聖家族

聖家族の主日について

 家族についての教皇フランシスコの文書が2、3月に出ることが期待されている。しかし、聖家族の主日とは何か。
 第一に、教会にとって家族は偶然存在するものではなく、神が望んだものである。女性に対する男性の憧れ、男性に対する女性の憧れ、愛の絆、そこから生まれる赤ちゃんといった私たちがそれぞれ経験している関係は神から来る関係である。家族の関係は限界があるにしても神からの召し出しである。神は司祭や修道者を呼ぶだけではなく、結婚する人を呼ぶ。呼んで、他の人の模範となるように遣わす。神が望んだことだから、家族には恵みが注がれる。家族がいる場所は、玄関も応接間も書斎も寝室も台所も聖なる場所である。神を信じる人の家族には恵みが溢れる。家族とは聖人になることができる場所である。
  第二に、家族は神の愛とやさしさを知るための場所である。家族の中で私たちははじめて神を知る。教会よりも、カトリック学校よりも先に神を知る。イエスも家族の中で父である神を知った。3年間の公生活でも、ナザレの貧しい家の中でヨセフに対して使っていた言葉を使って、父なる神にアッバと語りかけ、祈る時にはこの言葉を使うように私たちにも言われた。なぜか。男女の愛、親子の愛、祖父母への愛は神の愛にいちばん似ているから。私たちが神から受けた愛、神に返す愛は抽象的な愛ではなく、具体的に経験することができる。そして赤ちゃんを抱いて撫でるように習うことができる。
 第三に、教皇フランシスコはいつくしみの特別聖年を宣言した。それは私たちがあわれみ、やさしさ、慈悲の再教育を受けるためであるが、聖家族こそいつくしみに溢れるところである。愛するということは夢に満ちたロマンチックなことではなく、人に尽くすことである。同時に、互いに憐みを感じたり示したり、相手に謝ったり相手を赦したりすることである。私たちの家族は不完全である。聖家族でさえそうだ。今日のルカの箇所にあるように、マリアもヨセフも神に「はい」と答えたのに、イエスが自分の道を行ったとき理解せず、マリアはイエスを叱った。別の箇所でも、家族はイエスが「気が変になっている」(マルコ3・21)とさえ思った。私たちの家族も同じ問題を抱えている。例えば子どもが神から呼ばれて自分の道を歩こうとするのに、家族が反対し、むしろ利益や名誉になるような就職や結婚を強制する。今日は、私たちの不完全な家族が神の恵みによって人の役に立つことができるよう祈りたい。

両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた(福音主題句 ルカ2・46)

福音について

ルカは奥深い神学者である。道の途中で見失われた「三日の後、神殿に座っている」少年イエスのエピソードを物語りながら、未来の受難の「三日の後」イエスが神の本当の子としてその右の座に「座って」いることを私たちの心に前もって響かせたいのだ。子供を見失ったマリアとヨセフの辛い経験(彼らは少年イエスの言葉をまだ理解できなかった)は、イエスの最初の弟子たちの経験を意味する。そしてさらに、個人として、また共同体としての私たちの弱さと未熟さを意味する。彼らのまだ完全でない信仰に、そして私たちの罪と弱さにも驚くことはないとルカは言う。イエスを発見する道はまだまだこれから、イエスの「現れ」と私たちの癒しの旅路は始まったばかりと。今日、ルカは愛を込めて私たちに勧める、神の恵みと知恵に包まれて私たちのうちで生長しつつあるイエスに目を向けるように。イエスに近づく人は毎日、新しい喜びと深まっていく美しさを経験するように呼ばれている。イエスの後に歩く人は、生活の困難、迫害と病気の中でも、またどのような弱さと罪にもかかわらず、いつでも世界一幸せだ。その人の眼は神を見る。


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