復活節第5主日

  「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)。

「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「デイシス」、ハギア・ソフィア大聖堂、Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
 今日の第一朗読と福音朗読は、異なる時代に異なる人物によって書かれた箇所だが、それぞれの背景には共通するところがある。まず、第一朗読の使徒言行録の箇所には「苦情が出た」とある。ルカはその出来事をていねいに記す。問題がどう解決されたかを中心に書くのだが、そもそも教会生活に問題があったことが窺われる。それは、信者同士の関係、ユダヤ人と異邦人の関係の問題で、その問題は司祭と助祭の役割が区別されることで解決されるが、そもそもいっしょに信仰生活を生きる上で問題があったのだ。そして、福音朗読のヨハネ福音書の箇所には、最後の晩餐の話の最初にある言葉が出て来る。イエスが、自分の道は十字架の道だと明らかにした時、弟子たちは不安に思い、「心を騒がせ」たのだ。「心を騒がせる」という動詞はあちこちで使われている。ヨハネ福音書では例えば、イエスがベタニアに来てラザロの墓に行く前に(11・33)、自分の死を思う時に(12・27)、ユダの裏切りを予告する時に(13・21)この動詞が使われている。つまり、それはイエスであれ、弟子たちであれ、信じる人の危機の状態を示す言葉だ。 
 そういう危機の時にどうすればいいか。それは私たちの問題でもある。 イエスは弟子に、落ち着かせ安心させる言葉を言う。「神を信じなさい」「わたしをも信じなさい」と。イエスが弟子たちに教えたいのは、彼が死んで見えなくなっても、それは消えてしまったのではなく、新しい形で彼の教会の中にいるということ。イエスの不在はイエスの新しい現存だということ。 
 そこに一つの不思議な言葉がある。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。聖書学者が言うには、それは旧約聖書の偽典であるエノク書からとられたイメージで、神の家の中にいろいろな役割があるという意味。しかし、この言葉は、死後の生について語られているとよく理解される。もちろん、その意味もあるが、イエスは死んでからのことではなく、この世の生のことを話している。それがわかるのは、今日の箇所の後にある23節からである。「父とわたしとはその人[=わたしを愛する人]のところに行き、一緒に住む」。これは、あの世でではなく、この世で、父なる神とイエスがその人とともに住むという意味。これはイエスがもたらしたキリスト教の革命的な新しさだ。神の住まいはあの世ではなく、今ここに、問題のあるところにもある――たとえ今は見えなくても。ヨハネ福音書が言うには、十字架上にも復活があるのだ。つまり、イエスの神は、遠いところにいるのではなく、私たちから迎え入れられることを求める神だ。だから、私たちがさまざまな問題に遭い、苦しむその場に、イエスと一つになり神と一つになる可能性がある。 
 しかし、トマスが口をはさむ。彼はまだわかっていない。「どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。トマスはまだ物質的な道と思っている。それに対して、イエスは荘厳な答を返す。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで二つの点に注意すべきである。 
 第一に、現代の聖書学者はヘブライ語の表現の特徴から次のように解釈する。道であること、真理であること、命であることは別々のことではなく、全部つながっていて、本当の命への正しい道であるということだと。
 第二に、それ以前に注意すべきなのは、「わたしは…である(エゴ・エイミー)」という言葉。ヨハネがこの言葉を使う時は、ヤーウェのモーセへの啓示を思い出している(「わたしはある。わたしはあるという者だ」出エジプト3・14)。だから、この言葉によって、イエスが神であり主であることが表現されているのだ。

 「わたしは道である」という言葉でイエスが教えるのは、イエス自身が道であること。教会もこの言葉を思い出すことで、洗礼を受けたばかりの人たちと私たちに大切なことを伝える。イエス自身が道であり、キリスト者とはイエスと特別な関係をもつ人のことなのだ。イエスとのそのような関係、一致の関係がなければ、キリスト教に入れない。この神学的に深い言葉については、泉のように汲みつくせないほどたくさんの解釈があるが、カール・ラーナーはウィーンでキリスト教の根本についての講演の冒頭で、キリスト者であるとはキリストを抱きしめることだと言った。言い換えれば、イエスを知ること、イエスと同じ目でものを見、イエスと同じように生きるということだ。特にヨハネ福音書ではさまざまな箇所でこのテーマが表現されている。 

 「わたしは真理である」。一般に、知識のある人は傲慢になり、人に教えたり、人を裁いたりする。しかし、イエスと一つになる人は、その逆だ。 
 「わたしは命である」。イエスは十字架上から、神の息を私たちの中に吹き込み、私たちを新しく創造する。
 フィリポは言う、「御父をお示しください」。フィリポは、御父をまだ見ていないと思っている。そして、いつか見せてくださいと頼む。御父を見るのは未来のことだと思っているのだ。それに対するイエスの答えは驚かせる。「わたしを見た者は、父を見たのだ」。それは未来ではなく過去だ。あなたは御父をもう見たとイエスは言う。フィリポは何を見たか。ヨハネ福音書では、聖体の制定の代わりに洗足について書かれているが、イエスが弟子たちの足を洗った時、神が現れた。愛であり、奉仕する神の顔がそこに示されたのだ。ヨハネ福音書の冒頭にあるように「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。今日ヨハネが言うのは、神は見えないが、キリストの顔の上に神が輝いている。これがキリスト教のユニークなところだ。 
 今日の第一朗読も福音朗読も、私たちのアクチュアルな問題に関わっている。文化の多様性と、それに由来する戦争や貧困、不平等。あるいは、病気や死、災いに対する不安。そういった問題に対して、今日の典礼はキリストとともに答える、キリストに目を開いて信頼しなさいと。祈りと黙想によって、秘跡によってイエスのように生き、キリストの香りをまとうのがキリスト教的生活だ。 
 最後にもう一つ、私たちにとって大きな慰めとなるすばらしい言葉がある。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。これは昇天を意味する。イエスはいなくなるのではなく主として父なる神の右に座るのだ。イエスは見えなくなってかえって、次々と新しい力と賜物を送り、教会をキリストの体として作り上げる。聖グレゴリウス教皇1世は「神の言葉は読めば読むほど大きくなるdivina eloquia cum legente crescunt」と言った。イエスが蒔いた種は教会によって世の中で大きくなる。教会の中にあるすべての愛、教会の中にあるすべての聖性こそ、世の中で大きくなるイエスだ。教会はただの団体ではなく、キリストの体なのだ。

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