キリストの聖体

「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・51)。  

ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵
ラファエロ・サンティ「聖体の論議」、1508-1511年、バチカン美術館所蔵

 先週に続き、今日の祭日も一年の典礼の流れの中で特異。なぜこの祭日が出て来るかを理解するために、この祭日がどのように始まったかを見る必要がある。キリストの聖体の祭日は、聖体に深い信心を抱いていたフランドル地方の修道女たちの信心から始まった。そして、彼女たちの司牧をしていた司祭がパパ様になったことをきっかけとして、西洋の信者のあいだに少しずつ広がった。この祭日の典礼(ミサや教会の祈り)の言葉には、聖トマスが作ったものもある。西洋のキリスト教国では、今日の祭日は聖体行列などその地方の風俗に合わせた形で祝われ、社会の中で信仰が表現される。
 日本の教会には西洋のような風習はほとんどないが、この祭日はミサの捧げ方や聖体に対する態度、主日の生き方を見直す、よい機会になる。というのも、教会に行ってミサに与っても、習慣に流されて、考えずに同じことを自動的に繰り返してしまう危険があるから。聖体はそもそも、神から教会への特別な賜物だ。復活したキリストはその言葉と聖体で共同体に現存する。キリスト者にとっては、主日の喜びのうちに復活したキリストに出会うことは、生活全体の中心であるはずだ。初代教会の時代、信仰を捨てるなら命を助けようと迫害者から言われたのに対して、若い信者たちは「主日のキリストなしに私たちは生きることはできないsine Christo Dominico vivere non possumus」と答えて殉教したという有 名な逸話がある。新しい週のはじめであり、イースターを意味する主日はキリスト者にとってそれほど大切なのだ。その日に私たちは、イエスに言われたように、イエスを思い出しながら、ミサでいっしょに食べる。それなのに、私たちはしばしば、習慣的に祈ったり聖体拝領して、聖体がキリストに対するどのような契約であり、兄弟に対してどういう関係を要求するかを忘れ、いっしょに集まりながら互いを受け容れなかったりする。習慣に流される危険は信徒だけではなく司祭にもある。マンネリでミサを立てたり、十分な祈りの準備なしに話をしたり、または自分が宣言することを十分に考えなかったり、キリストを示す代わりに何か変わったことをして自分をアピールしたり。だから、私たちの共同体の主日の聖体祭儀は、私たちの信仰の体温計でもある。今日の祭日はそれについて反省する大切な機会だ。
 第二バチカン公会議の典礼改革によって、今日の祭日に読まれる聖書の箇所(第一朗読、答唱詩編、第二朗読、福音朗読)は増えて、3年周期で12箇所となった。簡単に言うと、A年のテーマは、聖体祭儀が命を与える神の言葉であること。B年のテーマは、新しい契約の生け贄。C年のテーマは、キリストであるパンを受け入れることによって、キリストが戻るまでキリストを宣言するという終末論的なテーマ。
 今年A年の三つの朗読について見てみよう。
 第一朗読は出エジプト記の箇所。荒れ野をさまようユダヤ人たちにエジプトの玉ねぎの代わりに旅路の糧として与えられたマナ。それによって聖体が前もって示されている。聖体も旅路の糧だ。

 しかし、聖体は他のすべての食べ物と違う。福音朗読で言われるように、マナを食べた人も死んだが、聖体は、人間が用意できず期待もできない特別な神の賜物だ。先日教皇フランシスコが言ったように、人間が生きるために必要なのは物質的な食べ物ではない。必要なのは、愛情や幸せ、生きる意味だ。多くの人たちは物質的な食べ物があっても、先に進む力になる糧を知らない。自分の人生の意味がわかったり、何がいいか悪いかを区別する力がない。結果として、生きているように見えても、死んだ人のように孤独だ。それに対して、神の言葉であるキリストは彼こそが本当の食べ物であり、生きる意味を与え完成すると宣言する。キリストは、私たちが永遠に愛されていること、そして永遠に愛する力があることを知らせてくださるのだ。食べ物になるキリストだけが、私たちに命を取り戻させ、私たちに命を与えることができる。それによって、失敗した後であっても、新しく生まれることができる。神にとっては私たちの罪の一つ一つは問題ではない。神が心配するのは私たちの罪ではなく、先へ進めないことなのだ。

 第二朗読はパウロの手紙。コリントの教会は生き生きとした共同体だったが、大いに喧嘩好きで、争いが絶えなかった。コリントの信者たちはキリストに出会い神に出会っていたが、個人的な性格や社会的な状況の違いのために、あるいは権力争いのために対立し合っていた。こんにちの私たちの共同体も世界中どこでも同じ問題が起こりうる。小教区でも教区でも、考えの相違で衝突したり、互いに人の上に立とうとしたり。だからこの箇所は聖体の話をしているが、パンだけではなく共同体の事情についても語っている。社会全体の中で起こっている問題はさまざまな形で、私たちの小さな信仰共同体にも響いている。
 パウロは言う。裂かれたキリストの体だけが私たちを一致へと導くと。私たちキリスト者は、互いに似ていたり、共通の趣味や習慣をもつから一つに集まるのではない。もともと違っているが、十字架につけられて死んだキリストに呼ばれたから一つに集まるのだ。しかも、自分の力で行なったよい行いの功徳の報いとしてために呼ばれたのではない。キリスト者は、キリストに愛され恵みによって救われ、いただいた赦しに感謝して、それによって人を赦し愛すると自覚している。だから、聖体祭儀は人間が作った儀式ではなく、教会堂は、一般的な願い事をする場ではない。教会堂は、私たちのうちに命が湧いてくる場所であり、永遠の命に向かって歩むことができる希望の場所だ。
 福音朗読は、ヨハネ福音書より。聖体について述べる第6章は初代教会の説教とも言われているが、今日の箇所は第二朗読と同じく疑いと争いの箇所だ。私は生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きるとイエスが言った後、ユダヤ人のあいだに大きな騒ぎが起こった。このスキャンダルは、私たちにとって大切だ。なぜなら、私たちはイエスのこのような言葉に慣れてしまって、その革命的な力を感じなくなりがちだから。私たちは毎日曜日集まって自動的に同じ言葉を繰り返して、席の順番に聖体を拝領したりする。だから、このショッキングな出来事はとても大切だ。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。その賜物は、旧約時代にすでに預言されていたが、ここにリアルに私たちの前にある。イエスはサマリアの女にも同じことを言ったが、それは人間的には理解できず、神によってのみ理解できることだ。ある人たちはこの言葉を受け容れることができないが、イエスは、この言葉を受け容れこの言葉に身をゆだねるように私たちに求める。この言葉を受け容れるには聖霊が必要だ。
 今日の祭日は私たちの聖体祭儀のあり方、ミサに参加する態度を見直すべき日。ミサのためにどのように心の準備をするか、どれだけ祈りの中でミサを始めるか、ミサの後でどう感謝するか。ミサをよりよくし聖体を生きるために何が妨げとなるか、祈りの中で見直したい。 


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