年間第3主日

「わたしについて来なさい」。(マタイ4・19)

ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
ジョルジョ・ヴァザーリ「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」、1563年、バディア・フィオレンティーナ教会
 キリストがどういう方かを黙想した待降節と降誕節の後、年間に入った。30年間にわたるさまざまな準備が終わり、いよいよイエスの活動が始まる。 
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。カファルナウムはティベリア湖のほとりにあった町で、発掘調査によると、当時千人ほどの人口だったと推測される。大きな町ではないが、北と南、東と西をつなぐ重要な道の十字路に位置していて、税関もあり(そこの徴税人の一人がマタイ)、地中海とも連絡していた。エルサレムから離れており、さまざまな民族が入り混じって住み、ギリシアの影響も強い町だった。教皇フランシスコが使う言葉で言うと、ペリフェリア(周辺)の町だ。つまり、イエスがその活動を始めたのは、ユダヤ教の信仰が確立されて熱心に実践される場所ではなく、異教の宗教も入り込んでさまざまな問題がある場所だったのだ。神が世に入るためには、このような状況を選ぶと福音書記者マタイは強調して、イザヤ第8章の最後から引用する。 
 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。マタイはいつも旧約聖書によってイエスの物語を神学的に理解しようとするのだ。私たちが抱えているさまざまな問題という「暗闇」の中にキリストが「光」としてやってくる。イエスは、よい人、正しい人を呼ぶために来たのではなく、病気や悩み、物質的精神的な問題のただ中にある人たちと接触するために来た。それは、福音書に何度も出て来るテーマだ。今のパパ様も、教会が本当に出かけるべきなのはこういうところだと言う。キリストは私たちの限界状況にやって来る。

 今日の箇所には、 まさにそんな状況にあって、まず最初にイエスに憧れを感じた人物への呼びかけがなされる。それがペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブという二組のカップルだ。彼らは漁師にすぎない。イエスは、教育を受けた専門の宗教家ではなく、生活の矛盾に陥っている人々を集めて弟子にするのだ。この人たちにに「天の国は近づいた」のは、この人たちがいい人だからではなく、神がこの人たちに関心があるからなのだ。 

 イエスはこの四人の一人ペトロの家を住まいとして3年間住むことになる。ぺトロが住んでいたその家は今でも残っている。村の一番端の家がペトロの家だったそうだ。 
 今日の箇所で大切なのは最後の節。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。年間の典礼が始まるこの時期に、この最後の節は大切だ。年間の典礼では、イエスの公生活の出来事を外面的に思い出すだけではなく、イエスといっしょに歩む旅であり、そこで私たちの癒しも行われるから。典礼にはその力がある。これから始まる年間の典礼は癒しの旅。イエスは私たちの病いや苦しみの中に入る。だから、私たちも四人の弟子たちのように、イエスがやることなすことにすぐに目を向けるように教会から勧められている。

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