年間第16主日

ある人が良い種を畑に蒔いた。(マタイ13・24)

 今日のたとえは、よく理解すれば、教会を変え、私たち信者の生活を変えるほど、よいたとえだ。間違った神のイメージを変えるからだ。「毒麦」のたとえは他の福音書にはなく、マタイが特に大切にするたとえと言える。マタイはこのたとえを他の2つの短いたとえといっしょに伝える。そのつながりはイエス自身に遡るものかもしれない。マタイはいつものように、当時の教会の出来事を考えながらイエスの言葉を思い出して私たちに伝える。
 今日のたとえには、いろいろなニュアンスが含まれており、見方によっていろいろな意味が出て来る。
 先週のたとえと同じく、今日のたとえの舞台は畑。さらに先週のたとえと同じく、主人は畑に種を蒔く。先週読んだように、イエスの説明によると、畑とは第一に、世界のこと。さまざまな人がいて、さまざまな事情や出来事のある世界のことだ。第二に畑とは教会共同体のこと。先週読んだように、神は教会共同体という畑に種を撒く。第三に畑とは私たち一人ひとりの心のこと。それはさまざまな人物があらわれる歴史のことでもある。そして、種蒔く人とは、神ご自身であり、種とは神の言葉のこと。種は私たちを成長させ、この世界のうちに神の国が現れる。
 今日のたとえの中心は毒麦。毒麦とは罪のこと。私たち一人一人の心の中に突然芽を出し、現れる罪のことだ。それはショッキングなことだ。神によって造られた人間がどうして悪を行うのか。キリストに救われ洗礼を受けた信者がどうしてまた罪を犯すか。
 僕たちとは、教会共同体でイエスのために働く信者のこと。彼らは問題を神のせいにする。「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか」。彼らは畑の麦を大切に思って心配するより、神に対して怒っているようだ。そして、神より賢く、神より問題がわかっているかのように言う、「行って抜き集めておきましょうか」。その態度は、イエスがサマリアの人たちから受け入れられなかった時のヨハネとヤコブを思い出させる。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9・54)。あるいは罪人への罰を望み神が罪人を赦したことに腹を立てたヨナも思い出される。彼らは暴力をふるい、教会から罪人を追い出したいのだ。彼らはエリートで自分が清らかで罪人とはまったく関係がないと思い込んでいる。そして、他人にある悪に対して厳しい考え方をして、正義感をもって罰を下そうとする。放蕩息子の兄もそうだったし、私たちキリスト者もしばしばそうだ。彼らがわからないのは、毒麦を抜き集める気持ちは、毒麦そのものよりも悪いことだということ。彼らのやり方は問題よりも危ないということ。罪人を追い出すことは、神の働きをだめにするということ(「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」)。言い換えれば、人間は神にとって大切で、イエスが人のために命を捧げるほどだと彼らはわかっていないのだ。彼らは、結局のところ、毒麦に対して怒っても、神が撒いた良い種の価値をよく知らないのだ。それに対して、イエスは忍耐を教える。その忍耐は受け身でも投げやりでもない。彼は他の2つの例えで、どう待つべきかを教える。
 イエスの言葉は、私たち一人ひとりにも当てはまる。私たちも気づかないうちに悪魔に誘惑され、何かの罪に陥ってから気づくことがある。私たちの心の中には良い種といっしょに悪い種があるのだ。イエスが言うのは、罪に陥った時、自分の罪にばかり気をとられるよりも、神の愛を考えるべきということ。自分の罪に固着したのはユダだ。ユダは絶望に陥り、命を絶った。完全主義は、霊的生活の病気だ。それは本当の罪の意識ではなく、罪悪感に過ぎない。完全主義は人に対して冷酷にして厳しく審判させ、自分に対しても心を麻痺させて、心の中にある良いものを殺す危険がある。神は罪人がそのようになることを望まない。神は人間の罪ではなく、人間がなることができる聖人を見る。神にとっては、聖性の1グラムは何トンもの罪より重い(1ペトロ4・8「愛は多くの罪を覆う」)。イエスが言うのは、罪から解放されたければ、高いところに目を向け、神を愛しなさいということ。それは、教会の中に、また自分の心の中に罪を放任することではない。ただ、悪に対して戦うのは善しかないのだ。神が望むのは、自分の心の片隅にある悪に対しても憐れみの目を向けること。なぜなら、自分が神から赦されたと自覚する人だけ、人を赦すことができるから。キリスト者は神の愛によって罪を赦されたことを自覚した人のこと。福音書の道徳は、自分の正しさを中心にするファリサイ派の道徳ではなく、洗礼者ヨハネの道徳でもない。

ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)
ドクムギの挿絵(オットー・ヴィルヘルム・トメ『ドイツ、オーストリア、スイスの植物誌』、1885年、ゲーラ)

 「毒麦」のたとえのすぐ後に二つの短いたとえが続く。最初はからし種のたとえ。ユダヤ人にとってエルサレムは山の上のレバノン杉のようなものだった(エゼキエル17章参照)が、新しいエルサレムであるイエスの教会はそうではない。ほとんど目に見えず風に飛ばされるほど小さな種から成長する。イエスは大きなものや権力ではなく、謙遜で小さなものを愛するのだ。イエスが考える教会共同体も大きなものや権力を求めず、人に奉仕する。
 次はパン種のたとえ。そこには、信者が信頼を抱き勇気をなくさないためのメッセージがある。教会共同体は小さな存在で力もなく、キリスト者一人一人の生活も役割も第二朗読のパウロが言うように「弱い」が、絶望してはいけないとイエスは言うのだ。イエスはきっと子どもの頃、母マリアがパンを作った時のパン種の様子を何度も見たことだろう。少しのパン種がたくさんの粉を動かす。死んだものが生きたものになる。パンの文化がある国々では、数十年前まで家でパンを作っていたから、子どもたちはパンが大きくなる様子を見て驚くことができた。少しのパン種で家族の一週間分のパンを作ることができたのだ。
 このパン種のたとえには、よく見逃されるディテールがある。「三サトンの粉」とあるが、それは40キロにもなる。家庭の主婦がそれだけの小麦粉を使うわけではない。それは何百人もの人たちを食べさせることができるほどの量だ。だから、イエスが言おうとしているのは、家族のパン(あるいは教会共同体の日曜日の聖体)のことではない。むしろ、宴会、特に婚礼の宴会のことだろう。福音書では神の国がよく大宴会にたとえられる。つまり、イエスは小さな家族ではなく、全世界を考えていて、希望をもちなさいと言っているのだ。 

 この三つのたとえの後に、弟子たちが質問する箇所がある。イエスが話の後に家に入ると、わかっていない弟子たちがイエスに説明を求める。日本語訳では「説明してください」と丁寧語だが、ギリシア語では命令で、「説明しなさい」というほどのニュアンス。実は弟子たちは理解していなかったというより、納得してなかったようだ。彼らはたとえの意味がわからないのではなく、内容に納得していないのだ。つまり、彼らはまだイエスの言っていること、イエスの言う「小さな人」についてまだ十分にわかっていなかった。このことは福音書に何度も出てくる。イエスが天に昇った後でも、弟子たちはなかなか信じなかった。それはよく見れば、私たちの誘惑でもある。私たちは今日の日曜日の福音書によっては自分の考え方や態度を調べるように勧められている。


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