年間第25主日

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35より)

 先週の箇所に引き続き、今日の箇所はイエスの受難と復活の二度目の予告である。先週はペトロがイエスを叱ったが、今日も弟子たちは、イエスの死の予告を無視して、つまらないことを話している。医者からガンと言われたと友人に言っても友人が無視する場合と同じように、イエスの心も深く傷つけられる。でも、人間なら絶望して縁を切るところだが、マルコはイエスの絶望する姿ではなく、イエスの座って教える姿(イコン)を示す。イエスは愛であるから、私たちの無関心、鈍感さ、罪にも、あきらめず疲れず忍耐をもってやさしく教える。私たちが聖書を読む時、十字架の前にいる時、聖体の前で祈る時、イエスはその傷ついた心をもって私たちに愛を教え続ける。
 そこに三つの大切な言葉が出て来る。それはイエスがどういう者であるか、そして弟子である私たちがどのようにイエスの後に歩けばいいかを示す三つの言葉。それは二千年のあいだ教会が大切にしてきた宝物であり、私たちが祈りと観想によって膨らませ自分の生活の中に浸透させるべき言葉である。

 その第一の言葉は「最後の者(すべての人の後になりなさい)」。私たちは神について「すべてに優る」「力強い」というようなイメージをもつが、イエスはまったく違った神を示す。愛のために自分が神であることを捨て、見捨てられて苦しめられる最後の最後の者。私たちの人生には失敗したり喧嘩したり、病気になったり大金をだましとられたり、さまざまなことが起こるが、そんな時こそイエスのそばにいる可能性がいちばんある時である。たとえ地獄のいちばん深いところに行ったとしても、そこにイエスが待っている。命そのものである、罪のない彼は、私たちよりも死の深みに入った。彼の愛といつくしみは圧倒的に私たちの死と罪に勝る。だから、キリスト者が絶望することはありえない。第二の言葉は「仕える者」。イエスはそのように私たちに尽して、今父なる神の右に座り、栄光のうちに昼も夜も私たちのために祈り働く。第三の言葉は「子供」。そこにうろうろしていたのだろう。それはペトロの家で彼の孫だったかもしれない。その子供の手をとって、抱いて「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。この子供がイエスの腕の中にいたように、私たちは神様の腕の中にいる。


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