聖霊降臨の主日

イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20・22)

ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
ミサ典書「聖霊降臨」、1310-20年、ウェールズ国立図書館所蔵
 復活節の50日間には、大きな喜びとともに心配があった。福音書によると、イエスは復活の前も後も何度も、いなくなると話した。弟子たちは最初はイエスといっしょにいる喜びのために、それほど心配しなかったが、別れが近づくと、質問した。あなたはどこに行くか、私たちはどうしたらいいかと。彼らは心配だったのだ。 
 昇天の祭日まで、祭壇の隣には、復活したイエスを意味する大きなろうそくが置かれ、ミサのあいだずっと灯されていた。それは復活徹夜祭に特別に祝別されたもので、私たちのあいだにおられるイエスのしるしだった。その光は、昇天の日に見えなくなった。けれども、昇天によって、イエスは行ってしまったのではなく、新しい形、より深い形で私たちとともにいる。そのために、今日の福音朗読では、復活の日に戻って言われる。「イエスが来て真ん中に立ち」。「真ん中に立つ」ことには聖書で大切な意味がある。イエスには近い人も遠い人もいない。イエスにとってはみなが同じ距離にいるのだ。 
 同じことは昇天の祭日にも言われた。使徒言行録などでいろいろな表現で、イエスは弟子たち(私たち)の目から見えなくなって、天に上げられて、父なる神の右の座についていると言われた。父なる神の右の座につくとは、イエスがただの人間ではなく、まことの神の子であるということ。私たちは神の実子ではなく、作られたものにすぎないが、イエスは神の実子なのだ。そして、大切なことだが、イエスが行ってしまって、私たちはみなし子になったのでもない。第二朗読のパウロの手紙によると、父なる神の右の座についたイエスは、私たちに次々と恵みを注ぐということだった。天に戻ったイエスは、金持ちが召使いに仕事をさせるように私たちに仕事を任せて何もしないのではなく、昼も夜も(イエスは永遠)私たちのために祈り、次々と私たちに力を送るのだ。

  今日の朗読でも同じことが言われる。「息を吹きかけて」――この言葉を私たちは大切にすべきだ。息とは命のこと。イエスは私たちの中に神の命を吹きかけるのだ。神の命は私たちの中に流れて、私たちは生きるようになる。それは教会の形でだ。聖霊降臨の主日は教会の誕生日と言われる。私たちは互いに家族として連帯する。それは人間的な好き嫌いの連帯ではなく、キリストを中心にする連帯だ。キリストを信じるから、私たちは互いにつながりができる。キリストから愛され赦されたものとして私たちは互いに関係をもつのだ。

 聖霊の続唱は、私たちの心の問題を照らし出す。頑固さ、人とよい関係をもてない心、神の言葉への抵抗、罪から離れる難しさ――私たちにはいろいろな問題がある。聖霊はそこに働く。私たちを治し、私たちに新しい命を与え、新しい世界を造り上げる。聖霊によって目が開かれ耳が通じ、匂いや味を感じることができる。弟子たちは、イエスが聖霊を送ってはじめて、イエスが以前に語った言葉の意味がわかった。そして、恐れを乗り越え、外に出て、イエスを証した――命を捧げることができるほど。 
 今日の喜ばしい日を祝うことができたことは大きな恵み。感謝してその力によって生きることにしたい。

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