待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内の中でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

ラファエロ「フォリーニョの聖母(聖会話)」、1512年、ローマ・ヴァティカン宮美術館所蔵


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