復活節第二主日

信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)

 復活から昇天を経て聖霊降臨に至る復活節の50日間は、教会にとって一年で一番大切な時節。新約聖書だけが使われるなどいろいろな特徴があるが、イエスの復活を知った弟子たちの物語を通じて、私たちもイエスの復活を経験することができる。そこにはいろいろなエピソードがあり、違った角度からイエスの復活を経験することができる。

 今日は復活節の7つの日曜日のうちの第2の日曜日。二つのエピソードがある。いずれも復活したイエスが弟子たちを訪れる。

 最初は復活の日と同じ、安息日の翌日のこと。イエスは弟子たちがいるところに立つ。以前のイエスが戻ったようだが、そうではなく、復活したイエスが立っていた。その時、二人の弟子(ユダとトマス)だけはいない。

 ヨハネが言う「ユダヤ人」とは、信仰のない人たちのこと。弟子たちは恐くてドアに「鍵をかけ」たまま、外に出る勇気もなく家の中に閉じこもっていた。それはまだイエスが復活したことがわかっていない状態である。そういうときに、イエスが来て、文字通り彼らの真ん中に立って、「手とわき腹」を見せる。手の釘の跡とわき腹の傷のしるしはヨハネにとっては過ぎ去った過去の出来事ではなく、愛のために死んで復活したイエスの核心である。それは力強いしるしである。「手」は、聖書のいろんな箇所に出て来る神の手(創造する手など)を思い出させる。福音書にもいろんな箇所にイエスの手(盲人を癒した手、子供たちを抱いて祝福した手など)が出て来る。それは神の働きを意味する。そこに喜びのモチーフがある(「弟子たちは…喜んだ」)。

 そしてイエスが挨拶する。ミサが始まるとき残念なことに「こんにちは」と言ったりするが、「こんにちは」には何も意味がない。しかしイエスは挨拶する時に力を与える。「主はみなさんとともに」という入祭の挨拶は、私たちがイエスをいただくこと。

 イエスは恐れのために閉じこもっていた弟子たちを世の中に派遣する(「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」)。「息を吹きかけ」るとは新しい創造を意味する。イエスは弟子たちの上に、ちょうど世の始めに神が天地を創造したときのように、息を吹きかける(特別な言葉が使われている)。「聖霊を受けなさい」、罪を犯した人たち、間違った人たちを治し、正しい道に戻す力を与える。これが弟子たちの最初のイエスの体験であり、喜びの体験である。

 次は8日後のこと。聖書の中で有名なトマスの物語は、いろいろな解釈があり、間違った解釈もなされている。

 トマスとは誰か。ヨハネが福音書を書いた時にはイエスを知っていた多くの人が(トマスも)すでに死んでいて、そこに出て来る人物は、歴史的であるだけでなく、象徴的なニュアンスもある。ヨハネが思い出して書くのは「ディディモ」というあだ名。ディディモとは「双子」の意味であり、誰の双子かと言うと、ヨハネにとっては、私たちの双子である。つまりイエスの復活を理解するのに苦労している私たちの双子である。トマスは他の弟子と違って閉じ籠らずに外に出入りしていたが、やはりイエスの復活を受け入れるのに苦労していた。

 

 彼の間違いはどこにあったか。例えばイエスの手を見たいというのは最終的に悪いことではない。最終的にトマスが疑っていたのは仲間だ。だから、仲間といっしょにいないで、外を歩き回った。自分と同じようにイエスを裏切った仲間がイエスが復活したと言っても、彼には信じられなかった。トマスの本当の問題は共同体から離れたことだ。

 今日の第一朗読は、初代教会の四つの特徴(いっしょにいる、弟子たちといっしょに祈るなど)を挙げる有名な箇所。その箇所はトマスの問題を理解するために意図的に選ばれている。要するに、トマスは共同体から離れていたが、イエスは共同体の中に現れる。ヨハネが言いたいのは、本当のキリスト者は、たとえ共同体の中にスキャンダルや弱さがあったとしても、エリートではなく、教会のメンバーであるということ。トマスは一時的に教会から離れ、その孤独のためにイエスに会うことができなかったが、8日後に教会に戻ってはじめてイエスに会うことができた。この箇所には、脇腹に指を突っ込んだとは書いてはいない。ただトマスは目が開いたのだ。苦労したトマスは他の弟子たちより立派な信仰告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。これは新約聖書の中でイエスについての最高の信仰告白だ。

 トマスのこの物語は私たちに何を示唆するか。私たちの共同体も罪のある、限界のある共同体だ。でも、イエスを中心にして、イエスのもとに集まってミサを捧げる共同体には、イエスがそこから私たちのために現れる可能性がある。

 最後に、イエスが言う、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この時代はイエスに会った人が消えつつあった時代。それまではイエスの証人がいたが、ヨハネを最後にいなくなる(もっともこの福音書を書いたのはヨハネの弟子かもしれない)。それまではイエスに出会った人たちが目で見て証ししたが、こののち教会によるイエスの証しは目から耳に移る。fides ex audito、聞いて信じること。弱い教会、罪だらけの教会、最後までイエスを信じるのが鈍かった教会が、却ってイエスを伝えることができる。イエスを見ていない私たちはまさに人から聞いてイエスを信じることになった。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネの福音書は当初はこれで終わっており、続く21章は後からつけ足された。イエスは、弟子たちの証しである新約聖書の中にいる。そこで確実にイエスに会うことができる。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「聖トマスの不信」、マエスタ祭壇画、1308年)


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