主の降誕

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)

タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)
タッデオ・ガッディ「降誕」、1335ー40年、聖十字架聖堂(フィレンツェ)

 待降節から降誕節にかけての季節は、私たちキリスト者にとって一年で復活節の次に大切な時期。この時期に教会は、よく選ばれた聖書の言葉を使って、イエスについての教会の理解を私たちに伝える。この時期の朗読箇所にはキリスト教信仰のすべてが含まれており、十分に消化できないほど豊かだが、教会が私たちに伝えたいのはまず、ベツレヘムで生まれた赤ちゃん。私たちはその前に集まり、黙想し、祈り、楽しみ、愛するように勧められている。この赤ちゃんの背後にある大きな秘密を啓示として教会は私たちに伝えたいのだ。

 福音書記者ヨハネの言葉を借りると、「光」であるキリストは人間にとっての4つの大きな謎を照らし出す。たとえて言うなら、イエスの瞳からは4本の光線が出ているのだ。

 第一の光線は、父なる神の深みに向かう。光であるイエスは鏡として、私たちが神から愛されていること、神が遠い方ではなく私たちのそばにいることを映し出すのだ。そのことはヨハネ福音書の朗読箇所(日中のミサの福音朗読)に書かれている。「初めに言があった」。この箇所は創世記を思い出させる。初めとは、創造の前の段階のこと。創造は時間の中の出来事だが、創造の前の段階とは神の永遠のこと。つまり、すべての生けるものの前に神があり、そこにキリストがいたのだ。イスラエルの民が自慢していたように、神は無口な神ではなく、口があって語り、その言葉は口先だけではなく、生きたものである。キリストはその神の言葉なのだ。ヨハネがこの箇所で私たちに言うのは、キリストが神の知恵であり流れる命であること。そして、「言によらずに成ったものは何一つなかった」。これはヨハネのすばらしい表現だ。キリストがすべてであり、キリストの他に、キリストの外に何もなく、無であること。キリストによって新しい命が与えられ、すべてが新しく創造されるのだ。

 第二の光線は、私たち人間の闇を照らし出す。ヨハネはさまざまな表現で人間がキリストを受け容れなかったことを語っている(1・5、1・10、1・11)。私たちの生活には暗闇や苦しみがたくさんあり、私たちは暗い部分だけに目を奪われがちだ。しかし、イエスが来ることで、私たちの生活が照らし出され、私たちの人生の一つ一つの出来事の意味が明らかになり、苦しみの中にも慰めを見い出すことができるようになる。人間は神から愛されていることがキリストによって私たちに啓示され、人間はなぜ生きているかがわかり、私たちに価値があることがわかるから。さらにそれだけではなく、パウロもヨハネもはっきり言うように、神は私たちのそばにいるために、神であることさえ捨てて私たちの生活の只中に入ったのであり、降誕とはその出来事なのだ。また、教皇フランシスコが言うように、イエスによって神は人間の罪のど真ん中に入って、罪を癒す。そして、罪によってもたらされた死から人間を解放して、神の子としての新しい命を与える(ヨハネ1・12)のだ。

 第三の光線は、過去の闇を照らし出す。過去とは、例えばイスラエルの歴史のこと。私たちは待降節にイスラエルの歴史を振り返ったが、災いや追放があったとしてもイスラエルの歴史は無意味ではなく、救い主が来る道として意味があったことがわかるのだ。

 注意すべきなのは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの東洋の歴史もそうだということ。東洋のさまざまな文化や宗教もキリストに向かうものであったことがわかる。孔子、孟子、釈迦、聖徳太子など、人々をよりよい生活に導いた人物は、イエスの名前を知らなくても、イエスの到来を何らかの形で準備したことがわかる。つまり、イエスが来ることで、過去のよいものが否定されるのではなく、より深い意味を与えられるのだ。

 そして、個人的な過去もそうだ。イエスの顔の光に照らされて、私たち一人一人の過去の意味も明らかになる。私たち一人一人の過去も、たとえ意識されていなくても、何らかの形でキリストのための準備だったこと、神の愛に導かれていたことがわかる。逆に、私たちの人生の意味は、イエスが来ることではじめて明らかになるのだ。そして、隠れた小さな愛の行ないなど、他の人が知らないことも、神の目に永遠の価値があることが、イエスによって私たちに知らされたのだ。また、最大の罪人であっても、その悔いの溜息は神の心に響くことをイエスは言葉だけではなくその行いで示した。

 亡くなった両親など私たちの祖先も、私たちがキリストに出会うことによって何らかの形で癒される。救い主として来るイエスは、私たちの現在だけではなく、私たちの過去も癒すのだ。私たちが洗礼を受けるとき、その救いの恵みは何らかの形で、私たちの祖先にも働く。これはとてもすばらしいことだ。

 第四の光線は未来を照らし出す。ヨハネの福音書を含め四つの福音書は、未来について豊富に語る。キリスト教は今ここで生きるための道徳であるだけではない。キリストは、ずっと先へ進むための光であり、道を歩む私たちを正しい方向に案内し、永遠の生命に辿りつくまでともに歩むのだ。そして、たとえ彼の弟子になることで、いろいろな苦しみや迫害があったとしても、彼に続いて神の世界に辿りつくことができると希望を与える。このテーマは、テトスへの手紙(夜半のミサと日中のミサの第二朗読)にすばらしい言葉で説明されている。

 最後に、四つの光線を放つイエスにはどこで会えるだろうか。ルカ(夜半のミサの福音朗読)が言うのは、馬小屋にいる、この人を見よ、これがしるし、ということ。しるしとは、私たちが歩く道の標識のこと。私たちはその方向に生きるべきなのだ。そして、か弱い赤ちゃんがしるしということは、生活の中にある小さくて見逃しやすいことを大切にしなさいということだ。生活の中にある小さな奉仕や課題にこそ、キリストに出会う可能性がある。 

 


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