年間第14主日

行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす(ルカ10・3より)

 主日のミサでは第一朗読と福音朗読に深い関連があるが、今日の関連は特に印象的である。第一朗読でイザヤは、絶望する民に向かって希望を語り、平和がいずれ川のように流れてくると約束するが、福音朗読でその平和が訪れる時が伝えられる。その平和は神の国であり、最終的にはキリストである。第一朗読では、赤ちゃんを膝の上に載せてかわいがり、乳房で養うやさしい母親のイメージで神の国の平和が預言されるが、その預言がキリスト自身によって実現されるのが福音朗読である。
 イエスとは誰かをテーマとする先々週の箇所、イエスの弟子になるとはどういうことかをテーマとする先週の箇所に続いて、ルカは今日の箇所で弟子のあり方をもっと具体的に説明する。今日の箇所は、イエスの弟子になるには何が必要かを知るために大切なページであり、宣教師である私たちみんなが注目すべきページである。長い箇所からいくつかの点をよく見てみよう。 
1.まず目につくのは72人の弟子たち。ルカによる福音書に突然出て来て、消えてしまう。この72人についてはルカ福音書の他の箇所にも、他の福音書にも出てこない。イエスが72人もの弟子の面倒を見るとは実際問題としても考えにくい。何のことか。
 出来事を集めてまとめるだけではなく、出来事の下にある意味を私たちに伝えようとする神学者ルカ。今日の箇所で、主という言葉を使っている。主とは、ナザレのイエスというだけではなく、復活したイエスを意味する。当時、大勢の人たちが復活した主に呼ばれ送られてあちこちで宣教を始めていた。12人の使徒たちはイスラエルに派遣されたが、ルカが意識したのはイエスのメッセージはユダヤ人のためだけではなく、全世界の人のためのものだということ。そして、72人の弟子の派遣について書いたのだ。当時の人々は世界には70の国があると考えていたし、旧約聖書のギリシア語訳は七十人訳と呼ばれる。
 その頃すでに、イエスに会った人たちがその喜びを人に伝えるために歩き回っていたが、今で言う公教要理も神学も教会の組織もまだなかったから、いろんな問題が出てきていた。ユダヤ人でない人たちにキリストのメッセージを伝えるためにどうしたらいいか。どういう態度をとったらいいか?受け容れられる時はどうしたらいいか、拒否されるときは?ルカは初代キリスト教の信者たちのこのような問題に答えて、今日のページをまとめたわけである。キリスト教はヨーロッパから一番遠い日本まで伝えられたが、世界のいろいろな国やいろいろな民族でどう宣教したらよいかはこんにちの私たちの問題でもあるから、今日のページは私たちにとっても大切である。
2.「二人ずつ」。なぜ二人か。これは大切な点である。旧約聖書の世界では、証人であるためには一人では十分ではなく、二人が必要だった。キリストの証人も同じである。私たちは自分の勝手な考え方を宣教するのではなく、教会の一員としてキリストを伝えるのだ。例えば司祭は説教の時に自分の考え方を言うのではない。司祭の一番大切な役割は神の言葉を、そして教会の心を忠実に伝えること。また今の教会は司祭だけではなく、信者も教会のなかでいろいろな役割や任務を担うが、大切なのは、たとえば集まりの時も自分の考え方がどうであるかではなく、教会がどう考えるかだ。教会の心を知らなければ、私たちは宣教のあり方を理解することもできない。教義的なことについて、または具体的なことについて教会の心を知り大切にするのが、私たちの第一の義務だ。 
3.「先に」。宣教師は何をするために送られるのか。ルカが言うのはイエスの訪れを準備するためだ。私たちが送られるのは準備するため。宣教の主人公は宣教師でも司祭でもシスターでもない、キリスト者でもなく、キリストである。キリストが大きくなって自分は消えてしまうのがミッションの役割。自分を中心にするのではなく、キリストを伝えること。キリストに人を導き、自分は引き上げること――それがキリスト者の本当の宣教である。洗礼者ヨハネが最後に、自分の弟子をイエスに送って、自分は消えたように。
4.「収穫は多いが、働き手が少ない」。宣教には、種を蒔くというイメージがある。宣教師がどこかに行って、まだキリスト教について何も知らない人に説教するというイメージ。しかし、聖書ではそうではない。蒔く人はずっと前から働いている。私たちがキリスト教を知らない人に会うとき、ゼロから始まるのではなく、ずっと前から神が働いているところで出会うのだ。例えば、キリスト教はザビエルよりずっと早く日本に伝わっている。日本神話の表現で言えば「天地初発之時(あまつちのはじめのとき)」から神は働いているからだ。ザビエルは一番最初の宣教師ではなく、収穫を始めるために来たのだ。私たちがキリストに出会ったと思った時は、ずっと前から神が私たちを導いていたことがわかる。私たちがキリストに出会う時、それまでの生活も意味があったこと、神から呼びかけがあったことがわかる。神は最初からずっと、聖書の言葉で言うと生まれる前から、私を愛していたのだと。
5.「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」。このたとえはわかりやすい。狼は恐ろしい動物で、羊は動物の中で一番無防御だ。だから、自分を守るために何もせず殺されたキリストは子羊に例えられる。イエスの世界の中に暴力はなく、罪人を脅していじめることはない。今日の第一朗読にあるやさしい母親のような神、私たちが離れる時も待ち続ける放蕩息子の父親のような神、狼としてではなく子羊として羊を救う神をイエスは私たちに宣言する。イエスは宣教にも柔和な道具を使うのだ。
6.「途中でだれにも挨拶をするな」。これは、根本的なことを大切にしなさいということ。信心などキリスト教の2000年の歴史にはいろいろなことがあるが、洗礼を受けて信者になってから大切なのは、イエスの教え、イエスの言葉、イエス自身をつかむこと。パパ様が最近繰り返すように、キリスト教には大切なことと、そうでないことがある。共同体の中の喧嘩はそれがわからないから生まれる。大切なことを大切にするのが大切で、それが成熟した大人の信仰だ。
7.「家から家へと渡り歩くな」。パパ様は司教たちにも言うらしい、他のもっと大きな教区を狙わず、今自分が働いているところで働きなさい、野心なしで働くように。それがキリスト者の道なのだ。
8.「迎え入れられなければ」。平和を届けるのに、人から差別され、拒否され、見捨てられて、殺されるのは、非常に悲しいが、ルカは厳しい言葉を言う。それは大切なことではない、足についたほこりも捨てて次の段階に移りなさいと。
9.「七十二人は喜んで帰って」。宣教の成功を喜ぶ弟子たちの態度はかわいい。宣教師も信仰が伝わるとうれしく感じる。でも、大切なのはそのうれしさではなく、成功でもない。成功のない時もあるのだ。成功したからではなく、「あなたがたの名前が天に記されていること」。これはすばらしい。神は私たちのことを一切忘れない。
 自分の家族、自分の国を離れて生活する宣教師は羊のように弱い。みんなから攻撃されても、自分を防御することもできない。そこでイエスは言う。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10・42)

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