年間第12主日

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10・27)

ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂
ドメニコ・ギルランダイオ「使徒たちの召命」、1449年、システィーナ礼拝堂

 復活節の輝かしい主日が続いた後、典礼は唐突にマタイ福音書の朗読に私たちを連れ戻す。今日のテーマは派遣と迫害だから、夢から突然目が覚めたように感じられる。実はマタイが今日の箇所を書いたとき、キリスト者の迫害が目の前にあった。イエスを信じた信者たちはユダヤ人たちから訴えられ迫害されていた。そのような難しい危機の時期をどのように生きるべきか。それに対してマタイはイエスの言葉を思い出してそれを信者たちに伝える。エマオの弟子たちについてルカは、心が燃えていたことに気づいたと書くが、同じようにマタイは、心が燃えていることを感じさせるために、イエスの言葉をまとめて私たちに伝える。

 マタイ福音書第10章は、弟子たちの派遣について五つの話がある。派遣された人、宣教する人、迫害された人はどうしたらいいか。今日の箇所はその2番目の話だが、文章と文章のあいだに直接的な関係がなく、いくつかの言葉がまとめられているようだ。

 今日の福音書の箇所を理解するために大切なのは第一朗読。今日の典礼をまとめた人たちは旧約聖書から一人の派遣された人物の美しいエピソードを出す。それは預言者エレミヤだ。エレミヤとキリスト者には大きな共通点がある。暗闇、試練、苦しみ、迫害に遭うが、同時に光もある。エレミヤ書20章を聖書学者は聖アウグスチヌスの『告白(録)』に倣い、エレミヤの告白録と呼ぶ。エレミヤは繊細で、祖国と民を愛し、愛情に敏感な人物だった。しかし、さまざまな問題が起こり、親族から見捨てられ、友人からは裏切り者として憎まれ、愛する女性から引き離され、民から訴えられ拷問まで受けて、当てもなく放浪した。神からの召し出しに忠実であったがために、光と喜びだけではなく、暗闇と疑いを経験した。20章1~6節に書かれているように、イエスと同じように鞭で打たれ、ゲッセマネや十字架のイエスと同じように神から見捨てられる経験をしたのだ。しかも同時に、その中にも突然、神の現存を経験した。「主は恐るべき勇士として私と共にいます」。神は派遣した弟子たちの孤独と苦しみを知っているというのが今日のテーマだ。

 ルカが報告する、エマオの弟子たちはイエスの姿が見えなくなってから語り合う、「わたしたちの心は燃えていたではないか」。それは、苦しみの中の喜び、血まみれの喜び、見捨てられても愛されていることの喜びだ。キリスト教の歴史の中で殉教者たちはいつでも、言葉で言えないそのような喜びを感じてきたことが記録されている。 今日の箇所でマタイはイエスの言葉を思い出して二つのことを信者たちに伝える。

 一つは「恐れるな」。パウロが言うように、宣教にはさまざまな危険がある(第二コリント11・23-29参照)。しかし、召し出しを受け派遣された人は、赤ちゃんのように胎内に閉じこもり危険から逃げる誘惑、受けた宝物を独り占めにして秘密にする誘惑を乗り越えなければならない。教皇フランシスコも「外に出かけなさい」と言う。偽物の宣教師は人気や称賛を求めるが、本物の宣教師は伝えるべきメッセージを曲げず迫害される。肉体的な迫害だけではなく精神的な迫害もある。今は血が流されるだけでなく、からかわれたりばかにされたりして、名誉が傷つけられる。

 しかしイエスが言うのは「恐れてはならない」。なぜか。宣教師のために神が見張りをするから。イエスの神は、名誉教皇ベネディクト16世がよく言っていたように、大きな権力や名誉や称賛だけではなく、一番小さいことを見るのだ(「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」)。イエスの神は、大きな象だけではなく、小さな雀を見る。イエスが話をしていたときに、彼の目の前に一羽の雀が飛んでいたかもしれない。またはイエスは一つの詩編を思い出したのかもしれない。「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています」(詩84・4)。だから、命を奪う人を恐れてはいけない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。権力の前であっても、イエスの教えを曲げずにそのまま伝えなければならない。イエスは派遣された弟子たちの苦しみを知っている。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)イエスは弟子たちの弱さを知っている。こういう言葉を聞く時、教会のために尽し名前も残さず消えてしまった人たちのことも思い出したい。

 今日の福音書にはもう一つの宝物がある。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。これは直前の節と混同されて、秘密にしてはいけないという意味だとよく誤解されるが、そうではない。暗闇で語ったり耳元でささやくということは、床をともにする男女の親密さを思わせる。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」(雅歌2・6)。宣教とは最終的に、技術でもでも学問でもない。宣教とは神から愛された経験を伝えること。イエスから秘かに打ち明けられた愛の言葉を人に黙っていられないことだ。本物の召命の最初にあるのはそのようなイエスとのあいだの経験なのだ。ルカによると、イエスは父なる神との祈りの中に夜を過ごしていた。イエスと父なる神のあいだにどのような夜の会話があったか。そこからイエスの宣教が始まり、弟子の召命が始まる。その美しい愛の経験をマタイは、年間に戻る今日の主日に、思い出させたいのだ。


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