリコ「聖体の制定」、1441~1442年、サン・マルコ修道院)

2015年

8月

09日

年間第19主日

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには絶え難いからだ」(列王記上19・7より)

 今日の第一朗読は非常に印象的なエピソードである。聖書の中でもっとも残酷な女イザベルに命を脅かされ行きづまり鬱になっていたエリヤ。彼に与えられた奇跡的な力は、初代教会の信者たちにとって、彼らが信じていた聖体の力を思い出させるものだった。「旅」(王上19:7)とは人生の旅路であり、死ぬ時にたどり着く目的地は神のところ。そのため、伝統的に、臨終の時に拝領する聖体がviaticum (旅路の糧)と呼ばれてきた。もっとも、聖体は臨終にかぎらず、人生の全行程において旅路の糧である。
 聖体は、私たちの信仰を測る体温計のようなもの。ミサに与るか与らないか、あるいはどのように与るか(参加の質、クオリティ)によって、キリスト者の信仰が測られる。私たちは信仰生活の中で何回も疲れや倦怠を体験する。例えば、洗礼を受けて、受洗を祝い、興奮が過ぎてしばらくすると、疲れを感じる。結婚生活や司祭の生活にもそのような疲れを感じることがある。そんなとき、必要なのは聖体に対する忠実。私たちの共同体も聖体を大切にしたい。

 

(画像は、国指定重要文化財「綸子地著色聖体秘蹟図指物」、1630年代、天草キリシタン館)

2015年

8月

02日

年間第18主日

わたしが命のパンである。(ヨハネ6・35より)

 

 先週の箇所は、イエスと群衆のすれ違いで終わった。群衆はイエスを王様にしようとしたが、イエスは山に逃げた。群衆は本当に神を探していたのではなく、自分の利益を探していただけだから。彼らが捜すのは、必ず消えてしまう命(ビオス)を養うパンにすぎないが、イエスが言うのは神からの命(ゾーエー)である。
 そこで彼らは聞く、一体何をすればいいか?それに対するイエスの返事は、するべきことはただ一つ、信じること。信じると言っても、決まった教義への信仰ではなく、イエスの顔のうちに、父なる神のやさしさを見ること。人を見捨てず裁かず罰せず、命を与える神のやさしさを見ること。その顔を見ることで私たちの生活が完全に変わることもできる。神と同じまなざしで他の人を見て、自分が受けた神の愛情によって他の人を愛することができる。これがキリスト教のすべて、聖体のすべてである。


 (画像は、アントネロ・ダ・メッシーナ「救世主」、1465年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))

2015年

7月

26日

年間第17主日

なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(ヨハネ6・13より)


 パンと魚を増やす奇跡と呼ばれる今日の箇所。でも、実は奇跡を報告するというより、私たちがどうすべきかを教えている。
 たくさんの人たちがお腹を空かせて、パンがない状態をどうしたらいいか?弟子たちは、200デナリオン(5000人で割ると、当時の貧しい人たちの食事代)出してとか、他の村に行かせてとか、常識的な考え方にとらわれているが、一人の子どもがパン5つと魚2匹を差し出す。おやつ程度のわずかなものだが、5と2を足すと完全数の7になる。つまり、その子どもは、イエスを信じてイエスに従う「小さき者」で、問題を政治などによって解決するのでなく、すべてをイエスに捧げる。イエスは受け取り天に目を上げ、すべてが神のものと認めて感謝する。イエスの手を通して、わずかなものがみんなの空腹を満たすばかりか、食べきれないほどになる。
 人口の1%にもならない日本のキリスト教信者もそのような「小さき者」である。

 (画像は、マリアーノ・ヴィッラルタ「パンの増やし」、コッレヴァレンツァ聖堂)

2015年

7月

19日

年間第16主日

 

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。(マルコ6・31)

 

今日の福音書には、二つの違った行動が合わせて出て来る。一方では、戻ってきて報告した弟子たちにイエスは「人里離れたところで休みなさい」と言う。他方では、自分を探して先回りした人たちにイエスは憐れみを抱き、教え始める。つまり、キリスト教では、自分が受けた神のやさしさと、人に対する憐れみとは切り離すことができない。弟子たちだけではなく、イエス自身も、祈りのうちに父とともに夜を過ごし、昼の活動の中でも父に感謝していた。だから、私たちの活動はイエスとともにいた喜びの経験の結果である。不正義への怒りから福祉をするなら、正義の名のもとに暴力をふるうことになる。義務感から布教をするなら、ついて来ない人に罰を与えることになる。そうではなくて、チャリティーもミッションも、神から受けた愛で心がいっぱいになる時に始まる。

