待降節第1主日

 

人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ21・36より)

 待降節は女性的な期間である。結局のところマリアの臨月の時である。福音書では、太陽、月、星など宇宙的な表現がされているが、物質的なことではなく、内面的なこと、私たちに深く関わることについて言われている。

 まず第一に、福音書は、年間最後の日曜日とつながりながら、自分の狭い世界から出て広い景色を見るように私たちを導く。生みの不安や苦しみについてはイザヤ13・8やヨハネ16・21で言われている。大きな苦しみの後に命がある。私たちの世界は日々過ぎて行くが、その中にもう一つの世界が成長している。矛盾の中、苦しみの中、繰り返しの中にも神の国が来る。神を忘れたような私たちの世界の中にもその方が来る。
 第二に、福音書は、どう待ったらいいかをキリスト者である私たちに教える。教会も母マリアと同じようにイエスを生もうとしているから。待降節とは、ちょうど妊娠中のお母さんが赤ちゃんが胎内で動いたり蹴ったりするのを感じるように、霊的なことに対する感受性を育てて、自分の中に聖霊の動きに気づき、成長しているキリストを意識するために与えられた期間である。その意味で、この期間、教会はやさしさ、テルヌーラ(教皇フランシスコ)を習うための神の学校である。そして、妊娠した女性がおむつを揃え服を作って、生まれてくる赤ちゃんのための環境を整えるように、神の言葉に親しみ、基本的な祈りやよい行い、神にゆだねる心や赦し、宣教心によって精神的な価値観を作るための期間が待降節である。
 そのために教会は3人の人物を模範として私たちに示す。それはイザヤ、洗礼者ヨハネ、マリアである。洗礼者ヨハネもマリアもイエス中心に生きた。洗礼者ヨハネはすべてを捨てて砂漠に暮らし、命がけで喜びを前もって経験した旧約時代最後の預言者であり旧約時代最大の神秘主義者である。教会はこの3人、特にマリアを見るときに、自分がありたい者の姿を見る。待降節を通じて、教会は世界に渡すためにキリストを生む。


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