待降節第3主日

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より)

 待降節第3主日は伝統的にガウデーテの主日と呼ばれる。ガウデーテとは「喜びなさい」(入祭唱、フィリピ4・4)という意味。昔も今も、司祭は薔薇色(つまり薄い紫色)の祭服を着ることができる。待降節の途中のこの日は、第二バチカン公会議の精神では、断食などの小休止というより、イエスの降誕を準備する喜びの日である。
 先週に引き続き今日の箇所でも主人公は洗礼者ヨハネ。ちょうどエルサレムに神殿が完成する頃であり、エルサレムには祭司が溢れ、エルサレムに住むことができない祭司が近くのエリコに住んでエルサレムに通うほどだった。それなのに、たくさんの人が洗礼を受けようとヨルダン川にいたヨハネを訪れた。先週の箇所にあったように、よく考えられた言葉を語るヨハネだが、今日の箇所ではもっと具体的なことを語る。
 たくさんの人が彼に聞く、「どうすればよいのですか」。これは人間にとって基本的な問いである。どう生きればいいか、どんな道を選ぶべきか、何が善で何が悪か。結婚する時、仕事をする時、人との関係において、財産などに対してどうすればよいか。救われるため、神のもとに行くためにどうすればよいか。
 ヨハネの返答は力強く重い。祈りや生贄などの宗教的な営みにはまったく触れずに三つの課題を示す。
1.分かち合うこと、与えること(「下着を二枚持っている者は…」)。これはイエスの教え(マタイ25・31-46)さえ連想させる。


2.徴税人は、正当である以上に人に要求してはいけない。正義に則り生きなさい。
3.兵士(さらに宗教的であれ政治的であれ何らかの権力をもつ人)は、自分の権力で人を脅し、束縛してはいけない。
 この三つの課題に続いて、もう一つの大切な点がある。それはヨハネが自分の権力を利用して自分を中心に置かないことである。そこに「霊と火」という二つの大切な言葉が出て来る。この二つの言葉によってキリストとは誰かが示されている。
 当時のやり方では麦を脱穀して、麦と殻を箕に載せて上げると、風で殻が飛ばされ、麦が残る。その風はイエスが十字架上で引きとった息(霊)である。殻は私たちの罪であり、イエスの愛の火によって燃やされる。
 ヨハネが教えるのはまだ自力の道徳である。彼の洗礼は回心の洗礼であるが、懺悔だけでは救われない。それに対して、イエスの霊と火によって救われたキリスト者の道徳は懺悔からでなく、愛された、救われた体験から始まる。
 ヨハネの言葉は非常に厳しい。第一朗読のゼファニアの預言も他の箇所を読めば非常に厳しい。けれども、ヨハネの言葉にはすでに示されている、キリストはもう来ていると。教会はそれに気づいて言う、ガウデーテ、喜びなさいと。

画像は、マティアス・グリューネヴァルト「キリストの磔刑」の一部、1512-1515年、イーゼンハイム祭壇画


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