年間第15主日

旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカによる福音書 10:33-34より)

 先週の福音書と今週の福音書のあいだで一つの箇所が省かれている。先週の箇所では、弟子たちが布教から戻って、自分たちの行いなどをイエスに報告していた。しかし省かれた箇所によると、その時イエスは父なる神に向かって喜びにあふれて感謝の祈りをする。だから、よい雰囲気だったが、今日の箇所で突然、難しい問題が投げかけられる。 
 今日の箇所は、ルカ福音書の中でも非常に有名であり、私たちにも慰めにも知恵にもなる箇所であり、二つの質問からできている。 
 「律法の専門家」。イスラエルの掟はもともと10しかなかった(十戒)が、律法学者は10の掟から613の掟を作りだした。彼らにとっては掟が中心であり、それについて議論し合い、自分たちの利益のためには基本的なことも無視し、律法について無学な人を軽蔑していた。 
 「試そうとして」。その人は、イエスが考えを知ることにではなく、イエスの弱点を見つけることに関心があった。 
 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。今日の箇所のポイントとなる二つの質問のうちの第一の質問だ。表現は違うが、どの掟が大切かを尋ねる質問である。 
 律法学者たちとイエスには大きな違いがある。彼らは掟を増やすのが趣味だが、イエスは逆だ。いつも根本に立ち返り、神に遡る。今日の箇所でもそうだ。旧約聖書の二つの箇所を引き合いに出した律法学者を正しいと判断して、イエスは言う。 
 「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。これで、イエスを罠に落とそうとした人が逆に自分の罠に落ちることになる。試される立場だったイエスがその人を試す。その人は困って、ふたたび知るためよりも、逃げるために質問する。 
 「わたしの隣人とはだれですか」。これがポイントとなる第二の質問だ。これは律法学者たちにとって逃げるために便利な質問だった。彼らは当時多くのケースについて論じ合っていたが、その中には「ユダヤ人が道端で死にそうなサマリア人に会ったらどうしたらいいか」という問題があった。この問題に対する律法学者たちの解答は「触ってはいけない」だった。なぜなら、そのサマリア人は二つの理由で汚れているから。第一に、血がついているから。第二に、異端者であるから。つまり、律法学者たちの考えでは、助けるべき隣人は自分の家族や仲間、自分の民であって、そうでない異邦人は触れてはならない者だった。
 ここで印象的なのはイエスの逆転的な立場だ。イエスにとって隣人とは、仲間など自分の利益になる人ではない。苦しんでいる憐れな人、助けを必要としている人が隣人である。イエスは、7つの言葉でサマリア人のやさしさを記述する。「憐れに思い」「近寄って」「傷に油とぶどう酒を注ぎ」「包帯をして」「自分のろばに乗せ」「宿屋に連れて行って」「介抱した」。 
 イエスの返答は革命的であり、そのたとえ話はスキャンダルである。当時の宗教者はその神学のために神の御旨が見えなくなっていた。これに対してイエスは言う、憐れみが神の心だ、あなたもそうしなさいと。 
 教皇フランシスコはこの箇所を解釈して言う――エルサレムからエリコへの道で半殺しになっていた人がいたが、それは私だったと神は言う。お腹を空かしていた子供がいたが、それは私だったと神は言う。誰も受け容れようとしない難民は私だったと神は言う。誰も訪問しない老人ホームの老人は私だったと神は言う。病院に誰も見舞いに来なかった病人は私だったと神は言う。 
 名誉教皇ベネディクト16世にも今日のたとえ話について長いページがある。彼は言う――イエスの言葉を黙想した教父たちにとっては私たちの隣人になったのは誰よりもイエス自身だ。特にミサの時はキリストが中心だから、教父たちのこういう解釈はまちがっていない。 
 最後に、今の私たちの心にも深く響く言葉がある。エルサレムとエリコのあいだ、27kmの長いくだり道に、傷つけられた人をサマリア人が運んだと言われる場所が今でもある。その場所には、中世の一人の巡礼者が石に刻んだ素晴らしい言葉が残っている。その言葉はこうだ――たとえ大祭司とその家来のレビ人が苦しんでいるあなたを通りすぎるとしても、絶望するな。イエスが本物のよきサマリア人であることを知りなさい。イエスがあなたを憐れんで、臨終の時に必ず自分の永遠の宿に泊めてくれる。

画像は、ペレグリン・クラベ・イ・ロケ「よきサマリア人」、1838年、聖ジョルディ・カタルーニャ王立美術アカデミー所蔵


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