2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。
3.「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないために、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民。バアルを崇めるのは偶像崇拝という最大の罪だ。要するに、イスラエルの民は、ヤーウェの神を信じようとしていたものの、それは完全な信仰ではなく、半分は信じても半分は別のものを信じていたのだ。それに対して、イエスはモーセの言葉を使って、神だけを拝むべきだと言う。受難の予告を聞いたペトロが「そんなことはあってはなりません」と言った時も、イエスは「サタン、引き下がれ」と言って、権力の道ではなく十字架の道を選んだ。そして、十字架上で苦しみ、神から見捨てられたと思われる誘惑を受けた時も、神にゆだねて死んだのがイエスだ。
イスラエルの民が誘惑に負けて罪を犯すところ、そして私たちも誘惑に負けて罪を犯すところに、イエスは誘惑に打ち勝って勝利の叫びをあげる。「退け、サタン」。その叫びは、十字架上で息を引きとった時の叫び、私たちを悪から解放した勝利の叫びでもある。
「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。天使が来るとは、神のあらゆる力が人間を新しく生まれ変わらせるために働き始めるということ。
荒れ野の誘惑についての今日の箇所は、復活祭に洗礼を受ける求道者への大きなメッセージだ。教会が今日の箇所で言いたいのは、キリストを見なさい、あなたたちにはいろいろな弱さや困難があるかもしれないが、キリストはあなたたちの悪よりも強い、ということ。洗礼式にも悪霊の拒否と呼ばれる式がある。キリストの勝利の叫びは、洗礼の時にも響いているのだ。
だから、四旬節は悲しみの時期ではない。罪の痛悔はあるが、癒しの時期で、新しい命が始まる可能性があるのだ。では、求道者はどうすればいいのか。そしてイエスを救い主と信じて洗礼を受けた信者はどうすればいいのか。
教会は伝統的に一つの言葉を大切にしている。それは、洗礼式の最初に使われる言葉で、ラテン語でコンペテンテースと言う。こんにちでは「物知り」という意味だが、もともとは「いっしょに戦う人たち」を意味する。つまり、私たちはキリストとともに戦うのだ。キリストの肩の上に乗って、キリストの背後から、キリストの敵と戦うのだ。キリストが勝利者であると信じて、キリストの戦い方に倣って戦うのだ。それが四旬節の具体的な行いになる。戦うための武器は、イエスが私たちに教える祈り。静かに神の言葉を聞き、信頼して祈ること。それから、回心。ザアカイのように、イエスを迎えイエスとともにいる喜び、癒された感謝など。そして、人に分かち合うこと。義務的にではなく、癒されたから人と分かち合う、与えられたから人に与えるということ。
主の祈りの最後は「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と祈る。その祈りは今日実現される。