王であるキリスト(年間第34主日)


わたしが王だとは、あなたが言っていることです。(ヨハネ18・37より)


 年間最後の日曜日は、王であるキリストを祝う。王であるキリストを祝うなら、神の栄光を荘厳に賛美するはずだが、教会が選んだヨハネ福音書の箇所には、心に染みる奇妙な静けさがある。
 そこには二人の男がいる。ピラトとイエス――この二人が顔を合わせている。が、二人のあいだには無限の違いがある。
 一方は権力の人間で、陰謀と策略、偽りと欺きの達人。当時、ローマとその軍隊の一番たちの悪い独裁者であった。残酷で野蛮な人物であり、あまりにも厳しいことを決めたために、彼の上に立つローマ皇帝が介入して止めさせなければならなかったほどであり、最後にはローマに戻された。権力者であると同時に、卑劣な臆病者である。他方は、イスラエルで一番無力でもろいが、イスラエルで一番すぐれた人。その人間的な繊細さのためにやさしく、愛のためだけに生きた人。半裸で手錠をかけられているが、内心は自信に満ち真実と憐みに燃えている。4番目の福音書を書いたヨハネ自身、その受難物語の中で何回も王としてのイエスに惹かれるほどである。

(画像は、アントニオ・シセリ「エッケ・ホモ」、1860-80年)

 イエスの公生活の最初に悪魔がイエスの神性に気づいたのと同じように、この箇所で残酷なピラトが最初に、イエスの王である面に気づく。権力に興味があるからか。ピラトが「あなたは王か」と好奇心半分、恐れ半分で聞くと、イエスは答える、「そう、私は王だ。しかし、私の国はこの世の国ではない。私の国では、王は自分の僕に対して僕になる。私の国では一番大きな権力が愛の権力であるから。私は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない(マタイ12・20)。誰の血も流さず、人を裁かず、排斥せず、傷の手当てをする。また、捕われ人に自由を与え、目の見えない人に視力を与えるため、人と人のあいだにつながりをつくるため、赦しと平和を教え、そして十字架の上で両手を広げるために来た王である」。その後、ピラト自身は外に出て、人々の前にイエスを示し言う、「この人だ」。 
 今日の日曜日、私たちは、ピラトの総督官邸からだけではなく、宇宙のバルコニーに示されるその顔の美しさを仰ぎ見る――王そのものである方の顔、宇宙で一番真実と美しさのあるその顔、誰よりも自由で、誰よりも愛情と真実があるその顔を。愛を込めてその顔を仰ぎ見るなら、私たちの顔も照らされてその顔と同じようになる。ピラトの総督官邸から数時間後、十字架上で息を引き取ったイエスの血まみれの顔から最後の覆いが取り去られ、神の栄光が輝いたように「わたしたちも皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリ3・18)


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