年間第32主日

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。(ルカ20・38)

 今日の箇所は、人間にとって最大の問いに答を出している箇所だ。いにしえの昔から、八百万の生き物の中で死を意識するのは人間だけ。「死んだらどうなるのか」――それは人間にとっていつの時代も大きな問いだ。さまざまな時代のさまざまな文明や文化の神話や哲学は、エジプトでもギリシアでも、中国でも日本でも、みな同じ問いに答えようとしてきた。ただし、ユダヤ人の場合、事情が少し異なる。ユダヤ人はショオル(陰府)という言葉をもっていて、人間は死んでから洞窟のように薄暗い死者の世界に入ると考えていたものの、ギリシア人のように神話や哲学という形で死後の生命について考えていたわけではなかった。そして、ダビデにも初期の預言者たちにも、死後の生命についての信仰はなかった。ところが、ダニエル(紀元前六世紀)や今日の第一朗読の七人の兄弟(紀元前二世紀)から、死後の生命についての信仰が生まれ始めており、イエスの当時ではファリサイ派がそうだった。ラザロが死んで三日経ってからベタニアを訪れたイエスに「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったマルタもファリサイ派のような死後の生命への信仰を抱いていた。しかし、その生命はまだ遠くに予感されるものにとどまっていて、証拠はまだなかった。本当の証拠となるのはキリストの復活だ。
 イエスは十字架にかけられる直前の一週間、エルサレムの近くに住み、毎朝神殿に行って、どんどん注目を集め、その最後にいくつかの議論を交わしていた。その議論の一つが今日の箇所だ。
 今日の箇所に出て来るのはサドカイ派。サドカイ派は、サドック(ツァドク)という大祭司の子孫で、祭司として神と人間を仲介し、神殿の儀式や行事を行う役目を古くから果たしていた。しかし、宮清めの事件(ルカ19・45ー46)からも伺えるように、彼らは当時、一般のユダヤ人から受け取る供え物や金銭によって金持ちとなっていた。サドカイ派は福音書にはあまり出てこないが、イエスの受難と十字架死にかかわるアンナスとカイアファの二人はサドカイ派だ。
 サドカイ派は神にかかわる儀式や行事をする祭司なのに、奇妙なことに、死後の生命を信じない。彼らにとって大事なのはこの世の生活だけだった。彼らはイエスが自分たちとは違った考え方をすることを知っていて、一つのストーリーでイエスに挑む。そのストーリーは、当時のしきたりや法律を背景としているために私たちにはわかりにくいところがあるが、今日の箇所から死後の生命について二つの大切な点を拾い出すことができる。 
 第一にイエスが言うには、この世の子らたちはめとったり嫁いだりするが、来世の生活はそうではない。来世ではそのような関係を越えて、みんな神の子であり、みんな「天使に等しい」(イソ・アンジェラス)から。
 第二に大切なのは、イエスが引用するモーセの燃える柴。つまり、イエスが死後の生命の問題に入るのは神の体験からなのだ。他のすべての民族の神は地理上の場所にまつわる神である。日本の氏神もそうだ。しかし、イエスが思い出すユダヤ人の神は、場所より、アブラハム、イサク、ヤコブの神なのだ。神はこの人たちを造り愛したから、そして愛情をもってこの人たちと接触するから死んだままにすることができない。神は死者の神ではなく、生きる者の神である。

画像は、当教会ステンドグラス「燃える柴」、2009年。


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