復活節第2主日

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。

ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
 復活節第二主日は、第一・第二朗読の箇所は年によって変わるが、福音朗読の箇所は毎年同じ。ヨハネ福音書から、復活のイエスが弟子たちに現れる箇所が読まれる(去年の黙想のページはこちら)。ただし、「現れる」という言葉はこの箇所には出て来ていない。使われるのは「立つ」と言う言葉(「イエスが来て真ん中に立ち」)。「現れる」という言葉はヴィジョンを連想させ、実際福音書には復活したイエスの体の特徴がいろいろと記されているが、福音書記者が伝えたいのはヴィジョンではなくリアルな現存だ。それに対して、「立つ」とは生きた者として、死に対する勝利者として教会の中に現存するということ。 
 人間の常識で言うと、他の人の態度に傷つけられたら、仕返しするところだ。そのチャンスを掴んで人を苦しめるために使う。みんなの前でその人の罪を暴露し叱って恥をかかせたり、仲間外れにしたりする。それに対して、イエスがトマスに限らず弟子たちのところに来る時は、そういう気持ちが一切なく、愛と赦しと癒しだけがある――そもそも十字架上でそうだったように。これは非常に感動させるところだ。イエスは自分の体面ではなく、弟子たちのことを心配して、彼らに会いに行く。彼らは恐くて隠れているが、イエスは探しに行くのだ。イエスは神として復活したから。神は罪人を見捨てることをせず、麻痺状態のままに残さず、希望を消さず、自分の家(教会共同体)から追い出すことをしない。神は、人が立ち直るために導き助けるのだ。 
 復活を語る時、二つの言葉がよく出て来る。「目覚める」と「起き上がる(立ち上がる)」。この二つの言葉は私たちの日常生活からとられた言葉で、私たちの朝の行動にあてはまる。私たちは朝になると目が覚める。弟子たちは目覚めて、イエスに気づいた。また私たちは朝ベッドから起き上がる。イエスは御父によって死から起き上がらされた。 
 イエスが来たとき、弟子たちは喜んだが、喜びはヨハネ福音書を貫く大きなテーマだ。第二朗読のペトロの第一の手紙にも喜びのテーマが出て来る。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

 トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。 

 そして、トマスの場合も他の弟子たちの場合と同じだ。イエスの目は私たちの罪の先を見る。神は私たちがどんな罪をおかしたかよりも、私たちがこれからどんな聖人になるかに関心がある。イエスはマグダラのマリアについて「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7・47)と言った。神が何もできないのは生ぬるさに対してだ。聖アウグスティヌスも「異端者になるのは偉大な人だけだ」(『詩編註解』第124章第5節)と言う。平凡な罪しか犯さない人は平凡な人にしかならない。逆に、大きな罪人は大きな聖人になる可能性がある。トマスは他の弟子と同じようにイエスを見捨てたが、彼の中にはイエスに対しての愛が燃えていた。彼は復活したイエスの前で、ヨハネ福音書で一番すばらしい信仰と愛の告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスについては何も知られていないが、言い伝えによると、シリア、ペルシアなどローマ帝国の外にまで出て、インドにまで行って宣教したと言う。インドの教会は使徒トマスに遡るのだ。 
 私たちもイエスへの愛を表現するにはトマスの言葉を使うしかない――ミサの聖変化の時、また聖体の前で「わたしの主、わたしの神よ」。

Since 14 Sep 2013