年間第32主日

 「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ12・44より)


 マルコ福音書では、今日の箇所がイエスの公生活の最後のエピソード(次の13章は終末論の長い話、14章は受難物語)。

 このエピソードに先立ち、宗教者についてのイエスの厳しい診察が報告される。宗教の専門家である律法学者には3つの特徴がある。1.「長い服」は宗教者として目立つため。労働に適さないが、彼らはそれで自分でないものに見せかける。2.「挨拶される」こととはえらい人として扱われること。彼らは空っぽなのに相手の目によって生きる。「上席」「上座」とは社会的地位。彼らは人の上に乗ることで、自分がえらいと意識する。3.「やもめの家を食い物に」―神も人もかまわない残酷さ、自分をすべての基準にする自己中心主義。やもめは聖書では貧しい人の例としてよく引用される。―「律法学者に気をつけなさい」とは、このような間違った、ものの考え方をしないようにしなさいということ。
 続くエピソードでイエスが「座って」(41節)いるとは典型的な裁判のイコンである。最後の審判の時も神が座って審判する。「賽銭箱」―そこに金が入れられる時に、神殿の祭司が大きな声で金額を告げ人々に聞かせる習慣があった。「金持ち」は、自分に必要なものを確保した上で、一部をそこに入れたが、それも熱心な宗教者としての名誉となった。つまり、彼らは結局自分の利益を求めていたわけである。

 

 それに対して、その「やもめ」は、第一朗読のやもめが小麦粉と油を命がけで預言者に差し出したように、すべてを神に捧げた。マルコは言っていないが、イエスはそのやもめを、子供が母親を見るように限りない優しさで見ている。もしかしたら、そのやもめを見て、その頃すでにやもめの生活を送っていた母マリアを思い出したのだろうか。イエス自身もまもなく、十字架上で父なる神に向かって、私たちのためにすべてをゆだね、命も捧げた。

 要するに、イエスが弟子たちに教えた宗教、そして神が望む宗教は、心と真実、神と人に対する愛に基づく宗教なのだ。こんにちの私たちは、中身よりも見かけ、誠実よりも評判や地位を気にして、例えば健康のためではない整形手術のために考えられないほどのお金を使ったりもする。イエスの教えはそんな私たちにも向けられている。

 2000年前、自分の名誉を求める金持ちがたくさんいる中で、一人のやもめが神殿の賽銭箱にわずかなお金を入れた。あまりにも小さい金額だったので、もしかしたら大祭司の帳簿係も気づかなかったかもしれない。しかし、そのお金は、金持ちのあり余るほどのお金と違い、永遠に神の心の帳簿に記されている。なぜなら、神の心の帳簿にはどんな小さな子供の愛情の溜息であっても永遠に記されているから。

 

 



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