年間第19主日

ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(マタイ14・29)

ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館
ロレンツォ・ヴェネツィアーノ「溺れそうになるペトロを救助するキリスト」、1370年、ベルリン美術館

 今日の箇所は、イエスと弟子たちの生活の中の一つのエピソードのように見える。けれども、よく見れば、ストーリーとしては成り立っていない。具体的な物語だが、アレンジされていて、神学的な物語だ。この物語はマルコ、マタイ、ルカがそれぞれの時代にそれぞれの形で書いているもので、彼らよりずっとあとに、ふつうは他の福音書をあまり参考にしないヨハネさえこの物語に惹かれ同様の物語を書いている。こうして、小さなエピソードと思える物語が神学の大きなテーマとなった。オリゲネスをはじめ教父たちも好んで解釈を加え、こんにちの解釈のもとになっている。神の不在を経験するこんにちの信者も、深く語りかけられるページだ。

 今日の物語は、教会とキリスト者の生活の中でのキリストの役割について元型になるほどの物語だ。単純でわかりやすいが、注意して観察すると、旧約聖書とのさまざまな関連が出てくる。

 マタイはこの出来事がいつどこで起こったか具体的に書いていない。それはただ、イエスが大きな奇跡を行った後の出来事だ。その奇跡とはパンを増やし5000人に食べさせた出来事(実はA年第18主日にその箇所が読まれるが、今年は変容の祝日のため読まれなかった)。その奇跡の意味は聖体だ。イエスは神の言葉であり、イエス自身とその言葉はおおぜいの人を養うパンなのだ。しかし、その奇跡はある意味で失敗で終わった。人々はイエスのメシアの道を誤解し、彼を王にしようとした。そのあと「すぐ」、イエスは人々を解散させて、山に昇る。そういった時いつもそうするように、イエスはひとり父なる神といっしょにいようとする。何か挫折感と孤独感を抱いているようだ。

 イエスは12人の弟子たちには、舟に乗るように「強い」る。「強いて」とはギリシア語で強い命令を意味する動詞だ。なぜ強く命令したか。オリゲネスも言うように、不思議なことだが、弟子たちが行きたがらないからだ。海に慣れた人たちだから、たんに舟に乗るのをいやがったということではない。「向こう岸へ先へ行かせ」。「向こう岸」とは異邦人の世界のこと。つまり、マタイによると、彼らはこちら側にいたいのだ。「向こう岸へ」は何をしに行かされたか。父なる神はイスラエルだけではなく、すべての人の神である。すべての人にその言葉を届けなければならない。

 そこに一つのことがある。パンの増やしの奇跡のあと、弟子たちが「残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった」。彼らはきっとそれをその場に残さず、もっていったことだろう。「パンの屑」とはイエスの言葉の余ったもののこと。「12」とは、イスラエルの12部族、そして12使徒のこと。つまり、弟子の一人ひとりは、パンになるイエスの言葉をもっていくように任されたのだ。しかし、弟子たちは行きたくない。イスラエルから離れたくない。これは復活後のペトロに典型的に見られることだ。その結果、彼らは強く命令されて舟に乗り、イエスなしに自分たちだけで行く。それはマタイにとって、教会の有様を描くイコンだ。

 そこには旧約聖書を連想させる細部がたくさん出てくる。「湖(=海)」。実はその湖は一晩かけて渡る必要がない広さだ。狭いから、一時間ほどで渡れる。他にも「夜」「(安全な)陸から…離れ」「逆風」「波」など旧約聖書を思い出させるモチーフが出てくる。実は、福音書をよく見れば、ちがったたとえが使われるにしても、そのような状態は、弟子たちがイエスの受難と死のあと閉じこもっていた状態、神の不在の状態と同じだ。今日の箇所のその後は、復活物語のように書かれている。その時は、共同体の危機であり、長く苦しい時期だ。信じることは時間がかかるのだ。イエスの受難の時も夜のモチーフが何度も出てくる。ユダが出る時、ゲッセマネの園の時がそうだ。そしてイエスの復活と同じように、今日の箇所でイエスが現れるのは「夜が明けるころ」だ。そして、そばに来るイエスを見て、弟子たちは「幽霊」と思うが、ルカは復活の場面で同じ言葉を使う(24・37)。弟子たちは恐れと悲しみに満たされて信じたくなくなっているから、イエスを見ても幻だと思うのだ。今日の箇所でマタイは、苦しみや反発、迫害(逆風、波)の中で生きる教会に向かって話している。 

