年間第30主日

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカ18・14)

 先週の日曜日に引き続き今日の箇所では、ルカが大切にする祈りのテーマがとりあげられている。先週の箇所では祈る時の神に対する態度が問題になったが、今日の箇所では人に対しての態度が問題になっている。そこに出て来る有名なたとえ話はやはりルカ特有のもので、シンプルでわかりやすいが、注意すべきいくつかの点がある。 
 二人の人物が祈るために神殿に上る。一人はファリサイ派、一人は徴税人だ。ファリサイ派の人の祈りは感謝祭(ユーカリスティア)の祈りとも言える。それはミサのように神への感謝の言葉(ベラカー)で始まるが、すぐに自分がやったことの自慢に変わってしまう。神ではなく自分が中心になるのだ。この人はただ掟を守るだけではなく、断食をはじめ何でも定められた倍のことを果たしていた。そして、この人の祈りは、自分を後ろにいる徴税人と比較し、自分がその徴税人のような生活をしていないことを神に感謝し、その徴税人を軽蔑することになる。他方で、徴税人は、ルカが細かく描くように、後ろに立って目を上げることもなく、胸を打ちながら、しっかりと神に向かっている。この人は自分の自慢ではなく自分の罪の告白のために神殿に行き、罪に対する憐れみを乞うたのだ。 
 ここで注意すべきなのは、私たちキリスト者は二千年に及ぶ聖書解釈の歴史から、ファリサイ派を悪い人と考えてしまいがちだが、そうではないということ。ファリサイ派は簡単に言えば旧約時代の「聖人」で、宗教に通じ、神を重んじ、律法を研究し、中には殉教者もいて、一般のユダヤ人の信心の模範となり、民から尊敬されていた。他方、徴税人は、理由もなく差別されていたのではなく、ルカが言うように「罪人」だった。だから、聖人・罪人についてのイエスの診断は普通の見方とは違っていたのだ。 
 イエスの診断によると、ファリサイ派のその人は大きな病気にかかっている。その人は、自分が救われ癒されるためではなく、自分が行なったよい行ないの報いを受けるために神殿に上った。つまり自分を救うのは自分の行ないだと考えていたのだ。これはイエスによると、大きな間違いだ。人間は自分の行ないによってではなく、神によって救われるからだ。よい行ないはその結果なのだ。救われたからこそ、人間はよい行いをすることができる。たとえ私たちがどんなに悪いことをしたとしても、神は絶対に忠実に私たちから離れることはない。だから、自分の罪を認める人は立ち直ることができる。
 このたとえ話を私たちは、徴税人の立場から読んでしまいがちだ。けれども、注意すべきなのは、ルカがこのたとえ話を書いたのは、罪人のためではなく、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人のためであり、しかも80年ごろの彼の共同体の問題を参考にしている。だから、こんにちの私たちも、自分の中に住んでいるファリサイ派の立場からこの箇所を読むべきだ。たとえば社会問題などで他人について厳しい判断を下し、間違った人を容赦なくけなすのが現代の風潮だ。政治家は政敵を糾弾し、教会に対する世間の攻撃は厳しく、教会内部でも互いを批判する。それは、相手によくなってもらいたいからではなく、相手に勝つためだ。相手の問題をあげつらうことで、自分を正当化するのだ。それはファリサイ派的なメンタリティの現れではないか。だから、ルカが今日のたとえ話で私たちに注意するのは、昔の問題ではなく、こんにちの私たちにもあるファリサイ派の危険なのだ。 
 キリストは罪人に対してまったくちがった態度を示す。ファリサイ派は相手の罪を厳しく告発するが、キリストはいつも相手が罪から立ち直っていくような態度をとる。ファリサイ派は相手が神に帰る道を難しくするが、キリストは相手が神に帰る道を易しくするのだ。

画像は、ベルナールト・ファン・オルレイ「ファリサイ派と徴税人」。


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