年間第7主日

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5・45)

ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
ジュスト・デ・メナブオイ「創造」1376-78、パドヴァ大聖堂・洗礼堂(Wikimedia Commons, by YukioSanjo)
 今日の箇所は、山上の説教の5つの話題のうち「反対命題」と呼ばれる箇所の続き。「右の頬を…」など6つの具体的なアドヴァイスが出て来る。そのどれにもあてはまるのが、真福八端の第二の柔和さ。柔和と訳される原語のヘブライ語アーナーウには聖書では深い意味がある。それは、真福八端の第一の心の貧しさ、つまりアナウィンと同じように、怒らずに神に信頼して忍耐し人に善意を示すことを意味する。 
 「目には目を、歯には歯を」。この言葉はこんにちでは復讐の容認として理解されるが、もともとはハンムラビ法典にあるこの掟は際限のない報復に限度を定めるものだった。しかし、イエスは、受けた暴力に見合う報復にも反対する。 
 「悪人に手向かってはならない」。イエスが言うのは、ただ無抵抗ということではなく、無償な愛の世界に入るべきということ。 
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。たとえ身体的暴力を受けたとしても、暴力で返すのはいけない。暴力に対して厳しい態度をとらなければならないことがあるとしても、復讐してはいけない。復讐は憎しみから生まれるが、憎しみを捨てなければならない。日本のキリシタンたちも、イエスのにならって、迫害する人たちを赦しながら殉教するように教育されていた。 
 「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。上着とは、ヨーロッパでは最近まで使われたマントのこと。イエスの当時、マントは貧しい人にとっては寝る時にかぶる毛布でもあった。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。当時、イスラエルを占領していたローマ人は労働を人々に強要していた。イエスの十字架を運んだキレネのシモンもそうだった。「求める者には与えなさい」。服でも労働でも、人に与える時には、惜しみなく与えるべきだ。
 「隣人を愛し、敵を憎め」。聖書学者によると、この言葉どおりの言葉は旧約聖書にない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これは、私たちの毎日の問題でもある。そして、イエスが言うように、自分を攻撃したり、苦しめたりする人を愛するなど到底できないように思える。しかし、大切なのは、イエスが感情的な愛で愛するように言っていないこと。イエスが言うのは、その人のために祈るということ。祈りとは、神に向かうことで、相手を見直すプロセス。遠くから敵に見えた相手も、近づくと人間に見え、もっと近づくと兄弟であることがわかる。祈りの中で、私を苦しめているこの人も、私と同じように神の赦しと癒しを必要としていることに気づく。私が罪人の時に神から愛されたように、この人も神から愛されているのだ。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。私たちは、相手に親切にするとき、相手からも親切にされたいと自然に思う。私たちの心の中にある互恵主義の考え方(「自分を愛してくれる人を愛する」「自分の兄弟にだけ挨拶する」)は人間の常であり、悪いことでもない。ところが、私たちはこのような考え方を自然に神との関係にも当てはめて、悪いことをしたら神から罰せられ、よいことをしたら神から報われると考える。それは、神についての商売的なイメージだ。しかし、イエスはこのような神のイメージに反対する。彼がその言葉と生と死によって宣言する神は、無償で私たちを愛する神だ。神が私たちを愛するのは、私たちから何かをもらったからではなく、神だから、愛そのものだからなのだ。神が私たちを愛するのは、私たちがよい行いをしたからではなくて、たとえ私たちが悪いことをするときも私たちを愛し続ける。イエスの弟子は、このような無償の愛の世界に入るように勧められている。 

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。これは注意しなければならない。私たちが神のように完全であることはもちろん不可能だ。けれども、私たちも私たちなりの仕方で神の無償の愛を実践し、その意味で完全でなければならない。このことをパウロもローマの信徒への手紙で見事な表現で言い換えている、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12・17-21)。

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