年間第23主日

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14・33)

 「大勢の群衆が一緒について来た」。教祖や政治家なら、大勢の人たちが後についてきたら喜ぶだろう。しかし、人気も栄誉も権力も求めず、弟子のグループにも小さい群れとかからし種、パン種という言葉を使うイエスは喜ぶ代わりに疑問を抱く。本当にこの人たちは私のメッセージをわかっているのか、と。だから、「イエスは振り向いた」。イエスの眼差しについては福音書のいろいろな箇所に書いてあり、私たちはイエスの眼差しを想像できる。何かに燃えて話そうとするイエス。イエスがどういう方か、イエスの後に続く私たちが弟子としてどうあるべきかを伝えるためにルカは今日のエピソードを使うのだ。
 先週の日曜日の箇所でルカは弟子のあり方について特に二つの点に触れた。その一つは、本当の弟子は自分が目立ったり名誉を受けたりするために婚宴(神の国)を使ってはいけないということ。もう一つは、貧しい人たちを人間的な基準ではなく、キリスト的な価値観で判断すべきということ。 
 そして、今日の箇所には、宝物になる別の三つの言葉がある。その言葉には、私たちをおじけづかせるほどの厳しさもあるが、時間をかけてじっくりと調べ理解しなければならない。そして、イエスのこういう言葉にこそ、私たちのこの世の生活をすでに神の国の生活に変える力があるのだ。
1.「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。この言葉は私たちを驚かせるし、十分に理解しないと危険でさえある。私たちの生活には愛情や家族などすばらしい賜物があるが、この言葉はそれを否定するように感じられるからだ。しかし、イエスが宣言する神は、私たちが孤独な生活を送ることを願う神ではない。ルカがここで「憎む」という言葉を使って言いたいのは「(私より)もっと愛する」(マタイ10・37参照)ということだ。つまり、イエスが言うのは、父母は素晴らしい存在だが、あなたが私を愛し、私の声を聞くなら、もっと深い愛を生きることができる、あなたの生活が神の国になることができるということ。
2.「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。この言葉を読むとき、幼稚な考え方をしてはいけない。ここでイエスが言う十字架とは、私たち誰もが毎日の生活の中で耐えなければならない小さな苦しみのことではない。「自分の十字架」とは確かに私たちの十字架ではあるが、その基準はイエスの十字架である。それは、イエスの限りない愛を意味する。イエスが私たちのために自分を捨てた無償の愛、人に暴力を加えず人を裏切らない愛を意味する。

 イエスが十字架上で死んだのは、運が悪かったからでも敵に負けたからでもない。イエスはたまたま死んだのではなく、愛のために自ら死ぬことを選び、神の御旨を果たしたのだ。イエスは顔を固くしてエルサレムに向かったとルカは言う(9・51)。ヨハネ福音書も同じことを言う。世の中に私一人しかいなかったとしてもキリストは同じように十字架にかかっただろうと聖イグナシオは言う。今日の箇所で言われる十字架も、そのような命がけの愛のことなのだ。イエスの弟子であるためにはそのような愛を生きなければならない。 

 3.「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。ルカはその福音書の中で何度も富について話すが、理解しなければならないのは、富を捨てなさいという要求が犠牲や苦行の要求ではないということ。イエスがまず第一に望むのは、私たちが富の奴隷にならず、物質的な欲望や不安から解放され、内面的な自由をもつことなのだ。たとえばお金があるから、キャリアがあるから、人から尊敬されているから私は重要な存在だと考える間違った鎖からイエスは私たちを解放したいのだ。言い換えると、人間の本当の価値は、物を所有したり、人から尊敬を受けることによって決まるのではない。人間の価値は心の中の愛、神と隣人に対しての愛によって決まるのだ。

 

 ルカが言いたいのは、弟子であるためにはイエスを凝視しなさいということ。イエスを見続けることによって、人間は本当に自由になり、平和を受けて、平和を人と分かち合うことができるようになる。赦されて、人を赦すことができるようになる。この世の生活によって後の世(神の国)のしるしとなることができるのだ。
画像は、フィリップ・ド・シャンパーニュ「山上の説教」。

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