四旬節第5主日

 

罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい (ヨハネ8・7より)

 

求道者が受洗に向かって、そして求道者も信者も復活祭に向かって準備する四旬節。解放と赦しを求める求道者と信者に教会は第5主日の今日、福音書の特別なページを手渡す。それは、神の驚くべきいつくしみを知ることができるページである。
1.状況はこうだ。イエスを殺し、その権威を失墜させるきっかけを探す律法学者とファリサイ派。そんな彼らにとって絶好のチャンスが訪れた。朝早く若い女性が姦通の場で捕まえられたのだ。モーセによると、こんな女は石打ちの刑で殺せと書いてあるが、どう思うかという問いを携えて彼らはその女をイエスのもとに連れて来るが、それは罠である。なぜか。イエスがモーセの掟に賛成するなら、人々は失望し遠ざかるだろう。これまでは憐れみの話をしていたのだから。逆にイエスがこの女を解放するように言うなら、律法に反したことを言ったイエスを神殿に訴えることができる。どちらにしてもイエスは窮地に陥るだろう。
2.このページを書いた福音記者(聖書学者はルカとも推測する)が伝えるイエスの姿は非常に印象的である。イエスは沈黙し、言葉を使わない。騒ぐ代わりに、体をかがめ土に指で書く。特に目立つのは、ファリサイ派のように、人のプライベートな生活に好奇の目を向け、訴えの種にする宗教をイエスが拒否すること。そして、殺される危険があるのに、彼ら自身の罪を堂々と指摘する勇気である。
3.注意すべきなのは、イエスが彼女の罪を弁明していないこと。彼自身は愛について、結婚について高い理想を抱いている。しかし、こういうことに関する間違いが大きな苦しみをもたらすこともよくわかっている。イエスにとって、神からいただいた掟は、相手を裁き傷つけるためのものではない。それは、皆が同じように神から赦しを得て救っていただかなければならないことを知るためのものだ。これがイエスの考えである。
 
4.イエスは、訴える人の心の中にある嘘を掘り出す。彼らは、自分を民の霊的指導者に見せようとしたが、人を死に導く悪魔の家来だった。その証拠に、この女性だけではなく、イエスをも殺そうとしていた。彼らは癒しや救いを求めるのではなく、復讐などの思いにとらわれていた。それに対して、彼らの罪を知るイエスの自信あふれる言葉(「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」)の前で、彼らの嘘はばれて一人一人去っていった。
5.イエスと女性の会話はとても美しい。それまでは身をかがめていたイエスがこの女性の前に立って、この女性に尊敬を示す。彼女の顔に何があったか―死の恐れか、罪の悲しさか、驚きかー私たちは知らない。とにかくイエスはこの女性を叱らず、放蕩息子の帰りを迎えるお父さんのように受け容れ、回心を勧めることさえしない。この人の未来を見て、救いの命を彼女に勧め、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言うだけなのだ。イエスは、人に石を投げて殺す預言者ではなく、愛である神のメッセンジャーとして自分の言葉を食べ物として与える。
6.イエスは今回も敵の罠から逃げることができた。しかし、イエスの教えを理解するのに苦労したのは敵だけではない。初代教会の信者たちもそうだった。姦通の女にイエスが与えた赦しは、いろいろな人にとってスキャンダルだった。その結果、長いあいだ(聖ヒエロニムスに至るまで)このページが聖書から省かれ、典礼でも300年ほど使われなかった。アウグスチヌスが言うには、本当の信仰を知らない人たちがこのページの意味を勘違いして、写本から隠したと(『ヨハネによる福音書講解説教』第33説教5)。イエスのいつくしみとあわれみは敵にとってだけではなく、キリスト者である私たちにとってもいつでも信じられないほど大きい。特に私たちが自分の罪を忘れるときの神のあわれみといつくしみは私たちの想像を越えている。

(画像は、アントーン・ヴァン・デン・ウーヴェル「キリストと姦通の女」、17世紀、ゲント聖バーフ大聖堂)


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