(画像は、「小舟」、トリノ王立付属図書館所蔵『スフォルツァとサヴォイアの伝説集』所収、1476年)


2015年

7月

12日

年間第15主日

イエスは十二人を遣わすことにされた(福音朗読主題句 マルコ6・7参照)

 

信仰の賜物が私たちに与えられたのは、教会の中に閉じこもって生きるためではなく、外に派遣されるため。イエスと長いあいだ生活をともにした(マルコ3・14)弟子たちは、宣教師として何が大切かを知っている。だから、頭に教義が入っているだけでなく、心に響く言葉を語る。生活の色、匂い、味を知る感覚を身につけ、相手の立場から物を見る心をもつ。喜びの時も悲しみの時も人のそばにいて、人と深い関係をもつことができる(「その家にとどまりなさい」)。もちろん拒否される可能性も(イエスの十字架のように)あるが、失敗も新しい道となる(足の埃を払って行きなさい)。体を支える「杖」と心を支える仲間(「二人ずつ」)―身軽な宣教師の宝物はただ、キリストから受けた愛の経験とそれを伝えたいという思い。

2015年

7月

05日

年間第14主日

「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ6・4より)

 

30年もの長い年月、ナザレの村に住み大工として働いたイエス。しかしナザレの人たちは、神が人となって地に来られたことに気づかなかった。高いところに神がいると思っていたから。ところが、神はすぐそばに来ていた、手にタコのある大工として。イエスの人間性、その行動と感情をリアルに示すマルコ福音書。「神はどこにいるか」と問う私たちにマルコは、「神はあなたのすぐそばにいるかもしれない」と答える。神は、今あなたの隣に座っている人かもしれない。あなたの赦しを求めている人、あなたが赦しを必要としている人かもしれない。イエスはナザレの人たちに拒否されても(命を狙われても)、数人の病人を癒した。十字架につけられて死ぬ瞬間にも「彼らをお赦し下さい」と願った。拒まれても愛し続けること。それはイエスが私たちに教えて下さった道である。

 

(画像はマールテン・ド・フォス「イエス、故郷で拒絶される」、16世紀末)

2015年

6月

28日

年間第13主日

子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた (マルコ5・41より)

 

ヤイロの娘と出血症の女性―この二人の女性のエピソードは別々の物語ではなく、互いに絡み合っている。ちょうど大人の女になる年齢の12歳で死にかかった少女と、汚れとみなされていた病気を12年の長きにわたり患う女性。12という完全性を意味する数字が暗示するように、この二つのエピソードには人間の根本的な問題(病気、死、孤独)が現れている。出血症の女性はイエスの「服にでも触れれば」と勇気を出して、自分の女性性を受け容れることができた。ヤイロの娘はイエスに手をとってもらって、大人の女になることができた。「タリタ、クム」―起き上がること、それはイエスに癒され新しい命に復活することである。「恋しい人に戸を開こうと起き上がりました」(雅歌5・5)。彼女たちは起き上がった、恋人イエスを自分の生活の中に迎えようと。

 

(画像はエルネスト・フォンタナ「ヤイロの娘の蘇生」、19世紀末)

 

2015年

6月

21日

年間第12主日

 

イエスは起き上がって、風を叱り……(マルコ4・39より)

 

マルコ福音書の最初のテーマは、私たちの生活を取り巻くあらゆる悪に対してイエスがエクソシスト(追い出す者)であること(主の祈り「悪からお救いください」)。今日の福音もそう。海はカオスを思い出させるが、それは自然の中だけではなく、私たちの心の中にもある。しかし、嵐の中でイエスが眠っていたように、病気など私たちの生活の災いの中にもイエスの不思議な静けさがある。それはイエスが最後に十字架上で私たちの弱さを自ら引き受けた時に示した神聖な静けさである。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦しみながらも「わたしの霊を御手にゆだねます」と言ったイエス。全世界の教会、私たちの教区も小教区も、イエスがそばにいることを経験できるように。

 

2015年

6月

14日

年間第11主日

 

土はひとりでに実を結ばせる

(マルコ4・28より)

 

神の言葉を信じて一生懸命やっても結果が見えてこない時、権力や人間的な知恵を使う誘惑を感じる。そんな私たちに向かってイエスが今日の福音で言うのは、神の国は目立たない形ですでにあるということ。そして、その力は人間の技術、人間の論理、人間の賢さによらない。神の国は、自動的(今日の福音書のキーワードautomate)に実をつける。だから、大切なのは、いい種、つまり神の言葉を蒔いたなら、必ずそれは実ると信じること。子供の教育や宣教をする時に私たちは「こんなことをして何になるか」「何も実りがない」と言うが、結果を判断するのは私たちの役目ではない。私たちの役目は忠実であること―イエスその方に、イエスの道に。

