復活節第三主日

さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)

 ヨハネ福音書は本来20章で終わる。21章は、おそらくヨハネの死後に誰かが書いたページだ。どういう人が書いたかもわからないが、大切な教えが書かれていて、古くからヨハネ福音書の最後に合わせて伝えられている。心に染み入る二つのエピソードが記された有名なページだ。
 最初のエピソードはこうだ。イエスが十字架上で死んだ後の弟子たち。エマオの弟子たちもそうだったが、絶望して自分の生活に戻る。しかし、以前とはぜんぜん違う。7人は以前にいた湖で昔からよく知っている仕事をするのに、実りがない。夢が消えてしまった真っ暗な夜の不安。
 そこにイエスの声がする――「何か食べる物があるか」。食べ物だけではなく、立ち上がるための、先に進むための支え、生きる希望があるか、というニュアンス。湖畔で火を起こして朝食を用意していたイエスは、失敗した子どもを迎える母親のようだ。イエスの言葉通りにしてとれる魚の数153(17番目の三角数、ナルシスト数など数学的にも特異な数)は、絶望を越える可能性と教会の普遍性を意味する。

 もう一つの有名なエピソードはイエスとペトロの不思議な会話。世界の歴史の中で一番美しい会話の記録だ。急いでいた(「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない」20・17)はずなのにぺトロの愛情を頼むイエス。「私を愛しているか」。3度目に聞かれて、自分の経験を思い出し悲しくなったペトロは以前と違って謙遜である。

 このことで私たちがわかるのは、ペトロのように教会の中心的な役割を果たすにしても、イエスが頼むのは知恵でも学問でも履歴書でもなく、愛情だということ。パパ様から一番小さい役割に至るまで、教会の中で何か役割を果たすための条件はただ一つだけ、イエスを愛すること。

(画像は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「ティベリアス湖畔でのキリストの出現」、1308-1311年、シエナ大聖堂マエスタ祭壇画)


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