年間第2主日

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1・32より)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」、1470年代、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
 主の洗礼の祝日とともに教会暦は待降節から年間に移行したが、年間第2主日には、主の公現の祭日に祝った現れとのつながりを意識して、共観福音書ではなくヨハネ福音書が読まれる。今年A年に読まれるのは、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼について証しする箇所。イエスの洗礼について、ヨハネ福音書はそれ自体としてではなく洗礼者ヨハネの証しとして書くが、三つの共観福音書はその出来事とその神学的意味をそれぞれの形で書いている。ところが、主の公現の祭日を主日に移して祝う日本では、今年は暦の関係上主の洗礼の祝日がその翌日の月曜日に祝われた。しかし、イエスの洗礼についてのマタイの朗読箇所は非常に大切なので、その箇所を見ることにする。
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 マタイ福音書では、イエスの幼少時代の物語は、ヘロデの迫害の後のエジプト逃避行とナザレへの帰還で終わる。イエスが次に登場するのは、その30年ほど後のこと。その間の出来事について福音書記者マタイは何も書いていない。なぜか。それはマタイにとって大切ではないから。マタイにとって大切なのは、イエスの死と復活、その前にある公生活である。イエスの洗礼はその公生活のはじめにあり、イエスを知るために重要な出来事だが、マタイにとって洗礼は特に重要だ。マタイ福音書は、イエスの洗礼と、福音書最後の弟子たちの派遣の言葉「すべての民…に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…なさい」で両側から包まれているから。 
 マタイ福音書では、イエスの洗礼は一つの問題で始まる。それは、福音書では洗礼者ヨハネとイエスの会話の形でまとめられているが、初代教会が抱えていた大きな疑問である。救い主であるイエスがなぜ洗礼を受けたか。ヨハネの洗礼が意味するのは死であり、罪人が回心して罪に死ぬことであるのに、罪人に対して裁きを行うべき「あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。 
 これに対するイエスの答えは大切だ。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、正義ということ。ヨハネにとって、正義とは悪に対する裁きであり、罪人の死だったが、イエスにとって、正義とは、世に注がれる、父なる神の愛情のことだ。イエスによって現される神は、生贄を求める神ではなく、罪に落ちた人間を愛して自分の子を捧げる神なのだ。イエスは、ライオンのような姿でなく、ヨハネ福音書で洗礼者ヨハネが言うように「子羊」として、民の罪をかぶって身代わりとなって砂漠の中に死ぬ神の子羊として現れる。上空を飛ぶ強い鷲ではなく、ルカが言うように「雛を羽の下に集める」(13・34)めん鶏として現れる。洗礼者ヨハネが考えていたように、斧で切り倒し火で焼き払う強い者ではなく、弱い赤ちゃんとして現れる(「わたしはこの方を知らなかった」)。イエスが宣言する神の国は、イチジクのつぼみ、一つまみのパン種、未亡人の二レプタのように小さく目立たないものなのだ。イエスが言おうとしているのは、人間の罪を取り除くのは軍人のような力ではなく、母のようなやさしさ(教皇フランシスコがいつも言う「テルヌーラ」)、そして神の愛の美しさだということ。罪の根本は人間の弱さではなく、神に反する人間の心だから。

  洗礼を受けたイエスは「すぐ水の中から上がられた」とマタイは言う。「上がる」とは復活のこと。福音書でイエスの死が予告される時には、いつも復活についても語られる。神の子は死の奴隷ではありえないから。 

 「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。当時のユダヤ人の理解では、七つの天があり、律法学者の説明によると、そのあいだには500キロの距離があり、その奥に神の王座があった。神はそれほど遠い方だと考えられていたのだ。しかし、イエスによって開かれた天はもはや永遠に閉じられることがない。
 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。「イエスは…ご覧になった」。マタイによると、それはイエスの内面的な経験なのだ。神の霊が降るとは、神の力が完全にイエスの中にある、イエスが神の子である、ということ。「鳩のように」とは、洪水の後に戻ってきて新しい創造を告げる鳩をはじめ旧約聖書の箇所を参照している。洗礼を受けたイエスは、神の霊が宿る巣であり、父なる神は、この巣の中に降りて永遠にとどまる。 
 「そのとき、…声が、天から聞こえた」。何百年も前から、神は民の罪に怒り、民に語ることをしなかった。その神の声が、イエスの洗礼の時に遂に聞かれたのだ。 
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この短い言葉の中には、旧約聖書の次の三つの箇所が見事にまとめられている。1.「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2・7)。2.「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク…を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22・2)。3.「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ」(イザヤ42・1)。僕とはただの召使いではなく、権限を与えられた代理のこと。
 イエスが洗礼を受ける時、神はイエスが自らの子であることを荘厳な形で私たちに知らせる。イエスは、父なる神の愛の完全なイメージ。神を見ることができる人間はいないが、イエスを見る人は神を見る。
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 福音書記者マタイにとってはイエスの洗礼それ自体が大切だが、福音書記者ヨハネにとっては洗礼者ヨハネによる証しということが大切だ。ヨハネ福音書には「証し」という言葉が何度も出て来るだけではなく、福音書そのものが「証し」として書かれていることがその結びの箇所からもわかる。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21・24)。私たちも、キリストを知った体験を人に伝えるように呼ばれている。

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