復活節第6主日

聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)

 海に近づくと、海がまだ見えなくても潮風を感じる。ちょうどそのように、復活節第6週は、昇天、そして聖霊降臨を準備するヨハネ福音書の箇所が伝統的に読まれる。
1.今日の箇所の最初の言葉「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」は非常にすばらしいが、勘違いした読み方がよくされる。いろいろな人はそれを読んで、イエスを愛するか愛さないかは掟を守るか守らないかでわかるという意味に受け取り、脅しのように感じるが、イエスが言うのは逆だ。掟を守るのはイエスを愛する結果で、イエスを愛するからこそその言葉を守るのだ。「言葉」は「掟」より意味が広く、ヨハネの福音書によると、イエス自身が神の言葉だ。その言葉を守るとは、それに注目し、それを知りたいと思い大切にすることだが、それは愛の結果で、一番最初に愛があったのだ。イエスのぬくもりを経験し、イエスの美しさに打たれて恋に落ちたからこそ、その結果としてイエスの言葉を守ることが出てくる。だから、プロセスは逆になる。掟から愛へではなく、愛から掟へ。掟と言っても、愛があればもう外からの命令ではない。人を愛する時には、何をしたらいいか何を避けたらいいかが、外から言われてではなく、自然にわかる。そのことをイエスは言いたいのだ。
 教会の中でも私たちはよく、綺麗事として愛について語りながら、相手に厳しく、相手にルールを押し付けるという間違いをする。けれども、キリスト者にとって肝腎なことは愛から行うということなのだ。たとえるなら、暖かい春になると、つぼみが花開くように、イエスに出会いその暖かい愛情を知った人は、眠りから目覚めて、愛の行いの花を咲かせることができる。
2.今日の箇所は、イエスの最後の晩餐の時の長い話の一部だが、ヨハネ(またはその弟子)が100年頃に書いたもの。当時のキリスト者は、特別な状態にあった。まず、栄光を帯びてすぐに戻ってくると思ったイエスは戻って来なかった。さらに、異端や迫害もあった。そんな中悩むキリスト者にヨハネの福音書は答える、イエスは、あなたたちが期待するように、人を征服し圧迫する勝利者としてではなく、素朴で柔和な姿で戻ってくる、と。
 「弁護者」は「慰め主」とも訳されるが、裁判の時に味方する人、つまり訴えられた人の友達だ。イエスが言うのは結局、気をつけなさい、私は、あなたたちが思っているような形ではなく、素朴な形で、心と愛を込めた形で来る、と。つまり、イエスは、彼の言葉を思い出させる友人として来る。ここでは昇天と聖霊降臨に先だって、そのメロディーが奏でられている。イエスが見えなくても、勝利がなくても、いつでもイエスがそばにいて、その言葉が思い出され、受けた愛によって人を同じ愛で愛することを習うことができる。

(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)


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