年間第17主日

求めなさい。そうすれば、与えられる(ルカ11:9より)

 イエスの祈りを他の福音記者より強調するルカ。その福音書には7回、イエスの祈る姿が出て来る。イエスは、1.「洗礼を受けて」、2.らい病人の癒しの後に「人里離れた所に退いて」、3.12人の使徒を選ぶ前に、4.「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねる前に、5.変容の時に、6.今日の箇所で、7.ゲッセマネで、祈っている。いくつかの短い祈りも出て来るが、非常に印象的で感動させられるのは、十字架上の二つの祈りだ。「父よ、彼らをお赦しください」(23・34)、そして最期に「わたしの霊を御手にゆだねます」(23・46)。ルカ福音書では、イエスの全生涯は祈りと結びつけられ、イエスは祈りのマイスター(達人、師)として描かれる。 
 今日の箇所は、ルカによるイエスの祈りのカテケージスと呼べる箇所だ。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子たちはイエスに、その祈りの秘密を顕すように願う。イエスがどう返事するかに私たちも大きな関心がある。なぜなら、私たちはどう祈ればいいかもわからないから(ローマの信徒への手紙8・26)。 
 そこでルカが短い形で私たちに紹介する主の祈りは、洗礼の時に荘厳な形で私たちに手渡される祈りであり、キリスト者にとって大切な宝物だ。注意すべきだが、祈りとは言っても、アヴェ・マリアの祈りやさまざまな意向の祈りのように一般の霊的な生活の中で使われる祈りとは違って、人間が作って口先で唱えるような祈りではない。それは、信仰宣言symbolumに並ぶべきものであり、イエスの生涯のコンパクトなまとめであり、祈りの形になった福音書である。父である神と私たちに対するイエスの関係を最高の形で表現する祈りであり、私たちの生活の中に溶かして効かせるべき薬のようなものだ。たとえば町を案内するガイドブックが小説のようにテーブルに座って読む本ではなく、知らない町の中を歩きながら行き先を知るための本であるように、主の祈りは、一般の祈りのように座って唱える祈りでなくて、未知の信仰世界の中に生活し、さまざまな出会いの中で生き方を習うための祈りである。この祈りに導かれて、私たちはこの世で神の子として生きることができるのだ。 
 イエスの返答の中では、三つの動詞が使われている。「求める(頼む、乞う)」「探す」「叩く(ノックする)」の三つだ。この三つの動詞を使って、祈りの忍耐が表現されている。祈り続けなければならない。求め続け、探し続け、叩き続けるなら、必ず叶えられる。神の答えるのが遅いのではなく、神の計画に心を合わせるのがなかなか難しいことだから。祈りがそのために役立つ。だから、気を落とさず、長い忍耐をもって、祈り続けるべきだとイエスは答える。癖だらけの人間の父でも自分の子供によいものを与えるなら、天の父は当然、賜物を自分の子供たちに与える。そして、父なる神からの祈りへの一番大きな報いが聖霊の賜物なのだ。
 ここからわかるのは、イエスにとって祈りがどういうものかだ。祈りとは、父なる神に自分たちの意志を押しつけて神を動かす道具ではなく、神の御旨(意志)に一つになって、その救いの計画に自分たちを委ねるための手段なのだ。だから、祈りとは、神頼みじゃなく、神の御旨に一つになること。「異邦人」の祈り、一般の祈りは、神を自分の思い通りになる奴隷のように扱うが、イエスの祈りは、子のような心を持って神とひとつになることだ。神の実の子であるイエスの教えた祈りによって、私たちも神の子として祈ることができる。 
 今日の箇所のたくさんのポイントの中で印象的なのは、イエスが使う一つの短いたとえ話だ。真夜中に訪れる友人に起きてパンを貸す人。つまり、人間は困ったときも見捨てられているのではなく、友人である神は、起きるのが遅く見えても、最終的に私たちに恵みをくださるのだ。私たちは神からの恵みを友人のために願うことができる。主の祈りで私たちは、自分の父であるだけでなく「わたしたちの父」である神に祈り、神の国が来るように祈り、人を赦すために祈る。イエスの祈りは自分一人のための祈りではなく、愛である神と私たちが愛する人のあいだにある祈りだ。イエスが教えたように祈る人たちは、愛の世界の中に生きている。 
 今日の日曜日は年に一度、主の祈りを学び直すように教会が私たちに勧める日曜日だ。洗礼を受ける時、私たちは主の祈りについて説明を受けたが、例えば『カトリック教会のカテキズム』を使って、そのすばらしいまとめを改めて勉強すればよいだろう。

画像は、ジェームズ・ティソ「主の祈り」、1886-1894年、ブルックリン美術館。


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