年間第28主日

人間にできることではないが、神にはできる(マルコ10・27より)

  

 福音書にはいろいろな形で金持ちが出て来る。レビ、ザアカイ、ラザロ、女性では、スザンナ、ヨハンナがそう。しかし、今日の箇所に出て来る金持ちには名前がない。それはこの物語がエピソードというより教訓として、私たち皆に当てはまることだから。
 その人は、若くて、きれいで、おしゃれで、最初は元気にイエスのもとに走ってくる――究極的な問いを抱いて。宗教的で、掟を知り守っている彼をイエスは慈しんで見る。それは彼が何かしたからではなく、彼のうちに可能性を見ていたから。けれども、その人は最後は絶望して立ち去る。イエスは「欠けているものが一つある」と言ったが、それはすべてを台無しにする大きな問題があるということ。それはカテキズムで言うと、七つの悪徳(悪への傾き)の一つ、avaritia(貪欲、強欲)である。それには二つの面がある。第一は、金に対する間違った欲望である。集めれば集めるほど、不安になり、使って楽しむこともできない。第二は、心の鈍感さである。周りの人の困窮に気づかずに、残酷なほど厳しく金をとりたてるまでに鈍感になる。
 イエス自身は、世を捨てて裸で生きる行者ではなく、人と交わり、美しいものを喜び楽しむことを知っていた。バランスを知り、ものの奴隷にならずにものを正しく使い、相手のことを考え、貧しい人と分かち合うこと。イエスの厳しい言葉は、そのことの大切さを言いたかったから。

 ものに対する間違った態度は、ある個人の問題であるだけではなく、社会全体の問題であり、資源や富の分配のアンバランスにもあらわれる。マザー・テレサも言うように、清貧とは、ものを拒否することではなく、愛のために与えることである。
 イエスの弟子になる呼びかけを受けたのに立ち去った若者。遠ざかって行く彼の後姿を見送ったイエスの悲しい眼差しを思い浮かべながら、私も震えながら自分自身に問いたくなる。もしかしたら、その心の深い病い、avaritiaは私の中にもないかと。

(画像はハインリッヒ・ホフマン「キリストと金持ちの男」、1889年、ニューヨーク・リバーサイド教会)


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