年間第23主日

「この方のなさったことはすべて、すばらしい」(マルコ7:37より)。

 ユダヤ人にとって聖なる場所エルサレムから来た人たちに理解されず反発されたイエス。エルサレムに行かずに、異邦人の住む汚れた町デカポリスに行く。そこは多神教の世界であり、私たちの環境もそうだが、いろいろな雑音が飛び交う世界である。「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、その中で迷子になった人である。自分の中に閉じ込められ、人と正しい関係をもつことができず、まったくの孤独にある。
 こんにちの私たちは自分の問題で精いっぱいで、「相手に気づく」(教皇フランシスコ)ことができない。でも、神のことばであるイエスは私たちを呼んで雑音から引き離し、耳に入りそれを癒す。芸術家は指で作品を作り、音楽家は指で楽器を演奏する。私たちは指で道を示し、指で撫でて愛情を示す。イエスの指とは神の力である。唾がなければ舌は滑らかに動かず、話すことができない。唾とはユダヤ人にとって水分になった息、いのち、スピリット。イエスが天を仰いでつく溜息、十字架上で吐く息は聖霊である。イエスの指と唾に癒されて、私たちは自分の小さい物語を神のみわざの大きな物語の中で違ったように理解するようになり、五感で人を愛することができるようになる。
 イエスの癒しはペトロに引き継がれ(使3・6)、イエスの指は今も教会の秘跡を通じて働いている。神のことばは肉となったのだから、神の恵みは抽象的にではなく、物質的に――水によって(洗礼)、油によって(堅信等)、パンによって(聖体)――働く。幼児洗礼のとき最近まで司祭は赤ちゃんの耳と口を触ってエファタと唱えていた。耳が聞こえず舌の回らない人が自分ではイエスに近づくことすらできなかったように、私たちは例えば代父や代母など教会を通じてキリストに出会う。キリスト教の信仰が生まれるのはいつでも自分の力ではなく伝えられたから。


(画像は、「耳が聞こえず舌の回らない人の癒し」、15世紀後半、ウルリッヒ・レッシュ修道院長の祈祷書『美しい祈りの本』)

 

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