「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)
Sub tuum praesidiumのテキスト(ラテン語原文と日本語訳)はこちらにあります。
夜は明けて朝になり、冬は終わって春が訪れ、一年は過ぎて新しい一年が始まる。私たちはそう考えて毎日の生活を送っているが、イエスの弟子にとって大切なのは、季節の巡りではなく、神の言葉だ。私たちは神の言葉によって方向を決めて、先へ進む。だから、新しい一年が始まるお正月も教会はイエスの降誕の光によって照らされるのだ。お正月に平和のために祈るとしても、教会が信じるのは、本当の平和は、神から送られ、マリアから生まれたその言葉であるということ。
典礼によると、今日は神の母聖マリアの祭日。実は、この祭日に教会が伝えたいのはマリア自身ではなく、イエスについてだ。マリアが神の母であるという信仰によって教会が伝えたいのは、ベツレヘムで生まれたイエスが本当に人間でありながら本当の神であること。だから、マリアの祭日だが、中心はイエスなのだ。
今日の福音朗読の箇所は実は、主の降誕の早朝のミサと同じ箇所。早朝のミサは日本の教会では捧げられないことも多いが、今日の祭日には読まれる大切な箇所だ。天使のお告げを受けたマリアは「急いで」エリザベトを訪問したと報告したルカはここでも同じことを言う。天使の知らせを受けた羊飼いたちは「急いで」(16節)ベツレヘムに向かうのだ。福音書のこの箇所によって教会は、私たちも急いで(喜んで)ベツレヘムに向かい、生まれた赤ちゃんイエスの観想をするように勧める。なぜなら、その赤ちゃんにキリスト教の中心があるから。そして、愛情を込めたその観想から生まれるのがキリスト者の生活なのだ。
「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。出来事だけではなく出来事の裏にある意味を伝えようとする神学者ルカがここで使っている「飼い葉桶」という言葉に注目すべきだ。「飼い葉桶」とは、動物のえさを入れる場所だが、この言葉の裏にはもっと大切なものが隠されている。ある聖書学者が最近強調しているのは、ギリシア語の原語が意味するのは、石でできた容器よりも、編んだ籠だということ。特に当時の習慣では、ロバの鞍の両脇に二つの籠がぶらさげられた。一方の籠には農作業の道具など汚れたものが、他方の籠には清潔な食べ物が入れられたという。また、ベツレヘムという町の名前は「パンの家」を意味する。だから、ルカが言う「飼い葉桶」とはパンの籠であり、その中に寝かされた赤ちゃんは、最後の晩餐の時にイエスが私たちに遺してくださった聖体のことなのだ。
実際のところ、クリスマスに教会がミサで記念するのは、二千年前に生まれた一人の人ではなく、聖体の形で今生きているキリストだ。キリストは毎日曜日聖体によって私たちの中に生まれる。それが本当のクリスマスだ。キリストこそが本当の平和であり、私たちはそれを賜物として受け兄弟と分かち合うべきなのだ。私たちは赦されて人を赦すのでない限り、そのパンを受けるのはいけないということになる。
「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。「知らせる」の原語はギリシア語のラレオーで、ルカはこの言葉を、その福音書と使徒言行録の両方で約90回使っている。飼い葉桶の赤ちゃんを見て驚いた羊飼いたちは宣教師になったのだ。イエスが預言された救い主であることを伝えると同時に、言葉であるイエス自身を伝える宣教師になったのだ。それは、公生活を始めたイエスの言葉と行いにいろいろな人たちが驚き、宣教師になったのと同じだ。
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。ここでは「(心に)納める」と「思い巡らす」という二つの言葉が使われている。「思い巡らす」とはギリシア語でシンバローという言葉で、「いっしょにする」という意味。つまり、それはイエスをすべての中心にするということ。だから、「心に納めて」「思いめぐらす」とは、イエスを信じて、心の中にそのイエスを保ちながら、世のすべてのことがイエスの方に流れているのを体験することだ。マリアと同じように教会はイエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想する。教会は母マリアから倣って、イエスの言葉を自分の胎内に受け入れて守って観想して生きるのだ。
「羊飼いたちは…帰って行った」。普通の生活に戻るのは宗教の力のしるしだ。普通の生活に戻りはするが、以前の生活に戻るのではない。彼らは大きな体験をして、イエスを知りイエスの弟子になりイエスへの憧れを抱いた。外からは見えないが、見ること聞くこと行うことの意味が以前とは完全に変わっている。彼らは救いの状態に生きているのだ。彼らにとってはすべてが神に向かっておりすべてが神聖なものになっている。キリスト者はその体験の後、マリアのようにキリストを運ぶ神輿として世の中に歩き出す。
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」。この節は主の降誕の早朝のミサにはなかった節。ルカはここで、割礼という、神の契約を守ることよりも、名前をつけることを重視している。イエスという名は「救い主」を意味するのだ。
私たちの教会の一番小さい鐘には、マリアに対しての教会の一番古い言葉が刻まれている。スブ・トゥウム・プレシディウム――今日の日にはこのような言葉でマリアに祈るのがふさわしい。イエスの名に対しても、キリスト教の霊性には特別な信心がある。私たちも、マリアのように聞く心とイエスの名前を唱える恵みを願いたい。
tagPlaceholderカテゴリ: 黙想2017年