復活の主日

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)

 キリスト者として心を整える長い四旬節と聖週間の後、50日間に及ぶ長い復活節が始まる。それは復活したイエスとともにいる期間である。いつものように教会は私たちのために聖書の豊富な箇所を選んで用意する。それによって、また私たちの心にあることによって私たちは、イエスが復活して生きているとはどういうことか、復活したイエスが私たちの生活にどんな役割を果たしているかを悟ることができる。
 今年の復活節第一主日の福音書はヨハネ福音書の箇所。ヨハネは「復活」という言葉をあまり使わないが、復活したイエスについて他の福音書の倍ぐらい書く。復活の後にイエスが弟子たちの中に生きていることを中心にした他の福音記者と違って、ヨハネが強く出すのは死に打ち勝ったキリスト、十字架上で神の栄光を顕し父なる神の本当の子として天に上るキリストである。それはヨハネ福音書の最初のページから繰り返し出てくるテーマである。
 今日の箇所を含む20章には4つのエピソードがある。ペトロともう一人の弟子、マグダラのマリア、弟子たち、そして最後はトマス。この4つのエピソードによってヨハネは復活したイエスのしるしを示し、復活したイエスに出会うように私たちをも導こうとしている。十字架の大きな苦しみ、その挫折とスキャンダルの後に、生きているイエスを発見するにはどうすればいいかを教えてくれているのだ。
 今日の箇所は旧約聖書へのさまざまな示唆が含まれる神学的な物語であり難しいが、同時にそこからいろんな結論が出て来るすばらしい物語である。「朝早く」――他の福音書ではそうとだけあり、曙を意味するが、ヨハネ福音書では「まだ暗いうちに」とあり、夜を意味する。夜のうちに探し求めるとは雅歌の花嫁を思い出させる。花婿を見失い、絶望して、花婿を探す花嫁(雅歌3・1-3)。まだしるしは何もない。まだ信仰の目が開かれていない。マグダラのマリアは石がとりのけられているのを見て、誰かが盗んでしまったと思うほどだ。
 彼女は「走って行って」、ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子に知らせる。聖書学者が強調する、急いで走ることは、初代教会の時代も、そしてこんにちも、イエスのしるしを探し求めることを思い起こさせる。イエスを探し求める教会の態度はさまざまである。マリアのような愛情を込めた態度、ヨハネのように神秘主義的直観的な態度、ペトロのように鈍感で遅く確認する態度。ただいっしょに走る。みんながイエスについて悟ったことを教会の中でお互いに分かち合いコミュニケーションをとって、それぞれのカリスマによってお互いに助け合うことが大切だと今日の箇所は教えている。
 「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」。それはヨハネだと100年後の教父たちは言ったが、当のヨハネ福音書には名前が挙げられていない。イエスが愛した弟子とは本当の弟子のこと。だから、それは私たちでもありうると聖書学者は言う。最後の晩餐の時にユダの裏切りに気づき、ペトロが否認しても十字架の下までイエスのそばに残り、母を引き取る。今日の箇所でも次の21章のティベリアス湖でもペトロより先にイエスに気づく。イエスに出会うときに迷いなしについていき、寝ることも忘れ、イエスの敵もわかるほどイエスを愛し、そして必要なときに命を捧げる。私たち自身もそうであるように勧められている。
 9節の印象的な言葉「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」には大切な示唆がある。イエスはどこに行ってしまったかと教会が迷うとき、大切なのは聖書である。ヨハネ福音書が書かれた時代は、イエスの生き証人たちの時代が終わったあと、イエスに直接に会った人がいない時代。私たちの時代もそうである。けれども、聖書がイエスを見分けるための大きな力になる。だから、私たちも聖書を愛して、聖書の言葉を黙想したり祈ったりする道を今日の福音書は強く思い起こしてくれる。

(画像は、フラ・アンジェリコ「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」、1438-1440年、サンマルコ修道院)


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