四旬節第1主日

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4・10)。

フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
フェリックス・ジョゼフ・バリア「悪魔によるキリストの誘惑」、1860年、フィルブルック美術館所蔵
 復活祭の準備をする四旬節は、一年の典礼で大切な時期。特に求道者にとっては、洗礼を受けキリストに出会う最後の準備の段階であり、信者も求道者といっしょにその旅を歩み、自分の洗礼の霊性を深める。主日毎の典礼では、救いが中心的なテーマとなる。救われるために、どう生きるべきか。教会は言う、イエスを見なさい、彼こそ救い主である、と。特にA年である今年には明確な見取り図がある。第1主日(荒れ野の誘惑)のテーマは、悪の誘惑から私たちを救うキリスト。第2主日(変容)は、救い主として私たちに送られたキリスト。第3主日(サマリアの女)は、生きた水を与えるキリスト。第4主日(生まれつきの盲人)は、暗闇に対する光であるキリスト。第5主日(ラザロの蘇生)は、死に対する命であるキリスト。私たちは主日毎に自分の心の中にこのようなテーマを種として蒔いて、1週間のあいだに成長させなければならない。 
 今日の第1主日では、神の世界が荘厳な形で開かれ、私たちはキリストに出会う。荒れ野の誘惑については、マルコは短く報告しているだけだが、マタイとルカは一つの不思議な出来事を私たちに伝える。 
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。「荒れ野」は、ユダヤ人にとっては根本的な体験の場所。彼らはエジプトを脱出してから、荒れ野を40年間さまよった。荒れ野は、まむしに象徴されるように困難に遭い誘惑を受ける場所であると同時に、モーセがシナイ山で十戒を授かったように神が自らを啓示する場所だ。ユダヤ人たちが罪を犯すといつも、ホセアやエレミアのような預言者が荒れ野に戻るように勧める。旧約聖書では、回心とは、荒れ野の根本的な体験に戻ることなのだ。荒れ野はまた、希望と再生、神の栄光の場所でもある。荒れ野で植物が茂り、花が咲く。岩から水があふれ、特別な食べ物が授けられる。荒れ野の中に道ができる。旧約聖書はこういったイメージにあふれている。福音書でも、荒れ野は大切な場所。神が何百年も沈黙し言葉を発しなかった時に、声を上げ人々に洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。そして、罪がないのに私たちの罪を負って罪人として洗礼を受けたイエス。
 今日の荒れ野の物語には、二人の人物が登場する。一人は悪魔。悪魔とは、ヘブライ語でサタン、ギリシア語でディアボロス。サタンとは文字通りには、嘘つきを意味する。人間を裏切り、たぶらかし、誘惑し、滅ぼそうとするのが悪魔だ。悪魔は、神を拒否する悪のシンボルで、私たちの中に働いて、憎しみと死の種を蒔く。今日の箇所にあるように、聖書を知りながらも、神の言葉をゆがめるのが悪魔だ。悪魔は荒れ野に住んでいる。 
 もう一人の登場人物はイエス。その誕生と洗礼については福音書ですでに伝えられている。清らかで罪がなく悪に強い英雄だ。イエスは今日、悪の国である荒れ野に入って、私たちを救うため悪との戦いを始める。戦いとは、ギリシア語でアゴニア。その戦いが終わるのは十字架上だ。神の子であり、肉によれば私たちの兄弟であるイエスは、イスラエルの民と私たちの罪を負わされて誘惑を受ける40日間の戦いを始め、昼も夜も戦う。
 マタイが記す三つの誘惑は、イスラエルの民が荒れ野で負けて罪を犯した誘惑だ。それは私たちにとっての誘惑でもある。つまり、イエスは、私たちの敗北を受けて、私たちの味方として戦うのだ。 
1.「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。モーセに導かれて、エジプトを脱出したものの、荒れ野では食べ物がなく、エジプトの玉ねぎが恋しくなったイスラエルの民。空腹のせいで不安に思い苦しみを恐れて元に戻ろうとしたのは、モーセが伝える神の言葉を信頼しないという罪だ。それに対して、イエスは誘惑に勝つ。本当のパンは神の言葉だけ、人間を導くのは神の言葉だけだと。神の言葉とはイエス自身のこと。イエスは神の御心を行うために来たのだから(ヨハネ6・38など)。

2.「神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ』」。イスラエルの民は荒れ野で神の言葉を信頼せず、神を試し、しるしを求めた。同じように、悪魔はイエスを試すのだ。しるしを見せれば、力ある者として人々から敬われると。イエスはその誘惑に打ち勝つ。神を試してはならない、と。 

3.「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないために、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民。バアルを崇めるのは偶像崇拝という最大の罪だ。要するに、イスラエルの民は、ヤーウェの神を信じようとしていたものの、それは完全な信仰ではなく、半分は信じても半分は別のものを信じていたのだ。それに対して、イエスはモーセの言葉を使って、神だけを拝むべきだと言う。受難の予告を聞いたペトロが「そんなことはあってはなりません」と言った時も、イエスは「サタン、引き下がれ」と言って、権力の道ではなく十字架の道を選んだ。そして、十字架上で苦しみ、神から見捨てられたと思われる誘惑を受けた時も、神にゆだねて死んだのがイエスだ。 
 イスラエルの民が誘惑に負けて罪を犯すところ、そして私たちも誘惑に負けて罪を犯すところに、イエスは誘惑に打ち勝って勝利の叫びをあげる。「退け、サタン」。その叫びは、十字架上で息を引きとった時の叫び、私たちを悪から解放した勝利の叫びでもある。 
 「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。天使が来るとは、神のあらゆる力が人間を新しく生まれ変わらせるために働き始めるということ。 
 荒れ野の誘惑についての今日の箇所は、復活祭に洗礼を受ける求道者への大きなメッセージだ。教会が今日の箇所で言いたいのは、キリストを見なさい、あなたたちにはいろいろな弱さや困難があるかもしれないが、キリストはあなたたちの悪よりも強い、ということ。洗礼式にも悪霊の拒否と呼ばれる式がある。キリストの勝利の叫びは、洗礼の時にも響いているのだ。 
 だから、四旬節は悲しみの時期ではない。罪の痛悔はあるが、癒しの時期で、新しい命が始まる可能性があるのだ。では、求道者はどうすればいいのか。そしてイエスを救い主と信じて洗礼を受けた信者はどうすればいいのか。 
 教会は伝統的に一つの言葉を大切にしている。それは、洗礼式の最初に使われる言葉で、ラテン語でコンペテンテースと言う。こんにちでは「物知り」という意味だが、もともとは「いっしょに戦う人たち」を意味する。つまり、私たちはキリストとともに戦うのだ。キリストの肩の上に乗って、キリストの背後から、キリストの敵と戦うのだ。キリストが勝利者であると信じて、キリストの戦い方に倣って戦うのだ。それが四旬節の具体的な行いになる。戦うための武器は、イエスが私たちに教える祈り。静かに神の言葉を聞き、信頼して祈ること。それから、回心。ザアカイのように、イエスを迎えイエスとともにいる喜び、癒された感謝など。そして、人に分かち合うこと。義務的にではなく、癒されたから人と分かち合う、与えられたから人に与えるということ。 
 主の祈りの最後は「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と祈る。その祈りは今日実現される。

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