主の変容

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(マタイ17・2)

カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代
カール・ブロッホ「キリストの変容」、1800年代

 8月6日は主の変容の祝日。主の変容は、正教会が非常に大切にする祝日だ。カトリック教会にとっても、主の変容は大切なので、正教会と一致してこの祝日を祝う。日曜日に重なる場合には、年間の主日の代わりに、主の変容の祝日となる。その結果、変容がテーマである四旬節第二主日と同じ福音箇所が読まれることになる。今年A年はマタイの福音書の箇所が読まれるが、マルコとルカにも同じ出来事が報告されている。(マタイの箇所についてはこちらも参照のこと。)

 今日の箇所は非常にすばらしい。マタイは旧約聖書の言葉を使いながら、イエスについて経験したことを私たちに伝えようとする。マタイの箇所にはマルコともルカとも違ったニュアンスがあるが、彼らは彼らの生活を新しくした経験について私たちに伝えたいのだ。よく見れば、今日の箇所はキリスト論的なページ。イエスの言葉でも奇跡でもなく、イエス自身の秘密が表現される箇所であり、特別に注意すべきだ。

 変容という言葉で表されるが、言葉では言い表せない何か不思議なことがイエスに起こった。変容とは何のことか。それはただ服を着替えることではない。服を着替えることは外面的なことだが、変容は内面的なことだ。変容は実は私たちの個人的な生活にもある。例えば私たちが人を愛するときがそうだ。人を愛するとき、何年もいっしょに過ごしてきた人、例えば学校でいっしょに勉強していた人が突然違ったものに見える。そして、うまく行けば、その人に長い人生を賭けることになる。結婚して、子どもをもって、死んだら悲しんで墓に花をもっていくことになる。人を愛するその瞬間、その人にある何か深いこと、それまで気づかなかったことに気づくのだ。

 マタイは言う、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝」いた、つまり変容した。こういう表現でマタイは私たちに、イエスがどういう方であるかを教えたいのだ。イエスは人間だ。ナザレに育ち、30歳の時に宣教活動を始め、3年間ガリラヤを歩き回って布教し、最後に十字架上で死んだ。その人間、私たちが見ることができた人間の顔の上に、神聖な神の光が輝いたのだ。だから、私たちはこれからずっと、イエスの顔を見ることで、人間が目で見ることができない神の顔を見ることができる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。マタイが言いたいのはイエスはただの人間ではなく、父なる神を完全に映す神の子、救い主、メシアであるということ。イエスの顔の上にだけ神の栄光の光が輝く。そして、イエスが神の子であるからこそ、造られたものにすぎない私たちも、洗礼を受けキリストと一つになることで、神の子になることができるのだ。

 だから、今日の箇所は見れば見るほど味が出てくる、ありがたいページだ。祈りの時などに深く観想して、その光、その力に満たされることが大切だ。 最後に一つの点に注目したい。人間を超えた神の出来事の前で恐れてひれ伏した弟子たちに、一人残ったイエスが近づき、彼らの頭の上に手を置いた。これはマタイの天才的な表現だ。イエスの手については福音書によく書かれている。イエスの手は憐れみの手だ。貧しい人や病気の人、重い皮膚病の人や目の見えない人、子どもや女性、罪人に触れる手だった。イエスの手は、憐れみのある父なる神の手だった。私たちが今日教会に来てこの日を祝ってイエスを拝み、聖体を受けてイエスと一つになるなら、その手は私たちの頭の上に置かれる。それは癒しの手、憐れみのある手、愛情のある手だ。私たちは神から愛され受け入れられるのだ。

 ヨハネは黙示録で同じエピソードを引用している。日曜日のミサで超越の体験をしたヨハネにイエスが近づいて、彼の上に手を置いた。そして、「恐れるな」(1・17)、私は救い主であるから、世に勝った者であるから。今日、私たちに同じ信仰が与えられる。イエスを信じ罪の赦しを願うことによって、ミサに与り聖体を受けることによって、私たちも父なる神の力をいただくことができる。


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