四旬節第4主日

 

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15・2より)

 

 放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえ話の中でもっともすばらしいたとえ話だ。しかし、このたとえ話にはさまざまなニュアンスがある。そのニュアンスはどの登場人物に自分を置くかによって異なる。
 例えば、放蕩息子の立場から読むなら、どんなに悪いことがあったとしても神から愛されているという慰めを受けることができる。大袈裟なほどの愛情をもった父親の姿をしているのがイエスにとっては神である。しかし、人間――あるいは人間に嫉妬して(人間の不幸よりむしろ)人間の滅びを願う悪魔――は正義を口実として、仇討ち、復讐を果たそうとし、神のイメージをもゆがめる。そして厳しく冷たく情にほだされない裁判官として人間を滅ぼす神のイメージを作り上げる。そのような残酷な神に対してイエスが宣言するのがあわれみとやさしさ(教皇フランシスコの言う「テルヌーラ」)のある父である神である。だから、どんな時代のキリスト者もこのたとえ話から慰めを受けていた。

 

 他方で、このたとえ話には、私たちにとって受け入れにくいところがある。ルカはその福音書第15章で、3つのたとえ話(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)に先立って、イエスがたとえ話を語ったきっかけを私たちに伝えている。つまり、罪人と食事をしているイエスにファリサイ派が文句を言ったのがそのきっかけである。だから、ルカの意図は、私たちが放蕩息子の立場よりも、またよき父親の立場よりも、兄の立場から読むことにある。ルカは兄の回心をねらっており、このたとえ話を読む私たちをも回心させたいのだ。ところが、それがなかなか受け入れにくい。
 イエスが私たちに伝えるのは神との和解であり、私たちの再生である。それは私たちの能力やよい生活やよい行いによってではなく、神の恵みによってのみ可能である。イニシアチブは神にある。ファリサイ派の間違いはそこにあった。彼らは最終的に自分の力で、自分の正しい生活、自分の道徳的な生活で救われると思っていたのだ。しかしながら、罪人である私たちは最初に神から赦されたからこそ、再生が可能である。ベネディクトが言う通り、キリスト者はいつも赦された者なのだ。
 ルカがその福音書のさまざまな箇所で述べるように、神は救いの食卓に私たちを招く。その食卓につくことができるためには深い変化が必要である。ところが、私たちは(聖人であっても)毎日少なくとも7回罪を犯して、神のあわれみが必要な状態なのに、間違いをしてしまう兄弟をなかなか赦すことができない。弟が家に戻ったときに、無事に戻ったのだから喜びなさいと神が私たちに言うのが典型的な不正義に見える。結果として、弟に会いたくもない、弟のそばに座りたくない。そして自分も救いの食卓につけない。
 特にいつくしみの聖年にあたり教皇フランシスコもこのテーマに触れている。また洗礼に向かう求道者にとって、またイースターに向かうキリスト者にとってこのような読み方が非常に大切だ。
 主の祈りにあるように、私たちは兄弟を赦す限り、赦される。相手に心を閉ざし、相手を審判しようとする心から立ち直るように新しい心がイエスから与えられるよう祈りたい。
  放蕩息子の兄が父親に言われて命と喜びの祝宴の場に入ったか、私たちは知らない。イエスもルカもそれについて何も言ってくれていない。たとえ話は途中で終わるようだ。たとえ話の本当の結末は私次第なのだ。

(画像は、レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」、1666-68年、エルミタージュ美術館)


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