四旬節第5主日

「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)。

セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
セバスチアーノ・デル・ピオムボ「キリストの復活」1517ー1519年、ロンドン国立美術館所蔵
 私たちはみなそれぞれの形で死を経験している。家族の誰かが病気などで亡くなることがある。マスコミの報道では毎日、戦争や事故や犯罪でたくさんの人が殺されている。胎児も毎日たくさん堕胎で殺されている。私たちは死に囲まれて生きている。けれども、私たちは死を忘れるために、いろいろなことをする。葬儀屋は儀式やきれいな言葉で飾り立てる。だから、四旬節最後の日曜日である今日の福音書の箇所は、死と命について考える大切なきっかけになる。 
 ラザロの死と呼ばれる今日の箇所。ラザロが仮死状態にあったのか、本当に死んでいたのか、聖書学者はいろいろな言葉に注意しながら解釈する。復活はキリストの復活について使われる言葉だから、ラザロについては蘇生という別の言葉も使われる。 
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」。ベタニアは、エルサレムの近く、2、3キロ離れた場所。ルカ福音書によると、マルタは強く元気な女性で、マリアは静かな女性。ラザロはその名前以外は、マルタとマリアの兄弟としてのみ知られている。マルタとマリアの方がラザロより知られていたようだ。 
 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。三人はイエスと特別な関係にあった。この家族との友情は暖かみを感じさせる。 
 「なお二日間同じ所に滞在された」。ラザロの病気を聞いてもイエスがすぐに出発しなかったのは、イエスにとってこの出来事がただの出来事ではなく、神の御旨が示される大きなきっかけであったから。 
 「イエスは…心に憤りを覚え、興奮して…涙を流された」。これから何が起こるかを知っていたはずのイエスが涙を流したのは、死の深みがよく知っているから。しかも、マルタとマリア、ラザロをかわいそうに思って涙を流しただけではなく、二度も「憤り」を覚えた。ギリシア語では普通に使われない特別な言葉が使われている。神の子としてイエスは、死に対して怒っているのだ。これは大切なことだ。なぜなら、ふつう私たちは死に慣れようとするからだ。宗教でさえ、死はいのちの一部で当たり前のことだと考えようとする。しかし、イエスの父である神にとってはそうではない。イエスの神は死の神ではなく、いのちの神であり、人間を造ったのも、人間が生きるために作ったのだから、私たちが生きることを望むのだ。神自身がいのちの神だから、死に対して怒るのだ。また、エピクロス派やストア派では、禍に対しても動じない心の落ち着き(アタラクシア)が重んじられる。それに対して、ヨハネによる福音書にはまったく逆の言葉がある。ギリシア語でタラクセインは、心の底から動きを感じること。イエスは、心の底から悲しみを感じて、涙を流したのだ。

 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。ほかの人たちは、マリアとマルタを慰めるために彼女たちの家に入るが、イエスは家に入らず、直接墓に向かい、死という敵と戦う。

 「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」。「叫ぶ(クラゼイン)」という言葉は福音書の他の箇所にも出て来る。そのうちの一つは聖金曜日に朗読される受難物語で、イエスが裁判にかけられた時、ピラトが「見よ、この男だ」と言うとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ。しかし、今日の箇所でイエスはまったく反対で、墓の中から出て来るように私たちに叫ぶ。人間は死を命じるが、神はいのちを命じるのだ。同様に、イエスが十字架上で息を引き取るときの叫びも、神のいのちである聖霊を送ることにほかならず、創造しいのちを新しくする神のわざである。そして、「墓」とは死んでから入る墓だけではない。私たちは生きているうちも、墓の中にいる。それは私たちの過去である。私たちの生活には、解決していない問題や、長い間人に対してもっている偏見、十分に告解しなかった罪、直していない癖など、要らないものや邪魔なものがいろいろある。それが私たちの墓だ。その墓の前に立ってイエスは、出て来なさいと言うのだ。 

 「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた」。衣笠墓地に葬られたあるアメリカ人司祭の墓碑銘には、イエスのこの言葉(Unbound him and let him go)が刻まれている。私たちはみないろいろな形でぐるぐる巻きにされている。偏見をもったり、嫉妬や恨みや憎しみを抱いたりして、人を自由に愛することができない。しかし、イエスは私たちを自由にするとヨハネは今日力強いしるしで私たちに示す。これは求道者への大きなメッセージだ。これまでの生活がどうであったとしても、あなたはこれから洗礼を受けることで新しく生まれ変わることができる。今まさに桜が開花しようとしているが、まさにそのようにキリストの力で新しく生まれ変わることができる。 
 マルタはラザロの姉妹であったのに「もうにおいます」と言った。家族の誰かが死んだら、私たちは最初は悲しみに襲われたとしても、次第に慣れてあきらめ忘れてしまう。「におい」とは、人が怖くなったり恨んだりするときに私たちが感じるもののこと。そんなとき、キリストが私たちを救い出してくれる。今日の福音書の後には、ベタニアのマリアが香油をイエスの足に塗ると、家はその香りでいっぱいになったと書いてある。それはキリストの香りだ。堅信の油の香りもキリストを思い出させる。私たちはキリストを知ることによって、新しく造られ、新しい香りを身にまとうのだ。

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