 この物語で特に目立つのはペトロの役割だ。ペトロが中心的な役割を果たしているのは彼が教会の中で強い権力をもっているからではない。ペトロは他の弟子たちと同じ問題に悩まされている。ペトロは教会の苦しみを代弁する人物。ペトロはイエスに深い憧れがあるが、同時に弱く十分に考えない。イエスを信じても、その信仰は弱い。大きな奇跡を目撃してもまだわかっていない。そしてイエスを誘惑する役割を演じる。この箇所でもイエスに言う、「あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。それはまさに、イエスを誘惑したときの悪魔のセリフと同じだ。「神の子なら…」。つまり証拠を出すように言うのだ。マタイは今日の箇所ではシモンという名を使わず、ペトロという、頑固者を意味するあだ名だけを使う。ギリシア語では、ホ・ペトロ。冠詞がついているから、あの岩ということだ。

 イエスはペトロの両面性をよく知っていて、やさしい態度をとる、「来なさい」。ペトロは水の上を歩き始める。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。漁師だったペトロは泳げただろうから、溺れることを心配するはずはない。だから、歩くとか沈むというのは一つの象徴だ。つまり、イエスを見る時は歩けるが、イエスを見ずに自分の問題を見ると沈むのだ。ペトロが救われるのはイエスに向かって手を伸ばす時だ。「主よ、助けてください」。すると、イエスが彼をつかんで助ける。マタイが言うのは、人間がイエスの方へ進むのは自分の力ではないということ。人間は神の力によってだけ神に近づくことができる。今日の物語は神学的な物語で、イエスはすべての人の主であるという復活のテーマがそこに示されている。

 ユダヤ人は、フェニキア人など他の民族と異なり、海になじみがない民族だ。彼らにとって海は混沌を意味し、人間を圧迫する否定的な力を象徴する。それを支配できるのは神だけ。だから、水の上を歩くイエスと、イエスに向かって水の上を歩くペトロは、イエスが主であることを暗示している。ヨハネがこの物語を語るときも同じことを暗示する。イエスは神の現れだと言いたいのだ。

 ヨハネの箇所によると、イエスは舟に乗り込まなかったようだが、今日の箇所ではイエスは舟に乗り、弟子たちは「イエスを拝んだ」。イエスは神の子、救い主なのだ。マルコは弟子たちに注目するが、マタイが関心をもつのは却って舟。今日の箇所から、教会が世の悪の上で人々を神に連れて行く舟として語られることになる。

 当時の教会も、こんにちの教会も、イエスの命令で世を進む。イエスがいないように不安に思っても、イエスが現れるとその不安は癒やされる。ゲッセマネの園では、イエスはいるのに、弟子たちは寝ている。イエスに対する信仰がないからだ(「悲しみの果てに」ルカ22・45)。ゲッセマネの園の祈りは最後の晩餐のあと、今日の箇所はパンの増やしの奇跡のあとで、いずれも聖体のあとの出来事だ。こんにちも教会は聖体があるから教会なのだ。聖体は旅路の糧だ。聖体によってイエスはキリスト者のそばにいて「わたしだ。恐れることはない」と言われる。聖体に対する態度はキリスト者の信仰を測る基準なのだ。

 聖霊の力で今日の箇所を細かく観察しながら読んで祈るなら、こんにちの私たちの教会や生活にとって大きな光と力と慰めになる。イエスから離れて波に悩まされることから連想されるのは、こんにちの教会の迫害だ。さまざまな国でキリスト者が迫害されている。教会の歴史の中で今のようにたくさんの迫害や殉教がある時代はもしかしたらなかったかもしれない。教会だけではなく社会にもあてはまる。「流動化社会」(ジグムント・バウマン)とも言われる、伝統的価値観を失った社会。心を忘れてものを追いかける消費社会、人も資源も環境も破壊する投げ捨て社会、グロバリゼーションなど。だから、今日の物語は現代に対してもメッセージを含んでいる。 それはどういうメッセージか。イエスの命令で、教会は舟のように世界の海を進む。教会はいろいろな反発に押し戻される。教会の中にも信仰が足りない状態がある(毒麦のたとえ)。イエスは舟の中にいないようだ。けれども、信者たちは世(夜)の終わりに、イエスは現れるという信仰をもって舟に乗っている。イエスが見えないあいだ、教会は旅を続ける。復活のあとでも、弟子たちはいろんな疑いや不安に襲われていた。ペトロはそんな私たち信者を代表する人物だ。「主よ、助けてください」。イエスはペトロを赦して引き上げる。キリスト者の生活はそこから始まる。「私は罪が赦された者」(教皇フランシスコ)。ペトロのように、弱い人が殉教者になるのだ。


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