 

(画像はイタリアのプルサノ聖母修道院で制作されたイコン

 

2015年

6月

07日

キリストの聖体の祭日

これは、多くの人のために流されるわたしの血、
契約の血である 
(マルコ14・24より)

信仰の柱であるキリストの死と復活、昇天、聖霊降臨を記念する復活節を終えた教会は、年間に入る前に、信仰生活にとって大切ないくつかのテーマに特別に注意する。それが三位一体の主日であり、キリストの聖体の祭日である。聖体の祭日に信者の心に響くのが聖トマスの有名な聖体讃歌Pange lingua。彼のもう一つの聖体讃歌O sacrum conviviumには、聖体の意味が見事に集約されている。聖体とは、いっしょに食べること。そして、キリストと一つになり、その受難から生活のための力をいただき、恵みによって癒され、道すがら天国に入る保証をいただくこと。





O sacrum convivium,

ああ、聖なる宴。

in quo Christus sumitur:

キリストが拝領され、

recolitur memoria passionis ejus,

その受難の記憶が新たにされ、

mens impletur gratia

心が恵みで満たされ、

et futurae gloriae nobis pignus datur.

将来の栄光の保証が私たちに与えられる。


2015年

5月

31日

三位一体の主日

フランチェスコ・カイロ「聖三位一体」
すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい
(マタイ28・19より)

三位一体は、難しい理屈ではなく、一番当たり前のこと。父、子、聖霊(息)は赤ちゃんもわかる。イエスが現してくださった三位一体の神は、私たちのふるさと、私たちが帰属する祖国。私たちはそこから出てきて、そこへ戻っていく。今はふるさとを離れ旅をしているが、イエスの言葉を聞いてふるさとを思い出す。それは、私たちが神から永遠に愛され受け容れられていること。だから、私たちは人を愛し、人を赦すことができる。「父と子と聖霊のみ名によって」十字架のしるしをするとき、私たちは、いつか得られる永遠の安らぎを前もって味わう。


(画像は、フランチェスコ・カイロ「聖三位一体」、1630年、プラド美術館所蔵)

2015年

5月

24日

聖霊降臨の主日

エル・グレコ「聖霊降臨」
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった
(使徒言行録2・3より)

激しい風がドアを開け窓を通り抜けると、それまで怖くて部屋の中に閉じこもっていた弟子たちがイエスを伝えるため外に出て行った。聖霊降臨は新しい命に目覚めること。2000年前だけではなく、今も聖霊は教会の中でさまざまな形で働いている。キリストを捨てないために殺される信者は毎年10万人。コプト正教会の21人の殉教者たちは首を斬られる前、主イエス・キリストの名を唱えていた。生活の中でも聖霊の木は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」の果実をつける。もし私たちの生活が前と同じなら、聖霊はまだ下っていない。

(画像は、エル・グレコ「聖霊降臨」、1604-14年頃。プラド美術館所蔵。)

2015年

5月

17日

主の昇天

イエスは彼らが見ているうちに
天にあげられた

 (使徒言行録1・9より)

  
昇天とは、イエスが神の世界に迎え入れられたこと。地に降りたイエスが、天使に囲まれ勝利者として天に戻る。父なる神の御旨を果たして。仕事を終えて血まみれで。だから、昇天は復活と同じ。神の右の座に就いたイエスは、霊的な体の頭として力を送る。恵みを、聖霊を、賜物を。だから、昇天は教会の始まり。イエスは聖金曜日のように見えなくなったが、現存し、宣教のカリスマを送る。だから、宣教がなければ教会ではない。私たちの教会も。


(画像は、ドイツ・アルトマンスホーフェンの聖ヴィトゥス教会の長堂天井画)

2015年

5月

10日

復活節第6主日


友のために自分を捨てること、
これ以上に大きな愛はない
(ヨハネ15・13)

友情の根本は秘密を分かち合うこと、大切なことを分かち合うこと。そのような深い関係の中で自分が受け容れられているからこそ、他者を受け容れることができる。三位一体の中には父と子と聖霊の交わりがあり、イエスは父といつも触れ合い、会話を交わしている。キリスト教の信者であるのは、イエスとそのような親密な関係をもつこと。活動も道徳も努力もすべてそこから出て来る。


(画像は、友情のイコンとして知られる、6世紀頃のイコン。右はキリスト、左はアレクサンドリアの聖メナス)