年間第26主日

わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(ルカ16・26)

 今日のたとえ話――金持ちとラザロのたとえ話も、初代教会の事情の中でルカによって伝えられたイエスのたとえ話であり、いつものように注意して読むべきだ。
 一方で「ある金持ちがいた」。「金持ち」とあるが、他の特徴は書かれず名前も記されていない。つまり、金持ちになるために何か悪いことをした、例えば盗んだとか税金を払わなかったとか召使いに乱暴をしたとは書かれていない。だから、こんにちで言うと、医者とか俳優とかスポーツ選手とか、キャリアを積み一生懸命働いてお金を稼いで外車などを買うような、私たちの社会によくいる人たちのことだろう。私たちはそのような人になれるし、またその生き方を認めている。他方は「貧しい人」。そこに「ラザロ」という名前が記されているだけでも、神から注目されているということだが、ラザロとはヘブライ語で「神が助けてくださる」という意味。ただし、貧しいという以外の特徴は何も書かれていない。例えば、貧しくても信心のある人とか、掟を守って神殿に行く人とは書かれていない。ラザロは祈ることもしない。だから、このたとえ話は悪い人と善い人の話ではないのだ。 
 そして、二人とも「死んで」。このたとえ話が死後について語るのは、大切なことを教えるためだ。しかしまた、天国と地獄について書かれているわけではない。つまり、このたとえ話のポイントは、天国はどのようなものか、地獄はどのようなものか、善い人は天国に行き悪い人は地獄に行く、だからこの世で善を行い悪に耐えなさいということではないのだ。
 「大きな淵があって」。それは死後の淵だが、よく見ると、この淵は金持ちとラザロのあいだに生前にもあった淵だ。その金持ちは、悪いことをせず自分の才能で金を儲けて、余った金で慈善(チャリティー)も行っていたかもしれない(ラザロは残飯を期待して、門前に座っていた)。そうであっても、金持ちの自分と貧しい人を区別していて、慈善も自分の名誉や利益のために行っていた。だから、自分を中心にして、神と隣人を忘れていたのだ。しかしながら、世界中の富は神がすべての人に与えて下さったものであり、そこに金持ちと貧しい人との区別はない。だから、金持ちが貧しい人に施しをしても、本来貧しい人に属しているものを貧しい人に返しているのにすぎない。 そのことにその金持ちは気づいていなかったのだ。
 「わたしには兄弟が五人います」。兄弟とは、ルカにとっては教会の中の兄弟のこと。イエスの弟子であるキリスト者も、富を自分のものだと考え、相手を慈善の対象としか見ない危険がある。 
 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」。神の言葉を聞いてわからないなら、どんな奇跡が起こっても何にもならない。 
 今日のたとえ話は、富についてどう考えるべきかを教えている。イエスが言うのは、この世の富は神がみんなに平等に下さったものと考えるべきということ。だから、あげる人ともらう人のあいだにも本来区別はないのだ。

画像は、フランス・フランケン二世「金持ちとラザロのたとえ話」、17世紀、フランス・カンブレー市美術館。


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