主の洗礼

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた (福音朗読主題句 ルカ3・21より)

 他の福音書と違って、ルカ福音書におけるイエスの洗礼物語は短い。ルカは、洗礼者ヨハネとイエスの会話を報告したり、洗礼の具体的な様子を描写するのではなく、出来事の内面的な意味を強調する。そこにはいくつかのテーマがある。

 第一に、天が開かれたこと。ちょうど新しい一日の美しい景色に向かって窓を開くように、あるいは走ってくる幼い子どもをお母さんお父さんが両手を開いて迎えるように、あるいは恋人が愛する者を受け入れるように、何千年も前から閉じられていた天が神の愛情によって開かれる。

 しかし、第二に、天が開かれたことも中心ではない。中心は聖霊が降ること。これがルカにとってのイエスの洗礼のポイントである。聖霊とは父なる神の息である。ユダヤ人にとって、聖霊という言葉には深い意味があった。それは天地創造の前に水の上に漂っていた霊を意味し、洪水の後に水の上に飛び再生を知らせた鳩を意味する。その聖霊がそれまでになかったぐらい命を呼び戻し、新しい春を告げるために降ったのだ。

 そして、第三に、印象的なのは、この短い箇所がミニアチュール(細密画)や宝石のように福音の全体を含んでいることである。つまり、この箇所には三位一体がコンパクトに啓示されている。つまり、声は父なる神、イエスは子なる神、鳩は聖霊である。そして、イエスが人の罪を自ら背負う神の子であることもほのめかされている。

 最後に、イエスに起こったことは私たちにも深い意味がある。その声は私たちの洗礼の時にも聞かれた声である。その霊は私たちの洗礼の時にも送られた霊である。そして、信仰によってイエスにつながることで、私たちも神の子となることができる。私たちは、イエスのように神の実の子ではなく被造物だが、信仰によって神の実の子を抱くことで、神の子になることができる。そして、父なる神と似た姿となり、父なる神のようにすばらしい愛の行ないができるようになる。

 

 洗礼者ヨハネはたとえば仏陀のように偉大な宗教者であり行者であり人格者だった。宗教的な権力と肩書もなく、その心の清らかさとその生活の正しさには多くの人が心を引き寄せられ水と回心の洗礼を受けていた。だから、彼が救い主でないかと誰もが考えていた。イエスも彼を愛し、彼の弟子たちが来たときには、彼を大いにたたえた。確かに、洗礼者ヨハネは旧約時代のすべての預言者の中でキリストに一番近く、キリストの道を用意する人物であり、花婿の友だった。しかし、彼は救うことはできなかった。私たちが神の国に入るのは道徳や正しい行いによってではなく、永遠のはじめから神に愛され救われているから。その愛はイエスの洗礼によって明らかになったのだ。

 毎朝、目を開けて、神の世界に心の窓を開き、祈りに自分をゆだねる時、その声が私たちの上にも響く―「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」。父なる神のように愛の働きをする心が私のうちに生まれるのはそこからなのだ。


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