待降節第4主日

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(マタイ1・20)

フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
フィリップ・ド・シャンパーニュ「ヨセフの夢」 、1642ー1643年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 待降節の最後の日曜日、教会は私たちに、イエスの誕生の前に起こったことを黙想するように勧める。

 今日の箇所を理解するために大切なのは、マタイがこの箇所を、イエスの復活を体験し、イエスが誰かを知った後に書いているということ。だから、マタイが表現しているのは、生まれてくるイエスが本当に人間でありながら本当に神の子であり、預言されたメシアであること。つまり、それは復活について書かれていることと同じことなのだ。だから、今日のページは、歴史的なページである以上に、神学的なページであり、イエスを理解するために大切である。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に」。当時のユダヤ人の結婚は婚約の儀式と婚礼の儀式の二つが行われていた。その間には数週間、あるいは数か月から一年間に及ぶ準備の期間があった。一般的には、女性は13、14歳ぐらい、男性は少し上、15、16歳ぐらいで結婚していた。

 「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ヨセフがどのように気づいたのか、ここには何も書かれていない。マリアから秘密に聞かされたか、あるいはマリアの体型が変わったか、教父たちもいろいろなことを言っているが、結局のところ私たちにはわからない。ただ、ヨセフは何かが起こったことを知った。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここで私たちは、プロテスタントの影響から、ヨセフがマリアの不実を疑ったなどと心理学的な解釈をしてしまったりする。婚約者マリアに裏切られ、失望して離縁を考えるヨセフというイメージ。けれども、この箇所をよく観察すると、そうではない。

 何よりも、この箇所の「正しい人」はギリシア語で「ディカイオス」であり、大切な言葉だ。「正しい」というと、私たちは道徳的な正義を考えがちだが、聖書の世界では、神を畏れ敬い、神の言葉と働きに敏感であり、神の前にいることを感じるという意味。つまり、ヨセフは、マリアに神が奇跡を行っていることに気づいたのだ。身ごもったマリア自身もそうだったが、なぜこんなことが起こるのか、それは説明できないことで、頭ではわからないが、そこに神の働きがあると感じたのだ。そのために彼は結婚を中止して、神のわざが実現されるために自分は静かに身を引くことを考えたのだ。同時に、律法によると姦淫は石打ちの刑で殺されることになっていたから、その掟によってマリアがひどい目に遭うことを心配し、人に知られないことを望んだ。このように、二つのこと、神を敬うことと、律法の掟を守ることとのあいだで深く悩み、どうしたらいいかわからないヨセフ。

 

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。居眠りは聖書では一つの大きなテーマ。ヨセフはよく眠り、よく夢を見る人物だ。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。「恐れるな」とは聖書では大切な言葉で、イエスも何回も使っている。そして、天使の言葉は、これから何が起こるかの単なる説明ではなく、ヨセフのやるべきことを指示したのだ。

 「ヨセフは眠りから覚めると」。天使は話したが、ヨセフは何も言わなかった。聖書にヨセフの言葉は記録されていない。30年間、イエスといっしょにいたにもかかわらず、彼の言葉は一つも残っていない。ヨセフは根本的に聞く者なのだ。

 「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。ヨセフは言葉を発しないが、実行する。そして、それから死ぬまで、イエスとマリアを守る役を果たす。しゃべらず、よく歩き、よく働く。

 福音書には二つの受胎告知がある。マタイが伝える受胎告知とルカが伝える受胎告知だ。この二つは外面的には異なるが、どちらが本当かということが問題なのではない。この二つは別々の物語だが、天使は同じで、役割も同じである。要するに、受胎告知は花婿だけではなく、花嫁だけでもなく、夫婦両方になされるのだ。

 そして、どんな男女の夫婦の中にも、神が世を救うために働いている。彼ら夫婦の勇気によって神はその子を世に送ることができる。喜びと苦しみ、涙と忘我の家庭生活の中で、天がこの世に開かれるのだ。マリアとヨセフはすべてにおいて貧しかった。一時期は国を追われ、家もなく、貧しい生活を送っていた。しかし聖書が紹介するように、豊富に愛がある家族だった。ヨセフの愛は言葉の愛ではなく、行う愛だ。
 宣教を始めてからナザレに戻ったイエスに皆は言う、「この人は大工の子ではないか」(マタイ13・55)「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)。だから、ヨセフは、小さく謙遜な者だ。しかし、その中で、まことの人でありまことの神であるイエスを守り養うという自分のミッションを静かに果たすのだ。だから、彼を見るキリスト者はその役割に深く惹かれる。キリスト者の役割は、世の中にキリストを養い成長させることだから。

 教会は待降節の最後の段階に、このような心でキリストを迎えるように私たちにこの宝物のページをくださった。


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