年間第27主日

自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17・10)

 旧約聖書のハバクク書は、今日の箇所の最後の言葉「神に従う人は信仰によって生きる」をパウロがローマ人への手紙のメイン・テーマにしたことで有名(1・17、ガラテヤ3・11も参照)だが、今日の箇所は印象的だ。こんにちの世界もそうだが、いろいろな災いや問題があり、なぜか、いつまで続くのかと神に祈っても答がない。詩編にもヨブ記にもそのような祈りがあり、そして最終的に十字架上のイエスもそのような叫びを上げた。ハバクク書のこの箇所は、今日の福音書の箇所とは直接の関係はないが、教会が第一朗読に選んだのはきっと、ルカ当時のキリスト教が経験していた問題と重なるためだろう。当時、迫害と殉教は始まっていたし、教会の中にも問題があった。そして、こんにちの私たちはこの箇所を読むとき、世界の中にある大きな問題を自分の祈りとして祈ることができる。 
 イエスはエルサレムへの長い旅の中で弟子たちにいろいろなアドバイスをするが、今日の福音書の箇所に先立って、イエスは、悔い改めるなら1日7回でも人を赦しなさいと言う。どうしたらそんなことができるかと心細く思う私たちへの答えとして今日の箇所がある。今日の箇所に出て来る二つのポイントはきっと、イエスが別々の時に使っていたものをルカがいっしょにまとめたものだろう。一つは信仰について、もう一つは簡単に言うと謙遜についてだ。 
1.「使徒たちが」。イエスは、先行する赦しについての箇所では、一般の人々に向かって話していたが、今日の箇所では、少数の親しい人々、教会に深い関係のある人々に向かって自分の秘密を打ち明ける。「からし種」とはユダヤ人にとっては一番小さい種だ。「信仰」にはいろいろなニュアンスがあるが、ここでイエスが言っているのは、キリスト教の要理を知り教会に行き祈りを唱えたり教会のために活動したりということだけではなく、神の愛に答えイエスに従う信頼である。「桑の木」とあるのは、ザアカイの登った「いちじく桑の木」(画像を参照)のことだという解釈もある。いちじく桑は巨大な木になるだけでなく、根が深く、きわめて抜けにくい。たとえ抜けたとしても、根っこが何百年も残る。イエスが言うのは、本物の清い信仰が少しでもあれば、私たちの家族、共同体、世界にあるどんなに根の深い問題でも解決する、だから疑わず信頼しなさい、ということ。これは、第一朗読のハバククのような祈りへの答えでもある。
 この箇所に出て来る小ささは福音書そのものの大きなテーマだ。神は小さい道具で人を救う。イエスは小さくなることによって私たちを救った。これが受肉の結論だ。イエスが選んだ弟子たちも小さきものだった。神にゆだねる心、信頼する心は、人間が考えられないほど大きな効果がある。主人公は神だからだ。だから、大切なのは量じゃなくて質だ。信仰生活も布教も、大きなイベントや集まり、騒ぎじゃなくて、本物の深い信仰が大切だ。名誉や成功を求めるのではなく、殉教者やアシジのフランシスコ、マザー・テレサなどの聖人たちのように、神との親しさや神への信頼を求めるべきだ。

2.「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」。外でずっと働いて疲れた僕に給仕をさせる主人は非情だ。ルカ自身、別の箇所(12・37)では、主人が僕のために給仕をすると言っている。これはどういうことか。

 イエスにとって弟子たちは何よりも大切な宝物だ。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マルコ10・42)と言うぐらい大切なのだ。けれども、最終的には、イエスこそ神の子でありながら人の救いのために仕える僕であり、その自分のようになるようにイエスは弟子たちに言い残しているのだ。だから、ただの報いとして何も得ないのは当たり前なのだ。例えば薔薇が咲くのは人から褒められるためではなく、それが薔薇の本質であるように、イエスの弟子の本質は僕であることだ。イエスが弟子たちに言うのは、私と同じように無心になって仕えなさいということ。「取るに足りない」とは役に立たないという意味ではなく、自分の報いのために働いていないという意味。イエスの本当の弟子は、自分の名誉のためではなく、100%神のため、キリストのために尽す者なのだ。

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