聖人たちは神様の作品、教会と天国の宝物で、数えきれないほどいます。日本にも、偉大な殉教者たちと高山右近はもちろん、教会がまだ発見していない聖人も数多くいます。平凡な目立たない日常生活の中に、聖人になる途中の人がきっといるはず。聖人を作るのは神様の愉しみだからです。もしかしたらその一人があなたのそばに座っているかもしれません。でも、神様にとって大切な大切な一人の聖人がいます。えっ、それが誰かわからないって?それはあなたです。あなたがどんな人であっても、神様の慈しみを受けて聖人になれるのですから。

2017年

2月

05日

ジョン・ヘンリー・ニューマン讃歌「導きたまえ、やさしい光よ」

Lead, Kindly Light

Lead, Kindly Light, amidst th'encircling gloom,

Lead Thou me on!

The night is dark, and I am far from home,

Lead Thou me on!

Keep Thou my feet; I do not ask to see

The distant scene; one step enough for me.

 

I was not ever thus, nor prayed that Thou

Shouldst lead me on;

I loved to choose and see my path; but now

Lead Thou me on!

I loved the garish day, and, spite of fears,

Pride ruled my will. Remember not past years!

 

So long Thy power hath blest me, sure it still

Will lead me on.

O'er moor and fen, o'er crag and torrent, till

The night is gone,

And with the morn those angel faces smile,

Which I have loved long since, and lost awhile!

 

Meantime, along the narrow rugged path, Thyself hast trod,

Lead, Saviour, lead me home in childlike faith,

Home to my God.

To rest forever after earthly strife

In the calm light of everlasting life.

導きたまえ、やさしい光よ

導きたまえ、やさしい光よ、私を囲む暗やみの中で
先へ導きたまえ
夜は暗く、家路は遠い
先へ導きたまえ
この足を支えたまえ、私が見たいのは
遠くのものじゃない。私には一歩で十分
 
こんな感じははじめて。これまでは祈りもしなかった
あなたが私を先へ導いてくださるようにとは
私の道を選び見つけることを好んだが、今は
あなたが私を先へ導きたまえ
日差しの強い昼を好み、不安を感じても
自負に動かされた。過ぎ去った年月を忘れたまえ

 

これまでずっとあなたの力が私を祝福した、そう、
これからも私を導いてくださる
荒れ野と沼地、岩山と急流を抜けて
夜が明けるまで
朝が来ると、天使の顔がほほえみかける
ずっと前は大好きでしばらく見失っていた天使の顔が

 

そのあいだ、狭いでこぼこ道に沿って
あなた自身が歩いてくださった
家まで導きたまえ、救い主よ、幼子のように信頼する私を
家まで、私の神のもとに 
地上の戦いのあと、とわに安らうために 
永遠の命の穏やかな光のうちに
(私訳)

 


2015年

11月

01日

諸聖人の祭日

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。
1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。
2.そこには犯されなかった罪がない。殺人(ステファノの石打ちへのパウロの賛成)、浮気、泥棒、詐欺など。
3.しかし、どの聖人にもある特別な経験がある。それは回心の経験である。第一に我に戻り、第二に赦しを得る経験である。ベネディクト16世もよく言っていたように、キリスト者にとって聖人は完全な者ではなく、赦された者なのだ。回心の形はいろいろで、パウロのように馬から落ちる場合もあれば、アヴィラの聖テレジアのように普通に信仰者の生活を送っていて得る場合もある。突然起こる場合もあれば長年かかる場合もある。しかし、心をひっくり返す経験がある。それは悪い生活から善い生活に移るのでなく、受け容れられ愛される経験、自分の力を越えた愛に覆われる経験である。なぜなら、「聖なるもの」は神だけだから。私たちは神に抱かれて、神の愛に自分をゆだねる時だけ聖人になれる。
4.聖人には、キリストに対する、はっきりした、独特の、理屈も疑いもない愛がある。キリストに対する個人的な深い関係がなければ聖人ではありえない。自然や静けさなど宗教的な生活を送るかどうかは無関係である。聖人の中には神秘的な聖人もいればそうでない聖人もいる。ただ聖人にはキリストに対する根本的な関係がかならずある。
5.聖人には深い祈りの経験がある。神学があるかないか、言葉を用いるか沈黙か、座ってか歩いてか、祈りの形はいろいろでも、キリストに対しての親しさがある。聖ヴィアンネが言うように、ある農民は何時間も聖体の前に座ってじっと見るだけ。具体的に言うと、聖体に対しての特別な関係のない聖人はいない。聖体なしに聖性はない。
6.聖人には愛から生まれる創造性がある。深い祈りから、創造的愛、手のある愛があふれ出る。病人に対して、あるいは賢い人に対して新しい道を拓く。リジューの聖テレジアのように、修道院の中で観想生活を送っていても宣教の保護者になる。修道会の創立者なら、一千人、二千人、三千人の人が歩ける道を拓いたことになる。いろいろな国に聖人がいて、その国でどのようにイエスの道を実現するかを教えてくれる。彼らの伝記を読むと、私たちは勇気をもらい、助けられる。
7.聖人には独特の喜びがあり、苦しみも越える。体の病気、敵からの迫害、教会からの迫害など、いろいろだが、人間的世間的でない喜び、「原因のない慰めconsolatio sine causa」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ)がある。食べて喜び、人から拍手されてうれしいのには原因があるが、原因のない喜び、つまり神からの喜びと慰めがある。穴吊の刑を受けた長崎のマグダレナは、十三日間なかなか死なかった。しかし毎朝一つの手に慰められ、苦しみがなくなっていた。

 今日私たちが祝うのは、山上の説教の真福八端であるイエス自身に惹かれた人たちの祝い日。教会の歴史には、聖マリアをはじめ八百万の、記録が残っていないほどたくさんの、それぞれの形でキリストの道を歩んで今神とともにいる人たちがいる。特に私たちが祝うのは、洗礼の時に渡された聖人。そして、私たちの教会堂の守護聖人ヴィアトールを、また日本ではじめて私たちにキリストの話をしてくれたフランシスコ・ザビエルと日本の聖なる殉教者を祝いたい。 

2015年

10月

15日

アヴィラの聖テレジア

アヴィラの聖テレジア記念日

カルメル会のシスター方、おめでとうございます。私たちのためにこれからもお祈りください。

祝生誕500年!

アヴィラの聖テレジアのNADA TE TURBE(恐れるな煩うな)を24カ国のカルメル会シスター93人が歌うバーチャル・コンサート。