年間第2主日

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた(福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

  ヨハネによる福音書はさまざまな象徴(シンボル)の下にさまざまな神学的意味を含む神秘的な福音書。ヨハネは幼子イエスについては何も語らずに、よく知られた序章と洗礼者ヨハネの証しのすぐ後に、イエスの公生活の始まりを報告して、弟子たちに囲まれたイエスを荘厳に登場させる。そして今日の箇所の最初の「しるし」によって、私たちをいきなりイエスの秘密に導く。
 「3日目」。その前にも3日間の出来事について報告されているから、合わせて6日間になる。6日間とは、聖書では重要な意味がある。世の創造は6日間でなされ、6日目は男と女が創造され、7日目は創造を終えた主に捧げられた一日だから。今日の出来事は、7日目の直前に起こるから、イエスの登場は新しい創造の前日、新しい契約の曙だとヨハネは私たちに言いたいのだ。このような箇所を黙想することは私たちにとっても大きな喜びに溢れ非常に意味深い。
 「婚礼」は旧約聖書で同じように非常に重要である。婚礼は人間の結婚の儀式であり、結婚とは男と女が結婚することだが、旧約聖書では、男と女のあいだに行われる婚礼が、神と人間、神とその民の契約の比喩となる。神は花婿、聖なる民は花嫁にたとえられる。
「ぶどう酒」も旧約聖書で重要な比喩(例えば雅歌1・3「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」)。ぶどう酒は、いっしょにいるときの喜びや愛を意味する。喜びや愛は、生活の合理的な営みよりも、生活に意味を与えることであるが、ぶどう酒はそのような、合理性を越える価値を意味する。それがなければ、祝い日や祭りを喜ぶことはできず、その美しさは消え失せる。
 「マリア」は、ヨハネによる福音書では二ヶ所にだけ登場する。それはこのカナの婚礼の時と十字架の時である。つまり、マリアはイエスが公生活を始める時とその役割を完成する時に出てくる。ヨハネは神学的な意図をもってその福音書の最初と最後にマリアの役割を入れている。
 「婦人」という言葉は、日本語ではていねいな言葉だが、ギリシア語では「女」という言葉が使われている。自分の母親を「女」と呼ぶのは外面的に見れば失礼だが、そうではない。ヨハネはこのような言葉使いで、マリアをイエスの母としてだけではなく、新しいイブとして、神とその民の婚礼の時における新しい花嫁として示している。最初のイブは忠実を守らなかったが、新しい契約の時にマリアがその忠実を守ったわけである。マリアは完全に神のみ旨を果たした方だから。マリアはイエスの母であると同時に教会を意味する。
 「わたしとどんなかかわりがあるのです」という表現について聖書学者たちはいろいろな解釈をするが、外面的にどんな関係があるかという意味ではない。ユダヤ人たちは、問題が起こると、それを解決するために、互いのあいだで共通することを思い出すが、そのことを意味している。「わたしの時」とは、ヨハネの言葉使いでは、福音書の最後に出てくる時、イエスが十字架の時に死んで私たちを救う時である。

 「水がめ」はふつう焼き物だったが、ここには「石」とあり、十戒が刻まれ契約を意味する石を思い出させる。水がめが「6つ」というのはやはり新しい創造の数字。完全な日はまだ現れていないが、その直前、その曙だということ。清めの水で一杯であったはずの水がめが、空だったのは、係りの人がぼんやりして入れなかったから。人間はぼんやりして、大切なことを忘れ、意味のないつまらない生活を送る。それは人間の罪である。水がめの中に入れられる「水」はイエスによって私たちに与えられた神の恵み。私たちの空っぽの心を縁まで満たすほど入れられる。水は命のために基本的なものだが、ヨハネによる福音書ではイエスがよく水にたとえられる(たとえばサマリアの女)。
 しかし、救いが行われるためには、神の行いだけでは十分ではなく、「召し使い」が必要。「召し使い」という言葉はマリアも自分について使った(ルカ1・38「わたしは主のはしため」)。「召し使い」とは、イエスを信じてその言葉通りにする人。そこには、信仰という、ヨハネの典型的なテーマが出ている。イエスを信じて言われた通りにすると、救いが可能になる。
 「くんで」。イエスは私たちの心に、赦しや救いの希望を起こしてくださるから、イエスの言葉という冷たい水を空っぽの心に入れると、そこから汲むことができる。
 宴会の「世話役」とは、ギリシア語では「大祭司」と似た言葉。つまり、民に対し、教会に対し何らかの形で大祭司のような役割を果たす人を意味する。しかし、その世話役はするべき仕事をちゃんと果たさなかった。ぶどう酒を用意することもせず、ぶどう酒がなくなったことにも気づかず、ぶどう酒に変わった時にも何が起こったかわからないし、新しいぶどう酒がどこから来たかわからないという、頼りない世話役だ。世話役だけでなく、招待された人たちも、花婿でさえ、何も気づかなかった。わかったのは弟子たちと召し使いだけ。ヨハネは、イエスが「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」という序章の箇所をほのめかしているかもしれない。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと出て来る。イエスのすることが人はわからない。
 よく知られていることだが、ヨハネは奇跡という言葉を使わない。奇跡という言葉は外面的だが、ヨハネが使うのは「しるし」という言葉。しるしは、外面的なことより、心の中のこと。神が働いていることに心の深いところで気づくこと。
 この不思議で美しい物語でヨハネが言いたいのは、今日(ヨハネの大切な言葉)こそ私たち一人一人にとっても大切な「時」だということ。私たちの生活の中に、私たちの周りに通りかかるイエスのしるしをよく読み取り、そのために神を賛美したい。

(画像は、ヘラルト・ダヴィト「カナの婚礼」、1500年頃、ルーブル美術館)


Since 14 Sep 2013