三位一体の主日

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3・16)

アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵
アルブレヒト・デューラー「聖三位一体の礼拝」(ランダウワー祭壇画)、1471年、ウィーン美術史美術館所蔵

 先週の聖霊降臨の主日で復活節が終わり年間に入ったが、今日、教会は三位一体の主日を祝う。毎日曜日の典礼は抽象的神学的なテーマより、イエスの生涯を辿っているから、今日の祭日は少し不規則だ。教会は復活節を終えた後、山に登って全体の景色を見渡すように、立ち止まって神の神秘を観想するように私たちに勧めるのだ。といっても、三位一体について神学的に細かく話すのではなく、聖書の言葉を聞いて沈黙のうちに観想すべきだ。
 今日の朗読には印象的な箇所がいくつかあるが、特に二つの表現に注目したい。一つはヨハネ福音書。その短い箇所に「独り子」という言葉が2回出て来る(新共同訳ではそれ以上出てきているが、原文では2回)。私たちも神の子とよく言われるが、イエスは私たち人間がそうである意味でではなく、独特の、本来的な意味で神の子である。「神の独り子」とは、復活のイエスに属する名称であり、信仰宣言で記念されること。私たち人間は誰も神を見ることができないが、イエスを見ることによって、神の姿を垣間見ることができる。特に十字架につけられたイエスを見ることで、神がどういう方かを見ることができた。それだけではなく、イエスと一つになることで、私たちも神の養子にされるのだ。
 第一朗読でモーセが捜していた神、あらゆる山の頂きと雲と雷の上方にいる神は、イエスによって私たちのうちにいる。三位一体の神は、私たちの外だけではなく、内にも存在する。遠いところだけではなく、私たちの心の中にもいる。聖書によると、キリストと一つになった私たちの心には、測ることができないほど深い深淵があり、そこは豊かな宝物がある。私たち一人一人の心の中に照らす光があり、それによって私たちは神の子として生きることができる。だから、外界に向かう心の窓を閉じて、自分の中に沈潜する祈りが大切だ。イエスは父なる神にアッバと呼びかける勇気を私たちに与えた。私たちは、父なる神と交わりができる、話を聞き話すことができるようになったのだ。私たちは、愛され、受け容れられ、赦され、願いが聞き入れられることを信頼して祈ることができる。ペトロも手紙で「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさいと言っている(1ペトロ5・7)。
 もう一つ注目したいのはパウロの手紙。その中に、私たちが親しんでいる言葉がある。それは第二バチカン公会議によって、ミサの開祭の挨拶の一つとして選ばれた美しい言葉だ。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。ギリシア語では、恵みはカリス、愛はアガペー、交わりはコイノニア。私たちがしばしば意識せずに使うこの言葉には深い意味がある。
 第一に、父(神)。私たちには父がいる。私たちをみなしごにはしておかないとイエスが約束したとおり、父がいる。神とはどういう方かと言うと、聖書を見るとまず、命の与え主、創造主だ。すべてが神から始まる。それは大昔に世界がどのように始まったかということだけではない。神は今日も被造物に存在する力を与え、支えている。この世界にある、よいもの美しいもの、価値あるもの、真実なもの、聖なるものはすべて休みなく神から湧き出している。愛する力も、美しいことを夢見る力も。神は父として、母として、私たちのうちに聖性を作り上げる。尽きることのないその命の泉は私たちのうちにあり、逆に言うと、私たちはその豊かな海に浸されている。

 第二に、父だけでなく、子がいる。子であるイエスは昇天後、いなくなったのではなく、私たちのうちにいる。復活節の50日間、イエスは自分がいなくなってもより深い形で私たちのうちに残ると約束した。具体的に言うと、御言葉を聞き受け容れる時、秘跡を受ける時、共同体との一致を生きる時、貧しい人たちを迎える時、キリストの代わりとなる人と関わる時、イエスは私たちとともにいる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。ヘブライ人への手紙に「いけにえ」という言葉が出て来る。「いけにえ」とは何かを燃やすことではなく、尽すこと。ちょうど病気の赤ちゃんを看病する母親のように、イエスは昼も夜も私たちのために祈り尽してくださる。そして、誘惑をどう斥けるか、平和をどう取り戻すか、イエスは私たちに教えて下さるのだ。
 第三に、聖霊。先週は聖霊降臨の主日だったが、聖霊とは息のこと。命を意味する息は、私たちが受け入れられて安心した時に、満ちて来る。喜びや節制、柔和、一致などの聖霊の賜物についてパウロはさまざまな箇所で書いている。祈ること、神の言葉を思い起こし理解すること、神の国のために働くことは聖霊によってできる。聖霊の力は神の国が世に広がるために与えられているのだ。
 『無名の順礼者―あるロシア人順礼の手記』という東方教会の有名な本がある。それは、神を求めて神を探す旅に出た人の物語だが、ある箇所でこのように書かれている。心の内奥に戻って祈った時、周りのすべてが美しく見えた。木も草も鳥も、土も空気も光も。すべてが私といっしょに神の栄光をたたえ歌っていた。その時、私は万物の言葉を理解でき、神と被造物と会話する力も与えられたと。
 聖霊の賜物を願い祈るなら、答えがある。神の言葉、キリストの言葉を理解でき、神を知る知恵が与えられる。イエスが約束した慰め、人を愛する力が得られる。聖霊は私たちの心の本物の宝物だ。
 最終的に、三位一体は私たちの命の基準なのだ。だから、キリスト信者にとって、三位一体は一番わかりやすく、暖かく、喜ばしく、生き生きとさせるテーマだ。教会は今日の典礼で、難しい哲学的な理屈を考えるようにではなく、このような世界に入って喜ぶように勧めている。
 最後に、聖霊に満たされて神の母となり、教会の母、私たちの母となったおとめマリアの取り次ぎを願いながら、祈りたい。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が私たちとともにあるように。



 

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